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2016年6月24日 (金)

大自然を支配されるお方 マタイ8:18-27 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.6.26

 マタイ8章と9章にはイエス様がなされた奇蹟がまとめて書かれています。ところが、奇蹟とは思えないことが2つ含まれています。それは、本日、学ぶ「弟子への召命」と「マタイの召命」の記事であります。おそらくマタイは、自分が弟子として従うことができたのは奇蹟であると言いたかったのでしょう。しかし、中には弟子として従えない人たちも出てくるはずです。それでは、奇蹟になりません。マタイはあえて、コントラストをつけるためにそういう人たちのことを記したのかもしれません。きょうは2つのメッセージになっていますが、信仰という点では共通しています。 

1.弟子への召命

 イエス様がガリラヤ湖の向こう岸に行く前に、二人の人に出会いました。おそらく、この二人は舟には乗らなかったのでしょう。初期の頃は、向こうから志願する者やイエス様が召した者がいたはずであります。最初出てくる人物は律法学者です。マタイ8:19 そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」

すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」このところだけではありませんが、イエス様の会話というのは、無駄なところがありません。無駄なところがない代わりに、ぎくしゃくしているようにも思えます。私だったら「あなたは立派な覚悟をお持ちですね」と、まずほめるでしょう。しかし、イエス様は神さまですから、その人が何を考えているかすべてお見通しです。ですから、無駄なところがなく、直球勝負であります。まず、この人はイエス様を「先生」と呼びました。英語の聖書ではmasterであります。一見、何も問題がないように思えます。彼は律法学者ですから、もっと知的に上達させて下さる教師を求めていたのでしょう。しかし、イエス様は教師以上のお方です。後で出てきますが、舟でガリラヤ湖に向かった弟子たちはイエス様を「主よ」と呼んでいます。英語ではLordであり、神さまを示唆する呼び名です。しかし、彼はイエス様を「先生」と呼びました。

 恐らくイエス様は彼の心を見抜いていたと思われます。確かに覚悟は立派ですが、頭だけで経験不足でした。そして、彼の心配は生活の安定でした。今で言うなら、ちゃんと給料はいただけるだろうか?住まいは与えられるだろうか?雇用保険や厚生面はどうだろうか?車はあるだろうか?彼は「この方について行けば、生活も保障されて、なおかつ学問を積むことができる」と考えていたのでしょう。だからイエス様はいきなり、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」とおっしゃったのです。「人の子」というのは、人間という意味の他に、神という意味が隠されています。つまり、「私には寝る場所もないけれど、あなたもそうなりますよ」と言うことです。これを聞いて律法学者は後ずさりしたでしょう。「私は学者志望なので、書斎も欲しいし、本も置きたい。なのに、住むところがないなんて!」とがっかりしたでしょう。イエス様の教え方は、いわゆる教室スタイルではなく、on the jobトレーニングでした。何かあった時、道端で教える教え方です。イエス様の教え方と、神学校の教え方とは全く違っていました。今の神学校は西洋のカリキュラムを取り入れ、単位を取ったら卒業できます。しかし、イエス様は一応教えますが、出来事に遭遇したときに「これはどういう意味なのか」と考えさせます。イエス様が与えるのは学問的な知識というよりも、体験的な知識であります。自転車や水泳もそうですが、体験的な知識は一度身に着けると忘れません。しかし、テストのために詰め込んだ知識は、テストが終わったら消えてなくなります。彼が学問を横に置き、「枕するところがなくたって平気です。on the jobトレーニングで結構です」とイエス様を信頼して着いていくならば別です。つまり、「住む家がなくても、食っていけなくてもあなたに着いて行きます」という信仰があればイエス様の弟子になれたでしょう。覚悟も必要ですが、最後は信仰の問題です。

 私は洗礼を受けて半年後、仕事をやめて直接献身したいと思いました。私を導いてくれた職場の先輩は牧師になるためにアメリカの神学校に行くつもりでした。私にはそういうコネがないので、「とりあえず日本の神学校で良いや」と思いました。動機が不純でしたが、大川牧師に掛け合ったら、「志願兵」として認めてくれました。私は本科ではなく、基礎科に入学しました。先輩の方は、アメリカに留学できず牧師の道も閉ざされてしまいました。私は1年間学んで、もう1年は聴講しました。同級生が本科で学んでいるので少し寂しい思いがしました。私は信徒献身者として、教会で働くことになりました。教会には半地下があったので、バザーの残り品をどかしてそこで寝ました。お風呂はソーラーシステムのお湯が仕えたので、教会の裏でシャワーを浴びました。ちょうど、キャバレーの店主をやめて献身した田中兄もいたので、「シャワーも良いかなー」と思いました。やがて京子さんと結婚しましたが、彼女は牧師と結婚したいと思ったのでしょう。そのことも、ささげたのだと思います。私も何とかアメリカの神学校に行って牧師になりたいと思いましたが、それもささげました。そうすると、後から目黒の聖契神学校で学ぶ道が開かれました。卒業後、当亀有教会から招聘が来て牧師になったわけです。聖書に出てくる律法学者のように、生活の心配がなかったわけではありません。しかし、「神さまにささげれば、経済的な問題もきっと解決してくれる」という信仰の訓練になりました。弟子として、一番重要なことは、どんなことがあってもイエス様に着いて行くということです。

 もう一人の人物は、恐らくイエス様の方から弟子に召したのだと思います。マタイ821-22 また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」聖書の他の箇所では「あなたの父と母を敬いなさい」と命じられていますが、愛がないような感じがします。イエス様はマタイ10章で「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。…自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」と言われました。肉親の情とイエス様に従うこと、どちらを第一にすべきなのでしょうか?自分の十字架を負うとは、弟子として支払うべき代価があるということです。彼はイエス様に召されたとき、「はい」と言ったんです。しかし、「はい」と言いながら、「主よ。まず行って」excuse(免除する、退出を許す)しています。このところで問題になっているのは、何を優先させるかであります。ルカ福音書にはもっと詳しく書かれています。ルカ960-62すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」彼は、「主よ。あなたに従います。」とはっきり言っています。言っていながら、「ただその前に」とexcuseしています。これは従っていないことになります。彼は神さまからテストされているのです。肉親よりも、イエス様に従って行けるか、自分の十字架を負って従って行けるかというテストです。イエス様はさらに、何とおっしゃったでしょう?イエス様は「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい」と言われました。おそらく家の者はまだ生きていたと思われます。しかし、イエス様が「死人たち」とおっしゃっているのは、霊的に死んでいるということです。もし、彼が家に帰ったならどうなるでしょう。おそらく、家族や親せきが「だれがこの家を継ぐのか、だれが畑を耕すのか?」と、彼を引き留めることでしょう。イエス様はそのことを知っていたのです。だから、「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」とおっしゃったのです。

 ここにはイエス様に従えなかった二人の弟子について記されています。最初の人は、生活の保障ということでした。次の人は、肉親の情ということでした。どちらも、大切な課題です。でも、イエス様の弟子として従うためには、それらのものは後まわしにすべきなんだということです。結局、彼らは弟子として従うことはできなかったでしょう。今日の教会は「イエス様を信じればクリスチャンになれる」と言います。でも、キリストの弟子になるためには、生活の保障とか肉親の情など支払うべき代価があるということです。「自分の十字架を負わなくても、信じればクリスチャンになれる」というのは福音の安売りかもしれません。私も福音の安売りをしている牧師の一人のような気がします。だから、洗礼を受けたあとで離れる人がたくさんいるのかもしれません。私たちは福音書を読むとき、クリスチャンとはイエス様を救い主として信じるだけでは不十分なんだと分かります。もし、それだけだったら、困った時だけ従って、あとは自分の好みで生きるでしょう。しかし、本当のクリスチャンとはイエス様を主と仰ぎ、イエス様に従っていくことなんだということです。つまり、クリスチャンはイエス様を信じるだけではなく、弟子として従っていく要素があるんだということです。このように信仰と従順は、コインの裏表のように分けることができないということを理解したいと思います。

2.大自然を支配されるお方 

 前半のメッセージは「代価を払ってでもイエス様に従う」ことが1つの信仰の局面でした。後半はどのような信仰を教えているのでしょうか?マタイ823-25イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」前の18節を見ますと、イエス様は弟子たちに湖の向こう岸に渡る準備をするように命じておられます。弟子たちの何人かはガリラヤ湖の漁師なので、持ち舟があったと思います。ガリラヤ湖は海抜よりも200メートル位低い位置にありました。そのため、気圧の変化により急に嵐が起こることがあったようです。しかし、彼らは漁師だったので、大概の嵐では驚かなかったと思います。ところが湖の途中まで来ると、大暴風が起こって、舟は大波をかぶりました。舟の中に水が入ってきて、沈没寸前になりました。イエス様の方を見るとどうでしょう?イエスさまは舟の後ろで眠っているではありませんか?マルコ4章には「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」と書いてあります。まるで、イエス様を非難しているように聞こえます。それにしても、弟子たちは「この状況、イエス様だったら、何とかしてくれるのでは?」という希望があったのかもしれません。プロの漁師が何もできないのに、大工のイエス様が一体何ができるのでしょうか?

