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2016年9月30日 (金)

奪い取る信仰 マタイ11:12-24 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.10.2

 マタイによる福音書に「求めなさい。そうすれば与えられます」と書かれています。聖書は、神さまにひたすら求めた人の記事であふれています。神さまはどんな人を愛されるのでしょうか?2000年前、イエス様はガリラヤで福音宣教を開始され、多くの奇蹟を行いました。では、人々は福音を信じて、神の国に入ったでしょうか?それとも、無関心を装い神の国に入ろうとしなかったでしょうか?それでは、どんな人が神の国に入ったのでしょうか?

1. 奪い取る信仰

 最初、バプテスマのヨハネが福音を伝えました。その後、イエス・キリストが福音を伝えました。福音は「喜びの訪れ」という意味ですが、反面、福音には恐ろしい力があります。なぜなら、信じる人と信じない人の2つに分けてしまうからです。「求道中」とか「検討中」という便利なことばもあります。しかし、福音を何度も聞いていているのに信じないならば、厳しいさばきを受けることになるでしょう。イエスさまが地上におられた時代、どういう人たちが福音を信じて、どういう人たちが福音を信じなかったのでしょうか?マタイ1116-17「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』」イエス様がたとえている人たちは、神さまを信じているユダヤ人であります。彼らの多くは「私たちの先祖はアブラハムなので救われている」と信じていました。バプテスマのヨハネが荒野に現れ、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と宣教を開始しました。ところが彼らは無関心を装い、信じようとはしませんでした。イエス様はその時代の人を身勝手で気まぐれな子どもにたとえています。「笛を吹いても踊らなかった」とは結婚式の遊びのことです。また、「弔いの歌を歌っても、悲しまなかった」とはお葬式の遊びです。ユダヤ人は子どもたちと同じように、「天の御国が近づいた」と言われても、応じようとはしませんでした。マタイ1118-19「ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。」ヨハネが食べなければ「悪霊につかれている」と言うし、イエス様が食べると「食いしんぼうの大酒のみ」と言うし、つむじ曲がりで、心がひねくれています。

 ところが福音を信じたのは、意外な人たちでした。マタイ1112「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」このところに、「激しく」ということばが2回でてきます。英語の聖書はviolent「暴力的な」という言葉が使われています。バプテスマのヨハネ、次にイエス様が天の御国を提示しました。ユダヤ人たちは無関心を装っていました。しかし、一部の人たちは「こんなすばらしいことはない」と御国の門に体当たりして、力づくでも開けようとしたのです。英語の詳訳聖書では「尊い賞品を熱心に、一心不乱に探し求めるように」と解説しています。まるで、それはデパートのバーゲンセールみたいであります。開店と同時に目指す売り場に殺到します。ご婦人たちは、恥も外聞もかなぐり捨てて良いものをあさります。同じように、天の御国に力づくでも入ろうとするということです。なんと、ユダヤ教徒たちではなく、予想外の人たちが御国に入ったのです。では、最初に御国に入った人はどういう人たちだったのでしょうか?また、いつから人々は御国に入ることができるようになったのでしょうか?その答えは、マタイ21章にあります。マタイ2131「イエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。』」バプテスマのヨハネが最初に福音を伝えました。すると、宗教的な指導者たちはヨハネを信じませんでした。ところが、取税人や遊女たちが最初に信じて神の国に入ったのです。まさしく、取税人や遊女たちが「激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」ということなのです。何と言う皮肉でしょう。聖書を良く知っている人たちではなく、罪を犯して救いから洩れているような人たちが御国に入って救いを得たのです。では、いつから人々が御国に入れたのでしょうか?それはバプテスマのヨハネが福音を伝えた時からです。私たちはイエス様が十字架で贖いを成し遂げ、復活された後ではないかと考えます。確かに、それ以降、天の御国の門は大きく開けられました。でも、少数ではありましたが、バプテスマのヨハネが福音を伝えた時から人々は天の御国に入ることができたのです。もっとも、暴力的なまでに熱心にならなければ入れなかったかもしれません。

