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2016年6月17日 (金)

病を癒す力 マタイ8:14-17 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.6.19

 マタイ7章の終わりには、イエス様の教えに権威があったので人々が恐れたと書かれています。そして、マタイ8章と9章には、イエス様がなされた力あるみわざが記されています。イエス様の力と権威は、どのような分野に現れているのでしょうか?きょうはイエス様がなされた病の癒しと悪霊の追い出しについて学びたいと思います。ある人たちは「科学や医学が発達していない時代だったので、このようなことが書かれているんだ」と言います。それでは、科学や医学が発達している現代において、すべての病が癒され、人間の不可解な行動が解決されているのでしょうか?人間は最高の霊長類、理性的な生き物だと言われていますが、動物にも劣るような愚かなことをしているのではないでしょうか?背後に見えない霊的な力が働いているとしか思えません。 

1.ペテロのしゅうとめの癒し

 マタイ、マルコ、ルカ、3つの福音書がこの出来事を記しています。これは、1つの病の癒しではなく、カペナウムで行われた特記すべき出来事でした。他の福音書を見ると分かりますが、その日は安息日であり、イエス様が会堂で教えました。その日の午後、ペテロとアンデレの家に立ち寄ったのであります。その家で、ペテロのしゅうとめが熱病のために床についていました。このところから分かることは、ペテロは結婚していたということです。ローマ・カトリックはペテロを初代の首長としてあがめています。それなのに、神父や司祭など、神に仕える者は妻帯が禁じられています。そこには矛盾があります。その点、プロテスタントの牧師は結婚できます。使徒パウロは独身でしたが、「もし、自制できなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚する方が良い」(Ⅰコリント79と言いました。私も自制できず、情の燃えるよりは結婚した範疇に入ります。でも、なぜペテロのしゅうとめが自分の家ではなく、ペテロの家にいたのでしょうか?彼女は「熱病で床についていた」と書かれています。当時の熱病には、通常の風邪のようなものから、腸チフスやマラリヤのような伝染病、脳腫瘍や癌の末期のような病気までありました。当時は病院のような施設がなかったので、しゅうとめをペテロの妻がいるお家に連れてきて、みんなで看病していたのではないかと思います。マルコ130「シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた」と書かれています。おそらく、家族や親族がイエス様にお願いしたのでしょう。

 マタイ815「イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。」彼女の病気が瞬時に直りました。そして、彼女は起きてイエス様をもてなしました。病気にかかると、体力がなくなり、節々が痛むでしょう。全快までは、しばらく養生しなければなりません。しかし、彼女に病み上がりの症状は全くなく、ロボットのように立ち上がり、イエス様をもてなしました。喜びと感謝の気持ちが分からない訳でもありませんが、そこまでできるのでしょうか?興味深いのは、イエス様の癒し方であります。マタイ福音書はイエス様が彼女の手にさわっただけです。マルコによる福音書は「彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき」と書かれています。しかし、ルカによる福音書はちょっと違います。ルカ439「イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。」とあります。ルカは医者ですから、もっと詳しく書いているようです。イエスさまは彼女の手をさわったのですが、そのとき「熱よ去れ」と命じたのでしょう。そんな大きな声ではなく、囁いたくらいなので他の福音書には書かれていないのだと思います。つまり、イエス様の病に対する癒しには、力だけではなく権威も伴っているということです。このところで注目すべきことは、イエス様は父なる神さまに「どうかペテロのしゅうとめの病を癒してください」と祈っていないということです。彼女の手を取り、熱をしかりつけたのであります。彼女自身ではなく、彼女を支配している熱病をしかりつけたのであります。この背後には、人間を病気が支配しているのは正常ではなく、いまわしいことなんだという考えがあります。そして、彼女が直ちに癒されて、奉仕をしたということは、御国(神の国)がイエス様と共に来ている証拠であります。御国には病気は存在しません。イエス様はペテロの家に、御国をもたらしたのです。だから、しゅうとめは直ちに癒され、喜びのゆえにイエス様をもてなしたのです。そのニュースが近所に知れ渡り、人々は病人や悪霊につかれた人たちをペテロの家に運んできました。