 マタイ826-27イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」弟子たちの驚きは、ただごとではありませんでした。マルコ4章には「彼らは大きな恐怖に包まれた」と書いてあります。「まさか、嵐を静めることのできるなんて!」と下顎がだらんと下がった状態でありました。そのとき弟子たちは、「ああ、このお方はただ者ではない、もしかしたら神さまなんだろうか?」と思ったのです?このような奇蹟を体験すると、人は恐怖に包まれ「わなわな」となって立っていられないものです。しかし、理解できないのはイエス様の弟子たちに対することばです。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」もしかしたら、信仰があれば大暴風を恐れなくて良いのでしょうか?現実には、舟に水がどんどん入り込み、沈没してしまいます。彼らは漁師だったので、どのくらい水が舟に入れば沈むか知っていました。しかし、信仰と大暴風と何の関係があるのでしょう。私たちは「信仰とは奇蹟的に嵐を乗り越えること」あるいは「イエス様のようにみことばによって嵐を沈めること」と考えるかもしれません。確かに聖書には「力あるわざ」、「奇蹟の賜物」というのがあります。イエス様が、弟子たちが奇蹟の賜物を使うことを期待していたのでしょうか?私はそうでないと思います。注目すべきことは、イエス様は舟の中で眠っておられたということです。大暴風の中におけるイエス様の態度こそが、信仰だと思います。

 では、イエス様はどのような信仰を持っておられたのでしょうか?私は「イエス様は父なる神が共におられるから大丈夫だ」という信仰があったと思います。イエス様は何をするにも父なる神に従っておられました。この時も、ガリラヤ湖の向こうに渡るのは父のみこころであると確信していました。そして、弟子たちに「向こう岸に渡るんだ」と言われたでしょう。ところが、突然、大暴風が起りました。しかし、イエス様は舟の中で、安らいで眠っておられました。弟子が起こさないと起きないくらい熟睡していました。私はイエス様が大暴風の中で安らいで眠っておられたのは2つの理由があったからだと思います。第一は「私には父なる神が共におられる」という信仰です。それは「父なる神の御手の中にあるから大丈夫だ」という信仰です。第二は「私は全宇宙を父なる神と共に造った神であるという自覚」であります。それは自分が創造者なので大自然を支配できるという信仰です。これらは、神の子であるイエス様だけの信仰であります。私たちはイエス様と同じ信仰を持てと言われても無理です。でも、なぜイエス様は「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」とおっしゃったのでしょう?それは、この2つの信仰を持っておられるイエス様が共にいるから大丈夫に違いないという信仰であります。父なる神がイエス様と共におられ、大自然よりも力ある創造者が共におられるという信仰です。簡単に言うと、「イエス様が一緒の舟にいるんだから私の人生は大丈夫だ」ということです。不信仰とは、イエス様と一緒におぼれて死ぬかもしれないと思うことです。疑り深いトマスはこう言っています。ヨハネ1116 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」かつての日本軍の「玉砕」のように、一緒に死ぬのが信仰ではありません。「主が共にいるなら大丈夫、主が必ずなんとかしてくださる」というのが信仰であります。

大川牧師が少年の頃、夜、お墓の前を通るのがとても怖かったそうです。学校とお家の間に、お墓があったのかもしれません。昼間だったら大丈夫ですが、夜は灯りもなくて通るのが怖かったのでしょう。大川少年は、お兄ちゃんと一緒のときは心配です。なぜなら、お兄ちゃんも怖いので、早く走ります。「お兄ちゃん、待ってよー」と言っても待ってくれません。大川少年は、取り残されまいと必死に走るでしょう。でも、お父さんの場合は平気です。お父さんがおんぶしてくれて、お墓の前を通過してくれます。墓の前で、降ろしたりは決してしません。大川少年は目をつぶって、父親の背中にすがみついています。この例証は、私たち信仰とは何かということを教えてくれます。もしも、人生という船に主イエス様が共におられるならどうでしょうか?イエス様が一緒だったら、どんな嵐も大丈夫ではないでしょうか?聖歌472番に「人生の海のあらしに」という賛美があります。この曲は、葬儀の前夜式のときに必ずと言って良いほど歌う賛美です。「人生の海のあらしにもまれきしこの身も、不思議なる神の手により命びろいしぬ。いと静けき港につき、我は今やすろう。救い主、イエスの手にある身はいともやすし。」まさしく、私たちの人生は嵐の連続です。聖歌472番を見ると、この曲の出所が詩篇107篇であることがわかります。詩篇10727-30「彼らは酔った人のようによろめき、ふらついて分別が乱れた。この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。主があらしを静めると、波はないだ。波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。」この詩篇はまるで、イエス様が弟子たちになされた預言のような箇所です。ですから、マタイ8章の記事は単なる奇蹟ではなく、イエス様がメシヤであることのしるしとも考えられます。

 弟子たちはこのような奇蹟を体験して、イエス様はメシヤであり、神さまであるという信仰が与えられたのではないでしょうか。私たちが弟子になるとき、「本当にこのお方に私の人生を任せて良いのだろうか?」という疑いがあるでしょう。教会に初めて来た人は、「本当にこの牧師に私の人生を任せて良いのだろうか?」と思うかもしれません。しかし、ある人は「この牧師は信じられない」と躓くかもしれません。ま、それでもかまいませんが、「牧師が信じて従っているイエス様は大丈夫だ。このお方なら信じられる」と思ってくれたらありがたいです。理想を言えば、「牧師もイエス様も信じられる。私の人生を任せられる」ということです。でも、神さまはある場合、牧師という人間を通して、イエス様と出会うように仕向けているところもあります。だれでも、イエス様が直接自分に現れて「私に従って来なさい」と言えば、文句のつけようがありません。しかし、イエス様が直接現れて、肉声で語ってくださるのはほとんどありません。今、神学校に言っておられる吉田大悟兄弟のように、1000人に一人くらいはいるかもしれません。多くの場合、教会に来て、聖書からのメッセージにふれることが手助けになります。もちろん、自分で聖書を読んでいる途中、賛美の途中、祈りの途中に信じる人が多いでしょう。人から勧められて信じる人もいます。このように多くの場合は、何かを媒介にして信仰に導かれることが多いと思います。でも、最終的にはイエス様を信じ、イエス様に従うということが重要です。その時、問われることが、生活の安定や肉親の情よりも、イエス様を第一にして従って行けるかということです。救われるためには条件などありません。でも、その信仰が本物であるかどうか、必ずテストされることがあります。そのテストの究極は自分の十字架を負ってイエス様に従えるかどうかであります。つまり、「私は代価を払ってでも、イエス様を信じていく」という信仰であります。こんなことを言うと「信仰って大変な覚悟がいるんだなー」と退いてしまう方もいるかもしれません。

でも、信仰というのは「私たちから神さまへ」という方向だけではありません。「イエス様から私たちへ」という方向もあるということです。イエス様が弟子たちにしたように、イエス様は必ず私たちを召してくださいます。この召しがなければ、だれ一人としてイエス様のところに来ることはできません。イエス様はヨハネ6章でこのように言われました。ヨハネ644「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」アーメン。つまり、信仰とはイエス様の召しに対して、私たちが従えるかどうかということです。イエス様はご自分のもとに来る人たちを決して拒絶しません。イエス様はいつも真実であり、信仰に満ちておられます。このイエス様を救い主として信じ、また人生の主として従う人が、本当の信仰を持って救いに至ることができるのです。私たちは一回でこのような信仰を持つことができないかもしれません。しかし、弟子たちのようにたくさんの奇蹟、たくさんの神体験を積んで、私たちの信仰が堅固にされていくのではないかと思います。

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2016年6月17日 (金)

