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2016年8月20日 (土)

主イエスのミニストリー マタイ9:27-38 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.8.21

 「ミニストリー」って何だろうと思うかもしれません。私は「神さまの働き」とか「奉仕」という意味で使いたいと思います。イエス様の究極のミニストリーは、十字架でご自分の命を与えること、つまり贖いでありました。しかし、地上で3年半、その時代の人たちに仕えました。そのことが4つの福音書に記されています。イエス様は大きく分けて、3つのミニストリーをなされました。第一は教え、第二は福音宣教、第三は病の癒しであります。私たち教会は、イエス様のミニストリーを継続すべきでありますが、果たしてバランスよくしているでしょうか?きょうはそのことを考えながら、神さまの恵みを分かち合いたいと思います。 

1.教え

マタイ935「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え」とあります。マタイ423「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え」とも書いてあります。ここで言われている「教え」は、単に知識を与えるということではありません。ギリシャ語ではディダケーと言いますが、それは「信仰者がいかに生きるべきかを教える」ということです。ギリシャの哲人は理性によってすべてのことを解明しようとしました。人々は、そういう知者から教えをいただくことが賢明であると考えたことでしょう。しかし、ユダヤ人は、すべての真理は神のみことば聖書にあり、それを解き明かすことが教えであると考えていました。イエス様はラビ(教師)として、今日の旧約聖書(律法や預言者)から教えました。当時はユダヤ教の会堂があちこちにあって、人々は安息日にそこで礼拝を守りました。このところに、「イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教えた」と書いてあります。初期の頃はイエス様も会堂で、律法や預言書から教えました。ところが、律法学者たちから妬みをかい、だんだんそれができなくなりました。仕方なく、人里離れた場所や、人の家で教えるようになります。きょうの箇所を見ると、イエス様が目を癒された人たちに「決してだれにも知られないように」と厳しく戒めています。マタイ931「ところが、彼らは出て行って、イエスのことをその地方全体に言いふらした。」悪気はなかったのでしょうが、結果的にはイエス様の働きを邪魔したことになります。当時の人たちは「メシヤはイスラエルという国を復興させてくれる王様だ」と考えていました。そのように誤解されてしまうと、イエス様の教えが正しく届かなくなってしまいます。また、ある人たちは奇蹟だけを求め、イエス様の教えには耳を傾けなくなるでしょう。

 では、イエス様はどのように教えたのでしょうか?マタイ728-29「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」当時の指導者たちは、「モーセはこう言う」「あるラビはこのように語る」「律法と預言はこう言う」と教えました。彼らは自分の名によって語ろうとはしませんでした。言い換えると、彼らの教えは「受け売り」でありました。律法学者は自分が経験していないことを教え、自分が実行できないことを教えたのです。民衆は彼らの教えが非現実的なのを感じて、心の中で軽蔑していました。一方、イエス様はどうでしょうか?「昔の人々に…と言われていたのをあなたがたは聞いています。しかし、私はあなたがたに言います」とストレートに言いました。受け売りではなく、ご自分の名で直接教えました。しかも、イエス様は律法の字面ではなく、律法の精神を教えました。そのため人々の心が突き刺されてしまいました。なぜ、イエス様の教えに権威があったのでしょう。それは、イエス様が律法の著者であるとともに、ご自身が生ける神のことばだったからです。弟子のヨハネはイエス様をこのように証言しています。ヨハネ11 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」Ⅰヨハネ11「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわちいのちのことば」。弟子のヨハネはイエス様のそばにいて、「イエス様ご自身が神のことばであり、いのちのことばなんだ」と分かったのです。そして、弟子たちはイエス様がおっしゃったことを書き残しました。それが今日の福音書になっています。英語の聖書には、Red letter editionと言って、イエス様が話されたことばが赤い活字になっています。その聖書を見ると、ヨハネ福音書は赤い活字がかなりの分野を占めています。だからと言って、パウロの教えの方が劣るとは思いません。なぜなら、他の著者たちも、神の霊感によるものだからです。しかし、イエス様が言われたことばを赤い活字で区別したいという気持ちも分からない訳ではありません。イエス様は世界最大の教師と言えます。一方的ではなく、人に考えさせるように教えました。質問されると質問で返す場面が多くあります。また、イエス様はご自分が教えたように生きました。教えと生き方が分離していなかったのです。だから、パリサイ人のニコデモはイエス様を「神からの教師」と言いました。

