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2016年9月18日 (日)

本当の弟子 マタイ10:31-42 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.9.18

イエス様を救い主と信じるだけで、だれでもクリスチャンになることができます。ところが、福音書を見ると「弟子」ということばが良く出てきます。聖書的にはすべてのクリスチャンはキリストの弟子であります。ところが福音を宣べ伝え、キリストを証するとき、この世の人たちから迫害を受けます。そのとき、自らを隠したり、キリストを否定すると本当の弟子にはなれません。元来、偽物も本物もないのですが、迫害によってその人の信仰が試されます。聖書が求める本当の弟子とは迫害にもめげずに、キリストに従って行く人であります。

1. 剣をもたたすために 

 イエス様は「平和の君」であります。そして、私たちにも平和を作ることを願っておられます。ところが、このところには、キリストのゆえに家族に仲たがいが起ると記されています。少し前の、マタイ1021「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」さらに今日の箇所には何と書いてあるでしょう?マタイ1034「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」なんと平和ではなく、「剣をもたらすために来た」と書いてあります。そうしますと、この世の人たちは「何と危険な教え、何と危険な宗教なのだろう」と譴責するでしょう。福音は「良い知らせ」ですから、すべての人に幸いをもたらすはずです。ところが、この地上に住む人たちが喜んで受けるかというとそうでもないということです。なぜでしょう?人間の心の深いところに、神を受け入れない堕落した性質があるからです。イエス様は「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです」(マタイ713と言われました。もし、狭い門に対して、広い門があるとするなら、それはどういうものでしょうか?広い門とは、だれにも人気のある、人間的な道であります。言い換えるとそれは、ヒューマニズム(人本主義)の道であり、人間の幸福を第一位に求める道です。一方、狭い門は「すべての人が罪人であり、キリストの贖いを受けなければ救われない」という道です。残念ながら、この世は絶対者なる神を認めません。聖書の戒めを認めず、時代によって倫理道徳も変わるという考えです。しかし、聖書は「神は唯一であり、救いの道はキリストしかない」と主張します。

 キリスト教国では、このような迫害は少ないかもしれません。しかし、日本ではどうでしょうか?もし、家族の中でだれかがクリスチャンになるとどうなるでしょうか?本人は、救われたことを喜んで証するかもしれません。でも、親から「だれが仏壇を守るのか?先祖に申し訳が立たない。耶蘇教などを捨てて仏壇を拝め」と言われるかもしれません。徳川幕府の怨霊によって、キリスト教は邪教であり、反社会的で、とんでもない宗教だと思われています。地方に行くとさらに風当たりが強くなります。「偶像礼拝になるので冠婚葬祭に参加しません」と言ったらどうなるでしょう?きっと、村八分にされます。女性ですと、結婚できなくなるかもしれません。もし、クリスチャンの嫁をもらうなら、姑からいびられ大変な目に会うでしょう。一番大変なのが後継ぎの長男もしくは長女です。「だれが家を継ぐんだ」「だれがお墓を守るんだ」と言われるでしょう。私のように8人兄弟の7番目はどうでも良い存在なので、地方から都会に出てクリスチャンになることができました。地方に残っている人が信仰を持つということは大変なことだと思います。お寺に属していることが当たり前で、先祖代々のお墓に入ることを何のためらいもありません。「外国から入って来たキリスト教を信じるなんてもっての他だ」と言われるでしょう。つまり、家族の者が敵になるということです。ところが、都市に来るとミッション・スクールは人気があります。都内にもたくさんの中学、高校、大学があります。どの学校も倍率が高くて入るのが大変です。でも、なぜ親御さんはミッション・スクールに子どもを送るのでしょうか?私は神奈川に住んでいましたが、フェリス女学院に通っている姉妹がいました。お家が開業医で、品の良い感じがしました。近くには、玉川学院、桜美林、東海大などがありました。何となく高級志向的な感じがしました。では、子どもがキリスト教信仰持つと言い出すとどうでしょうか?親から「宗教を持つと偏る。もっと広い考えを持たなければダメだ」と反対されるでしょう。つまり、ミッション・スクールは行っても良いけど、洗礼を受けてはいけないということです。表向きは賛成しても、宗教に凝ってはいけないということです。

