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2016年7月16日 (土)

罪を赦す権威 マタイ9:1-18 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.7.17

 今日の箇所は、マルコ福音書とルカ福音書にも記されています。マタイ福音書はとても短いので、他の福音書も参考にしたいと思います。何度か申し上げましたが、マタイは時間の経過ごとではなく、テーマごとにまとめて書かれています。マタイ8章と9章は、イエス様がなされた奇蹟について書かれています。ですから、「病の癒し」も奇蹟ですが、「罪の赦し」も奇蹟なんだということです。問題は「どちらの方が永遠でより価値があるのか」ということです。私たちは地上で生きていますので、目に見えてあっと驚くような奇蹟が大事なように思います。しかし、今日の箇所は、目に見えないものが永遠であり、より価値があることを教えています。 

1.彼らの信仰

 マタイ92すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。このところで、イエス様は「彼らの信仰を見て」と言われました。彼らのどのような信仰が、罪の赦しという奇蹟を起こさせたのでしょうか?マルコ福音書を見ますと、「ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた」と書かれています。「彼ら」というのですから、中風の人も入れて5人ということになります。恐らく彼らのうちだれかが、イエス様がカペナウムのペテロの家にいるというニュースを聞きつけたのでしょう(伝統的にはペテロの家です)。彼は病気で歩けないので、4人が床を担架にして運んできたのでしょう。ところが、ペテロの家は戸口まで人があふれていました。「困ったな、どうしよう」。だれかが、「屋根の上に登って、そこから吊下ろそう」と提案しました。パレスチナは雨が少ないので、屋根が平らで簡素にできています。彼らは瓦をはがして、穴を開けて、中風の人を寝かせた床ごと吊り下ろしました。ちょうどその頃、屋根の下ではイエス様が人々の前でお話ししておられました。ガサゴソと音がして、上からゴミが落ちてきました。みるみる大きな穴があいて、「何が起きたんだ」とみんなが驚いたことでしょう。ペテロはショックで開いた口がふさがりませんでした。そのうち、ロープで吊られた男性が床ごとイエス様の真ん前に降りてきました。良く見ると、その男性は病気で体が動かないようです。その時、イエスが彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われたのです。

 何が信仰なのでしょうか?人の家の屋根に穴を開けて、無礼にもほどがあるでしょう。しかも、床に寝ながらイエス様の前に出るとは何事でしょう。もしかしたら、万年床で匂っていたかもしれません。でも、イエス様は「彼らの信仰を見て」と言われました。彼らのどのような信仰がイエス様を感動させたのでしょうか?それは、4人が一人の中風の人を助けるために協力したということです。中風の人は障害があるので一人で来ることができませんでした。そこで、4人が力を合わせて、イエス様がおられる家にまで運んだのです。でも、戸口まで人があふれていて、家の中に入ることができませんでした。普通だったらそこで諦めてしまうでしょう。でも、彼らは「何とかしよう。何とかできるはずだ」と知恵を働かせました。人の迷惑も顧みず、屋根に穴を開けて、下に吊下ろすなんて、確かに乱暴です。「人の家を壊した」と言うことで、訴えられるかもしれません。中風の人も、床に寝たまま人々の前に降ろされるのは恥ずかしかったでしょう。でも、彼らは決断し、実行しました。物理的な問題、人への迷惑、恥意識、それらのものを全部後回しにして、イエス様の前に彼を吊下ろしたのです。まるで、映画にあるような特殊部隊のようです。なんで、そこまでしなければならないのでしょうか?集会が終わった後でも良いでしょう。明日、また来たら良いじゃないですか?彼らの信仰は、「今しかない」という求める信仰でありました。Ⅱコリント62 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。アーメン。「今は恵みの時、今は救いの日です」。明日になったら、イエス様は他のところに行くかもしれません。今がチャンスなのです。彼らはチャンスを逃さなかったのです。

