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2016年10月28日 (金)

口から出ることば マタイ12:30-37 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.10.30 

 私たちが何気に発していることばに力があるということをご存じでしょうか?口から発したことばは単なる音波ではありません。そのことばを聞いた人々や環境、あるいは神さまに影響を与えます。創世記1章では、神さまはことばによってこの世界を創造されました。神さまが「光があれ」と言ったら、光が現れました。イスラエル人は「シャローム」と挨拶すると、その人に実際に祝福が与えられたと信じています。このマタイ12章には、私たちが発することばの否定的な面が書かれていますが、肯定的な面も学びたいと思います。

1.ことばの危険性

 イエス様が悪霊によって目が見えず、口もきけない人を癒してあげました。すると、パリサイ人たちが「この人は、悪霊のかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけなのだ」と非難しました。それに対してイエスさまは「私は神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのです」と言われました。さらにイエス様はこのように言われました。マタイ1231-32「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」「人の子」であるイエス様に対する冒涜は赦されるということです。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されないということです。何と、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されないと言われました。「この世」というのはその時代という意味です。また、「次に来る世」というのは、やがて来る御国のことであります。そうなると、永遠に赦されないということになります。マルコ3章にはもっと詳しく書かれています。「しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである(マルコ329-30)。彼らはイエス様を悪霊のかしらベルゼブルと言いました。そして、悪霊によって悪霊を追い出しているのだと聖霊を汚したからです。

 それにしても、「聖霊を汚す罪は永遠に赦されない」とは恐ろしいことであります。何故なんでしょうか?ヨハネ16章には聖霊は「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(ヨハネ168と書いてあります。つまり、聖霊は私たちに「あなたには罪がありますよ。だから悔い改めなさい」と促してくださいます。そこで、人々は「分かりました。神さま私の罪をお赦しください。あなたを信じます」と祈ることができます。その人は罪赦され、永遠のいのちがあたえられるでしょう。ところが、もし、その人が聖霊に逆らって、聖霊を冒涜したならどうでしょう?「聖霊なんか信じない。あっちへ行け。お前の言うことも聞かない」と言ったらどうでしょう?聖霊は私たちと同じように悲しんだり、消えたりしますので、「分かりました。もうあなたには関わりません」とおっしゃるでしょう。聖霊が働かなければその人は悔い改められないので、犯した罪は永遠に残ります。その人は神にさばかれ、永遠に赦されないということになります。イエス様は「助け主」であられます。そして、聖霊は「別の助け主」と言われています。でも、聖霊は「別の」ではなくて、「最後の助け主」なのです。聖霊に逆らい、聖霊をうとんじてしまうなら「もう助けはない」ということになります。聖霊はとても優しいお方です。人格をもっていますので悲しんだり、消えたりします。私たちは、聖霊を馬鹿にしたり、逆らったりすべきではありません。神の霊である聖霊様を、認め、歓迎し、従いましょう。そうすれば、私たちは罪を悔い改めることができます。さらに聖霊は私たちを罪からきよめ、新たな人にしてくださいます。

 イエス様はことばの危険性についてさらに教えておられます。マタイ1236-37「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」「あなたがた」とは、イエス様を冒涜したパリサイ人たちです。でも、私たちは「むだなことば」を発することはないでしょうか?私はあります。家内からよく注意をされますが、テレビに向かってよく話します。クイズを答えたり、自分の意見を言ったり、あるときには非難やさばきのことばを発します。講壇に上がっているときはきよめられていますが、一緒に昼食をする時は口がゆるみます。単なるユーモアだったら良いのですが、「むだなことば」を発するときがあります。ヤコブ3章にはことばがどんなに破壊的か記されています。「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。…しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。」(ヤコブ36,8また、箴言には発することばがいかに大切か、いたるところに書かれています。箴言133「自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。」アーメン。政治家は自分が発したことばで、退任とか辞職に追い込まれることがよくあります。しかし、一番問題なのは、目に見えない神さまに言っていることばです。ルカ19章に「ミナのたとえ」がありますが、ひとりのしもべがこのように言いました。ルカ1921「あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。」よくもいけしゃあしゃあと言ったものです。主人は何と言ったでしょう?「悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。」主人とは神さまのことであります。

 もしかしたら、私たちは神さまに対してつぶやいたり、呪うような言葉を発したりしているかもしれません。クリスチャンはすべての罪が赦されています。でも、むだな言葉や悪いことばによって得られる祝福を逃しているかもしれません。神さまも聖霊様も目に見えませんので、発することばに注意をしていきたいと思います。私たちの口がきよめられますように。アーメン。

