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2016年8月 5日 (金)

新しい皮袋 マタイ9:14-17 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.8.7

 「新しいぶどう酒」と聞くと、ボジョレー・ヌヴォーを想像される方もおられるかもしれません。ヌヴォーは「試飲新酒」という意味で、短期間でワインとして完成させなければならないようです。しかし、本来のぶどう酒は樽に保管して寝かせ、時間がたてばたつほど美味しくなるようです。聖書にも「ぶどう酒」がよく出てきますが、「人生の楽しみ、喜び」を象徴しています。イエス様は「新しいぶどう酒をどういう皮袋に入れるべきか」を話されました。これは当時の生活から生まれたたとえです。イエス様の福音が新しいぶどう酒であるなら、同時のユダヤ教は古い皮袋であると言うことができます。

1.新しいぶどう酒

 今は瓶やペットボトルがありますが、当時は動物の皮で作った入れ物に、水やぶどう酒を入れました。イエス様は「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れると破れて流れてしまう。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきだ」と言われました。新しいぶどう酒は、まだ発酵している状態です。一方、古い皮袋というのは伸び切って、皮が硬くなっています。もし、古い皮袋に、発酵中の新しいぶどう酒を入れたらどうなるでしょうか?皮袋がパンパンに膨れ上がり、しまいに張り裂けてしまうでしょう。そうすれば、ぶどう酒は流れ出るし、皮袋は破れてしまい、二重の損失を招くことになります。また、もう1つ手前のたとえは、「真新しい布切れで、古い着物の継ぎをするならどうなるか」ということです。当時の繊維は現代と違って、洗うと一時的に縮みました。何度か着ていると、伸びて安定します。もし、古い着物に真新しい布切れで継ぎ当てをしたらどうなるでしょう。一度洗濯して乾くと、新しい布切れの部分が縮んで、縫ったところが引き裂かれるでしょう。しかし、このところで、イエス様は「生活の知恵」について語っておられるのではありません。現代の私たちは皮袋も使わないし、継ぎ当てを着る人もいません。しかし、その当時、この2つは良く分かるたとえでありました。そのため現代人にも分かるようにこのたとえを説明する必要があります。

 まず、「新しいぶどう酒」は何かということを考えたいと思います。新しいぶどう酒に対して、古いぶどう酒があります。ルカ福音書5章には「人々は『古い物は良い』と言う」と書いてあります。当時のユダヤ教は、信仰の父アブラハムからモーセ、ダビデと綿々たる伝統を誇っていました。突然、ナザレからイエスというラビが現れて「悔い改めさない。天の御国が近づいたから」と福音を語り始めました。ユダヤ教の指導者であるパリサイ人や律法学者は面白くなかったでしょう。しかし、彼らは宗教的で、古いぶどう酒を古い皮袋に入れていました。一方、イエス様が宣べ伝えている福音は新しいぶどう酒でした。もし、このお方の福音を信じるなら、その人に聖霊による新しいいのちが与えられ、内側が喜びに満たされます。もし、ユダヤ教という古い皮袋にこの福音を入れるならば破れてしまうでしょう。古い皮袋とは、モーセの律法と儀式、そして伝統的な因習ということができます。キリストの福音の内容はどのようなものなのでしょうか?イエス様が人類のために十字架で罪を贖ってくださいました。三日後、天の父は救いを確証させるために、御子イエスを死人の中からよみがえらせました。このお方を信じるだけで、罪赦され、永遠のいのちが与えられます。これがキリストの福音です。イエス様が天にお帰りになって十日後(五旬節の日)弟子たちが二階座敷で祈っていました。突然、大きな音とともに天から聖霊が下り、一同が聖霊に満たされました。彼らは大声で預言をしたり、異言を話し出しました。物音を聞いて集まってきた人たちが「彼らは朝から甘いぶどう酒に酔っている」とあざけりました。「甘いぶどう酒」というのは、まだ発酵中の新しいぶどう酒という意味です。しかし、聖霊による新しいいのちを受けた弟子たちはじっとしていることができませんでした。彼らはユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで福音を宣べ伝えに行きました。

