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2016年10月14日 (金)

安息日の主 マタイ12:1-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.10.16

 「安息日を守れ」という戒めは、十戒の第四番目です。セブンスディ・アドベンチストは今でも土曜日の礼拝を守っています。多くの教会は日曜日を安息日の代わりとしています。厳しいところは、「日曜日は仕事を休んで礼拝を守り、楽しむ日にしてはいけない」と言います。また、日曜日は神さまに対する礼拝はもちろん、朝から晩まで奉仕をする教会もあります。そうなると、世の人たちは「クリスチャンになると束縛されて大変なことになる」と信仰を持つことをためらうでしょう。安息日に関する戒めは、今日の教会においても微妙なテーマであります。当時の人たちは安息日の律法でがんじがらめになっていましたが、イエス様は安息日の精神について教えておられます。

1.安息日の意味

 問題の発端は、弟子たちが麦畑を通ったときに、穂を摘んで食べたことであります。申命記には「空腹の場合は、隣人の畑から穂を摘んで食べて良い。だが、鎌で刈ってはいけない」と書いてあります。その行為自体は罪ではありませんが、その日が安息日だったということです。安息日は労働をしてはいけない日であり、パリサイ人たちは「弟子たちは律法を破っている」とイエス様を非難しました。パリサイ人はユダヤ人の中でも律法を厳格に守る人たちで、細かい規定をたくさん作っていました。安息日に歩ける距離はどれくらいだとか、煮炊きをしてはダメだとか決められていました。現在でもユダヤ教の人たちは、前の日から電燈を付けたままにしておき、料理も作っておくようです。イエス様は律法を排除するためではなく、成就するために来られました。しかし、言い伝えとか、人間が作った決まり事には、厳しく対処されました。イエス様は2つの事例をあげて、弟子たちには罪がないことを証明されました。第一はダビデとその連れの者たちのことです。旧約聖書を見ると分かりますが、ダビデはサウル王から命を狙われ厳しい生活をしていました。あるときダビデは空腹のため祭司にパンを求めました。そのとき、普通のパンがなかったので、聖別されたパンをあげました。本来なら祭司しかそのパンを食べることができませんでした。イエス様はダビデの例をあげて「緊急なときは、儀式的な規定を破ることが許される」と主張しました。当たり前のことですが、イエス様って、「聖書を良くご存じだなー」と思います。普通は「可哀そうだから、いいだろう」とヒューマニズム的に考えてしまいます。しかし、イエス様は規則を規則として認めながらも、神さまの配慮を説いてくださいます。

 もう1つの例は、安息日であっても、祭司は働いて良いということです。5-6節「安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。」パリサイ人は「安息日は働くことがいっさい禁じられている」と言いました。ところが、祭司は犠牲をささげるため神殿内で働いていました。しかも、イエス様は「私は神殿よりも偉大である」と主張されました。つまり、安息日でありましたが、弟子たちは神殿にまさるイエス様に仕えていたわけです。このようにして、イエス様は「弟子たちは安息日を破っている」という批判を退けました。しかし、それだけではありません。規則や儀式よりももっと大切な物があるとおっしゃっています。マタイ127-8「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。」このみことばは、ホセヤ書6章からの引用です。ホセヤの時代、宗教はありましたが、誠実な生活というものがありませんでした。形式的で心がなかったということです。イエス様の時代、パリサイ人たちが律法を盾に取り、人々をさばいていました。そこで、イエス様は安息日の主として、安息日とは何なのか、その精神を教えられたのです。

 冒頭で、安息日を今日の教会がどのように守るべきなのかということを述べました。日本は非宣教国なので、海外の宣教団体や教団の影響を受けました。キリストの福音は良いものですが、聖書的でないものも入ってきました。特に、安息日に関する規定は多種多様です。最も主流なものは、「安息日は日曜日である」という考えです。しかし、聖書に「日曜日が聖なる日であり、聖日礼拝を守らなければならない」とはどこにも書いていません。初代教会は土曜日の安息日は神殿で礼拝していましたが、日曜日も主の復活を覚えて礼拝をささげました。キリスト教がローマ国教になってから、太陽神の影響を受け、「日曜日が聖日であり、教会で公の礼拝をささげるべきである」という法律が作られました。逆に言うと、人が勝手な日に、勝手な所で集まって、礼拝をしてはならないということです。国が認定した聖職者が導く礼拝でなければなりませんでした。マルチン・ルターが万人祭司説を唱えましたが、ローマ・カトリックの風習がところどころに残っています。また、日本には聖公会から出たピューリタンの考えが、多く入ってきました。禁酒、禁煙、厳格な教育方針(親に従うこと)が強調されました。あるブログにこのようなことが書かれていました。信仰が道徳化されると、外面的行動が内面より重視されるようになります。「礼拝、聖書、お祈り、奉仕、献金」の五点セットの実行が、信仰のアイデンティティーとなってしまいます。つまり「行動義認」となり、「信仰義認」の真逆となります。この五つの行動をしていれば、逆にそれをする際の心や動機は問われないのです。引用は以上ですが、簡単に言うと、律法主義になり、偽善者になる傾向が強いということでしょう。