 では、イエス様の教えで、中心的なテーマとは何でしょうか?それは、天の御国(神の国)であります。マタイ5章から7章は「山上の説教」として知られています。その内容は地上の律法というよりは天の御国の律法です。地上において、イエス様が教えられたように生きることは全く不可能でしょう。「情欲をもって異性を見るなら姦淫」とか、「人を憎むだけで殺人」と言われたら、一体だれが救われるでしょう。しかし、それは天の御国の律法であり、神のご支配のもとだったら可能になるということです。また、マタイ13章を見ると、イエス様はたとえによって「天の御国はどういうものか」を教えておられます。私たちは、天の御国を見たことがありません。イエス様だけが、向こうからこっちにやって来たお方です。私たちはこの地上のことしか分かりません。そのため、イエス様は、この地上のものを用いて、「天の御国はこういうものである」と教えられました。マタイ24章では、イエス様は天の御国がどのようにやってくるか教えられました。マタイ25章では、天の御国において報われる生き方とそうでない生き方を教えられました。私たちはイエス様の教えの中心テーマが「天の御国」であることを知らなければなりません。音楽でも絵でも文章でも、テーマというものがあります。テーマを忘れてしまうなら迷ってしまいます。イエス様は神からの教師として、第一に天の御国について教えてくださったのです。

2.福音宣教

 イエス様の第二のミニストリーは、福音宣教です。マタイ935「御国の福音を宣べ伝え」。マタイ423「御国の福音を宣べ伝え」とあります。福音はgood news「良い知らせ」であります。でも、私たちは福音のもとの意味を知らないと、ただの「良い知らせ」になります。福音はギリシャ語で、ユアンゲリオンですが、もともとは戦勝の知らせでありました。紀元前490年、ギリシャとペルシャの「マラトンの戦い」がありました。ペルシャの勝利はだれの目にも明らかでした。当時は戦争で負けたら、金品が没収され、町は火で焼かれ、人々は奴隷にされました。ギリシャの市民は、勝ったか負けたか、一日千秋の思いで待っていました。もし負けたなら、一目散に逃げなければなりません。そのとき、一人の兵士がマラトンから走ってきました。「喜べ、勝った」と叫んで息が絶えました。その後、マラトンからギリシャまでの走った距離が、マラソンの起源になったと言われています。何を言いたいのか、福音とはもともと「戦争に勝った」という「良い知らせ」だったということです。イエス・キリストは十字架で死なれ、私たちの罪を支払ってくださいました。そして、三日目に復活し、キリストを信じる者は救われ、神の国に入ることができるという保証になりました。イエス様は十字架で死なれただけではありません。イエス様は三日後に復活して「私は死と陰府と悪魔に勝った」という知らせが「良い知らせ」なのです。その後、復活を目撃した弟子たちが、全世界にこの福音を宣べ伝えに行ったのです。これが、キリストの福音、御国の福音です。単なる良い知らせではなく、「キリストによってすべての罪が赦されて救われる」という良い知らせです。

 地上の正統的な教会のほとんどは、キリストの十字架と復活が「良い知らせ」、福音であることを認めます。特に福音派と呼ばれる団体は、キリストの十字架と復活を強調します。でも、そういう団体に限って、癒しとか奇蹟を否定します。彼らは口々に「癒しや奇蹟は終わった。癒しや奇蹟は危ない」と言います。つまり、人が救われるのはキリストの十字架と復活という福音で十分だということです。「癒しや奇蹟を行って人を信じさせるのは邪道であり、ご利益宗教だ」とまで言います。正直、私は彼らから言わせると邪道であり、ご利益宗教の部類に入ります。しかし、私たちが注目すべきことは、「イエス様はどういう福音を宣べ伝えたのか」ということです。さきほど2つのみことばを引用しましたが、「御国の福音を宣べ伝え」と言いました。イエス様は単なる福音を宣べ伝えたのではなく、「御国の福音を宣べ伝え」たのです。これは、ものすごく重要なことです。単なる福音だと、キリストによって罪が赦され、永遠のいのちを持つということです。ヨハネ316「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」アーメン。私はこのみことばが真実であり、文句を言うつもりは全くありません。でも、このところには、永遠のいのちを持った人がどこで生きるかは書かれていません。そのため、イエス様はヨハネ14章で行くべきところは「父のみもと、父の家」であると言われました。端的に、御国の福音と単なる福音との違いは何なのでしょうか?御国とは、ギリシャ語で「神の王的支配」という意味です。ですから、御国を「神の王国」と言い換えても構いません。もし、私たちが神の王国に入りたいと願うならどうしたら良いでしょうか?それは、神と和解して、神の支配を受ける必要があります。もし、人が「私が王であって、神さまが王であることを認めません」と言ったならどうなるでしょう?その人は、神の王国に入ることはできません。なぜなら、王は二人いてはならないからです。つまり、御国に入りたければ、「イエス様を救い主としてだけではなく、王として従います」という従順が求められるということです。単なる福音であるなら、どうでしょう?「私はイエス様を救い主として信じますけど、主としてではありません。なぜなら、従えない分野もあるからです」ということを許すことになるからです。ですから、本当の信仰とは、キリストの十字架と復活を信じるだけではなく、イエスを主として信じて従うということも含まれるということです。私たちは単なる福音ではなく、御国の福音を信じるべきです。

