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2016年7月 9日 (土)

悪霊を追い出す権威 マタイ8:28-34 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.7.10

 「悪霊」などと言うと、「なんて前時代的なことを」と笑う人がいるかもしれません。さらに、「悪霊を追い出す」なとど言うと、映画の『エキソシスト』を思い出すでしょうか?日本人は西洋の教育を受けているので、頭では霊的な存在を信じません。しかし、日本は元来、シャーマニズムの国なので、心では霊的な存在を信じています。だから、お守りを買ったり、神社にお祓いを受けに行くのです。永遠の真理である聖書は、時代が進んでも悪魔と悪霊の存在を知らせてくれます。私たちは悪霊に対して正しい理解を持ち、神からの権威をいただくならば、それほど恐れる必要はありません。きょうは、イエス様が悪霊を追い出す権威を持っておられたことを学びたいと思います。

1.ガダラ人と悪霊 

 マルコによる福音書とルカによる福音書にも同じような記事がありますが、その地名が「ゲラサ」と記されています。もともとは「壁」「囲い」という意味があるようです。マタイだけが、「二人いた」と書いてありますので、何か意図があるのかもしれません。まず、ガダラ人と悪霊について調べたいと思います。ルカに福音書は「彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた」と書いてあります。マルコはもっと詳しくて、「もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。…彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。」と書いてあります。総合的に分かることは、彼は鎖をひきちぎるほど狂暴でした。また、社会性がなく、墓場で裸で暮らしていました。夜昼となく叫び続け、石で自分のからだを傷つけていました。彼がそのような生活を強いられていたのは、悪霊につかれていたからです。英語の聖書にはdemon-possesedと、「悪霊に所有されていた」となっています。なんと、彼は肉体だけではなく、人格まで乗っ取られていました。イエス様が彼の名前を聞いたとき、「レギオンです」と内側にいた悪霊が答えました。ある人たちは、「悪霊を追い出す前に、悪霊の名前を聞け」と言いますが、それは大間違いです。なぜなら、彼らは嘘つきであり、彼らと会話をするならば、彼らの罠にはまってしまうでしょう。イエス様は「ガダラ人」に、「お前の名前は何か」と尋ねたのです。それなのに、彼の中にいた悪霊が「私の名はレギオンです」と答えたのです。彼のように人格まで乗っ取られているのは、よっぽどの重症です。

 まず、大切な知識は「人はどのように悪霊に影響されるのか?」ということです。日本語の「悪霊につかれた」とか、英語のdemon-possesedは、極端な言い方であり、そういう人はめったにいません。悪魔崇拝とか魔術をした人ならともかく、一般の人はそこまで行くことはまずありません。神さまは一般恩寵として、私たちに自由意思を与えました。ですから悪霊は人間の意志を無視して、中に入ることはできません。そして、悪霊には肉体がないので、住むべき家である肉体を捜し回っています。私たちは家を探すとき、自分の性格や好みに合う家を捜します。ガダラ人は「汚れた霊」を宿していましたが何故でしょう?ガダラ人に汚れた霊が入ったので、汚れたことをしたのではありません。ガダラ人が汚れたことをしていたので、たまたま通りかかった汚れた霊が「これは私の性格にぴったりだ」と仲間を呼んで来て入ったのです。そのため、その人はますます汚れたことをするようになりました。最終的に人格までのっとられてしまったのです。悪霊が人間に入るためにはおもに3つの分野、3つの罪があります。第一は偶像礼拝です。これは霊的な罪であり、偶像礼拝、魔術、オカルト、占い、呪文などによって入ります。たとえば、子どもが生まれたので、お宮参りに行ったとします。両親が「子どもをお願しますと」偶像に祈願します。もし、そこに悪霊がいたなら、「わかった。わしが守ってやろう」と言います。祈願は悪霊と契約を交わす行為です。その契約は、本人が忘れても、主の御名によって取り消さない限り、いつまでも残ります。第二は心の傷や告白していない罪があるなら、敵に対して足場を作ることになります。たとえば、人を赦さない罪、恨みや怒りです。人から受けたトラウマやマインドコントロールもあります。恥、罪責感、深い喪失感も悪霊が好む餌です。第三は肉体の罪や悪習慣から来るものです。たとえば、ポルノや性的な罪があります。麻薬やギャンブル、アルコールなどの中毒性のものがあります。盗み、悪いことばや嘘も敵に対して足場を作ります。エペソ426-27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」怒ること自体は罪ではありません。しかし、怒りを心にしまい込み、それが憤慨になるなら問題です。そうすれば、悪魔に機会を与えてしまうからです。「機会」はギリシャ語では「トポス」であり、場所とか足場という意味があります。ですから、私たちは悪霊を追い出す前に、罪を悔い改め、傷を癒す必要があります。そのような生ごみを取り除いたら、カラスやねずみが来なくなります。それと同じで、原因を取り除いたなら、悪霊は簡単に出て行きます。

