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2016年9月 2日 (金)

迫害を克服する道 マタイ10:16-23 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.9.4

前回は、イエス様が12使徒を任命し、短期宣教に遣わすところを学びました。おそらく、マタイはいろんなところで語られた教えを、この10章にまとめているのではないかと思います。イエス様は彼らが宣教に出て行くとき、迫害に会うことを前もって知っておられました。だから、「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」と言われました。つまり、迫害を受けるときは、「頭では知恵を働かせ、心は純真であれ」ということです。きょうは「迫害を克服する道」と題して、3つのポイントで学びたいと思います。

1.人々には用心しなさい

 17節でイエス様は「人々には用心しなさい」と言われました。なぜなら、彼らは狼のように命を狙ってくるからです。彼らとはだれか?またどのようなことをするのでしょうか?17節「彼らはあなたがたを議会に引渡し、会堂でむち打つから」とあります。ここで言われている、彼らというのはユダヤ人です。議会とはサンヒドリン議会であって、イエス様を死刑に渡しました。また、会堂というのはシナゴーグ、ユダヤ人の会堂です。使徒4章に記されていますが、使徒たちは議会において裁判を受け、むち打たれ、投獄されました。18節「また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。」これは、ローマ総督やヘロデ王、そしてローマのカイザルのことです。使徒12章には、ヘロデ王がヨハネの兄弟ヤコブを切り殺し、ペテロを捕えて牢に入れたことが記されています。やがてパウロが小アジアとヨーロッパに伝道に行きますが、何度もむち打たれ、裁判にかけられ、また投獄されました。ローマ帝国はキリスト教会を紀元後300年まで迫害し続けました。それでもクリスチャンの数が増えるので、コンタンティヌス帝は、キリスト教を国教にしました。それから長い中世の時代が1000年間くらい続きます。迫害がなくなった代わりに、霊的ないのちがなくなりました。

 ところで、どうしてキリスト教会は迫害されるのでしょうか?それは私たちの信仰が、この世の仕組みと合わないからです。日本ではどうでしょうか?徳川幕府は1613年からキリスト教の禁止に乗り出しました。それでもキリシタンは減る様子はありません。それで、幾つかの制度をもうけ、根絶やしにしようと考えました。全国民は仏教のいずれかの宗派に属させられ、お嫁に行くときや旅行に出るときは、どこそこのお寺に属しているという身分証明書を持参させられました。さらに、幕府は五人組制を利用し、これに宗教的相互監視の責任を負わせました。内部からの密告でキリシタンが発見されたときは、訴えられた者だけが処罰されました。しかし外部から密告されて発見された場合は、五人組全部が同罪とみなされ処罰されました。幕府はこれでも安心できず、1695年、「キリシタン類族改め」なる法令を布告しました。これは、一人のキリシタンが発見されると、その身内の者一族郎党に対して、レッテルをはって特別監視下におくという法令で、男子の場合は親子七代、女子の場合でも親子四代に及びました。一説によると20万人の尊い生命が奪われたようです。四日市に堀越暢冶(のぶじ)という牧師がいらっしゃいます。先生は、神主の子供として生れ、日本の宗教観を研究しておられます。先生はある本の中でこのように訴えています。「徳川幕府は仏教によって、明治以降は神道によって人々を支配してきたために、日本人は全員仏教徒であり、同時にまた、神社の氏子だと言われてきました。聖書が日本に合わないのではありません。聖書が独裁制・封建制に合わないのです。また、聖書は偶像礼拝を否定します。ですから、偶像礼拝を奨励して益をこうむっている者たち、すなわち、各種の宗教者にとっては、キリスト教はまことに不都合なものとなるのです。どうか、キリスト教と聖書に対する偏見を捨てて、聖書そのものを読んでみて下さい。徳川の亡霊や明治の亡霊におびやかされないで、自らの手で真実をつきとめ、確認してください。」アーメン。日本人は今も徳川の亡霊によって、「キリスト教は邪教である」と思わされています。特に地方で伝道している教会は、今もなお、お寺の檀家制度をはじめ、たくさんの因習と戦っておられます。

