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2016年6月24日 (金)

大自然を支配されるお方 マタイ8:18-27 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.6.26

 マタイ8章と9章にはイエス様がなされた奇蹟がまとめて書かれています。ところが、奇蹟とは思えないことが2つ含まれています。それは、本日、学ぶ「弟子への召命」と「マタイの召命」の記事であります。おそらくマタイは、自分が弟子として従うことができたのは奇蹟であると言いたかったのでしょう。しかし、中には弟子として従えない人たちも出てくるはずです。それでは、奇蹟になりません。マタイはあえて、コントラストをつけるためにそういう人たちのことを記したのかもしれません。きょうは2つのメッセージになっていますが、信仰という点では共通しています。 

1.弟子への召命

 イエス様がガリラヤ湖の向こう岸に行く前に、二人の人に出会いました。おそらく、この二人は舟には乗らなかったのでしょう。初期の頃は、向こうから志願する者やイエス様が召した者がいたはずであります。最初出てくる人物は律法学者です。マタイ8:19 そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」

すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」このところだけではありませんが、イエス様の会話というのは、無駄なところがありません。無駄なところがない代わりに、ぎくしゃくしているようにも思えます。私だったら「あなたは立派な覚悟をお持ちですね」と、まずほめるでしょう。しかし、イエス様は神さまですから、その人が何を考えているかすべてお見通しです。ですから、無駄なところがなく、直球勝負であります。まず、この人はイエス様を「先生」と呼びました。英語の聖書ではmasterであります。一見、何も問題がないように思えます。彼は律法学者ですから、もっと知的に上達させて下さる教師を求めていたのでしょう。しかし、イエス様は教師以上のお方です。後で出てきますが、舟でガリラヤ湖に向かった弟子たちはイエス様を「主よ」と呼んでいます。英語ではLordであり、神さまを示唆する呼び名です。しかし、彼はイエス様を「先生」と呼びました。

 恐らくイエス様は彼の心を見抜いていたと思われます。確かに覚悟は立派ですが、頭だけで経験不足でした。そして、彼の心配は生活の安定でした。今で言うなら、ちゃんと給料はいただけるだろうか?住まいは与えられるだろうか?雇用保険や厚生面はどうだろうか?車はあるだろうか?彼は「この方について行けば、生活も保障されて、なおかつ学問を積むことができる」と考えていたのでしょう。だからイエス様はいきなり、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」とおっしゃったのです。「人の子」というのは、人間という意味の他に、神という意味が隠されています。つまり、「私には寝る場所もないけれど、あなたもそうなりますよ」と言うことです。これを聞いて律法学者は後ずさりしたでしょう。「私は学者志望なので、書斎も欲しいし、本も置きたい。なのに、住むところがないなんて!」とがっかりしたでしょう。イエス様の教え方は、いわゆる教室スタイルではなく、on the jobトレーニングでした。何かあった時、道端で教える教え方です。イエス様の教え方と、神学校の教え方とは全く違っていました。今の神学校は西洋のカリキュラムを取り入れ、単位を取ったら卒業できます。しかし、イエス様は一応教えますが、出来事に遭遇したときに「これはどういう意味なのか」と考えさせます。イエス様が与えるのは学問的な知識というよりも、体験的な知識であります。自転車や水泳もそうですが、体験的な知識は一度身に着けると忘れません。しかし、テストのために詰め込んだ知識は、テストが終わったら消えてなくなります。彼が学問を横に置き、「枕するところがなくたって平気です。on the jobトレーニングで結構です」とイエス様を信頼して着いていくならば別です。つまり、「住む家がなくても、食っていけなくてもあなたに着いて行きます」という信仰があればイエス様の弟子になれたでしょう。覚悟も必要ですが、最後は信仰の問題です。

