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2016年6月10日 (金)

ただおことばを マタイ8:1-13 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.6.12

 マタイはイエス様が「山を降りて来られると」と書いて、新しい展開が始まることを示唆しています。マタイはどちらかと言うと時系列ではなく、テーマ別にまとめています。このマタイ8章と9章は、イエス様がなされた奇蹟を網羅している箇所であります。7章まではイエス様の「驚くべき教え」でありましたが、8章と9章はイエス様の「驚くべきみわざ」が記されています。きょうは2つの癒しについて学びたいと思います。 

1.らい病人の癒し

 新改訳聖書は「ツァラアト」というよく分からない言葉を使っています。これは差別用語をなくすために、旧約聖書のヘブライ語をそのまま使っているのでしょう。新共同訳や口語訳は「らい病」となっています。現代は「ハンセン病」と呼ばれ、もはや不治の病ではなくなりました。しかし、日本でも暗い過去があり、隔離政策が廃止されたのはつい20年前のことです。私は、あえて「らい病」という病名を用いながら、イエス様がなさった奇蹟について語りたいと思います。この病名が出てくるのは、旧約聖書のレビ記であり、祭司が患部を調べて診断を下しました。もし、その病気になるならば隔離され、人々のところに出る場合は「汚れている、汚れている」と叫ばなければなりませんでした。当時、らい病は3つの面で恐ろしい病気でありました。第一は肉体的な問題です。抹消神経が犯され、痛みや熱も感じなくなります。顔や手がだんだん腐っていく恐ろしい病気でした。第二は社会的な問題です。強制的に隔離され、戸籍まで抜かれてしまいました。社会から追放され、存在が消されるということです。第三は宗教的な問題です。「天刑病」と呼ばれ、前世において 悪事を働いた人がなる病気だと思われました。だから聖書では「癒される」ではなく、「きよめられる」と言っています。らい病は、原因が不明で、効果のある薬や治療法が見つからず、長い間、伝染性の不治の病とされていました。きょう登場する人物は、まさしくらい病人だったのです。よく分からないツァラアトではなく、らい病人だったからこそ、聖書の記述に値するのです。

 この箇所から、らい病人の信仰とイエス様のみこころがマッチしてしていることがわかります。彼には信仰がありました。まず、イエス様の前にひれ伏しました。それは明らかに礼拝の行為です。英語の詳訳聖書には「礼拝して」と書いてあります。しかも、彼は「主よ」と呼んでいます。信仰がなれば、そのように呼ぶことはできません。さらに「お心一つで、私をきよくしていただけます」と言いました。この訳は日本人的でとても良いかもしれません。「あなたがちょっと願えば、私の病気はなおります」という含みがあるからです。実際、「お心」はギリシャ語で「欲する」「望む」「願望する」という意味があります。英語ではwill「意志する」となっています。らい病人がAre you willing?と聞きました。すると、イエス様はI am willingと答えたのです。すごいですね。彼は「イエス様がちょっと願えば、この病気は治る」と現在形で願ったのです。イエス様も現在形で答えてくださいました。だから、すぐに彼のらい病はきよめられたのです。イエス様は「ん…不治の病だからな。ちょっと時間がかかるかも」とは言いませんでした。I am willingと言われ、すぐに彼のらい病はきよめられたのです。

 イエス様は1つのことばでも治すことができました。しかし、その前に、イエス様は手を伸ばして、彼にさわられました。その病気になったら、みんなが去って行き、自分も人の中に入ることができません。「私は汚れている、汚れている」と人々に注意を促さなければなりませんでした。彼は、長い間、人と接したことがなかったでしょう。『ベンハー』という映画にもありましたが、彼らは「死の谷」に住んでいました。親戚が橋の上から、食べ物を吊下ろしてくれました。ほら穴から、「がさごそ」と出てきて、食物をあさります。この世の中で不幸な人はいますが、彼らほどではないでしょう。しかし、その人物は勇気を出して、イエス様のところに出て行ったのです。面と向かっては無理なので、ひれ伏して、イエス様の前に転がり込んだのです。イエス様は彼を拒絶するどころか、手を伸ばして彼にさわられました。何というイエス様の愛、何というイエス様のあわれみでしょう。普通の人だったら、「病気が移るかもしれない」と決して触らないでしょう。しかし、イエス様のきよさが、彼の病を圧倒したのです。イエス様から癒されて、3つの分野が回復されました。第一は肉体的な回復です。ナアマン大将も同じ病にかかりました。彼はエリシャに言われてヨルダン川に七たび身を浸しました。「すると、彼のからだは元どおりになって、幼子のようからだのようになり、きよくなった」(Ⅱ列王514と書いてあります。彼の肌もそのようにすべすべになったことでしょう。第二は社会的な回復です。彼は自分の体を祭司に見せた後、社会に復帰することができたでしょう。第三はイエス様から触っていただいたことにより、自分が神から呪われた存在ではなく、愛される存在であることを知ったでしょう。

