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2016年8月12日 (金)

いのちの主 マタイ9:18-26 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.8.14

 福音書に、イエス様が死んだ人を生き返らせた記事が少なくとも3件あります。1つはきょうの会堂司ヤイロの娘、2つ目はナインのやもめの一人息子、そして3つ目はラザロです。死んでいた時間を考えると、ラザロは4日間でしたが、会堂司ヤイロの娘は1時間前後かもしれません。死はどんな人にも訪れます。お金持ちから貧しい人、子どもからお年寄り、身分の高い人から低い人、どんな人にも訪れます。アダムの子孫であるならば誰一人この死から免れることはできません。しかし、人類でたった一人、死に勝利し、また死んだ人を生き返られた方がいらっしゃいます。それは神が人となられた、イエス・キリストであります。 

1.会堂管理者の信仰

 マタイ918「イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」マタイ福音書はイエス様の教えについて詳しく書かれていますが、奇蹟の記事は簡素です。そのためきょうは、マルコとルカ福音書を参考にしながら、この出来事を見て行きたいと思います。マタイには「ひとりの会堂管理者」となっていますが、他の福音書には「ヤイロ」という実名で記されています。この娘はヤイロのひとり娘であり、年齢が12歳でした。マタイは娘が既に死んでいたように書かれていますが、まだ息があるうちに、ヤイロがイエス様のところにやってきたようです。でも、イエス様とヤイロが家に向かっている途中、娘は死んでしまいました。つまり、一刻も争う状況なのに、12年間長血を患っていた女性が割り込んで来ました。そういう意味では、2つの奇蹟が重なっている特異な箇所であります。きょうは、会堂管理者ヤイロの娘の記事だけを取り上げたいと思います。ところで、会堂(シナゴーグ)というのはユダヤ教の人たちが礼拝を守る建物であり、各所に点在していました。会堂管理者は、会堂の維持管理だけではなく、聖書の朗読箇所の選定、礼拝の司会、朗読や説教者の指名なども行いました。ヤイロは地位だけでなくお金もあったと思われますが、娘の死に対しては何もすることができませんでした。恐らく、医者も治すことができなかったので、イエス様のところに飛んでやって来たのでしょう。

 まず、会堂管理者ヤイロの信仰について考えたいと思います。彼はイエス様の前に、ひれ伏して願いました。彼は「娘がたとえ死んでも、イエス様が手を置けば生き返る」と信じていました。すごい信仰であり、大きなことをイエス様に求めました。少し前の記事では、おことば1つで百人隊長のしもべが癒されました。イエス様は遠くから、ことばを送って、娘を生き返らすこともできたでしょう。ところが、ヤイロの信仰、ヤイロの求めが本当なのか試す必要がありました。試すというよりも彼の信仰を強める必要があったのでしょう。マタイ919-20「イエスが立って彼について行かれると、弟子たちもついて行った。すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。」この先は割愛しますが、ご存じのとおり、十二年の間長血をわずらっている女性が割り込んできました。一刻一秒を争っているのに、何と言うことでしょう。会堂管理者ヤイロの心はジリジリと焦っていたのではないでしょうか。どれだけ暇取ったかは分かりません。でも、悪い知らせが届きました。マルコ福音書535-36イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」なんと、家から使いがやって来て娘はもう死んだというのです。そればかりか、「なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう」とまで言うのです。会堂管理者の信仰は風前のともしびです。Its too late「遅かった。もうだめだ」と思ったでしょう。でも、そばで聞いていたイエス様がすかさず彼に言いました。「恐れないで、ただ信じていなさい。」イエス様は会堂管理者の信仰が必要でした。大きくなくても、からし種ほどの信仰があれば十分です。しかし、その信仰の火が今にも消えそうです。そのため、イエス様は「恐れないで、ただ信じていなさい」と信仰の燃料を注いだのです。マルコ536は原文には、overhearing 「聞き流して」ということばが入っています。イエス様は使いのことばを聞き流した、つまり無視したということです。イエス様もご自分の信仰を守ったのではないかと考えられます。

