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2016年9月30日 (金)

奪い取る信仰 マタイ11:12-24 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.10.2

 マタイによる福音書に「求めなさい。そうすれば与えられます」と書かれています。聖書は、神さまにひたすら求めた人の記事であふれています。神さまはどんな人を愛されるのでしょうか?2000年前、イエス様はガリラヤで福音宣教を開始され、多くの奇蹟を行いました。では、人々は福音を信じて、神の国に入ったでしょうか?それとも、無関心を装い神の国に入ろうとしなかったでしょうか?それでは、どんな人が神の国に入ったのでしょうか?

1. 奪い取る信仰

 最初、バプテスマのヨハネが福音を伝えました。その後、イエス・キリストが福音を伝えました。福音は「喜びの訪れ」という意味ですが、反面、福音には恐ろしい力があります。なぜなら、信じる人と信じない人の2つに分けてしまうからです。「求道中」とか「検討中」という便利なことばもあります。しかし、福音を何度も聞いていているのに信じないならば、厳しいさばきを受けることになるでしょう。イエスさまが地上におられた時代、どういう人たちが福音を信じて、どういう人たちが福音を信じなかったのでしょうか?マタイ1116-17「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』」イエス様がたとえている人たちは、神さまを信じているユダヤ人であります。彼らの多くは「私たちの先祖はアブラハムなので救われている」と信じていました。バプテスマのヨハネが荒野に現れ、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と宣教を開始しました。ところが彼らは無関心を装い、信じようとはしませんでした。イエス様はその時代の人を身勝手で気まぐれな子どもにたとえています。「笛を吹いても踊らなかった」とは結婚式の遊びのことです。また、「弔いの歌を歌っても、悲しまなかった」とはお葬式の遊びです。ユダヤ人は子どもたちと同じように、「天の御国が近づいた」と言われても、応じようとはしませんでした。マタイ1118-19「ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。」ヨハネが食べなければ「悪霊につかれている」と言うし、イエス様が食べると「食いしんぼうの大酒のみ」と言うし、つむじ曲がりで、心がひねくれています。

 ところが福音を信じたのは、意外な人たちでした。マタイ1112「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」このところに、「激しく」ということばが2回でてきます。英語の聖書はviolent「暴力的な」という言葉が使われています。バプテスマのヨハネ、次にイエス様が天の御国を提示しました。ユダヤ人たちは無関心を装っていました。しかし、一部の人たちは「こんなすばらしいことはない」と御国の門に体当たりして、力づくでも開けようとしたのです。英語の詳訳聖書では「尊い賞品を熱心に、一心不乱に探し求めるように」と解説しています。まるで、それはデパートのバーゲンセールみたいであります。開店と同時に目指す売り場に殺到します。ご婦人たちは、恥も外聞もかなぐり捨てて良いものをあさります。同じように、天の御国に力づくでも入ろうとするということです。なんと、ユダヤ教徒たちではなく、予想外の人たちが御国に入ったのです。では、最初に御国に入った人はどういう人たちだったのでしょうか?また、いつから人々は御国に入ることができるようになったのでしょうか?その答えは、マタイ21章にあります。マタイ2131「イエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。』」バプテスマのヨハネが最初に福音を伝えました。すると、宗教的な指導者たちはヨハネを信じませんでした。ところが、取税人や遊女たちが最初に信じて神の国に入ったのです。まさしく、取税人や遊女たちが「激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」ということなのです。何と言う皮肉でしょう。聖書を良く知っている人たちではなく、罪を犯して救いから洩れているような人たちが御国に入って救いを得たのです。では、いつから人々が御国に入れたのでしょうか?それはバプテスマのヨハネが福音を伝えた時からです。私たちはイエス様が十字架で贖いを成し遂げ、復活された後ではないかと考えます。確かに、それ以降、天の御国の門は大きく開けられました。でも、少数ではありましたが、バプテスマのヨハネが福音を伝えた時から人々は天の御国に入ることができたのです。もっとも、暴力的なまでに熱心にならなければ入れなかったかもしれません。

 私は「奪い取る信仰」と言った理由は「天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」と書いてあるからです。クリスチャンは成熟すればするほど、「みこころのままに」と受身的になります。「奪い取る信仰」というのは全く肉的に思えるでしょう。しかし、信じたのは宗教的でまじめな人たちではありませんでした。なんと、取税人や遊女たちが福音を信じて、神の国に入ったのです。聖書の神さまは人格や品性よりも信仰のある人を喜ばれるようであります。ヘブル116「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」と書いてあるからです。旧約聖書のヤコブと言う人物は、まさしく「奪い取る信仰」の典型でした。ヤコブは双子でありましたが、一寸早く、エサウが生まれました。そのため、エサウに長子の権利が行きました。ヤコブはそれが欲しくてたまりませんでした。あるとき、エサウは一杯の食物と引き替えに長子の権利をヤコブに売ってしまいました(ヘブル1216)。またヤコブは、年とって目が見えなくなっていた父イサクをだまして祝福を横取りしました。そのとき、エサウが言ったことばがとても印象的です。創世記2736「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」兄エサウは「彼の名がヤコブというのも、このためか」と言いました。「ヤコブ」の意味は「かかと」でしたが「騙す者」という意味もありました。エサウは「二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった」と言いました。このところに、「奪い取る」ということばが二回出てきます。まさしく、ヤコブは奪い取る信仰の持ち主でした。でも、そういうヤコブを主は愛しました。彼は父の家を逃げ出して、おじラバンの家にむかう途中、日が暮れてしまいました。荒野でヤコブが石をまくらにして寝ていると、夢のうちに主が現れてくださいました。そして「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、・・・決してあなたを捨てない。」と言われました。ヤコブは夢からさめて、こう言いました。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ」(創世記2817と言いました。このところに、「天の門」と書いてあります。ヤコブは天から地に向けられている梯子を見ました。なんと、神の使いがそのはしごを上り下りしていました。ここに書かれている「天の門」は新約聖書の「天の御国」と同じではないかと思います。つまり、ヤコブは騙す者、奪い取る信仰の持ち主でした。でも、そういうヤコブに神さまは天の御国を開いてくださったのです。

 私は1979年イエス様を信じて、洗礼を受けました。その直後、「奪い取る信仰」を学びました。洗礼を受けて半年後、聖書学院の基礎科に入学しました。目立ちたがり屋で肉の匂いぷんぷんのクリスチャンでした。まさしく、ホーリネス(聖い)教団には向かない人物でありました。その頃、韓国の申賢均師やチョーヨンギ師と出会いました。リバイバルまっさかりの韓国の大きな教会も見学に行きました。続いて、ロバート・シュラーの「可能性思考」にも触発され、「奪い取る信仰」で行こうと思いました。あれから37年、私も随分ときよめられました。きよめられた分、「奪い取る」というよりも、「備えられているものをいただく」という受身の信仰になりました。しかし、いくら成熟したとしても、神さまに求め続けるという信仰は失うべきではないと思います。ヤコブは20年後、エサウがいる故郷に帰ることになりました。しかし覚悟がつかなくて、ヤボクの渡しで天使と格闘しました。ヤコブは「私を祝福してくださらなければ、あなたを去らせません」(創世記3226と言いました。その時、天の使いは「あなたの名はヤコブとは呼ばれない。イスラエル(神の王子)だ」言われました。その時、ヤコブはきよめられたのです。では、その後、ヤコブはどうなったでしょうか?ヤコブになったり、イスラエルになったりしました。ある時は、肉がまさったということです。神がモーセに現れたとき、「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト315と言いました。なぜ、神さまは「イスラエルの神」と言わず、「ヤコブの神」と言われたのでしょうか?それは、神さまはどんな状態であろうと、信仰をもってご自身に近づく者を愛し続けるということです。だから、ヘブル11章には「それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした」と書いてあります。神さまは天の御国と祝福を奪い取るほど熱心に求める人を愛してくださるのです。

2. 故意の不信仰

 マタイ1120-24「それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」このところを読むとあまり恵まれません。なぜなら、イエス様は当時の不信仰な人たちを責めているからです。私たちはこれまで、イエス様がガリラヤ周辺を伝道して、奇蹟を行ってきたことを学びました。「さぞかし、多くの人たちが福音を信じて、救われたのではないだろうか」と想像するのは自然ではないでしょうか?なぜなら、預言者ではなく、神の御子が直々、地上に現れて福音宣教したからです。それも、奇蹟やしるしを行って天の御国のことを教えられました。長い歴史の中で、これ以上、恵まれた時代はないはずです。でも、イエス様の嘆きようはどのようなものでしょうか?

 まず、このところに出てくる、コラジンとかベツサイダ、そしてカペナウムはどこにあるのでしょうか?それはガリラヤ湖の北西にある町々の地名です。恐らく、イエス様が最初に伝道した場所であり、彼らはたくさんの奇蹟を見たでしょう。特にカペナウムはペテロの家があるので、そこに多くの人たちが集まりました。そこでも多くの病人たちが癒され、悪霊も追い出されました。なのに、どうして悔い改めて、福音を信じなかったのでしょうか?イエス様は天の御国を実際に見えるかたちで教えてくださいました。それが、病の癒しであり、力あるわざでした。悪霊が追い出され、死人さえよみがえらされました。それらのことが、天の御国がこの世に突入して来ている証拠だったのです。ビル・ジョンソンという牧師が『天が地に侵入するとき』という本を書いています。原題はWhen Heaven Invades Earthです。Invadeは「他国を侵略する」「征服する」という意味です。この本の中から少し引用させていただきます。「カペナウムでの油注ぎは非常にすばらしく、いくつかの翻訳では、彼らは天に上げられたと言っています。これはカペナウムの人々の奇蹟の領域が大きかったので、イエスは、その町を地上のどの町にもまして、天国のようにされたということなのでしょうか。もしそうだったとするなら、カペナウムは、しばらくの間、『みこころが天で行われるように、地でも行われる…』見本となった訳です。彼らはイエスの大いなる働きのためその場所は設けましたが、彼らの人生を、イエスに焦点を当て、自分を変えるまでには至らなかったのです。」アーメン。簡単に言うと、カペナウムの人々は奇蹟自体を喜んだかもしれません。しかし、イエス様を自分の人生の中心に据えなおすことをしませんでした。ただ、今あるものの上にもう1つ新しいものを付け加えただけに留まったということです。イエス様は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」とおっしゃいました。「天の御国」とは神の王的な支配という意味です。そして、「悔い改める」というのは、「人生の見方と考えを変えて、イエス様を王として心にお迎えする」ということです。最初に「激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」と言いました。だから、自分を捨てるくらい熱心にならないと天の御国には入れないということです。天の御国がこの地に侵略して来ています。そのため、こちらは人生と命を賭けなければなりません。天の御国は人生を賭けるほど価値のあるものなのです。マタイ1344「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」アーメン。