 イザヤ書1章にはイスラエルの罪がどのようなものであるか記されています。イザヤ16「足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」聖書学者によると、これはらい病人の姿だということです。つまり、罪は、まさしくらい病なんだと言うことです。何が罪なのか分からなくて霊的に無感覚になり、だんだんと死んでいくのです。生まれつきの人間は、まさしくらい病患者と同じです。しかし、そのような私たちを救うためにイエス様が来てくださったのです。イエス様は、ことばだけではなく、手を伸ばして、彼にさわられました。同じように、私たち一人一人にも触れて下さり、罪をきよめ、そして癒してくださるのです。このところから、イエス様の奇蹟の動機が分かります。確かに癒しの奇蹟はご自分がメシヤであることの証です。しかし、それだけではありません。イエス様がらい病患者を癒されたのは、神の愛とあわれみであります。私たちがイエス様を見るとき、神さまは愛とあわれみに満ちたお方だと分かります。Ⅰヨハネ49「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」アーメン。

2.ただおことばを

 後半は百人隊長のしもべの癒しです。まず、この人物がどのような人なのか調べてみたいと思います。当時、ローマでは100人の歩兵を一部隊とし、60隊をもってレギオンを組織しました。百人隊長というのは、文字通り、100人の兵隊の長であります。マタイ18章には、百匹の羊を持つ羊飼いが迷い出た1匹の羊を探し求めるたとえ話があります。彼にはそのような心がありました。ルカ福音書にはもっと詳しく彼のことが記されています。単なるしもべではなく、「百人隊長に重んじられているひとりのしもべ」となっています。使い捨てのしもべではありません。部下を愛し、信頼していた人物です。また、彼はユダヤ人の長老たちからとても慕われていました。彼らはイエス様に「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちたちのために会堂を立ててくれた人です。」と言いました。これは本当に珍しいことです。ユダヤ人は頑固で偏屈な人たちでした。ですから、ローマ兵はユダヤに駐屯したくありませんでした。ところが、百人隊長はユダヤ人から慕われおり、イエス様に「何とかお願いします」と進言したのです。彼らは「そうしていただく資格のある人です」と言いましたが、当人は自分のことをどう思っていたのでしょう?イエス様が彼の家に近づくと、「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」と辞退しました。当時、ユダヤ人は異邦人と交わりませんでした。なぜなら、汚れると思っていたからです。その証拠に、使徒ペテロはコルネリオという百人隊長の家に行くことを躊躇していました(使徒10章)。この百人隊長はとても謙遜な人でした。イエス様が単なるラビではなく、メシヤだと思っていたのかもしれません。ローマがユダヤを支配しているのですから、威張って良いはずです。このように彼は、謙遜で神を恐れる人であり、ユダヤ人からも慕われていました。このように世の中には、謙遜で神を敬う人がいるものです。それは一般恩寵です。しかし、だからと言って、その人がそのまま救われるかというとそうではありません。やはり、イエス様を救い主として信じなければなりません。でも、百人隊長のように神さまによって備えられている魂がいるものです。

