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2016年7月31日 (日)

~神様の一般恩恵~使徒の働き17章24-28節a 亀有教会副牧師 毛利佐保

<使徒の働き17章24-28節a>(新改訳)

17:24

この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。

17:25

また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。

17:26

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

17:27

これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

17:28

私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

 

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本日は、福音の伝道や宣教について、「神様の一般恩恵」から考えてみたいと思います。

 

使徒の働きの17章には、パウロがギリシャのアテネで伝道説教をした出来事が記されています。これは、パウロの3回に渡る伝道旅行のうちの、第2回目の時のことです。テサロニケのユダヤ人たちに迫害され、そこから逃れるために立ち寄ったのがアテネでした。アテネは古代世界の学芸の中心地でしたし、自由都市であり、有名な高等教育機関もありましたが、パウロの時代にはかなり斜陽化していました。

 

過去の遺産で生き延びているアテネでは、偶像崇拝が盛んであり、パウロはその様子を見て心に憤りを覚えていました。先ほどお読みした箇所は、パウロがそこで思いがけず「アレオパゴス」(「アゴラ」広場、市場を見下ろす丘の意)、評議会が行われていた場所で、伝道説教の機会を得たという記述です。

 

アテネでのパウロの伝道は、結果的には目覚ましい成果は得られませんでしたが、その説教から、私たちは大変多くのことを学ぶことができます。なぜなら私たちが住むこの日本は、アテネと同じく偶像に満ち溢れているからです。パウロは、他の神々とは違う、唯一の創造主である神様の「一般恩恵」について語り、聴衆を説得しました。

 

私たちも、この「神様の一般恩恵」を知り、神様がどのような御方かを深く理解したうえで、未だイエス様の救いを受けることができない人々のために、愛し仕えていく必要があります。

 

はじめに1724-25節を見てみましょう。

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17:24

この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。

17:25

また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。

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◆①神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方

 

パウロは、「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりませんし、人の手によって仕えられる必要もない。」と語ります。当時アテネには神殿がたくさんあり、無数の神々の像が町のあらゆる所に置かれていました。しかし、そのような神殿にはまことの神はお住みにはならないし、人の手によって神々の像のような物を祀ることも、神に仕えることも、この万物を造られた神には必要のないことだと語りました。

 

私たちが住むこの日本も、アテネと同じです。私たちの周りには、神社や寺が無数にありますが、主なる神様は、そのようなところにはお住まいにならないし、偶像をいくら崇拝しても、まったく無駄であることが、ここから理解することができます。なぜなら、神様ご自身がすべての基であり、無から有を造られるお方であり、モーセに「『わたしはある』という者である。」(出3:14)と言われた、いのちの創造主なる神だからです。

 

そして神様は私たち人類に、いのちを与えてくださっただけではなく、「恩恵」を与えてくださっています。神様の恩恵(恩寵とも言います)には、「特別恩恵(恩寵)」と「一般恩恵(恩寵)」があります。

 

「特別恩恵」は、主イエスの十字架の贖いによって与えられる救いの道であり、永遠のいのちの約束、天国への希望です。それは、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として信じて受け入れ、告白した者に与えられる特別な恩恵です。これは、神様からの一方的な恵みであり、信仰によって価なしに与えられるものです。私たちの努力によって得られるようなものではありません。

 

 神様は、その「特別恩恵」の他に、「一般恩恵」をも与えてくださっています。マタイの福音書の545節でイエス様は、「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」と語られました。神様は、自然界の恵みをどの人にも等しく与えてくださっています。

 

 また他の「一般恩恵」としては、私たち人間は、創世記の125-26節に書かれているように、神の似姿に造られたということを忘れてはいけません。アダムとエバの罪によって、堕落してしまった人類ではありますが、神様の特質である、愛や良心、善意や正義の心を失ってはいません。信仰心も残っています。

 

そして重大な「一般恩恵」としては、憐れみ深い神様は、ただちに人類を滅ぼすことはなさらず、私たちが悔い改めることを期待して、忍耐をもって待ってくださっているということです。そして、イエス様の救いを受け入れることを望んでおられます。それゆえに、私たちクリスチャンが成すべきことは、ひとりでも多くの人が、神様の「特別恩恵」を得られるように祈り求め、イエス様の福音を伝えることです。

 

イエス様の福音を伝える伝道や宣教には様々な方法があります。私たちの信仰の大先輩たちは、真摯に祈り求めて、与えられた場所や方法でこれまでも伝道や宣教に取り組んでこられました。しかし、ほとんどの場合は私たち人間の思いとは別のところで、聖霊なる神様が働いてくださり、驚くべき方法で祝福されたということが多いのではないでしょうか。

 

そこで問われるのは、神様にどれだけ信頼しているかということです。神様の御計画は計り知れませんが、それでも私たちがしっかり心に留めておかなければならないことがあります。それは、「主なる神様がどのような御方か」ということです。まことの神を知らずに間違った信仰を持ち続けている人々や、キリスト教を否定する人々にも理解していただけるように、しっかりとした対話ができなければなりません。

 

そのためには、まことの神について明確に伝えることができる聖書の土台の他に、「相手の立場や文化も神様の一般恩恵によって成り立っているのだ」ということを大きな広い視点で理解し、ある程度までは受け入れるという、神様からの知恵も必要です。

 

パウロはアテネでの説教の冒頭にこのように言いました。

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17:22

そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。

17:23

私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。

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パウロは、ユダヤ人たちに対して宣教する時には、ユダヤ人が精通している旧約聖書からのみことばを引用します。ここアテネでは、まず、アテネの人々に対して、「宗教心にあつい方々」だと切り出しました。この言葉はギリシャ語原語では、「<ギ>デイシダイモネス」 と言って、「迷信深い」とも訳せる言葉です。ですから、良い意味にも、軽蔑するような感じにも受け取れます。しかし、ここではパウロはアテネの人々の関心を引くために、良い意味で使ったと思われます。

 

そして、『知られない神に』と、道ばたの祭壇に刻まれた碑文を取り上げて、その『知られない神』を、唯一まことの神ついて述べ伝えるための導入としました。このようにパウロは相手の信じる神を頭ごなしに否定することはしないで、相手の文化を受け入れながらも、まことの神について宣べ伝えようとしました。

 

パウロは実のところは、17:16に書かれているように、アテネの町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じていました。そしてパウロのような熱い性格だと、「アレオパゴス」の評議会で語る機会が与えられたなら、まず、真っ先に厳しい言葉で偶像崇拝を拒絶しても不思議ではありません。

 

しかし、パウロは憤りを抑えて、第一コリントの9:19-20で、

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9:19

私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」

9:20

ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。

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と、パウロ自身が語った言葉の通りに、神様からの知恵をもって、教養の高いギリシャ人の文化を理解し、神様の一般恩恵という広い視点から、相手の立場や文化も受け入れ、そのうえで真理を語ろうとしました。

 

◆②神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

 

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17:26

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

17:27

これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

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私たち人間は、ひとりの人からはじまっています。神様の目から見れば、ユダヤ人も異邦人も区別はありません。私たちが、この時代に、この国に生まれ、この地に住んでいるのは、すべて神様がお定めになったことなのです。偶然ではなく、意味があってのことです。

 

それは、人間のすべての営みの根底に超越された神様が介入しておられることに私たちが気付くためです。神様の「一般恩恵」によって生かされている私たちに、唯一絶対の神を「求めさせるため」であり、「神様を探り求め、神を見いだす」ためです。それは、神様がすべての人に期待されていることなのです。

 

私たちクリスチャンは、この日本では人口の1%未満しか存在していません。しかし、偶像崇拝や祖先崇拝をする日本人の中にも、「一般恩恵」による、信仰心があります。神を畏れる心があります。だからパウロは、「確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。」と語ったのです。

 

求める者には、神様の方から近づいてくださいます。神様は、「一般恩恵」によって与えてくださっている信仰心を、偶像の神ではなく、真実まことの唯一の神御自身に向けるように望んでおられます。しかし、難しく考える必要はありません。みなさんの周りにおられる未信者の方には、このように伝えてください。

 

「神様は私たちに特別な恵みを与えるために、私たちに多くのことをお求めにはなりません。ただただ、幼子のように神様を慕い求め、空っぽの両手を広げて恵みを受け取れば良いのです。」と。大切なのは、難しい知識ではなく、神様を信頼して、イエス様の恵みに感謝して自分自身を明け渡す心です。

 

そして、イエス様の福音を伝える時に大切なのは、すべての営みの根底に唯一まことの神が介入しておられるという実感、それと神の愛とイエス・キリストの恵みです。

先ほどお話ししたマタイの福音書545節の前後でイエス様はこのように語られました。

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5:44

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

5:45

それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

5:46

自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。

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イエス様は、自分が愛している者だけに神様の特別恩恵があればいいというお考えではありません。天の父なる神様は、「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」御方ですから、私たちもどの人に対しても、敵や迫害する人であっても、愛するように、祈るようにと教えてくださっています。

 

神様がこんなにも忍耐をもって人類を滅ぼさずに待っていてくださっているのですから、 たとえイエス様を否定し、迫害するような人が近くにいたとしても、私たちはその人たちを否定するのではなく、受け入れて、愛し、救いに導かれるように祈り求め、福音を宣べ伝えなければなりません。

 

3日前に、土浦ゴスペルクワイヤーの初期のころのメンバーだった女性が亡くなりました。ご主人の転勤で大分に行かれ、高熱が出たために抗生剤の点滴を打ったところ、アナフィラキシーショックを起こしてしまい、そのまま亡くなりました。44歳でした。小学校2年生と幼稚園のお嬢さんがいらっしゃいます。彼女には、10数年、いろんな人がゴスペルを通して伝道してきましたが、信仰告白には至りませんでした。

 

聞くところによると、彼女の亡くなったお父さんはクリスチャンだったそうです。しかしお母さんは、アンチキリストだったそうで、彼女はお母さんに気を使って、告白をしなかったようです。彼女の身近にいたゴスペルディレクターの友人は、「伝道は日々真剣勝負だと、改めて実感したよ。」と、とても残念がっていました。

 

私たちは、時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えなければなりません。(Ⅱテモテ4:2

 