 でも、彼らはイエス様がなさった奇蹟を見ても、悔い改めて福音を信じようとしませんでした。イエス様はそのことに怒りを覚えながらこのように嘆き悲しんでいます。「もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。…おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」ツロとシドンは地中海沿岸にある商業都市でした。エゼキエル28章に書かれていますが、海上貿易で得た富によって高ぶりました。現代で言うなら、エコノミックアニマルです。紀元前4C.ギリシャによって滅ぼされ「大いなる町ツロは漁師が網を引く場所となりました」(エゼキエル265,14。一方、ソドムはゴモラと並んで性的に乱れた町でした。創世記に書かれていますが、火と硫黄によって滅ぼされました。ツロは高慢と偶像礼拝、ソドムは不道徳と不品行、どちらも大きな罪であります。しかし、イエス様はそういうひどい町の方が、まだましだというのです。なぜでしょう?もし、ツロとシドンでイエス様がなされた奇蹟を見たなら、彼らは荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていただろうということです。もし、ソドムでイエス様がなされた奇蹟を見たなら、彼らは悔い改め、その町は今でも残っていただろうということです。高慢と偶像礼拝、そして不道徳と不品行よりも、大きな罪は不信仰だということです。なぜなら、彼らは神の子イエス様から直接、福音を聞きました。さらには、天の御国が来ている証拠としての、病や障害の癒し、悪霊の追い出し、死人のよみがえりまでも直視することができました。それなのに悔い改めて、信じようとしなかったのです。

 イエス様のこのようなことばを聞くと、耳が痛くなる人はいないでしょうか?それはどのような人たちでしょうか?福音を定期的に聞いても、回心まで至らない人がいるかもしれせん。もちろん、救われることは神さまの奇蹟でありますが、魂の飢え渇きがないとしたら残念です。「私は罪を犯していません。高慢でもないし、偶像も拝んでいないし、不道徳なこともしていません」とおっしゃるかもしれません。でも、福音を何度も聞く機会があり、神さまの奇蹟を体験していたなら、言い逃れはできません。高慢と偶像礼拝、そして不道徳と不品行よりも、大きな罪は不信仰だということです。韓国の話ですが、ある女性が、お腹が痛くなり病院にかつぎこまれました。彼女は「神さま、今度こそあなたを信じますから、どうか癒してください」と祈りました。すると即座に良くなり退院することができました。それから彼女はあの祈りをすっかり忘れ、身勝手な生き方をしました。数年後、また、お腹が痛くなり病院にかつぎこまれました。彼女は「神さま、今度こそあなたを信じますから、どうか癒してください」と祈りました。すると即座に良くなり退院することができました。それから彼女はあの祈りをすっかり忘れ、身勝手な生き方をしました。数年後、また、お腹が痛くなり病院にかつぎこまれました。彼女は「神さま、こんどこそあなたを信じますから、どうか癒してください」と祈りました。神さまの声が聞こえました。「もう今度はありませんよ」と。漫画のような話ですが、これは実際にあったことであると説教で聞いたことがあります。田舎に住んでいるため一生に一回しか福音を聞いたことのない人もいるでしょう。また、教会に行く機会があり、何十回も福音を聞く機会のある人もいるでしょう。両者とも死んで、神さまの前に立ったとき、どちらが多く裁かれるでしょうか?それは、福音を何度も聞いても信じなかった人です。終わりの時代は、人々の愛が冷えるばかりか、反キリストの霊が働きます。信仰の篤い人はますます信仰が篤くなり、信仰のない人はますます頑なになります。つまり、信仰のある人とない人の差が極端になるということです。

 イエス様はルカ19章でミナのたとえを話されました。ミナのたとえは、タラントのたとえ違って、みんなに1ミナずつが与えられました。賜物はひとり一人違います。しかし、信仰はクリスチャンであるならみな与えられています。問題は生きているうちにそれを用いるか用いないかであります。ある人は1ミナで10ミナもうけ、ある人は1ミナで5ミナもうけました。ところが、一人の人はふろしきに包んでしまっておきました。彼はご主人からしこたま叱られます。主人はこう言いました。「その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。…あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです。」神さまは人格的に多少難があったとしても、信仰を用いる人を喜ばれます。旧約聖書のヤコブがそうでした。イエス様の時代はどうだったでしょう?パリサイ人、律法学者が戒めを良く守り、正しい生活をしていました。でも、彼らは福音を信じませんでした。どういう人たちが信じたかと言うと、取税人や遊女たちでした。行いや人間的な意味でも絶対救われそうもない人たちが、福音を信じて天の御国に入ったのです。聖書の神さまは逆転勝利を与える神さまです。一流大学を卒業しエリートコースを歩んでいる人たちがいます。地位と名誉とお金と財産を持って幸せに暮らしている人たちもいます。でも、それらのものと縁もゆかりもなくても、信仰があれば天の御国に入ることができるのです。天の御国に入ったなら、それらすべてに勝ち得て余りある人生です。結論的に言うと、悔い改めて天の御国に入ることが一番大切なことであり、かけがえのないことなのです。信仰が与えられていることを感謝しましょう。

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2016年9月26日 (月)

いのちのことば 亀有教会 バックナンバー・プレゼント

全国より亀有教会の礼拝ブログをご覧になって下さり心より感謝いたします。

これまでの説教(鈴木牧師のもの)をワードの原稿でプレゼントさせていただきます。

CDデーターで、ゆうメールでお送りします。ご希望の方は以下のメールで。

鈴木靖尋

kame.suzuki@bh.wakwak.com

 

 

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2016年9月23日 (金)

預言者以上の者 マタイ11:1-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.9.25

一人の子供が空に凧を上げていました。その日はあまり天気が良くなくて、上空に霧がかかっていました。子供はありったけの糸をのばしたので、凧が見えなくなりました。そばを通った人が、声をかけました。「ぼうや、何をやっているんだい」「凧を上げているんだよ」「エエ?どこだい、どこに凧があるんだい。君はただ、糸巻きを持っているだけじゃないかい」。少年は答えました、「ん、確かに凧は見えないけどわかるんだよ。だって、この糸に伝わってくるんだよ。凧が僕を引っ張っているのが分かるんだよ」。聖書の言葉から、見ないで信じる人は幸いです。 

1. 獄中のヨハネ

 マタイ3章に書いてありますが、彼は歯に衣(きぬ)を着せぬ預言者でした。ところが、その後、ヨハネは獄中に捕えられました。なぜでしょう?このことは、マタイ14章に記されています。国主ヘロデが弟ピリポの妻を奪いました。それをヨハネが「彼女をめとるのは不法です」と告発しました。それに対して、ヘロデが怒ってヨハネを捕らえて縛り、牢に入れたのです。少したって獄中のヨハネはイエス様のもとに弟子を遣わして「おいでになられるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」と聞かせました。マタイ114-6イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」イエス様は、直接答えるのではなく、ご自分がなさっていることを告げました。一体、これは何を意味しているのでしょうか?イザヤ書35章には「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。(イザヤ355-6)」と書いてあります。この箇所は、千年王国の預言であります。御国の完成時は、体の障害が全くなくなり、完全に癒されるということです。もう1か所、イザヤ61章には「主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」とあります。このところは、体の癒しというよりも、心の癒しが記されています。しかし、70人訳は「盲人には目の開かれることを告げるために」(ルカ418と訳しています。これら2つの箇所は、メシヤ預言として知られています。メシヤが来るとこのようなことが起こるということです。

 このあと、バプテスマのヨハネがイエス様のことばで納得したかどうかは記されていません。ただし、イエス様が「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」と言われました。このことから、もしかしたらバプテスマのヨハネは、イエス様につまずいて、あのような質問をしたのではないかと推測することができます。「だれでも」と書いてあるのは、ヨハネだけではなく、イスラエルのみんなが陥りやすいつまずきだということです。マタイ3章に戻って、バプテスマのヨハネのメシヤ観を少し調べたいと思います。彼は「必ず来る御怒り」「切り倒されて、火に投げ込まれる」「殻を消えない火で焼きつくす」と言っています。これは、メシヤが来たときに悪が裁かれるということです。しかし、どうでしょうか?イエス様がバプテスマを受けて、公生涯を始められました。相変わらずローマがイスラエルを支配し、パリサイ人やサドカイ人たちは律法を曲げていました。この世の罪や悪が全くさばかれないままでした。おそらく、ヨハネは「主のさばきが来ないじゃないか?ほんとうにイエスはメシヤなのだろうか?」とつまずきかけていたのではないかと思います。確かに旧約聖書の特に小預言書を見ると、主の日が来るとき、同時にさばきが起こると書かれています。マラキ41「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。」ヨハネだけではなく、当時のユダヤ人は「メシヤはローマに鉄槌を下して、イスラエル王国を再建させてくださる」と信じていたことでしょう。どうして、イエス様は神のさばきを下さなかったのでしょうか?どうして、社会を変えるのではなく、体の不自由な人を癒したり、福音を宣べ伝えておられたのでしょうか?