 平和の君であるイエス様が、何故平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです」と言われたのでしょうか?それは、生まれつきの家族関係、肉親の情というものを一度断ち切る必要があるということです。日本では「絆」ということが言われています。でも、キリストを第一にするとき、生まれつきの家族が壊され、本当の家族が生まれるのです。人の家は外からは分かりません。けれど、家庭の中に入るとどうでしょうか?本当に夫婦や親子、兄弟姉妹が愛し合っているでしょうか?血肉の関係は悪くなると、骨肉の争いになり他人よりもひどくなります。尊敬心が全くなくなり、傷つけ、憎み合うでしょう。新聞やテレビをにぎわしているニュースの半分が家族関係のもつれと言っても過言ではありません。イエス様は「生まれつきの家族関係や肉親の情という関係を一度断ち切って、土台を据えなおしなさい」と言っておられるのです。そのきわめつけがこれです。マタイ1037「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」これこそが、真の平和をもたらす教えです。家庭においても、イエス・キリストが主であり、王であることを認めるのです。そうすると、本当の秩序がもたらされます。つまり、親は神さまが与えた子どもであることを認めます。また、子どもは神さまが与えた父と母であることを認めます。嫁も姑の間には血の争いがありますが、そこに主イエス・キリストを迎えるのです。つまり、血肉の関係ではなく、主イエス・キリストを間に据えた新しい関係です。一度、神からの剣を受けた家庭こそが、本当の平和を味わうことができるのです。

2. 十字架を負って

 マタイ1038-39「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」この世では、十字架を負うということを間違って理解しています。たとえば、子どもが障害をもって生まれ、親がずっと面倒見ることを「十字架を負う」と言ったりします。ドラマや小説などでも「私は一生、この十字架を背負って生きて行きます」というフレーズが出てきます。その意味は、宿命的な犠牲とか苦しみを指すのでしょう。しかし、イエス様が言われる「自分の十字架を負う」とは全く意味が違います。なぜなら、その後に「自分のいのち」ということばが出てくるからです。いのちはギリシャ語でプシュケーであり、魂とも訳せることばです。言い換えるなら、自分の魂、自分自身、自我ということです。どうでしょうか?誰でも、自分が一番可愛いのではないでしょうか?学校や何かの集合写真でも、まず最初に自分の顔を見ます。自分が目をつぶっている写真は絶対買いません。他の人が目をつぶっていてもあまり気にしません。だれでも人からほめられたり、賞賛されると気持ちが良いです。反対にけなされたり、馬鹿にされると憤慨するでしょう。たまに、言い訳しながら謝るときがあります。そのとき、「そうじゃないですよ。あなたは悪くないですよ」と言われたいのです。ところが、「毎回そうよ。あなたはそこを直さなければダメ」と言われたらがっかりします。創世記1章には、天地創造のことが記されています。5日目に神さまは動物を造られました。鳥類や哺乳類には、昆虫や魚と違って魂があります。魂はヘブル語でネフェシュですが、精神、意志、感情という側面があることを示唆しています。また、動物には自己保存の本能があり、決して自殺をしたりはしません。人間は内側に霊を持ってはいますが休眠状態です。魂が代わりに生きているので、自己保存、自己義認、自己絶対、自己中心、自己優位性、自己憐憫があるのです。