 私は19792月(25歳のとき)、職場の先輩に誘われて座間キリスト教会の礼拝に、初めて出席しました。早口で話す男性の話に、いつしか引き込まれました。あんまりすばらしかったので、次の週、付き合っていた彼女を無理やり連れて来ました。ところが、その日は大川牧師ではなく、ご老人が講壇で自慢話をしていました。私は憤慨して、「もう、二度と来ない」と捨て台詞を吐いて教会を出ました。先輩が、休んでいる私のために礼拝のカセットテープを聞かせてくれました。その時の題名が「大穴を開けても近づいた男」とか「夜通し働いても収穫ゼロ」など興味深いメッセージでした。1か月後、様子を見るために、車で教会の前まで来ました。そのとき、入口に『新しいぶどう酒は新しい皮袋に』という立看板が立っていました。「え、新しいぶどう酒って何だろう?」と不思議な感じがしました。でも、その日は、捨て台詞を吐いた手前、教会の中には入れませんでした。「でも、新しいぶどう酒って何だろう?」と内側から興味が湧いてきました。止むにやまれず、次の週の礼拝に出席しました。そして、19796月に洗礼を受けました。洗礼を受けた次の月、彼女が去って行きました。なぜなら、私が真面目になり、口を開くたびに「神さま」「神さま」と伝道するからです。同時に親友も失いましたが、教会に行くことはやめませんでした。心が満たされて、お酒もたばこもパチンコもやめました。洗礼を受けて半年後「イエス様の弟子になりたい。もっと聖書を勉強したい」と神学校に行きました。彼女と親友は私がキリスト教に完全にかぶれたと思っていたのでしょう。かぶれたのではなく、福音という「新しいぶどう酒」に酔ってしまったのです。霊的に新しく生まれ代わり、内側から神のいのちがあふれてきて、どうしようもなかったのです。

 使徒パウロはローマ1章で、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」と言いました。力はギリシャ語でデュナミスであり、ダイナマイトの語源になったことばです。福音は、信じた人の内側で、ダイナマイトのように爆発するということです。太陽の塔を作った岡本太郎氏が「芸術は爆発だ」と言いました。パウロも「福音は爆発だ」と言いたかったのでしょう。それはまさしく新しいぶどう酒であります。もし、ユダヤ教という古い皮袋に新しいぶどう酒をしまい込むならば、爆発してしまうでしょう。つまりは、キリストの福音を、モーセの律法や儀式、伝統的な因習という古い皮袋に入れるのは不可能です。新しい入れ物に代える必要があるということです。使徒の働き15章に、歴史上最初の教会会議が記されています。パウロとバルナバが異邦人に福音を宣べ伝えに出かけました。帰ってきて、大勢の人たちが救われたことを報告しました。しかし、パリサイ派から信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と言いました。激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言いました。「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」最後に、議長のヤコブが「私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います」と言いました。つまり、異邦人クリスチャンは、モーセの律法や儀式、伝統的な因習に縛られる必要はないということです。異邦人クリスチャンは新しいぶどう酒というキリストの福音によって救われました。そして、その人たちをユダヤ教の古い皮袋に入れる必要はないということです。

 初代教会の勢いは迫害を受けながらも、ローマ帝国全土に広がっていきました。ところが、西暦313年コンタスタンティヌスによってローマ国教会になってから堕落してしまいました。それまでは教会は福音の力といのちにあふれていました。しかし、国教会という古い皮袋に入れてしまったのです。どういうことかと言うと、聖書にない組織や階級、儀式、様々な因習を制度化したのです。神さまと聖書ではなく、それに代わってローマ教会(信徒ではなく聖職者によって構成される教会)が権威を持つようになりました。もう、いのちがなくなり、1000年間、暗黒時代が続くことになります。しかし、16世紀、マルチンルターとジョンカルヴァンによって宗教改革がなされました。その後、ジョン・ウェスレーをはじめとする多くのリバイバリストが出現しました。教会というのはまるで生き物であり、すぐ皮袋が古くなります。そうなると新しいぶどう酒をとどめておくことができません。つまり、力といのちがない制度としての教会になってしまうのです。現代、「福音派」と言われる教会がたくさんあります。しかし、油断していると、聖霊の流れからそれてしまって、力といのちを失ってしまいます。教会を構成している人たちが、どうしても律法や制度、あるいは伝統にしばられてしまいます。そうすると、神さまは古い皮袋を破ってでも、新しい教会を起こされるようであります。当時のイエス様と弟子たちは、ユダヤ教にとって脅威的な存在でありました。それと同じように、今日の教会が制度や伝統にあぐらをかくならば、同じ轍を踏むことになります。ですから、私たちは「神さまがなんとおっしゃっているのか?」「聖書が何と言っているのか?」という教会の原点に立ち返る必要があります。イエス様は「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなさい」と言われました。私たちはキリストの福音という新しいぶどう酒に常に満たされていたいと思います。また、虚心坦懐に神さまと聖書に聞いて、新しい皮袋であり続けたいと思います。