 このことはイエス様に従っていた弟子たちにも分かりませんでした。弟子たちも他のユダヤ人と同じメシヤ観を持っていました。だから、イエス様が十字架に付けられたとき逃げてしまったのです。その当時は隠されていましたが、メシヤは二度に渡って来られるのです。神学的にはクリスマスを初臨と言い、世の終わりに来られるのを再臨と言います。初臨、つまり2000年前、肉体をとって地上に来られたときはどういうメシヤだったのでしょうか?それは、さばきではなく、和解をもたらすためにやって来たのです。そのことが分かる描写が、後にイエス様がエルサレムに入城のときです。マタイ21章に書いてありますが、イエス様がエルサレムに、馬ではなくろばに乗って入ったということです。そのことはゼカリヤ9章に預言されています。「見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに」(ゼカリヤ99)。普通、王様は着飾った軍馬に乗るものです。ところがイエス様はろばに、それも子ろばに乗られました。イエス様が軍馬に乗っていたなら怖くて近づくことができません。しかし、子ろばに乗っていたならだれでも近づくことができます。しかし、世の終わりはどうでしょう?天の軍勢を従えて白い馬に乗って来られます。イエス様の顔は照り輝き、口からは剣が出ています。では何故、イエス様は一回ではなく、二回に分けて来られたのでしょうか?初臨は、人々に神の和解をもたらす平和の君として来られたのです。そのとき、御国の福音を宣べ伝えながら、人々の病や障害を癒してあげました。「御国とはこういうものだ」ということを見せたのです。そして、公生涯の最後に十字架について贖いのわざを成し遂げられました。ご自分が罪のなだめの供えものになったので、イエス様を信じる者はだれでも御国に入ることができるようになったのです。2016年、「今も恵みの時」です。しかし、それはいつまでも続きません。世の終わり、イエス様が再び来られるとき、収穫と裁きが同時になされます。まさしく、バプテスマのヨハネが預言していた、裁きが起こるということです。



 では、イエス様はなぜ2回に分けてこの世に来られるのでしょうか?その答えを解く鍵は、「福音です」。福音とは「良い知らせ」ですが、漠然としていてよく分かりません。イエス様は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われました。これは「天の御国が近づいたから、方向転換して入りなさいよ」ということです。天の御国とは、Kingdom of God神の王国であります。イエス様が王として治める王国です。でも、王様ひとりで王国は成り立ちません。そこには臣民(国民)が必要です。イエス様は神の王国を作ると同時に、臣民(国民)を集める必要がありました。かつてのエデンの園はもうありません。なぜなら、アダムが罪を犯したために追い出されたからです。もっと言うと、アダム以来の人は罪があるので、だれ一人として神の王国に入ることができません。御国に入る条件が強いているなら2つあります。1つ目は自分の罪が取り除かれることです。2つ目はイエス様を王として仰ぐことであります。「いや、私が王であって、イエスは王じゃない」と言う人は王国に入れません。でも、肉眼でイエス様も見えないし、肉眼で王国の領土も見えません。だから、私たちは聖書のことば、つまりイエス様が言われたことを信じるしかありません。イエス様はヨハネ14章で「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ142-3と言われました。日本語では、「父の家」と「住まい」とが2つあるように思えます。正確には「父の家にはたくさんの住む場所がある」ということです。簡単に言うと、私たちは父の家に住むということです。黙示録21章に「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる」(黙示録213と書いてあります。

 神さまの永遠の計画は、神のかたちに造られた私たちと一緒に住みたいということです。これがゴールです。そのために、神さまはイエス様を地上に送って贖いを成し遂げた後、一人でも多くの人が御国に入るように願っておられるのです。イエス様は最初にこの地上に来られた目的は、御国のことを教え、御国に入れる土台を作ったということです。福音書に記されているイエス様は和解をもたらす平和の君であります。ところが最初に来られたイエス様は、そんなに立派でありませんでした。神の子でありながら、ベツレヘムの馬小屋で生まれ、この世では私生児でした。貧しい家庭で育ち、30歳まで大工でした。30歳は1歳の羊です。イエス様はバプテスマを受けられてから3年半、あちこちを巡り歩いて福音を宣べ伝えられました。同時に、神の御国がどのようなところであるか具体的に示されました。それが、目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返らすことだったのです。最後にイエス様は十字架の贖いを成し遂げられ、御国の門を大きく開いてくださいました。父なる神さまは一人でも多くの人が御国に入るように忍耐して待っておられるのです。

2.ヨハネより偉大な者

 イエス様は群衆に向かって、バプテスマのヨハネがいかに偉大か話されました。人々はヨハネが獄に囚われてしまったので、失望していたのかもしれません。「あのように力強く預言していた人物が世の力に屈服してしまった。彼は本当に預言者だったのだろうか?」。そのように思っていたかもしれません。それに対してイエス様は、「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか?」と聞いています。これは、ヨハネの活動が終わり、何事も起こらなかったという人々の空しさを現しています。何故、イエス様が「柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます」とおっしゃったのでしょうか?この世の人たちはうわべを見ます。社会的に権威があって、知名度があり、評判の良いものを求めるでしょう。しかし、社会的に軽んじられ、無名で、評価もされていないものを求めるでしょうか? バプテスマのヨハネは、突然、荒野に現れて預言しました。その格好と言えば、らくだの毛の着物を着て、腰には皮の帯を締めていました。ことば使いも乱暴で、粗野な感じがしたかもしれません。一方、宮殿にいる人たちはどうでしょうか?絹や亜麻布をまとい、優雅な生活しています。身分も高く、学問もあるかもしれまさせん。どうせ行くなら、知名度が高く、権威ある人たちのところでしょう。これは今日の神学校も同じです。できれば、大学付属の神学部が良いと思うでしょう。日本よりも、アメリカか英国の神学校だったらなお良いでしょう。テレビに一教会の牧師がコメンティターに招かれることはまずありません。世の中の人がセレブにあこがれるように、信仰の世界もそうなのでしょうか?しかし、バプテスマのヨハネは無名であり、ナザレから出てきたイエスも全く無名でありました。イスラエルの議員でもなく、有名なラビについて学んだこともありませんでした。

 私たちはこの世の価値観ではなく、御国の価値観、神さまの視野から物事や人物を見なければなりません。この世は過ぎ去ります。しかし、永遠に残るものがあります。この世で名が知られていなくても、天で名が知られている方が良いのです。イエス様はこの後、バプテスマのヨハネがいかにすぐれた人物であるか述べています。マタイ119「でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」なぜ、バプテスマのヨハネがどの預言者よりもすぐれた人物だったのでしょうか?旧約聖書の預言者は「主がこう言われます」と代弁しました。モーセ、エリヤ、イザヤ、エレミヤ、どの人たちもすばらしい預言者です。でも、なぜ、バプテスマのヨハネの方がすぐれているのでしょうか?それは、ヨハネはメシヤが来る直前に用いられた預言者だからです。言い換えると旧約聖書の最後の預言者ということになります。「見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。」というみことばは、マラキ31節にあります。マラキ書は旧約聖書の一番最後にあります。マラキの預言が最後の預言だったということです。マラキが道を備える人として、示した人はバプテスマのヨハネだったのです。バプテスマのヨハネが、メシヤが来る道を備えたのです。彼は「私のあとから来られる方は、私よりも力ある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値打ちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」(マタイ311と言いました。もし、メシヤが突然来るならば、人々の心が整えられていないために、救いを逃してしまうでしょう。そのため、ヨハネは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言ったのです。

 しかし、もっと詳しく書いてあるのがヨハネによる福音書です。ヨハネ129「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」バプテスマのヨハネはイエス様に対して「世の罪を取り除く神の小羊」と言われました。「神の小羊」こそが、イエス様の地上での使命を現すのに最も相応しい呼び方です。「小羊」は、イスラエルの民がエジプトを脱出した時にさかのぼります。夕闇がエジプトのゴシェンを覆ったとき、殺される小羊の鳴き声がイスラエルの家々から響き渡りました。家ごとに小羊の血の入った器を手にした男が現れ、戸口の柱と鴨居に血を塗りました。やがて、イスラエルの家全体が血に塗られた家と変わりました。夜になると、それぞれの全家族が旅立ちの用意をして集まり、焼いた小羊をまること食べ始めました。同じ日の真夜中、エジプトのすべての家が騒然とした中にありました。パロ王の家からも貧しい奴隷の家に至るまで、家という家の長男が死にました。その悲しみ叫ぶ声がエジプト全土を覆ったのです。非常に取り乱したエジプトのパロ王は、モーセを探し出し、イスラエルの人々全部を連れて、ただちにエジプトから出て行くように命じました。エジプト脱出の要になったのが、柱や鴨居に塗られた小羊の血です。そこの家だけが、さばきが過ぎ越したのです。出エジプトの小羊は、主イエス・キリストを意味します。キリストの血を信仰によって受け取り、心に塗るとき、私たちは神のさばきから自由になれるのです。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」と聖書は言っています。したがって、私たちがイエス・キリストの血による贖いを信じるとき、すべての罪と不義から聖められるのです。バプテスマのヨハネが最大の預言者である理由は、イエス様を「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と指し示したことです。

 最後にイエス様は私たちが簡単に理解できないことをおっしゃいました。マタイ1111「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」これはどういう意味でしょう?「女から生まれた者」ということは、「地上に生まれた全人類のうちで」という意味です。なんと、全人類のうちでバプテスマのヨハネが一番すぐれているということです。ヨハネは全人類のトップだということです。なんだか、ヨハネを持ち上げすぎているような感じがします。しかし、それで終わりではありません。イエス様は「しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」これは本当に理解しづらいおことばです。確かにヨハネは、地上に生まれた全人類のトップであるかもしれません。でも、彼が天の御国に行ったならばどうでしょうか?「天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大だ」ということです。なんと、ヨハネは天の御国では、一番下だということです。これはむずかしい。おそらくこういうことでしょう。天の御国の人たちは、キリストによって贖われた人たちのことだと思います。言い換えると神の義をいただいている人たちです。しかし、バプテスマのヨハネは旧約の最後の預言者です。彼はキリストの贖いを受けないで天の御国に行ったのです。だから、天の御国のだれよりも下であるということだと思います。このことは、私たちの救済論、救いの神学を考える良い機会となります。ある人が私に言いました。「世の中にはクリスチャンよりもずっときよくて正しい人たちがいる。クリスチャンは彼らに比べると全くなっていない。」と言いました。残念ですが、その人は、「良い行いよって天の御国に入れる」という間違った考えを持っていました。確かに、世の中にはクリスチャンよりも人格的にすばらしい人がいます。クリスチャンの方がなってないということもあるでしょう。でも、救いは行いによって得られるのではなく、信仰によって与えられるものです。行いによって誰一人、神の義に達する人はいません。旧約時代は律法を守ることによって義とされると考えられていました。しかし、それは不可能でした。そのため、父なる神さまはイエス・キリストを私たちに与えてくださいました。神の子イエスは全く罪のない生活を送り、その血によるなだめの供えものとなりました。イエス・キリスト信じる信仰によって、私たちは罪赦され、神の義が与えられるのです。言い換えると古い人に死んで、霊的に生まれ変わり神の子になるのです。

