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2016年9月23日 (金)

預言者以上の者 マタイ11:1-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.9.25

一人の子供が空に凧を上げていました。その日はあまり天気が良くなくて、上空に霧がかかっていました。子供はありったけの糸をのばしたので、凧が見えなくなりました。そばを通った人が、声をかけました。「ぼうや、何をやっているんだい」「凧を上げているんだよ」「エエ?どこだい、どこに凧があるんだい。君はただ、糸巻きを持っているだけじゃないかい」。少年は答えました、「ん、確かに凧は見えないけどわかるんだよ。だって、この糸に伝わってくるんだよ。凧が僕を引っ張っているのが分かるんだよ」。聖書の言葉から、見ないで信じる人は幸いです。 

1. 獄中のヨハネ

 マタイ3章に書いてありますが、彼は歯に衣(きぬ)を着せぬ預言者でした。ところが、その後、ヨハネは獄中に捕えられました。なぜでしょう?このことは、マタイ14章に記されています。国主ヘロデが弟ピリポの妻を奪いました。それをヨハネが「彼女をめとるのは不法です」と告発しました。それに対して、ヘロデが怒ってヨハネを捕らえて縛り、牢に入れたのです。少したって獄中のヨハネはイエス様のもとに弟子を遣わして「おいでになられるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」と聞かせました。マタイ114-6イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」イエス様は、直接答えるのではなく、ご自分がなさっていることを告げました。一体、これは何を意味しているのでしょうか?イザヤ書35章には「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。(イザヤ355-6)」と書いてあります。この箇所は、千年王国の預言であります。御国の完成時は、体の障害が全くなくなり、完全に癒されるということです。もう1か所、イザヤ61章には「主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」とあります。このところは、体の癒しというよりも、心の癒しが記されています。しかし、70人訳は「盲人には目の開かれることを告げるために」(ルカ418と訳しています。これら2つの箇所は、メシヤ預言として知られています。メシヤが来るとこのようなことが起こるということです。

 このあと、バプテスマのヨハネがイエス様のことばで納得したかどうかは記されていません。ただし、イエス様が「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」と言われました。このことから、もしかしたらバプテスマのヨハネは、イエス様につまずいて、あのような質問をしたのではないかと推測することができます。「だれでも」と書いてあるのは、ヨハネだけではなく、イスラエルのみんなが陥りやすいつまずきだということです。マタイ3章に戻って、バプテスマのヨハネのメシヤ観を少し調べたいと思います。彼は「必ず来る御怒り」「切り倒されて、火に投げ込まれる」「殻を消えない火で焼きつくす」と言っています。これは、メシヤが来たときに悪が裁かれるということです。しかし、どうでしょうか?イエス様がバプテスマを受けて、公生涯を始められました。相変わらずローマがイスラエルを支配し、パリサイ人やサドカイ人たちは律法を曲げていました。この世の罪や悪が全くさばかれないままでした。おそらく、ヨハネは「主のさばきが来ないじゃないか?ほんとうにイエスはメシヤなのだろうか?」とつまずきかけていたのではないかと思います。確かに旧約聖書の特に小預言書を見ると、主の日が来るとき、同時にさばきが起こると書かれています。マラキ41「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。」ヨハネだけではなく、当時のユダヤ人は「メシヤはローマに鉄槌を下して、イスラエル王国を再建させてくださる」と信じていたことでしょう。どうして、イエス様は神のさばきを下さなかったのでしょうか?どうして、社会を変えるのではなく、体の不自由な人を癒したり、福音を宣べ伝えておられたのでしょうか?