病を癒す力 マタイ8:14-17 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.6.19

 マタイ7章の終わりには、イエス様の教えに権威があったので人々が恐れたと書かれています。そして、マタイ8章と9章には、イエス様がなされた力あるみわざが記されています。イエス様の力と権威は、どのような分野に現れているのでしょうか?きょうはイエス様がなされた病の癒しと悪霊の追い出しについて学びたいと思います。ある人たちは「科学や医学が発達していない時代だったので、このようなことが書かれているんだ」と言います。それでは、科学や医学が発達している現代において、すべての病が癒され、人間の不可解な行動が解決されているのでしょうか?人間は最高の霊長類、理性的な生き物だと言われていますが、動物にも劣るような愚かなことをしているのではないでしょうか?背後に見えない霊的な力が働いているとしか思えません。 

1.ペテロのしゅうとめの癒し

 マタイ、マルコ、ルカ、3つの福音書がこの出来事を記しています。これは、1つの病の癒しではなく、カペナウムで行われた特記すべき出来事でした。他の福音書を見ると分かりますが、その日は安息日であり、イエス様が会堂で教えました。その日の午後、ペテロとアンデレの家に立ち寄ったのであります。その家で、ペテロのしゅうとめが熱病のために床についていました。このところから分かることは、ペテロは結婚していたということです。ローマ・カトリックはペテロを初代の首長としてあがめています。それなのに、神父や司祭など、神に仕える者は妻帯が禁じられています。そこには矛盾があります。その点、プロテスタントの牧師は結婚できます。使徒パウロは独身でしたが、「もし、自制できなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚する方が良い」(Ⅰコリント79と言いました。私も自制できず、情の燃えるよりは結婚した範疇に入ります。でも、なぜペテロのしゅうとめが自分の家ではなく、ペテロの家にいたのでしょうか?彼女は「熱病で床についていた」と書かれています。当時の熱病には、通常の風邪のようなものから、腸チフスやマラリヤのような伝染病、脳腫瘍や癌の末期のような病気までありました。当時は病院のような施設がなかったので、しゅうとめをペテロの妻がいるお家に連れてきて、みんなで看病していたのではないかと思います。マルコ130「シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた」と書かれています。おそらく、家族や親族がイエス様にお願いしたのでしょう。

 マタイ815「イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。」彼女の病気が瞬時に直りました。そして、彼女は起きてイエス様をもてなしました。病気にかかると、体力がなくなり、節々が痛むでしょう。全快までは、しばらく養生しなければなりません。しかし、彼女に病み上がりの症状は全くなく、ロボットのように立ち上がり、イエス様をもてなしました。喜びと感謝の気持ちが分からない訳でもありませんが、そこまでできるのでしょうか?興味深いのは、イエス様の癒し方であります。マタイ福音書はイエス様が彼女の手にさわっただけです。マルコによる福音書は「彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき」と書かれています。しかし、ルカによる福音書はちょっと違います。ルカ439「イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。」とあります。ルカは医者ですから、もっと詳しく書いているようです。イエスさまは彼女の手をさわったのですが、そのとき「熱よ去れ」と命じたのでしょう。そんな大きな声ではなく、囁いたくらいなので他の福音書には書かれていないのだと思います。つまり、イエス様の病に対する癒しには、力だけではなく権威も伴っているということです。このところで注目すべきことは、イエス様は父なる神さまに「どうかペテロのしゅうとめの病を癒してください」と祈っていないということです。彼女の手を取り、熱をしかりつけたのであります。彼女自身ではなく、彼女を支配している熱病をしかりつけたのであります。この背後には、人間を病気が支配しているのは正常ではなく、いまわしいことなんだという考えがあります。そして、彼女が直ちに癒されて、奉仕をしたということは、御国(神の国)がイエス様と共に来ている証拠であります。御国には病気は存在しません。イエス様はペテロの家に、御国をもたらしたのです。だから、しゅうとめは直ちに癒され、喜びのゆえにイエス様をもてなしたのです。そのニュースが近所に知れ渡り、人々は病人や悪霊につかれた人たちをペテロの家に運んできました。

 人間的に考えますと、ペテロのしゅうとめは、ペテロに対して不満を持っていたかもしれません。なぜなら、「近頃、現れたナザレのイエスとらやに着いて行っているようだけど大丈夫だろうか?漁をしないで、家を空けて、うちの娘に苦労をかけているんじゃないのだろうか?」そのようには書かれていません。現代風に言ったら、「宗教に凝ってしまった。宗教にかぶれてしまった」ということです。日本人は「何事もほどほどにしなければいけない。宗教に凝ったらあかん。危ない」と言うでしょう。しゅうとめから見たなら、ペテロはまさしくそのように見えたのではないでしょうか?でも、彼女自身は熱病にかかって、どうしようもありませんでした。人様のやっかいになっている状況であります。ところがイエス様が自分の手をとって、起こしてもらうとどうでしょう?とたんに熱が下がり、体力まで回復しました。「いやー、この方は本物のメシヤだ。救い主だ」と心から思ったのではないでしょうか?だから、彼女はじっとしていることができず、イエス様をもてなしたのであります。彼女は「自分にできることはこれしかない」と給仕をしたのです。私たちは頭で考えると、キリスト教という1つの宗教になります。世の中の人たちは、頭で遠くから考えています。なぜなら、近寄るとミイラ取りがミイラになるからです。でも、彼女のようにイエス様を体験しなければなりません。聖書にCome and dine「来て、食せ」(ヨハネ2112)とあります。食べなければ分からない世界があるということです。どうぞイエス様を頭ではなく、全身で体験しましょう。

2.病の癒しと悪霊の追い出し

 マタイ816「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。」なぜ、夕方になって人々がやって来たのでしょうか?実はペテロの家にやって来たのは、安息日の午後でした。当時、安息日は、働いてはいけない日であり、歩いて良い距離は1キロぐらいでした。そして、ユダヤでは日没から日の出までが1日でした。ですから、夕方、つまり日が没して、安息日が明けたので人々が遠くからやって来たのです。足元が見える朝まで待てば良かったのでしょうが、イエス様がペテロの家にいるという情報を得て、矢も楯もたまらずやって来たのでしょう。まず、このところには二種類の人たちがいることが分かります。悪霊につかれた者たちと病気の人々です。ある人たちは、病気はすべて悪霊から来ていると言います。しかし、それは極端です。福音書には「また」あるいは「と」と別のこととして書かれているからです。もちろん、ある病は悪霊から来るものもあります。聖書には「病の霊」と書かれているところがあります。でも、すべての病が、悪霊が起因していると考えるのは行き過ぎであります。聖書によると、すべての病は、人間が神から離れ罪を犯したからです。創世記3章で、アダムは神さまから「あなたは土に帰る」と言われました。罪のゆえに、すべての人間が死ぬようになりました。病気は死を弱くしたかたちと言えるでしょう。死が解決しない限り、また病気も解決しないということです。また、「土地がのろわれ、いばらとあざみが生えた」ということから、人間を害する病原菌やウィルスが生じたのではないかと想像できます。

 まず、「人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た」とあります。「悪霊につかれる」をギリシャ語では、ダイモニゾマイと言います。辞書は「悪鬼に憑かれている」「人に憑いてその心を支配し、また病気、ことに精神病を起こさせるものと信ぜられていた」と書かれています。しかし、「悪霊につかれた」という表現は誤解を招くことばです。英語の聖書もpossessed(所有された、占有された)と書かれています。しかし、それは行き過ぎです。マタイ8章後半には人格まで乗っ取られたガダラ人が出てきますが、それは彼らのように極端な人たちのことです。多くの場合は、身体か魂か霊の一部を握られていると考えるべきです。魂には、知性、感情、意志があります。知性に働くとその人は欺かれます。感情に働くと情緒不安定になります。意志に働くとどうでしょうか?はっきり言えませんが、人を赦さなかったり、悔い改めていない罪があったりするとある部分が支配されます。霊の場合は、偶像礼拝や占いをすると霊的な束縛が起こると思います。また、肉体の場合は、ある種の病気になります。性的な罪や麻薬などでも肉体が犯されることがあると思います。とにかく、悪霊はその人が持っている罪や家系の咎を足場にして、その人のある部分を支配するのです。肉体を支配すればその人は病気になり、魂を支配すればその人は混乱し、霊を支配すればその人はまことの神から離れるでしょう。このところを見て驚くことは、「悪霊につかれた人というのは大ぜいいるものだ」ということです。現代は、教会でも「前時代的なものだ」と悪霊の存在を認めていないところがあります。しかし、そうではないと私は思います。2000前、悪霊につかれた者が大ぜいいたのですから、現代も同じように大ぜいいると信じます。イエス様はご自分の権威によって、悪霊どもをその人たちの中から追い出しました。彼らは解放されて、神さまから与えられた人生をエンジョイすることができたでしょう。