ですから、クリスチャンはこの世の人たちと全く違うのです。確かに外からは見分けがつかないかもしれません。聖人としての証明書もないし、頭に輪っかがあるわけでもありません。顔も輝いていないときがあります。時には罪を犯すこともあるでしょう。でも、神さまの目から見たら、クリスチャンは世の人とは全く違います。神の義が与えられ、聖霊によって神の子としての証印が押されています。私たちは地上で生きてはいますが、すでに天の御国の住人です。だから、バプテスマのヨハネよりも地位的には高いのです。さきほど、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」と言いました。バプテスマのヨハネが全類で一番上の人だということです。するとクリスチャンはどうなるでしょうか?世の中には私たちよりも品行方正で、地位も名誉もある人がいるでしょう。しかし、びびることはありません。私たちには神の義が与えられ、身分的には神の子となっているのです。ですから、彼らよりも格が上だということを理解しなければなりません。イエス様はそのことで父なる神さまをほめたたえています。マタイ1125「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」この真理はこの世の人たちに隠されています。しかし、幼子のようになって信じる人には分かるのです。天の御国に住まう者とされたことを感謝しましょう。

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2016年9月18日 (日)

本当の弟子 マタイ10:31-42 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.9.18

イエス様を救い主と信じるだけで、だれでもクリスチャンになることができます。ところが、福音書を見ると「弟子」ということばが良く出てきます。聖書的にはすべてのクリスチャンはキリストの弟子であります。ところが福音を宣べ伝え、キリストを証するとき、この世の人たちから迫害を受けます。そのとき、自らを隠したり、キリストを否定すると本当の弟子にはなれません。元来、偽物も本物もないのですが、迫害によってその人の信仰が試されます。聖書が求める本当の弟子とは迫害にもめげずに、キリストに従って行く人であります。

1. 剣をもたたすために 

 イエス様は「平和の君」であります。そして、私たちにも平和を作ることを願っておられます。ところが、このところには、キリストのゆえに家族に仲たがいが起ると記されています。少し前の、マタイ1021「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」さらに今日の箇所には何と書いてあるでしょう?マタイ1034「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」なんと平和ではなく、「剣をもたらすために来た」と書いてあります。そうしますと、この世の人たちは「何と危険な教え、何と危険な宗教なのだろう」と譴責するでしょう。福音は「良い知らせ」ですから、すべての人に幸いをもたらすはずです。ところが、この地上に住む人たちが喜んで受けるかというとそうでもないということです。なぜでしょう?人間の心の深いところに、神を受け入れない堕落した性質があるからです。イエス様は「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです」(マタイ713と言われました。もし、狭い門に対して、広い門があるとするなら、それはどういうものでしょうか?広い門とは、だれにも人気のある、人間的な道であります。言い換えるとそれは、ヒューマニズム(人本主義)の道であり、人間の幸福を第一位に求める道です。一方、狭い門は「すべての人が罪人であり、キリストの贖いを受けなければ救われない」という道です。残念ながら、この世は絶対者なる神を認めません。聖書の戒めを認めず、時代によって倫理道徳も変わるという考えです。しかし、聖書は「神は唯一であり、救いの道はキリストしかない」と主張します。

 キリスト教国では、このような迫害は少ないかもしれません。しかし、日本ではどうでしょうか?もし、家族の中でだれかがクリスチャンになるとどうなるでしょうか?本人は、救われたことを喜んで証するかもしれません。でも、親から「だれが仏壇を守るのか?先祖に申し訳が立たない。耶蘇教などを捨てて仏壇を拝め」と言われるかもしれません。徳川幕府の怨霊によって、キリスト教は邪教であり、反社会的で、とんでもない宗教だと思われています。地方に行くとさらに風当たりが強くなります。「偶像礼拝になるので冠婚葬祭に参加しません」と言ったらどうなるでしょう?きっと、村八分にされます。女性ですと、結婚できなくなるかもしれません。もし、クリスチャンの嫁をもらうなら、姑からいびられ大変な目に会うでしょう。一番大変なのが後継ぎの長男もしくは長女です。「だれが家を継ぐんだ」「だれがお墓を守るんだ」と言われるでしょう。私のように8人兄弟の7番目はどうでも良い存在なので、地方から都会に出てクリスチャンになることができました。地方に残っている人が信仰を持つということは大変なことだと思います。お寺に属していることが当たり前で、先祖代々のお墓に入ることを何のためらいもありません。「外国から入って来たキリスト教を信じるなんてもっての他だ」と言われるでしょう。つまり、家族の者が敵になるということです。ところが、都市に来るとミッション・スクールは人気があります。都内にもたくさんの中学、高校、大学があります。どの学校も倍率が高くて入るのが大変です。でも、なぜ親御さんはミッション・スクールに子どもを送るのでしょうか?私は神奈川に住んでいましたが、フェリス女学院に通っている姉妹がいました。お家が開業医で、品の良い感じがしました。近くには、玉川学院、桜美林、東海大などがありました。何となく高級志向的な感じがしました。では、子どもがキリスト教信仰持つと言い出すとどうでしょうか?親から「宗教を持つと偏る。もっと広い考えを持たなければダメだ」と反対されるでしょう。つまり、ミッション・スクールは行っても良いけど、洗礼を受けてはいけないということです。表向きは賛成しても、宗教に凝ってはいけないということです。

 平和の君であるイエス様が、何故平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです」と言われたのでしょうか?それは、生まれつきの家族関係、肉親の情というものを一度断ち切る必要があるということです。日本では「絆」ということが言われています。でも、キリストを第一にするとき、生まれつきの家族が壊され、本当の家族が生まれるのです。人の家は外からは分かりません。けれど、家庭の中に入るとどうでしょうか?本当に夫婦や親子、兄弟姉妹が愛し合っているでしょうか?血肉の関係は悪くなると、骨肉の争いになり他人よりもひどくなります。尊敬心が全くなくなり、傷つけ、憎み合うでしょう。新聞やテレビをにぎわしているニュースの半分が家族関係のもつれと言っても過言ではありません。イエス様は「生まれつきの家族関係や肉親の情という関係を一度断ち切って、土台を据えなおしなさい」と言っておられるのです。そのきわめつけがこれです。マタイ1037「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」これこそが、真の平和をもたらす教えです。家庭においても、イエス・キリストが主であり、王であることを認めるのです。そうすると、本当の秩序がもたらされます。つまり、親は神さまが与えた子どもであることを認めます。また、子どもは神さまが与えた父と母であることを認めます。嫁も姑の間には血の争いがありますが、そこに主イエス・キリストを迎えるのです。つまり、血肉の関係ではなく、主イエス・キリストを間に据えた新しい関係です。一度、神からの剣を受けた家庭こそが、本当の平和を味わうことができるのです。

2. 十字架を負って

 マタイ1038-39「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」この世では、十字架を負うということを間違って理解しています。たとえば、子どもが障害をもって生まれ、親がずっと面倒見ることを「十字架を負う」と言ったりします。ドラマや小説などでも「私は一生、この十字架を背負って生きて行きます」というフレーズが出てきます。その意味は、宿命的な犠牲とか苦しみを指すのでしょう。しかし、イエス様が言われる「自分の十字架を負う」とは全く意味が違います。なぜなら、その後に「自分のいのち」ということばが出てくるからです。いのちはギリシャ語でプシュケーであり、魂とも訳せることばです。言い換えるなら、自分の魂、自分自身、自我ということです。どうでしょうか?誰でも、自分が一番可愛いのではないでしょうか?学校や何かの集合写真でも、まず最初に自分の顔を見ます。自分が目をつぶっている写真は絶対買いません。他の人が目をつぶっていてもあまり気にしません。だれでも人からほめられたり、賞賛されると気持ちが良いです。反対にけなされたり、馬鹿にされると憤慨するでしょう。たまに、言い訳しながら謝るときがあります。そのとき、「そうじゃないですよ。あなたは悪くないですよ」と言われたいのです。ところが、「毎回そうよ。あなたはそこを直さなければダメ」と言われたらがっかりします。創世記1章には、天地創造のことが記されています。5日目に神さまは動物を造られました。鳥類や哺乳類には、昆虫や魚と違って魂があります。魂はヘブル語でネフェシュですが、精神、意志、感情という側面があることを示唆しています。また、動物には自己保存の本能があり、決して自殺をしたりはしません。人間は内側に霊を持ってはいますが休眠状態です。魂が代わりに生きているので、自己保存、自己義認、自己絶対、自己中心、自己優位性、自己憐憫があるのです。

