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2016年10月28日 (金)

口から出ることば マタイ12:30-37 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.10.30 

 私たちが何気に発していることばに力があるということをご存じでしょうか?口から発したことばは単なる音波ではありません。そのことばを聞いた人々や環境、あるいは神さまに影響を与えます。創世記1章では、神さまはことばによってこの世界を創造されました。神さまが「光があれ」と言ったら、光が現れました。イスラエル人は「シャローム」と挨拶すると、その人に実際に祝福が与えられたと信じています。このマタイ12章には、私たちが発することばの否定的な面が書かれていますが、肯定的な面も学びたいと思います。

1.ことばの危険性

 イエス様が悪霊によって目が見えず、口もきけない人を癒してあげました。すると、パリサイ人たちが「この人は、悪霊のかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけなのだ」と非難しました。それに対してイエスさまは「私は神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのです」と言われました。さらにイエス様はこのように言われました。マタイ1231-32「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」「人の子」であるイエス様に対する冒涜は赦されるということです。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されないということです。何と、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されないと言われました。「この世」というのはその時代という意味です。また、「次に来る世」というのは、やがて来る御国のことであります。そうなると、永遠に赦されないということになります。マルコ3章にはもっと詳しく書かれています。「しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである(マルコ329-30)。彼らはイエス様を悪霊のかしらベルゼブルと言いました。そして、悪霊によって悪霊を追い出しているのだと聖霊を汚したからです。

 それにしても、「聖霊を汚す罪は永遠に赦されない」とは恐ろしいことであります。何故なんでしょうか?ヨハネ16章には聖霊は「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(ヨハネ168と書いてあります。つまり、聖霊は私たちに「あなたには罪がありますよ。だから悔い改めなさい」と促してくださいます。そこで、人々は「分かりました。神さま私の罪をお赦しください。あなたを信じます」と祈ることができます。その人は罪赦され、永遠のいのちがあたえられるでしょう。ところが、もし、その人が聖霊に逆らって、聖霊を冒涜したならどうでしょう?「聖霊なんか信じない。あっちへ行け。お前の言うことも聞かない」と言ったらどうでしょう?聖霊は私たちと同じように悲しんだり、消えたりしますので、「分かりました。もうあなたには関わりません」とおっしゃるでしょう。聖霊が働かなければその人は悔い改められないので、犯した罪は永遠に残ります。その人は神にさばかれ、永遠に赦されないということになります。イエス様は「助け主」であられます。そして、聖霊は「別の助け主」と言われています。でも、聖霊は「別の」ではなくて、「最後の助け主」なのです。聖霊に逆らい、聖霊をうとんじてしまうなら「もう助けはない」ということになります。聖霊はとても優しいお方です。人格をもっていますので悲しんだり、消えたりします。私たちは、聖霊を馬鹿にしたり、逆らったりすべきではありません。神の霊である聖霊様を、認め、歓迎し、従いましょう。そうすれば、私たちは罪を悔い改めることができます。さらに聖霊は私たちを罪からきよめ、新たな人にしてくださいます。

 イエス様はことばの危険性についてさらに教えておられます。マタイ1236-37「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」「あなたがた」とは、イエス様を冒涜したパリサイ人たちです。でも、私たちは「むだなことば」を発することはないでしょうか?私はあります。家内からよく注意をされますが、テレビに向かってよく話します。クイズを答えたり、自分の意見を言ったり、あるときには非難やさばきのことばを発します。講壇に上がっているときはきよめられていますが、一緒に昼食をする時は口がゆるみます。単なるユーモアだったら良いのですが、「むだなことば」を発するときがあります。ヤコブ3章にはことばがどんなに破壊的か記されています。「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。…しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。」(ヤコブ36,8また、箴言には発することばがいかに大切か、いたるところに書かれています。箴言133「自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。」アーメン。政治家は自分が発したことばで、退任とか辞職に追い込まれることがよくあります。しかし、一番問題なのは、目に見えない神さまに言っていることばです。ルカ19章に「ミナのたとえ」がありますが、ひとりのしもべがこのように言いました。ルカ1921「あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。」よくもいけしゃあしゃあと言ったものです。主人は何と言ったでしょう?「悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。」主人とは神さまのことであります。

 もしかしたら、私たちは神さまに対してつぶやいたり、呪うような言葉を発したりしているかもしれません。クリスチャンはすべての罪が赦されています。でも、むだな言葉や悪いことばによって得られる祝福を逃しているかもしれません。神さまも聖霊様も目に見えませんので、発することばに注意をしていきたいと思います。私たちの口がきよめられますように。アーメン。

2.ことばの出所

 では、どのようにしたら悪いことばを出さないで、良いことばを発することができるのでしょうか?世の中では、「口は悪いが良い人だよ」「口は悪いけど根は悪い人じゃない」などと聞きますが、本当でしょうか?マタイ1233-35「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」イエス様は「心に満ちていることを口が話す」と言われました。つまり、「口が悪いということは、そもそも心が悪いからだ」と言っています。このところに2つのたとえがあります。最初は、木と実の関係です。木というのは本体です。そして、実というのは生産されるものです。イエス様は「木のよしあしはその実によって知られる」とおっしゃいました。良い木なのか、悪い木なのか外側からは見分けがつきません。人間も同じで外側からは、良い人なのか悪い人なのか見分けがつきません。どうしたら分かるのでしょうか?木は実で分かると言うことですから、その人が発していることばで分かるということです。親切なことばなのか、あるいは乱暴で人を傷つけることばなのか?人の徳を建てることばなのか、あるいは人をこきおろす裁きのことばなのか?積極的で肯定的なことばなのか、あるいは消極的で否定的なことばなのか?その人の発していることばによってその人が分かるということです。「良いか、悪いか」ちょっと極端な感じはしますが、たとえの意味はそうです。

 私は李光雨師と交流がありますが、李先生はその人の話を30分くらい聞いていたら、その人の世界観が分かるそうです。世界観と言うのは、その人の「心のめがね」「ものの見方」ということです。でも、世界観を知るためには、「心の叫び」をまず知らなければなりません。私たちは無意識のうちにですが、何かを叫んでいます。特に不条理とか不幸な出来事に遭遇したときは、心の奥底から出てくるものがあります。「悪いことしていないのに、どうして私だけが」とか「最後は必ずこうなるんだよな」「みんなあいつのせいだ」とか、言わないでしょうか?人それぞれ一定のパターンがあるでしょう。多くの場合、過去の未解決な問題と直結しています。もしかしたら、あの時、発したことばと同じことを発しているのかもしれません。李光雨師はその場所で、神さまと出会って、「心の叫び」を完了しなければならないと言われます。「心の叫び」が完了したなら、新しい世界観を持つことができるということです。「エリヤハウス」も、悪い実だけをとってもダメだと言います。つまり、ことばをなおしても、それを発している心が癒され、変革されないとダメだということです。世の中にはいろんな自己啓発セミナーがあります。そこでは積極的なことばを発する訓練をするかもしれません。でも、セミナーが終わって1週間もちません。なぜなら、本体である心が癒され、新しくなっていないからです。

 イエス様はもう1つ「倉」のたとえをお話しされました。「良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」倉というのは、心の倉です。心理学的には潜在意識と言えるかもしれません。ある説によりますと、人間の脳は、過去に経験したあらゆる出来事を記憶しているそうです。ただ、それを思い出すことができないだけだそうです。私は、心の倉をコンピューターにたとえたらよく分かるのではないかと思います。コンピューターはデーターを入れていないと単なる箱であります。ことわざに、garbage in, garbage out、「ゴミを入れればゴミが出てくる」とあります。つまり、コンピューターに無意味なデーターを入れても、無意味な結果しか出てこないということです。私たちの頭はコンピューターと同じであります。私たちは、毎日、ここに何を入れているのでしょうか?インターネットも便利ですが、ゴミみたいな情報もあります。テレビ番組も数えきれないほどチャンネルがあります。ニュースは悪いわけではありませんが、同じことが時間帯をずらしながら放映されています。ニュースは大体、世の中の不条理がクローズアップされていますので、ほどほどにしたら良いと思います。また、夜寝る前にサスペンスとかドラマをみたら、潜在意識にどんどん入って行きます。寝る前の脳は無防備なので、現実と非現実の区別がつきません。スマホやゲームによって、将来を担う若者の頭が壊されています。日本では、サタンが願っていることが起きています。私たちは自分の頭に何を入れるか、何を入れないか見張る必要があります。箴言423「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」