 それでは病の癒しはどうでしょうか?マルコ134「イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をいやし」とあります。当時は現代と違って、ワクチンや抗生物質がありません。天然痘、ペスト、肺結核などの恐ろしい病気もありました。また、風土病と言われるコレラやマラリヤもあったでしょう。聖書には中風の人が出てきますが、後遺症のために苦しんでいる人もいたでしょう。目や耳、肢体などに障害を持った人たちもいました。てんかんなど、神経的なものもあります。医学が発達している現代であっても病院は満員であります。国民医療費は5兆円で、国家予算の0.6%にあたります。家庭でも健康保険や薬、通院費は馬鹿になりません。今よりも病院や薬のない時代は、病の癒しはものすごくニーズがあったように思います。20年くらい前にアルゼンチンでリバイバルが起りました。そのとき、近眼が癒され、新しい歯が生えたそうです。その講師が、日本でも同じような癒しの祈りをしましたが、ほとんど起りませんでした。なぜなら、日本人は「メガネや歯医者があるからなー」と必死に求めません。しかし、現代でもインドやアフリカ、中国の奥地など、お金も病院もないとこころでは、そのような癒しがばんばん起こるようです。福音書を見ると分かりますが、イエス様の「病の癒しと悪霊追い出し」はかなりのウェートを占めています。間違いなく、イエス様のミニストリーの大部分を占めていました。

 問題は、「病の癒しや悪霊の追い出しを今日の私たちもしなければならないのか?」ということです。ある教会では医学が発達した今日は、もはや必要でないと言います。病気のときは、ちょっとだけ祈りますが、「良い病院を紹介します」と言うかもしれません。私は福音宣教と病の癒しと悪霊追い出しはセットになっており、切り離すことはできないと考えています。「福音宣教をしなくても良い」という教会は1つもないでしょう。でも、「癒しと悪霊追い出し」をしない教会はたくさんあります。なぜなら、あまり祈っても効果がないからです。いのちのことば社の『チェーン式聖書』にはこのように書かれています。「キリスト教会の発達当時は、まだ未成熟の時代であり、教会と確証のために、目を見張るような、御霊の賜物による働きが必要であった。しかし、新約聖書が完成した今は、そのような賜物の必要性は消えた」(Ⅰコリント13章)と書かれています。しかし、それは「スコフィールドの時代区分」を強調し過ぎた、全くの間違いであり、訂正すべき内容です。ヘブル138「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」イエス様は聖霊によって私たちのところに来られて、癒しと解放をなさってくださいます。イエス様が弟子たちに「病を癒し、悪霊を追い出せ」と、何度も命じられました。天国にお帰りになられる直前も「全世界に福音を宣べ伝えなさい」と命じられただけではなく、「私の名によって悪霊を追い出し…病人に手をおけばいやされます」と保障されました。だから、イエス様が再臨されるまで、病人がいる限り、私たちは病の癒しをしなければならないのです。

3.預言の成就としての癒し

 マタイ817「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらい(虚弱)を引き受け、私たちの病を背負った。』」このような表現は、マタイによる福音書の独特な表現であることを一番最初に申しあげたことがあります。つまり、病の癒しや悪霊追い出しは、イエスがメシヤであることのしるしであり、預言の成就なんだということです。しかも、マタイはイザヤ書を引用して、「彼は私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」と言っています。これはイザヤ書53章からの引用なのですが、旧約聖書はちょっと違います。イザヤ534キング・ジェームス欽定訳はSurely He has borne our griefs And carried our sorrows;直訳すると、「彼は私たちの嘆きと悲しみを担われた」となっています。ここには、病ということばがひとこともありません。おそらく、70人訳というユダヤ人がギリシャ語になおすとき、「わずらい」とか「病」に変えたのだと思います。なぜそんなことがと思って、ちょっとだけ調べてみました。原文のヘブル語では虚弱infirmitiesと悲しみになっています。新共同訳は「病と痛み」とはっきり訳しています。結論的には、イエス様は十字架上で、私たちの精神的な苦しみだけではなく、肉体の苦しみである病も負ってくださったということです。キリスト教会では、イエス様が私たちの罪と呪いを十字架で負ってくださったということを信じます。つまり、十字架による罪の贖いをだれもが認めています。しかし、病の癒しとなると、それは別問題だという人がクリスチャンの中にもいます。三浦綾子先生はすばらしい福音的な文学作家です。しかし、彼女は、病は神さまからのプレゼントだと言いました。また、ある人は「教会は病の癒しのために祈るのはおかしい。なぜなら、神さまがすべてが最善になるように支配しておられるからだ」と言います。

 しかし、マタイ817とイザヤ534をそのまま見るとどうなるでしょうか?イエス様が十字架で罪だけではなく、虚弱や病を背負ってくださったと理解すべきではないでしょうか?つまり、罪と同じで、イエス様は私たちの虚弱や病も負ってくださった、完了しているということです。そうなると、私たちの祈り方が全く違ってきます。「イエス様、あなたが2000年前、十字架で私の病を負ってくださってありがとうございます。私がこのように病の中にいるのはありえないことです。どうか、あなたのみことばどおり、私の病を取り除き、完全に癒してください」と祈ることができます。ある人が「クリスチャンは病気で死ぬのではなく、神さまが召されたときに死ぬのだ」と言いました。ですから、クリスチャンは「病に倒れた」とは言わず、「神さまが天にお召しになられたのだ」と言うべきなのです。もちろん、病院やお医者さんは診断書に病名や死因を書くでしょう。それはこの世の人たちの見方であります。私たちには聖書からの、信仰の見方があるんだということです。この世の人たちは「死んだ」とか「どこかへ旅立った」と言うでしょう。でも、私たちは「神さまがご自分のところに召してくださった」と言うべきです。この肉体は私という本体の入れ物であり、土の器なんだということを忘れないようにしたいと思います。でも、イエス様は私たちが病気にならないで、死ぬまで健康にいられることを願っておられます。たとえば、長血をわずらった女性にイエス様はこう言われました。マルコ534後半「病気にかからず、すこやかでいなさい。」アーメン。また、使徒ヨハネはガイオにこのように言っていますⅢヨハネ2「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」アーメン。間違いなく、健康であることが神さまのみこころであることがわかります。このところに、「病は主の訓練である」と言ってはいけません。なぜなら、どんな親が自分の子どもに「すこし病気になって、反省しなさい」と言うでしょうか?もちろん、不摂生とか薬物によって健康を害して、悔い改める場合があるでしょう。しかし、それは例外であります。「ヨブ記のヨブの病」、「パウロの肉体の刺」も例外であります。私たちは例外を神のみこころにしてはいけません。父なる神さまの願いは、私たちが健康で神さまの使命を果たすことであります。その証拠に、イエス様は病気になられたことがありません。イエス様は私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負って下さいました。しかし、そのためにイエス様が病気になられたということが、聖書に一言も書かれていません。イエス様はすべてのわずらいとすべての病に打ち勝ち、健康であったということは確かな事実だと思います。

 私の結論としては、イエス様は私たちの罪だけではなく、病も負ってくださったということです。つまり、イエス様の十字架の贖いの中には、病の癒しも含まれているということです。パウロはガラテヤ313-14「なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり」と言いました。ですから、私たちは肉体の健康だけではなく、アブラハムの全人的な祝福も受けることができるのです。つまり、肉体の健康はもとより、経済的に祝され、家庭や職場のあらゆる人間関係においても祝され、尾にはならず頭になるということです。私たちの祝福と癒しは、イエス様の十字架のもとから流れてきます。それはエゼキエル47章の成就です。神殿の敷居とは、まさしくイエス様の十字架であります。その水の流れるところ、すべてのものは生きると書いてあります。多くの人たちは、健康と祝福は天国に行ってからだと言いますが、そうではありません。イエス様は神の国をこの地上に持ってこられたのです。神の国には虚弱や病気、悪魔の束縛はありません。人々は病の癒し、悪霊の解放を体験して、「ああ、神の国が来ている。私もイエス様を信じて、神の国に入りたい」と思ったのです。確かに、この地上では私たちの肉体や環境は完全ではありません。この世の力によって、打ち砕かれ、損害を被ることがあるでしょう。なぜなら、私たちは土の器でできているからです。でも、私たちはこの中に宝を持っています。私たちの弱さが現れるとき、私たちを支えている神の力、神の命が現れる機会になるのです。ハレルヤ!この地上で生きている限り病や悪霊との戦いはあります。しかし、イエス様がそれらに勝利し、十字架で担ってくださいました。私たちは勝利者なるイエス様の後に従っていくのです。片足はこの地上ですが、もう片足はちゃんと天国に入っているのです。アーメン。