 十字架を負うとは、自分を十字架につけて殺すということです。このことは、神さまが与えた生命的な本能とは真逆なものです。私たちの魂は、他の人はともかく自分だけが生きたいのです。他の人が失敗しても、自分だけは成功したいのです。これは罪というよりも、魂が持つ本能であります。これを自分の意思で、十字架につけて殺すということでしょうか?イエス様は「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」とおっしゃいました。これはものすごい逆説、パラドックスであります。なぜ、自分のいのちを失ったら、それを自分のものとすることができるのでしょうか?英語の詳訳聖書では、自分のいのちは、「低いいのち」「地上のいのち」と訳されています。一方、神から与えられるいのちは「高いいのち」「永遠のいのち」と訳されています。マタイ16章にも同じようなことばがあります。イエス様がご自分はエルサレムで苦しみを受け、殺されるということを予告した直後にも言われました。そのところでは、もうひとこと加えられています。マタイ1626「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」そこには、「まことのいのち」となっています。英語の詳訳聖書には、his blessed life in the kingdom of God、「神の国で祝福されたいのち」となっています。つまり、人が「地上のいのちを捨てない」と固執するならば、天上の永遠のいのちを得られないということです。これは自分の意思でできるものではありません。もし、私たちが「自分の意思で自分を殺すんだ」と言うなら、精神修養的な宗教になるでしょう。きよめ派の教会では「自分を十字架に付けて殺す」という言い方をするかもしれません。ある人が、「ハンマーで自分を十字架につけることができるでしょうか?最後にハンマーを持っている右手が残るでしょう」と揶揄しました。イエス様は「自分の十字架を負え」と言ったのであり、「自分を十字架につけろ」とは言っていません。また、「自分のいのちを失った者」と言っているのであり、「自分で死んだ者」とは言っていません。つまり、私たちは自分を自分で殺すことはできません。できるのは、自分を十字架に渡すということです。自分のいのちを神さまに差し出すということです。すると、神さまの方が、私たちを十字架につけて殺して、新しいいのちを与えてくださるということです。

 このことをパウロはローマ6章とガラテヤ2章で詳しく述べています。ガラテヤ220「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」私たちはキリストを信じてバプテスマを受けたとき、私たちはキリストと共に十字架につけられて死んだのです。ガラテヤ524「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」両方とも完了形の動詞になっています。つまり、神さまが私たちを十字架につけてくださったのです。では、「自分の十字架を負ってわたしについて来なさい」とはどういう意味になるのでしょうか?」私は2つの意味があると思います。第一は、自分がいつでも十字架につけられるように十字架をかついでいるということです。残念ながら、私たちの自我はゾンビのように蘇り、「俺が」「私が」と主張します。もちろん、私たちの自我は一度、キリストにあって砕かれたはずです。前にビスケットのたとえを話したことがあります。「私はキリストとともに十字架につけられました」と信仰によって受け取るとき、自我が砕かれます。ビスケットが3つに砕かれたようなものです。でも、後から割れたビスケットをお皿の上に修復することができます。遠くから見ると分かりません。油断していると、「俺が」「私が」と言い出します。そのとき、十字架を自分に適用するのです。「アーメン。主よ、そうでした。あなたに従います。」一度、壊れているので、すぐ壊れます。どうでしょう?あなたは一度、キリストと一緒に十字架に死んだことを認めておられるでしょうか?言い換えると、古い自我が打ち砕かれたことがあるでしょうか?本当の弟子とは、いつでも十字架にかかれるように、自分の十字架を負ってイエス様について行くのです。もう1つの「自分の十字架」とは何でしょう?それはイエス様が受けたような迫害を甘んじて受けるということです。親分のイエス様が迫害を受けたのですから、子分の私たちが迫害を受けるのは当然だからです。この世から迫害を受けるようになったら、本当の弟子だという証になるのです。

3. キリストの報い

 マタイ1040-42「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」この教えは、迫害を受ける当人ではなく、その周りの人たちのことです。このところには、預言者、義人、弟子という三種類の人たちがでてきます。どれも、同じことを言っているのですが、役職がある人とそうでない一般的な弟子が存在しているようです。旧約聖書では預言者が神のことばを伝えました。今日のような聖書がなかったので、「主はこう言われます」と代弁しました。では、今日、預言者はいないのかというといます。エペソ4章には「使徒、預言者」という役職があります。また、Ⅰコリント12章にも「第一に使徒、第二に預言者」と出てきます。ところが、今日は、教団教派が使徒や預言者の代わりをするようになりました。そして、教師や牧師が地方教会において権威があります。それに、よそから使徒や預言者が訪ねて来るということはめったにありません。でも、それは現代の教会が持つ弱さでもあります。なぜなら、教師や牧師は世界の教会を見通すことができません。教団教派も神さまのような視野を持っていません。だから、今日は教会に力がなく、一致もないのです。私は今日も、「使徒、預言者」は存在するし、存在すべきだと信じています。

 それはともかく、世の人々が預言者、義人あるいは弟子として認めるかどうかです。この文脈から考えると世の多くの人たちが、この人たちを迫害しています。でも、一部の人たちは、「そうじゃない。彼らは神さまが遣わした人たちであり、尊敬に値する人たちだ」と認めるということです。このところでイエス様は「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」と言われました。つまり、預言者、義人あるいは弟子の背後には、イエス様がいらっしゃるということです。彼らはイエス様の代理者であり、代表者だということです。それを認めることができるのは、信仰があるからです。つまり、彼らを受け入れるということは、イエス様を受け入れるということです。そうするとどうなるのでしょうか?「預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」アーメン。ものすごいことであります。その人はただ預言者として彼らを受け入れ、義人として彼らを受け入れ、キリストの弟子として彼らを受け入れただけです。なのに、同じ報いを受けるということです。なんというイエス様の約束でしょうか?サッカーで言うなら、サポーターも同じ報いを受けるということです。長いキリスト教会の中で、迫害された時があったと思います。初期の頃は、ローマ帝国がキリスト教会を迫害しました。ある人たちは、カタコンベと言われる地下墓地に隠れました。おそらく、だれかが彼らに食べ物や必要な物を運んであげていたでしょう。イエス様は「その人は決して報いに漏れることはありません」と言われました。使徒パウロはローマ人への手紙の最後で、たくさんの協力者に感謝を述べています。「この人は多くの人を助け、また私自身を助けてくれた人です」、「自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれた」、「一緒に投獄されたことのある人」などと書いてあります。パウロは大使徒ですが、パウロを助けた数多くのサポーターがいたことがわかります。彼らもパウロと同じような報いが与えられるということです。

 私は牧師としてこのところに立っていますが、牧師として尊敬する人もいれば、そうでない人もおられます。おそらく、仕草とか言葉使いで「ちょっと」と見下げる人がいるのかもしれません。でも、「躓きを与えることがあるかもしれないけれど、神さまが立てたお方なんだ」と尊敬する人もいらっしゃいます。私は、神さまはあえて、欠けのある人を立てて、キリストに出会わせているのだと思います。人間的な面だけを見て、「ああ、これはダメだ」と敬遠するならば、祝福は行かないと思います。イエス様も肉体をもってこの地上に来られたとき、全員がイエス様を信じたかというとそうではありませんでした。十字架の前にはほとんどの人がいなくなりました。なぜなら、当時の期待していたメシヤではなかったからです。使徒パウロはどうでしょうか?コリント教会の人たちは「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会った場合の彼は弱弱しく、その話ぶりはなっていない」(Ⅱコリント1010と言いました。使徒パウロでもそのように見られたというのは何という慰めでしょうか。パウロはこのように言っています。それは私たちへのことばです。Ⅱコリント107「あなたがたは、うわべのことだけを見ています。もし自分はキリストに属する者だと確信している人がいるなら、その人は、自分がキリストに属しているように、私たちもまたキリストに属しているということを、もう一度、自分でよく考えなさい。」世の人々がどう見ようとも、主にある預言者、義人あるいは弟子がいることを認めなければなりません。イエス様は「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」と言われました。何と水一杯でも、その人は決して報いに漏れることがないのです。私たちはキリストの弟子として生きるときにどうしてもこの世から迫害を受けます。でも、世の中には一緒に迫害しないで、キリストの弟子ということで受け入れ、助ける人もいるんだということです。

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2016年9月 9日 (金)

恐れてはいけません マタイ10:24-33 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.9.11

 マタイ10章はイエス様が12弟子を宣教に遣わすところが記されています。最初の部分は、短期間の宣教に対しての教えであります。しかし、後半は教会の歴史全体に渡る預言的な教えになっています。聖書には「恐れるな」と365回記されていますが、本日のテキストには3回記されています。一見、矛盾しているようですが、神を恐れるならば、人を恐れる必要はないということです。この世において、いろんな出来事に遭遇しますが、神さまを恐れる人に対しては、神さまが守ってくださいます。 

1.神を恐れよ

 マタイ1024-25「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。」以前、やくざから救われた人たちが「親分はイエス様」と言いました。私たちの親分であるイエス様は、世の人たちから憎まれ、最後には十字架で殺されました。もし、親分がそうであるならば子分である私たちはどうなるでしょうか?やはり、世の人たちから憎まれ、殺されるかもしれません。私たちが救われた時のことを思い出してみましょう。本当にうれしくて、イエス様の証をし、神さまのことを話したと思います。ところが、人々の反応はどうだったでしょうか?喜んでくれるどころか、「おかしくなったんじゃないの?」と馬鹿にされたことはないでしょうか?「神さまはこんなにすばらしい方なのに、どうしてわかってくれないんだろう」と悲しい思いをしたでしょう。まるで変人扱いされたりするのは何故でしょう?それは私たちが変わってしまったからです。霊的に生まれ変わりますと、この世のものが空しく見えてしまいます。さらに、この世の人たちはクリスチャンが異質な存在に見えるので、反対したり迫害したくなるのです。しかも、この世の人たちの背後には悪魔がいます。悪魔が「何が神の子だ、ちょっといじめてやれ!」とけしかけるのです。ヘブル人への手紙11章は信仰者の列伝が記されています。ヘブル1136-38「また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、──この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。」なんと、「この世は彼らにふさわしい所ではない」と書かれています。私たちが神の国の住民になったので、この世から敵対視されるのです。

