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2016年7月22日 (金)

罪人を招くために マタイ9:9-13 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.7.24

 きょうの箇所には、マタイによる福音書を書いた、マタイ自身のことが記されています。前にも申し上げましたが、マタイ8章と9章はイエス様がなされた奇蹟が集められています。このところに、マタイがイエス様に従ったいきさつについて書かれています。ということは、マタイが弟子としてイエス様に従って行ったということは、奇蹟なんだと言わんばかりです。みなさんも、イエス様を信じてクリスチャンになれたというのは、最も大きな奇蹟ではないでしょうか?マタイは自分のことなので謙遜に記していますので、マルコやルカの福音書も参考にしたいと思います。 

1.マタイの召命

 マタイ99「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」マタイの仕事は取税人でした。取税人とはローマに雇われた官吏で、おもに通行税を取っていました。彼らは町の入口にある収税所で、穀物や魚、衣類、塩などに課税していました。しかし、彼らは権威を乱用して、不当に儲けていたようです。そして払えない人には高い利息で貸して、私腹を肥やしていました。ですから、同じユダヤ人からは売国奴と呼ばれ、大変嫌われていました。それではマタイはどのような人物だったのでしょうか?ルカ福音書を見ると、マタイではなく、レビというユダヤ人名で記されています。レビという名前は、イスラエルでは、祭司の部族の名前でした。おそらく、両親は信仰が篤く、「この子が神さまに仕える人になるように」とレビという名前を付けたのでしょう。でも、彼は「信仰があっても一銭の得にもならない」と、金儲けに走ったのではないでしょうか?両親は、「よりにもよって、取税人になるなんて」とさぞ嘆いたことでしょう。マタイ、またの名をレビは、どうして一瞬のうちに、何もかも捨てて、イエス様について行くことができたのでしょうか?もし、彼が漁師であれば、何かあっても元の仕事に戻ることができます。しかし、取税人の場合は、一度辞めたら、同じ仕事に戻ることができません。そのような大事なことを即座に決めて良いのでしょうか?

まず、考えられることは、彼は取税人だったのでかなりの情報を得ていたのではないかと思います。取税人は町の入口で仕事をしているので、通行する人たちからイエス様の噂を耳にすることができました。イエス様の教え、イエス様のみわざ、そして人柄を知ることができたでしょう。次第に、マタイの心の中にあこがれのようなものが芽生えてきたのではないでしょうか?それまでは、金儲けの道をひたすら歩んできました。お金がすべてだと思っていました。ところが、心の奥底が満たされないというか物足りなさを感じていたのでしょう。ユダヤの人たちはメシヤを求めていました。その当時のメシヤ観は、イスラエル王国を再建する王という意味でした。王様がご自分の国を作るとき、最初にすべきことは、大臣たちを集めることです。マタイは「イエスは本当にメシヤなのか?」と考えていたことでしょう。その頃、イエス様のもとにヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ペテロらが追従していたと思われます。もし、イエスがメシヤであって、御国の大臣として自分を召してくれたらどうでしょう?それほど、すばらしいことはありません。マタイは緻密で計算高い人だったので、前もってそのようなことを考えていたのではないかと思います。

ある日のこと、マタイがいつものように、収税所に座って仕事をしていました。そのとき、噂の人物が目の前を通過するところでした。その方が自分を見て、こう言いました。「わたしについて来なさい」。その方のおことばが、彼の魂に雷のように響きました。マタイは電気に打たれたかのように、立ち上がってイエス様に従ったのです。ルカ福音書には「何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」と書いてあります。即座に取税人という職も捨てて、イエス様に従ったのであります。後先を考えず、無謀と言えば、無謀かもしれません。詩篇119篇にマタイの心を描写しているようなみことばがあります。詩篇11959-60「私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました。」アーメン。私たちはこのところから学ぶべきことが2つあります。第一は「チャンスを逃さない」ということです。イエス様から「ついて来なさい」と呼ばれたのに、「またあとで」とか「そのうち」と言ってはいけません。伝道者の書3章にありますように「すべてには時がある」からです。マタイはイエス様がお声をかけたとき、「はい」と決断して従いました。私たちもイエス様が言われたなら、ためらわずに「はい」と従うべきです。「またあとで」とか「そのうち」と言っている人はマタイのような奇蹟を体験することはできません。第二は「イエス様には不可能はない」ということです。世の中的に見たなら、取税人は最低最悪の仕事でした。ユダヤ人が「罪人、遊女、取税人」という三悪の中に入れていたくらいです。そんなマタイを召しても面汚しになるのではないだろうか?いいえ、イエス様は取税人マタイを使徒に作り変えることが可能でした。おそらく、イエス様はマタイの中に無限の可能性をご覧になったのだと思います。マタイはお金に関して几帳面であり、ちゃんと出納帳に記入する人でした。後のマタイは、イエス様がおっしゃったことばをノートに記して、それを体系化することができました。聖書学者はこれをM資料と呼んでいます。マタイは、ユダヤ人に対してイエス様は旧約聖書が預言しているメシヤであることを証明したいと願いました。