 イエス様はマルコ2章でこのように言われました。マルコ2:27-28「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」本来、安息日は、「六日働いたら、一日休むように」と神さまが人間の健康のために与えた律法です。人間は「休め」と命令されなければ、働き続けてしまう愚かな生き物だということです。キリスト教を嫌う人がいますが、元来、日本はお盆と正月しか休みがありませんでした。それが明治以降、日曜日を休日にするようになったのですから感謝すべきでしょう。でも、聖書には「この日を聖なる日とせよ」と書いてあります。それは「体を休めるだけではなく、創造主なる神さまを礼拝する日である」ということです。つまり、神さまと交わることにより、魂と霊が回復するということです。日本は日曜日の休みというところだけを取って、神さまを礼拝するというところをカットしています。だから、多くの日本人の精神が病んでいるのです。何のために生きるのか、何のために勉強するのか、何のために働くのか分かりません。なぜなら創造主なる神さまから離れて、勝手に生きているからです。イエス様は「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」と言われました。これは安息日を律法化するユダヤ教とキリスト教会に対するイエス様の警告です。安息日は本来、人間が人間らしく生きるための恵みの戒めでした。ところが、どのくらい歩いたらダメだとか、煮炊きはダメだとか、くだらない方向に行ってしまいました。しまいには「安息日は〇〇してはダメ」という禁令にしてしまったのです。そうなると、安息日ではなく、窮屈で疲れる日になってしまいます。日本の教会は、朝は日曜学校にはじまり、礼拝、昼食、午後の奉仕、夕拝と朝から晩まで何かやっています。「日曜日は主日なのだから、主のために捧げる日なんだ」と解釈しています。日曜日しか休めない人は休むことができません。もし、主婦が教会にいりびたるならば、未信者の家族はひもじい思いをするでしょう。日曜礼拝はもちろん捧げるべきですが、あとはできるだけ、安息の時を持つべきだと思います。日曜礼拝が守れなければ、火曜日でも水曜日でも良いと思います。

 私は30歳の頃、研修のためアメリカの南部に行ったことがあります。日曜礼拝で、受付とか案内、献金の奉仕をしている人は、みんなリタイヤした人たちでした。礼拝が終わると、みんな家に帰ります。私たち3人の男性はある家に泊まりました。家主は礼拝から帰って来て昼寝をしていました。その家にはプールがあって、飛び込み台もありました。私たち3人は、夕方までジャンプしていました。その時、みんな思いました。「日曜日の午後、こんなにゆっくりしていいのだろうか?」だけど、それが日曜日の過ごし方だったのですね。私が奉仕していた座間キリスト教会では、日曜日の午前7時から第一礼拝を守り、その後はCSの分校に行き、帰って来て第三礼拝のアッシャーをし、午後は青年会とか聖歌隊があり、夜7時からは夕拝、その後は反省会があり、帰るのが10時過ぎていました。私は197853日、当亀有教会で最初の礼拝の奉仕をしました。礼拝が終わったら、みんな帰ってだれ一人残っていませんでした。家内と二人でお茶を飲みながら、「なんて静かな教会なんだろう」とカルチャーショックを受けました。その後、昼食会を設けたり、午後もいろんな活動をしました。総合的に考えて、真面目なクリスチャンほど、日曜日を安息日として捉えていないのではないでしょうか?そして、パリサイ人のようになって、日曜日に教会に来ない人をさばいたり、奉仕しない人をさばいたりします。尾山謙仁師が作った『僕の人生』という賛美があります。「ある時、目の前に弱り疲れ果てて倒れた人がいても、自分は神の前に礼拝するのを理由に知らんぷりした。だけどサマリヤ人は助けてあげた。」彼はどんなことがあっても礼拝を守りました。でも、イエス様は「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」と言われました。その意味は日曜礼拝も大切だけど、隣人をあわれむ心がそれ以上大切だということです。日曜礼拝を律法ではなく、恵みとして捉えて行きたいと思います。