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2016年6月10日 (金)

ただおことばを マタイ8:1-13 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.6.12

 マタイはイエス様が「山を降りて来られると」と書いて、新しい展開が始まることを示唆しています。マタイはどちらかと言うと時系列ではなく、テーマ別にまとめています。このマタイ8章と9章は、イエス様がなされた奇蹟を網羅している箇所であります。7章まではイエス様の「驚くべき教え」でありましたが、8章と9章はイエス様の「驚くべきみわざ」が記されています。きょうは2つの癒しについて学びたいと思います。 

1.らい病人の癒し

 新改訳聖書は「ツァラアト」というよく分からない言葉を使っています。これは差別用語をなくすために、旧約聖書のヘブライ語をそのまま使っているのでしょう。新共同訳や口語訳は「らい病」となっています。現代は「ハンセン病」と呼ばれ、もはや不治の病ではなくなりました。しかし、日本でも暗い過去があり、隔離政策が廃止されたのはつい20年前のことです。私は、あえて「らい病」という病名を用いながら、イエス様がなさった奇蹟について語りたいと思います。この病名が出てくるのは、旧約聖書のレビ記であり、祭司が患部を調べて診断を下しました。もし、その病気になるならば隔離され、人々のところに出る場合は「汚れている、汚れている」と叫ばなければなりませんでした。当時、らい病は3つの面で恐ろしい病気でありました。第一は肉体的な問題です。抹消神経が犯され、痛みや熱も感じなくなります。顔や手がだんだん腐っていく恐ろしい病気でした。第二は社会的な問題です。強制的に隔離され、戸籍まで抜かれてしまいました。社会から追放され、存在が消されるということです。第三は宗教的な問題です。「天刑病」と呼ばれ、前世において 悪事を働いた人がなる病気だと思われました。だから聖書では「癒される」ではなく、「きよめられる」と言っています。らい病は、原因が不明で、効果のある薬や治療法が見つからず、長い間、伝染性の不治の病とされていました。きょう登場する人物は、まさしくらい病人だったのです。よく分からないツァラアトではなく、らい病人だったからこそ、聖書の記述に値するのです。

 この箇所から、らい病人の信仰とイエス様のみこころがマッチしてしていることがわかります。彼には信仰がありました。まず、イエス様の前にひれ伏しました。それは明らかに礼拝の行為です。英語の詳訳聖書には「礼拝して」と書いてあります。しかも、彼は「主よ」と呼んでいます。信仰がなれば、そのように呼ぶことはできません。さらに「お心一つで、私をきよくしていただけます」と言いました。この訳は日本人的でとても良いかもしれません。「あなたがちょっと願えば、私の病気はなおります」という含みがあるからです。実際、「お心」はギリシャ語で「欲する」「望む」「願望する」という意味があります。英語ではwill「意志する」となっています。らい病人がAre you willing?と聞きました。すると、イエス様はI am willingと答えたのです。すごいですね。彼は「イエス様がちょっと願えば、この病気は治る」と現在形で願ったのです。イエス様も現在形で答えてくださいました。だから、すぐに彼のらい病はきよめられたのです。イエス様は「ん…不治の病だからな。ちょっと時間がかかるかも」とは言いませんでした。I am willingと言われ、すぐに彼のらい病はきよめられたのです。

 イエス様は1つのことばでも治すことができました。しかし、その前に、イエス様は手を伸ばして、彼にさわられました。その病気になったら、みんなが去って行き、自分も人の中に入ることができません。「私は汚れている、汚れている」と人々に注意を促さなければなりませんでした。彼は、長い間、人と接したことがなかったでしょう。『ベンハー』という映画にもありましたが、彼らは「死の谷」に住んでいました。親戚が橋の上から、食べ物を吊下ろしてくれました。ほら穴から、「がさごそ」と出てきて、食物をあさります。この世の中で不幸な人はいますが、彼らほどではないでしょう。しかし、その人物は勇気を出して、イエス様のところに出て行ったのです。面と向かっては無理なので、ひれ伏して、イエス様の前に転がり込んだのです。イエス様は彼を拒絶するどころか、手を伸ばして彼にさわられました。何というイエス様の愛、何というイエス様のあわれみでしょう。普通の人だったら、「病気が移るかもしれない」と決して触らないでしょう。しかし、イエス様のきよさが、彼の病を圧倒したのです。イエス様から癒されて、3つの分野が回復されました。第一は肉体的な回復です。ナアマン大将も同じ病にかかりました。彼はエリシャに言われてヨルダン川に七たび身を浸しました。「すると、彼のからだは元どおりになって、幼子のようからだのようになり、きよくなった」(Ⅱ列王514と書いてあります。彼の肌もそのようにすべすべになったことでしょう。第二は社会的な回復です。彼は自分の体を祭司に見せた後、社会に復帰することができたでしょう。第三はイエス様から触っていただいたことにより、自分が神から呪われた存在ではなく、愛される存在であることを知ったでしょう。

 イザヤ書1章にはイスラエルの罪がどのようなものであるか記されています。イザヤ16「足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」聖書学者によると、これはらい病人の姿だということです。つまり、罪は、まさしくらい病なんだと言うことです。何が罪なのか分からなくて霊的に無感覚になり、だんだんと死んでいくのです。生まれつきの人間は、まさしくらい病患者と同じです。しかし、そのような私たちを救うためにイエス様が来てくださったのです。イエス様は、ことばだけではなく、手を伸ばして、彼にさわられました。同じように、私たち一人一人にも触れて下さり、罪をきよめ、そして癒してくださるのです。このところから、イエス様の奇蹟の動機が分かります。確かに癒しの奇蹟はご自分がメシヤであることの証です。しかし、それだけではありません。イエス様がらい病患者を癒されたのは、神の愛とあわれみであります。私たちがイエス様を見るとき、神さまは愛とあわれみに満ちたお方だと分かります。Ⅰヨハネ49「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」アーメン。

2.ただおことばを

 後半は百人隊長のしもべの癒しです。まず、この人物がどのような人なのか調べてみたいと思います。当時、ローマでは100人の歩兵を一部隊とし、60隊をもってレギオンを組織しました。百人隊長というのは、文字通り、100人の兵隊の長であります。マタイ18章には、百匹の羊を持つ羊飼いが迷い出た1匹の羊を探し求めるたとえ話があります。彼にはそのような心がありました。ルカ福音書にはもっと詳しく彼のことが記されています。単なるしもべではなく、「百人隊長に重んじられているひとりのしもべ」となっています。使い捨てのしもべではありません。部下を愛し、信頼していた人物です。また、彼はユダヤ人の長老たちからとても慕われていました。彼らはイエス様に「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちたちのために会堂を立ててくれた人です。」と言いました。これは本当に珍しいことです。ユダヤ人は頑固で偏屈な人たちでした。ですから、ローマ兵はユダヤに駐屯したくありませんでした。ところが、百人隊長はユダヤ人から慕われおり、イエス様に「何とかお願いします」と進言したのです。彼らは「そうしていただく資格のある人です」と言いましたが、当人は自分のことをどう思っていたのでしょう?イエス様が彼の家に近づくと、「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」と辞退しました。当時、ユダヤ人は異邦人と交わりませんでした。なぜなら、汚れると思っていたからです。その証拠に、使徒ペテロはコルネリオという百人隊長の家に行くことを躊躇していました(使徒10章)。この百人隊長はとても謙遜な人でした。イエス様が単なるラビではなく、メシヤだと思っていたのかもしれません。ローマがユダヤを支配しているのですから、威張って良いはずです。このように彼は、謙遜で神を恐れる人であり、ユダヤ人からも慕われていました。このように世の中には、謙遜で神を敬う人がいるものです。それは一般恩寵です。しかし、だからと言って、その人がそのまま救われるかというとそうではありません。やはり、イエス様を救い主として信じなければなりません。でも、百人隊長のように神さまによって備えられている魂がいるものです。

