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2016年10月 7日 (金)

本当の安息 マタイ11:25-30 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.10.9

 聖書のみことばは食べ物にたとえられています。柔らかい食物もあれば、堅い食物もあります。柔らかい食物とは初心者向けのみことばです。赤ちゃんや幼児はミルクとか離乳食を食べるのと同じです。また、堅い食物とは信じた人が成長するための栄養価の高いものです。肉や魚、苦いピーマンとかヒジキも食べなければなりません。きょうの聖書箇所はまさしく、霊的に柔らかい食物と堅い食物の両方が出てきます。ある人たちは柔らかいみことばを食べて、堅いみことばを捨ててしまいます。そうすると、霊的な大人として成長できません。信じてクリスチャンになった人は、キリストの弟子にふさわしい堅い食物もいただかなければなりません。 

1. 本当の信仰

 マタイ11章にはどのようなことが書かれていたでしょうか?バプテスマのヨハネが荒野に現れて福音を伝えました。ところが多くのユダヤ人は「笛吹けど踊らず」の状態でした。残念ながら、ガリラヤ周辺の人たちは悔改めませんでした。イエス様は「もし、力あるわざがツロとシドンで行われたなら、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。もし、力あるわざがソドムでなされたのだったら、彼らは滅びないできょうまで残っていたことだろう」と嘆かれました。皮肉にも福音を信じて、神の御国に入ったのは、宗教的で正しい人たちではなく、取税人や遊女たちでした。マタイ1125-26そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」どういう人たちが福音を信じて救われるのでしょうか?イエス様は「賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました」と言われました。福音は啓示であり、神から隠されているものです。アメリカの標準訳には、「賢者やインテリではなく、babes赤ん坊に現してくださる」と書いてあります。他の箇所で、イエス様は「子どものようにならない限り、決して天の御国には、入れません」(マタイ183と言われました。子どもは疑うことをしません。良いものであればすぐいただきます。ところが、年を取って知識や経験を得るとだんだん、天の御国から遠ざかります。何故でしょう?神のことばよりも、自分の知識や経験に頼るようになるからです。「聖書なんか時代遅れだ、非科学的だ。何が神さまだ、何が天国だ。」と笑うでしょう。J.Cライルという人は「福音は謙遜な人、純真な人、学ぶ心のある人に現される。知性を誇る人、富を誇る人、自分の善行を誇る人には隠されている」と言いました。

 また、自分の意思や決断で信じることができるかというとそうでもありません。ある人たちは、「信じるときはいつでも信じるよ。だけど今ではない」と言うかもしれません。でも、それは本当でしょうか?マタイ1127「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」父なる神から、イエス様に権限が渡されました。どんな権限でしょうか?イエス様が望む人に福音が開かれるということです。「心に定めた」という背後には、イエス様の選び、イエス様の主権があります。つまりは、イエス様が望まなければ、人は福音を信じて救われることがないということです。ヨハネ6章でイエス様はこのように言われました。ヨハネ644「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」つまり、私たちは、父なる神さまの招きとイエス様の許しがなければ信じて救われることはできないということです。だから、「自分が信じたい時に信じる」というのは無理なんだということです。ジョン・カルヴァンは「予定論」を唱えました。「神さまがどんな人をお救いになるか既に予定している」ということです。さらにカルヴァンは「神さまによって遺棄されている人(滅びる人)も予定されている」とまで言いました。大半の教会は、それでは伝道する気持ちがなくなるので、「神の予知」ぐらいにとどめています。ペテロはこのように言っています。Ⅰペテロ12「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」私たちが選ばれて救われるためには、神の予知、聖霊の聖め、キリストの血の注ぎかけがあったということです。ですから、私たちは「自分で信じてやった」みたいな傲慢な考えを捨てなければなりません。福音を信じて救われたのは、神さまのあわれみであり、恵みであったということです。自分で信じたと思っている人は、疑いが生じたときに、信仰から離れるでしょう。しかし、神さまから信じさせてもらったという人は、神さまの信仰のゆえに信仰から離れることができません。