2.新しい皮袋

 新しいぶどう酒とは、キリストの福音と考えられます。同時に福音を信じて与えられる力やいのちとも言うことができるでしょう。ところで、新しいぶどう酒の「新しい」はネオスというギリシャ語が使われています。これは時間的な新しさを意味しており、時代の経過によっても古くならない新しさという意味です。一方、新しい皮袋の「新しい」はカイノスという言葉が使われています。カイノスは質的な新しさを意味します。つまり、永遠に新しい福音を、捕らえ、報じるキリスト教のあり方について暗示しています。人間の宗教的な様式は、時間がたつと、画一化して古くなってしまいます。リバイバルで与えられた教義や伝統や文化もそのときは新しくてもやがては古い皮袋になってしまうでしょう。永遠に新しい福音を入れるために、皮袋がいつでも質的に新しいものにしておくのは人間の務めです。私は1987年に座間キリスト教会から当教会に赴任させていただきました。赴任した頃は「私は来てやったんだ」という高慢さに満ちていました。また、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」と教会の仕組みを変えるために熱心でした。ところが、当教会は日本基督教団に属していましたので、10年間くらいは思うようにいきませんでした。しかし、ゴスペルで人々が救われてきて、2002年から思い切って礼拝形式を変えました。現在にいたっていますが、私も赴任してから29年になります。今度は私がだれかから「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」と言われてしまいます。はじめの頃のギラギラ感が消えて、今はいぶし銀の私ではありますが、具体的に「新しい皮袋」とは何なのでしょうか?

 新しい皮袋の第一は、教会の礼拝方法だと思います。聖書には「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければならない」(ヨハネ424と書いてあります。私たちは本質的なこと踏まえながらも、現代にあった礼拝方法を選ばなければなりません。「恵みの手段」Means of Graceということばをご存じでしょうか?私たちが神様を礼拝するために、媒介するものがあります。聖書、讃美歌、説教、祈りなどがそうです。この地上においては、この「恵みの手段」なしで直接神様を礼拝することはできません。しかし、この「恵みの手段」は時間がたつと形式的になり、古くなります。聖書のことばも、その時代の人が分かるように翻訳していく必要があります。また、讃美歌や聖歌は文語調でよく分かりませんでした。そのため、讃美歌21や新聖歌が作られました。さらに、みことばに曲をつけたワーシップ・ソングや神さまを直接賛美するプレイズも作られるようになりました。リック・ウォレン牧師は「どんな歌を賛美するかが教会に来る人たちを決定する」と言いました。つまり、どんな人たちに伝道のターゲットをしぼるかによって賛美を選び方が違ってくるということです。説教も一方的で難解なものではなく、一緒に適用を考え、例話や証も入れても良いと思います。改革派の教会で、私のように説教に冗談を入れるならば追放されるかもしれません。最近は、礼典的な礼拝から祭典的な礼拝に変わって来ています。礼典的というのはカトリック教会や聖公会のように儀式的だということです。伝統的な礼拝は、プログラムにたくさんの項目があり、司会者が1つ1つ導くものです。会衆が立ったり座ったりするので、霊的な流れが中断するというデメリットがあります。それに比べて、祭典的というのは神さまを喜び、神さまをお祝いするというイメージがあります。詩篇を見ると、いろんな楽器を使い、手をたたいて賛美したり、踊ったりする礼拝が記されています。祭典的礼拝は、司会の代わりワーシップリーダーが前に立って礼拝を導きます。そのためワーシップリーダーには、技術や霊性が要求されます。重要なことは、みんなで神さまの前に出て、礼拝をささげるという心、「霊と真実」であることを忘れなければ良いということです。