 また、百人隊長は信仰の人でした。いくら人格的にすばらしくても「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」(ヘブル116)。彼はどう言ったでしょうか?マタイ88「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」イエス様をラビではなく、「主よ」と呼んでいます。原文はキュリオスとなっています。当時、ローマ皇帝が唯一のキュリオスでした。ところが、彼はイエス様をキュリオスと呼んでいます。そして、「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」と言いました。英語の聖書は、only speak the wordであります。「あなたが、ことばだけ発して下されば、しもべは直ります」という意味です。彼はそのことの理由を述べています。マタイ89「と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」彼はローマの軍隊に属していたので、ことばには力があることを体験的に知っていました。彼は百人隊長でしたが、上には司令官である千人隊長がいました。彼は司令官のことばに従ったことでしょう。また、彼の下には100人の兵士たちがいました。彼らは自分が「行け」と言えば「行く」し、「来い」と言えば「来る」。「これをせよ」言えば、「そのとおりにする」ということです。つまり、自分が発したことばは、必ず実現されるということを知っていたのです。ましてや神の子であるイエス様が「癒されよ」と言ってくれたら、そのとおりになるということです。つまり、彼はことばの力、神の権威とは何かということを知っていたのです。言い換えると「あなたには人間にはない、病を支配する権威があります。だからあなたのおことばを下さい」ということなのです。これにはイエス様もたいそう感動されました。マタイ810「イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」11節と12節には、異邦人が高められ、御国の子らであるイスラエルが低くされています。彼はイスラエル人ではなく、異邦人でした。だが、イスラエル人が持っていないような信仰を持っていたのです。イエス様はそのことを知って、大変驚かれました。

 このところで私たちが学ぶべきことは、イエス様のことばの力です。イエスさまが百人隊長に「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」と言われました。すると、ちょうどその時刻に、そのしもべは癒されたのです。イエス様が彼のところに行って、手を置いたわけではありません。ただ、ことばを送っただけです。すると、同時刻にしもべは癒されたのです。同じような記事がヨハネ4章にもあります。王室の役人が「息子が死にかかっているので下って来て息子を癒してください」と願いました。イエス様は「あなたがたは、しるしと不思議を見ない限り、信じない」(ヨハネ448と不信仰を責めました。彼は「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください」とさらに懇願しました。イエス様は彼に「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」と言われました。彼はイエス様のことばを信じて帰途につきました。後から分かったのですが、子どもが癒されたのは、イエス様が言われた時刻と同じでした。イエス様にとって近いとか、遠いとか距離は問題でありません。たとえ地球の裏側であっても、同時刻に聞かれるのです。マタイは5章から7章まで、イエス様の教えには、権威があるということを記しました。そして、8章のこの箇所では、イエス様のことばには、病を癒す権威があるということを記したのです。しかし、さらに9章まで読んでいくと、イエス様にことばには、悪霊に対しても、自然界に対しても権威があることが記されています。

百人隊長は「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります」と言いました。そして彼のしもべはイエス様のことばによって癒されました。福音派には「みことば信仰」というものがあります。ですから「イエス様を信じたときのみことばは何ですか?」と聞いたりします。私はイエス様を信じれば良いと思います。だから、みことばがあるないは関係ないと思っています。みことばが与えられるときもありますが、そうでもないときもあります。強いて言うなら、「私の救いを保障してくれる聖書のことばはこれです」というものがあれば良いと思います。救いの確信を与えるみことばです。なぜなら、神のみことばは、船の碇のようなものであり、みことばを握っていれば信仰が揺るがないからです。ちなみに、私が「イエス様の弟子になりたい」と自分を捧げたみことばはこれです。ヨハネ146「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」私は物心ついたころから、「人は何のために生きるのか」という疑問に取りつかれました。父や兄弟は「食うために生きる」と言いました。もし、そうであるなら、ただ生き延びるための人生です。「いや、それ以上の目的があるのでは」と心の深いところで探究していました。するとイエス様が「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とおっしゃってくださいました。だから、このお方に人生を捧げるしかないと思ったのです。私たちの信仰が聖書のみことばに土台しているなら何と幸いでしょう。『主我れを愛す』という有名な讃美歌があります。原曲の直訳はこうです。「イエス様が私を愛していることを知っています。なぜなら聖書がそのように言っているからです。」そうです。聖書がそう言っているからです。さらに、きよめ派は「みことばによって聖められる」と言います。彼らは「私がきよめを受けたみことばはこれです」と言います。また、ある人は「結婚のときに、与えられたみことばはこれです」と言います。家を建てるとき、教会を建てるとき、転職をするとき、みことばを適用します。悪くはありません。私も賛成です。聖書からみことばをいただくことはとても重要です。

しかし、いわゆる「みことば信仰」にも限界があります。なぜなら、神さまはみことば以外にも示されるからです。夢、まぼろし、預言、印象などもあります。「みことば信仰」を持つ人たちの多くは、「聖書の啓示はヨハネ黙示録で終わった。神さまは聖書のみことば以外には語らない」と言います。そうでしょうか?私たちの人生には多種多様な出来事が起ります。聖書に示されていないことがらもたくさんあります。私たちが「神さま聖書からだけ語ってください。聖書以外の啓示はいりません」と注文を付けられるでしょうか?神さまは今も生きておられますから、現在も、夢やまぼろし、預言や印象、私たちの思いに語られると信じます。ただし、一般的な神さまのみこころは聖書なので、常に聖書から学び、聖書から聞く必要はあります。また、「みことば信仰」は、みことばだけが一人歩きして、イエス様の人格が伴わない場合があります。みことばとイエス様を分けて考えてはいけません。イエス様は生けるみことばです。言い換えると、みことばは血が通っているということです。私たちは聖書を読んでみことばをいただくだけでは不十分です。イエス様との親しい交わりを通して、イエス様が語ってくれるみことばをいただかなければなりません。今は、聖霊によってイエス様が私たちのところに来られています。イエス様に聞くということは、聖霊様に聞くということでもあります。とにかく、機械的に聖書のみことばをピックアップするのではなく、今、聖霊が私に語られるみことばをいただく必要があります。エマオの途上で復活のイエス様が弟子たちに聖書を説明してくださいました。そのとき彼らの「心が内に燃えていた」と書いてあります。マルチン・ルター、スポルジョン、ジョン・ウェスレーなどが、「心が内に燃える」経験をしています。彼らはキリスト教国で育ち、幼い時から教会に通っていました。しかし、救いの確信がありませんでした。彼らは救いの確信がないのに、人々に伝道し、神さまに仕えていたのです。でも、一人でいたとき、あるいは教会でだれかが語ったとき、「心が内に燃える」経験をしたのです。つまり、みことばによって救いの確信が与えられたのです。それから、彼らは火のように燃やされて伝道し、神さまに仕えました。

詩篇10719-20「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。」とあります。私たちの人生において、仕事や家庭の問題、病や事故、死の恐れがあるでしょう。しかし、主はみことばを送って私たちをいやし、その滅びの穴から私たちを助け出してくださいます。みことばはイエス様ご自身です。みことばは「必ずそうなる」と言う約束のことばです。まだ、問題が解決していなくても、みことばが与えられたらもう大丈夫です。その時が来たら必ず実現します。私たちの責任は何でしょうか?それは日々、聖書読んで、主と交わるということです。主のことばにいつも耳を傾けていましょう。そうすれば、いざとなったとき「ああ、これは主の御声だ」とわかります。だから、普段から主と親しく交わっている必要があります。しかし、思いがけないことも起こるかもしれません。ある時は、百人隊長のように「ただ、おことばを下さい」と願う必要があるでしょう。イエス様は「あなたの信じたとおりになるように」と言われるでしょう。主が私たちと共におられ、私たちの願いにいつも答えてくださることを感謝します。

イエス様は悪魔に対して「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と言いました。このところでいわれている「ことば」はギリシャ語ではレーマです。もう1つの「ことば」はロゴスですが、これは一般的な聖書のことばをさします。私たちは聖書をよむならば、そこには神のことば「ロゴス」が記されています。聖書を読むならば、神さまの一般的なみこころを理解することができます。しかし、聖霊は私たちが読んでいる聖書のみことばを取り上げ、「今、あなたにこのことを語りますよ」と生きたことばを語ってくださいます。このことばこそが「レーマ」であります。私たちに毎日食物が必要なように、毎日霊的な食物であるレーマが必要なのです。特に、病気や困難に直面しているときにはそうです。主からおことばをいただくならば、停滞や恐れや不信仰が打ち砕かれ、ぱーっと信仰がやってきます。このように、今、私にかたってくれる神のことばが必要なのです。そうすれば、霊的な活力が与えられ、私たちは生きるのです。詩篇10719-20「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。」アーメン。私たちも百人隊長のように、「ただ、おことばを下さい」と求めたいと思います。