2.安息日の積極的解釈

 マルコ129 -12イエスはそこを去って、会堂に入られた。そこに片手のなえた人がいた。そこで彼らはイエスに質問して「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と言った。イエスを訴えるためであった。イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」パリサイ人たちは、イエスさまを訴えるために、障害のある人を準備しておきました。なんて卑劣なのでしょう。彼らは「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と質問しました。もしも、イエス様が癒しをしたら、安息日を破ったということで訴えるつもりでした。イエス様は質問に答える代わりに、1つの例を話されました。安息日であっても羊が穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか?もちろん助けるでしょう。今、そこに羊よりもはるかに値打ちのある人間が苦しんでいます。イエス様は安息日であっても、いやしてあげるのが当然でしょうと言いたいのです。しかし、パリサイ人たちは「昨日、きょうの障害じゃないので、他の日でも良いだろう」と意地悪を言うかもしれません。ルカ13章に、18年間も病の霊につかれ、腰が曲がって全身をのばすことのできない女性のことが記されています。人々は「働いて良い日は六日です。その間に来て直してもらうが良い。安息日には、いけないのです」と言いました。では、どうしてイエス様はあえて安息日に人々を癒されたのでしょうか?

 1つは「一日も早く安息を与えたいという」あわれみの心からです。この人たちは、安息日と言いながら、障害や苦しみの中にいました。まさしく、穴に落ちてもがいている羊と同様でした。それでもパリサイ人たちは「安息日はだめだ。他の日に来て直してもらうが良い」と言っています。人の命よりも、安息日の律法を守ることの方が重要だったのです。福音書を見ますと、イエス様はあえて安息日に癒しを行っています。なぜでしょう。それは、ご自身が「安息日の主」だからです。つまり、この律法は父なる神とご一緒に人間が幸せに暮らすように定めた律法でした。それなのに、律法が人々を束縛し、苦しめていたのです。イエス様はあえて、本当の安息日の意味を教えるために、人々に癒しと解放を与えたのです。2つ目は、「安息日は良いことをすることは正しい」ということを教えるためです。彼らは安息日を「あれしてはいけない」「これしてはいけない」と消極的にとらえていました。そして、つまらない規定をたくさん定めていました。イエス様は安息日に癒しを行うことによって、良いことをする日として新たな意味を加えました。イエス様は「安息日の主」ですから、真の意味を教え、改定することも可能だったのです。このところから、信仰というのは窮屈なものではなく、自由と解放があるということが分かります。

 私は日曜日、礼拝を捧げることができるのはクリスチャンの特権だと思います。もし、聖日礼拝厳守だと言って、天国に行くまでの律法として捉えるならどうでしょう。それは義務になり、しかたなく守るという風になります。旅行も諦め、楽しみも諦め、朝寝坊も諦め礼拝を守り続けるのです。私の母教会では「聖日礼拝厳守」と言われてきましたが、私は律法主義がいやなのでほとんど言いません。礼拝を休んだとしても、さばいていません。でも、特別な理由がないのに休まれると、正直、がっかりします。律法の反対は恵みですが、恵みは悪く捉えると甘えや奔放になるかもしれません。それでも、私は日曜日の礼拝は特権であり、恵みであると信じます。もし、日曜日を休まないで仕事をし続けたらどうなるでしょう。また、日曜日が休みだからと行って、礼拝にも行かないでレジャーやショッピングに出かけていたらどうなるでしょう。「それは本人の自由ですから強制できません」と言うでしょうか。でも、多くの日本人は日曜礼拝を守らないので不幸になっています。なぜなら、ずっとこの世のことに神経と感心が行っていたらどうなるでしょう。また、スマホとかテレビなど、この世の情報に捕らわれていたらどうなるでしょう。この世に占有されてしまい、神の像に似せて造られた人間の尊厳が失われます。日曜礼拝を守るためには、日常の生活を一端断ち切って、教会に来なければなりません。この世とは、全く違う観点から物事を考えらせられます。神さまの視野、神さまの価値観が与えられます。礼拝は内なる人が新たにされるために、とても重要なひとときです。神の生けることばから信仰と慰めと希望、罪の赦し、癒しをいただくことができます。ある時はチャレンジとか命令をいただくでしょう。日曜日、一旦休んで礼拝を守っている人と、この世でずっと生きている人とでは全く違ってくるでしょう。日本人の多くはストレスによって病気になり、鬱になり、心が怒りに満ちています。そんな不健康な生活をしているのに、お酒や世の楽しみで解消できるでしょうか?創造主なる神さまのもとに、贖い主なるイエス様のもとに、慰め主なる聖霊様のもとに来るべきです。そして、負えない重荷を置き、神さまにゆだねるのです。そうすると、バッテリーが充電されるように、新たな力をいただくことができるでしょう。イエス様が安息日に病や障害を癒されたように、礼拝に来ている方々にもそのようにしてくださると信じます。ですから、日曜日、礼拝を捧げることができるのはクリスチャンの特権だと思います。