 このことはイエス様に従っていた弟子たちにも分かりませんでした。弟子たちも他のユダヤ人と同じメシヤ観を持っていました。だから、イエス様が十字架に付けられたとき逃げてしまったのです。その当時は隠されていましたが、メシヤは二度に渡って来られるのです。神学的にはクリスマスを初臨と言い、世の終わりに来られるのを再臨と言います。初臨、つまり2000年前、肉体をとって地上に来られたときはどういうメシヤだったのでしょうか?それは、さばきではなく、和解をもたらすためにやって来たのです。そのことが分かる描写が、後にイエス様がエルサレムに入城のときです。マタイ21章に書いてありますが、イエス様がエルサレムに、馬ではなくろばに乗って入ったということです。そのことはゼカリヤ9章に預言されています。「見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに」(ゼカリヤ99)。普通、王様は着飾った軍馬に乗るものです。ところがイエス様はろばに、それも子ろばに乗られました。イエス様が軍馬に乗っていたなら怖くて近づくことができません。しかし、子ろばに乗っていたならだれでも近づくことができます。しかし、世の終わりはどうでしょう?天の軍勢を従えて白い馬に乗って来られます。イエス様の顔は照り輝き、口からは剣が出ています。では何故、イエス様は一回ではなく、二回に分けて来られたのでしょうか?初臨は、人々に神の和解をもたらす平和の君として来られたのです。そのとき、御国の福音を宣べ伝えながら、人々の病や障害を癒してあげました。「御国とはこういうものだ」ということを見せたのです。そして、公生涯の最後に十字架について贖いのわざを成し遂げられました。ご自分が罪のなだめの供えものになったので、イエス様を信じる者はだれでも御国に入ることができるようになったのです。2016年、「今も恵みの時」です。しかし、それはいつまでも続きません。世の終わり、イエス様が再び来られるとき、収穫と裁きが同時になされます。まさしく、バプテスマのヨハネが預言していた、裁きが起こるということです。



 では、イエス様はなぜ2回に分けてこの世に来られるのでしょうか?その答えを解く鍵は、「福音です」。福音とは「良い知らせ」ですが、漠然としていてよく分かりません。イエス様は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われました。これは「天の御国が近づいたから、方向転換して入りなさいよ」ということです。天の御国とは、Kingdom of God神の王国であります。イエス様が王として治める王国です。でも、王様ひとりで王国は成り立ちません。そこには臣民(国民)が必要です。イエス様は神の王国を作ると同時に、臣民(国民)を集める必要がありました。かつてのエデンの園はもうありません。なぜなら、アダムが罪を犯したために追い出されたからです。もっと言うと、アダム以来の人は罪があるので、だれ一人として神の王国に入ることができません。御国に入る条件が強いているなら2つあります。1つ目は自分の罪が取り除かれることです。2つ目はイエス様を王として仰ぐことであります。「いや、私が王であって、イエスは王じゃない」と言う人は王国に入れません。でも、肉眼でイエス様も見えないし、肉眼で王国の領土も見えません。だから、私たちは聖書のことば、つまりイエス様が言われたことを信じるしかありません。イエス様はヨハネ14章で「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ142-3と言われました。日本語では、「父の家」と「住まい」とが2つあるように思えます。正確には「父の家にはたくさんの住む場所がある」ということです。簡単に言うと、私たちは父の家に住むということです。黙示録21章に「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる」(黙示録213と書いてあります。

 神さまの永遠の計画は、神のかたちに造られた私たちと一緒に住みたいということです。これがゴールです。そのために、神さまはイエス様を地上に送って贖いを成し遂げた後、一人でも多くの人が御国に入るように願っておられるのです。イエス様は最初にこの地上に来られた目的は、御国のことを教え、御国に入れる土台を作ったということです。福音書に記されているイエス様は和解をもたらす平和の君であります。ところが最初に来られたイエス様は、そんなに立派でありませんでした。神の子でありながら、ベツレヘムの馬小屋で生まれ、この世では私生児でした。貧しい家庭で育ち、30歳まで大工でした。30歳は1歳の羊です。イエス様はバプテスマを受けられてから3年半、あちこちを巡り歩いて福音を宣べ伝えられました。同時に、神の御国がどのようなところであるか具体的に示されました。それが、目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返らすことだったのです。最後にイエス様は十字架の贖いを成し遂げられ、御国の門を大きく開いてくださいました。父なる神さまは一人でも多くの人が御国に入るように忍耐して待っておられるのです。