 イエス様は運命論的に、良い木と悪い木、あるいは良い人と悪い人に分けています。しかし、考えてみるなら、アダム以来の人間は悪い木であり、悪い人なのです。他の人と比べて、少し良いとか言えるかもしれませんが、罪人であって悪い心なのです。エレミヤ179「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」これが聖書の人間観です。学校は人間を教育で改善できると言うかもしれません。もちろん知性を与えることはできるでしょう。しかし、人間の性質を変えることができません。だから、いじめがなくならないのです。聖書は「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」とはっきり言っています。では、どうしたら良いのでしょうか?改善や改良ではダメなんです。新たに生まれ変わるしかありません。旧約聖書でイスラエルの民はいくら戒めを与えても、偶像礼拝をやめませんでした。言い換えると、口をすっぱく注意してもよくならなかったということです。そこで、神さまはどうしたでしょうか?エゼキエル1119 「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」この預言は新約聖書で成就しました。私たちがイエス・キリストを信じるときに、霊的に新しく生まれ変わります。言い換えると、良い木になり、良い人になるのです。もちろん、きよめられたり、成長するという過程は必要です。でも、心が本質的に変わりますので、良いものが出てくるのです。心が変わるので、発することばもおのずと変わってくるということです。ハレルヤ!ですから、キリスト教は道徳とか修養ではなく、生まれ変わりの宗教ということができます。

3.ことばの効用

 赤ちゃんは2歳くらいなると少しずつことばを出すようになります。女の子だと3歳になるとぺらぺらしゃべり、同じことを英語で言うのが難しいです。クリスチャンは霊的に新しく生まれた存在ですが、考え方とか発することばが「古い人のまんま」ということが良くあります。だから、私たちは意識的に考え方とかことばを新しくしなければなりません。そうしないと、神さまの恵みを十分に受け取ることができません。第一のポイントでは舌の持つ否定的な意味を語りました。でも、見方を変えるならば舌にはものすごい力があるということです。たとえば、ヤコブ3章で舌は馬のくつわにたとえられています。小さなくつわで、馬のからだ全体を引き回すことができます。また、舌は船のかじにたとえられています。ごく小さなかじで、大きな船を自分の望むところに進ませることができます。確かに、舌を制御するのはだれにもできません。しかし、ヤコブは「もし舌を制御できるなら、からだ全体も制御できる完全な人です」と言いました。私たちは舌を正しく用いるならば、人生を良い方向に向けられるということではないでしょうか?私はこれまでいろんな人と会ってきましたが、やっぱり否定的なことを言っている人の人生はかんばしくありません。否定的なことを言うということは、否定的な人生を導いているようなものだからです。人の運命を完全に知ることは難しいですが、人が発していることばを聞くならば、その人の運命が多少分かります。箴言1821「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」とあります。このみことばは、とても深いです。英語の詳訳聖書を直訳するとこうなります。「死と命は舌の力の中にあります。彼らは欲した方の実を食べるのです。」ということは、その人が発したことばが死であるならば、死という実を食べます。また、その人が発したことばが命であるならば、命という実を食べるということです。

 昔、チョー・ヨンギ牧師が『第四次元』という本にそのことを書いていました。ある著名な神経外科医が、「大脳皮質にある言語中枢が、身体の神経系をすべて統制している」と言いました。もし誰かが「私はからだが弱ってしまってね」と言い続けるなら、全神経がこのメッセージを受け取り、そして言います。「今、われわれは、『衰弱すべし』との指令を中央機関(言語中枢)から受けた。さあ、弱くなる準備にとりかかろう」。こうして彼らは、必然的に健康状態を衰弱するように調整するのです。「もう、年でしてねえ、人生に疲れ果てました。まともなことは、何一つできません」と言い続けていると、その言葉が言語中枢神経を通して、そのとおりの結果を生むように命令をくだします。神経系のすべてがすぐ応答します。「そうだ、われわれは年をとった、墓に入る準備はできている。さあ、からだの分解作業にとりかかろう。」「年取った、老いぼれた」という言葉をいつでも口にしている人は、自分のその言葉で死期を早めていますから、事実早死にします。さらに、神経外科医は、人間が常日頃から自らに言い聞かせ続けなければならない言葉は、「私は若い。私はできる」「私は年代いかんによらず、私は若者と同じ働きができるのだ」という言葉でなければならないと力説しました。そのように言い続けていると、神経系統が活発に機能し、中枢から力を活力を受けるようになる、とのことでした。アーメン。

 ジョエル・オスティーンがThe Power of I am「『私は…である』という力」というメッセージをしておられます。

I am blessed(私は祝福されている)

I am free(私は自由である)

I am valuable(私には価値がある)

I am masterpiece(私は傑作品である)

I am content(私は満足している)

I am victorious(私は勝利している)

I am secure(私は安心している)

I am prosperous(私は富んでいる)

I am focused(私は焦点が定まっている)

I am determined(私は揺るがない)

I am strong(私は強い)

I am patient(私は忍耐強い)

I am anointed(私は油注がれている)

I am forgiven(私は赦されている)

I am protected(私は守られている)

I am generous(私は物惜しみしない)

 ある人たちは「そんなの非現実的だよ」と笑うかもしれません。でも、聖書は現実をそのまま言うのではなく、神さまの視点から信仰的なことばを発することを命じています。たとえば、ギデオンが召し出されたとき彼は何と言ったでしょうか?「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」(士師615)彼に対して、主の使いは「勇士よ。主があなたと一緒におられる」と言いました。聖書は「弱い者に『私は勇士だ』と言わせよ」(ヨエル310命じています。賛美にも「今、貧しい者よ叫べ、富んでいると」(大いなる方)とあります。貧しいので「貧しい」とだれも言えます。しかし、それに逆らって「私は富んでいる」と叫ぶのです。ある本に、最高の遺産は「聖霊である」と書いてありました。私には遺すべきものは何もないと思っていましたが、「聖霊」と分かったとき、喜びがあふれてきました。なぜなら、聖霊は無いところから、あるものを作り出す神さまだからです。父なる神さまは聖霊によって全宇宙を生み出しました。聖霊が私の内にあるということは、世の中のものを全部持っているということになります。だから、「弱い者よ、叫べ勇士だと」「貧しい者よ叫べ、富んでいると」言うことが可能になるのです。すべてを生み出す聖霊は私たちが信仰のことばを発するのを待っておられるのです。

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2016年10月21日 (金)

サタンの国と神の国 マタイ12:22-29 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.10.23

 ジョン・ウィンバーという人が『力の伝道』という本を書きました。その中の一節です。温暖前線と寒冷前線が衝突するとき、気象が乱れることを私たち知っています。雷が起こり、雨や雪が降り、竜巻やハリケーンが発生することもあります。二つの前線がぶつかるとき、そこに大きな力が解放されるのです。何が起こるか複雑で予測がつかず、コントロールすることは困難です。力の対決も、これとよく似ています。神の国がこの世の王国に侵入して直接にぶつかり合うとき、そこに激しい戦いが生まれます。 

1.サタンの国

 事の起りは、イエス様が悪霊につかれて目も見えず、口もきけない人を癒してあげたことでした。群衆は驚いて「この人はダビデの子なのだろうか?」と言いました。ところがパリサイ人たちは「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ」と言いました。後で彼らは「聖霊を冒瀆する罪は、永遠は赦されない」と言われました。そして、イエス様はとても興味深いことをおっしゃいました。マタイ1225-26イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその(彼の)国は立ち行くでしょう。」このところで、注目すべきことはサタンに国があるということです。国はギリシャ語で「バシレイア」でありますが、王権、支配、王国という意味です。神の国も「バシレイア」であり、神さまが支配している王国です。問題は、「サタンがどこを支配しているのか?」ということです。イエス様が公生涯に入る前に、サタンから誘惑を受けました。第二の誘惑の箇所です。ルカ45また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」何と、サタンは世界の国々のいっさいの権力と栄光が私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げることができると言いました。もし、それが嘘であるなら、イエス様は「馬鹿をコケ、神さまのものだ」と一蹴したでしょう。イエス様は「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてあると言っただけです。イエス様はこの世がサタンのものであるということに反論していません。