 イエス様は、迫害は伝道の良い機会になるとも教えています。18節「また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。」たとえば、パウロは裁判にとらえられたとき、自分がどうしてクリスチャンなったか弁明しています。さらに、普通だったら会えない、身分の高い人たちに伝道することができました。ローマ総督と祭司長たち、そして王様の前で、自分がどうしてクリスチャンなったか証をしています(使徒26章)。おそらく、パウロはローマのカイザルに会って、直接、弁明したことでしょう。やがて、パウロはネロ皇帝によって殉教させられました。このように使徒パウロの伝道は常に迫害と隣り合わせでした。言い換えると、迫害なしに伝道はありえないということです。私たちは人々から良く思われ、尊敬されて、なおかつ福音を伝えたいと思います。そういう時もないとは言えませんが、多くの場合、福音を伝えると嫌がられます。私は結婚の挨拶をするため、家内の実家、岩手に行きました。若かったせいもあり、「聖歌を1曲歌いたい」と言いました。すると、お義父さんから「やめてくれ。郷に入らば、郷に従えとある」と断られました。やがて、私の子どもたち、お義父さんにとって孫が行ったら、随分と和らぎました。小学生の有悟が、お義父さんの頭に按手して、祈ってあげたということです。

 イエス様は「人々には用心しなさい」と警告しました。なぜなら、福音を受け入れないばかりか、迫害する人たちがいるからです。「福音は『良い知らせ』なはずなのに、どうしてなんだろう?」と悲しくなります。でもこの世の神である悪魔が、彼らの背後にいて邪魔をしているのです。悪魔は一人でも自分の持ち物(魂)を失いたくないのでやっきになっています。だから、迫害する人たちが必ずいます。だから私たちは、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありつつ、福音を伝えなければなりません。迫害を恐れず、それが証のチャンスになることを信じるべきです。



2.
父の御霊が教える


 マタイ1019-20「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」ルカによる福音書には、「言うべきことは、そのとき聖霊が教えてくださる」(ルカ1212と記されています。私が座間キリスト教会で奉仕していたとき、ママクワングという大柄の女性が来られました。彼女は、中国が生んだ20世紀最大の伝道者の一人でした。「中国地下教会の母」と呼ばれ、多くの人たちをキリストに導きました。これは実際にあったことです。ママクワングが共産党員による三日間の拷問の後、独房に投げ込まれました。そこは、ひどい所で、地下にある狭いジメジメした部屋でした。彼女はしばらく意識を失い床に倒れていましたが、主は夢の中に現れて彼女を慰めて下さいました。そして、ここでも主のために証し続けるようにとおっしゃったのです。彼女は「主に従います」と言ったものの、どのように証をすればよいのか分かりませんでした。この状況ではとても不可能に思えたからです。しかし、そのとき、御霊が方法を示して下さいました。彼女は、1つの提案を持って看守の所へ行きました。「この監獄はとても汚れています。私が働いてきれいにしましょうか」と言いました。看守は彼女のこの申し出を快く受け入れました。しばらくすると、彼女は全ての場所の出入りが自由になったのです。その結果、囚人への伝道ができるようになり、何百という囚人がキリストに自分の人生を捧げました。看守たちも、彼女が囚人たちを心から愛し、祈りをもって仕えている姿を見て感動を受けました。彼女が主について教えることを通して、多くの看守がクリスチャンになりました。本当に主が死と涙の谷を喜びの湧く所として下さったのです。

 既に、天に召された蒲郡教会の石原牧師が、「伝道アレルギーの治療」というコラムを書いています。一般的に伝道することを恐れるクリスチャンは、どのように、その人と知り合いになり、どのように語れば良いかに迷っています。また、福音を語る自信がないために、人に近付くことができません。この事について私ができるアドバイスは、あまり考える事をせず、相手を見定めたら、迷わず近付いて行き、話しかけることです。言うべきことは、その時に聖霊が教えて下さるからです。人の外見を見て、あの人は話しにくそうなタイプだとか、聞いてくれそうもない顔だとか自分勝手な言い訳を考えずに、心で決めたら、素早く行動することです。私の勇気の源は、聖霊に対する従順と信頼、そして魂の永遠の行き先を考えることです。滅びから救われて欲しいと願う愛の力こそ、救霊の原動力のはずです。石原牧師は「実際に語ってみると、語れるんだ」と結論づけています。私も蒲郡教会の石原牧師や遠藤牧師らの指導のもとで、伝道訓練を受けたことがあります。それは、河口湖畔のホテルで弟子訓練のセミナーがあったときです。午後、みんなで伝道に行こうということで、富士吉田の駅に行きました。1月だったので、駅の待合室にストーブがあり、人々が電車を待っていました。石原牧師は顔がメキシコ人なので、若者たちには、サッカーの話から始めるそうです。私はそこが地元でないので、勇気を奮い立たせました。旅の恥はかき捨てです。ストーブにあたりながら、ご婦人に話してみると語ることばが出てくるではありませんか。本当に不思議だなーと思いました。一番大切なのは度胸であり、二番目はとにかく口を開くということです。