2.ヨハネより偉大な者

 イエス様は群衆に向かって、バプテスマのヨハネがいかに偉大か話されました。人々はヨハネが獄に囚われてしまったので、失望していたのかもしれません。「あのように力強く預言していた人物が世の力に屈服してしまった。彼は本当に預言者だったのだろうか?」。そのように思っていたかもしれません。それに対してイエス様は、「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか?」と聞いています。これは、ヨハネの活動が終わり、何事も起こらなかったという人々の空しさを現しています。何故、イエス様が「柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます」とおっしゃったのでしょうか?この世の人たちはうわべを見ます。社会的に権威があって、知名度があり、評判の良いものを求めるでしょう。しかし、社会的に軽んじられ、無名で、評価もされていないものを求めるでしょうか? バプテスマのヨハネは、突然、荒野に現れて預言しました。その格好と言えば、らくだの毛の着物を着て、腰には皮の帯を締めていました。ことば使いも乱暴で、粗野な感じがしたかもしれません。一方、宮殿にいる人たちはどうでしょうか?絹や亜麻布をまとい、優雅な生活しています。身分も高く、学問もあるかもしれまさせん。どうせ行くなら、知名度が高く、権威ある人たちのところでしょう。これは今日の神学校も同じです。できれば、大学付属の神学部が良いと思うでしょう。日本よりも、アメリカか英国の神学校だったらなお良いでしょう。テレビに一教会の牧師がコメンティターに招かれることはまずありません。世の中の人がセレブにあこがれるように、信仰の世界もそうなのでしょうか?しかし、バプテスマのヨハネは無名であり、ナザレから出てきたイエスも全く無名でありました。イスラエルの議員でもなく、有名なラビについて学んだこともありませんでした。

 私たちはこの世の価値観ではなく、御国の価値観、神さまの視野から物事や人物を見なければなりません。この世は過ぎ去ります。しかし、永遠に残るものがあります。この世で名が知られていなくても、天で名が知られている方が良いのです。イエス様はこの後、バプテスマのヨハネがいかにすぐれた人物であるか述べています。マタイ119「でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」なぜ、バプテスマのヨハネがどの預言者よりもすぐれた人物だったのでしょうか?旧約聖書の預言者は「主がこう言われます」と代弁しました。モーセ、エリヤ、イザヤ、エレミヤ、どの人たちもすばらしい預言者です。でも、なぜ、バプテスマのヨハネの方がすぐれているのでしょうか?それは、ヨハネはメシヤが来る直前に用いられた預言者だからです。言い換えると旧約聖書の最後の預言者ということになります。「見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。」というみことばは、マラキ31節にあります。マラキ書は旧約聖書の一番最後にあります。マラキの預言が最後の預言だったということです。マラキが道を備える人として、示した人はバプテスマのヨハネだったのです。バプテスマのヨハネが、メシヤが来る道を備えたのです。彼は「私のあとから来られる方は、私よりも力ある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値打ちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」(マタイ311と言いました。もし、メシヤが突然来るならば、人々の心が整えられていないために、救いを逃してしまうでしょう。そのため、ヨハネは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言ったのです。

 しかし、もっと詳しく書いてあるのがヨハネによる福音書です。ヨハネ129「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」バプテスマのヨハネはイエス様に対して「世の罪を取り除く神の小羊」と言われました。「神の小羊」こそが、イエス様の地上での使命を現すのに最も相応しい呼び方です。「小羊」は、イスラエルの民がエジプトを脱出した時にさかのぼります。夕闇がエジプトのゴシェンを覆ったとき、殺される小羊の鳴き声がイスラエルの家々から響き渡りました。家ごとに小羊の血の入った器を手にした男が現れ、戸口の柱と鴨居に血を塗りました。やがて、イスラエルの家全体が血に塗られた家と変わりました。夜になると、それぞれの全家族が旅立ちの用意をして集まり、焼いた小羊をまること食べ始めました。同じ日の真夜中、エジプトのすべての家が騒然とした中にありました。パロ王の家からも貧しい奴隷の家に至るまで、家という家の長男が死にました。その悲しみ叫ぶ声がエジプト全土を覆ったのです。非常に取り乱したエジプトのパロ王は、モーセを探し出し、イスラエルの人々全部を連れて、ただちにエジプトから出て行くように命じました。エジプト脱出の要になったのが、柱や鴨居に塗られた小羊の血です。そこの家だけが、さばきが過ぎ越したのです。出エジプトの小羊は、主イエス・キリストを意味します。キリストの血を信仰によって受け取り、心に塗るとき、私たちは神のさばきから自由になれるのです。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」と聖書は言っています。したがって、私たちがイエス・キリストの血による贖いを信じるとき、すべての罪と不義から聖められるのです。バプテスマのヨハネが最大の預言者である理由は、イエス様を「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と指し示したことです。