 本来は「国々のいっさいの権力と栄光は」神さまが人間に与えたものでした。ところが、人間が神に逆らって堕落したために、その権利をなくしてしまいました。その隙を狙って、サタンが横取りしたのです。そして、今や「この世の神」として私たち人間を支配しています。聖書はサタンの堕落について比喩的に記しています。1つはエゼキエル書28章です。彼は「全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった」と言われています。ところが「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、私はあなたを地に投げ出し、王たちの前のみせものとした」(エゼキエル2817)とあります。もう一箇所はイザヤ14章です。「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか…あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き神のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。(イザヤ1412-15このところで言われている「神の星々」とは、天使のことではないかと思います。サタンはいと高き神のようになろうとして、堕落したのです。そのとき、天使の三分の一を引き連れたものと思われます。黙示録124「その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた」と書いてあるからです。サタンと一緒に堕落した天使が、悪霊になっているのです。サタンあるいは悪魔が、王国の王であり、その下にいろんな階級があるようです。神から離れた人間社会を聖書では「この世」と呼んでいます。そして聖書ではサタンを「この世の神」(Ⅱコリント44と呼んでいます。さらに、Ⅰヨハネ519「世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。」こういうことを言うと、教会の中でも反論する人たちがいます。創世記1章を引用して、「神さまが人間に対して『この地を支配するように』言われました。だからこの世は私たちが支配しているのです」と言います。でも、本当でしょうか?人がエデンの園を追われてから、土地が呪われ、いばらとあざみを生ずるようになりました。堕落以降、罪と死とサタンが人間を支配するようになったのと考えるのが聖書的です。パウロはエペソ2章で「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた。…空中の権威を持つ支配者のもとで、霊に従って歩んできた」と言っています。私たちは「何から救われたのか?」「どこから救われたのか?」と言うことを知るのはとても重要です。

 使徒26章でパウロは救いというものがどういうことなのか説明しています。使徒26:18 「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」つまり、救いとは「暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせる」ことなんだということです。原文には「御国」ではなく、inheritance「相続」となっています。この世ではなく、神さまが新たに場所を下さるということでしょう。もっと分かり易いのが、コロサイ1章です。コロサイ113「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」私たちは救われる前は、暗やみの圧制、つまりサタンの支配下にありました。こんどは、神の御子の支配に移されたのです。イメージ的に言うと、一方にサタンの国があります。その中に私たちが囚われていました。キリストの福音を信じた時、神さまによって、御子の支配(神の国)に移されたのです。Delivered移されたのです。つまり、救われるとはサタンの支配から、神の御子の支配に移されるということなのです。クリスチャンは、この世にいながらも、神の支配(神の国)に住んでいるのです。言い換えると、私たちは死んでから御国(神の国)に入るのではなく、生きているうちに御国(神の国)に入るべきなのです。

2.サタンの国の侵略

 福音書にはサタンの国がどのように侵略され、私たちが救われたのか物語のように書かれています。マタイ1229「強い人の家に入って家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。」このところで言われている「強い人の家」とは「サタンの国」です。家財とは「サタンに捕えられている人間」です。マタイは「略奪する前に、まずその人を縛ってしまわなければならない」と言っています。ルカ福音書には、もっと詳しく書かれています。ルカ1120-21「強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」このところで言われている「もっと強い者」とはイエス様のことです。サタンは武装しています。しかし、イエス様がサタンを襲って、彼の頼みにしていた武具を奪うと書いてあります。サタンの武具とは何でしょうか?武具とは人間を攻撃し、捕えるための道具です。黙示録1210「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」このところでは、サタン(悪魔)は、兄弟たちの告発者、神の御前で訴える者と言われています。神の力とキリストの権威によって、投げ落とされたと書かれています。サタンの武具とは、私たちの罪を神の前で訴えることです。同時に、私たちの良心にも訴えるので私たちは罪悪感の虜になってしまいます。イエス様は私たちを救うために、まずサタンの武具を奪い取る必要があります。それは2000年前カルバリーの丘でなされました。イエス様は私たちの罪を負って身代わりに死なれました。それは同時に、サタンの武具を奪うことになったのです。なぜなら、キリストの贖いによって、サタンはもう神さまに私たちの罪を告発できなくなったからです。イエス様は十字架で「すべてが完了した」と叫ばれました。それは、サタンのかしらを打ち砕いたという決定的な勝利であったのです。

 その後、戦いがないかというとそうではありません。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツがヨーロッパを支配していました。連合軍の勝利はいつ確定したのでしょう?それは、194466日、連合軍はナチスの領域に攻め込み、ノルマンディの海岸でヨーロッパを取り戻しました。ドイツ軍は連合軍の上陸をくいとめられず、連合軍の勝利は避けられないものとなりました。その日が連合軍の勝利、D-dayとされています。ところが、ドイツ軍は全滅したでしょうか?そうではありません。連合軍が戦争を実際に終結させるまでにはさらに11ケ月が必要でした。その間にも、何千という人たちが流血の戦闘で命を落としました。そして、194558日に戦争は終結しました。その日を、ヨーロッパの勝利の日、 VE- dayと言うそうです。イエス・キリストが十字架でサタンのかしらを打ち砕きました。それがD-dayです。でも、その後も戦いは続いています。敵は武装解除されたとはいえ、まだ、そこいらにウヨウヨしています。マルチン・ルターは「キリストの復活によってサタンの敗北は確定したが、今は掃討戦(そうとうせん)である。残っている敵などをすっかり撃ち払うための戦いだ」と言いました。そうです。敵は私たちがボヤボヤしているなら、今だに大きな被害を私たちに与えるだけの力を持っています。以前、アメリカのテレビ伝道者の何人が姦淫の罪で倒れました。日本でも牧師がそういう罪で倒れることがあります。すると、人々は「牧師が堕落したらどうなるんだ」と眉をひそめます。違うのです。これは、戦いなのです。戦争には、死傷者が出るのが当たり前です。サタンは「親亀コケたら、皆コケたー」とばかり、指導者を狙ってくるのです。皆さん、クリスチャンはキリストの軍隊に属する、兵士なのです。神の武具で身を堅め、みことばのつるぎと御霊によって戦う兵士なのです。まもなくイエス様が来られ、サタンに完全に勝利してくださいます。それまで、私たちは悪しき霊と戦いつつ、福音を語り神の国に一人でも多くの人を迎い入れるべきなのです。

 ところが、この霊的戦いをあまりにも強調し、バランスを欠いている人たちもいないわけではありません。彼らは「霊的地図」を書いて、その地域を支配している悪霊を特定します。そして、これを縛り、うち破ることによって、その地域における伝道が飛躍的に前進すると主張します。そのために神社仏閣の前で祈ったり、山頂の祠の前で祈ったりします。彼らはそれを「地域における霊的戦い」あるいは「戦略レベルの戦い」と主張します。確かに、その地方を支配している階級の高い悪霊がいるでしょう。文化や宗教の上で人々を支配している悪霊がいると思います。でも、何事も順番があります。まず、個人レベルの霊的戦いに勝利する必要があります。その後、教会同士が一致して町や地域のために祈るのです。日本の場合は、教会がバラバラで全く一致を欠いています。イエス様は「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません」と言われました。ここに「キリスト教会」も入れるべきであります。私たちはライバルではなくて、神の国の拡大のために一緒に戦う仲間であります。現在は、教団・教派の壁がまだ色濃く残っています。でも、リバイバルが来たなら、そういう柵も取り除かれるでしょう。インドネシアでは広い池にあひるを飼っています。それぞれの持ち主が池に柵を設けて、自分のあひるを区別しています。しかし、台風がやってきて池の水があふれると、柵を越えてあひるが1つの群れになるそうです。持ち主はどれが自分のあひるか分からなくなるそうです。日本という小さな国に100以上の教団・教派がひしめきあっています。クリスチャン人口が1%にも満たないのに何ということでしょう。ひょっとしたらサタンは日本の教会を全く恐れていないのかもしれません。私たちは知るべきです。イエス・キリストが十字架でサタンのかしらを打ち砕いてくださったこと。サタンよりも、もっと強い人であるイエス様がサタンの武具を奪ってくださいました。今なお戦いはありますが、サタンに捕らわれていた人たちを奪回する使命が残されています。私たちは勝利するために戦うのではありません。勝利はすでに決まっています。私たちはイエス様が来られるまで、勝利のために戦うのです。