 説教は準備をして語らなければなりません。しかし、伝道するときは、聖霊様が何を話すか示してくださるということです。ですから、本当に神さまが生きているかどうか確かめたい人は、そういう伝道の場に身を置いてみると良いでしょう。今年の4月、会堂の補修工事がありました。そのとき、窓や壁のシーリング(継ぎ目を塞ぐ工事)をしてくださった男性がいました。私が下にいると、その人が「うーん、うーん」うなっていました。後から「どうしたんですか?」と聞くと、古いシールをカッターで削り取るのが大変なんだということでした。朝の工事前とかお昼ちょっと話す機会がありました。沖縄の人で、一時は羽振りが良く、本の出版も出がけたそうです。結果的に出版業が成り立たず、職人に戻ったそうです。最後は屋根も修理してくれて、とっても真面目な人でした。ほとんど日常的な会話でしたが、good-newsとジョエル・オスティーンの本を差し上げました。この仕事が終わって別の現場に行きましたが、彼が救われるように祈っています。もし、伝道を技術やテクニックとして考えるなら、恐れが出てきます。でも、そのとき聖霊が示してくれるとわかるなら、だれでもできそうです。男性は女性より、口べたで話しかけるのが苦手です。でも、何か体を動かしながらだとできます。当教会ですと、一緒に「流しそうめん」の奉仕をしながら、一緒に大掃除をしながら話すことができます。引っ越しのお手伝いとか、バーベキューとか、ハイキングなども良いと思います。かなり前に水元公園でCSの父兄と一緒にバーベキューをしたことがありますが、話が良く弾みました。日本人の場合は、まず友達になることが重要です。その後、心の悩みとか心配事を打ち明けてくれるのではないでしょうか?

 平和な時代は、テキストのように議会の前に立たされることはないでしょう。しかし、いつ何時、日本に迫害の嵐が襲ってくるか分かりません。世の終わり、反キリストが猛威をふるって大迫害の時代がくると預言されています。今は福音を伝えても捕えられることはありませんが、いつまで平和で自由な時代が続くかわかりません。もしかしたら、生きているうちに、議会の前に立たされることがあるかもしれません。パウロはテモテにこう言いました。Ⅱテモテ42-4「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。・・・人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」良い時代であろうと、悪い時代であろうと、みことばを宣べ伝え、また証をしていきたいと思います。「言うべきことは、そのとき聖霊が教えてくださる」ことを体験してみましょう。


3.次の町へ逃れよ


 21節と22節の身内からの迫害は、34節と重複していますので、そのときにお話ししたいと思います。第三のポイントは23節からの内容です。1023「彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。」イエス様は、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」と言われました。それはどういうことかと言うと、その町で迫害を受けて死んではならないということです。その町から次の町に逃れ、またそこで伝道しなさいということです。J.Cライルは注解書で、「困難な時代は、2つの極端に走らないように」と警告しています。簡単に言うと、あえて迫害を受けるような危険を冒さないということです。それが、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」ということです。1つの極端は迫害を恐れるあまり、口を閉ざしてひとことも話さないということです。もう1つの極端は、場所や環境をわきまえないで、伝道し過ぎるということです。私たちは本当に聖霊の導きを求め、ある時は口を開き、またある時は口を閉ざす必要があります。また、町で受ける迫害はどう対処すべきなのでしょうか。私たちは1つの町に留まって、福音を語らなければなりません。しかし、迫害が起って、身の危険が及んでもそうすべきか、というとそうではありません。イエス様は、「彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい」と言われました。これは「簡単に命を落とすな。伝道のために、新しい町に逃れよ」ということです。命がけで伝道すべきですが、迫害によって命が危険にさらされたら、次の町にのがれなさいということです。