 でも、どうでしょう?彼らは病の癒しを求めたのに、与えられたものは何でしょう?イエス様は「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われました。彼らは「え?罪の赦しではなく、病の癒しを下さいよ」とガッカリしたのではないでしょうか?彼らは求めたものとは別のものが与えられました。マタイ7章には「求めなさい。そうすれば与えられます」と書いてありました。彼らはその言葉のとおり、求めました。でも、求めたものとは違いました。なぜなのでしょう?マタイ711「天の父は、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」と書かれています。このところに、罪の赦しと病の癒しの2つのものが記されています。質問があります。罪の赦しと病の癒し、どちらがより価値があり、よりすばらしいのでしょうか?もちろん、罪の赦しであります。病の癒しはこの地上だけのものです。病が癒されても、いつかは死ななければなりません。でも、罪の赦しを受けるなら、神の御国と永遠の命が与えられます。罪の赦しの方が、肉体の癒しよりもはるかに勝るものです。イエス様がなぜ、彼らの信仰を見て、罪の赦しを与えたのでしょうか?それは、イエス様が彼らの信仰に感動して、もっと良いものである罪の赦しを与えたくなったのです。でも、彼らもそうですが、私たちも「アーメン、ハレルヤ!」とそのことを喜べるでしょうか?

 私は1979610日、座間キリスト教会で洗礼を受けました。10人の人たちが講壇の前に並びました。滴礼でしたが、大川牧師が手を置きながら、「子よ。汝の罪、赦されたり」と宣言しました。そのことばは、きょうの箇所からの引用であります。どの教団の先生方も同じように宣言するのか分かりません。10人が洗礼のとき罪の赦しを受けることができました。でも、その10人が5年くらいたつと半分以下になりました。おそらく、罪の赦しの感動が長続きしなかったのではないかと思います。私たちは目に見える癒しとか、この世の祝福を求めがちです。でも、罪の赦しは、目に見えないので価値がないのでしょうか?そうではありません、病の癒しはこの世だけのものですが、罪の赦しは永遠のものです。イエス様は彼らの信仰を見て、より良いものを与えたくなったのです。このところから、私たちは「彼らの信仰」を学ばなければなりません。マタイによる福音書は共同体の福音書と言われています。他の福音書が一人なのに、マタイの福音書は二人になっている箇所がたくさんあります。たとえば、物ごいをしていた盲人の癒しも二人になっています。ガダラ人の悪霊のつかれた人も二人でした。なぜ、二人なのでしょう。マタイ18章には「あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」と書かれています。きょうのところでは、4人の友人が一人の病人をイエス様のもとに運んできました。「協力」という字は、十字架に力が3つ、いや4つであります。イエス様が「彼らの信仰」に感動したのは、彼らが一致協力して、ご自分のところにやって来たからです。でも、彼らの前にいくつかの障害があります。人々が戸口まであふれていて入ることができませんでした。その次は屋根にのぼり、瓦をはぎ穴を開けました。これは人の家屋を壊す行為ですから、立派な犯罪です。しかも、イエス様が話している最中、上から床に寝た病人を降ろすとは何事でしょう。失礼にもほどがあります。でも、幾多の障害を乗り越え、熱心に求めてきた人たちの信仰をイエス様は喜ばれたのです。

マタイによる福音書には「教会」ということばが2回記されています。これはマタイだけで他の福音書には書かれていません。パウロは、教会はキリストのからだであり、さまざまな器官が連なり合っている存在だと言いました。さまざまな器官とは賜物の違い、性格の違いということです。おそらく彼ら4人は、賜物の違い、性格の違いがあったことでしょう。でも、一人の友人をなんとかイエス様のところにお連れして、癒してもらおうという1つ目的で力を合わせました。肉体的に力のある人、知恵を働かせる人、掛け声をあげる人、道具を使う人…そういう人たちが力を合わせたのです。キリストのからだなる教会も同じであり、賜物や性格の違う人たちが集まって神さまに仕えているのです。ですから、他の人と比べたり、1つの価値観で他の人をさばいてはいけません。目と耳と口と手と足が違うように、別々な働きをします。違って良いのです。でも、重要なことは神さまの目的のために1つになるということです。イエス様が喜ばれたのは、そのような信仰であります。私たちは一人一人が主にあって多様性であることを認めたいと思います。また、同時に神さまの目的のために一致することが重要です。多用性における統一であります。もう一度、マタイ18章のみことばを引用したいと思います。マタイ1819-20まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」アーメン。