◆③私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

 

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17:28

私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

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 この言葉は、実はパウロの言葉ではなく、クレテ人エピメニデスの詩の引用です。この詩は異教の神々を語ったものなので、それを唯一まことの神を伝えるために引用しても良いのかどうかはわかりませんが、ギリシャ人の気を引くためには良かったのかもしれません。

パウロは知識のある人だったので、アテネでの伝道説教で、このように果敢な挑戦をしています。しかし、私たちは気を付けなければなりません。パウロ自身が第一コリント8:1で語ったように、「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」という言葉を忘れてはなりません。人を説得するために、知識は必要かもしれませんが、信仰の土台がしっかりしていなければ、その知識に押しつぶされることもあるのです。

 

ここでひとりの興味深い人物を紹介しようと思います。

 

不干斎ハビアン(1565-1621)という人です。この人は、豊臣秀吉の時代から、徳川幕府の二代目の将軍秀忠の時代まで生きた人です。ちょうど、NHK大河ドラマ「真田丸」の時代の人ですね。この人は、「神も仏も捨てた宗教者」として有名な日本人で、大変興味深い人です。様々な哲学者や神学者たちがこの人の研究をしています。

 

ハビアンはもともと禅宗の僧侶でしたが、1583年、高槻のキリシタン大名の高山右近のもとで、禅僧からキリシタンに改宗しました。秀吉の正室、北の政所の侍女であった母親と共に受洗したようです。1586年イエズス会の修道士となったハビアンは、1605年京都にて、キリスト教護教論書、『妙貞問答』を記しました。

 

この『妙貞問答』は、本当に気持ちいいくらい痛快に、仏教、儒教、神道を理路整然と批判した本で、いかにキリスト教が素晴らしいかを記した本です。登場人物は、妙秀という仏教徒の尼と、幽貞というキリシタンの尼の二人で、問答形式で妙秀の質問に幽貞が答えるという形です。

 

ところが、ハビアンは突如として転んでしまい、キリスト教を棄てて修道女と駆け落ちをしました。彼の心の内にいったい何がおこったのかは現代となっては解りませんが、彼は棄教しただけではなく、長崎にて、キリシタン弾圧に協力をしました。そして、『妙貞問答』とは全く真逆の、キリスト教を痛烈に批判している、『破堤宇子』という著作を刊行し、それを将軍秀忠に献上しました。

 

『妙貞問答』も『破堤宇子』も、現代の言葉に訳されて刊行されていますし、ネットにもチラホラ上がっていますので、興味のある方は読んでみればよいかと思いますが、私の考えでは、ハビアンは知識に押しつぶされてしまった人ではないかと思います。そして、ハビアンのキリスト教信仰は実は本物ではなかったのではないかとも思うのです。

 

ハビアンは、すべての営みの根底に唯一まことの神が介入しておられるという実感と、神の愛とイエス・キリストの恵みを知ることができなかったのではないでしょうか。パウロには、揺るがない信仰が土台にありました。ですから、異教の神々を語ったことばを引用しても、しっかりとイエス・キリストの福音を宣べ伝えることができました。

 

確かにすべての息のある者は、神様の大きな御手の中に生き、動き、存在しています。神様と共に生きることこそ、私たち人間の存在する意義なのです。神様は愛をもってこの地上のすべての人が主に立ち返ることを望んでおられます。イエス様がその神様の愛を示してくださいました。それはすべての人に注がれている恩恵です。

 

決して変わることのない、見捨てることのない、永遠の愛なのです。その愛を受け取り、感謝し、愛する人々に、すべての人々に、神の知恵をもって、イエス様の福音を語り伝えていきましょう。

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2016年7月22日 (金)

罪人を招くために マタイ9:9-13 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.7.24

 きょうの箇所には、マタイによる福音書を書いた、マタイ自身のことが記されています。前にも申し上げましたが、マタイ8章と9章はイエス様がなされた奇蹟が集められています。このところに、マタイがイエス様に従ったいきさつについて書かれています。ということは、マタイが弟子としてイエス様に従って行ったということは、奇蹟なんだと言わんばかりです。みなさんも、イエス様を信じてクリスチャンになれたというのは、最も大きな奇蹟ではないでしょうか?マタイは自分のことなので謙遜に記していますので、マルコやルカの福音書も参考にしたいと思います。 

1.マタイの召命

 マタイ99「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」マタイの仕事は取税人でした。取税人とはローマに雇われた官吏で、おもに通行税を取っていました。彼らは町の入口にある収税所で、穀物や魚、衣類、塩などに課税していました。しかし、彼らは権威を乱用して、不当に儲けていたようです。そして払えない人には高い利息で貸して、私腹を肥やしていました。ですから、同じユダヤ人からは売国奴と呼ばれ、大変嫌われていました。それではマタイはどのような人物だったのでしょうか?ルカ福音書を見ると、マタイではなく、レビというユダヤ人名で記されています。レビという名前は、イスラエルでは、祭司の部族の名前でした。おそらく、両親は信仰が篤く、「この子が神さまに仕える人になるように」とレビという名前を付けたのでしょう。でも、彼は「信仰があっても一銭の得にもならない」と、金儲けに走ったのではないでしょうか?両親は、「よりにもよって、取税人になるなんて」とさぞ嘆いたことでしょう。マタイ、またの名をレビは、どうして一瞬のうちに、何もかも捨てて、イエス様について行くことができたのでしょうか?もし、彼が漁師であれば、何かあっても元の仕事に戻ることができます。しかし、取税人の場合は、一度辞めたら、同じ仕事に戻ることができません。そのような大事なことを即座に決めて良いのでしょうか?

まず、考えられることは、彼は取税人だったのでかなりの情報を得ていたのではないかと思います。取税人は町の入口で仕事をしているので、通行する人たちからイエス様の噂を耳にすることができました。イエス様の教え、イエス様のみわざ、そして人柄を知ることができたでしょう。次第に、マタイの心の中にあこがれのようなものが芽生えてきたのではないでしょうか?それまでは、金儲けの道をひたすら歩んできました。お金がすべてだと思っていました。ところが、心の奥底が満たされないというか物足りなさを感じていたのでしょう。ユダヤの人たちはメシヤを求めていました。その当時のメシヤ観は、イスラエル王国を再建する王という意味でした。王様がご自分の国を作るとき、最初にすべきことは、大臣たちを集めることです。マタイは「イエスは本当にメシヤなのか?」と考えていたことでしょう。その頃、イエス様のもとにヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ペテロらが追従していたと思われます。もし、イエスがメシヤであって、御国の大臣として自分を召してくれたらどうでしょう?それほど、すばらしいことはありません。マタイは緻密で計算高い人だったので、前もってそのようなことを考えていたのではないかと思います。

ある日のこと、マタイがいつものように、収税所に座って仕事をしていました。そのとき、噂の人物が目の前を通過するところでした。その方が自分を見て、こう言いました。「わたしについて来なさい」。その方のおことばが、彼の魂に雷のように響きました。マタイは電気に打たれたかのように、立ち上がってイエス様に従ったのです。ルカ福音書には「何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」と書いてあります。即座に取税人という職も捨てて、イエス様に従ったのであります。後先を考えず、無謀と言えば、無謀かもしれません。詩篇119篇にマタイの心を描写しているようなみことばがあります。詩篇11959-60「私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました。」アーメン。私たちはこのところから学ぶべきことが2つあります。第一は「チャンスを逃さない」ということです。イエス様から「ついて来なさい」と呼ばれたのに、「またあとで」とか「そのうち」と言ってはいけません。伝道者の書3章にありますように「すべてには時がある」からです。マタイはイエス様がお声をかけたとき、「はい」と決断して従いました。私たちもイエス様が言われたなら、ためらわずに「はい」と従うべきです。「またあとで」とか「そのうち」と言っている人はマタイのような奇蹟を体験することはできません。第二は「イエス様には不可能はない」ということです。世の中的に見たなら、取税人は最低最悪の仕事でした。ユダヤ人が「罪人、遊女、取税人」という三悪の中に入れていたくらいです。そんなマタイを召しても面汚しになるのではないだろうか?いいえ、イエス様は取税人マタイを使徒に作り変えることが可能でした。おそらく、イエス様はマタイの中に無限の可能性をご覧になったのだと思います。マタイはお金に関して几帳面であり、ちゃんと出納帳に記入する人でした。後のマタイは、イエス様がおっしゃったことばをノートに記して、それを体系化することができました。聖書学者はこれをM資料と呼んでいます。マタイは、ユダヤ人に対してイエス様は旧約聖書が預言しているメシヤであることを証明したいと願いました。