3.神の国の侵略

 マタイ1228「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」並行記事でありますルカによる福音書からも引用いたします。ルカ1120「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」ルカ福音書では、神の御霊ではなく、「神の指」となっています。イエス様がその人から悪霊を追い出されたので、その人はものを言い、目も見えるようになりました。そのことが、神の国があなたがたのところに来ている証拠だということです。聖書には「神の国はあなたがたに来ている」と優しい口調で書いてあります。しかし、この世がサタンに支配されていると考えたらどうでしょう?もし、そこにイエス様が来られ、悪霊につかれている人から悪霊を追い出して、障害を癒されたとします。それは、サタンの国が侵略されているということです。ルカ11章に書いてあるように「もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝っている」状態です。自分の持ち物が奪われるのですから、これはサタンにとって我慢できないことではないでしょうか?ビル・ジョンソンという人が『天が地に侵入するとき』という本を書いています。英文では”When Heaven Invades Earth”となっています。Invadeというのは、インベーダー・ゲームで知られています。UFOが地球に侵略して来るのを、こちらが撃ち落とすというゲームです。Invadeは他国を侵略するという意味です。征服・略奪を目的に軍隊が行う侵略行為です。ということは、イエス様がこの地上に来られて、サタンの国を侵略し、捕虜である人間を奪還しているということです。昔、ランボーという映画がありましたが、イエス様はまさしくランボーであります。ランボーはたった一人で戦いましたが、イエス様の場合は「神の指」である聖霊がご一緒しておられました。イエス様はいわゆる人間でありましたが、「御霊の力を帯びて」(ルカ414)ミニストリーをしておられました。これはイエス様だけができることというよりも、イエス様が模範になられたということであります。つまり、私たちもイエスの御名の権威と聖霊の力によって、イエス様と同じことをするように召されているということです。マルコ1617-18「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」アーメン。

 聖書ではクリスチャンは「神の兵士」であると記されています。司令官はイエス・キリストであります。「いや、私はそういう戦いは嫌いです。平穏な生活をしたいのです」と言う人もいるかもしれません。しかし、サタンは「神につくのか、私につくのか」迫ってきます。クリスチャンは例外なく、サタンの国から救われ、神の国に移された人たちです。だから中立はありえないのです。問題は私たちが神の武具を身に着け、敵であるサタンに対抗するかどうかです。また、司令官であるイエス・キリストの命令に従うかどうかです。イエス様の最大の願いは何でしょう?それはサタンに捕らわれ、失われた魂を一人でも多く奪回してほしいということです。また、サタンに奪われている健康と豊かな人生を取り返すように願っておられます。イエス様はヨハネ10章でこのように言われました。ヨハネ1010「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」クリスチャンなのに、みじめな生活をしているなら、父なる神さまは決して喜ばないでしょう。私たちは神の子らしく、胸を張り、サタンとその子分たちに命令することができます。イエス様はそのために私たちに権威を与えてくださいました。マタイ2818「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って…」と書いてあります。今から10年ほど前、インドから無名の伝道者が来ました。水島兄弟から紹介されて、「ぜひ、日本の宣教のために協力してください」とのことでした。彼と電話で話しました。そのとき彼は「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。だから福音を宣べ伝え、病人を癒し、奇蹟を行うことができる」と言いました。私は彼が日本のことを知らないくせに、あまりにも幼稚な気がしました。結局、彼とは会いませんでした。ところが、今、私は同じみことばを引用しています。私は日本に長く住んで伝道しているので、日本がいかに難しいかをたくさん話すことができます。「日本は偶像崇拝の国で悪魔によって人々が捕えられており、福音には耳を傾けない。それほど簡単ではない。」と言えます。それだったら、信仰のない人たちと同じです。なぜなら、「できない」という信仰だからです。

 ジョン・ウィンバーの『力の伝道』という本に「伝道のエンゲル係数」ということが書いてありました。エンゲル係数というのは家計と食費との関係ですが、これは「たとえ」です。多くの人たちはキリスト教に対して、無知であるか無関心です。しかし、奇蹟とか癒しを目の当りにすると、エンゲル係数がぐっとアップして福音に心を開くのではないでしょうか?イエス様は伝道するとき御霊の賜物を用いました。木の上で隠れていたザアカイに、「ザアカイ降りて来なさい」と実名で呼びました。会ったこともないのにイエス様から名前を呼ばれて、彼は心を開いたことでしょう。使徒の働き3章に、ペテロが生まれつきの足なえを立たせた記事が書かれています。その奇蹟を知って大勢の人が集まり、何千人もの人たちがイエス様を信じました。奇蹟や癒しは邪道だと言うならば、イエス様もペテロもそれらを用いたのは何故でしょうか?「神の国が来ている」と言われても、人々は霊的なことが分かりません。また、理性的な人に限って、物質的な世界に支配されています。しかし、そのところに神の国が来ていることが如実に現れたらどうでしょうか?すぐさま、心が開かれて「ああ、神さまはおられるかもしれない」と心を開くでしょう。ですから、これは邪道なのではなく、むしろ聖書的なのです。聖霊は今も私たちと共にいらっしゃっています。そして一緒に働きたい、神の働きを現したいと願っておられます。伝道を妨げているのはサタンではなく、むしろ私たちにあります。私たちがイエス様に自分を伝道の道具にささげていないからです。そして、人に馬鹿にされても「神の国が来ていることを証明させてください」と願うなら、神の国はそのところに力強く現れてくださるでしょう。

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2016年10月14日 (金)

安息日の主 マタイ12:1-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.10.16

 「安息日を守れ」という戒めは、十戒の第四番目です。セブンスディ・アドベンチストは今でも土曜日の礼拝を守っています。多くの教会は日曜日を安息日の代わりとしています。厳しいところは、「日曜日は仕事を休んで礼拝を守り、楽しむ日にしてはいけない」と言います。また、日曜日は神さまに対する礼拝はもちろん、朝から晩まで奉仕をする教会もあります。そうなると、世の人たちは「クリスチャンになると束縛されて大変なことになる」と信仰を持つことをためらうでしょう。安息日に関する戒めは、今日の教会においても微妙なテーマであります。当時の人たちは安息日の律法でがんじがらめになっていましたが、イエス様は安息日の精神について教えておられます。

1.安息日の意味

 問題の発端は、弟子たちが麦畑を通ったときに、穂を摘んで食べたことであります。申命記には「空腹の場合は、隣人の畑から穂を摘んで食べて良い。だが、鎌で刈ってはいけない」と書いてあります。その行為自体は罪ではありませんが、その日が安息日だったということです。安息日は労働をしてはいけない日であり、パリサイ人たちは「弟子たちは律法を破っている」とイエス様を非難しました。パリサイ人はユダヤ人の中でも律法を厳格に守る人たちで、細かい規定をたくさん作っていました。安息日に歩ける距離はどれくらいだとか、煮炊きをしてはダメだとか決められていました。現在でもユダヤ教の人たちは、前の日から電燈を付けたままにしておき、料理も作っておくようです。イエス様は律法を排除するためではなく、成就するために来られました。しかし、言い伝えとか、人間が作った決まり事には、厳しく対処されました。イエス様は2つの事例をあげて、弟子たちには罪がないことを証明されました。第一はダビデとその連れの者たちのことです。旧約聖書を見ると分かりますが、ダビデはサウル王から命を狙われ厳しい生活をしていました。あるときダビデは空腹のため祭司にパンを求めました。そのとき、普通のパンがなかったので、聖別されたパンをあげました。本来なら祭司しかそのパンを食べることができませんでした。イエス様はダビデの例をあげて「緊急なときは、儀式的な規定を破ることが許される」と主張しました。当たり前のことですが、イエス様って、「聖書を良くご存じだなー」と思います。普通は「可哀そうだから、いいだろう」とヒューマニズム的に考えてしまいます。しかし、イエス様は規則を規則として認めながらも、神さまの配慮を説いてくださいます。