 私は「奪い取る信仰」と言った理由は「天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」と書いてあるからです。クリスチャンは成熟すればするほど、「みこころのままに」と受身的になります。「奪い取る信仰」というのは全く肉的に思えるでしょう。しかし、信じたのは宗教的でまじめな人たちではありませんでした。なんと、取税人や遊女たちが福音を信じて、神の国に入ったのです。聖書の神さまは人格や品性よりも信仰のある人を喜ばれるようであります。ヘブル116「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」と書いてあるからです。旧約聖書のヤコブと言う人物は、まさしく「奪い取る信仰」の典型でした。ヤコブは双子でありましたが、一寸早く、エサウが生まれました。そのため、エサウに長子の権利が行きました。ヤコブはそれが欲しくてたまりませんでした。あるとき、エサウは一杯の食物と引き替えに長子の権利をヤコブに売ってしまいました(ヘブル1216)。またヤコブは、年とって目が見えなくなっていた父イサクをだまして祝福を横取りしました。そのとき、エサウが言ったことばがとても印象的です。創世記2736「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」兄エサウは「彼の名がヤコブというのも、このためか」と言いました。「ヤコブ」の意味は「かかと」でしたが「騙す者」という意味もありました。エサウは「二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった」と言いました。このところに、「奪い取る」ということばが二回出てきます。まさしく、ヤコブは奪い取る信仰の持ち主でした。でも、そういうヤコブを主は愛しました。彼は父の家を逃げ出して、おじラバンの家にむかう途中、日が暮れてしまいました。荒野でヤコブが石をまくらにして寝ていると、夢のうちに主が現れてくださいました。そして「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、・・・決してあなたを捨てない。」と言われました。ヤコブは夢からさめて、こう言いました。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ」(創世記2817と言いました。このところに、「天の門」と書いてあります。ヤコブは天から地に向けられている梯子を見ました。なんと、神の使いがそのはしごを上り下りしていました。ここに書かれている「天の門」は新約聖書の「天の御国」と同じではないかと思います。つまり、ヤコブは騙す者、奪い取る信仰の持ち主でした。でも、そういうヤコブに神さまは天の御国を開いてくださったのです。

 私は1979年イエス様を信じて、洗礼を受けました。その直後、「奪い取る信仰」を学びました。洗礼を受けて半年後、聖書学院の基礎科に入学しました。目立ちたがり屋で肉の匂いぷんぷんのクリスチャンでした。まさしく、ホーリネス(聖い)教団には向かない人物でありました。その頃、韓国の申賢均師やチョーヨンギ師と出会いました。リバイバルまっさかりの韓国の大きな教会も見学に行きました。続いて、ロバート・シュラーの「可能性思考」にも触発され、「奪い取る信仰」で行こうと思いました。あれから37年、私も随分ときよめられました。きよめられた分、「奪い取る」というよりも、「備えられているものをいただく」という受身の信仰になりました。しかし、いくら成熟したとしても、神さまに求め続けるという信仰は失うべきではないと思います。ヤコブは20年後、エサウがいる故郷に帰ることになりました。しかし覚悟がつかなくて、ヤボクの渡しで天使と格闘しました。ヤコブは「私を祝福してくださらなければ、あなたを去らせません」(創世記3226と言いました。その時、天の使いは「あなたの名はヤコブとは呼ばれない。イスラエル(神の王子)だ」言われました。その時、ヤコブはきよめられたのです。では、その後、ヤコブはどうなったでしょうか?ヤコブになったり、イスラエルになったりしました。ある時は、肉がまさったということです。神がモーセに現れたとき、「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト315と言いました。なぜ、神さまは「イスラエルの神」と言わず、「ヤコブの神」と言われたのでしょうか?それは、神さまはどんな状態であろうと、信仰をもってご自身に近づく者を愛し続けるということです。だから、ヘブル11章には「それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした」と書いてあります。神さまは天の御国と祝福を奪い取るほど熱心に求める人を愛してくださるのです。