 人間的に考えますと、ペテロのしゅうとめは、ペテロに対して不満を持っていたかもしれません。なぜなら、「近頃、現れたナザレのイエスとらやに着いて行っているようだけど大丈夫だろうか?漁をしないで、家を空けて、うちの娘に苦労をかけているんじゃないのだろうか?」そのようには書かれていません。現代風に言ったら、「宗教に凝ってしまった。宗教にかぶれてしまった」ということです。日本人は「何事もほどほどにしなければいけない。宗教に凝ったらあかん。危ない」と言うでしょう。しゅうとめから見たなら、ペテロはまさしくそのように見えたのではないでしょうか?でも、彼女自身は熱病にかかって、どうしようもありませんでした。人様のやっかいになっている状況であります。ところがイエス様が自分の手をとって、起こしてもらうとどうでしょう?とたんに熱が下がり、体力まで回復しました。「いやー、この方は本物のメシヤだ。救い主だ」と心から思ったのではないでしょうか?だから、彼女はじっとしていることができず、イエス様をもてなしたのであります。彼女は「自分にできることはこれしかない」と給仕をしたのです。私たちは頭で考えると、キリスト教という1つの宗教になります。世の中の人たちは、頭で遠くから考えています。なぜなら、近寄るとミイラ取りがミイラになるからです。でも、彼女のようにイエス様を体験しなければなりません。聖書にCome and dine「来て、食せ」(ヨハネ2112)とあります。食べなければ分からない世界があるということです。どうぞイエス様を頭ではなく、全身で体験しましょう。

2.病の癒しと悪霊の追い出し

 マタイ816「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。」なぜ、夕方になって人々がやって来たのでしょうか?実はペテロの家にやって来たのは、安息日の午後でした。当時、安息日は、働いてはいけない日であり、歩いて良い距離は1キロぐらいでした。そして、ユダヤでは日没から日の出までが1日でした。ですから、夕方、つまり日が没して、安息日が明けたので人々が遠くからやって来たのです。足元が見える朝まで待てば良かったのでしょうが、イエス様がペテロの家にいるという情報を得て、矢も楯もたまらずやって来たのでしょう。まず、このところには二種類の人たちがいることが分かります。悪霊につかれた者たちと病気の人々です。ある人たちは、病気はすべて悪霊から来ていると言います。しかし、それは極端です。福音書には「また」あるいは「と」と別のこととして書かれているからです。もちろん、ある病は悪霊から来るものもあります。聖書には「病の霊」と書かれているところがあります。でも、すべての病が、悪霊が起因していると考えるのは行き過ぎであります。聖書によると、すべての病は、人間が神から離れ罪を犯したからです。創世記3章で、アダムは神さまから「あなたは土に帰る」と言われました。罪のゆえに、すべての人間が死ぬようになりました。病気は死を弱くしたかたちと言えるでしょう。死が解決しない限り、また病気も解決しないということです。また、「土地がのろわれ、いばらとあざみが生えた」ということから、人間を害する病原菌やウィルスが生じたのではないかと想像できます。

 まず、「人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た」とあります。「悪霊につかれる」をギリシャ語では、ダイモニゾマイと言います。辞書は「悪鬼に憑かれている」「人に憑いてその心を支配し、また病気、ことに精神病を起こさせるものと信ぜられていた」と書かれています。しかし、「悪霊につかれた」という表現は誤解を招くことばです。英語の聖書もpossessed(所有された、占有された)と書かれています。しかし、それは行き過ぎです。マタイ8章後半には人格まで乗っ取られたガダラ人が出てきますが、それは彼らのように極端な人たちのことです。多くの場合は、身体か魂か霊の一部を握られていると考えるべきです。魂には、知性、感情、意志があります。知性に働くとその人は欺かれます。感情に働くと情緒不安定になります。意志に働くとどうでしょうか?はっきり言えませんが、人を赦さなかったり、悔い改めていない罪があったりするとある部分が支配されます。霊の場合は、偶像礼拝や占いをすると霊的な束縛が起こると思います。また、肉体の場合は、ある種の病気になります。性的な罪や麻薬などでも肉体が犯されることがあると思います。とにかく、悪霊はその人が持っている罪や家系の咎を足場にして、その人のある部分を支配するのです。肉体を支配すればその人は病気になり、魂を支配すればその人は混乱し、霊を支配すればその人はまことの神から離れるでしょう。このところを見て驚くことは、「悪霊につかれた人というのは大ぜいいるものだ」ということです。現代は、教会でも「前時代的なものだ」と悪霊の存在を認めていないところがあります。しかし、そうではないと私は思います。2000前、悪霊につかれた者が大ぜいいたのですから、現代も同じように大ぜいいると信じます。イエス様はご自分の権威によって、悪霊どもをその人たちの中から追い出しました。彼らは解放されて、神さまから与えられた人生をエンジョイすることができたでしょう。