 男性と女性はイエス様を信じるときかなり違うようです。男性は左脳でというか理屈で考えます。いろんな本を見たり、資料を集めるかもしれません。衝動的に決断する人は少ないかもしれません。一方、女性は右脳でというか直観をあてにします。もちろん、ウィンドゥ・ショッピングのようにあれこれ考えるかもしれません。でも、直観をあてにするのではないでしょうか?みなさんはイエス様を信じたとき、どのような状況だったでしょうか?頭で信じたのでしょうか?あるいは心で信じたのでしょうか?あるいは、霊的なひらめきだったのでしょうか?私は座間キリスト教会で奉仕していたころ大川牧師の説教をたくさん聞きました。大川牧師の説教は、例話がとても多くて、あまり論理的な組み立て方ではありません。そして、心にジーンとくる感動的な話を最後に持って来ます。これが日本人にはとても良くて、「イエス様だったら信じても大丈夫だ」となるのです。大川牧師の説教は、イエス様のご人格、イエス様のいのちに触れることがゴールになっているように思えます。しかし、欧米と中国は、論理とか真理が重要で、心にジーンとくる、こないは重要なことではないようです。むしろ、感情的だということで敬遠されるかもしれません。大川牧師は「説教は説教学的に良いか悪いかということは重要ではない」と言っておられました。おそらく、心の深い部分を変えられるかどうかにあるということでしょう。なぜなら、知的に頭で分かったとしても、人の生活は変わらないからです。もし、人の心が変えられるなら、生活も変わるはずです。頭ではなく、心に訴えることが大切なのだと思います。私が座間キリスト教会に来た頃ですが、大川牧師が説教の中で、とても感動した証があります。当時、三畑長老さんのところに、節子さんという長女がいました。彼女はクリスチャンホームなのに、グレはじめ、高校生の時は校長先生が「お前ほど悪い生徒は開校以来だ」と言われたそうです。卒業してからは麻雀に明け暮れ、覚せい剤を打ってかせいでいたそうです。教会は彼女のために祈っていました。ある時、彼女のお母さん(長老さんの奥さん)が、「節子、お前が洗礼を受けるようにみんな祈っているからね」と言いました。彼女は「洗礼を受けるくらいなら、死んじゃうわ」と車で家を出て行きました。その日は土曜日で、しかも雨でした。車が座間駅の踏切を越えたところで、信号機か何かのために止まりました。ふと、駅の方を見ると、教会の立て看板が立てられていました。翌日の説教題だったのですが「私に従ってきなさい」と書いてありました。それを見たとたん、彼女は動けなくなりました。イエス様が自分に語っているように思え、涙が滝のように流れました。彼女は、次の朝、礼拝に出て、そのメッセージを聞いて、イエス様を信じたそうです。その後、聖書学院の基礎科に行って学びました。その数年後、大川牧師と節子姉が町田を一緒に歩いていたそうです。すると向こうから、明らかにやくざ風の男性が、「おい、お前、節子じゃないか。久しぶりだな」と声をかけてきたそうです。節子さんはご主人とケーキ屋さんを経営するのですが、やがてご長女が牧師夫人になりました。またご長男は献身して中国にいるということです。長老さんの娘がそうなったら、証にならないでしょう。でも、「私に従ってきなさい」という看板で捕えられたのです。これはすばらしい奇蹟ではないでしょうか?

 マタイは、たった1節しか召命の記事を書いていません。しかし、マタイ8章と9章はイエス様の奇蹟が集められているところです。その箇所にあえて、自分の召命の記事を載せるということは、「イエス様に従えたことは奇蹟なんだ」と言っているのではないでしょうか?結論的には、右脳も左脳も関係がありません。イエス様は私たちの魂の奥底、死にかかっている霊の部分に語ってくださるからです。イエス様の力あることばによって、死んでいた霊が生き返り、「はい、わかりました」とイエス様に従って行くのです。これは、本人の決断もありますが、それをさせた神の霊、聖霊によるものだと思います。アーメン。

2.罪人を招くために

 マタイ910「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。」マタイ福音書だけ読むと前の部分と関係のないことのように思えます。ところが、ルカ福音書には「そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた」(ルカ529と書かれています。おそらく、マタイは謙遜して「自分の家で大ぶるまいをした」とは書きたくなかったのでしょう。マタイはイエス様を自分の家に迎えただけではなく、同業者である取税人も招きました。それはマタイにとって、歓送会でもありました。自分で歓送会を開くのはおかしいですが、イエス様をみんなに紹介しつつ、お別れの時を持ちたかったのでしょう。今日でいう、食事付きの伝道集会のようなものでした。イエス様はみんなと一緒に食事の席に着きました。ところが、そのことを非難する人たちがいました。マタイ911これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」彼らは席に着いたのではなく、出口のところで弟子たちに言ったのです。なぜなら、罪人の家に入って、一緒に食事をするなら、汚れてしまうと考えたからです。遠くで話していた会話をイエス様は超自然的に察知しました。そして、彼らにおっしゃったのです。マタイ912-13イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 このところにイエス様がこの地上に来られた使命について書かれています。イエス様はたとえをもって話しておられます。医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人だということです。健康な人には医者はいりません、病人です。同じように、イエス様は「正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました。ということは、正しい人にはイエス様はいりません、罪人であるということです。イエス様はその罪人を御国に招くためにやってきたのです。これでは話は終わってしまいますので、もうちょっと膨らましてお話ししたいと思います。病人は治療が必要ですが、「私は健康だ。どこも悪くない」という人は医者の所には行きません。私たちが医者のところ病院に行くためには、三つの段階があります。第一段階は、自分は病気であるという自覚症状です。もし自覚症状のないまま、病気が進行しているならばとても危険です。自覚症状がなくても、健康診断を受けて分る場合もあります。血液検査やレントゲンなどで病気がわかります。同じように「自分には罪がない、悪いことは何もしていない」と言う人がたまにいらっしゃいます。が、その基準を示すのが、聖書の戒め、特に十戒であります。律法がその人に罪があるかないかを知らせてくれます。第二段階は、「このままでは治らない。自分でも治せない。医者に行くしかない」と認めることです。病気でも薬局の塗り薬や飲み薬で治るものもあるでしょう。しかし、「この病気は重くて自分ではどうすることもできない。自分じゃ無理だ」と認めることです。罪の問題も「自分で償うことができない。自分で改善することなんかできない。神様じゃなけりゃできない」と認めることです。別な表現で言えば、心が貧しくなることです。心が貧しくない人に、いくら福音を伝えても跳ね返されてしまいます。しかし、「心の貧しい人は幸いなのです」。第三段階は、信頼できる病院もしくは医者の所に行くということです。自分の身を任せるわけですから、いい加減なヤブ医者の所には行きません。この先生だったら大丈夫だという人の手術台に上ります。罪の問題も、人間が作った宗教・神様は人間以上のものではありません。キツネやたぬきでは罪の問題は解決できません。イエス・キリストは偉大な医者、魂の医者であります。この方は真実なお方で、私たちを決して裏切ったりはしません。信頼に値するお方です。人はこの三段階、つまり病気の自覚、自分では不可能、信頼のおける医者で治療を受けます。しかし、自分はどこも悪くない、という人は医者を必要としません。

 イエス様は「私は正しい人ではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました。神の前にだれ一人「正しい人」はおりません。パウロはローマ3章で「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ310と言いました。アダムから生まれた人、つまりこの世にはだれ一人として正しい人はいないのです。これは「自分は正しい」と自負していたパリサイ人たちを痛烈に皮肉った表現だったのです。イエス様はこのところで「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」というホセヤ書のみことばを引用しています。旧約のホセヤの時代、イスラエルに宗教はありましたが、不正と罪に満ちていました。神さまはいけにえよりも、正しい生活を望んでいました。イエス様の頃、彼らには形としての宗教がありましたが、その内側は貪欲と高慢で満ちていました。そして、自分たちは特別だといばって、あわれみの心などひとかけらもありませんでした。イエス・キリストは、彼らのように自分は正しいと自認している人を招くために来られたのではありません。「自分には罪があり、このままでは神様の前に立つことができない」と認める人を招くために来られたのです。私たちクリスチャンは信仰生活を続けているとだんだんきよめられます。故意に罪を犯さなくなり、正しい生活が身についてきます。それは悪いことではなく、むしろ良いことです。しかし、いつの間にかパリサイ人たちのように「自分は正しい、世の人たちよりもきよい」と思い始めます。そして、世の人たちが罪をぶらさげて、教会に来ると心の中でさばいてしまいます。口には出さないかもしれませんが、近づこうとはしません。イエス様は罪人を招きましたが、教会は品行方正で賜物のある人、ついでに金持ちを求めてしまう傾向があるのではないでしょうか?

 かなり前になりますが、広島の植竹先生が『恵みの雨』に辛口のメッセージを書いていました。教会の看板には「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。私が来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。もし、これが本当なら教会に人があふれてしかるべきだがさにあらず。実は、その看板の裏側に、見えない字で次のように書いてある。「医者は儲け商売だから患者はお客さんだが、教会は病院じゃないから弱い人ばかり来てもらっては困ります。罪人と言ってもいろいろありまして、本物の罪人は警察や刑務所へ行けばいいのです。教会へ来る罪人とは、自分の罪を知り、悔い改めた罪人のことでございます。義人にもいろいろありまして、イエスが拒んだ義人はパリサイ人、自称義人、自己義認の偽善者、こういう輩は我々の手には負えません。教会が求めているのは病人ではなく、良い青年、良い姉妹、奉仕のできる丈夫な人でございます。正しい人でも偽善者でも困りますが、悔い改めた罪人は歓迎します」と。しかし世間一般、世の中には、いわゆる義人も大勢いるが、本物の弱者、罪人もいっぱいいる。主イエスのところへは、その本物の病人、取税人、遊女、罪人たちがやってきた。そして癒され、きよめられ、役立つ人になっていった。それが良いのだ。主イエスは、本物の罪人、弱者、病人を愛された。だとすると、教会はなんという誤り、なんという偽善を犯していることか。そこが直らないと、本当のリバイバルは今年も来ない。・・・このように、植竹先生は「イエス様は本物の罪人を愛された。本者の病人を愛された」とおっしゃりたいのです。植竹先生ご自身は、教誡師として広島刑務所に何十年も通われています。また、立派な老人ホーム「輝き」を建設されました。私も牧師として、少しだけ罪人で見込みのある人が来るようにという邪心がありました。ある先生は、「教会は静かに賛美歌を歌う気持ちの良い所であってはいけません。むしろ、問題があり騒がしい所が本物の教会です」とおっしゃっていました。なぜなら、病院でも産院は「オギャー、オギャー」と賑やかです。それは、魂がたくさん生まれる教会です。また、教会が祈りもせず、伝道もせず、内側で楽しんでいるなら、サタンは猫のように丸くなって眠るでしょう。しかし、教会が魂を救い出そうと真剣に祈り出すと、サタンは起き上がって、様々な問題を教会に起こして混乱させます。みなさん、教会が成長しなくても静かな問題のない教会が良いですか。それとも、問題があって賑やかでも、成長する教会の方が良いですか。自分の信仰ばかり考える人は、平穏無事で居心地の良い教会が良いでしょう。しかし、イエス様のように「罪人を招く」教会は、問題が起こることをむしろ喜ぶ教会であります。ハレルヤ!