 十字架を負うとは、自分を十字架につけて殺すということです。このことは、神さまが与えた生命的な本能とは真逆なものです。私たちの魂は、他の人はともかく自分だけが生きたいのです。他の人が失敗しても、自分だけは成功したいのです。これは罪というよりも、魂が持つ本能であります。これを自分の意思で、十字架につけて殺すということでしょうか?イエス様は「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」とおっしゃいました。これはものすごい逆説、パラドックスであります。なぜ、自分のいのちを失ったら、それを自分のものとすることができるのでしょうか?英語の詳訳聖書では、自分のいのちは、「低いいのち」「地上のいのち」と訳されています。一方、神から与えられるいのちは「高いいのち」「永遠のいのち」と訳されています。マタイ16章にも同じようなことばがあります。イエス様がご自分はエルサレムで苦しみを受け、殺されるということを予告した直後にも言われました。そのところでは、もうひとこと加えられています。マタイ1626「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」そこには、「まことのいのち」となっています。英語の詳訳聖書には、his blessed life in the kingdom of God、「神の国で祝福されたいのち」となっています。つまり、人が「地上のいのちを捨てない」と固執するならば、天上の永遠のいのちを得られないということです。これは自分の意思でできるものではありません。もし、私たちが「自分の意思で自分を殺すんだ」と言うなら、精神修養的な宗教になるでしょう。きよめ派の教会では「自分を十字架に付けて殺す」という言い方をするかもしれません。ある人が、「ハンマーで自分を十字架につけることができるでしょうか?最後にハンマーを持っている右手が残るでしょう」と揶揄しました。イエス様は「自分の十字架を負え」と言ったのであり、「自分を十字架につけろ」とは言っていません。また、「自分のいのちを失った者」と言っているのであり、「自分で死んだ者」とは言っていません。つまり、私たちは自分を自分で殺すことはできません。できるのは、自分を十字架に渡すということです。自分のいのちを神さまに差し出すということです。すると、神さまの方が、私たちを十字架につけて殺して、新しいいのちを与えてくださるということです。

 このことをパウロはローマ6章とガラテヤ2章で詳しく述べています。ガラテヤ220「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」私たちはキリストを信じてバプテスマを受けたとき、私たちはキリストと共に十字架につけられて死んだのです。ガラテヤ524「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」両方とも完了形の動詞になっています。つまり、神さまが私たちを十字架につけてくださったのです。では、「自分の十字架を負ってわたしについて来なさい」とはどういう意味になるのでしょうか?」私は2つの意味があると思います。第一は、自分がいつでも十字架につけられるように十字架をかついでいるということです。残念ながら、私たちの自我はゾンビのように蘇り、「俺が」「私が」と主張します。もちろん、私たちの自我は一度、キリストにあって砕かれたはずです。前にビスケットのたとえを話したことがあります。「私はキリストとともに十字架につけられました」と信仰によって受け取るとき、自我が砕かれます。ビスケットが3つに砕かれたようなものです。でも、後から割れたビスケットをお皿の上に修復することができます。遠くから見ると分かりません。油断していると、「俺が」「私が」と言い出します。そのとき、十字架を自分に適用するのです。「アーメン。主よ、そうでした。あなたに従います。」一度、壊れているので、すぐ壊れます。どうでしょう?あなたは一度、キリストと一緒に十字架に死んだことを認めておられるでしょうか?言い換えると、古い自我が打ち砕かれたことがあるでしょうか?本当の弟子とは、いつでも十字架にかかれるように、自分の十字架を負ってイエス様について行くのです。もう1つの「自分の十字架」とは何でしょう?それはイエス様が受けたような迫害を甘んじて受けるということです。親分のイエス様が迫害を受けたのですから、子分の私たちが迫害を受けるのは当然だからです。この世から迫害を受けるようになったら、本当の弟子だという証になるのです。

3. キリストの報い

 マタイ1040-42「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」この教えは、迫害を受ける当人ではなく、その周りの人たちのことです。このところには、預言者、義人、弟子という三種類の人たちがでてきます。どれも、同じことを言っているのですが、役職がある人とそうでない一般的な弟子が存在しているようです。旧約聖書では預言者が神のことばを伝えました。今日のような聖書がなかったので、「主はこう言われます」と代弁しました。では、今日、預言者はいないのかというといます。エペソ4章には「使徒、預言者」という役職があります。また、Ⅰコリント12章にも「第一に使徒、第二に預言者」と出てきます。ところが、今日は、教団教派が使徒や預言者の代わりをするようになりました。そして、教師や牧師が地方教会において権威があります。それに、よそから使徒や預言者が訪ねて来るということはめったにありません。でも、それは現代の教会が持つ弱さでもあります。なぜなら、教師や牧師は世界の教会を見通すことができません。教団教派も神さまのような視野を持っていません。だから、今日は教会に力がなく、一致もないのです。私は今日も、「使徒、預言者」は存在するし、存在すべきだと信じています。