 しかし、それだけでは終わりません。最後の関門が待っていました。マルコ538-40彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、中に入って、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。家に着くと人々が葬儀の準備をしているではありませんか。イスラエルには大声で泣きわめいたり、楽器を鳴らして、悲しみを盛り上げる「泣き女」がいました。12歳でひとり娘の死ですから、近所の人たちも集まって一緒に嘆いたことでしょう。イエス様は「子どもは死んだのではない。眠っているのです。」と言いました。彼らの反応はどうでしょう?人々は娘が死んだことを知っていたので、イエス様をあざ笑いました。イエス様は彼らをその家から排除しました。そして、イエス様は、子どもの父と母とペテロ、ヨハネ、ヤコブと家に入られました。会堂管理者にとっては最後の関門でした。なぜなら、近所の人たちが葬儀のために集まり、死という現実を見せられたからです。しかし、イエス様は不信仰な人たちを排除し、両親と三人の弟子たちだけを家に入れました。何故、三人かと言うと、何かを証言する場合は二人、もしくは三人の証人が必要だったからです。そのため、この記事は真実だということです。マタイ925-26「イエスは群衆を外に出してから、うちにお入りになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。このうわさはその地方全体に広まった。」最後だけ、マタイ福音書から引用しました。

 私たちはこのところから、会堂管理者ヤイロの信仰を学ぶ必要があります。マタイ77節には「求めなさい。そうすれば与えられます」と約束されています。でも、それは原文では継続形で書かれていると学びました。つまり、「求め続けなさい。そうすれば与えられます」ということです。ヤイロはイエス様に奇蹟を求めましたが、すんなりとはかないませんでした。第一は12年間病を患っていた女性の割り込みがありました。第二は家から使いがやって来て「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう」と言いました。もう死んだ、手遅れだということです。第三は家に着くと人々が泣き叫んで、葬儀の準備をしていました。彼は死んでいる娘を見たのです。このところには、信仰と恐れ、信仰と不信仰、信仰と現実という戦いがあります。イエス様は「恐れないで、ただ信じていなさい」と彼を励ましました。また、家についてから不信仰な人たちを家から追い出しました。ヤイロはイエス様と一緒に死という現実と立ち向かったのです。クリスチャンでも「現実は難しい」と言って、信仰を退けます。確かに現実には力があり、説得力があります。しかし、使徒パウロはこのように言いました。Ⅱコリント418「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」人々は「それは現実逃避だ。妄想だ」と馬鹿にするかもしれません。しかし、「信仰によって歩む」とき、人々がそのように言うのはもっともなことです。同じように「人々はイエスをあざ笑った」のです。信仰とは何でしょう?それは、目に見えないもの、神さまの約束に目を注ぐことです。そして、恐れと不信仰を追い出し、信仰を選び取るのです。たとえば、嵐の海を航海している船のことを考えてみたいと思います。船は、いくら揺らされても、船の中に水を入れないかぎりは沈みません。同じように、信仰という船の中に、恐れや不信仰を入れてはいけません。もし入れたら、船はたちまち沈没してしまうでしょう。イエス様はそうしないように、会堂管理者ヤイロを励まし続けたのです。

 イエス様は、マタイ77節で「求めなさい。そうすれば与えられます」と約束されました。でも、簡単に与えられないものもあります。会堂管理者ヤイロのように、大きな求めに対しては、大きな障害が付きまといます。それでも、信じ続けるならば求めがかなえられ、奇蹟を見ることができるでしょう。でも、大多数の人は途中であきらめて、信仰を捨てるのではないでしょうか?「現実は厳しい」とか「神さまのみこころじゃなかったんだ」と言うでしょう。確かにみこころでないものを求める時があります。でも、神さまは最善をなされ、プランAがだめだったら、プランBを与えてくださいます。プランBがだめだったら、プランCがあります。私たちが信仰を捨てない限り、主は共にいて私たちの船を導いてくださいます。会堂管理者ヤイロは娘が生き返って、どんなに喜んだことでしょう。マルコ542「彼らはたちまち非常な驚きに包まれた」と書いてあります。英語の聖書はastonished という言葉です。喜びというよりは恐れであります。私たちが主の奇蹟に遭遇すると、そのようになるのです。キリスト教は奇蹟の宗教です。イエス様はあなたの人生に奇跡を与えられます。「求めなさい。そうすれば与えられます」アーメン。