 また、御国の福音と単なる福音はこういうところでも違いが出てきます。イエス様はマルコ福音書で開口一番「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ115と言われました。つまり、福音を信じることは、神の国に入ることなんだということです。イエス様は御国の福音を宣べ伝えただけではなく、ご自分と一緒に御国が来たことを証明されました。イエス様は「バプテスマのヨハネの弟子に、このように報告せよ」と言いました。マタイ115「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、らい病に冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。」イエス様は福音を宣べ伝えながら、目や足、耳を癒し、病気の人を癒し、死人さえ生き返らせました。福音宣教と癒しと奇蹟がセットだったことがわかります。なぜでしょう?人々に御国の福音を知らせながら、「御国には障害も、病も死もありませんよ」と知らせたかったのではないでしょうか?人々は自分の障害や病が癒されて、「ああ、御国とはこういうものなんだ」と御国の前味を味わったのではないでしょうか?その後、「ああ、私もイエス様の福音を信じます。私も御国に入りたいです」と決断したのではないかと思います。もし、福音しか語らなかったなら、信じた人は半分以下だったでしょう。今日の福音宣教がはかどらないのは、福音しか語らないからかもしれません。使徒パウロはギリシャ世界に福音を宣べ伝えに行きましたが、何と言っているでしょうか?Ⅰコリント24「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。」パウロの宣教はことばだけではなく、御霊と御力の現れだったということです。これは、まさしく癒しや奇蹟のともなった宣教であります。使徒の働きを見てわかりますが、多くの人たちはみことばに伴うしるし(癒しや奇蹟)見て、信じたのです。もちろん、みことばだけで信じる人もいますが、御国が来ていることのしるしを見たらもっと信じるのではないでしょうか?このように、イエス様が宣べ伝えたのは、単なる福音ではなく、御国の福音であったということです。

3.病の癒し

 イエス様の第三のミニストリーは病の癒しです。前のポイントと同じように2箇所から引用いたします。マタイ935-36「あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」マタイ423-24「民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。」福音書を見ると、イエス様の病の癒しの記事がとても多い事に驚かされます。何度も言いましたが、病の癒しや奇蹟はイエス様がメシヤであることの証拠でした。また、それは御国がイエス様と一緒に来たことの証でもありました。でも、イエス様は単なるパフォーマンスで行ったのではありません。36節に「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」とあります。イエス様の病の癒しや奇蹟の動機は、愛でありあわれみであったということです。つまり、イエス様は病や障害をお見過ごしにされなかったということです。なぜなら、それらは神さまが計画したものではなかったからです。イエス様は、病は正常なものではなく、敵として扱いました。だから、病に命令をして癒されたのです。このところに、「あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた」とありますので、イエス様にとって癒されない病は1つもなかったということです。イエス様は病の癒しと同時に悪霊の追い出しもなされました。霊的な束縛からの解放です。