 もう1つの例は、安息日であっても、祭司は働いて良いということです。5-6節「安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。」パリサイ人は「安息日は働くことがいっさい禁じられている」と言いました。ところが、祭司は犠牲をささげるため神殿内で働いていました。しかも、イエス様は「私は神殿よりも偉大である」と主張されました。つまり、安息日でありましたが、弟子たちは神殿にまさるイエス様に仕えていたわけです。このようにして、イエス様は「弟子たちは安息日を破っている」という批判を退けました。しかし、それだけではありません。規則や儀式よりももっと大切な物があるとおっしゃっています。マタイ127-8「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。」このみことばは、ホセヤ書6章からの引用です。ホセヤの時代、宗教はありましたが、誠実な生活というものがありませんでした。形式的で心がなかったということです。イエス様の時代、パリサイ人たちが律法を盾に取り、人々をさばいていました。そこで、イエス様は安息日の主として、安息日とは何なのか、その精神を教えられたのです。

 冒頭で、安息日を今日の教会がどのように守るべきなのかということを述べました。日本は非宣教国なので、海外の宣教団体や教団の影響を受けました。キリストの福音は良いものですが、聖書的でないものも入ってきました。特に、安息日に関する規定は多種多様です。最も主流なものは、「安息日は日曜日である」という考えです。しかし、聖書に「日曜日が聖なる日であり、聖日礼拝を守らなければならない」とはどこにも書いていません。初代教会は土曜日の安息日は神殿で礼拝していましたが、日曜日も主の復活を覚えて礼拝をささげました。キリスト教がローマ国教になってから、太陽神の影響を受け、「日曜日が聖日であり、教会で公の礼拝をささげるべきである」という法律が作られました。逆に言うと、人が勝手な日に、勝手な所で集まって、礼拝をしてはならないということです。国が認定した聖職者が導く礼拝でなければなりませんでした。マルチン・ルターが万人祭司説を唱えましたが、ローマ・カトリックの風習がところどころに残っています。また、日本には聖公会から出たピューリタンの考えが、多く入ってきました。禁酒、禁煙、厳格な教育方針(親に従うこと)が強調されました。あるブログにこのようなことが書かれていました。信仰が道徳化されると、外面的行動が内面より重視されるようになります。「礼拝、聖書、お祈り、奉仕、献金」の五点セットの実行が、信仰のアイデンティティーとなってしまいます。つまり「行動義認」となり、「信仰義認」の真逆となります。この五つの行動をしていれば、逆にそれをする際の心や動機は問われないのです。引用は以上ですが、簡単に言うと、律法主義になり、偽善者になる傾向が強いということでしょう。

 イエス様はマルコ2章でこのように言われました。マルコ2:27-28「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」本来、安息日は、「六日働いたら、一日休むように」と神さまが人間の健康のために与えた律法です。人間は「休め」と命令されなければ、働き続けてしまう愚かな生き物だということです。キリスト教を嫌う人がいますが、元来、日本はお盆と正月しか休みがありませんでした。それが明治以降、日曜日を休日にするようになったのですから感謝すべきでしょう。でも、聖書には「この日を聖なる日とせよ」と書いてあります。それは「体を休めるだけではなく、創造主なる神さまを礼拝する日である」ということです。つまり、神さまと交わることにより、魂と霊が回復するということです。日本は日曜日の休みというところだけを取って、神さまを礼拝するというところをカットしています。だから、多くの日本人の精神が病んでいるのです。何のために生きるのか、何のために勉強するのか、何のために働くのか分かりません。なぜなら創造主なる神さまから離れて、勝手に生きているからです。イエス様は「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」と言われました。これは安息日を律法化するユダヤ教とキリスト教会に対するイエス様の警告です。安息日は本来、人間が人間らしく生きるための恵みの戒めでした。ところが、どのくらい歩いたらダメだとか、煮炊きはダメだとか、くだらない方向に行ってしまいました。しまいには「安息日は〇〇してはダメ」という禁令にしてしまったのです。そうなると、安息日ではなく、窮屈で疲れる日になってしまいます。日本の教会は、朝は日曜学校にはじまり、礼拝、昼食、午後の奉仕、夕拝と朝から晩まで何かやっています。「日曜日は主日なのだから、主のために捧げる日なんだ」と解釈しています。日曜日しか休めない人は休むことができません。もし、主婦が教会にいりびたるならば、未信者の家族はひもじい思いをするでしょう。日曜礼拝はもちろん捧げるべきですが、あとはできるだけ、安息の時を持つべきだと思います。日曜礼拝が守れなければ、火曜日でも水曜日でも良いと思います。

 私は30歳の頃、研修のためアメリカの南部に行ったことがあります。日曜礼拝で、受付とか案内、献金の奉仕をしている人は、みんなリタイヤした人たちでした。礼拝が終わると、みんな家に帰ります。私たち3人の男性はある家に泊まりました。家主は礼拝から帰って来て昼寝をしていました。その家にはプールがあって、飛び込み台もありました。私たち3人は、夕方までジャンプしていました。その時、みんな思いました。「日曜日の午後、こんなにゆっくりしていいのだろうか?」だけど、それが日曜日の過ごし方だったのですね。私が奉仕していた座間キリスト教会では、日曜日の午前7時から第一礼拝を守り、その後はCSの分校に行き、帰って来て第三礼拝のアッシャーをし、午後は青年会とか聖歌隊があり、夜7時からは夕拝、その後は反省会があり、帰るのが10時過ぎていました。私は197853日、当亀有教会で最初の礼拝の奉仕をしました。礼拝が終わったら、みんな帰ってだれ一人残っていませんでした。家内と二人でお茶を飲みながら、「なんて静かな教会なんだろう」とカルチャーショックを受けました。その後、昼食会を設けたり、午後もいろんな活動をしました。総合的に考えて、真面目なクリスチャンほど、日曜日を安息日として捉えていないのではないでしょうか?そして、パリサイ人のようになって、日曜日に教会に来ない人をさばいたり、奉仕しない人をさばいたりします。尾山謙仁師が作った『僕の人生』という賛美があります。「ある時、目の前に弱り疲れ果てて倒れた人がいても、自分は神の前に礼拝するのを理由に知らんぷりした。だけどサマリヤ人は助けてあげた。」彼はどんなことがあっても礼拝を守りました。でも、イエス様は「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」と言われました。その意味は日曜礼拝も大切だけど、隣人をあわれむ心がそれ以上大切だということです。日曜礼拝を律法ではなく、恵みとして捉えて行きたいと思います。

2.安息日の積極的解釈

 マルコ129 -12イエスはそこを去って、会堂に入られた。そこに片手のなえた人がいた。そこで彼らはイエスに質問して「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と言った。イエスを訴えるためであった。イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」パリサイ人たちは、イエスさまを訴えるために、障害のある人を準備しておきました。なんて卑劣なのでしょう。彼らは「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と質問しました。もしも、イエス様が癒しをしたら、安息日を破ったということで訴えるつもりでした。イエス様は質問に答える代わりに、1つの例を話されました。安息日であっても羊が穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか?もちろん助けるでしょう。今、そこに羊よりもはるかに値打ちのある人間が苦しんでいます。イエス様は安息日であっても、いやしてあげるのが当然でしょうと言いたいのです。しかし、パリサイ人たちは「昨日、きょうの障害じゃないので、他の日でも良いだろう」と意地悪を言うかもしれません。ルカ13章に、18年間も病の霊につかれ、腰が曲がって全身をのばすことのできない女性のことが記されています。人々は「働いて良い日は六日です。その間に来て直してもらうが良い。安息日には、いけないのです」と言いました。では、どうしてイエス様はあえて安息日に人々を癒されたのでしょうか?