2.いのちの主

 後半はルカ8章を引用して、この記事を学びたいと思います。お医者さんでもあったルカは、他の福音書と違う書き方をしています。ルカ852-55「人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。聖書は死というものをどう定義しているのでしょうか?日本には死というちゃんとした定義はないそうです。おそらく、心臓、呼吸、脳などの生命の停止を死と言うのではないでしょうか?しかし、聖書は生命的なものではなく、もっと霊的であります。まず、イエス様が「死んだのではない。眠っているのです」と言われました。また、イエス様が「子どもよ。起きなさい」命じました。ルカだけが「娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった」と書いています。その後、イエス様は娘に食事をさせるように言いつけました。おそらく、この娘は、長い間、病気で臥せっていたのではないでしょうか。そのため体も衰弱し、起き上がった後、食事をする必要がありました。重要なところは、生き返った時に病気も癒されていたと言うことです。なぜなら、彼女はただちに起き上がり、食事を摂れるくらい回復していたからです。

 では、聖書が言う死とは何なのでしょうか?旧約聖書にラケルの死のことが記されています。創世記3518 「彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとするとき、彼女はその子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。」旧約聖書は、体からたましいが離れることを死と言っています。新約聖書はどうでしょうか?ヤコブ226「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」原文のギリシャ語では、「たましい」ではなく、霊spiritとなっています。たましいの中に霊があるので、区別することが難しいかもしれません。でも、聖書では肉体から霊(たましい)が分離することを死と言います。イエス様は十字架で死なれるとき、「父よ、わが霊を御手にゆだねます」(ルカ2346と言われました。つまり、と肉体との分離が死です。死んだ人の霊が肉体から離れ、主のみもと(パラダイス)に行くか、あるいは陰府に下るのです。霊が消えてなくなるということはありません、どこかで生きているのです。そして、聖書は肉体の死を「眠る」(Ⅰコリント1551、Ⅰテサロニケ414)と言っています。肉体は眠るのですから、いつかは目覚めるという概念があります。イエス様は死んでいる少女を「眠っている」と言いました。そして、イエス様は「子どもよ。起きなさい」と言って起こしたのです。そうすると、彼女の霊が戻って来て、肉体に入りました。それで、彼女は起き上がり、食事をすることができたのです。書物などで、信仰者の臨死体験を知ることがあります。だれかが地上で祈っています。すると、イエス様がその人に「地上に帰りなさい」と言います。それで、その人は「上から自分の肉体に飛び込んだ」と言います。そこで、その人は息を吹き返すのです。彼女の両親がそれを見て、どんなに驚いたことでしょう。まず顔に生気がもどり、呼吸をし始め、目を開け、むっくりと起きました。まるで、夢でも見ているような感じだったでしょう。嘆きが喜びに変わった瞬間です。

 このところから学ぶことは、イエス様はいのちの主だということです。聖書にイエス様がいのちの主であることがいたるところに書かれています。ヨハネ6:47-48「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。」ヨハネ11 25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。この奇蹟は、イエス様ご自身が、いのちの主であることを証明されたのです。イエス様がなされた奇蹟にはすべて意味があります。人類の最大の敵は死です。アダムから生まれ者は誰一人として死を免れることはできません。イエス様は地上で少なくとも、3人の死人を生き返らせます。福音書を見ると、イエス様が葬儀に出席して悲しまれたという記事はありません。むしろ、死人を生き返らせて、葬儀をぶち壊してしまいます。リバイバルが起こるところでは、このような死人の生き返りがたくさん起こります。かつて、中国のある村で、死人が生き返り、20万人の人が一時に信じたそうです。タンザニアのガジマ牧師は2011年まで、150人の死人を生き返らせました。13000人が洗礼を受け、たちまち教会員が3万人になりました。こういう話が本にのっていました。ある家族で16歳の女の子が亡くなりました。女の子の名はニベスです。ニベスはクリスチャンではありませんでした。しかし、その家族の13歳の男の子はジョセファット・ガジマ師の教会に通っていました。家族の家に霊柩車がやってきて、ニベスの亡き骸を引き取ろうとしました。ところが、13歳の男の子が言いました。「僕の行っている教会では、死んだ人にイエスの御名で祈るなら生き返ると教わったよ。」お母さんは「だまんなさい!」と叱りつけました。男の子は黙りましたが、遺体のある部屋に入って内側から鍵をかけました。「開けなさい!」と家族が騒ぎます。男の子は主の御名を呼び始めました。「死の霊よ。僕のおねえちゃんから出ていけ!おねえちゃんは死なない。聖書には神様が長寿をまっとうさせてくださると書いてある。」男の子は一時間も祈りました。人々はドアを壊して入ろうとしていました。男の子は「ニベス!戻ってこい」と叫びました。ニベスは起き上がりました。「私は暗闇の中でひどい拷問を受けていたけど、でもあなたの『戻ってこい』という声を聞いて戻ってきたわ。」人々はドアを開けました。霊柩車は霊安室に行く代わりに家族全員を乗せて教会にやってきました。