 あるとき、ペテロたちが舟でガリラヤ湖を渡ろうとしました。しかし、向かい風のために何時間も漕ぎ悩んでいました。その時、真っ暗な湖の上を人が歩いてくるではありませんか。弟子たちは「幽霊だ」と恐れました。しかし、その方はイエス様で「私だ。恐れることはない」と言われました。ペテロは「主よ。もし、あなたでしたら、私に『水の上を歩いてここまで来い』とお命じになってください」と言いました。イエス様が「来なさい」と言うと、ペテロは勇敢にも舟から出て、水の上を歩いてイエス様の方に行きました。ところが、風を見て、こわくなり沈みかけました。「主よ。助けて下さい」と叫びました。イエス様はすぐに手を伸ばして、彼をつかんで助けました。大川牧師は、イエス様に救い出されているペテロの絵を見たことがあるそうです。あまりにも表現がすばらしかったので、実際に見たような気がしました。その絵は、イエス様がペテロの手首をつかみ、ペテロがイエス様の手首をつかんでいたそうです。もしも、イエス様が握手をするように、ペテロの手の平をつかんでいたらどうなるでしょう?つるっと抜けてしまうかもしれません。しかし、ペテロの手首だったら、ペテロが手を放しても大丈夫です。それはまるでお母さんが子どもの手首をつかむのと同じです。信仰も同じで、イエス様が私を握っておられるのです。私たちの方がたとえ手を放すときがあったとしても、イエス様が私たちを離さない、これが本当の信仰です。Ⅱテモテ213「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」真実は英語の聖書では、faithfulになっています。Faithfulは、「信義にあつい」「信仰心のあつい」という意味もあります。つまり、私たちの信仰でやっていけない時があったとしても、イエス様の信仰によって捕えられているということです。これから先、試練の嵐に襲われたり、老後でボケたとしても大丈夫だということです。イエス様が私たちを握って離さない、これが本当の信仰です。私たちは最初「私が発見して、私が信じてやった」思うかもしれません。でも、そういう信仰は自分の気持ちや環境に左右されて、ある時は山の頂で、ある時は谷底になるかもしれません。しかし、信仰生活が続くとどうでしょう?「私がイエス様から見い出されたんだ。主のあわれみによって信じることができたんだ」となります。私たちは恵みによって本当の信仰を持つところまで行きたいと思います。

2. 本当の安息

 今からお読みするマタイ1128はとても有名なことばであり、教会の入口の看板によく書いてあります。マタイ1128「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」このことばをまともに信じた人が、「ごめんください。休ませてください」と入ってきたそうです。そのためある教会は、丸いテーブルとイスを用意して、いつでも人が休めるようにしたそうです。でも、へそが曲がった人は、このみことばを読んでどう思うでしょう。「疲れてなんかいないよ。馬鹿にすんな」と反発するかもしれません。みなさんはイエス様のこの呼びかけに慰めを得るでしょうか?私たちはこのみことばを理解するために、当時の人たちのことを考えなければなりません。当時の人たちはモーセの律法と言い伝えなどたくさんの重荷を負わされていました。なぜなら、パリサイ人や律法学者が自分たちも守れないような律法を強要したからです。現代の日本はどうでしょうか?律法は英語でnormと言いますが、規範、標準、平均成績という意味です。よく「ノルマを果たせ」と言われます。学校でも会社でも果たさなければならないノルマがあるのではないでしょうか?昔はソ連が言った「ノルマ」を笑いましたが、契約社員は本当に肩身が狭いでしょう。また、日本では「言い伝え」の代わりに、「世間体」とか「人の目」があります。人から笑われないように、恥をかかないように生きています。そのため精神が病んでしまい、外に出られない人もいます。そして、全人類に共通している「重荷」とは、罪とのろいの結果です。アダムとエバが罪を犯してから、エデンの園から追い出され、やがて死ぬようになりました。土地にはあざみといばらが生えました。男は顔に汗を流して糧を得、女には生みの苦しみが与えられました。妻は夫を恋慕うけれど、夫は妻を支配します。兄弟同士が憎みあい、民族同士が互いに争うようになりました。