 男性と女性はイエス様を信じるときかなり違うようです。男性は左脳でというか理屈で考えます。いろんな本を見たり、資料を集めるかもしれません。衝動的に決断する人は少ないかもしれません。一方、女性は右脳でというか直観をあてにします。もちろん、ウィンドゥ・ショッピングのようにあれこれ考えるかもしれません。でも、直観をあてにするのではないでしょうか?みなさんはイエス様を信じたとき、どのような状況だったでしょうか?頭で信じたのでしょうか?あるいは心で信じたのでしょうか?あるいは、霊的なひらめきだったのでしょうか?私は座間キリスト教会で奉仕していたころ大川牧師の説教をたくさん聞きました。大川牧師の説教は、例話がとても多くて、あまり論理的な組み立て方ではありません。そして、心にジーンとくる感動的な話を最後に持って来ます。これが日本人にはとても良くて、「イエス様だったら信じても大丈夫だ」となるのです。大川牧師の説教は、イエス様のご人格、イエス様のいのちに触れることがゴールになっているように思えます。しかし、欧米と中国は、論理とか真理が重要で、心にジーンとくる、こないは重要なことではないようです。むしろ、感情的だということで敬遠されるかもしれません。大川牧師は「説教は説教学的に良いか悪いかということは重要ではない」と言っておられました。おそらく、心の深い部分を変えられるかどうかにあるということでしょう。なぜなら、知的に頭で分かったとしても、人の生活は変わらないからです。もし、人の心が変えられるなら、生活も変わるはずです。頭ではなく、心に訴えることが大切なのだと思います。私が座間キリスト教会に来た頃ですが、大川牧師が説教の中で、とても感動した証があります。当時、三畑長老さんのところに、節子さんという長女がいました。彼女はクリスチャンホームなのに、グレはじめ、高校生の時は校長先生が「お前ほど悪い生徒は開校以来だ」と言われたそうです。卒業してからは麻雀に明け暮れ、覚せい剤を打ってかせいでいたそうです。教会は彼女のために祈っていました。ある時、彼女のお母さん(長老さんの奥さん)が、「節子、お前が洗礼を受けるようにみんな祈っているからね」と言いました。彼女は「洗礼を受けるくらいなら、死んじゃうわ」と車で家を出て行きました。その日は土曜日で、しかも雨でした。車が座間駅の踏切を越えたところで、信号機か何かのために止まりました。ふと、駅の方を見ると、教会の立て看板が立てられていました。翌日の説教題だったのですが「私に従ってきなさい」と書いてありました。それを見たとたん、彼女は動けなくなりました。イエス様が自分に語っているように思え、涙が滝のように流れました。彼女は、次の朝、礼拝に出て、そのメッセージを聞いて、イエス様を信じたそうです。その後、聖書学院の基礎科に行って学びました。その数年後、大川牧師と節子姉が町田を一緒に歩いていたそうです。すると向こうから、明らかにやくざ風の男性が、「おい、お前、節子じゃないか。久しぶりだな」と声をかけてきたそうです。節子さんはご主人とケーキ屋さんを経営するのですが、やがてご長女が牧師夫人になりました。またご長男は献身して中国にいるということです。長老さんの娘がそうなったら、証にならないでしょう。でも、「私に従ってきなさい」という看板で捕えられたのです。これはすばらしい奇蹟ではないでしょうか?