 最後にイエス様は私たちが簡単に理解できないことをおっしゃいました。マタイ1111「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」これはどういう意味でしょう?「女から生まれた者」ということは、「地上に生まれた全人類のうちで」という意味です。なんと、全人類のうちでバプテスマのヨハネが一番すぐれているということです。ヨハネは全人類のトップだということです。なんだか、ヨハネを持ち上げすぎているような感じがします。しかし、それで終わりではありません。イエス様は「しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」これは本当に理解しづらいおことばです。確かにヨハネは、地上に生まれた全人類のトップであるかもしれません。でも、彼が天の御国に行ったならばどうでしょうか?「天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大だ」ということです。なんと、ヨハネは天の御国では、一番下だということです。これはむずかしい。おそらくこういうことでしょう。天の御国の人たちは、キリストによって贖われた人たちのことだと思います。言い換えると神の義をいただいている人たちです。しかし、バプテスマのヨハネは旧約の最後の預言者です。彼はキリストの贖いを受けないで天の御国に行ったのです。だから、天の御国のだれよりも下であるということだと思います。このことは、私たちの救済論、救いの神学を考える良い機会となります。ある人が私に言いました。「世の中にはクリスチャンよりもずっときよくて正しい人たちがいる。クリスチャンは彼らに比べると全くなっていない。」と言いました。残念ですが、その人は、「良い行いよって天の御国に入れる」という間違った考えを持っていました。確かに、世の中にはクリスチャンよりも人格的にすばらしい人がいます。クリスチャンの方がなってないということもあるでしょう。でも、救いは行いによって得られるのではなく、信仰によって与えられるものです。行いによって誰一人、神の義に達する人はいません。旧約時代は律法を守ることによって義とされると考えられていました。しかし、それは不可能でした。そのため、父なる神さまはイエス・キリストを私たちに与えてくださいました。神の子イエスは全く罪のない生活を送り、その血によるなだめの供えものとなりました。イエス・キリスト信じる信仰によって、私たちは罪赦され、神の義が与えられるのです。言い換えると古い人に死んで、霊的に生まれ変わり神の子になるのです。

ですから、クリスチャンはこの世の人たちと全く違うのです。確かに外からは見分けがつかないかもしれません。聖人としての証明書もないし、頭に輪っかがあるわけでもありません。顔も輝いていないときがあります。時には罪を犯すこともあるでしょう。でも、神さまの目から見たら、クリスチャンは世の人とは全く違います。神の義が与えられ、聖霊によって神の子としての証印が押されています。私たちは地上で生きてはいますが、すでに天の御国の住人です。だから、バプテスマのヨハネよりも地位的には高いのです。さきほど、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」と言いました。バプテスマのヨハネが全類で一番上の人だということです。するとクリスチャンはどうなるでしょうか?世の中には私たちよりも品行方正で、地位も名誉もある人がいるでしょう。しかし、びびることはありません。私たちには神の義が与えられ、身分的には神の子となっているのです。ですから、彼らよりも格が上だということを理解しなければなりません。イエス様はそのことで父なる神さまをほめたたえています。マタイ1125「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」この真理はこの世の人たちに隠されています。しかし、幼子のようになって信じる人には分かるのです。天の御国に住まう者とされたことを感謝しましょう。

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