2.罪を赦す権威

 マタイ93-7「すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている」と言った。イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。このところは、非常に解釈が難しくて、説教者泣かせの箇所であります。第一のポイントでは、イエス様は罪の赦しという病の癒しよりも良いものを与えたと言いました。しかし、イエス様が病の癒しではなく、罪の赦しを与えたということで物議をかもしてしまいました。なぜなら、その家の中には、聖書の専門家である律法学者たちがいたからです。何故、いるのでしょう?彼らは教えを聞くためではなく、イエス様のあら捜しをするために来ていたのです。彼らはそのとき心の中で、「この人は神をけがしている」と言いました。それは、こういうことです。「人の罪を赦すことができるのは神さましかいないはずだ。それなのにこの男は、『あなたの罪は赦された』と言い放った。神でもないのに、そんなことを言うなんて神を冒涜している行為だ。」律法学者たちは声に出して言ったわけではありません。心の中で、思っただけなのです。イエス様は人の心を見抜いて、おっしゃったのであります。これも1つの奇蹟ではないかと思います。イエス様は彼らにこのような質問しました。マタイ95『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。周りにいた人たちや律法学者らの視点から考えて、どちらがやさしいのでしょうか?実は「あなたの罪は赦された」というのが簡単なのです。そして、「起きて歩け」と言うのが難しいのです。「あなたの罪は赦された」と言ったとしても、本当に罪が赦されたのだかどうか分かりません。ごまかしがききます。一方、「起きて歩け」と言って、もし、その人が起きなければどうなるでしょう?病の癒しが起こるならだれの目にも明らかです。ところが、罪の赦しは起きても見えません。もし、イエス様がペテン師であれば、罪の赦しを行っても、病の癒しはしないかもしれません。なぜなら、中風の人が癒されなかったなら恥をかくことになるからです。

 もし、イエス様が最初に「起きて歩け」と言って、中風の人を癒したなら、何も問題は起こらなかったでしょう。これまでイエス様はそのような病人をたくさん癒してきました。癒しが起った後で、「あなたの罪は赦された」と言っても良かったはずです。でも、そうなると、やはり彼らは「神でもないのに、そんなことができるのか?」と心の中で文句を言ったはずです。恐らく、イエス様は彼らが文句を言うのを承知で、最初に「あなたの罪は赦された」とおっしゃったのではないでしょうか。では、イエス様の真意はどこにあるのでしょうか?それはこういうことです。マタイ96人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。すると、彼は起きて家に帰った。イエス様が「あなたの罪は赦された」と言われました。でも、「そのことは本当に起きたのだろうか?だれにも分からないので、勝手に言ったんじゃないだろうか?」と人々は疑うはずです。しかし、どうでしょう?イエス様は地上で罪を赦す権威を持っていることを彼らに証明するために、中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われました。すると、彼は癒されて帰りました。つまり、イエス様が病の癒しを命じるとその人は命じたとおりになったのです。これは誰の目にも明らかなことです。でも、その前に「あなたの罪は赦された」とおっしゃったことはどうなのでしょうか?ただの言葉だったのでしょうか?そうではありません。イエス様が発した言葉によって中風の人が癒されました。それと同じように、イエス様が罪の赦しの宣言も彼の上に成就されたということです。そのようにイエス様は罪を赦す権威があることを証明するために、その後で病の癒しをなされたのです。そのために、この人は罪の赦しと病の癒しの2つを受け取ることができたということです。

 この解釈にはいろいろあって、「そうじゃない」という先生もおられるかもしれません。中には、この人の病気は罪が原因だったので、まず罪の赦しを与える必要があったという先生もおられます。つまり、彼は長い間、罪責で苦しんでいたということです。イエス様はまず、罪の赦しを与えて、原因である罪責感を取り除かれた。その後で病を癒されたのだと言います。でも、それだとイエス様が罪を赦す権威があることを証明するためにしたことにはなりません。イエス様はあえて物議をかもし出すようなことをして、ご自分が罪を赦す権威を持っていることを示したかったのです。イエス様は、ご自分が罪を赦す権威を持っていることを示している箇所はそんなにありません。ヨハネ8章において、姦淫の場で捕えられた女性を赦しました。教会では礼拝の始め使徒信条なるものを唱えるところがあります。うちではあまりやっていません。10数年前、本郷台キリスト教会で特別集会がありました。そのところに、当教会の兄弟姉妹が多数参加されました。その時、司会者が「使徒信条を唱えましょう」と言いました。私は何十年も唱えているので覚えていますが、当教会から参加した姉妹を横目で見ました。とても当惑していて、口パクの状態でした。その時「たまには、唱えても良いかな?」と思いました。ところで、使徒信条の最後の部分にこのように記されています。「天にのぼり、全能の父なる神の右に坐したまえり(イエス様のことです)。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを裁きたまわん」とあります。黙示録19章には世の終わり、白い馬に乗ってこられる再臨のイエス様の記事があります。まさしく、その時は、平和の君ではなく、世をさばくお方として来られるのです。イエス様は今、王として父なる神さまの右に坐しておられることを知る必要があります。