2. 故意の不信仰

 マタイ1120-24「それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」このところを読むとあまり恵まれません。なぜなら、イエス様は当時の不信仰な人たちを責めているからです。私たちはこれまで、イエス様がガリラヤ周辺を伝道して、奇蹟を行ってきたことを学びました。「さぞかし、多くの人たちが福音を信じて、救われたのではないだろうか」と想像するのは自然ではないでしょうか?なぜなら、預言者ではなく、神の御子が直々、地上に現れて福音宣教したからです。それも、奇蹟やしるしを行って天の御国のことを教えられました。長い歴史の中で、これ以上、恵まれた時代はないはずです。でも、イエス様の嘆きようはどのようなものでしょうか?

 まず、このところに出てくる、コラジンとかベツサイダ、そしてカペナウムはどこにあるのでしょうか?それはガリラヤ湖の北西にある町々の地名です。恐らく、イエス様が最初に伝道した場所であり、彼らはたくさんの奇蹟を見たでしょう。特にカペナウムはペテロの家があるので、そこに多くの人たちが集まりました。そこでも多くの病人たちが癒され、悪霊も追い出されました。なのに、どうして悔い改めて、福音を信じなかったのでしょうか?イエス様は天の御国を実際に見えるかたちで教えてくださいました。それが、病の癒しであり、力あるわざでした。悪霊が追い出され、死人さえよみがえらされました。それらのことが、天の御国がこの世に突入して来ている証拠だったのです。ビル・ジョンソンという牧師が『天が地に侵入するとき』という本を書いています。原題はWhen Heaven Invades Earthです。Invadeは「他国を侵略する」「征服する」という意味です。この本の中から少し引用させていただきます。「カペナウムでの油注ぎは非常にすばらしく、いくつかの翻訳では、彼らは天に上げられたと言っています。これはカペナウムの人々の奇蹟の領域が大きかったので、イエスは、その町を地上のどの町にもまして、天国のようにされたということなのでしょうか。もしそうだったとするなら、カペナウムは、しばらくの間、『みこころが天で行われるように、地でも行われる…』見本となった訳です。彼らはイエスの大いなる働きのためその場所は設けましたが、彼らの人生を、イエスに焦点を当て、自分を変えるまでには至らなかったのです。」アーメン。簡単に言うと、カペナウムの人々は奇蹟自体を喜んだかもしれません。しかし、イエス様を自分の人生の中心に据えなおすことをしませんでした。ただ、今あるものの上にもう1つ新しいものを付け加えただけに留まったということです。イエス様は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」とおっしゃいました。「天の御国」とは神の王的な支配という意味です。そして、「悔い改める」というのは、「人生の見方と考えを変えて、イエス様を王として心にお迎えする」ということです。最初に「激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」と言いました。だから、自分を捨てるくらい熱心にならないと天の御国には入れないということです。天の御国がこの地に侵略して来ています。そのため、こちらは人生と命を賭けなければなりません。天の御国は人生を賭けるほど価値のあるものなのです。マタイ1344「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」アーメン。

 でも、彼らはイエス様がなさった奇蹟を見ても、悔い改めて福音を信じようとしませんでした。イエス様はそのことに怒りを覚えながらこのように嘆き悲しんでいます。「もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。…おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」ツロとシドンは地中海沿岸にある商業都市でした。エゼキエル28章に書かれていますが、海上貿易で得た富によって高ぶりました。現代で言うなら、エコノミックアニマルです。紀元前4C.ギリシャによって滅ぼされ「大いなる町ツロは漁師が網を引く場所となりました」(エゼキエル265,14。一方、ソドムはゴモラと並んで性的に乱れた町でした。創世記に書かれていますが、火と硫黄によって滅ぼされました。ツロは高慢と偶像礼拝、ソドムは不道徳と不品行、どちらも大きな罪であります。しかし、イエス様はそういうひどい町の方が、まだましだというのです。なぜでしょう?もし、ツロとシドンでイエス様がなされた奇蹟を見たなら、彼らは荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていただろうということです。もし、ソドムでイエス様がなされた奇蹟を見たなら、彼らは悔い改め、その町は今でも残っていただろうということです。高慢と偶像礼拝、そして不道徳と不品行よりも、大きな罪は不信仰だということです。なぜなら、彼らは神の子イエス様から直接、福音を聞きました。さらには、天の御国が来ている証拠としての、病や障害の癒し、悪霊の追い出し、死人のよみがえりまでも直視することができました。それなのに悔い改めて、信じようとしなかったのです。