 新しい皮袋の第二は教会の組織です。ローマカトリックは聖職者で構成され、階級制度がありました。一般信徒は教会の外に追い出され、神さまのところに直接行くことはできません。任命された司祭が神さまと信徒の間に立って祈ったり、導いたりするのです。ところが、16世紀マルチンルターが「万人祭司説」を唱えました。まことの仲介者はイエス・キリストであり、私たち一人一人は祭司なんだということです。聖職者と信徒の区別はなく、だれでもが神の前に出て、奉仕ができるということです。残念ながら、プロテスタント教会が聖書的になったかというとそうではありません。万人祭司と言いながらも、教職者制度は残りました。教会はこの世と同じ組織を作り、会議を開いて決めます。民主政治は多数決であり、人間が主役になっています。しかし、キリスト教会は神性政治です。教会のかしらはイエス・キリストであり、私たちは祈って聖霊に聞き従うべきなのです。私は1996年頃から、セルチャーチを導入しました。祈祷会や家庭集会、青年会や婦人会、壮年会、各部会をすべてなくして小グループにしました。牧師の権威を返上し、できるだけフラットになるようにしました。数年間は機能していましたが、しばらくたってセルにいのちがなくなりました。なぜかというと、かたちで入ったからです。しかも、丸投げでリーダー訓練をほとんどしていませんでした。紆余曲折はありましたが、現在はたくさんの小グループが自主的に奉仕を請け負って活動しています。従来の教会は使命で行いました。牧師と一部の献身者たちが一生懸命働きました。しかし、聖書を見ると、教会はキリストのからだであると書かれています。からだの器官は、神さまはがされています。教会にとって最も重要なのはことのです。マタイ1618「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」教会はイエス様のものであり、イエス様ご自身が教会を建てるということです。ですから、私たちはかしらなるキリストに聞いて行けば良いのです。

 新しい皮袋の第三は教会のきまりや制度です。当時のユダヤ教にはモーセの律法と儀式、そして伝統的な因習がありました。たくさんの宗教的な規則や因習があり、一般の人たちはそれが重荷でした。イエス様はたくさんの律法を「神を愛することと、隣人を愛すること」の2つにまとめました。使徒パウロの頃になると、たった1つになりました。ガラテヤ514「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです。」アーメン。私たちはガラテヤ書から良く学ぶ必要があります。なぜなら、教会は律法主義に逆戻りする可能性があるからです。今日のある教会は、きまりにきまりを加えて、身動きできない教会になっています。ガラテヤの教会をみますと、はじめは「信仰によって救われる」というパウロの福音に根差していました。ところが、ユダヤ教から救われた人たちがやってきて、モーセの律法を守り、割礼を受けなければ救われないと言い出しました。パウロは「恵みによって救われたのに肉で仕上げるのか」と怒りました。肉というと悪いイメージがありますが、美しい肉もあるのです。肉には宗教性があります。神さまに近づくためにいろんな条件を付けます。たとえば、日曜日には男性はスーツにネクタイ、女性はワンピースでなければならない。ジーパンやぞうりなんどとんでもない。酒やたばこはもちろん、映画やダンスもだめ。聖日礼拝を厳守し、10分の1献金は当たり前、祈祷会や奉仕には必ず参加する。神を第一にするということは、教会を第一にするということである。牧師を尊敬し、牧師の言うことに喜んで従う。最後の部分は良いかもしれませんが、こういう律法主義的な文化が外国から入ってきました。宣教師に悪気はなかったのですが、イエス様がおられた頃のユダヤ教に逆戻りしていたのです。もちろん、色んな人が集まっているのですから、最小限のきまりは必要です。しかし、ガラテヤ書には何と書いてあるでしょう。ガラテヤ51「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」アーメン。使徒パウロは肉に対して、律法は全く役に立たないと言っています。ですから、教会がたくさんのきまりを作っても、この世と同じで、隠れた所で罪を犯します。ガラテヤ51618「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。…しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」そうです。律法ではなく、御霊によって歩むことが大切なのです。

 結論的に、教会が新しい皮袋を保つ秘訣とは何なのでしょうか?それは、「本質は何か」ということをたえず追求するということです。また、新しいふどう酒であるキリストの福音によって与えられた力といのちに満たされているということです。言い換えるなら、イエス様の十字架のあがないをかけがえのないこととして感謝しているということです。十字架の贖いこそが、私たちが義とされて、御国で生きられることの根拠です。『十字架の他に誇れるものなし』という賛美があります。私たちはどのように神さまの前に出るでしょうか?自分の良い行いでは全く不可能です。ある人は「悔いた心でなければならない」と言うかもしれません。でも、罪の悔い改めが徹底しているなら神の前に出られるわけではありません。十字架の贖い、キリストの血によってであります。このことを意識するならば、私たちの生活の良し悪しは関係ありません。宗教は私たちにいろんなことを要求するでしょう?罪があるかないか、正しい行いをしているかどうか問うでしょう。神の前に出るためには、どんな賛美が良いのか、どんな服装が良いのか問うでしょう。しかし、そのようなことはどうでも良いことです。一番重要なのは、新しいぶどう酒である、キリストの福音に感動しているかどうかです。十字架の他に誇れるものはないのです。

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