 1つは「一日も早く安息を与えたいという」あわれみの心からです。この人たちは、安息日と言いながら、障害や苦しみの中にいました。まさしく、穴に落ちてもがいている羊と同様でした。それでもパリサイ人たちは「安息日はだめだ。他の日に来て直してもらうが良い」と言っています。人の命よりも、安息日の律法を守ることの方が重要だったのです。福音書を見ますと、イエス様はあえて安息日に癒しを行っています。なぜでしょう。それは、ご自身が「安息日の主」だからです。つまり、この律法は父なる神とご一緒に人間が幸せに暮らすように定めた律法でした。それなのに、律法が人々を束縛し、苦しめていたのです。イエス様はあえて、本当の安息日の意味を教えるために、人々に癒しと解放を与えたのです。2つ目は、「安息日は良いことをすることは正しい」ということを教えるためです。彼らは安息日を「あれしてはいけない」「これしてはいけない」と消極的にとらえていました。そして、つまらない規定をたくさん定めていました。イエス様は安息日に癒しを行うことによって、良いことをする日として新たな意味を加えました。イエス様は「安息日の主」ですから、真の意味を教え、改定することも可能だったのです。このところから、信仰というのは窮屈なものではなく、自由と解放があるということが分かります。

 私は日曜日、礼拝を捧げることができるのはクリスチャンの特権だと思います。もし、聖日礼拝厳守だと言って、天国に行くまでの律法として捉えるならどうでしょう。それは義務になり、しかたなく守るという風になります。旅行も諦め、楽しみも諦め、朝寝坊も諦め礼拝を守り続けるのです。私の母教会では「聖日礼拝厳守」と言われてきましたが、私は律法主義がいやなのでほとんど言いません。礼拝を休んだとしても、さばいていません。でも、特別な理由がないのに休まれると、正直、がっかりします。律法の反対は恵みですが、恵みは悪く捉えると甘えや奔放になるかもしれません。それでも、私は日曜日の礼拝は特権であり、恵みであると信じます。もし、日曜日を休まないで仕事をし続けたらどうなるでしょう。また、日曜日が休みだからと行って、礼拝にも行かないでレジャーやショッピングに出かけていたらどうなるでしょう。「それは本人の自由ですから強制できません」と言うでしょうか。でも、多くの日本人は日曜礼拝を守らないので不幸になっています。なぜなら、ずっとこの世のことに神経と感心が行っていたらどうなるでしょう。また、スマホとかテレビなど、この世の情報に捕らわれていたらどうなるでしょう。この世に占有されてしまい、神の像に似せて造られた人間の尊厳が失われます。日曜礼拝を守るためには、日常の生活を一端断ち切って、教会に来なければなりません。この世とは、全く違う観点から物事を考えらせられます。神さまの視野、神さまの価値観が与えられます。礼拝は内なる人が新たにされるために、とても重要なひとときです。神の生けることばから信仰と慰めと希望、罪の赦し、癒しをいただくことができます。ある時はチャレンジとか命令をいただくでしょう。日曜日、一旦休んで礼拝を守っている人と、この世でずっと生きている人とでは全く違ってくるでしょう。日本人の多くはストレスによって病気になり、鬱になり、心が怒りに満ちています。そんな不健康な生活をしているのに、お酒や世の楽しみで解消できるでしょうか?創造主なる神さまのもとに、贖い主なるイエス様のもとに、慰め主なる聖霊様のもとに来るべきです。そして、負えない重荷を置き、神さまにゆだねるのです。そうすると、バッテリーが充電されるように、新たな力をいただくことができるでしょう。イエス様が安息日に病や障害を癒されたように、礼拝に来ている方々にもそのようにしてくださると信じます。ですから、日曜日、礼拝を捧げることができるのはクリスチャンの特権だと思います。

 イエス様は「安息日に良いことをすることは、正しいのです」と言われました。日曜日、CS奉仕、礼拝の賛美や奏楽の奉仕、案内、送迎、食事当番などたくさんあります。夜遅くまでやってはいけませんが、神さまから召されているなら奉仕していただいたら感謝です。当教会は使命というよりもむしろ賜物の方に重点を置いています。もちろん好きでなくても、しなければならないことはあります。でも、神さまの奉仕は神さまご自身がその人に賜物と情熱を与えてくださると信じます。どうか奉仕をしていない人をさばかないでください。私は教会という建物の中で行うことが奉仕のすべてだとは思いません。平日、あなたが遣わされているところ、家庭や職場や地域社会でも奉仕はできます。でも、仕事と奉仕の境目は何でしょうか?仕事の場合はお金のためですから、宮使いもするし、嫌な頭も下げるでしょう。奉仕の場合は、「1ミリオン行け」という人に、2ミリオン行くことだと思います。お金や義務のためではなく、神さまの命で行う行いです。「本来、妻がやるべきことだけど私がやります」というのも奉仕です。神さまの御目のもとでやるならどこででも奉仕があります。日曜日の奉仕は、普段使わない筋肉を使うようなものです。アメリカの教会では、ナーサリーといって、小さな子どもをあずかる奉仕があります。誘拐とかある物騒な国なので、とても重要な奉仕です。ナーサリー室で一緒に遊んでいる男性がいました。遊んでいるというより遊ばれているという感じでした。なぜなら、小さな子どもたちが寄ってたかって馬乗りになっているからです。もう、その人も汗だくです。「普段は何をなさっているんですか」と聞くと、「弁護士です」という答えが返ってきました。「弁護士が理屈も分からない子どもたちと一緒に遊ぶなんて!」驚くかもしれません。おそらくその人は、普段していることと全く違うから疲れないのかもしれません。まさしく、別の筋肉、別の脳を使っているということなのでしょう。教会では「奉仕」というものが多いのですが、これはボランティア精神の元になった考え方だと思います。この世はギブ・アンド・ティクの世界です。ただ働きは嫌です。でも、考えてみると多くの良きものは創造主なる神さまからいただいたものです。自分でかせいで得たものはそれに比べるとわずかでしょう。自分の能力や賜物や体力すらも、創造主からいただいたものです。ある人は、自分だけが一生懸命やっていて、他の人は何もやっていないとさばく心があるでしょうか?北陸に重度の知的障碍者の施設があります。そこでは鶏を飼っていて、生みたての卵をいただくことができます。ある時、施設長が「この鶏は年なのでもう卵を産めない。だから潰して食べてしまおうか」と言ったそうです。障碍者の子どもが「そんなことをしてはいけない。なぜなら卵を産む鶏は、卵を産めない鶏のためにも一生懸命、産んでいるのだから」と言ったそうです。

きょうは「安息日の主」というテーマで学びました。これは「働け」とか「奉仕しろ」という教えではありません。むしろ「ちゃんと休みなさい」という教えです。それでなくても日本人は仕事中毒です。クリスチャンも平日ばかりか、日曜日も奉仕して、世の人たちよりも大変なところがあります。ですから、休むことに罪悪感をもってはいけません。休むことによって、心も体もリフレッシュされるからです。詩篇1272「あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」神さまは私たちが休んでいる間でも、必要なものを備えてくださるということです。クリスチャンはこの世にいながらも、すでに神の国に入って生活しています。神さまは世界の創造主であり、供給者です。そして、イエス様は神の国の王様です。もし、私たちが神の国の住民であるならば、神さまの保護と守りが必ずあるはずです。地上の国においては国民年金とか厚生年金が十分でないかもしれません。同じように、神の国において財政が不足して、私たちはひもじい生活を余技なくされるのでしょうか?そうではありません。イエス様はマタイ6章でこのように言われました。マタイ626「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」アーメン。

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2016年10月 7日 (金)

本当の安息 マタイ11:25-30 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.10.9

 聖書のみことばは食べ物にたとえられています。柔らかい食物もあれば、堅い食物もあります。柔らかい食物とは初心者向けのみことばです。赤ちゃんや幼児はミルクとか離乳食を食べるのと同じです。また、堅い食物とは信じた人が成長するための栄養価の高いものです。肉や魚、苦いピーマンとかヒジキも食べなければなりません。きょうの聖書箇所はまさしく、霊的に柔らかい食物と堅い食物の両方が出てきます。ある人たちは柔らかいみことばを食べて、堅いみことばを捨ててしまいます。そうすると、霊的な大人として成長できません。信じてクリスチャンになった人は、キリストの弟子にふさわしい堅い食物もいただかなければなりません。 