 また、百人隊長は信仰の人でした。いくら人格的にすばらしくても「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」(ヘブル116)。彼はどう言ったでしょうか?マタイ88「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」イエス様をラビではなく、「主よ」と呼んでいます。原文はキュリオスとなっています。当時、ローマ皇帝が唯一のキュリオスでした。ところが、彼はイエス様をキュリオスと呼んでいます。そして、「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」と言いました。英語の聖書は、only speak the wordであります。「あなたが、ことばだけ発して下されば、しもべは直ります」という意味です。彼はそのことの理由を述べています。マタイ89「と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」彼はローマの軍隊に属していたので、ことばには力があることを体験的に知っていました。彼は百人隊長でしたが、上には司令官である千人隊長がいました。彼は司令官のことばに従ったことでしょう。また、彼の下には100人の兵士たちがいました。彼らは自分が「行け」と言えば「行く」し、「来い」と言えば「来る」。「これをせよ」言えば、「そのとおりにする」ということです。つまり、自分が発したことばは、必ず実現されるということを知っていたのです。ましてや神の子であるイエス様が「癒されよ」と言ってくれたら、そのとおりになるということです。つまり、彼はことばの力、神の権威とは何かということを知っていたのです。言い換えると「あなたには人間にはない、病を支配する権威があります。だからあなたのおことばを下さい」ということなのです。これにはイエス様もたいそう感動されました。マタイ810「イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」11節と12節には、異邦人が高められ、御国の子らであるイスラエルが低くされています。彼はイスラエル人ではなく、異邦人でした。だが、イスラエル人が持っていないような信仰を持っていたのです。イエス様はそのことを知って、大変驚かれました。

 このところで私たちが学ぶべきことは、イエス様のことばの力です。イエスさまが百人隊長に「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」と言われました。すると、ちょうどその時刻に、そのしもべは癒されたのです。イエス様が彼のところに行って、手を置いたわけではありません。ただ、ことばを送っただけです。すると、同時刻にしもべは癒されたのです。同じような記事がヨハネ4章にもあります。王室の役人が「息子が死にかかっているので下って来て息子を癒してください」と願いました。イエス様は「あなたがたは、しるしと不思議を見ない限り、信じない」(ヨハネ448と不信仰を責めました。彼は「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください」とさらに懇願しました。イエス様は彼に「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」と言われました。彼はイエス様のことばを信じて帰途につきました。後から分かったのですが、子どもが癒されたのは、イエス様が言われた時刻と同じでした。イエス様にとって近いとか、遠いとか距離は問題でありません。たとえ地球の裏側であっても、同時刻に聞かれるのです。マタイは5章から7章まで、イエス様の教えには、権威があるということを記しました。そして、8章のこの箇所では、イエス様のことばには、病を癒す権威があるということを記したのです。しかし、さらに9章まで読んでいくと、イエス様にことばには、悪霊に対しても、自然界に対しても権威があることが記されています。

百人隊長は「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります」と言いました。そして彼のしもべはイエス様のことばによって癒されました。福音派には「みことば信仰」というものがあります。ですから「イエス様を信じたときのみことばは何ですか?」と聞いたりします。私はイエス様を信じれば良いと思います。だから、みことばがあるないは関係ないと思っています。みことばが与えられるときもありますが、そうでもないときもあります。強いて言うなら、「私の救いを保障してくれる聖書のことばはこれです」というものがあれば良いと思います。救いの確信を与えるみことばです。なぜなら、神のみことばは、船の碇のようなものであり、みことばを握っていれば信仰が揺るがないからです。ちなみに、私が「イエス様の弟子になりたい」と自分を捧げたみことばはこれです。ヨハネ146「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」私は物心ついたころから、「人は何のために生きるのか」という疑問に取りつかれました。父や兄弟は「食うために生きる」と言いました。もし、そうであるなら、ただ生き延びるための人生です。「いや、それ以上の目的があるのでは」と心の深いところで探究していました。するとイエス様が「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とおっしゃってくださいました。だから、このお方に人生を捧げるしかないと思ったのです。私たちの信仰が聖書のみことばに土台しているなら何と幸いでしょう。『主我れを愛す』という有名な讃美歌があります。原曲の直訳はこうです。「イエス様が私を愛していることを知っています。なぜなら聖書がそのように言っているからです。」そうです。聖書がそう言っているからです。さらに、きよめ派は「みことばによって聖められる」と言います。彼らは「私がきよめを受けたみことばはこれです」と言います。また、ある人は「結婚のときに、与えられたみことばはこれです」と言います。家を建てるとき、教会を建てるとき、転職をするとき、みことばを適用します。悪くはありません。私も賛成です。聖書からみことばをいただくことはとても重要です。