 私は洗礼を受けて半年後、仕事をやめて直接献身したいと思いました。私を導いてくれた職場の先輩は牧師になるためにアメリカの神学校に行くつもりでした。私にはそういうコネがないので、「とりあえず日本の神学校で良いや」と思いました。動機が不純でしたが、大川牧師に掛け合ったら、「志願兵」として認めてくれました。私は本科ではなく、基礎科に入学しました。先輩の方は、アメリカに留学できず牧師の道も閉ざされてしまいました。私は1年間学んで、もう1年は聴講しました。同級生が本科で学んでいるので少し寂しい思いがしました。私は信徒献身者として、教会で働くことになりました。教会には半地下があったので、バザーの残り品をどかしてそこで寝ました。お風呂はソーラーシステムのお湯が仕えたので、教会の裏でシャワーを浴びました。ちょうど、キャバレーの店主をやめて献身した田中兄もいたので、「シャワーも良いかなー」と思いました。やがて京子さんと結婚しましたが、彼女は牧師と結婚したいと思ったのでしょう。そのことも、ささげたのだと思います。私も何とかアメリカの神学校に行って牧師になりたいと思いましたが、それもささげました。そうすると、後から目黒の聖契神学校で学ぶ道が開かれました。卒業後、当亀有教会から招聘が来て牧師になったわけです。聖書に出てくる律法学者のように、生活の心配がなかったわけではありません。しかし、「神さまにささげれば、経済的な問題もきっと解決してくれる」という信仰の訓練になりました。弟子として、一番重要なことは、どんなことがあってもイエス様に着いて行くということです。

 もう一人の人物は、恐らくイエス様の方から弟子に召したのだと思います。マタイ821-22 また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」聖書の他の箇所では「あなたの父と母を敬いなさい」と命じられていますが、愛がないような感じがします。イエス様はマタイ10章で「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。…自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」と言われました。肉親の情とイエス様に従うこと、どちらを第一にすべきなのでしょうか?自分の十字架を負うとは、弟子として支払うべき代価があるということです。彼はイエス様に召されたとき、「はい」と言ったんです。しかし、「はい」と言いながら、「主よ。まず行って」excuse(免除する、退出を許す)しています。このところで問題になっているのは、何を優先させるかであります。ルカ福音書にはもっと詳しく書かれています。ルカ960-62すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」彼は、「主よ。あなたに従います。」とはっきり言っています。言っていながら、「ただその前に」とexcuseしています。これは従っていないことになります。彼は神さまからテストされているのです。肉親よりも、イエス様に従って行けるか、自分の十字架を負って従って行けるかというテストです。イエス様はさらに、何とおっしゃったでしょう?イエス様は「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい」と言われました。おそらく家の者はまだ生きていたと思われます。しかし、イエス様が「死人たち」とおっしゃっているのは、霊的に死んでいるということです。もし、彼が家に帰ったならどうなるでしょう。おそらく、家族や親せきが「だれがこの家を継ぐのか、だれが畑を耕すのか?」と、彼を引き留めることでしょう。イエス様はそのことを知っていたのです。だから、「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」とおっしゃったのです。

 ここにはイエス様に従えなかった二人の弟子について記されています。最初の人は、生活の保障ということでした。次の人は、肉親の情ということでした。どちらも、大切な課題です。でも、イエス様の弟子として従うためには、それらのものは後まわしにすべきなんだということです。結局、彼らは弟子として従うことはできなかったでしょう。今日の教会は「イエス様を信じればクリスチャンになれる」と言います。でも、キリストの弟子になるためには、生活の保障とか肉親の情など支払うべき代価があるということです。「自分の十字架を負わなくても、信じればクリスチャンになれる」というのは福音の安売りかもしれません。私も福音の安売りをしている牧師の一人のような気がします。だから、洗礼を受けたあとで離れる人がたくさんいるのかもしれません。私たちは福音書を読むとき、クリスチャンとはイエス様を救い主として信じるだけでは不十分なんだと分かります。もし、それだけだったら、困った時だけ従って、あとは自分の好みで生きるでしょう。しかし、本当のクリスチャンとはイエス様を主と仰ぎ、イエス様に従っていくことなんだということです。つまり、クリスチャンはイエス様を信じるだけではなく、弟子として従っていく要素があるんだということです。このように信仰と従順は、コインの裏表のように分けることができないということを理解したいと思います。