 イエス様は「安息日に良いことをすることは、正しいのです」と言われました。日曜日、CS奉仕、礼拝の賛美や奏楽の奉仕、案内、送迎、食事当番などたくさんあります。夜遅くまでやってはいけませんが、神さまから召されているなら奉仕していただいたら感謝です。当教会は使命というよりもむしろ賜物の方に重点を置いています。もちろん好きでなくても、しなければならないことはあります。でも、神さまの奉仕は神さまご自身がその人に賜物と情熱を与えてくださると信じます。どうか奉仕をしていない人をさばかないでください。私は教会という建物の中で行うことが奉仕のすべてだとは思いません。平日、あなたが遣わされているところ、家庭や職場や地域社会でも奉仕はできます。でも、仕事と奉仕の境目は何でしょうか?仕事の場合はお金のためですから、宮使いもするし、嫌な頭も下げるでしょう。奉仕の場合は、「1ミリオン行け」という人に、2ミリオン行くことだと思います。お金や義務のためではなく、神さまの命で行う行いです。「本来、妻がやるべきことだけど私がやります」というのも奉仕です。神さまの御目のもとでやるならどこででも奉仕があります。日曜日の奉仕は、普段使わない筋肉を使うようなものです。アメリカの教会では、ナーサリーといって、小さな子どもをあずかる奉仕があります。誘拐とかある物騒な国なので、とても重要な奉仕です。ナーサリー室で一緒に遊んでいる男性がいました。遊んでいるというより遊ばれているという感じでした。なぜなら、小さな子どもたちが寄ってたかって馬乗りになっているからです。もう、その人も汗だくです。「普段は何をなさっているんですか」と聞くと、「弁護士です」という答えが返ってきました。「弁護士が理屈も分からない子どもたちと一緒に遊ぶなんて!」驚くかもしれません。おそらくその人は、普段していることと全く違うから疲れないのかもしれません。まさしく、別の筋肉、別の脳を使っているということなのでしょう。教会では「奉仕」というものが多いのですが、これはボランティア精神の元になった考え方だと思います。この世はギブ・アンド・ティクの世界です。ただ働きは嫌です。でも、考えてみると多くの良きものは創造主なる神さまからいただいたものです。自分でかせいで得たものはそれに比べるとわずかでしょう。自分の能力や賜物や体力すらも、創造主からいただいたものです。ある人は、自分だけが一生懸命やっていて、他の人は何もやっていないとさばく心があるでしょうか?北陸に重度の知的障碍者の施設があります。そこでは鶏を飼っていて、生みたての卵をいただくことができます。ある時、施設長が「この鶏は年なのでもう卵を産めない。だから潰して食べてしまおうか」と言ったそうです。障碍者の子どもが「そんなことをしてはいけない。なぜなら卵を産む鶏は、卵を産めない鶏のためにも一生懸命、産んでいるのだから」と言ったそうです。

きょうは「安息日の主」というテーマで学びました。これは「働け」とか「奉仕しろ」という教えではありません。むしろ「ちゃんと休みなさい」という教えです。それでなくても日本人は仕事中毒です。クリスチャンも平日ばかりか、日曜日も奉仕して、世の人たちよりも大変なところがあります。ですから、休むことに罪悪感をもってはいけません。休むことによって、心も体もリフレッシュされるからです。詩篇1272「あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」神さまは私たちが休んでいる間でも、必要なものを備えてくださるということです。クリスチャンはこの世にいながらも、すでに神の国に入って生活しています。神さまは世界の創造主であり、供給者です。そして、イエス様は神の国の王様です。もし、私たちが神の国の住民であるならば、神さまの保護と守りが必ずあるはずです。地上の国においては国民年金とか厚生年金が十分でないかもしれません。同じように、神の国において財政が不足して、私たちはひもじい生活を余技なくされるのでしょうか?そうではありません。イエス様はマタイ6章でこのように言われました。マタイ626「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」アーメン。

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