1. 本当の信仰

 マタイ11章にはどのようなことが書かれていたでしょうか?バプテスマのヨハネが荒野に現れて福音を伝えました。ところが多くのユダヤ人は「笛吹けど踊らず」の状態でした。残念ながら、ガリラヤ周辺の人たちは悔改めませんでした。イエス様は「もし、力あるわざがツロとシドンで行われたなら、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。もし、力あるわざがソドムでなされたのだったら、彼らは滅びないできょうまで残っていたことだろう」と嘆かれました。皮肉にも福音を信じて、神の御国に入ったのは、宗教的で正しい人たちではなく、取税人や遊女たちでした。マタイ1125-26そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」どういう人たちが福音を信じて救われるのでしょうか?イエス様は「賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました」と言われました。福音は啓示であり、神から隠されているものです。アメリカの標準訳には、「賢者やインテリではなく、babes赤ん坊に現してくださる」と書いてあります。他の箇所で、イエス様は「子どものようにならない限り、決して天の御国には、入れません」(マタイ183と言われました。子どもは疑うことをしません。良いものであればすぐいただきます。ところが、年を取って知識や経験を得るとだんだん、天の御国から遠ざかります。何故でしょう?神のことばよりも、自分の知識や経験に頼るようになるからです。「聖書なんか時代遅れだ、非科学的だ。何が神さまだ、何が天国だ。」と笑うでしょう。J.Cライルという人は「福音は謙遜な人、純真な人、学ぶ心のある人に現される。知性を誇る人、富を誇る人、自分の善行を誇る人には隠されている」と言いました。

 また、自分の意思や決断で信じることができるかというとそうでもありません。ある人たちは、「信じるときはいつでも信じるよ。だけど今ではない」と言うかもしれません。でも、それは本当でしょうか?マタイ1127「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」父なる神から、イエス様に権限が渡されました。どんな権限でしょうか?イエス様が望む人に福音が開かれるということです。「心に定めた」という背後には、イエス様の選び、イエス様の主権があります。つまりは、イエス様が望まなければ、人は福音を信じて救われることがないということです。ヨハネ6章でイエス様はこのように言われました。ヨハネ644「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」つまり、私たちは、父なる神さまの招きとイエス様の許しがなければ信じて救われることはできないということです。だから、「自分が信じたい時に信じる」というのは無理なんだということです。ジョン・カルヴァンは「予定論」を唱えました。「神さまがどんな人をお救いになるか既に予定している」ということです。さらにカルヴァンは「神さまによって遺棄されている人(滅びる人)も予定されている」とまで言いました。大半の教会は、それでは伝道する気持ちがなくなるので、「神の予知」ぐらいにとどめています。ペテロはこのように言っています。Ⅰペテロ12「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」私たちが選ばれて救われるためには、神の予知、聖霊の聖め、キリストの血の注ぎかけがあったということです。ですから、私たちは「自分で信じてやった」みたいな傲慢な考えを捨てなければなりません。福音を信じて救われたのは、神さまのあわれみであり、恵みであったということです。自分で信じたと思っている人は、疑いが生じたときに、信仰から離れるでしょう。しかし、神さまから信じさせてもらったという人は、神さまの信仰のゆえに信仰から離れることができません。

 あるとき、ペテロたちが舟でガリラヤ湖を渡ろうとしました。しかし、向かい風のために何時間も漕ぎ悩んでいました。その時、真っ暗な湖の上を人が歩いてくるではありませんか。弟子たちは「幽霊だ」と恐れました。しかし、その方はイエス様で「私だ。恐れることはない」と言われました。ペテロは「主よ。もし、あなたでしたら、私に『水の上を歩いてここまで来い』とお命じになってください」と言いました。イエス様が「来なさい」と言うと、ペテロは勇敢にも舟から出て、水の上を歩いてイエス様の方に行きました。ところが、風を見て、こわくなり沈みかけました。「主よ。助けて下さい」と叫びました。イエス様はすぐに手を伸ばして、彼をつかんで助けました。大川牧師は、イエス様に救い出されているペテロの絵を見たことがあるそうです。あまりにも表現がすばらしかったので、実際に見たような気がしました。その絵は、イエス様がペテロの手首をつかみ、ペテロがイエス様の手首をつかんでいたそうです。もしも、イエス様が握手をするように、ペテロの手の平をつかんでいたらどうなるでしょう?つるっと抜けてしまうかもしれません。しかし、ペテロの手首だったら、ペテロが手を放しても大丈夫です。それはまるでお母さんが子どもの手首をつかむのと同じです。信仰も同じで、イエス様が私を握っておられるのです。私たちの方がたとえ手を放すときがあったとしても、イエス様が私たちを離さない、これが本当の信仰です。Ⅱテモテ213「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」真実は英語の聖書では、faithfulになっています。Faithfulは、「信義にあつい」「信仰心のあつい」という意味もあります。つまり、私たちの信仰でやっていけない時があったとしても、イエス様の信仰によって捕えられているということです。これから先、試練の嵐に襲われたり、老後でボケたとしても大丈夫だということです。イエス様が私たちを握って離さない、これが本当の信仰です。私たちは最初「私が発見して、私が信じてやった」思うかもしれません。でも、そういう信仰は自分の気持ちや環境に左右されて、ある時は山の頂で、ある時は谷底になるかもしれません。しかし、信仰生活が続くとどうでしょう?「私がイエス様から見い出されたんだ。主のあわれみによって信じることができたんだ」となります。私たちは恵みによって本当の信仰を持つところまで行きたいと思います。

2. 本当の安息

 今からお読みするマタイ1128はとても有名なことばであり、教会の入口の看板によく書いてあります。マタイ1128「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」このことばをまともに信じた人が、「ごめんください。休ませてください」と入ってきたそうです。そのためある教会は、丸いテーブルとイスを用意して、いつでも人が休めるようにしたそうです。でも、へそが曲がった人は、このみことばを読んでどう思うでしょう。「疲れてなんかいないよ。馬鹿にすんな」と反発するかもしれません。みなさんはイエス様のこの呼びかけに慰めを得るでしょうか?私たちはこのみことばを理解するために、当時の人たちのことを考えなければなりません。当時の人たちはモーセの律法と言い伝えなどたくさんの重荷を負わされていました。なぜなら、パリサイ人や律法学者が自分たちも守れないような律法を強要したからです。現代の日本はどうでしょうか?律法は英語でnormと言いますが、規範、標準、平均成績という意味です。よく「ノルマを果たせ」と言われます。学校でも会社でも果たさなければならないノルマがあるのではないでしょうか?昔はソ連が言った「ノルマ」を笑いましたが、契約社員は本当に肩身が狭いでしょう。また、日本では「言い伝え」の代わりに、「世間体」とか「人の目」があります。人から笑われないように、恥をかかないように生きています。そのため精神が病んでしまい、外に出られない人もいます。そして、全人類に共通している「重荷」とは、罪とのろいの結果です。アダムとエバが罪を犯してから、エデンの園から追い出され、やがて死ぬようになりました。土地にはあざみといばらが生えました。男は顔に汗を流して糧を得、女には生みの苦しみが与えられました。妻は夫を恋慕うけれど、夫は妻を支配します。兄弟同士が憎みあい、民族同士が互いに争うようになりました。