2.大自然を支配されるお方 

 前半のメッセージは「代価を払ってでもイエス様に従う」ことが1つの信仰の局面でした。後半はどのような信仰を教えているのでしょうか?マタイ823-25イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」前の18節を見ますと、イエス様は弟子たちに湖の向こう岸に渡る準備をするように命じておられます。弟子たちの何人かはガリラヤ湖の漁師なので、持ち舟があったと思います。ガリラヤ湖は海抜よりも200メートル位低い位置にありました。そのため、気圧の変化により急に嵐が起こることがあったようです。しかし、彼らは漁師だったので、大概の嵐では驚かなかったと思います。ところが湖の途中まで来ると、大暴風が起こって、舟は大波をかぶりました。舟の中に水が入ってきて、沈没寸前になりました。イエス様の方を見るとどうでしょう?イエスさまは舟の後ろで眠っているではありませんか?マルコ4章には「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」と書いてあります。まるで、イエス様を非難しているように聞こえます。それにしても、弟子たちは「この状況、イエス様だったら、何とかしてくれるのでは?」という希望があったのかもしれません。プロの漁師が何もできないのに、大工のイエス様が一体何ができるのでしょうか?

 マタイ826-27イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」弟子たちの驚きは、ただごとではありませんでした。マルコ4章には「彼らは大きな恐怖に包まれた」と書いてあります。「まさか、嵐を静めることのできるなんて!」と下顎がだらんと下がった状態でありました。そのとき弟子たちは、「ああ、このお方はただ者ではない、もしかしたら神さまなんだろうか?」と思ったのです?このような奇蹟を体験すると、人は恐怖に包まれ「わなわな」となって立っていられないものです。しかし、理解できないのはイエス様の弟子たちに対することばです。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」もしかしたら、信仰があれば大暴風を恐れなくて良いのでしょうか?現実には、舟に水がどんどん入り込み、沈没してしまいます。彼らは漁師だったので、どのくらい水が舟に入れば沈むか知っていました。しかし、信仰と大暴風と何の関係があるのでしょう。私たちは「信仰とは奇蹟的に嵐を乗り越えること」あるいは「イエス様のようにみことばによって嵐を沈めること」と考えるかもしれません。確かに聖書には「力あるわざ」、「奇蹟の賜物」というのがあります。イエス様が、弟子たちが奇蹟の賜物を使うことを期待していたのでしょうか?私はそうでないと思います。注目すべきことは、イエス様は舟の中で眠っておられたということです。大暴風の中におけるイエス様の態度こそが、信仰だと思います。

 では、イエス様はどのような信仰を持っておられたのでしょうか?私は「イエス様は父なる神が共におられるから大丈夫だ」という信仰があったと思います。イエス様は何をするにも父なる神に従っておられました。この時も、ガリラヤ湖の向こうに渡るのは父のみこころであると確信していました。そして、弟子たちに「向こう岸に渡るんだ」と言われたでしょう。ところが、突然、大暴風が起りました。しかし、イエス様は舟の中で、安らいで眠っておられました。弟子が起こさないと起きないくらい熟睡していました。私はイエス様が大暴風の中で安らいで眠っておられたのは2つの理由があったからだと思います。第一は「私には父なる神が共におられる」という信仰です。それは「父なる神の御手の中にあるから大丈夫だ」という信仰です。第二は「私は全宇宙を父なる神と共に造った神であるという自覚」であります。それは自分が創造者なので大自然を支配できるという信仰です。これらは、神の子であるイエス様だけの信仰であります。私たちはイエス様と同じ信仰を持てと言われても無理です。でも、なぜイエス様は「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」とおっしゃったのでしょう?それは、この2つの信仰を持っておられるイエス様が共にいるから大丈夫に違いないという信仰であります。父なる神がイエス様と共におられ、大自然よりも力ある創造者が共におられるという信仰です。簡単に言うと、「イエス様が一緒の舟にいるんだから私の人生は大丈夫だ」ということです。不信仰とは、イエス様と一緒におぼれて死ぬかもしれないと思うことです。疑り深いトマスはこう言っています。ヨハネ1116 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」かつての日本軍の「玉砕」のように、一緒に死ぬのが信仰ではありません。「主が共にいるなら大丈夫、主が必ずなんとかしてくださる」というのが信仰であります。