 ガダラ人の場合は、人格まで悪霊にのっとられた極端な例です。でも、このところから悪魔の目的を知ることができます。イエス様は「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。」(ヨハネ1010と言われました。ガダラ人は石で自分のからだを傷つけていました。悪魔の目的はその人自身を殺すことであります。悪魔が仕向けていると言っても過言ではありません。また、彼は着物をつけないで墓場で暮らしていました。このように悪魔の働きは社会性をなくし、孤立させることです。彼は鎖を引きちぎり、だれも彼をつないでおくことができませんでした。彼は夜昼、叫んでいましたが、おそらく彼自身の中から出てくる怒りや悲しみ、絶望感なのでしょう。イエス様はその叫び声が聞こえたので、ガリラヤ湖の反対からガダラにやって来たのです。途中、嵐になり舟が沈没しそうになりました。恐らく、悪魔が嵐を起こして、イエス様と弟子たちを滅ぼそうとしたのではないでしょうか?だから、イエス様は、まるで人格があるかのように、風と湖をしかりつけられたのだと思います。悪霊に乗っ取られてしまった彼らをだれも救うことができませんでした。イエス様はあわれに思って、湖を渡って来られたのです。

2.イエス様と悪霊 

 驚くべきことに、悪霊はイエス様がだれかを知っていました。マタイ8:29 すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」マルコには「駆け寄って来て、イエスを拝した」と書かれています。人間はイエス様のことを分からないし、認めもしません。しかし、悪霊どもは、イエス様を「神の子よ」と告白しています。そして、自分たちを滅ぼさないように命乞いをしています。彼らは「今はその時ではないでしょう」と訴えています。おそらく、黙示録20章に記されている「火と硫黄との池に投げ込まれる」時のことなのでしょう。彼らは、「まだ裁きの時なじゃないのに、どうして自分たちを苦しめるのですか」と言っているのです。私たち人間はなかなかしませんが、悪霊どもが「神の子」「いと高き神の子」と告白しています。イエス様の素性を知らないのは、私たち人間であります。彼らがイエス様を礼拝し、「神の子」と告白しているので、彼らは救われているのかというとそうではありません。ヤコブ219「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」私たちプロテスタント教会は「信仰告白」をとても大切にしています。教理問答を学びながら、1つ1つ答えるかもしれません。しかし、ヤコブは「りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」それでは何が足りないのでしょうか?「信仰告白」や礼拝では足りないのでしょうか?ヤコブは「行いのない信仰はむなしい」「信仰は行いによって全うされる」と言いました。つまり、悪霊どもはイエス様を「神の子」と告白して礼拝しました。でも、彼らはイエス様に従うでしょうか?絶対、従いません。なぜなら、彼らの親分は悪魔だからです。イエス様は「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。」(ヨハネ844と言いました。

 悪霊どもはイエス様に妥協案を提示しました。それは、永遠の滅びではなく、「豚の群れの中にやって下さい」と願いました。マタイ832「イエスは彼らに『行け』と言われた。すると、彼らは出て行って豚に入った。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。」マルコには、「イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。」(マルコ5:13と記されています。2,000というのは、おびただしい数です。しかし、彼らの中に入っていた悪霊は、レギオンでありました。レギオンはローマの軍隊の呼び名で、新約聖書の時代は6,000の兵士の数でした。だから、2,000匹の豚を狂わせることはいとも簡単なことなのです。ガダラ人の中に入っていた悪霊どもは、それほどの数であり、それほどの破壊力があったということです。でも、私たちがこのところで学ぶべきことは、イエス様は神の子であり、彼らよりもはるかに力と権威があったということです。旧約聖書に「万軍の主」という呼び名が多数登場します。英語の聖書では、The Lord of hostsです。Hostというのは、「大勢、多数」という意味の他に、「軍勢、天使」という意味があります。イエス様はまさしく、「天使たちの長」なのであります。悪魔と悪霊は堕落する前に、神の子イエスに従っていたのです。彼らは地上でのさばっていましたが、まさか、神の子イエスが地上に来るとは思っていなかったのでしょう。私たちは、悪霊たちの異常な驚きぶりから、イエス様の力を知らなければなりません。