 イエス様のこのようなことばを聞くと、耳が痛くなる人はいないでしょうか?それはどのような人たちでしょうか?福音を定期的に聞いても、回心まで至らない人がいるかもしれせん。もちろん、救われることは神さまの奇蹟でありますが、魂の飢え渇きがないとしたら残念です。「私は罪を犯していません。高慢でもないし、偶像も拝んでいないし、不道徳なこともしていません」とおっしゃるかもしれません。でも、福音を何度も聞く機会があり、神さまの奇蹟を体験していたなら、言い逃れはできません。高慢と偶像礼拝、そして不道徳と不品行よりも、大きな罪は不信仰だということです。韓国の話ですが、ある女性が、お腹が痛くなり病院にかつぎこまれました。彼女は「神さま、今度こそあなたを信じますから、どうか癒してください」と祈りました。すると即座に良くなり退院することができました。それから彼女はあの祈りをすっかり忘れ、身勝手な生き方をしました。数年後、また、お腹が痛くなり病院にかつぎこまれました。彼女は「神さま、今度こそあなたを信じますから、どうか癒してください」と祈りました。すると即座に良くなり退院することができました。それから彼女はあの祈りをすっかり忘れ、身勝手な生き方をしました。数年後、また、お腹が痛くなり病院にかつぎこまれました。彼女は「神さま、こんどこそあなたを信じますから、どうか癒してください」と祈りました。神さまの声が聞こえました。「もう今度はありませんよ」と。漫画のような話ですが、これは実際にあったことであると説教で聞いたことがあります。田舎に住んでいるため一生に一回しか福音を聞いたことのない人もいるでしょう。また、教会に行く機会があり、何十回も福音を聞く機会のある人もいるでしょう。両者とも死んで、神さまの前に立ったとき、どちらが多く裁かれるでしょうか?それは、福音を何度も聞いても信じなかった人です。終わりの時代は、人々の愛が冷えるばかりか、反キリストの霊が働きます。信仰の篤い人はますます信仰が篤くなり、信仰のない人はますます頑なになります。つまり、信仰のある人とない人の差が極端になるということです。

 イエス様はルカ19章でミナのたとえを話されました。ミナのたとえは、タラントのたとえ違って、みんなに1ミナずつが与えられました。賜物はひとり一人違います。しかし、信仰はクリスチャンであるならみな与えられています。問題は生きているうちにそれを用いるか用いないかであります。ある人は1ミナで10ミナもうけ、ある人は1ミナで5ミナもうけました。ところが、一人の人はふろしきに包んでしまっておきました。彼はご主人からしこたま叱られます。主人はこう言いました。「その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。…あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです。」神さまは人格的に多少難があったとしても、信仰を用いる人を喜ばれます。旧約聖書のヤコブがそうでした。イエス様の時代はどうだったでしょう?パリサイ人、律法学者が戒めを良く守り、正しい生活をしていました。でも、彼らは福音を信じませんでした。どういう人たちが信じたかと言うと、取税人や遊女たちでした。行いや人間的な意味でも絶対救われそうもない人たちが、福音を信じて天の御国に入ったのです。聖書の神さまは逆転勝利を与える神さまです。一流大学を卒業しエリートコースを歩んでいる人たちがいます。地位と名誉とお金と財産を持って幸せに暮らしている人たちもいます。でも、それらのものと縁もゆかりもなくても、信仰があれば天の御国に入ることができるのです。天の御国に入ったなら、それらすべてに勝ち得て余りある人生です。結論的に言うと、悔い改めて天の御国に入ることが一番大切なことであり、かけがえのないことなのです。信仰が与えられていることを感謝しましょう。

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