 それでは病の癒しはどうでしょうか?マルコ134「イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をいやし」とあります。当時は現代と違って、ワクチンや抗生物質がありません。天然痘、ペスト、肺結核などの恐ろしい病気もありました。また、風土病と言われるコレラやマラリヤもあったでしょう。聖書には中風の人が出てきますが、後遺症のために苦しんでいる人もいたでしょう。目や耳、肢体などに障害を持った人たちもいました。てんかんなど、神経的なものもあります。医学が発達している現代であっても病院は満員であります。国民医療費は5兆円で、国家予算の0.6%にあたります。家庭でも健康保険や薬、通院費は馬鹿になりません。今よりも病院や薬のない時代は、病の癒しはものすごくニーズがあったように思います。20年くらい前にアルゼンチンでリバイバルが起りました。そのとき、近眼が癒され、新しい歯が生えたそうです。その講師が、日本でも同じような癒しの祈りをしましたが、ほとんど起りませんでした。なぜなら、日本人は「メガネや歯医者があるからなー」と必死に求めません。しかし、現代でもインドやアフリカ、中国の奥地など、お金も病院もないとこころでは、そのような癒しがばんばん起こるようです。福音書を見ると分かりますが、イエス様の「病の癒しと悪霊追い出し」はかなりのウェートを占めています。間違いなく、イエス様のミニストリーの大部分を占めていました。

 問題は、「病の癒しや悪霊の追い出しを今日の私たちもしなければならないのか?」ということです。ある教会では医学が発達した今日は、もはや必要でないと言います。病気のときは、ちょっとだけ祈りますが、「良い病院を紹介します」と言うかもしれません。私は福音宣教と病の癒しと悪霊追い出しはセットになっており、切り離すことはできないと考えています。「福音宣教をしなくても良い」という教会は1つもないでしょう。でも、「癒しと悪霊追い出し」をしない教会はたくさんあります。なぜなら、あまり祈っても効果がないからです。いのちのことば社の『チェーン式聖書』にはこのように書かれています。「キリスト教会の発達当時は、まだ未成熟の時代であり、教会と確証のために、目を見張るような、御霊の賜物による働きが必要であった。しかし、新約聖書が完成した今は、そのような賜物の必要性は消えた」(Ⅰコリント13章)と書かれています。しかし、それは「スコフィールドの時代区分」を強調し過ぎた、全くの間違いであり、訂正すべき内容です。ヘブル138「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」イエス様は聖霊によって私たちのところに来られて、癒しと解放をなさってくださいます。イエス様が弟子たちに「病を癒し、悪霊を追い出せ」と、何度も命じられました。天国にお帰りになられる直前も「全世界に福音を宣べ伝えなさい」と命じられただけではなく、「私の名によって悪霊を追い出し…病人に手をおけばいやされます」と保障されました。だから、イエス様が再臨されるまで、病人がいる限り、私たちは病の癒しをしなければならないのです。

3.預言の成就としての癒し

 マタイ817「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらい(虚弱)を引き受け、私たちの病を背負った。』」このような表現は、マタイによる福音書の独特な表現であることを一番最初に申しあげたことがあります。つまり、病の癒しや悪霊追い出しは、イエスがメシヤであることのしるしであり、預言の成就なんだということです。しかも、マタイはイザヤ書を引用して、「彼は私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」と言っています。これはイザヤ書53章からの引用なのですが、旧約聖書はちょっと違います。イザヤ534キング・ジェームス欽定訳はSurely He has borne our griefs And carried our sorrows;直訳すると、「彼は私たちの嘆きと悲しみを担われた」となっています。ここには、病ということばがひとこともありません。おそらく、70人訳というユダヤ人がギリシャ語になおすとき、「わずらい」とか「病」に変えたのだと思います。なぜそんなことがと思って、ちょっとだけ調べてみました。原文のヘブル語では虚弱infirmitiesと悲しみになっています。新共同訳は「病と痛み」とはっきり訳しています。結論的には、イエス様は十字架上で、私たちの精神的な苦しみだけではなく、肉体の苦しみである病も負ってくださったということです。キリスト教会では、イエス様が私たちの罪と呪いを十字架で負ってくださったということを信じます。つまり、十字架による罪の贖いをだれもが認めています。しかし、病の癒しとなると、それは別問題だという人がクリスチャンの中にもいます。三浦綾子先生はすばらしい福音的な文学作家です。しかし、彼女は、病は神さまからのプレゼントだと言いました。また、ある人は「教会は病の癒しのために祈るのはおかしい。なぜなら、神さまがすべてが最善になるように支配しておられるからだ」と言います。