 最後に、ある信仰書から1つの格言を紹介させていただきます。「イエスはご自分の標準を下げるようなことは決してなさいませんでした。しかし、イエスはいつも、人々が立っておられる地点から始められました。」イエス様が、取税人や罪人の友となられたのは、神の標準を下げたり、ご自身の聖さを捨てたのではありません。むしろ、ご自分が彼らの所まで下られたのです。そして、イエス様の愛と受容と赦しを体験した人々は、そこから成長していったのです。マタイもそういう人物の一人でした。キリストに見出されてから、彼の賜物は大きく花開きました。それまでは、税金や、貸し借りの帳簿をつけていました。その賜物が再生されて、マタイによる福音書が生まれたのです。主イエス・キリストは魂の医者です。神のかたちが歪められていた罪人の罪を取り除き、身分的にも実質的にも神の子に回復させて下さるお方です。イエス様の招きに答え、私たちの人生を神様にささげましょう。イエス・キリストを人生の主として仰いで生活いたしましょう。

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2016年7月16日 (土)

罪を赦す権威 マタイ9:1-18 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.7.17

 今日の箇所は、マルコ福音書とルカ福音書にも記されています。マタイ福音書はとても短いので、他の福音書も参考にしたいと思います。何度か申し上げましたが、マタイは時間の経過ごとではなく、テーマごとにまとめて書かれています。マタイ8章と9章は、イエス様がなされた奇蹟について書かれています。ですから、「病の癒し」も奇蹟ですが、「罪の赦し」も奇蹟なんだということです。問題は「どちらの方が永遠でより価値があるのか」ということです。私たちは地上で生きていますので、目に見えてあっと驚くような奇蹟が大事なように思います。しかし、今日の箇所は、目に見えないものが永遠であり、より価値があることを教えています。 

1.彼らの信仰

 マタイ92すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。このところで、イエス様は「彼らの信仰を見て」と言われました。彼らのどのような信仰が、罪の赦しという奇蹟を起こさせたのでしょうか?マルコ福音書を見ますと、「ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた」と書かれています。「彼ら」というのですから、中風の人も入れて5人ということになります。恐らく彼らのうちだれかが、イエス様がカペナウムのペテロの家にいるというニュースを聞きつけたのでしょう(伝統的にはペテロの家です)。彼は病気で歩けないので、4人が床を担架にして運んできたのでしょう。ところが、ペテロの家は戸口まで人があふれていました。「困ったな、どうしよう」。だれかが、「屋根の上に登って、そこから吊下ろそう」と提案しました。パレスチナは雨が少ないので、屋根が平らで簡素にできています。彼らは瓦をはがして、穴を開けて、中風の人を寝かせた床ごと吊り下ろしました。ちょうどその頃、屋根の下ではイエス様が人々の前でお話ししておられました。ガサゴソと音がして、上からゴミが落ちてきました。みるみる大きな穴があいて、「何が起きたんだ」とみんなが驚いたことでしょう。ペテロはショックで開いた口がふさがりませんでした。そのうち、ロープで吊られた男性が床ごとイエス様の真ん前に降りてきました。良く見ると、その男性は病気で体が動かないようです。その時、イエスが彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われたのです。

 何が信仰なのでしょうか?人の家の屋根に穴を開けて、無礼にもほどがあるでしょう。しかも、床に寝ながらイエス様の前に出るとは何事でしょう。もしかしたら、万年床で匂っていたかもしれません。でも、イエス様は「彼らの信仰を見て」と言われました。彼らのどのような信仰がイエス様を感動させたのでしょうか?それは、4人が一人の中風の人を助けるために協力したということです。中風の人は障害があるので一人で来ることができませんでした。そこで、4人が力を合わせて、イエス様がおられる家にまで運んだのです。でも、戸口まで人があふれていて、家の中に入ることができませんでした。普通だったらそこで諦めてしまうでしょう。でも、彼らは「何とかしよう。何とかできるはずだ」と知恵を働かせました。人の迷惑も顧みず、屋根に穴を開けて、下に吊下ろすなんて、確かに乱暴です。「人の家を壊した」と言うことで、訴えられるかもしれません。中風の人も、床に寝たまま人々の前に降ろされるのは恥ずかしかったでしょう。でも、彼らは決断し、実行しました。物理的な問題、人への迷惑、恥意識、それらのものを全部後回しにして、イエス様の前に彼を吊下ろしたのです。まるで、映画にあるような特殊部隊のようです。なんで、そこまでしなければならないのでしょうか?集会が終わった後でも良いでしょう。明日、また来たら良いじゃないですか?彼らの信仰は、「今しかない」という求める信仰でありました。Ⅱコリント62 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。アーメン。「今は恵みの時、今は救いの日です」。明日になったら、イエス様は他のところに行くかもしれません。今がチャンスなのです。彼らはチャンスを逃さなかったのです。

 でも、どうでしょう?彼らは病の癒しを求めたのに、与えられたものは何でしょう?イエス様は「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われました。彼らは「え?罪の赦しではなく、病の癒しを下さいよ」とガッカリしたのではないでしょうか?彼らは求めたものとは別のものが与えられました。マタイ7章には「求めなさい。そうすれば与えられます」と書いてありました。彼らはその言葉のとおり、求めました。でも、求めたものとは違いました。なぜなのでしょう?マタイ711「天の父は、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」と書かれています。このところに、罪の赦しと病の癒しの2つのものが記されています。質問があります。罪の赦しと病の癒し、どちらがより価値があり、よりすばらしいのでしょうか?もちろん、罪の赦しであります。病の癒しはこの地上だけのものです。病が癒されても、いつかは死ななければなりません。でも、罪の赦しを受けるなら、神の御国と永遠の命が与えられます。罪の赦しの方が、肉体の癒しよりもはるかに勝るものです。イエス様がなぜ、彼らの信仰を見て、罪の赦しを与えたのでしょうか?それは、イエス様が彼らの信仰に感動して、もっと良いものである罪の赦しを与えたくなったのです。でも、彼らもそうですが、私たちも「アーメン、ハレルヤ!」とそのことを喜べるでしょうか?

 私は1979610日、座間キリスト教会で洗礼を受けました。10人の人たちが講壇の前に並びました。滴礼でしたが、大川牧師が手を置きながら、「子よ。汝の罪、赦されたり」と宣言しました。そのことばは、きょうの箇所からの引用であります。どの教団の先生方も同じように宣言するのか分かりません。10人が洗礼のとき罪の赦しを受けることができました。でも、その10人が5年くらいたつと半分以下になりました。おそらく、罪の赦しの感動が長続きしなかったのではないかと思います。私たちは目に見える癒しとか、この世の祝福を求めがちです。でも、罪の赦しは、目に見えないので価値がないのでしょうか?そうではありません、病の癒しはこの世だけのものですが、罪の赦しは永遠のものです。イエス様は彼らの信仰を見て、より良いものを与えたくなったのです。このところから、私たちは「彼らの信仰」を学ばなければなりません。マタイによる福音書は共同体の福音書と言われています。他の福音書が一人なのに、マタイの福音書は二人になっている箇所がたくさんあります。たとえば、物ごいをしていた盲人の癒しも二人になっています。ガダラ人の悪霊のつかれた人も二人でした。なぜ、二人なのでしょう。マタイ18章には「あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」と書かれています。きょうのところでは、4人の友人が一人の病人をイエス様のもとに運んできました。「協力」という字は、十字架に力が3つ、いや4つであります。イエス様が「彼らの信仰」に感動したのは、彼らが一致協力して、ご自分のところにやって来たからです。でも、彼らの前にいくつかの障害があります。人々が戸口まであふれていて入ることができませんでした。その次は屋根にのぼり、瓦をはぎ穴を開けました。これは人の家屋を壊す行為ですから、立派な犯罪です。しかも、イエス様が話している最中、上から床に寝た病人を降ろすとは何事でしょう。失礼にもほどがあります。でも、幾多の障害を乗り越え、熱心に求めてきた人たちの信仰をイエス様は喜ばれたのです。

マタイによる福音書には「教会」ということばが2回記されています。これはマタイだけで他の福音書には書かれていません。パウロは、教会はキリストのからだであり、さまざまな器官が連なり合っている存在だと言いました。さまざまな器官とは賜物の違い、性格の違いということです。おそらく彼ら4人は、賜物の違い、性格の違いがあったことでしょう。でも、一人の友人をなんとかイエス様のところにお連れして、癒してもらおうという1つ目的で力を合わせました。肉体的に力のある人、知恵を働かせる人、掛け声をあげる人、道具を使う人…そういう人たちが力を合わせたのです。キリストのからだなる教会も同じであり、賜物や性格の違う人たちが集まって神さまに仕えているのです。ですから、他の人と比べたり、1つの価値観で他の人をさばいてはいけません。目と耳と口と手と足が違うように、別々な働きをします。違って良いのです。でも、重要なことは神さまの目的のために1つになるということです。イエス様が喜ばれたのは、そのような信仰であります。私たちは一人一人が主にあって多様性であることを認めたいと思います。また、同時に神さまの目的のために一致することが重要です。多用性における統一であります。もう一度、マタイ18章のみことばを引用したいと思います。マタイ1819-20まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」アーメン。

2.罪を赦す権威

 マタイ93-7「すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている」と言った。イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。このところは、非常に解釈が難しくて、説教者泣かせの箇所であります。第一のポイントでは、イエス様は罪の赦しという病の癒しよりも良いものを与えたと言いました。しかし、イエス様が病の癒しではなく、罪の赦しを与えたということで物議をかもしてしまいました。なぜなら、その家の中には、聖書の専門家である律法学者たちがいたからです。何故、いるのでしょう?彼らは教えを聞くためではなく、イエス様のあら捜しをするために来ていたのです。彼らはそのとき心の中で、「この人は神をけがしている」と言いました。それは、こういうことです。「人の罪を赦すことができるのは神さましかいないはずだ。それなのにこの男は、『あなたの罪は赦された』と言い放った。神でもないのに、そんなことを言うなんて神を冒涜している行為だ。」律法学者たちは声に出して言ったわけではありません。心の中で、思っただけなのです。イエス様は人の心を見抜いて、おっしゃったのであります。これも1つの奇蹟ではないかと思います。イエス様は彼らにこのような質問しました。マタイ95『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。周りにいた人たちや律法学者らの視点から考えて、どちらがやさしいのでしょうか?実は「あなたの罪は赦された」というのが簡単なのです。そして、「起きて歩け」と言うのが難しいのです。「あなたの罪は赦された」と言ったとしても、本当に罪が赦されたのだかどうか分かりません。ごまかしがききます。一方、「起きて歩け」と言って、もし、その人が起きなければどうなるでしょう?病の癒しが起こるならだれの目にも明らかです。ところが、罪の赦しは起きても見えません。もし、イエス様がペテン師であれば、罪の赦しを行っても、病の癒しはしないかもしれません。なぜなら、中風の人が癒されなかったなら恥をかくことになるからです。