 マタイは、たった1節しか召命の記事を書いていません。しかし、マタイ8章と9章はイエス様の奇蹟が集められているところです。その箇所にあえて、自分の召命の記事を載せるということは、「イエス様に従えたことは奇蹟なんだ」と言っているのではないでしょうか?結論的には、右脳も左脳も関係がありません。イエス様は私たちの魂の奥底、死にかかっている霊の部分に語ってくださるからです。イエス様の力あることばによって、死んでいた霊が生き返り、「はい、わかりました」とイエス様に従って行くのです。これは、本人の決断もありますが、それをさせた神の霊、聖霊によるものだと思います。アーメン。

2.罪人を招くために

 マタイ910「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。」マタイ福音書だけ読むと前の部分と関係のないことのように思えます。ところが、ルカ福音書には「そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた」(ルカ529と書かれています。おそらく、マタイは謙遜して「自分の家で大ぶるまいをした」とは書きたくなかったのでしょう。マタイはイエス様を自分の家に迎えただけではなく、同業者である取税人も招きました。それはマタイにとって、歓送会でもありました。自分で歓送会を開くのはおかしいですが、イエス様をみんなに紹介しつつ、お別れの時を持ちたかったのでしょう。今日でいう、食事付きの伝道集会のようなものでした。イエス様はみんなと一緒に食事の席に着きました。ところが、そのことを非難する人たちがいました。マタイ911これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」彼らは席に着いたのではなく、出口のところで弟子たちに言ったのです。なぜなら、罪人の家に入って、一緒に食事をするなら、汚れてしまうと考えたからです。遠くで話していた会話をイエス様は超自然的に察知しました。そして、彼らにおっしゃったのです。マタイ912-13イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 このところにイエス様がこの地上に来られた使命について書かれています。イエス様はたとえをもって話しておられます。医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人だということです。健康な人には医者はいりません、病人です。同じように、イエス様は「正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました。ということは、正しい人にはイエス様はいりません、罪人であるということです。イエス様はその罪人を御国に招くためにやってきたのです。これでは話は終わってしまいますので、もうちょっと膨らましてお話ししたいと思います。病人は治療が必要ですが、「私は健康だ。どこも悪くない」という人は医者の所には行きません。私たちが医者のところ病院に行くためには、三つの段階があります。第一段階は、自分は病気であるという自覚症状です。もし自覚症状のないまま、病気が進行しているならばとても危険です。自覚症状がなくても、健康診断を受けて分る場合もあります。血液検査やレントゲンなどで病気がわかります。同じように「自分には罪がない、悪いことは何もしていない」と言う人がたまにいらっしゃいます。が、その基準を示すのが、聖書の戒め、特に十戒であります。律法がその人に罪があるかないかを知らせてくれます。第二段階は、「このままでは治らない。自分でも治せない。医者に行くしかない」と認めることです。病気でも薬局の塗り薬や飲み薬で治るものもあるでしょう。しかし、「この病気は重くて自分ではどうすることもできない。自分じゃ無理だ」と認めることです。罪の問題も「自分で償うことができない。自分で改善することなんかできない。神様じゃなけりゃできない」と認めることです。別な表現で言えば、心が貧しくなることです。心が貧しくない人に、いくら福音を伝えても跳ね返されてしまいます。しかし、「心の貧しい人は幸いなのです」。第三段階は、信頼できる病院もしくは医者の所に行くということです。自分の身を任せるわけですから、いい加減なヤブ医者の所には行きません。この先生だったら大丈夫だという人の手術台に上ります。罪の問題も、人間が作った宗教・神様は人間以上のものではありません。キツネやたぬきでは罪の問題は解決できません。イエス・キリストは偉大な医者、魂の医者であります。この方は真実なお方で、私たちを決して裏切ったりはしません。信頼に値するお方です。人はこの三段階、つまり病気の自覚、自分では不可能、信頼のおける医者で治療を受けます。しかし、自分はどこも悪くない、という人は医者を必要としません。

 イエス様は「私は正しい人ではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました。神の前にだれ一人「正しい人」はおりません。パウロはローマ3章で「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ310と言いました。アダムから生まれた人、つまりこの世にはだれ一人として正しい人はいないのです。これは「自分は正しい」と自負していたパリサイ人たちを痛烈に皮肉った表現だったのです。イエス様はこのところで「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」というホセヤ書のみことばを引用しています。旧約のホセヤの時代、イスラエルに宗教はありましたが、不正と罪に満ちていました。神さまはいけにえよりも、正しい生活を望んでいました。イエス様の頃、彼らには形としての宗教がありましたが、その内側は貪欲と高慢で満ちていました。そして、自分たちは特別だといばって、あわれみの心などひとかけらもありませんでした。イエス・キリストは、彼らのように自分は正しいと自認している人を招くために来られたのではありません。「自分には罪があり、このままでは神様の前に立つことができない」と認める人を招くために来られたのです。私たちクリスチャンは信仰生活を続けているとだんだんきよめられます。故意に罪を犯さなくなり、正しい生活が身についてきます。それは悪いことではなく、むしろ良いことです。しかし、いつの間にかパリサイ人たちのように「自分は正しい、世の人たちよりもきよい」と思い始めます。そして、世の人たちが罪をぶらさげて、教会に来ると心の中でさばいてしまいます。口には出さないかもしれませんが、近づこうとはしません。イエス様は罪人を招きましたが、教会は品行方正で賜物のある人、ついでに金持ちを求めてしまう傾向があるのではないでしょうか?