大川牧師が少年の頃、夜、お墓の前を通るのがとても怖かったそうです。学校とお家の間に、お墓があったのかもしれません。昼間だったら大丈夫ですが、夜は灯りもなくて通るのが怖かったのでしょう。大川少年は、お兄ちゃんと一緒のときは心配です。なぜなら、お兄ちゃんも怖いので、早く走ります。「お兄ちゃん、待ってよー」と言っても待ってくれません。大川少年は、取り残されまいと必死に走るでしょう。でも、お父さんの場合は平気です。お父さんがおんぶしてくれて、お墓の前を通過してくれます。墓の前で、降ろしたりは決してしません。大川少年は目をつぶって、父親の背中にすがみついています。この例証は、私たち信仰とは何かということを教えてくれます。もしも、人生という船に主イエス様が共におられるならどうでしょうか?イエス様が一緒だったら、どんな嵐も大丈夫ではないでしょうか?聖歌472番に「人生の海のあらしに」という賛美があります。この曲は、葬儀の前夜式のときに必ずと言って良いほど歌う賛美です。「人生の海のあらしにもまれきしこの身も、不思議なる神の手により命びろいしぬ。いと静けき港につき、我は今やすろう。救い主、イエスの手にある身はいともやすし。」まさしく、私たちの人生は嵐の連続です。聖歌472番を見ると、この曲の出所が詩篇107篇であることがわかります。詩篇10727-30「彼らは酔った人のようによろめき、ふらついて分別が乱れた。この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。主があらしを静めると、波はないだ。波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。」この詩篇はまるで、イエス様が弟子たちになされた預言のような箇所です。ですから、マタイ8章の記事は単なる奇蹟ではなく、イエス様がメシヤであることのしるしとも考えられます。

 弟子たちはこのような奇蹟を体験して、イエス様はメシヤであり、神さまであるという信仰が与えられたのではないでしょうか。私たちが弟子になるとき、「本当にこのお方に私の人生を任せて良いのだろうか?」という疑いがあるでしょう。教会に初めて来た人は、「本当にこの牧師に私の人生を任せて良いのだろうか?」と思うかもしれません。しかし、ある人は「この牧師は信じられない」と躓くかもしれません。ま、それでもかまいませんが、「牧師が信じて従っているイエス様は大丈夫だ。このお方なら信じられる」と思ってくれたらありがたいです。理想を言えば、「牧師もイエス様も信じられる。私の人生を任せられる」ということです。でも、神さまはある場合、牧師という人間を通して、イエス様と出会うように仕向けているところもあります。だれでも、イエス様が直接自分に現れて「私に従って来なさい」と言えば、文句のつけようがありません。しかし、イエス様が直接現れて、肉声で語ってくださるのはほとんどありません。今、神学校に言っておられる吉田大悟兄弟のように、1000人に一人くらいはいるかもしれません。多くの場合、教会に来て、聖書からのメッセージにふれることが手助けになります。もちろん、自分で聖書を読んでいる途中、賛美の途中、祈りの途中に信じる人が多いでしょう。人から勧められて信じる人もいます。このように多くの場合は、何かを媒介にして信仰に導かれることが多いと思います。でも、最終的にはイエス様を信じ、イエス様に従うということが重要です。その時、問われることが、生活の安定や肉親の情よりも、イエス様を第一にして従って行けるかということです。救われるためには条件などありません。でも、その信仰が本物であるかどうか、必ずテストされることがあります。そのテストの究極は自分の十字架を負ってイエス様に従えるかどうかであります。つまり、「私は代価を払ってでも、イエス様を信じていく」という信仰であります。こんなことを言うと「信仰って大変な覚悟がいるんだなー」と退いてしまう方もいるかもしれません。

でも、信仰というのは「私たちから神さまへ」という方向だけではありません。「イエス様から私たちへ」という方向もあるということです。イエス様が弟子たちにしたように、イエス様は必ず私たちを召してくださいます。この召しがなければ、だれ一人としてイエス様のところに来ることはできません。イエス様はヨハネ6章でこのように言われました。ヨハネ644「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」アーメン。つまり、信仰とはイエス様の召しに対して、私たちが従えるかどうかということです。イエス様はご自分のもとに来る人たちを決して拒絶しません。イエス様はいつも真実であり、信仰に満ちておられます。このイエス様を救い主として信じ、また人生の主として従う人が、本当の信仰を持って救いに至ることができるのです。私たちは一回でこのような信仰を持つことができないかもしれません。しかし、弟子たちのようにたくさんの奇蹟、たくさんの神体験を積んで、私たちの信仰が堅固にされていくのではないかと思います。

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