 これまでのことをまとめますと、イエス様の教えに権威があって、人々が驚きました。マタイ8章にはいりますと、イエス様にはわずらいや病を癒す権威がありました。さらに悪霊を追い出す権威がありました。さらには、自然界を支配する権威がありました。本日のガラダ人の場合は、1ランク高いレギオンという悪霊に対する権威です。この後で話しますが、人々は「この地方から出て行ってください」とイエス様にお願いしました。私はレギオンというのは、その地方を支配する悪霊のかしらではないかと思います。つまりレギオンはその地方の人たちを支配していたのではないかと想像します。どうしたら私たちは悪魔や悪霊から救われるのでしょうか?さきほど、悪霊は住むべき家をさがしているとお話ししました。一番怖いのは、家の中が綺麗であっても、主イエス様がいらっしゃらないお家です。もちろん、家とは私たちのことをたとえています。私たちの家にはたくさんの部屋があります。人を迎える応接間があるでしょう。しかし、鍵がかかってだれも入れない秘密の部屋もあるかもしれません。私たちは信じた時、主イエス・キリストを心にお迎えしました。しかし、イエス様を一階の部屋に入れても、「二階はだめですよ」と言ったらどうなるでしょう。悪魔があなたの家にやってきたとき、悪魔は一階の部屋には入れません。なぜなら、そこにはイエス様がおられるからです。でも、悪魔が二階の部屋に行ったらどうでしょう?あなたは悪魔と一人で戦わなければなりません。さらに問題なのは、秘密の部屋です。まだ、あなたはその鍵をイエス様に明け渡していません。あなたは隠れたところで、自分の時間を持ちたいのです。しかし、それが悪魔の足場になる可能性があります。「ガダラ」、あるいは「ゲラサ」は、もともとは「壁」「囲い」という意味がありました。ガダラ人は、人々から離れ、壁(囲い)を作って生きていたのです。もし、自由で勝利した生き方をしたいのであれば、主イエス様にすべての部屋を明け渡す必要があります。あなたの秘密の部屋にさえも、イエス様をお迎えしましょう。そうすれば、悪魔がやってきても、権威あるイエス様が応対してくださいます。あなたは「私の家はイエス様のものである。イエスの御名の権威によって出て行け、入って来るな」と命じることができます。勝利の秘訣は、いつもイエス様を認め、イエス様を歓迎し、イエス様に従うことです。

3.ガダラの地方の人たちと悪霊 

 マタイ833-34「飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。」何と言うことでしょう。ガダラの地方の人たちは悪霊につかれた人が癒されたことを喜ぶのではなく、死んだ2,000匹の豚ことを悲しんだのです。本来、ユダヤ人は豚を飼いませんでした。なぜなら、豚は汚れていると思われていたからです。おそらく、その地方の人たちは、サマリヤ人のような混血だったのかもしれません。彼らにとって生活の安定こそが第一でありました。もし、この地方にイエス様が滞在するならば、豚だけではなく、他の物も失う恐れがあったからです。それにしても、ひどい話ではないでしょうか?彼らは、悪霊につかれた人たちの証を残らず聞きました。そして、町中の者がイエス様に会いに出て来たのです。ところが、「イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った」のです。悪霊を追い出したイエス様を信じるどころか、「どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った」のです。今の時代も同じです。人々は、いろんな集会で福音を聞く機会があるかもしれません。「それは良い教えだ。イエス様は救い主なんだ」と言うかもしれません。でも、信じて、心にお迎えするかというとそうではありません。なぜなら、自分の生活が変えられるのが嫌だからです。もし、「イエス様を信じたなら、好きなことができなくなる。毎週、教会に行かなければならない。それは嫌だ」となるのです。信仰の喜びよりも、信仰生活の義務とか規則が重荷となるのです。そこで、教会は「信じないと滅びに行くよ。教会につながりなさい」と脅かすのです。中には、地獄に行きたくないので、教会に来る人たちもいないわけではありません。それだと、世の中の宗教となんら変わらなくなります。せっかく恵みによって救われたのに、教会の教えや規則によって縛られる恐れがあります。