 かなり前になりますが、広島の植竹先生が『恵みの雨』に辛口のメッセージを書いていました。教会の看板には「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。私が来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。もし、これが本当なら教会に人があふれてしかるべきだがさにあらず。実は、その看板の裏側に、見えない字で次のように書いてある。「医者は儲け商売だから患者はお客さんだが、教会は病院じゃないから弱い人ばかり来てもらっては困ります。罪人と言ってもいろいろありまして、本物の罪人は警察や刑務所へ行けばいいのです。教会へ来る罪人とは、自分の罪を知り、悔い改めた罪人のことでございます。義人にもいろいろありまして、イエスが拒んだ義人はパリサイ人、自称義人、自己義認の偽善者、こういう輩は我々の手には負えません。教会が求めているのは病人ではなく、良い青年、良い姉妹、奉仕のできる丈夫な人でございます。正しい人でも偽善者でも困りますが、悔い改めた罪人は歓迎します」と。しかし世間一般、世の中には、いわゆる義人も大勢いるが、本物の弱者、罪人もいっぱいいる。主イエスのところへは、その本物の病人、取税人、遊女、罪人たちがやってきた。そして癒され、きよめられ、役立つ人になっていった。それが良いのだ。主イエスは、本物の罪人、弱者、病人を愛された。だとすると、教会はなんという誤り、なんという偽善を犯していることか。そこが直らないと、本当のリバイバルは今年も来ない。・・・このように、植竹先生は「イエス様は本物の罪人を愛された。本者の病人を愛された」とおっしゃりたいのです。植竹先生ご自身は、教誡師として広島刑務所に何十年も通われています。また、立派な老人ホーム「輝き」を建設されました。私も牧師として、少しだけ罪人で見込みのある人が来るようにという邪心がありました。ある先生は、「教会は静かに賛美歌を歌う気持ちの良い所であってはいけません。むしろ、問題があり騒がしい所が本物の教会です」とおっしゃっていました。なぜなら、病院でも産院は「オギャー、オギャー」と賑やかです。それは、魂がたくさん生まれる教会です。また、教会が祈りもせず、伝道もせず、内側で楽しんでいるなら、サタンは猫のように丸くなって眠るでしょう。しかし、教会が魂を救い出そうと真剣に祈り出すと、サタンは起き上がって、様々な問題を教会に起こして混乱させます。みなさん、教会が成長しなくても静かな問題のない教会が良いですか。それとも、問題があって賑やかでも、成長する教会の方が良いですか。自分の信仰ばかり考える人は、平穏無事で居心地の良い教会が良いでしょう。しかし、イエス様のように「罪人を招く」教会は、問題が起こることをむしろ喜ぶ教会であります。ハレルヤ!

 最後に、ある信仰書から1つの格言を紹介させていただきます。「イエスはご自分の標準を下げるようなことは決してなさいませんでした。しかし、イエスはいつも、人々が立っておられる地点から始められました。」イエス様が、取税人や罪人の友となられたのは、神の標準を下げたり、ご自身の聖さを捨てたのではありません。むしろ、ご自分が彼らの所まで下られたのです。そして、イエス様の愛と受容と赦しを体験した人々は、そこから成長していったのです。マタイもそういう人物の一人でした。キリストに見出されてから、彼の賜物は大きく花開きました。それまでは、税金や、貸し借りの帳簿をつけていました。その賜物が再生されて、マタイによる福音書が生まれたのです。主イエス・キリストは魂の医者です。神のかたちが歪められていた罪人の罪を取り除き、身分的にも実質的にも神の子に回復させて下さるお方です。イエス様の招きに答え、私たちの人生を神様にささげましょう。イエス・キリストを人生の主として仰いで生活いたしましょう。

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