 でも、イエス様は「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です」と言われました。これは、当時の格言から来たことばかもしれません。この世にはいろんな道のお師匠さんがいます。だれかがそのお師匠さんのもとで指導をうけるならばどうでしょ?いくらがんばっても、お師匠さんのようにはなれません。それでも、お師匠さんのようになれたら十分ではないでしょうか?空手や少林寺拳法などいろんな武道があります。お師匠さんは弟子に奥義は絶対教えないそうです。最後まで自分が弟子にやられないためであります。イエス様はそんなケチなお師匠さんではありません。でも、この意味は何なのでしょうか?やがて、師であり主人であるイエス様が迫害され十字架にかかります。その弟子でありしもべである私たちはどうなるのでしょう。同じように迫害され、十字架にかけられる恐れが出てきます。しかし、私たちがいくら迫害を受けても、イエス様と比べたら、全くそうではないということです。なぜなら、イエス様の十字架の死は殉教の死ではありません。イエス様の死は贖いの死であり、私たち人間がとうてい近づくことができません。神の子イエス様だけが、人類の罪のために刑罰を受け、父なる神から捨てられました。イエス様がご自分の血によって代価を支払って下さったので、私たちは信じるだけで罪赦され義とされるようになったのです。すると、その弟子はどうでしょうか?やはり、イエス様を信じる弟子として、この世から迫害を受けます。たとえ私たちが十字架に付けられることがあっても、それは贖いの死ではありません。私たちはすでにイエス様に永遠の命が与えられているので殉教の死を受けられるのです。さきほども申しましたように、クリスチャンは異質な存在なので、馬鹿にされたり迫害を受ける可能性があります。でも、迫害を受けたとき、「私はイエス様に近づけたんだ」と思えるなら何と幸いでしょうか?使徒の働き5章に記されていますが、当時の宗教家たちは、ねたみのゆえに使徒たちを捕え、留置所に入れました。そして、彼らを議会の中に立たせ、「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ていうことだ」と責めました。最後に使徒たちを呼んで、彼らをむち打ち「イエスの名によって語ってはならない」と言い渡して釈放しました。それで使徒たちは怖気づいて、語るのをやめたでしょうか?使徒541-42「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。」彼らの脅かしとむち打ちは全く効果がありませんでした。使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びました。私たちもキリストのゆえにはずかめを受けたり、迫害を受けるときは「ああ、私もキリストの弟子として認められたんだなー」と感謝すべきであります。

 パウロは終わりの時代に生きる私たちにこのように教えています。Ⅱテモテ312「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」アーメン。自分の身分を隠し、この世と妥協しているなら迫害を受けることはありません。しかし、キリストの名を掲げ、神さまに正しく生きようとするならどうでしょう?罪と悪の中に生きている人たちは、必ず迫害するでしょう。「なんで、俺たちと同じことをしないんだ」といじめるでしょう。それでも私たちは神を恐れ、みことばのうちを歩まなければなりません。みなさんは「自分はこのように生きるんだ」ということをはっきりと周りの人たちに示しているでしょうか?それとも、嫌われたり、仲間外れにされるのが嫌なので、同調しているでしょうか?信仰よる迫害とは関係ないかもしれませんが、自分らしく生きるための真理とは何でしょうか?スー・オーガスティン著『過去の傷がいやされるとき』から少し引用させていただきます。「一言でいうと、あなたを最も苦しめてしまう人は、…あなたです。そうです。あなた自身なのです。あなたに害をもたらす人や状況や集まりはいろいろあるでしょうが、究極のところ、原因が何であれ、平常心を失い、傷つき、落ち込み、苛立ち、気をもみ、腹を立て、恐れ、罪悪感を抱くかどうかは、あなたが決めることなのです。あなたには次のような権利があります。

・自分の人生のかじ取りをする

・主体性をもって選択する

・こうでありたいという自分でいる

・自分の意見を持つ

・判断や決断をする

・現状を打破する

・信じているもののために立ち上がる

・許容するものと、許容しないものをはっきり区別する

・自分自身、自分の考え、信念、観点などを言い表す

・自分で選んだ価値観、倫理、道徳基準などに従って生きる

・幸せでいる!

・「だめです」「できません」と断る  

本題に戻りたいと思いますが、あなたは人を恐れてはいないでしょうか?もし、あなたが人を恐れて生きているなら、究極的な解決がここにあります。マタイ10:28 「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」アーメン。簡単に言うと、人間はいくらできても肉体しか殺せないということです。ところが、神さまは「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことができる」と言うのです。ゲヘナは旧約聖書の「罪人や死体の焼却場」から来た言葉です。それが「火の池」地獄という意味になりました。たましいは永遠のものなので、永遠の火でしか滅ぼすことができません。肉体の死はこの世限りのものです。信仰者はたとえ肉体が死んでも、永遠のいのちを得ています。そして、終わりの日には栄光のからだとして復活します。ところが、行き着くところが、永遠の滅び、ゲヘナの火であるならどうするでしょうか?私たちはぜがひでも、永遠の滅び、ゲヘナの火を避けなければなりません。たとえ肉体の命を失うことがあっても、永遠のいのちを選び取るべきであります。このような死生観をちゃんと持っている信仰者はどうでしょうか?からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れません。なぜなら、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れているからです。詩篇1186「主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。」アーメン。

2.恐れてはいけません

何故、迫害を恐れる必要はないのでしょうか?マタイ1029-31「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」神学的には、神さまは全知全能であると言えるでしょう。しかし、困難の真ん中でも、神さまが全知全能であると信じられるでしょうか?イエス様は神学的にではなく、具体的なものを用いながら、私たちに分かるように教えておられます。このところに、2つの実例があげられています。1つは雀、2つ目は頭の髪の毛であります。しかし、雀の実例は私たちの時代では解説が必要です。現代は、雀が店で売られていません。雀を一体どうするのでしょうか?調べてみたら、雀は当時のユダヤ人の食卓を飾った最も安価で大衆的な食べ物の1つであると書かれていました。きっと焼き鳥にしたのでしょう。1アサリオンはローマの小銅貨で、今でいうと50円くらいです。二羽の雀が1アサリオンということは一羽では値段がないということです。ルカ福音書では2アサリオン支払えば、1羽おまけで5羽買えると書かれています。そんなおまけの雀の1羽さえも、神の前には決して忘れられていないということです。「1羽の雀」という賛美がありますが、この箇所から作られたものです。イエス様は「あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」と言われました。イエス様は「神さまは」と神学的におっしゃっていません。「あなたがたの父」とおっしゃっています。これは個人的な親しい関係のある人のためのことばです。あなたは、神さまを「私の父」と心から呼んでいらっしゃるでしょうか?私たちは神学的な理解ではなく、神さまと個人的に親しい関係を持つ必要があります。

もう1つの実例は頭の髪の毛です。人間の頭の毛は大体14万本あると言われています。正確には、金髪、赤毛や黒髪は違います。また、一人一人、その数が違います。多い人もおれば、少ない人もおられます。人間でも数えられそうな人もいないわけではありません。髪の毛の少ない人は、多く許されている人であります。そういう意味では、あまり許されたくないです。いついつまでも、頭に留まってもらいたいです。ところで、英語の聖書はall numberedとなっています。Numberは「番号をつける」という意味が第一であり、その次に「数を数える」という意味もあります。まさか、1本1本にナンバーがふられているとは思いませんが、それくらい神さまは私たちのことをご存じだということです。使徒パウロが囚人として船に乗せられて、ローマに行く途中です。船が大嵐にあって遭難してしまいました。太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、最後の望みも今や断たれようとしていました。ある夜、神の御使いがパウロの前に立ってこのように言いました。「恐れてはいけません。あなたは必ずカイザルの前に立ちます」と。その後、パウロは人々に「あなたがたの頭から髪一筋も失われることはありません」と励ましました。まさしく、髪の毛一本すらも、神の許しなしでは落ちないということです。そこまで、神さまの守りを信じていると、どんな時でも平安があります。

 イエス様は「だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です」と言われました。雀が地に落ちるということは死ぬということです。あの1羽の雀さえも父の許しがなければ死なないということです。「ましてやあなたがたはどうでしょう?」ということです。私たちもいつ死ぬかわかりません。きょうのテキストは「迫害のもとで命を落とすことがあっても恐れるな」ということです。しかし、現代の私たちは「癌で命を落とすのではないか」と心配しています。先日のニュースで、癌で死ぬ人が昔の2倍に増えていると言っていました。病気だけではなく、事件に巻き込まれたりすることもありえます。そういう意味で、いつ死ぬかわからないという恐れは蔓延しているのではないでしょうか?雀が地に落ちること、あるいは髪の毛が一本でも失われること、すべて神さまがご存じであり、偶然では起きないということです。JC.ライルという人はこう解説しています。「雀たちの上にある神の保護は、神のご摂理のもとにあります。この世に偶然というものはなく、神の許しなしには起りません。偶然、不慮の事故、巡り合わせなどというものはありません。もし、健康や命の危険が目の前にあるなら、すべてのことが神の御手の中にあることを思って、安堵を得なさい。肉体も魂も、そして人格もすべて神の守りの中にあるのです。神の許しがなければ、病気が襲ったり、だれかがあなたを傷つけたりすることもありません。」アーメン。現代は科学万能の時代であり、医療も発達しています。昔の人たちは戦争に巻き込まれたり、迫害にあったりしたでしょう。ところが現代ほど不安に満ちている時代もないでしょう。それは、人々が神から離れ、人間中心で生きているからです。政治や教育の場で、神さまのことを語ることは禁じられています。特に日本は、幼い時から、神さまなしの生活を送っています。だから、不安と恐れが人々の心に満ち、また社会に満ちているのです。