 しかし、マタイ817とイザヤ534をそのまま見るとどうなるでしょうか?イエス様が十字架で罪だけではなく、虚弱や病を背負ってくださったと理解すべきではないでしょうか?つまり、罪と同じで、イエス様は私たちの虚弱や病も負ってくださった、完了しているということです。そうなると、私たちの祈り方が全く違ってきます。「イエス様、あなたが2000年前、十字架で私の病を負ってくださってありがとうございます。私がこのように病の中にいるのはありえないことです。どうか、あなたのみことばどおり、私の病を取り除き、完全に癒してください」と祈ることができます。ある人が「クリスチャンは病気で死ぬのではなく、神さまが召されたときに死ぬのだ」と言いました。ですから、クリスチャンは「病に倒れた」とは言わず、「神さまが天にお召しになられたのだ」と言うべきなのです。もちろん、病院やお医者さんは診断書に病名や死因を書くでしょう。それはこの世の人たちの見方であります。私たちには聖書からの、信仰の見方があるんだということです。この世の人たちは「死んだ」とか「どこかへ旅立った」と言うでしょう。でも、私たちは「神さまがご自分のところに召してくださった」と言うべきです。この肉体は私という本体の入れ物であり、土の器なんだということを忘れないようにしたいと思います。でも、イエス様は私たちが病気にならないで、死ぬまで健康にいられることを願っておられます。たとえば、長血をわずらった女性にイエス様はこう言われました。マルコ534後半「病気にかからず、すこやかでいなさい。」アーメン。また、使徒ヨハネはガイオにこのように言っていますⅢヨハネ2「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」アーメン。間違いなく、健康であることが神さまのみこころであることがわかります。このところに、「病は主の訓練である」と言ってはいけません。なぜなら、どんな親が自分の子どもに「すこし病気になって、反省しなさい」と言うでしょうか?もちろん、不摂生とか薬物によって健康を害して、悔い改める場合があるでしょう。しかし、それは例外であります。「ヨブ記のヨブの病」、「パウロの肉体の刺」も例外であります。私たちは例外を神のみこころにしてはいけません。父なる神さまの願いは、私たちが健康で神さまの使命を果たすことであります。その証拠に、イエス様は病気になられたことがありません。イエス様は私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負って下さいました。しかし、そのためにイエス様が病気になられたということが、聖書に一言も書かれていません。イエス様はすべてのわずらいとすべての病に打ち勝ち、健康であったということは確かな事実だと思います。

 私の結論としては、イエス様は私たちの罪だけではなく、病も負ってくださったということです。つまり、イエス様の十字架の贖いの中には、病の癒しも含まれているということです。パウロはガラテヤ313-14「なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり」と言いました。ですから、私たちは肉体の健康だけではなく、アブラハムの全人的な祝福も受けることができるのです。つまり、肉体の健康はもとより、経済的に祝され、家庭や職場のあらゆる人間関係においても祝され、尾にはならず頭になるということです。私たちの祝福と癒しは、イエス様の十字架のもとから流れてきます。それはエゼキエル47章の成就です。神殿の敷居とは、まさしくイエス様の十字架であります。その水の流れるところ、すべてのものは生きると書いてあります。多くの人たちは、健康と祝福は天国に行ってからだと言いますが、そうではありません。イエス様は神の国をこの地上に持ってこられたのです。神の国には虚弱や病気、悪魔の束縛はありません。人々は病の癒し、悪霊の解放を体験して、「ああ、神の国が来ている。私もイエス様を信じて、神の国に入りたい」と思ったのです。確かに、この地上では私たちの肉体や環境は完全ではありません。この世の力によって、打ち砕かれ、損害を被ることがあるでしょう。なぜなら、私たちは土の器でできているからです。でも、私たちはこの中に宝を持っています。私たちの弱さが現れるとき、私たちを支えている神の力、神の命が現れる機会になるのです。ハレルヤ!この地上で生きている限り病や悪霊との戦いはあります。しかし、イエス様がそれらに勝利し、十字架で担ってくださいました。私たちは勝利者なるイエス様の後に従っていくのです。片足はこの地上ですが、もう片足はちゃんと天国に入っているのです。アーメン。

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