 ということはどういうことでしょうか?私たちは生きている間に、イエス様を信じて、神さまと和解する必要があります。もし、イエス様から「あなたの罪は赦された」というご承認をいただいたらどうでしょう?世の終わりイエスさまが来られても大丈夫です。また、私たちは黙示録20章の「白い御座のさばき」に立つ必要はありません。もう、神さまの前に立たなくても良いのです。なぜなら、イエス様を信じたことで神の義をすでにいただいているからです。たとえば、高校入試には2種類あります。1つは推薦入学です。簡単な面接はありますが、そこで受かれば、試験を受ける必要はありません。しかし、推薦がもらえなかった人は、入学試験を受けるしかありません。まさしく実力で臨むしかありません。推薦で前もって受かった人というのは、人々が入学試験のために四苦八苦しているのに、のんびりすることができます。もちろん、あからさまにのんびりしているのを見せてはいけません。でも、平安で過ごすことができます。同じように、生前、イエス様から罪の赦しをいただいていたら、最後の審判が訪れても恐れることはないのです。他の人は実力で、自分の義で神さまの前に立たなければなりません。教会はいわば神の国の大使館であります。大使館の大事な働きは、ビザを発行することです。このビザがあれば、その国に入国できますが、ビザがないと追い返されてしまいます。第二次世界大戦中、リトアニア領事館に杉原千畝という領事がいました。『六千人の命のビザ』という本にもなっています。彼の名前は、長い間、日本では知られていませんでした。なぜなら、日本の外務省に逆らって、ユダヤ人のためにビザを発行したからです。当時の日本はドイツと同盟国の間柄でした。ところが、ナチス・ヒットラー率いるドイツ軍はユダヤ人撲滅作戦を決行しました。そのため、大勢のユダヤ人が国外に逃れようとしました。そのとき、杉原千畝は亡命してきたユダヤ人のために手書きのビザを6000通も発行したのです。本当は、日本政府から即刻国外退去するように命じられていたのにです。ある資料にこのように書かれていました。杉原夫人が、難民たちの内にいた憔悴する子供の姿に目をとめたとき、「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ」という「旧約の預言者エレミヤの『哀歌』が突然心に浮かん」だ。そして、「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」という千畝の問いかけに、「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」と同意。そこで杉原は、苦悩の末、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。一時に多量のビザを手書きして万年筆が折れ、ペンにインクをつけては査証を認める日々が続くと、一日が終わり「ぐったり疲れて、そのままベッドに倒れ込む」状態になり、さらに「痛くなって動かなくなった腕」を夫人がマッサージしなくてはならない事態にまで陥った。そのように記されていました。

 杉原千畝と杉原夫人の心は、イエス様のこころであります。一人でも多くの人が滅びを免れ、命へ入って欲しいと願っています。イエス様の罪の赦しは、神の国への入国ビザのようなものです。死んでからでは遅すぎます。今、生きているうちに求めるしかありません。4人の友人は、今しかないと一人の病人をイエス様がおられる家まで運んできました。でも、人が戸口まであふれて行けませんでした。集会後、明日でも良いとは思いませんでした。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」とばかり、屋根に上り、瓦をはいで、イエス様の前に吊下ろしました。人間的にはとても乱暴で、また無礼であります。しかし、イエス様は彼らの信仰を見て、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われました。イエス様は、もちろん病の癒しを与えることができましたが、それよりもまさる罪の赦しをお与えになられました。私たちも地上の目に見える必要もたくさんあります。しかし、永遠にいたる罪の赦しを得ていることを感謝しましょう。

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