 私たちは全世界を創造し、今も動かしておられるまことの神さまに立ち返る必要があります。政治や経済が人間を救うのではありません。教育や医療が人間を救うのではありません。私たちは人間中心という罪を悔い改め、まことの神に立ちかえるべきであります。時代がどんなに変わろうと主イエス・キリストだけが救い主であり、私たちの罪を取り除き、神さまと和解をもたらしてくださいます。まず、私たちの心が変わらなければなりません。まず、私たちの心に神の国がやってきて、罪から離れ、義を追い求める必要があります。そうすれば、聖霊によって恐れが締め出され、神と共に歩む人生が何よりも満足を与えてくれることを知るでしょう。神から離れた人生はいくらおいしいものを食べ、すばらしいお家に住んでも、幸せにはなりません。神から離れた人生はいくらお金をもっても、高いお酒を飲んでも、物足りないのです。私たち人間の第一にすべきことは神さまと和解することです。ローマ51「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」アーメン。ビリー・グラハムという大伝道者は「神との平和」をメッセージしました。当時のアメリカは自分たちの国はキリスト教国だと自負していました。ところが、人種差別、姦淫、戦争、さまざまな聖書と矛盾することが行われていました。でも、ビリー・グラハムは「聖書はこういう」と単純明快なメッセージをしました。彼は社会運動をしたわけではなく、福音宣教によってアメリカを変えて行ったのです。まず、人々が罪を悔い改めて、神との平和を持つことが大事だと説いたのです。私は「罪を悔い改める」ということばをあまり使いません。どちらかと言うと恵みばかりを説いています。でも、「罪を悔い改める」とは個々の罪のことではなく、体全体を神さまに向けるということです。キリストによって、神との関係を正しく持つならば、そこからすべてのものが与えられます。なぜなら、父なる神さまこそが、すべての源だからです。良いものはすべて父なる神さまから下ってくるのです。きょうは「恐れてはいけません」というメッセージをしました。恐れるのはなぜでしょう?それは神さまとの関係がうまくいっていないからです。父なる神さまと親しく交わり、ゆだねつつ、従っているならば恐れる必要はありません。Ⅰヨハネ418「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」アーメン。

 冒頭で聖書に「恐れるな」と365回記されていると申し上げました。と言うことは、1年、365日、毎日一回は、神さまは「恐れるな」とおっしゃっているということです。私たちはどうしたら恐れを締め出すことができるのでしょうか?それは水の上に浮かぶ船にたとえられます。船は外から水が入らなければ、決して沈むことはありません。目には見えませんが、船はたえず水を外に押し出しているのです。なぜなら、たえず水圧がかかっているからです。もし、船が水を押し出すのをあきらめて、船内に入れたらどうでしょう?水がどっと入ってきて、船はまもなく沈んでしまうでしょう。同じように私たちは恐れをたえず締め出さなければなりません。世の中には不条理の嵐が吹きまくっています。テレビや新聞のニュースでは悲惨な事故や事件が毎日のように流されています。もし、1時間テレビの前に座っていたらどうでしょう?テロや殺人事件が報道され、チャンネルを替えても同じことがまた報道されています。だまっていると、私たちの心に恐れが入り込みます。特に寝る前にサスペンス・ドラマや映画を見るとどうなるでしょう?潜在意識に恐れが入り込みます。聖書を10分間しか読まないのに、テレビに2時間かけたらどうなるでしょう。私たちは自分の心を守る必要があります。それはこの世の中の悪いニュースを心の中に入れないということです。同時に私たちはみことばをこころに蓄え、毎日、父なる神さまと交わる必要があります。口に出して、「あなたを信じます。私と私の家族を守ってください。」と告白する必要があります。そうすれば、内側に神の愛とキリストの信仰がいっぱいになります。それは外圧に抵抗する力になります。私たちは世の終わりの時代に住んでいます。あっという間に反キリストが国を支配し、迫害に巻き込まれるかもしれません。いざという時にそなえる秘訣は何でしょう?それは普段から、みことばにとどまり、聖霊によって歩むことです。最後にⅠテサロニケ5章を引用いたします。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。…主イエス・キリストの来臨のとき、責められることのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」アーメン。

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2016年9月 2日 (金)

迫害を克服する道 マタイ10:16-23 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.9.4

前回は、イエス様が12使徒を任命し、短期宣教に遣わすところを学びました。おそらく、マタイはいろんなところで語られた教えを、この10章にまとめているのではないかと思います。イエス様は彼らが宣教に出て行くとき、迫害に会うことを前もって知っておられました。だから、「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」と言われました。つまり、迫害を受けるときは、「頭では知恵を働かせ、心は純真であれ」ということです。きょうは「迫害を克服する道」と題して、3つのポイントで学びたいと思います。

1.人々には用心しなさい

 17節でイエス様は「人々には用心しなさい」と言われました。なぜなら、彼らは狼のように命を狙ってくるからです。彼らとはだれか?またどのようなことをするのでしょうか?17節「彼らはあなたがたを議会に引渡し、会堂でむち打つから」とあります。ここで言われている、彼らというのはユダヤ人です。議会とはサンヒドリン議会であって、イエス様を死刑に渡しました。また、会堂というのはシナゴーグ、ユダヤ人の会堂です。使徒4章に記されていますが、使徒たちは議会において裁判を受け、むち打たれ、投獄されました。18節「また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。」これは、ローマ総督やヘロデ王、そしてローマのカイザルのことです。使徒12章には、ヘロデ王がヨハネの兄弟ヤコブを切り殺し、ペテロを捕えて牢に入れたことが記されています。やがてパウロが小アジアとヨーロッパに伝道に行きますが、何度もむち打たれ、裁判にかけられ、また投獄されました。ローマ帝国はキリスト教会を紀元後300年まで迫害し続けました。それでもクリスチャンの数が増えるので、コンタンティヌス帝は、キリスト教を国教にしました。それから長い中世の時代が1000年間くらい続きます。迫害がなくなった代わりに、霊的ないのちがなくなりました。

 ところで、どうしてキリスト教会は迫害されるのでしょうか?それは私たちの信仰が、この世の仕組みと合わないからです。日本ではどうでしょうか?徳川幕府は1613年からキリスト教の禁止に乗り出しました。それでもキリシタンは減る様子はありません。それで、幾つかの制度をもうけ、根絶やしにしようと考えました。全国民は仏教のいずれかの宗派に属させられ、お嫁に行くときや旅行に出るときは、どこそこのお寺に属しているという身分証明書を持参させられました。さらに、幕府は五人組制を利用し、これに宗教的相互監視の責任を負わせました。内部からの密告でキリシタンが発見されたときは、訴えられた者だけが処罰されました。しかし外部から密告されて発見された場合は、五人組全部が同罪とみなされ処罰されました。幕府はこれでも安心できず、1695年、「キリシタン類族改め」なる法令を布告しました。これは、一人のキリシタンが発見されると、その身内の者一族郎党に対して、レッテルをはって特別監視下におくという法令で、男子の場合は親子七代、女子の場合でも親子四代に及びました。一説によると20万人の尊い生命が奪われたようです。四日市に堀越暢冶(のぶじ)という牧師がいらっしゃいます。先生は、神主の子供として生れ、日本の宗教観を研究しておられます。先生はある本の中でこのように訴えています。「徳川幕府は仏教によって、明治以降は神道によって人々を支配してきたために、日本人は全員仏教徒であり、同時にまた、神社の氏子だと言われてきました。聖書が日本に合わないのではありません。聖書が独裁制・封建制に合わないのです。また、聖書は偶像礼拝を否定します。ですから、偶像礼拝を奨励して益をこうむっている者たち、すなわち、各種の宗教者にとっては、キリスト教はまことに不都合なものとなるのです。どうか、キリスト教と聖書に対する偏見を捨てて、聖書そのものを読んでみて下さい。徳川の亡霊や明治の亡霊におびやかされないで、自らの手で真実をつきとめ、確認してください。」アーメン。日本人は今も徳川の亡霊によって、「キリスト教は邪教である」と思わされています。特に地方で伝道している教会は、今もなお、お寺の檀家制度をはじめ、たくさんの因習と戦っておられます。

 イエス様は、迫害は伝道の良い機会になるとも教えています。18節「また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。」たとえば、パウロは裁判にとらえられたとき、自分がどうしてクリスチャンなったか弁明しています。さらに、普通だったら会えない、身分の高い人たちに伝道することができました。ローマ総督と祭司長たち、そして王様の前で、自分がどうしてクリスチャンなったか証をしています(使徒26章)。おそらく、パウロはローマのカイザルに会って、直接、弁明したことでしょう。やがて、パウロはネロ皇帝によって殉教させられました。このように使徒パウロの伝道は常に迫害と隣り合わせでした。言い換えると、迫害なしに伝道はありえないということです。私たちは人々から良く思われ、尊敬されて、なおかつ福音を伝えたいと思います。そういう時もないとは言えませんが、多くの場合、福音を伝えると嫌がられます。私は結婚の挨拶をするため、家内の実家、岩手に行きました。若かったせいもあり、「聖歌を1曲歌いたい」と言いました。すると、お義父さんから「やめてくれ。郷に入らば、郷に従えとある」と断られました。やがて、私の子どもたち、お義父さんにとって孫が行ったら、随分と和らぎました。小学生の有悟が、お義父さんの頭に按手して、祈ってあげたということです。

 イエス様は「人々には用心しなさい」と警告しました。なぜなら、福音を受け入れないばかりか、迫害する人たちがいるからです。「福音は『良い知らせ』なはずなのに、どうしてなんだろう?」と悲しくなります。でもこの世の神である悪魔が、彼らの背後にいて邪魔をしているのです。悪魔は一人でも自分の持ち物(魂)を失いたくないのでやっきになっています。だから、迫害する人たちが必ずいます。だから私たちは、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありつつ、福音を伝えなければなりません。迫害を恐れず、それが証のチャンスになることを信じるべきです。



2.
父の御霊が教える


 マタイ1019-20「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」ルカによる福音書には、「言うべきことは、そのとき聖霊が教えてくださる」(ルカ1212と記されています。私が座間キリスト教会で奉仕していたとき、ママクワングという大柄の女性が来られました。彼女は、中国が生んだ20世紀最大の伝道者の一人でした。「中国地下教会の母」と呼ばれ、多くの人たちをキリストに導きました。これは実際にあったことです。ママクワングが共産党員による三日間の拷問の後、独房に投げ込まれました。そこは、ひどい所で、地下にある狭いジメジメした部屋でした。彼女はしばらく意識を失い床に倒れていましたが、主は夢の中に現れて彼女を慰めて下さいました。そして、ここでも主のために証し続けるようにとおっしゃったのです。彼女は「主に従います」と言ったものの、どのように証をすればよいのか分かりませんでした。この状況ではとても不可能に思えたからです。しかし、そのとき、御霊が方法を示して下さいました。彼女は、1つの提案を持って看守の所へ行きました。「この監獄はとても汚れています。私が働いてきれいにしましょうか」と言いました。看守は彼女のこの申し出を快く受け入れました。しばらくすると、彼女は全ての場所の出入りが自由になったのです。その結果、囚人への伝道ができるようになり、何百という囚人がキリストに自分の人生を捧げました。看守たちも、彼女が囚人たちを心から愛し、祈りをもって仕えている姿を見て感動を受けました。彼女が主について教えることを通して、多くの看守がクリスチャンになりました。本当に主が死と涙の谷を喜びの湧く所として下さったのです。