 もし、イエス様が最初に「起きて歩け」と言って、中風の人を癒したなら、何も問題は起こらなかったでしょう。これまでイエス様はそのような病人をたくさん癒してきました。癒しが起った後で、「あなたの罪は赦された」と言っても良かったはずです。でも、そうなると、やはり彼らは「神でもないのに、そんなことができるのか?」と心の中で文句を言ったはずです。恐らく、イエス様は彼らが文句を言うのを承知で、最初に「あなたの罪は赦された」とおっしゃったのではないでしょうか。では、イエス様の真意はどこにあるのでしょうか?それはこういうことです。マタイ96人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。すると、彼は起きて家に帰った。イエス様が「あなたの罪は赦された」と言われました。でも、「そのことは本当に起きたのだろうか?だれにも分からないので、勝手に言ったんじゃないだろうか?」と人々は疑うはずです。しかし、どうでしょう?イエス様は地上で罪を赦す権威を持っていることを彼らに証明するために、中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われました。すると、彼は癒されて帰りました。つまり、イエス様が病の癒しを命じるとその人は命じたとおりになったのです。これは誰の目にも明らかなことです。でも、その前に「あなたの罪は赦された」とおっしゃったことはどうなのでしょうか?ただの言葉だったのでしょうか?そうではありません。イエス様が発した言葉によって中風の人が癒されました。それと同じように、イエス様が罪の赦しの宣言も彼の上に成就されたということです。そのようにイエス様は罪を赦す権威があることを証明するために、その後で病の癒しをなされたのです。そのために、この人は罪の赦しと病の癒しの2つを受け取ることができたということです。

 この解釈にはいろいろあって、「そうじゃない」という先生もおられるかもしれません。中には、この人の病気は罪が原因だったので、まず罪の赦しを与える必要があったという先生もおられます。つまり、彼は長い間、罪責で苦しんでいたということです。イエス様はまず、罪の赦しを与えて、原因である罪責感を取り除かれた。その後で病を癒されたのだと言います。でも、それだとイエス様が罪を赦す権威があることを証明するためにしたことにはなりません。イエス様はあえて物議をかもし出すようなことをして、ご自分が罪を赦す権威を持っていることを示したかったのです。イエス様は、ご自分が罪を赦す権威を持っていることを示している箇所はそんなにありません。ヨハネ8章において、姦淫の場で捕えられた女性を赦しました。教会では礼拝の始め使徒信条なるものを唱えるところがあります。うちではあまりやっていません。10数年前、本郷台キリスト教会で特別集会がありました。そのところに、当教会の兄弟姉妹が多数参加されました。その時、司会者が「使徒信条を唱えましょう」と言いました。私は何十年も唱えているので覚えていますが、当教会から参加した姉妹を横目で見ました。とても当惑していて、口パクの状態でした。その時「たまには、唱えても良いかな?」と思いました。ところで、使徒信条の最後の部分にこのように記されています。「天にのぼり、全能の父なる神の右に坐したまえり(イエス様のことです)。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを裁きたまわん」とあります。黙示録19章には世の終わり、白い馬に乗ってこられる再臨のイエス様の記事があります。まさしく、その時は、平和の君ではなく、世をさばくお方として来られるのです。イエス様は今、王として父なる神さまの右に坐しておられることを知る必要があります。

 ということはどういうことでしょうか?私たちは生きている間に、イエス様を信じて、神さまと和解する必要があります。もし、イエス様から「あなたの罪は赦された」というご承認をいただいたらどうでしょう?世の終わりイエスさまが来られても大丈夫です。また、私たちは黙示録20章の「白い御座のさばき」に立つ必要はありません。もう、神さまの前に立たなくても良いのです。なぜなら、イエス様を信じたことで神の義をすでにいただいているからです。たとえば、高校入試には2種類あります。1つは推薦入学です。簡単な面接はありますが、そこで受かれば、試験を受ける必要はありません。しかし、推薦がもらえなかった人は、入学試験を受けるしかありません。まさしく実力で臨むしかありません。推薦で前もって受かった人というのは、人々が入学試験のために四苦八苦しているのに、のんびりすることができます。もちろん、あからさまにのんびりしているのを見せてはいけません。でも、平安で過ごすことができます。同じように、生前、イエス様から罪の赦しをいただいていたら、最後の審判が訪れても恐れることはないのです。他の人は実力で、自分の義で神さまの前に立たなければなりません。教会はいわば神の国の大使館であります。大使館の大事な働きは、ビザを発行することです。このビザがあれば、その国に入国できますが、ビザがないと追い返されてしまいます。第二次世界大戦中、リトアニア領事館に杉原千畝という領事がいました。『六千人の命のビザ』という本にもなっています。彼の名前は、長い間、日本では知られていませんでした。なぜなら、日本の外務省に逆らって、ユダヤ人のためにビザを発行したからです。当時の日本はドイツと同盟国の間柄でした。ところが、ナチス・ヒットラー率いるドイツ軍はユダヤ人撲滅作戦を決行しました。そのため、大勢のユダヤ人が国外に逃れようとしました。そのとき、杉原千畝は亡命してきたユダヤ人のために手書きのビザを6000通も発行したのです。本当は、日本政府から即刻国外退去するように命じられていたのにです。ある資料にこのように書かれていました。杉原夫人が、難民たちの内にいた憔悴する子供の姿に目をとめたとき、「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ」という「旧約の預言者エレミヤの『哀歌』が突然心に浮かん」だ。そして、「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」という千畝の問いかけに、「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」と同意。そこで杉原は、苦悩の末、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。一時に多量のビザを手書きして万年筆が折れ、ペンにインクをつけては査証を認める日々が続くと、一日が終わり「ぐったり疲れて、そのままベッドに倒れ込む」状態になり、さらに「痛くなって動かなくなった腕」を夫人がマッサージしなくてはならない事態にまで陥った。そのように記されていました。

 杉原千畝と杉原夫人の心は、イエス様のこころであります。一人でも多くの人が滅びを免れ、命へ入って欲しいと願っています。イエス様の罪の赦しは、神の国への入国ビザのようなものです。死んでからでは遅すぎます。今、生きているうちに求めるしかありません。4人の友人は、今しかないと一人の病人をイエス様がおられる家まで運んできました。でも、人が戸口まであふれて行けませんでした。集会後、明日でも良いとは思いませんでした。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」とばかり、屋根に上り、瓦をはいで、イエス様の前に吊下ろしました。人間的にはとても乱暴で、また無礼であります。しかし、イエス様は彼らの信仰を見て、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われました。イエス様は、もちろん病の癒しを与えることができましたが、それよりもまさる罪の赦しをお与えになられました。私たちも地上の目に見える必要もたくさんあります。しかし、永遠にいたる罪の赦しを得ていることを感謝しましょう。

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2016年7月 9日 (土)

悪霊を追い出す権威 マタイ8:28-34 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.7.10

 「悪霊」などと言うと、「なんて前時代的なことを」と笑う人がいるかもしれません。さらに、「悪霊を追い出す」なとど言うと、映画の『エキソシスト』を思い出すでしょうか?日本人は西洋の教育を受けているので、頭では霊的な存在を信じません。しかし、日本は元来、シャーマニズムの国なので、心では霊的な存在を信じています。だから、お守りを買ったり、神社にお祓いを受けに行くのです。永遠の真理である聖書は、時代が進んでも悪魔と悪霊の存在を知らせてくれます。私たちは悪霊に対して正しい理解を持ち、神からの権威をいただくならば、それほど恐れる必要はありません。きょうは、イエス様が悪霊を追い出す権威を持っておられたことを学びたいと思います。

1.ガダラ人と悪霊 

 マルコによる福音書とルカによる福音書にも同じような記事がありますが、その地名が「ゲラサ」と記されています。もともとは「壁」「囲い」という意味があるようです。マタイだけが、「二人いた」と書いてありますので、何か意図があるのかもしれません。まず、ガダラ人と悪霊について調べたいと思います。ルカに福音書は「彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた」と書いてあります。マルコはもっと詳しくて、「もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。…彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。」と書いてあります。総合的に分かることは、彼は鎖をひきちぎるほど狂暴でした。また、社会性がなく、墓場で裸で暮らしていました。夜昼となく叫び続け、石で自分のからだを傷つけていました。彼がそのような生活を強いられていたのは、悪霊につかれていたからです。英語の聖書にはdemon-possesedと、「悪霊に所有されていた」となっています。なんと、彼は肉体だけではなく、人格まで乗っ取られていました。イエス様が彼の名前を聞いたとき、「レギオンです」と内側にいた悪霊が答えました。ある人たちは、「悪霊を追い出す前に、悪霊の名前を聞け」と言いますが、それは大間違いです。なぜなら、彼らは嘘つきであり、彼らと会話をするならば、彼らの罠にはまってしまうでしょう。イエス様は「ガダラ人」に、「お前の名前は何か」と尋ねたのです。それなのに、彼の中にいた悪霊が「私の名はレギオンです」と答えたのです。彼のように人格まで乗っ取られているのは、よっぽどの重症です。