 イエス様は天から降りて来られ、この地上の人たちをごらんになられました。「羊飼いのない羊ののように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」(マタイ936。私たちは生まれた時から、そのような環境で生きてきたので、何とも思いません。しかし、イエス様がこの地上をご覧になったとき、「神さまのノルマ(標準)からなんと離れているんだろう!」と驚かれたのではないでしょうか?だから、イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とおっしゃったのです。「休み」というのは「安息」であり、ヘブル人への手紙では「救い」を表わしています。ヘブル43「信じた私たちは安息に入るのです」と書いています。つまり、イエス様のこのことばは救いの招きのことばであります。罪と呪い、さまざまな思いわずらい、義務、病や苦しみを自分で負わないで、私のところへ持って来なさい。私があなたがたを救ってあげますという意味です。つまりどういうことかというと、私たちには負って良い重荷と負ったために潰れてしまう重荷があるということです。特にそれは罪と呪いであり、またその結果からくる重荷です。イエス様が人となってこの地上に来られたのは、神の子が身代わりにそれらを負って、解決するためであります。イザヤ書53:4 「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」、53:6「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」とも書いてあります。この預言が実現したのは、イエス・キリストの十字架であります。イエス様が私たちの身代わりに、病、咎、のろいを負ってくださったのです。ヒル・ソングに「イエス・ロード」という賛美があります。直訳するとこのようになります。「私は私の悲しみをトレードしています。私の恥をトレードしています。主の喜びを得るために、それらを降ろします。私は私の病をトレードしています。私の痛みをトレードしています。主の喜びを得るために、それらを降ろします。イエス・ロード、イエス・ロード、イエス・ロード、アーメン。」トレードは「交換する」「売買する」という商業用語です。イエス様は十字架で「すべてが完了された」と言われました。ギリシャ語ではテテレスタイという商業用語ですが、「一回ですべての負債が支払われた」という意味です。イエス様が全額支払っているのに、「いや、私が支払います」というのは神さまに対する侮辱ではないでしょうか?まず、私たちはイエス様の招きに応じて、すべての悩み、すべての恥、すべての重荷をイエス様にゆだねるべきであります。そうすれば、休みという救いが与えられます。これは私たちが通らなければならない最初の関門です。

 その次にイエス様は何とおっしゃったでしょうか?マタイ1129-30「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」伝道集会では、28節しか言いません。救われてからどうするかを語らないので、本当の休みが来ないのです。聖書を良く見ると、28節に「休ませてあげる」と書いてあります。そして、29節には「たましいに安らぎが来る」と書いてあります。日本語では違いますが、ギリシャ語も英語も同じことばです。どちらも「休み」あるいは「安息」です。つまり、イエス様を信じたときに休みと安息が与えられます。でも、私たちはこの世に生きているので、次から次と問題や悩みが襲ってきます。たとえば、日曜日礼拝で「すべての悲しみ、すべての恥を、すべての病、すべての問題を捨ててしまおう。イエス・ロード、イエス・ロード、イエス・ロード、アーメン」と賛美します。ところが家に帰ると新たな悲しみ、新たな恥、新たな病、新たな悩みが待っています。一か月ふりかえると、なんだかちっとも変ってないような感じがします。「捨てては拾い」「捨てては拾い」の繰り返しです。なぜでしょう?イエス様は「そうすればたましいに安らぎ(安息)が来ます」と言われました。その安らぎは、世の中にいろんな悩みや問題があったとしても影響されない、たましいの安らぎ(安息)であります。では、どうすればよいのでしょうか?

 イエス様は「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」と言われました。そうです。私たちがイエス様を信じて救われた後、イエス様のくびきを負って、イエス様に学ぶ必要があるということです。まず、「学ぶ」とことばは、イエス様に見習うという意味です。「学ぶ」はギリシャ語ではマセチューオーで、「弟子になる」という意味があります。つまり、イエス様の弟子としてイエス様に学ぶということです。そうすれば、たましいに安らぎが来ます。これは一時的なものではなく、継続的に与えられる安らぎです。では、具体的にどのように学ぶのでしょうか?このところでイエス様は「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」と言われました。現代の人は「くびき」を知りません。これは二頭の馬、もしくは二頭の牛が一緒に作業するために首にかける農具です。農夫は、真っ直ぐな横木を二頭の牛に固定して、耕作をしたり、荷物を運びました。エディ・レオ師がわかりやすく教えてくださったことがあります。力があり経験豊富なベテラン牛はイエス様です。新米の牛は私たちです。農夫は、新米牛が一人前に作業ができるようになるために、あえてベテラン牛と組ませます。ベテラン牛は経験豊富で仕事を途中で投げ出したりしません。しかし、新米牛は仕事があきてくると「休みたい。草が食べたい」と横道にそれます。するとベテラン牛は「だめだ。今は仕事中だ」とひっぱります。新米牛は首がいたいので、仕方なくベテラン牛に従います。イエス様は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」と言われました。イエス様は地上で大工でした。だから、イエス様が作るくびきはなめらかで、一人一人に合っています。しかも、力あるイエス様が一緒に負ってくれるので、自分の荷は軽いのです。ある時はぶらさがっていても大丈夫なのです。しかし、イエス様に学んでいくと、技術も増し力もついてきます。そして、その人のたましいに安らぎがきます。

 では、救われたときの「安息」とイエス様に学んだあとの「たましいの安息」はどこが違うのでしょうか?救われたときの「安息」は、天の御国に入ったという「安息」です。これは、根本的な安息であります。ところが救われてからがまた大変なのであります。何が大変かというと、自分の肉とこの世の誘惑に勝利していかなければならないからです。あるクリスチャンは「イエス様を信じると悩みがなくなるよ」と伝道します。しかし、それは嘘です。イエス様は「この世では悩みがある」(ヨハネ1633口語訳)と言われました。天国という安息に入るまで、私たちには乗り越えるべき試練や戦いがあるということです。では、どうして神さまは救われたら、すぐに天国に入れてくれないのでしょうか?そこには2つの理由があります。1つは果たすべき使命があるということです。人々に仕え、家庭を治めながら福音を宣べ伝えていく必要があります。もう1つは、神さまは救われた私たちがイエス様に似るように、あえて試練や戦いを通されるということです。ある時は叩かれ、ある時は削られ、ある時は擦られて、イエス様のような似姿に変えられていくのです。それはまるで彫刻師がノミを手にして石から作品を彫り出すようなものです。神さまも私たちに試練というノミを打ち付けます。私たちは「痛いから、やめてくれ」と叫びます。それでも容赦なく、ノミが打ち付けられます。するとどうでしょうか?だんだんとイエス様に似た姿になってきます。最初は荒削りの信仰でしたが、だんだんしなやかでシャープな信仰になってきます。簡単に泣いたり、叫んだりしません。なぜなら、たましいに深い安息があるからです。ある人たちは洗礼を受けた時は「ハレルヤ!」と喜んでいます。半年もたたないうちに試練がやってきて、教会の礼拝も休みがちになります。本人はだれかに躓いたと言うかもしれません。「躓き」は英語でバイトといいますが、悪魔が差し出した餌に食らいつくことであります。躓かせる人や悪魔も悪いのですが、躓いてしまう要素がその人の中にあるということです。しかし、イエス様と一緒にくびきを負うならば、乗り越えられます。そういう時こそ、イエス様が言われたことばを思い出さなければなりません。「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」アーメン。

 イエス様はあえてご自分を「わたしは心優しく、へりくだっているから…」と言われました。英語の聖書ではmeek and lowlyです。「柔和で謙遜な」という意味です。イエス様は「もうお前にはうんざりした」と諦めたり、捨てたりしません。ずっと最後までご一緒してくださるのです。8月のオリンピックでは日本はたくさんのメダルを取りました。私は二人の水泳の選手を忘れられません。一人は200mバタフライで銅メダルをとった星奈津美選手です。彼女はバセドウ病の手術を乗り越え、昨年の世界選手権で金メダルを取りました。しかし、その責任、重圧の重さにも苦しんでいました。平井コーチから「世界チャンピオンのプライドなんて捨てろ。きみが諦めないなら、とことん付き合うぞ」と言われ、落ち着きを取り戻したそうです。もう一人は200m平泳ぎで金メダルをとった金藤理絵選手です。この人はメダルが取れなくて、一時引退も考えました。彼女が金メダルと取った時「加藤コーチのことを信じ続けてきて本当によかった」と言いました。両者ともコーチと二人三脚でとったメダルだと言っています。このような例は他にもたくさんありますが、良い選手には良いコーチが着いています。良いコーチというのは、上から目線ではなく、選手と一緒に考え、一緒に戦う人であります。イエス様も上から目線ではなく、「心優しく、へりくだっている」人生のコーチであります。なぜなら、イエス様ご自身が、苦しみを受け、恥を受け、拒絶を受けたことがあるからです。このイエス様が手をとり二人三脚、いや「くびき」を負ってくださいます。イエス様と共に歩み、たましいの安らぎを常にいただきましょう。

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