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2016年6月 3日 (金)

岩の上の人生 マタイ7:21-29 亀有教会牧師鈴木靖尋

 いよいよ本日で「山上の説教」が終わります。きょうのところには、5章から7章までの結論とも言うべきことばが記されています。弟子たちをはじめ人々がイエス様のすばらしい教えを聞きました。イエス様はそれに対して、どう応答するのか求めておられます。この時、イエス様のことばが槍のように、人々の心に突き刺さったのではないでしょうか?今まで、うっとりとして御国の教えを聞いていたのに、最後にこのようなチャレンジを受けるとは思ってもみなかったでしょう。私は礼拝説教において、最後に会衆を脅すようなことはしません。できるだけ希望や励ましで終わるようにしています。しかし、イエス様の場合はちょっと違っていました。 

1.口先だけではなく

 教会では「イエスは主である」という告白をとても重要視しています。Ⅰコリント12章「だれでも聖霊によらなければイエスを主と告白できない」と書いてあるからです。ですから、洗礼式の時は改めて本人に確認を取り、その上で父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授けます。なぜなら、教会はその人が心から信仰を告白したものとみなしているからです。でも、信仰が形骸化し、宗教になってしまうこともありえます。中世ヨーロッパにおいては、キリスト教は国教でした。国民であるなら、主イエスを信じて教会に属さなければなりません。もしそうでないなら、市民権をはく奪されました。だから、心から信じていない人も、教会に属していたのです。では、当時のユダヤはどうでしょうか?すべてのユダヤ人が会堂に属し、主なる神を信じていました。会堂から破門されたら救いをなくすと考えられていました。このところで、イエス様はこのように言われました。マタイ721「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」と言われました。「わたし」というのは、イエス様のことであります。ユダヤ人は創造主であり、イスラエル民族を選ばれた「ヤーゥエ」という「主」を信じていました。ところが、ユダヤ人が「主なる神はイエスである」と告白するのは、大変なことであります。でも、福音書を読むと分かりますが、大勢のユダヤ人がイエス様を主として信じた時がありました。5000人を奇蹟的に養ったときが、人気のピークであり、人々はイエス様を王様にしようとしたくらいです。しかし、イエス様がエルサレムで死ぬと告げたとき、人々は手の平を返すように去って行きました。ある者たちは「十字架につけろ」とまで言いました。まだこのときは、イエス様が登場した頃であって、人々はすばらしい教えを聞いて感動していました。イエス様は、ご自分の説教を聞いて集まっている大群衆に『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではない」とおっしゃったのです。

 大群衆の中に、別のグループがいました。彼らはイスラエルの教師であり、また預言者でした。マタイ722「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』」「その日には」というのは、イエス様の時代だけではなく、世の終わりの時代も含んでいると考えられます。つまり、キリスト教がメインで、クリスチャンでなければ人じゃないという時代です。日本ではそういうことはまだありませんが、ヨーロッパや北アメリカ、あるいは南米では「キリスト教でなければだめだ」という時代がありました。現在は信仰が自由な時代であり、強制されることはまずありません。しかし、キリスト教がもてはやされる時代というのがあるものです。その時はキリスト教を指導する、教師や預言者がもてはやされるでしょう。韓国では今から50年前、牧師は人気がありませんでした。その頃、韓国の梨花女子大に「どういう職業の人と結婚したいか」アンケートをとったそうです。牧師の人気は14番目で、理髪店の次だったそうです。しかし、リバイバルが起こると、牧師は弁護士や医者の次にアップしたそうです。「どの牧師も美人と結婚している」とある牧師が嘆いていました。ですから、イエス様がおっしゃっていることはあながち間違いではありません。でも、このところで言われている教師や預言者とはどんな人物なのでしょうか?「『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』」彼らは、主の御名によって預言をし、悪霊を追い出し、奇蹟を行いました。みんなからも「すごい。大預言者、大伝道者」と呼ばれたに違いありません。しかし、彼らが死んで、イエス様の前に立ったとき、どう言われるのでしょうか?マタイ723「しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」何という恐ろしい言葉でしょうか?もし、私がイエス様から「あなたを全然知らない」言われたならどんなに悲しいでしょう。ぞっとします。

 このところで問題になっている事柄とは何でしょうか?彼らは「主よ、主よ」と言っていました。しかし、それは心からではなく、口先だけだったのです。確かに、Ⅰコリント12章には「だれでも聖霊によらなければイエスを主と告白できない」と書いてあります。でも、嘘・偽りの告白も可能なのです。ティンディルの本には、lip-serviceと書いてありました。lip-serviceというのは、「口先だけの厚意」、「口だけの信心」という意味です。また、J.C.ライルは、「単なる表面上の信仰告白である」と言っています。つまり、そういう人たちは本当に悔い改めて、本当にキリストを信じていないということです。でも、本当なのか嘘なのかどうして分かるのでしょうか?霊的なことなので、本人と神さましかわからないはずです。でも、分かる方法が1つあります。イエス様がおっしゃいました。マタイ720-21「こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」つまり、その人が父のみこころを行っているならば、「ああ、この人は本当に悔い改めて信じている」と分かるのです。なぜなら、行いこそが、救いの実だからです。しかし、それは善い行いをしているという意味ではありません。善い行いについては、マタイ6章で既に述べました。偽善者たちは人前で善い行いをしました。だから、善い行いというよりも、父のみこころを行うということがポイントになります。偽善者たちはパフォーマンスで人々の前で善い行いをしていました。彼らは、人々にほめられたくて会堂や通りで、施し、祈り、断食していたのです。しかし、本当の善い行いは人々の前ではなく、隠れたところで見ておられる父の前で行うべきなのです。もし、人々からの報いを期待して善い行いをするならば、父からの報いは得られません。このように本当の信仰があるならば、真実な行ないが現れてくるということです。

 でも、教師や預言者たちは目覚ましい働きをしました。彼らは、主の名よって預言をし、主の名によって悪霊を追い出し、主の名によって奇蹟をたくさん行いました。本当の信仰がなければ、預言をし、悪霊を追い出し、奇蹟を行うことができないのではないでしょうか?彼ら自身も、「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって行いましたよ」と断言しています。なのに、なぜ、彼らは「あなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け」と言われたのでしょうか?私はこのように思います。確かに悪霊の力で預言したり、奇蹟を行う「にせ教師」や「にせ預言者」はいると思います。おそらく、イエス様を信じていなくても、主の御名を用いるならば、ある程度のことはできます。福音書にもありますが、主の名を勝手に唱えて悪霊を追い出していた人たちがいました(マルコ938)。私は彼らのすべてが「にせ教師」や「にせ預言者」ではないと思います。彼らにはキリストを信じる信仰があったでしょう。一生懸命、神さまの働きをしていたでしょう。しかし、動機が汚れていました。「主の栄光のために」と口では言いながら、自分の栄光のためにやっていたのです。Ⅰコリント3章には「木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で働きの新価をためすからです」とあります。もし、建物が金、銀、宝石であれば残るでしょう。しかし、木、草、わらなどで建てるなら焼けてしまうでしょう。人はうわべを見ますが、主は心を見られます(Ⅰサムエル167)。いくら目覚ましい奉仕をしたとしても、主の前に届かないならば、なんと悲しいことでしょう。端的に申しますと、私たちは善いことをする必要はありません。私たちは主のみこころを行えば良いのです。神さまが手や足がないので、私たちが奉仕をしなければならないのでしょうか?神さまに口がないので、私たちが伝道しなければならないのでしょうか?神さまは全能ですから、私たちの助けなど必要としません。神さまは私たちを通して、ご自分が働きたいのです。神さまは私たちを通して、ご自分が語りたいのです。主役は神さまで、私たちは神さまの器として差し出せば良いのです。彼らは「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか」と言いました。そうではなく、すべての奉仕は、私たちではなく主がなさるのです。「私が行った」ということ自体が間違っているのです。私たちは主の手足であり、主の口なのです。主が私たちを用いてくださるのです。だから、すべての栄光は神さまのものなのです。たとえ、私たちが偉大なことをしたとしても、「ふつつかなしもべです。しなければならないことをしただけです」と言うのです。アーメン。