 既に、天に召された蒲郡教会の石原牧師が、「伝道アレルギーの治療」というコラムを書いています。一般的に伝道することを恐れるクリスチャンは、どのように、その人と知り合いになり、どのように語れば良いかに迷っています。また、福音を語る自信がないために、人に近付くことができません。この事について私ができるアドバイスは、あまり考える事をせず、相手を見定めたら、迷わず近付いて行き、話しかけることです。言うべきことは、その時に聖霊が教えて下さるからです。人の外見を見て、あの人は話しにくそうなタイプだとか、聞いてくれそうもない顔だとか自分勝手な言い訳を考えずに、心で決めたら、素早く行動することです。私の勇気の源は、聖霊に対する従順と信頼、そして魂の永遠の行き先を考えることです。滅びから救われて欲しいと願う愛の力こそ、救霊の原動力のはずです。石原牧師は「実際に語ってみると、語れるんだ」と結論づけています。私も蒲郡教会の石原牧師や遠藤牧師らの指導のもとで、伝道訓練を受けたことがあります。それは、河口湖畔のホテルで弟子訓練のセミナーがあったときです。午後、みんなで伝道に行こうということで、富士吉田の駅に行きました。1月だったので、駅の待合室にストーブがあり、人々が電車を待っていました。石原牧師は顔がメキシコ人なので、若者たちには、サッカーの話から始めるそうです。私はそこが地元でないので、勇気を奮い立たせました。旅の恥はかき捨てです。ストーブにあたりながら、ご婦人に話してみると語ることばが出てくるではありませんか。本当に不思議だなーと思いました。一番大切なのは度胸であり、二番目はとにかく口を開くということです。

 説教は準備をして語らなければなりません。しかし、伝道するときは、聖霊様が何を話すか示してくださるということです。ですから、本当に神さまが生きているかどうか確かめたい人は、そういう伝道の場に身を置いてみると良いでしょう。今年の4月、会堂の補修工事がありました。そのとき、窓や壁のシーリング(継ぎ目を塞ぐ工事)をしてくださった男性がいました。私が下にいると、その人が「うーん、うーん」うなっていました。後から「どうしたんですか?」と聞くと、古いシールをカッターで削り取るのが大変なんだということでした。朝の工事前とかお昼ちょっと話す機会がありました。沖縄の人で、一時は羽振りが良く、本の出版も出がけたそうです。結果的に出版業が成り立たず、職人に戻ったそうです。最後は屋根も修理してくれて、とっても真面目な人でした。ほとんど日常的な会話でしたが、good-newsとジョエル・オスティーンの本を差し上げました。この仕事が終わって別の現場に行きましたが、彼が救われるように祈っています。もし、伝道を技術やテクニックとして考えるなら、恐れが出てきます。でも、そのとき聖霊が示してくれるとわかるなら、だれでもできそうです。男性は女性より、口べたで話しかけるのが苦手です。でも、何か体を動かしながらだとできます。当教会ですと、一緒に「流しそうめん」の奉仕をしながら、一緒に大掃除をしながら話すことができます。引っ越しのお手伝いとか、バーベキューとか、ハイキングなども良いと思います。かなり前に水元公園でCSの父兄と一緒にバーベキューをしたことがありますが、話が良く弾みました。日本人の場合は、まず友達になることが重要です。その後、心の悩みとか心配事を打ち明けてくれるのではないでしょうか?

 平和な時代は、テキストのように議会の前に立たされることはないでしょう。しかし、いつ何時、日本に迫害の嵐が襲ってくるか分かりません。世の終わり、反キリストが猛威をふるって大迫害の時代がくると預言されています。今は福音を伝えても捕えられることはありませんが、いつまで平和で自由な時代が続くかわかりません。もしかしたら、生きているうちに、議会の前に立たされることがあるかもしれません。パウロはテモテにこう言いました。Ⅱテモテ42-4「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。・・・人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」良い時代であろうと、悪い時代であろうと、みことばを宣べ伝え、また証をしていきたいと思います。「言うべきことは、そのとき聖霊が教えてくださる」ことを体験してみましょう。


3.次の町へ逃れよ


 21節と22節の身内からの迫害は、34節と重複していますので、そのときにお話ししたいと思います。第三のポイントは23節からの内容です。1023「彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。」イエス様は、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」と言われました。それはどういうことかと言うと、その町で迫害を受けて死んではならないということです。その町から次の町に逃れ、またそこで伝道しなさいということです。J.Cライルは注解書で、「困難な時代は、2つの極端に走らないように」と警告しています。簡単に言うと、あえて迫害を受けるような危険を冒さないということです。それが、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」ということです。1つの極端は迫害を恐れるあまり、口を閉ざしてひとことも話さないということです。もう1つの極端は、場所や環境をわきまえないで、伝道し過ぎるということです。私たちは本当に聖霊の導きを求め、ある時は口を開き、またある時は口を閉ざす必要があります。また、町で受ける迫害はどう対処すべきなのでしょうか。私たちは1つの町に留まって、福音を語らなければなりません。しかし、迫害が起って、身の危険が及んでもそうすべきか、というとそうではありません。イエス様は、「彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい」と言われました。これは「簡単に命を落とすな。伝道のために、新しい町に逃れよ」ということです。命がけで伝道すべきですが、迫害によって命が危険にさらされたら、次の町にのがれなさいということです。

 この真理は虐待を受けている人にも適用可能です。「虐待を受け続けている人は、その人や、その家庭から逃げられない」と聞きます。その人には2つの思いがあります。第一は、私がなんとかこの人を変えてみせる。私しか、この人を救えないという考えです。そうなると虐待を受けたまま、そこで死んでしまいます。第二は、ここからは決して逃げられない。他に私が住む世界はないんだという思いです。そして最後に、そこで死んでしまいます。私たちの思い、マインドは「一度こうだ」と思い込むとなかなか変えられません。特に、虐待の場合はそういう力が働くそうです。つまり、別な選択肢、「ここから逃げて良いんだ」という考えがあるということです。「逃げる」というと卑怯な感じがして嫌かもしれませんが、「新しい世界がある」ということです。捕らわれているその場所を離れて、距離を置いて客観的に見るということが重要です。イエス様は「彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい」と言われました。テレビで、ブラック企業、ブラックアルバイトを辞めることのできない人のことが放映されていました。ブラック家庭、ブラック宗教、ブラックな人から、逃れて良いのではないでしょうか?かなり前に、軽井沢で集会を持ったことがあります。ゴスペルで救われた若者がたくさん出席しました。そこに、カルト的な教会から逃れてきた姉妹がいました。カウンセラーが「一日も早く、あなたはそこから逃げなさい。逃げて良いのです」と言われてほっとしたそうです。後から聞いたのですが、「軽井沢が私のターニング・ポイントになった」と言っていました。

 話を戻します。パウロとバルナバが聖霊によって、アンテオケ教会から宣教に遣わされました。海を渡って小アジアに行きました。ピシデアのアンテオケで伝道しました。2つの安息日、会堂で教えましたが、町中の人が神のことばを聞きに集まってきました。ところが、この群衆をみたユダヤ人がねたみに燃え、パウロたちを迫害しました。パウロたちは足のちりを払い落してイコニウムに行きました。イコニウムでも伝道しました。ところが、またユダヤ人が反対しました。今度はルステラに行きました。ところが、またユダヤ人が反対し、パウロたちを石打ちにしました。翌日、パウロたちはデルベに行き、その町で福音を宣べ、多くの人を弟子にしました。そして、もとのアンテオケに帰ってきました。まるでスパイ映画のように、難を逃れながら、町から町へと伝道に行きました。彼らはイエス様の教え、イエス様の戦術を守っていたのです。昔、「東京でだめなら名古屋があるさ。名古屋がだめなら大阪があるさ」という歌がありました。1つの町がだめだったら、新しい町に行って伝道して良いということです。魚釣りについて聞いたことがありますが、ある人が釣れると、みんなそこへ釣竿をおろすそうです。彼らはたえずポイントを変えて、竿をおろすのであります。伝道もある意味では、魚釣りと似ています。

私は神さまが備えておられる魂がいると信じます。ある人たちは、どうしたら救われるのか待っています。ちょうどあなたが、福音を伝えるために用いられる人かもしれません。使徒8章に書いてありますが、エチオピアの宦官が馬車の中でイザヤ書を読んでいました。聖霊がピリポをそのところに送りました。ピリポが走りながら「あなたは、読んでいることが分かりますか?」と聞きました。宦官は「導く人がいなければ、どうして分かりましょう」と言いました。ピリポは馬車に乗って、これはイエス様のことを書いているのですと教えてあげました。すると、宦官はイエス様を信じて、洗礼を受けたいと願いました。ちょうど水があるところに来たので、ピリポは彼にバプテスマを施してあげました。ピリポは使徒ではなく、信徒でした。信徒がバプテスマを施したのです。しかし、教会はいつの間にか、聖職者でなければバプテスマを施してはいけないと決めるようになったのです。このところを語ると物議をかもしてしまうので、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでなくてはなりません。そうです、きょうの「迫害を克服する道」の答えは、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」ということです。クリスチャンはとかく堅物で付き合いづらいと思われています。伝道者の書716「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。」伝道者の書は「極端すぎてはいけない、バランスが重要である」と教えているのではないでしょうか?私たちは福音を伝えようとすると迫害に合う可能性が出てきます。でも、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」のごとく、迫害をかわしながら、福音を伝えていきたいと思います。神さまが逃れの道を与え、聖霊様が語るべきことばを与えてくださいます。

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