 イエス様は天から降りて来られ、この地上の人たちをごらんになられました。「羊飼いのない羊ののように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」(マタイ936。私たちは生まれた時から、そのような環境で生きてきたので、何とも思いません。しかし、イエス様がこの地上をご覧になったとき、「神さまのノルマ(標準)からなんと離れているんだろう!」と驚かれたのではないでしょうか?だから、イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とおっしゃったのです。「休み」というのは「安息」であり、ヘブル人への手紙では「救い」を表わしています。ヘブル43「信じた私たちは安息に入るのです」と書いています。つまり、イエス様のこのことばは救いの招きのことばであります。罪と呪い、さまざまな思いわずらい、義務、病や苦しみを自分で負わないで、私のところへ持って来なさい。私があなたがたを救ってあげますという意味です。つまりどういうことかというと、私たちには負って良い重荷と負ったために潰れてしまう重荷があるということです。特にそれは罪と呪いであり、またその結果からくる重荷です。イエス様が人となってこの地上に来られたのは、神の子が身代わりにそれらを負って、解決するためであります。イザヤ書53:4 「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」、53:6「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」とも書いてあります。この預言が実現したのは、イエス・キリストの十字架であります。イエス様が私たちの身代わりに、病、咎、のろいを負ってくださったのです。ヒル・ソングに「イエス・ロード」という賛美があります。直訳するとこのようになります。「私は私の悲しみをトレードしています。私の恥をトレードしています。主の喜びを得るために、それらを降ろします。私は私の病をトレードしています。私の痛みをトレードしています。主の喜びを得るために、それらを降ろします。イエス・ロード、イエス・ロード、イエス・ロード、アーメン。」トレードは「交換する」「売買する」という商業用語です。イエス様は十字架で「すべてが完了された」と言われました。ギリシャ語ではテテレスタイという商業用語ですが、「一回ですべての負債が支払われた」という意味です。イエス様が全額支払っているのに、「いや、私が支払います」というのは神さまに対する侮辱ではないでしょうか?まず、私たちはイエス様の招きに応じて、すべての悩み、すべての恥、すべての重荷をイエス様にゆだねるべきであります。そうすれば、休みという救いが与えられます。これは私たちが通らなければならない最初の関門です。

 その次にイエス様は何とおっしゃったでしょうか?マタイ1129-30「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」伝道集会では、28節しか言いません。救われてからどうするかを語らないので、本当の休みが来ないのです。聖書を良く見ると、28節に「休ませてあげる」と書いてあります。そして、29節には「たましいに安らぎが来る」と書いてあります。日本語では違いますが、ギリシャ語も英語も同じことばです。どちらも「休み」あるいは「安息」です。つまり、イエス様を信じたときに休みと安息が与えられます。でも、私たちはこの世に生きているので、次から次と問題や悩みが襲ってきます。たとえば、日曜日礼拝で「すべての悲しみ、すべての恥を、すべての病、すべての問題を捨ててしまおう。イエス・ロード、イエス・ロード、イエス・ロード、アーメン」と賛美します。ところが家に帰ると新たな悲しみ、新たな恥、新たな病、新たな悩みが待っています。一か月ふりかえると、なんだかちっとも変ってないような感じがします。「捨てては拾い」「捨てては拾い」の繰り返しです。なぜでしょう?イエス様は「そうすればたましいに安らぎ(安息)が来ます」と言われました。その安らぎは、世の中にいろんな悩みや問題があったとしても影響されない、たましいの安らぎ(安息)であります。では、どうすればよいのでしょうか?

 イエス様は「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」と言われました。そうです。私たちがイエス様を信じて救われた後、イエス様のくびきを負って、イエス様に学ぶ必要があるということです。まず、「学ぶ」とことばは、イエス様に見習うという意味です。「学ぶ」はギリシャ語ではマセチューオーで、「弟子になる」という意味があります。つまり、イエス様の弟子としてイエス様に学ぶということです。そうすれば、たましいに安らぎが来ます。これは一時的なものではなく、継続的に与えられる安らぎです。では、具体的にどのように学ぶのでしょうか?このところでイエス様は「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」と言われました。現代の人は「くびき」を知りません。これは二頭の馬、もしくは二頭の牛が一緒に作業するために首にかける農具です。農夫は、真っ直ぐな横木を二頭の牛に固定して、耕作をしたり、荷物を運びました。エディ・レオ師がわかりやすく教えてくださったことがあります。力があり経験豊富なベテラン牛はイエス様です。新米の牛は私たちです。農夫は、新米牛が一人前に作業ができるようになるために、あえてベテラン牛と組ませます。ベテラン牛は経験豊富で仕事を途中で投げ出したりしません。しかし、新米牛は仕事があきてくると「休みたい。草が食べたい」と横道にそれます。するとベテラン牛は「だめだ。今は仕事中だ」とひっぱります。新米牛は首がいたいので、仕方なくベテラン牛に従います。イエス様は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」と言われました。イエス様は地上で大工でした。だから、イエス様が作るくびきはなめらかで、一人一人に合っています。しかも、力あるイエス様が一緒に負ってくれるので、自分の荷は軽いのです。ある時はぶらさがっていても大丈夫なのです。しかし、イエス様に学んでいくと、技術も増し力もついてきます。そして、その人のたましいに安らぎがきます。