2.ことばの出所

 では、どのようにしたら悪いことばを出さないで、良いことばを発することができるのでしょうか?世の中では、「口は悪いが良い人だよ」「口は悪いけど根は悪い人じゃない」などと聞きますが、本当でしょうか?マタイ1233-35「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」イエス様は「心に満ちていることを口が話す」と言われました。つまり、「口が悪いということは、そもそも心が悪いからだ」と言っています。このところに2つのたとえがあります。最初は、木と実の関係です。木というのは本体です。そして、実というのは生産されるものです。イエス様は「木のよしあしはその実によって知られる」とおっしゃいました。良い木なのか、悪い木なのか外側からは見分けがつきません。人間も同じで外側からは、良い人なのか悪い人なのか見分けがつきません。どうしたら分かるのでしょうか?木は実で分かると言うことですから、その人が発していることばで分かるということです。親切なことばなのか、あるいは乱暴で人を傷つけることばなのか?人の徳を建てることばなのか、あるいは人をこきおろす裁きのことばなのか?積極的で肯定的なことばなのか、あるいは消極的で否定的なことばなのか?その人の発していることばによってその人が分かるということです。「良いか、悪いか」ちょっと極端な感じはしますが、たとえの意味はそうです。

 私は李光雨師と交流がありますが、李先生はその人の話を30分くらい聞いていたら、その人の世界観が分かるそうです。世界観と言うのは、その人の「心のめがね」「ものの見方」ということです。でも、世界観を知るためには、「心の叫び」をまず知らなければなりません。私たちは無意識のうちにですが、何かを叫んでいます。特に不条理とか不幸な出来事に遭遇したときは、心の奥底から出てくるものがあります。「悪いことしていないのに、どうして私だけが」とか「最後は必ずこうなるんだよな」「みんなあいつのせいだ」とか、言わないでしょうか?人それぞれ一定のパターンがあるでしょう。多くの場合、過去の未解決な問題と直結しています。もしかしたら、あの時、発したことばと同じことを発しているのかもしれません。李光雨師はその場所で、神さまと出会って、「心の叫び」を完了しなければならないと言われます。「心の叫び」が完了したなら、新しい世界観を持つことができるということです。「エリヤハウス」も、悪い実だけをとってもダメだと言います。つまり、ことばをなおしても、それを発している心が癒され、変革されないとダメだということです。世の中にはいろんな自己啓発セミナーがあります。そこでは積極的なことばを発する訓練をするかもしれません。でも、セミナーが終わって1週間もちません。なぜなら、本体である心が癒され、新しくなっていないからです。

 イエス様はもう1つ「倉」のたとえをお話しされました。「良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」倉というのは、心の倉です。心理学的には潜在意識と言えるかもしれません。ある説によりますと、人間の脳は、過去に経験したあらゆる出来事を記憶しているそうです。ただ、それを思い出すことができないだけだそうです。私は、心の倉をコンピューターにたとえたらよく分かるのではないかと思います。コンピューターはデーターを入れていないと単なる箱であります。ことわざに、garbage in, garbage out、「ゴミを入れればゴミが出てくる」とあります。つまり、コンピューターに無意味なデーターを入れても、無意味な結果しか出てこないということです。私たちの頭はコンピューターと同じであります。私たちは、毎日、ここに何を入れているのでしょうか?インターネットも便利ですが、ゴミみたいな情報もあります。テレビ番組も数えきれないほどチャンネルがあります。ニュースは悪いわけではありませんが、同じことが時間帯をずらしながら放映されています。ニュースは大体、世の中の不条理がクローズアップされていますので、ほどほどにしたら良いと思います。また、夜寝る前にサスペンスとかドラマをみたら、潜在意識にどんどん入って行きます。寝る前の脳は無防備なので、現実と非現実の区別がつきません。スマホやゲームによって、将来を担う若者の頭が壊されています。日本では、サタンが願っていることが起きています。私たちは自分の頭に何を入れるか、何を入れないか見張る必要があります。箴言423「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」

 イエス様は運命論的に、良い木と悪い木、あるいは良い人と悪い人に分けています。しかし、考えてみるなら、アダム以来の人間は悪い木であり、悪い人なのです。他の人と比べて、少し良いとか言えるかもしれませんが、罪人であって悪い心なのです。エレミヤ179「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」これが聖書の人間観です。学校は人間を教育で改善できると言うかもしれません。もちろん知性を与えることはできるでしょう。しかし、人間の性質を変えることができません。だから、いじめがなくならないのです。聖書は「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」とはっきり言っています。では、どうしたら良いのでしょうか?改善や改良ではダメなんです。新たに生まれ変わるしかありません。旧約聖書でイスラエルの民はいくら戒めを与えても、偶像礼拝をやめませんでした。言い換えると、口をすっぱく注意してもよくならなかったということです。そこで、神さまはどうしたでしょうか?エゼキエル1119 「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」この預言は新約聖書で成就しました。私たちがイエス・キリストを信じるときに、霊的に新しく生まれ変わります。言い換えると、良い木になり、良い人になるのです。もちろん、きよめられたり、成長するという過程は必要です。でも、心が本質的に変わりますので、良いものが出てくるのです。心が変わるので、発することばもおのずと変わってくるということです。ハレルヤ!ですから、キリスト教は道徳とか修養ではなく、生まれ変わりの宗教ということができます。