 まず、大切な知識は「人はどのように悪霊に影響されるのか?」ということです。日本語の「悪霊につかれた」とか、英語のdemon-possesedは、極端な言い方であり、そういう人はめったにいません。悪魔崇拝とか魔術をした人ならともかく、一般の人はそこまで行くことはまずありません。神さまは一般恩寵として、私たちに自由意思を与えました。ですから悪霊は人間の意志を無視して、中に入ることはできません。そして、悪霊には肉体がないので、住むべき家である肉体を捜し回っています。私たちは家を探すとき、自分の性格や好みに合う家を捜します。ガダラ人は「汚れた霊」を宿していましたが何故でしょう?ガダラ人に汚れた霊が入ったので、汚れたことをしたのではありません。ガダラ人が汚れたことをしていたので、たまたま通りかかった汚れた霊が「これは私の性格にぴったりだ」と仲間を呼んで来て入ったのです。そのため、その人はますます汚れたことをするようになりました。最終的に人格までのっとられてしまったのです。悪霊が人間に入るためにはおもに3つの分野、3つの罪があります。第一は偶像礼拝です。これは霊的な罪であり、偶像礼拝、魔術、オカルト、占い、呪文などによって入ります。たとえば、子どもが生まれたので、お宮参りに行ったとします。両親が「子どもをお願しますと」偶像に祈願します。もし、そこに悪霊がいたなら、「わかった。わしが守ってやろう」と言います。祈願は悪霊と契約を交わす行為です。その契約は、本人が忘れても、主の御名によって取り消さない限り、いつまでも残ります。第二は心の傷や告白していない罪があるなら、敵に対して足場を作ることになります。たとえば、人を赦さない罪、恨みや怒りです。人から受けたトラウマやマインドコントロールもあります。恥、罪責感、深い喪失感も悪霊が好む餌です。第三は肉体の罪や悪習慣から来るものです。たとえば、ポルノや性的な罪があります。麻薬やギャンブル、アルコールなどの中毒性のものがあります。盗み、悪いことばや嘘も敵に対して足場を作ります。エペソ426-27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」怒ること自体は罪ではありません。しかし、怒りを心にしまい込み、それが憤慨になるなら問題です。そうすれば、悪魔に機会を与えてしまうからです。「機会」はギリシャ語では「トポス」であり、場所とか足場という意味があります。ですから、私たちは悪霊を追い出す前に、罪を悔い改め、傷を癒す必要があります。そのような生ごみを取り除いたら、カラスやねずみが来なくなります。それと同じで、原因を取り除いたなら、悪霊は簡単に出て行きます。

 ガダラ人の場合は、人格まで悪霊にのっとられた極端な例です。でも、このところから悪魔の目的を知ることができます。イエス様は「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。」(ヨハネ1010と言われました。ガダラ人は石で自分のからだを傷つけていました。悪魔の目的はその人自身を殺すことであります。悪魔が仕向けていると言っても過言ではありません。また、彼は着物をつけないで墓場で暮らしていました。このように悪魔の働きは社会性をなくし、孤立させることです。彼は鎖を引きちぎり、だれも彼をつないでおくことができませんでした。彼は夜昼、叫んでいましたが、おそらく彼自身の中から出てくる怒りや悲しみ、絶望感なのでしょう。イエス様はその叫び声が聞こえたので、ガリラヤ湖の反対からガダラにやって来たのです。途中、嵐になり舟が沈没しそうになりました。恐らく、悪魔が嵐を起こして、イエス様と弟子たちを滅ぼそうとしたのではないでしょうか?だから、イエス様は、まるで人格があるかのように、風と湖をしかりつけられたのだと思います。悪霊に乗っ取られてしまった彼らをだれも救うことができませんでした。イエス様はあわれに思って、湖を渡って来られたのです。

2.イエス様と悪霊 

 驚くべきことに、悪霊はイエス様がだれかを知っていました。マタイ8:29 すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」マルコには「駆け寄って来て、イエスを拝した」と書かれています。人間はイエス様のことを分からないし、認めもしません。しかし、悪霊どもは、イエス様を「神の子よ」と告白しています。そして、自分たちを滅ぼさないように命乞いをしています。彼らは「今はその時ではないでしょう」と訴えています。おそらく、黙示録20章に記されている「火と硫黄との池に投げ込まれる」時のことなのでしょう。彼らは、「まだ裁きの時なじゃないのに、どうして自分たちを苦しめるのですか」と言っているのです。私たち人間はなかなかしませんが、悪霊どもが「神の子」「いと高き神の子」と告白しています。イエス様の素性を知らないのは、私たち人間であります。彼らがイエス様を礼拝し、「神の子」と告白しているので、彼らは救われているのかというとそうではありません。ヤコブ219「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」私たちプロテスタント教会は「信仰告白」をとても大切にしています。教理問答を学びながら、1つ1つ答えるかもしれません。しかし、ヤコブは「りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」それでは何が足りないのでしょうか?「信仰告白」や礼拝では足りないのでしょうか?ヤコブは「行いのない信仰はむなしい」「信仰は行いによって全うされる」と言いました。つまり、悪霊どもはイエス様を「神の子」と告白して礼拝しました。でも、彼らはイエス様に従うでしょうか?絶対、従いません。なぜなら、彼らの親分は悪魔だからです。イエス様は「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。」(ヨハネ844と言いました。

 悪霊どもはイエス様に妥協案を提示しました。それは、永遠の滅びではなく、「豚の群れの中にやって下さい」と願いました。マタイ832「イエスは彼らに『行け』と言われた。すると、彼らは出て行って豚に入った。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。」マルコには、「イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。」(マルコ5:13と記されています。2,000というのは、おびただしい数です。しかし、彼らの中に入っていた悪霊は、レギオンでありました。レギオンはローマの軍隊の呼び名で、新約聖書の時代は6,000の兵士の数でした。だから、2,000匹の豚を狂わせることはいとも簡単なことなのです。ガダラ人の中に入っていた悪霊どもは、それほどの数であり、それほどの破壊力があったということです。でも、私たちがこのところで学ぶべきことは、イエス様は神の子であり、彼らよりもはるかに力と権威があったということです。旧約聖書に「万軍の主」という呼び名が多数登場します。英語の聖書では、The Lord of hostsです。Hostというのは、「大勢、多数」という意味の他に、「軍勢、天使」という意味があります。イエス様はまさしく、「天使たちの長」なのであります。悪魔と悪霊は堕落する前に、神の子イエスに従っていたのです。彼らは地上でのさばっていましたが、まさか、神の子イエスが地上に来るとは思っていなかったのでしょう。私たちは、悪霊たちの異常な驚きぶりから、イエス様の力を知らなければなりません。

 これまでのことをまとめますと、イエス様の教えに権威があって、人々が驚きました。マタイ8章にはいりますと、イエス様にはわずらいや病を癒す権威がありました。さらに悪霊を追い出す権威がありました。さらには、自然界を支配する権威がありました。本日のガラダ人の場合は、1ランク高いレギオンという悪霊に対する権威です。この後で話しますが、人々は「この地方から出て行ってください」とイエス様にお願いしました。私はレギオンというのは、その地方を支配する悪霊のかしらではないかと思います。つまりレギオンはその地方の人たちを支配していたのではないかと想像します。どうしたら私たちは悪魔や悪霊から救われるのでしょうか?さきほど、悪霊は住むべき家をさがしているとお話ししました。一番怖いのは、家の中が綺麗であっても、主イエス様がいらっしゃらないお家です。もちろん、家とは私たちのことをたとえています。私たちの家にはたくさんの部屋があります。人を迎える応接間があるでしょう。しかし、鍵がかかってだれも入れない秘密の部屋もあるかもしれません。私たちは信じた時、主イエス・キリストを心にお迎えしました。しかし、イエス様を一階の部屋に入れても、「二階はだめですよ」と言ったらどうなるでしょう。悪魔があなたの家にやってきたとき、悪魔は一階の部屋には入れません。なぜなら、そこにはイエス様がおられるからです。でも、悪魔が二階の部屋に行ったらどうでしょう?あなたは悪魔と一人で戦わなければなりません。さらに問題なのは、秘密の部屋です。まだ、あなたはその鍵をイエス様に明け渡していません。あなたは隠れたところで、自分の時間を持ちたいのです。しかし、それが悪魔の足場になる可能性があります。「ガダラ」、あるいは「ゲラサ」は、もともとは「壁」「囲い」という意味がありました。ガダラ人は、人々から離れ、壁(囲い)を作って生きていたのです。もし、自由で勝利した生き方をしたいのであれば、主イエス様にすべての部屋を明け渡す必要があります。あなたの秘密の部屋にさえも、イエス様をお迎えしましょう。そうすれば、悪魔がやってきても、権威あるイエス様が応対してくださいます。あなたは「私の家はイエス様のものである。イエスの御名の権威によって出て行け、入って来るな」と命じることができます。勝利の秘訣は、いつもイエス様を認め、イエス様を歓迎し、イエス様に従うことです。

3.ガダラの地方の人たちと悪霊 

 マタイ833-34「飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。」何と言うことでしょう。ガダラの地方の人たちは悪霊につかれた人が癒されたことを喜ぶのではなく、死んだ2,000匹の豚ことを悲しんだのです。本来、ユダヤ人は豚を飼いませんでした。なぜなら、豚は汚れていると思われていたからです。おそらく、その地方の人たちは、サマリヤ人のような混血だったのかもしれません。彼らにとって生活の安定こそが第一でありました。もし、この地方にイエス様が滞在するならば、豚だけではなく、他の物も失う恐れがあったからです。それにしても、ひどい話ではないでしょうか?彼らは、悪霊につかれた人たちの証を残らず聞きました。そして、町中の者がイエス様に会いに出て来たのです。ところが、「イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った」のです。悪霊を追い出したイエス様を信じるどころか、「どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った」のです。今の時代も同じです。人々は、いろんな集会で福音を聞く機会があるかもしれません。「それは良い教えだ。イエス様は救い主なんだ」と言うかもしれません。でも、信じて、心にお迎えするかというとそうではありません。なぜなら、自分の生活が変えられるのが嫌だからです。もし、「イエス様を信じたなら、好きなことができなくなる。毎週、教会に行かなければならない。それは嫌だ」となるのです。信仰の喜びよりも、信仰生活の義務とか規則が重荷となるのです。そこで、教会は「信じないと滅びに行くよ。教会につながりなさい」と脅かすのです。中には、地獄に行きたくないので、教会に来る人たちもいないわけではありません。それだと、世の中の宗教となんら変わらなくなります。せっかく恵みによって救われたのに、教会の教えや規則によって縛られる恐れがあります。