 では、救われたときの「安息」とイエス様に学んだあとの「たましいの安息」はどこが違うのでしょうか?救われたときの「安息」は、天の御国に入ったという「安息」です。これは、根本的な安息であります。ところが救われてからがまた大変なのであります。何が大変かというと、自分の肉とこの世の誘惑に勝利していかなければならないからです。あるクリスチャンは「イエス様を信じると悩みがなくなるよ」と伝道します。しかし、それは嘘です。イエス様は「この世では悩みがある」(ヨハネ1633口語訳)と言われました。天国という安息に入るまで、私たちには乗り越えるべき試練や戦いがあるということです。では、どうして神さまは救われたら、すぐに天国に入れてくれないのでしょうか?そこには2つの理由があります。1つは果たすべき使命があるということです。人々に仕え、家庭を治めながら福音を宣べ伝えていく必要があります。もう1つは、神さまは救われた私たちがイエス様に似るように、あえて試練や戦いを通されるということです。ある時は叩かれ、ある時は削られ、ある時は擦られて、イエス様のような似姿に変えられていくのです。それはまるで彫刻師がノミを手にして石から作品を彫り出すようなものです。神さまも私たちに試練というノミを打ち付けます。私たちは「痛いから、やめてくれ」と叫びます。それでも容赦なく、ノミが打ち付けられます。するとどうでしょうか?だんだんとイエス様に似た姿になってきます。最初は荒削りの信仰でしたが、だんだんしなやかでシャープな信仰になってきます。簡単に泣いたり、叫んだりしません。なぜなら、たましいに深い安息があるからです。ある人たちは洗礼を受けた時は「ハレルヤ!」と喜んでいます。半年もたたないうちに試練がやってきて、教会の礼拝も休みがちになります。本人はだれかに躓いたと言うかもしれません。「躓き」は英語でバイトといいますが、悪魔が差し出した餌に食らいつくことであります。躓かせる人や悪魔も悪いのですが、躓いてしまう要素がその人の中にあるということです。しかし、イエス様と一緒にくびきを負うならば、乗り越えられます。そういう時こそ、イエス様が言われたことばを思い出さなければなりません。「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」アーメン。

 イエス様はあえてご自分を「わたしは心優しく、へりくだっているから…」と言われました。英語の聖書ではmeek and lowlyです。「柔和で謙遜な」という意味です。イエス様は「もうお前にはうんざりした」と諦めたり、捨てたりしません。ずっと最後までご一緒してくださるのです。8月のオリンピックでは日本はたくさんのメダルを取りました。私は二人の水泳の選手を忘れられません。一人は200mバタフライで銅メダルをとった星奈津美選手です。彼女はバセドウ病の手術を乗り越え、昨年の世界選手権で金メダルを取りました。しかし、その責任、重圧の重さにも苦しんでいました。平井コーチから「世界チャンピオンのプライドなんて捨てろ。きみが諦めないなら、とことん付き合うぞ」と言われ、落ち着きを取り戻したそうです。もう一人は200m平泳ぎで金メダルをとった金藤理絵選手です。この人はメダルが取れなくて、一時引退も考えました。彼女が金メダルと取った時「加藤コーチのことを信じ続けてきて本当によかった」と言いました。両者ともコーチと二人三脚でとったメダルだと言っています。このような例は他にもたくさんありますが、良い選手には良いコーチが着いています。良いコーチというのは、上から目線ではなく、選手と一緒に考え、一緒に戦う人であります。イエス様も上から目線ではなく、「心優しく、へりくだっている」人生のコーチであります。なぜなら、イエス様ご自身が、苦しみを受け、恥を受け、拒絶を受けたことがあるからです。このイエス様が手をとり二人三脚、いや「くびき」を負ってくださいます。イエス様と共に歩み、たましいの安らぎを常にいただきましょう。

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