3.ことばの効用

 赤ちゃんは2歳くらいなると少しずつことばを出すようになります。女の子だと3歳になるとぺらぺらしゃべり、同じことを英語で言うのが難しいです。クリスチャンは霊的に新しく生まれた存在ですが、考え方とか発することばが「古い人のまんま」ということが良くあります。だから、私たちは意識的に考え方とかことばを新しくしなければなりません。そうしないと、神さまの恵みを十分に受け取ることができません。第一のポイントでは舌の持つ否定的な意味を語りました。でも、見方を変えるならば舌にはものすごい力があるということです。たとえば、ヤコブ3章で舌は馬のくつわにたとえられています。小さなくつわで、馬のからだ全体を引き回すことができます。また、舌は船のかじにたとえられています。ごく小さなかじで、大きな船を自分の望むところに進ませることができます。確かに、舌を制御するのはだれにもできません。しかし、ヤコブは「もし舌を制御できるなら、からだ全体も制御できる完全な人です」と言いました。私たちは舌を正しく用いるならば、人生を良い方向に向けられるということではないでしょうか?私はこれまでいろんな人と会ってきましたが、やっぱり否定的なことを言っている人の人生はかんばしくありません。否定的なことを言うということは、否定的な人生を導いているようなものだからです。人の運命を完全に知ることは難しいですが、人が発していることばを聞くならば、その人の運命が多少分かります。箴言1821「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」とあります。このみことばは、とても深いです。英語の詳訳聖書を直訳するとこうなります。「死と命は舌の力の中にあります。彼らは欲した方の実を食べるのです。」ということは、その人が発したことばが死であるならば、死という実を食べます。また、その人が発したことばが命であるならば、命という実を食べるということです。

 昔、チョー・ヨンギ牧師が『第四次元』という本にそのことを書いていました。ある著名な神経外科医が、「大脳皮質にある言語中枢が、身体の神経系をすべて統制している」と言いました。もし誰かが「私はからだが弱ってしまってね」と言い続けるなら、全神経がこのメッセージを受け取り、そして言います。「今、われわれは、『衰弱すべし』との指令を中央機関(言語中枢)から受けた。さあ、弱くなる準備にとりかかろう」。こうして彼らは、必然的に健康状態を衰弱するように調整するのです。「もう、年でしてねえ、人生に疲れ果てました。まともなことは、何一つできません」と言い続けていると、その言葉が言語中枢神経を通して、そのとおりの結果を生むように命令をくだします。神経系のすべてがすぐ応答します。「そうだ、われわれは年をとった、墓に入る準備はできている。さあ、からだの分解作業にとりかかろう。」「年取った、老いぼれた」という言葉をいつでも口にしている人は、自分のその言葉で死期を早めていますから、事実早死にします。さらに、神経外科医は、人間が常日頃から自らに言い聞かせ続けなければならない言葉は、「私は若い。私はできる」「私は年代いかんによらず、私は若者と同じ働きができるのだ」という言葉でなければならないと力説しました。そのように言い続けていると、神経系統が活発に機能し、中枢から力を活力を受けるようになる、とのことでした。アーメン。

 ジョエル・オスティーンがThe Power of I am「『私は…である』という力」というメッセージをしておられます。

I am blessed(私は祝福されている)

I am free(私は自由である)

I am valuable(私には価値がある)

I am masterpiece(私は傑作品である)

I am content(私は満足している)

I am victorious(私は勝利している)

I am secure(私は安心している)

I am prosperous(私は富んでいる)

I am focused(私は焦点が定まっている)

I am determined(私は揺るがない)

I am strong(私は強い)

I am patient(私は忍耐強い)

I am anointed(私は油注がれている)

I am forgiven(私は赦されている)

I am protected(私は守られている)

I am generous(私は物惜しみしない)

 ある人たちは「そんなの非現実的だよ」と笑うかもしれません。でも、聖書は現実をそのまま言うのではなく、神さまの視点から信仰的なことばを発することを命じています。たとえば、ギデオンが召し出されたとき彼は何と言ったでしょうか?「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」(士師615)彼に対して、主の使いは「勇士よ。主があなたと一緒におられる」と言いました。聖書は「弱い者に『私は勇士だ』と言わせよ」(ヨエル310命じています。賛美にも「今、貧しい者よ叫べ、富んでいると」(大いなる方)とあります。貧しいので「貧しい」とだれも言えます。しかし、それに逆らって「私は富んでいる」と叫ぶのです。ある本に、最高の遺産は「聖霊である」と書いてありました。私には遺すべきものは何もないと思っていましたが、「聖霊」と分かったとき、喜びがあふれてきました。なぜなら、聖霊は無いところから、あるものを作り出す神さまだからです。父なる神さまは聖霊によって全宇宙を生み出しました。聖霊が私の内にあるということは、世の中のものを全部持っているということになります。だから、「弱い者よ、叫べ勇士だと」「貧しい者よ叫べ、富んでいると」言うことが可能になるのです。すべてを生み出す聖霊は私たちが信仰のことばを発するのを待っておられるのです。

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