 パウロはガラテヤの教会にこのように言いました。ガラテヤ51「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」イスラエルは400年以上もエジプトで奴隷でした。エジプトはこの世の象徴であり、パロは悪魔の象徴です。彼らはモーセに導かれ、紅海を渡って、荒野にやってきました。もうすぐ、カナンに行けるのに、一世代の人たちは約束の地に入ることができませんでした。彼らの体はエジプトから出てはいましたが、心の中にエジプトがあったのです。彼らは「ああ、エジプトは良かった。ニラもたまねぎも食べられた」と不平をこぼしました。ガラテヤの教会も、せっかくキリストの福音によって救われたのに、奴隷の生活に逆戻りしてしまいました。ガラテヤの教会は恵みによって救われたのに、肉によって仕上げようとしたのです。肉というのは、自分の力によって律法を守り、宗教的な生活をするということです。そうすると喜びがなくなり、すべてのことが義務になります。律法は「まだ足りない、まだ足りない」と背中に鞭を打ち付けます。彼らは恐れを与える「奴隷の霊」に支配されてしまったのです。パウロはローマ8章でこのように言っています。ローマ815「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。」アーメン。私には4人の子どもがいますが、だれ一人、私の顔色をうかがっている子どもはいません。傍若無人とまで言いませんが、堂々としています。「少しは部屋を片付けろ!たまには礼拝に出ろ!」と言いたいのですが、平気な顔をしています。でも、私の顔を見ておどおどしているよりは、ずっと増しだと思っています。彼らは自分をこの家の子どもだと思っているので、当たり前に生活しているのです。私たちクリスチャンは神の子どもです。神さまを「アバ、父」、お父ちゃん、daddy と呼んで良いのです。そこには、宗教のひとかけらもありません。宗教というのは、自分の罪や汚れを隠し、媚を売って取り入ろうとする行為です。しかし、主イエス・キリストは私たちのために血を流し、すべての罪を贖ってくださいました。私たちはキリストの血によって、いつでも神さまの御座に行くことができるのです。私たちの日常の生活ぶりがどうであれ、キリストの血によって神の子として受け入れられているのです。信仰のバロメーターは、喜びと自由があるかどうかです。たとえ、社長夫人で豪邸に住み、セレブのような生活をしていても、喜びと自由がないなら問題です。

 前のポイントで申し上げましたが、レギオンというのは、その地方を支配する悪霊のかしらではないかと思います。レギオンはその地方の人たちを支配していたのでしょう。ガダラの人たちは、主イエス様に従うよりも、レギオンのもとで暮らした方が良いと思っていました。彼らは「御名があがめられ、御国が来ますように」とは祈りません。そうではなく、「日々の生活が問題なく過ごせますように。地上でいつまでも平和に暮らせますように」ということです。確かに悪魔はこの世での暮らしを保障するかもしれません。しかし、悪魔は、永遠の御国、永遠のいのちを決して与えることをしません。悪魔と悪霊は自分の最終ゴールが、火と硫黄との池に投げ込まれることを知っています。だから、一人でも多くの人間が、自分と道連れになることを願っているのです。神さまから離れた人間は、悪魔の持ち物です。だから、一人も手放したくないのです。そのために、彼らは福音の光を見えなくします。そして、この世の喜びや楽しみを与え、御国を望まないように仕向けます。人々はこの世で無難に暮らせるかもしれませんが、それは奴隷の生活であり、神さまが願う標準では決してありません。私たち神の子の生活は杯があふれる生活です。私たちは霊的には天上に席がありますが、肉体は地上にあります。だから、敵である悪魔や悪霊の攻撃も受けることがあります。でも、ダビデはこのように言っています。詩篇23:5-6 「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」たとえ、敵である悪魔がいても、主は「私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」アーメン。地上の生活においても、悪魔や滅びが追いかけてくるのではありません。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」アーメン。私たちは地上にいながらも、主の家に住んでいるような豊かさがあるのです。

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