2.聞くだけではなく

24節からはとても有名なイラストレーションが記されています。クリスチャンであるなら、「岩の上に建てた家と砂の上に建てた家の物語」は知っていると思います。でも、意外と知らないことがあるかもしれません。つまり、聖書を読んではいても、先入観をもって読んでいるからです。ある人たちはこのように解釈するでしょう。「岩とはキリストである。岩の上に自分の家を建てるということは、キリストを信じている人のことである。一方、砂の上に自分の家を建てるとはキリストを信じていない未信者のことである。」と。しかし、このところには彼らに信仰があったかどうかは記されていません。一番の違いは、イエス様のことばを聞いてそれを行ったか、行なわなかったということです。第一のポイントでも申し上げましたが、イエス様の周りには弟子たちや群衆、そしてイスラエルの教師や預言者たちもいたでしょう。そして、山の上で御国の教えを聞きました。イエス様は律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えました。他の人たちは「聖書にこう書いてある」とみことばを引用しました。しかし、イエス様は「わたしはこう言う」と直接的に語りました。なぜなら、イエス様ご自身が神のことばであり、聖書の著者だからです。だから人々がその権威に圧倒され、驚いたのです。まさしく、その権威はイエス様が神であることの証拠であります。人々はイエス様から直接、生ける言葉を聞いたのです。それは単なる解説ではありません。人生の根幹を揺るがすいのちのことばだったのです。ですから、弟子たちも群衆も、教師や預言者たちもイエス様のことばに魅了され、いつまでもそこにとどまっていたかったと思いました。つまり、ずっとずっと、イエス様の説教を聞いていたかったのです。でも、イエス様は「聞くだけではだめなんだ。私のことばを聞いて行いなさい」とおっしゃりたかったのです。だから、このたとえを話されたのです。

 キリスト教会の歴史をたどるとたくさんの神学や信条を積み重ねてきました。なぜなら、たくさんの異端が出てきて、理論武装する必要があったからです。また、大きなリバイバルが起こると、「これこそが真実だ」と新たな神学や信条を構築しました。教会の中にどのような考えが生まれたでしょう?「正しい教理を教えるならば、人々は正しい信仰生活をする。だから、教会は正しい教理を教え、信徒はそれを学ぶ必要がある。」ということです。言い換えると、「無知はだめであり、聖書の知的な勉強こそが最も大切なんだ」ということです。しかし、それは本当でしょうか?教育にも言えますが、人が知識を得るならば、正しい生活ができるのでしょうか?同じように、クリスチャンが聖書を学び、知識を得るならば、正しい信仰生活ができるのでしょうか?残念ながら、それはノーであります。ヤコブは「行いのない信仰は死んだものである」と言いました。ヤコブ122「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」ヤコブはイエス様のたとえと同じことを言っています。群衆および教会の会衆には二種類の人がいるということです。一種類は聞くだけの人です。英語ではhearerとなっています。もう一種類は聞いて行う人たちです。英語ではdoerとなっています。

さて、この両者に同じことが起ります。注目すべき事は、岩の上に家を建てた人にも、砂の上に家を建てた人にも災害が及んだということです。「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けた」と25節にも27節にも書いてあります。嵐における洪水とは、人生における様々な苦しみや迫害を象徴しています。私たちは神さまを信じていても、この世の人と同じように、病の洪水、悲しみの洪水、貧困の洪水、失望の洪水、死別の洪水に見舞われることがあるのです。足元が洪水で流されると、私たちが何の上に人生を構築しているかはっきりします。当時の建物は現代と違って、石でできていました。日本の家屋は木造ですから、基礎がしっかりしていても、洪水が来たら家ごと流されてしまうでしょう。しかし、石でできているので、洪水にはびくともしません。ただし、洪水によって基礎の部分が流されてしまいます。もし、砂の上に建てていたなら、全部流されてしまい倒れてしまうでしょう。イエス様は「しかもそれはひどい倒れ方でした」とおっしゃっています。イエス様は地上では大工でしたので、そのことがよく分かっていたのです。一方、岩の上に建てられた家は、洪水が来て、足元が流されてしまいました。ところが、くっきりと岩と土台が露出して、「ああ、これならば大丈夫だ」とだれの目にも明らかになったことでしょう。数か月前、常総地区で河川が氾濫したことがあります。テレビにも映っていましたが、白い家が水に流されずに立っていました。隣の家が流されましたが、白い家にぶつかり、それで隣の住民も助かったそうです。後から、「あの白い家はなんだったんだ」と話題になりました。その家は、地中に18本のくいを打ち込み、コンクリートの基礎にしました。その上に鉄骨2階建て、コンクリートの壁材を張りました。だから、濁流によって家と地面との隙間の土が流されても、基礎がしっかりしていたので流されなかったのです。白い家の持ち主は家の中に留まり、後で、ヘリコプターで救出されました。私たちにも信仰があるないに関わらず、人生の嵐や洪水が押し寄せてくるということです。そのとき、真価が試されるのです。

では、重要なことは何なのでしょうか?それはイエス様のことばを行うこと、実践するということです。この世は、知性偏重の文化です。だから、教会も聖書的な知識があれば、正しい信仰生活が送れると錯覚しているのです。もっと聖書を勉強しなければ、もっと神学的な知識を得なければならないと思います。しかし、そうすればするほど、「まだ、足りない」「まだ不十分だ」という恐れがやってきます。しかし、私たちはもっと信仰生活はシンプルであることを覚えなければなりません。それは「みことばを行う」ということです。「信仰生活は、神さまのみことばに生きることです。アーメン」これが、イエス様の弟子として生きる姿勢であります。聖霊様がみことばを教え、聖霊様がみことばを行う力を与えてくださるのです。私は聖書を解き明かして語る説教者であります。どうしても神学的で崇高な教えをしたいという誘惑にかられます。でも、神さまは私に学問的な知識や理解力を与えてくれませんでした。30代、日本基督教団の正教師になるためにたくさんの本を読みました。まるで哲学書のようであり、読んでいく先から、忘れていきます。ほとんど頭に残らないのです。それでどうしたかと言うと、自動車免許のように質問を作り、それを解くというかたちにしました。過去問から、自分で問題を作り、その答えを暗記したわけです。そうしたら、見事合格しました。でも、頭にはほとんど残っていません。私が最も影響を受けたのは、ディボーションであります。1990年からディボーションの内容をずっとノートに付けています。何が違うかというと、聖書から教えをいただくことは同じです。違うのは、適用を考えるということです。教えをいただいても、それを行ないなら不従順の罪を犯すという考えがありました。聖書から教えをいただくことは案外簡単です。しかし、実生活においてその教えを実行するというのは別の問題です。結婚したての頃は、よく家内と言い争いをしました。結婚して、女性は違う惑星の生き物ではないかと思いました。ある時、心をとらえた聖書のことばがありました。Ⅰテモテ28「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」とありました。Ⅰテモテ2章を見ると分かりますが、女性に対しては、7節の教えがあります。パウロは女性を教えるためになんと7節も使いました。しかし、男性はたった1節です。それだけ男性は女性より単純にできているということです。「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」アーメン。まだ、怒ったり言い争ったりすることはありますが、かなりセーブされてはいます。

 このようにみことばをただ聞くだけではなく、実際に行なうとどうなるのでしょうか?それは霊的な筋肉が強くなるということです。この世では、肉体のエクササイズということを言います。筋肉は使わないと衰えてしまうそうです。ですから、エクササイズが必要だということです。私も「ワンダーコア」というのをヤフー・オクションで購入しました。いつまで続くか分かりませんが、腹筋と背筋を鍛えています。同じように、みことばを1つでも、実行するならば、霊的な筋肉がついてくるということです。霊的な筋肉がつくとどうなるのでしょうか?人生の起こる様々な嵐や洪水を乗り越えることができるのです。雨が激しく打ち付けても平気です。激流が押し寄せてきても平気です。しかし、おなじクリスチャンでもみことばの知識だけで、行ないがないならばどうでしょうか?砂の上に建てた家のように、簡単に流されてしまうでしょう。イエス様は「この世はわざわいであり、つまずきが起こるのは避けられない」(マタイ187と言われました。また、「世にあっては患難があります」(ヨハネ1633とも言われました。人生の嵐はだれにでもやくるのです。しかし、普段からみことばを行っているならば、「思いがけないことが起きてしまったと」つまずくことはありません。その人は、かえってイエス様に信頼し、「神を愛する者に約束された、いのちの冠を受ける」者となるのです(ヤコブ112)。私たちは今、世の終わりの時代に生きています。ますます世の中は混迷し、人々の愛が冷え、悪がはびこるでしょう。また、私たちに対する迫害が増し加わるでしょう。だからこそ、私たちは神さまのみことばに土台し、みことばを行う者となりたいと思います。主は私たちと共におられ、みことばに伴うしるしをもって私たちを励ましてくださいます。アーメン。

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