 パウロはガラテヤの教会にこのように言いました。ガラテヤ51「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」イスラエルは400年以上もエジプトで奴隷でした。エジプトはこの世の象徴であり、パロは悪魔の象徴です。彼らはモーセに導かれ、紅海を渡って、荒野にやってきました。もうすぐ、カナンに行けるのに、一世代の人たちは約束の地に入ることができませんでした。彼らの体はエジプトから出てはいましたが、心の中にエジプトがあったのです。彼らは「ああ、エジプトは良かった。ニラもたまねぎも食べられた」と不平をこぼしました。ガラテヤの教会も、せっかくキリストの福音によって救われたのに、奴隷の生活に逆戻りしてしまいました。ガラテヤの教会は恵みによって救われたのに、肉によって仕上げようとしたのです。肉というのは、自分の力によって律法を守り、宗教的な生活をするということです。そうすると喜びがなくなり、すべてのことが義務になります。律法は「まだ足りない、まだ足りない」と背中に鞭を打ち付けます。彼らは恐れを与える「奴隷の霊」に支配されてしまったのです。パウロはローマ8章でこのように言っています。ローマ815「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。」アーメン。私には4人の子どもがいますが、だれ一人、私の顔色をうかがっている子どもはいません。傍若無人とまで言いませんが、堂々としています。「少しは部屋を片付けろ!たまには礼拝に出ろ!」と言いたいのですが、平気な顔をしています。でも、私の顔を見ておどおどしているよりは、ずっと増しだと思っています。彼らは自分をこの家の子どもだと思っているので、当たり前に生活しているのです。私たちクリスチャンは神の子どもです。神さまを「アバ、父」、お父ちゃん、daddy と呼んで良いのです。そこには、宗教のひとかけらもありません。宗教というのは、自分の罪や汚れを隠し、媚を売って取り入ろうとする行為です。しかし、主イエス・キリストは私たちのために血を流し、すべての罪を贖ってくださいました。私たちはキリストの血によって、いつでも神さまの御座に行くことができるのです。私たちの日常の生活ぶりがどうであれ、キリストの血によって神の子として受け入れられているのです。信仰のバロメーターは、喜びと自由があるかどうかです。たとえ、社長夫人で豪邸に住み、セレブのような生活をしていても、喜びと自由がないなら問題です。

 前のポイントで申し上げましたが、レギオンというのは、その地方を支配する悪霊のかしらではないかと思います。レギオンはその地方の人たちを支配していたのでしょう。ガダラの人たちは、主イエス様に従うよりも、レギオンのもとで暮らした方が良いと思っていました。彼らは「御名があがめられ、御国が来ますように」とは祈りません。そうではなく、「日々の生活が問題なく過ごせますように。地上でいつまでも平和に暮らせますように」ということです。確かに悪魔はこの世での暮らしを保障するかもしれません。しかし、悪魔は、永遠の御国、永遠のいのちを決して与えることをしません。悪魔と悪霊は自分の最終ゴールが、火と硫黄との池に投げ込まれることを知っています。だから、一人でも多くの人間が、自分と道連れになることを願っているのです。神さまから離れた人間は、悪魔の持ち物です。だから、一人も手放したくないのです。そのために、彼らは福音の光を見えなくします。そして、この世の喜びや楽しみを与え、御国を望まないように仕向けます。人々はこの世で無難に暮らせるかもしれませんが、それは奴隷の生活であり、神さまが願う標準では決してありません。私たち神の子の生活は杯があふれる生活です。私たちは霊的には天上に席がありますが、肉体は地上にあります。だから、敵である悪魔や悪霊の攻撃も受けることがあります。でも、ダビデはこのように言っています。詩篇23:5-6 「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」たとえ、敵である悪魔がいても、主は「私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」アーメン。地上の生活においても、悪魔や滅びが追いかけてくるのではありません。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」アーメン。私たちは地上にいながらも、主の家に住んでいるような豊かさがあるのです。

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2016年7月 1日 (金)

十字架の力 Ⅰコリント1:18 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.7.3

 きょうは亀有教会創立67周年の記念礼拝です。Ⅰコリント1章に「十字架のことばは力である」と書かれています。十字架にはどのような力があるのでしょうか?きょうは3つのポイントで学びたいと思います。第一は「贖いの十字架」です。十字架で流されたイエス様の血潮はすべての罪咎、罪責感を取り去る力があります。第二は「きよめの十字架」です。十字架は私たちの古い人である罪の源、そしてアダムから来た一切のものを遮断する力があります。第三は「日々の十字架」です。イエス様は「日々、自分の十字架を負って私について来なさい」と言われました。クリスチャンは救いを受けてはいますが、肉という罪を犯す性質が残っています。だから、日々、肉を十字架に付ける必要があります。十字架はこの肉を死なせてくれる力があります。

1.贖いの十字架

 ローマ323-25a「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。」「罪」という概念は、日本にはありません。日本人は「人に迷惑をかけなければ良い」という社会的な罪概念だけです。しかし、聖書で罪とは、神に対する背き、違反、汚れであります。ダビデはイスラエルの立派な王でありましたが、姦淫と殺人の罪を犯しました。罪を隠していた時は、「一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました」(詩篇323と言っています。神さまは全世界と人間を造られた創造主です。罪を犯すというのは、人にではなく、まず神に対して犯していることを理解しなければなりません。そのため、ダビデは「私はあなたに罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました」(詩篇514と告白しています。ですから、罪の赦しを受けるときは、人ではなく、まず神さまから赦しを受ける必要があります。もちろん、被害を与えたときは、人や社会への償いは必要です。でも、それは2番目です。パウロは、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」と言いました。「すべての人」の中にあなたも入るでしょうか?「いいえ、私はダビデのような大きな罪は犯していませんよ」と言うかもしれません。「罪はない」「罪を知らない」という人のために、神さまは律法をお与えになりました。律法は神からの戒めであり、命令です。イエス様は山上の説教で、「実際に罪を犯していなくても、思っただけで罪になるんだ」と律法の真の意味を教えました。人を憎んだり、情欲を抱いて異性を見たり、欲しいとむさぼるのも罪であります。そうなると義人はひとりもいなくなります。

 私たちは、神さまから罪が裁かれ、永遠の滅びに行く運命でありました。ところが、神さまは御子を遣わして、御子に私たちの罪を負わせ、御子を罰したのです。それを十字架の贖いと言います。「贖う」は、初めは失われた土地を親戚が買い戻すという意味でした。次第に、罪ある者を赦すために、だれかが罪の代価を払うという意味になったのです。旧約時代は、動物が代わりに血を流すことによって、罪が贖われました。なぜなら、罪は命である血でしか贖うことができなかったからです。イザヤ書53章には、メシヤが神から打たれ、苦しめられることによって罪咎が赦されると預言されています。そのメシヤというのが、イエス・キリストです。パウロは、「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになった」と言いました。義なる神は1つの罪をも見過ごしにはなされず、必ず裁かなければなりません。しかし、神さまは愛なるお方なので、何とか人間の罪を取り除いて、和解したいと願いました。そのため、御子イエスに全人類の罪を負わせ、裁いたのです。「なだめの供え物」とありますが、キリストの血によって、神の罪に対する怒りがなだめられたのです。同時にキリストの十字架によって神の義が満たされたのです。そして、神さまはキリストを信じる者を義とされると約束されました。ハレルヤ!神さまは救いのために、キリストによってすべてのことをなされました。私たちがなすべきことは、キリストによってなされた贖いを受け取るだけで良いのです。

 もし、人がこのキリストにおける贖いを受け入れたらどうなるのでしょう。すべての罪が赦され、神さまから義と認められます。これは法律用語であり、私たちの実質ではなく、神との関係において義とされるということです。そうすると、私たちを訴える咎めがなくなります。罪を犯すと3つのものが私たちを訴えます。第一は神さま、第二は良心、第三は悪魔です。キリスト・イエスによる贖いを受けたので、神さまは私たちを受け入れてくださいました。ヘブル1019 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」とあります。第二の良心、つまり罪の呵責はどうでしょう?ヘブル1022「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」アーメン。キリストの血によって心から咎めが去ります。第三の私たちを訴える悪魔はどうでしょうか?ヘブル214-15「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」とあります。キリストが十字架で死なれたとき、同時に、私たちを訴える悪魔のかしらが砕かれたのです。もう、悪魔は私たちの罪を訴えることはできません。なぜなら、キリストがすべての罪を支払ったからです。もし悪魔が私たちを訴えるなら、「キリストのところへ行ってくれ」と言えば良いのです。多くの人が罪責感、罪悪感のゆえに心の病気になっています。その人がカウンセラーのところへ行くと、「あなたは悪くない。親が悪いんだ、あるいは社会が悪いんだ」と言います。でも、決して良くなりません。癒しと解放のために3つのことが必要です。1つ目は、それは自分が犯した罪であることを認めるということです。2つ目は、イエス・キリストが私の罪ために十字架で死なれたことを信じることです。3つ目は、良心にキリストの血の注ぎを受けることです。すると、すべての罪責感、罪悪感が取り去られます。私たちは自分の良心よりも、悪魔の訴えよりも、神の約束を信じるべきであります。キリストの十字架の贖いによって、すべての罪は赦されました。アーメン。

2.きよめの十字架

 「きよめ」という用語自体が誤解を招きますので、少し説明させていただきます。16世紀、マルチン・ルターは「信仰義認」ということを聖書から発見しました。18世紀、イギリスのジョン・ウェスレーが「聖化、きよくされる」ということを聖書から発見しました。Ⅰヨハネ36a「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。」とあります。これも同じ意味で、継続的に罪を犯さなくなる、きよくなるということです。救いも信仰でありますが、いわゆる「きよめ」も恵みであり信仰です。ある教団は劇的なきよめの体験を追求しますが、そうなると罠にはまります。なぜなら信仰が先で、体験は後から来るものだからです。私はウォッチマンニーの『キリスト者の標準』に書かれている内容を支持しています。その本には、「罪のゆるし」と「罪を犯すその人自身」とに分けられています。罪のゆるしとは、sins行為罪が赦されるということです。罪を犯すその人自身というのは、アダムから受け継いだ、sin罪の性質から解放されるということです。私たちは天国に行くまで、sin罪の性質はあります。これは罪を作り出す工場みたいなものです。「臭いところは元から断たなけりゃダメ」と言われるように、1つ1つの罪ではなく、罪の工場を破壊する必要があります。これが、きよめの十字架という意味です。