 この真理は虐待を受けている人にも適用可能です。「虐待を受け続けている人は、その人や、その家庭から逃げられない」と聞きます。その人には2つの思いがあります。第一は、私がなんとかこの人を変えてみせる。私しか、この人を救えないという考えです。そうなると虐待を受けたまま、そこで死んでしまいます。第二は、ここからは決して逃げられない。他に私が住む世界はないんだという思いです。そして最後に、そこで死んでしまいます。私たちの思い、マインドは「一度こうだ」と思い込むとなかなか変えられません。特に、虐待の場合はそういう力が働くそうです。つまり、別な選択肢、「ここから逃げて良いんだ」という考えがあるということです。「逃げる」というと卑怯な感じがして嫌かもしれませんが、「新しい世界がある」ということです。捕らわれているその場所を離れて、距離を置いて客観的に見るということが重要です。イエス様は「彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい」と言われました。テレビで、ブラック企業、ブラックアルバイトを辞めることのできない人のことが放映されていました。ブラック家庭、ブラック宗教、ブラックな人から、逃れて良いのではないでしょうか?かなり前に、軽井沢で集会を持ったことがあります。ゴスペルで救われた若者がたくさん出席しました。そこに、カルト的な教会から逃れてきた姉妹がいました。カウンセラーが「一日も早く、あなたはそこから逃げなさい。逃げて良いのです」と言われてほっとしたそうです。後から聞いたのですが、「軽井沢が私のターニング・ポイントになった」と言っていました。

 話を戻します。パウロとバルナバが聖霊によって、アンテオケ教会から宣教に遣わされました。海を渡って小アジアに行きました。ピシデアのアンテオケで伝道しました。2つの安息日、会堂で教えましたが、町中の人が神のことばを聞きに集まってきました。ところが、この群衆をみたユダヤ人がねたみに燃え、パウロたちを迫害しました。パウロたちは足のちりを払い落してイコニウムに行きました。イコニウムでも伝道しました。ところが、またユダヤ人が反対しました。今度はルステラに行きました。ところが、またユダヤ人が反対し、パウロたちを石打ちにしました。翌日、パウロたちはデルベに行き、その町で福音を宣べ、多くの人を弟子にしました。そして、もとのアンテオケに帰ってきました。まるでスパイ映画のように、難を逃れながら、町から町へと伝道に行きました。彼らはイエス様の教え、イエス様の戦術を守っていたのです。昔、「東京でだめなら名古屋があるさ。名古屋がだめなら大阪があるさ」という歌がありました。1つの町がだめだったら、新しい町に行って伝道して良いということです。魚釣りについて聞いたことがありますが、ある人が釣れると、みんなそこへ釣竿をおろすそうです。彼らはたえずポイントを変えて、竿をおろすのであります。伝道もある意味では、魚釣りと似ています。

私は神さまが備えておられる魂がいると信じます。ある人たちは、どうしたら救われるのか待っています。ちょうどあなたが、福音を伝えるために用いられる人かもしれません。使徒8章に書いてありますが、エチオピアの宦官が馬車の中でイザヤ書を読んでいました。聖霊がピリポをそのところに送りました。ピリポが走りながら「あなたは、読んでいることが分かりますか?」と聞きました。宦官は「導く人がいなければ、どうして分かりましょう」と言いました。ピリポは馬車に乗って、これはイエス様のことを書いているのですと教えてあげました。すると、宦官はイエス様を信じて、洗礼を受けたいと願いました。ちょうど水があるところに来たので、ピリポは彼にバプテスマを施してあげました。ピリポは使徒ではなく、信徒でした。信徒がバプテスマを施したのです。しかし、教会はいつの間にか、聖職者でなければバプテスマを施してはいけないと決めるようになったのです。このところを語ると物議をかもしてしまうので、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでなくてはなりません。そうです、きょうの「迫害を克服する道」の答えは、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」ということです。クリスチャンはとかく堅物で付き合いづらいと思われています。伝道者の書716「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。」伝道者の書は「極端すぎてはいけない、バランスが重要である」と教えているのではないでしょうか?私たちは福音を伝えようとすると迫害に合う可能性が出てきます。でも、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」のごとく、迫害をかわしながら、福音を伝えていきたいと思います。神さまが逃れの道を与え、聖霊様が語るべきことばを与えてくださいます。

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