 それはともかく、世の人々が預言者、義人あるいは弟子として認めるかどうかです。この文脈から考えると世の多くの人たちが、この人たちを迫害しています。でも、一部の人たちは、「そうじゃない。彼らは神さまが遣わした人たちであり、尊敬に値する人たちだ」と認めるということです。このところでイエス様は「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」と言われました。つまり、預言者、義人あるいは弟子の背後には、イエス様がいらっしゃるということです。彼らはイエス様の代理者であり、代表者だということです。それを認めることができるのは、信仰があるからです。つまり、彼らを受け入れるということは、イエス様を受け入れるということです。そうするとどうなるのでしょうか?「預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」アーメン。ものすごいことであります。その人はただ預言者として彼らを受け入れ、義人として彼らを受け入れ、キリストの弟子として彼らを受け入れただけです。なのに、同じ報いを受けるということです。なんというイエス様の約束でしょうか?サッカーで言うなら、サポーターも同じ報いを受けるということです。長いキリスト教会の中で、迫害された時があったと思います。初期の頃は、ローマ帝国がキリスト教会を迫害しました。ある人たちは、カタコンベと言われる地下墓地に隠れました。おそらく、だれかが彼らに食べ物や必要な物を運んであげていたでしょう。イエス様は「その人は決して報いに漏れることはありません」と言われました。使徒パウロはローマ人への手紙の最後で、たくさんの協力者に感謝を述べています。「この人は多くの人を助け、また私自身を助けてくれた人です」、「自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれた」、「一緒に投獄されたことのある人」などと書いてあります。パウロは大使徒ですが、パウロを助けた数多くのサポーターがいたことがわかります。彼らもパウロと同じような報いが与えられるということです。

 私は牧師としてこのところに立っていますが、牧師として尊敬する人もいれば、そうでない人もおられます。おそらく、仕草とか言葉使いで「ちょっと」と見下げる人がいるのかもしれません。でも、「躓きを与えることがあるかもしれないけれど、神さまが立てたお方なんだ」と尊敬する人もいらっしゃいます。私は、神さまはあえて、欠けのある人を立てて、キリストに出会わせているのだと思います。人間的な面だけを見て、「ああ、これはダメだ」と敬遠するならば、祝福は行かないと思います。イエス様も肉体をもってこの地上に来られたとき、全員がイエス様を信じたかというとそうではありませんでした。十字架の前にはほとんどの人がいなくなりました。なぜなら、当時の期待していたメシヤではなかったからです。使徒パウロはどうでしょうか?コリント教会の人たちは「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会った場合の彼は弱弱しく、その話ぶりはなっていない」(Ⅱコリント1010と言いました。使徒パウロでもそのように見られたというのは何という慰めでしょうか。パウロはこのように言っています。それは私たちへのことばです。Ⅱコリント107「あなたがたは、うわべのことだけを見ています。もし自分はキリストに属する者だと確信している人がいるなら、その人は、自分がキリストに属しているように、私たちもまたキリストに属しているということを、もう一度、自分でよく考えなさい。」世の人々がどう見ようとも、主にある預言者、義人あるいは弟子がいることを認めなければなりません。イエス様は「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」と言われました。何と水一杯でも、その人は決して報いに漏れることがないのです。私たちはキリストの弟子として生きるときにどうしてもこの世から迫害を受けます。でも、世の中には一緒に迫害しないで、キリストの弟子ということで受け入れ、助ける人もいるんだということです。

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