 問題は、「病の癒しや悪霊の追い出しというミニストリーを教会が担うべきか?」ということです。元来、キリスト教は、アジアのイスラエルから始まったのですが、ヨーロッパやアメリカを経由して来ました。言い換えると西洋の服を着たキリスト教です。福音を伝えに来た宣教師に悪気はなかったと思いますが、やっぱり西洋の服を着たキリスト教を伝えてしまいました。西洋の歴史を見るとわかりますが、啓蒙主義という思想が起りました。彼らは人間の理性によって何でも証明できると考え、証明できないものは迷信だと言いました。また、理神論という考えがイギリスで起りました。「神さまは世界を創造したが、その後は関与していない。創造後の世界は、自然の法則で独立して動いている」という考えです。その教えを受けた教会は神さまの聖なる世界と世俗的で物理的な世界を2つに分けてしまいました。そうなると、この世は閉ざされており、奇蹟というのはめったに起らないんだということです。さらに、スコフィールドという学者が時代区分説を唱えました。彼の理論を極端に捉えた人たちは「キリスト教会の発達当時は、まだ未成熟の時代であり、教会の成長と確証のために、目を見張るような、御霊の賜物による働きが必要であった。しかし、新約聖書が完成した今は、そのような賜物の必要性は消えた」と考えます。彼らはその証拠として、「癒しや奇蹟は福音書に多く出てくるが、後半のパウロの書簡には出てこない」と言います。私は「福音書や使徒の働きにたくさん載っているので、重複するので書いていない」と考えます。私は毎週の説教をブログにアップしています。「いのちのことば」と言いますが、かなりの人が見ておられます。毎日のアクセスは100件以上です。その中で、最も見られているのが『癒しに関する信仰』です。恐らく「教会では癒しはないと謂うけど、本当だろうか?」と疑問を抱いているクリスチャンが見ているのかもしれません。そういう意味ではニーズがあるのではないかと思っています。

 私はジョエル・オスティーンのお母さん(ドディ)の本を読んで感動しました。ドディは1歳のとき小児麻痺にかかり、小学校4年生まで左足に金具をはめていました。やがて看護師になり、牧師のジョンと結婚しました。結婚してまもなく、長女(リサ)が生まれました。リサは生まれてまもなく脳に異常があることがわかりました。そのため、手足も動かせず、ミルクを飲む力もありません。医者が言うにはおそらく胎内でいたとき、へその緒が首に絡みつき、大脳に障害が起ったということです。医者は「この子は車いすの生活で、両親が一生面倒みなければならない」とまで言いました。夫のジョンは大きな教会の牧師でしたが、聖書に癒しの記事があることに注目しました。そして、「過去に起ったことは、今日もきっと起るはずだ」と二人で一生懸命祈りました。1か月たってもそのまま、3か月たってもそのままでした。それでもあきらめずに祈っていると5か月目から手足が少しずつ動くようになりました。そして、7か月目からは普通の赤ちゃんのような動作ができるようになりました。夫のジョン牧師は、聖霊のバプテスマを必死に祈り求めました。すると聖霊の油注ぎを受けて、癒しを行うようになりました。教会でも癒しを宣言し、癒しのミニストリーを始めました。そうしたら教会から猛反対が起り、辞職を迫られました。ちょうど1000名入る新会堂を献堂したばかりなのに、辞めることになりました。ドディと夫のジョンは90人の教会員を連れて、廃業したスーパーの建物から再スタートしました。それから数十年後たって、4000名の教会になったそうです。それで終わりではありません。ドディが48歳のとき転移性の肝臓がんと診断され、余命1ヶ月と言われました。長男のポールは外科医でしたが、それを聞いて病室の外で泣きました。ドディは家に帰って、自分の身を嘆いてベッドに臥せったでしょうか?そうではありません。聖書から癒しのみことばを書き写してカードにしました。それらのカードと若くて元気だったころの写真を洗面台、冷蔵庫、戸棚、ありとあらゆるところに貼りました。みことばによる癒しを宣言しつつ、夫と心を合わせて祈りました。黄疸がひどくなり体重も40キロに痩せました。それでも朝早く起きて、体を洗って服を着ました。そして、病人のお見舞いにでかけました。そうするとどうでしょう?急激ではありませんが、徐々に体調が回復していきました。2年ぐらいたって完全に回復し、35年たった今も元気です。現在83歳ですが、彼女のおもなミニストリーを病人のために祈ることです。

 ヘブル138「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」イエス様は今も同じように癒しと奇蹟を行われます。そして、私たちをそのために用いられます。ヨハネ1412「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。

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