 実際、リバイバルが起っているところではこういう奇蹟が頻繁に起こります。日本に住んでいますと、「リバイバルが起きたら」と言います。でも、それは「リバイバルが起きなかったら、そういう奇蹟は起らないんだ」という諦めがあります。これまで、日本の教会は、リバイバルが起っている国からたくさんの伝道者(リバイバリスト)を招いてきました。韓国、アメリカ、アルゼンチン、アフリカ、マレーシアと私も10回以上そういう大会に出席しました。でも、日本では簡単な病気しか癒されません。結論的には、日本人は渇きがないからだということです。でも、私は思います。日本は何でも海外から輸入します。キリスト教会もリバイバルの現場から、リバイバリストを連れて来れば日本にもリバイバルが起こるとやってきました。しかし、それは安直な方法ではないかということがようやく分かりました。教会成長なども、成功した外国の教会の方法を取り入れました。彼らと同じマニュアルを作ってやってみました。でも、うまくいきませんでした。「うまくいかない」を英語でいうととても面白いです。Dont work.と言います。直訳は「働かない、機能しない」という意味です。でも、「うまくいかない、役に立たない」と訳すことができます。私は日本には日本のリバイバルがあると信じます。なんでも、「外国のものを持ってきたらうまくいくか」というとそうではないということです。前半では会堂管理者ヤイロがイエス様にひれ伏して願い求めました。彼は自分のユダヤ教という従来の信仰、会堂管理者というプライドも捨てました。一刻も争うという時に、12年間長血を患っていた女性が途中から割り込んできました。時間がとられました。そうこうしているうちに、家から使いがやって来て、「もう死んだので、先生に来ていただく必要はないでしょう」と言われました。踏んだり蹴ったりというのはこのことです。でも、イエス様から「恐れないで、ただ信じていなさい。」と言われました。消えかかっていた信仰のともし火が再び燃えました。家に着くと人々が泣き叫び、葬儀の準備をしていました。目の前に娘の死という現実を突き付けられました。しかし、イエス様があざ笑う者たちを家から出し、「子どもよ。起きなさい」と命じました。マルコ福音書には、少女の手を取って「タリタ・クミ」(少女よ。あなたに言う。起きなさい)と当時のことばで書いています。そうすると、よみに下っていた彼女の霊が戻ってきたのです。霊が彼女のからだに入り、すぐさま起き上がりました。一連のことから、奇蹟が起こるまでには、いくつかの障害を乗り越える必要があることを知るべきです。何らかの妨げ、遅延、悪いニュース、人々のあざけり…そういうものを乗り越えて、奇蹟を見ることができたのです。私たち日本人がそういう苦労をバイパスして、外国から良いものだけをいただくというのは甘いのではないかと思います。イエス様が会堂管理者ヤイロの信仰を強めて行ったように、私たちにも同じことをなされるのではないかと思います。

 「リバイバルが起きたら」という言い訳をやめたいと思います。「外国では起るけど、日本ではなかなか起きない」という負け犬根性も捨てたいと思います。誰に言っているか、というと一般のクリスチャンではなく、おもに日本の牧師や伝道者に対してです。つまり、私自身に対してでもあります。パウロはこのように言っています。Ⅱコリント61神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。アーメン。2000年前、イエス様は十字架で贖いのわざを完成されました。その後、天から御霊が降り、今も私たちの内に働いています。ペンテコステの炎はかつて弟子たちに降っただけではなく、今も求める私たちに降ってくださいます。そして、私たちが奇蹟を行うのではなく、「イエスの御名」を用いるときに、イエス様ご自身が働いてくださるのです。アーメン。

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