 ローマ人への手紙を見ますと、ローマ512から単数形の罪、sinについて記されています。「アダムの違反によって、すべての人が罪に定められた」と書かれています。イエス・キリストは最後のアダムとして、この世に来られました。イエス様は、罪のかわりに恵みを、死のかわりに永遠のいのちを与えて下さいます。では、どのように私たちはアダムの罪から解放され、いのちにあずかることができるのでしょうか?パウロは「イエスにつくバプテスマを受けた私たちはその死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか?」と言っています。つまり、私たちがイエス様を信じて、バプテスマを受けたとき、キリストと一緒に死んだということです。また、キリストがよみがえられたとき、私たちもキリストと一緒によみがえったということです。ローマ65-7「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」「古い人」というのは、アダムに属するすべてです。この地上に生まれた人は、すべてアダムに属する人であり、古い人です。このままですと、イエス様を信じて罪赦されても、また罪を犯して、しまいには滅んでしまいます。旧約聖書のイスラエルがそうであり、彼らはいくら罪赦されても、また同じことを繰り返しました。新約における恵みとは、古い人が一度死んで、新しい人になるということです。自分で古い人を殺すことはできません。キリストにバプテスマされる、一体化されると良いのです。パウロは、それはキリストに接ぎ木されることだと言っています。私たちは、アダムという木につながっていました。ところが、アダムの木から切り取られ、一瞬死んで、今度はキリストの木に接ぎ木されたのです。どこが変わったのでしょうか?命の源が変わりました。古い人とは、アダムの罪、アダムの命、アダムの資源という意味です。しかし、古い人がキリストとともに十字架につけられて、罪のからだが滅びたのです。そのことによって、アダム以来の罪から解放されます。そして、今度はキリストとともによみがえるのです。つまり、あなたはキリストという木に接ぎ木されました。これからは、キリストきよさ、キリストの命、キリストの資源にあずかるようになるのです。

 罪からの解放、つまり罪のきよめも信仰であります。私たちはイエス様の十字架を信じて救われました。十字架の贖いは神さまとキリストがなさったことです。それを私たちは信じて救われたのです。そして、私たちの古い人は、キリストとともに十字架につけられました。そのことを信じて罪からきよめられたのです。2つとも同じ恵みであります。同時に受ける人もいれば、ガラテヤの人たちのように、あとから分かる人がいます。ガラテヤの人は信仰によって救われた後、何かをしなければならないと思いました。自分の力で、律法を守り、きよい生活をしようと努力しました。しかし、ますます泥沼にはまり込み、最後には救いすらも分からなくなりました。「自分の力で、律法を守り、きよい生活をしよう」ということを「救いを肉で仕上げる」と言います。それは不可能です。なぜなら、古い人である肉でやっているからです。一度、古い人に死んで、新しくなるなら希望があります。ガラテヤ220「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」アーメン。これも、ローマ66と同じことを言っています。ガラテヤ書もローマ書も、古い人を自分で十字架につけるとは言っていません。私たちは信じてバプテスマを受けたとき、古い人がキリストとともに十字架に付けられたのです。私たちはイエス様を信じたとき罪赦されました。同じように、自分がキリストとともに十字架に付けられたことを信じるのです。死ぬのではなくて、死んだことを認めるのです。すると、そうなります。

 私は東京聖書学院で学んでいた時、自分の罪と汚れに嫌気がさしていました。母教会は恵みと赦しであふれていましたので、ほとんど気づきませんでした。しかし、聖書学院ではみことばから、罪が責められました。どこの聖書箇所からも「きよめられなさい」というメッセージでした。「ああ、こんな自分に死にたい。きよめてください」と祈りましたが、無理でした。基礎科卒業後、『キリスト者の標準』を読んで、わかりました。ローマ611「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」「思う」とは、ギリシャ語でロギゾマイ「数えなさい」という意味です。これは、自分がすでに死んでいることを額面通り受け止めなさいということです。私たちの古い人の死は、意志や努力によって実現されるのではなく、主イエスの十字架のみわざを受け入れるときに実現するのです。罪の赦しを受けると同じ方法で、罪からの解放を受けることができるのです。

3.日々の十字架

 イエス様は「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ923と言われました。ということは、十字架は一回の出来事ではなく、自分から負うべき十字架もあるんだということです。ところで、ウォッチマンニーの『キリスト者の標準』の本には、古い人の死をこのようにたとえています。政府が徹底した禁酒運動をするためにはどうするでしょうか?国中の酒類販売所へ行き、酒やビールやブランディなどのびんを1つ残らず壊してしまえば、それで問題は解決するでしょうか?びんだけ処理しても醸造工場をそのままにしておけば、酒類の生産は継続し、恒久的な解決は望めません。飲酒問題を恒久的に解決しようと思えば、国中の醸造工場、蒸留装置などが取り除かれなければなりません。同じように、イエス様の十字架の贖いは、罪の生産物を処理しました。しかし、罪を生み出す工場をたたかなければなりません。それはアダムから来た古い人を死なせることです。イエス様と共に十字架につけられ、工場である古い人が一掃されました。ハピーエンドにしたいところです。ところが、人々は酒瓶を縁の下や車のトランクに隠していたのです。いつかは底をつくでしょうが、しばらくはちびりちびり飲むことができます。パウロはローマ7章において、肉の問題を述べています。パウロはこの肉を「私のうちに住む罪」と言っています。パウロは罪赦され、古い人に死んだはずです。なのに「私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ724と絶望しています。

 ところが、ローマ8章からは肉に対する解決が記されています。肉とは何でしょう?肉とは古い人の残り粕です。縁の下や車のトランクに隠された酒瓶です。でも、肉はどこにあるのでしょうか?ウィットネスリーという人が『命の経験』という本に、そのことを詳しく述べています。私たちは外側から、肉体と魂と霊の3つでできています。魂はギリシャ語でプシュケー(いのち)ですが、「自分の思い」とも言うことができます。魂の内側には霊があり、そこに聖霊が宿っています。ウィットネスリーは、私たちの霊と聖霊が混ざり合って区別がつかない状態であると言っています。たしかに、「御霊によって歩みなさい」とありますが、神の霊なのか、私たちの霊なのかわりません。そして魂の外側には肉体があります。ウィットネスリーは「この肉体に、サタンの毒である肉が宿っている」と言います。ですから、私たちの魂が、内側の御霊に従うのか、あるいは外側の肉に従うのか迷っているということです。ローマ86「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」とあります。回復訳という聖書はこの箇所を「肉に付けた思いは死ですが、霊に付けた思いは命と平安である」と訳しています。私たちは絶えず肉には「いいえ」を言い渡し、霊には「はい」と従うべきです。そうすれば、いのちと平安がやってきます。でも、私たちは肉とは何かを知らなければなりません。肉は大きく分けて3つから成り立っています。第一は、腐敗した肉です。これは不品行、汚れ、好色、敵意、争い、そねみ、憤り、ねたみなどです。みなさんの中に憤りはないでしょうか?それは肉です。第二は、「わたし」という自我です。ガラテヤ書で、「私はキリストと共に十字架につけられた」と言いました。なのに、どうしてまだ生きているのでしょうか?確かにそのとき私たちは一度、砕かれました。ウォッチマンニーはビスケットのたとえで説明しています。彼がテーブルの皿にあった、ビスケットを3つに割りました。それから注意深くもとのように合わせて、こう言いました。「これは、見た目には異常はないようです。しかし、このビスケットは決してもとのままではありません。ひとたびあなたの背骨が折られると、以後あなたは神からのちょっとしたタッチにも砕かれるようになるのです」。でも、私たちは油断すると、神さまの思いではなく、「わたし」という自我で生きようとします。みなさんの心はビスケットのように処理されているでしょうか?第三は生まれつきの能力です。生まれつき知恵や知性のある人がいます。生まれつき雄弁な人もいるでしょう。生まれつき音楽の才能のある人もいます。では、こういう人がそのまま神さまに用いられるか、というとそうではありません。なぜなら、生まれつきの能力は、すべてアダムに源を置いているからです。ですから、どんな良いものでも一度は十字架の死に渡す必要があります。その後、アダムではなく、御霊に源を置いてそれらを用いるのです。あるものは取り去られ、また自分に全くないものが新たに与えられる場合があります。神の前にどんなにすばらしい奉仕をしたとしても、それが肉であるならば神には届きません。ローマ88「肉にある者は神を喜ばせることができません」とあるからです。

 イエス様は「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ923と言われました。これはどういう意味でしょう?これは肉を毎日、十字架につけて死なせるということです。繰り返しになりますが、第一は、腐敗した肉です。毎日、不品行、汚れ、好色、敵意、争い、そねみ、憤り、ねたみを十字架につけます。そうすると、いのちである愛、喜び、平安などの実があらわれてきます。第二は「わたし」という自我です。毎日、わたしを十字架につけるのです。これは自分のいのちを否定するということです。そうすると、いのちである御霊が進むべき道を示してくださいます。第三は「生まれつきの能力」です。毎日、自分の知恵、知識、才能、がんばり、真面目さを十字架につけます。そうすると神からの知恵や賜物、忍耐力が現れてきます。十字架には肉の働きを殺す力があります。パウロは「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」と言いました。でも、これは一回限りのことではなく、天国に行くまで、日々、そうすべきなのです。ある人たちは「自分は十字架によってきよめられた」と言います。またある人たちは「聖霊に満たされ、すばらしい賜物をいただいた」と言います。でも、肉が生きていることを忘れています。そのため、神の働きを途中で終えることになります。ですから、私たちは、日々自分の十字架を負う必要があるのです。そうすれば、復活の力である神の御霊が現れてくださるのです。また、十字架はしつこくやってくるトラウマや否定的な思いを消し去ることができます。どうぞ、自分でどうすることもできない恨み、失望、恐れ、不安も十字架につけてください。不思議に解放されます。十字架にはそういう力があります。また、十字架の直後には、必ず復活が伴うこともお忘れなく。十字架の力を再発見し、勝利の道を歩み続けたいと思います。

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