しかし、いわゆる「みことば信仰」にも限界があります。なぜなら、神さまはみことば以外にも示されるからです。夢、まぼろし、預言、印象などもあります。「みことば信仰」を持つ人たちの多くは、「聖書の啓示はヨハネ黙示録で終わった。神さまは聖書のみことば以外には語らない」と言います。そうでしょうか?私たちの人生には多種多様な出来事が起ります。聖書に示されていないことがらもたくさんあります。私たちが「神さま聖書からだけ語ってください。聖書以外の啓示はいりません」と注文を付けられるでしょうか?神さまは今も生きておられますから、現在も、夢やまぼろし、預言や印象、私たちの思いに語られると信じます。ただし、一般的な神さまのみこころは聖書なので、常に聖書から学び、聖書から聞く必要はあります。また、「みことば信仰」は、みことばだけが一人歩きして、イエス様の人格が伴わない場合があります。みことばとイエス様を分けて考えてはいけません。イエス様は生けるみことばです。言い換えると、みことばは血が通っているということです。私たちは聖書を読んでみことばをいただくだけでは不十分です。イエス様との親しい交わりを通して、イエス様が語ってくれるみことばをいただかなければなりません。今は、聖霊によってイエス様が私たちのところに来られています。イエス様に聞くということは、聖霊様に聞くということでもあります。とにかく、機械的に聖書のみことばをピックアップするのではなく、今、聖霊が私に語られるみことばをいただく必要があります。エマオの途上で復活のイエス様が弟子たちに聖書を説明してくださいました。そのとき彼らの「心が内に燃えていた」と書いてあります。マルチン・ルター、スポルジョン、ジョン・ウェスレーなどが、「心が内に燃える」経験をしています。彼らはキリスト教国で育ち、幼い時から教会に通っていました。しかし、救いの確信がありませんでした。彼らは救いの確信がないのに、人々に伝道し、神さまに仕えていたのです。でも、一人でいたとき、あるいは教会でだれかが語ったとき、「心が内に燃える」経験をしたのです。つまり、みことばによって救いの確信が与えられたのです。それから、彼らは火のように燃やされて伝道し、神さまに仕えました。

詩篇10719-20「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。」とあります。私たちの人生において、仕事や家庭の問題、病や事故、死の恐れがあるでしょう。しかし、主はみことばを送って私たちをいやし、その滅びの穴から私たちを助け出してくださいます。みことばはイエス様ご自身です。みことばは「必ずそうなる」と言う約束のことばです。まだ、問題が解決していなくても、みことばが与えられたらもう大丈夫です。その時が来たら必ず実現します。私たちの責任は何でしょうか?それは日々、聖書読んで、主と交わるということです。主のことばにいつも耳を傾けていましょう。そうすれば、いざとなったとき「ああ、これは主の御声だ」とわかります。だから、普段から主と親しく交わっている必要があります。しかし、思いがけないことも起こるかもしれません。ある時は、百人隊長のように「ただ、おことばを下さい」と願う必要があるでしょう。イエス様は「あなたの信じたとおりになるように」と言われるでしょう。主が私たちと共におられ、私たちの願いにいつも答えてくださることを感謝します。

イエス様は悪魔に対して「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と言いました。このところでいわれている「ことば」はギリシャ語ではレーマです。もう1つの「ことば」はロゴスですが、これは一般的な聖書のことばをさします。私たちは聖書をよむならば、そこには神のことば「ロゴス」が記されています。聖書を読むならば、神さまの一般的なみこころを理解することができます。しかし、聖霊は私たちが読んでいる聖書のみことばを取り上げ、「今、あなたにこのことを語りますよ」と生きたことばを語ってくださいます。このことばこそが「レーマ」であります。私たちに毎日食物が必要なように、毎日霊的な食物であるレーマが必要なのです。特に、病気や困難に直面しているときにはそうです。主からおことばをいただくならば、停滞や恐れや不信仰が打ち砕かれ、ぱーっと信仰がやってきます。このように、今、私にかたってくれる神のことばが必要なのです。そうすれば、霊的な活力が与えられ、私たちは生きるのです。詩篇10719-20「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。」アーメン。私たちも百人隊長のように、「ただ、おことばを下さい」と求めたいと思います。

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