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2016年6月 3日 (金)

岩の上の人生 マタイ7:21-29 亀有教会牧師鈴木靖尋

 いよいよ本日で「山上の説教」が終わります。きょうのところには、5章から7章までの結論とも言うべきことばが記されています。弟子たちをはじめ人々がイエス様のすばらしい教えを聞きました。イエス様はそれに対して、どう応答するのか求めておられます。この時、イエス様のことばが槍のように、人々の心に突き刺さったのではないでしょうか?今まで、うっとりとして御国の教えを聞いていたのに、最後にこのようなチャレンジを受けるとは思ってもみなかったでしょう。私は礼拝説教において、最後に会衆を脅すようなことはしません。できるだけ希望や励ましで終わるようにしています。しかし、イエス様の場合はちょっと違っていました。 

1.口先だけではなく

 教会では「イエスは主である」という告白をとても重要視しています。Ⅰコリント12章「だれでも聖霊によらなければイエスを主と告白できない」と書いてあるからです。ですから、洗礼式の時は改めて本人に確認を取り、その上で父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授けます。なぜなら、教会はその人が心から信仰を告白したものとみなしているからです。でも、信仰が形骸化し、宗教になってしまうこともありえます。中世ヨーロッパにおいては、キリスト教は国教でした。国民であるなら、主イエスを信じて教会に属さなければなりません。もしそうでないなら、市民権をはく奪されました。だから、心から信じていない人も、教会に属していたのです。では、当時のユダヤはどうでしょうか?すべてのユダヤ人が会堂に属し、主なる神を信じていました。会堂から破門されたら救いをなくすと考えられていました。このところで、イエス様はこのように言われました。マタイ721「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」と言われました。「わたし」というのは、イエス様のことであります。ユダヤ人は創造主であり、イスラエル民族を選ばれた「ヤーゥエ」という「主」を信じていました。ところが、ユダヤ人が「主なる神はイエスである」と告白するのは、大変なことであります。でも、福音書を読むと分かりますが、大勢のユダヤ人がイエス様を主として信じた時がありました。5000人を奇蹟的に養ったときが、人気のピークであり、人々はイエス様を王様にしようとしたくらいです。しかし、イエス様がエルサレムで死ぬと告げたとき、人々は手の平を返すように去って行きました。ある者たちは「十字架につけろ」とまで言いました。まだこのときは、イエス様が登場した頃であって、人々はすばらしい教えを聞いて感動していました。イエス様は、ご自分の説教を聞いて集まっている大群衆に『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではない」とおっしゃったのです。

 大群衆の中に、別のグループがいました。彼らはイスラエルの教師であり、また預言者でした。マタイ722「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』」「その日には」というのは、イエス様の時代だけではなく、世の終わりの時代も含んでいると考えられます。つまり、キリスト教がメインで、クリスチャンでなければ人じゃないという時代です。日本ではそういうことはまだありませんが、ヨーロッパや北アメリカ、あるいは南米では「キリスト教でなければだめだ」という時代がありました。現在は信仰が自由な時代であり、強制されることはまずありません。しかし、キリスト教がもてはやされる時代というのがあるものです。その時はキリスト教を指導する、教師や預言者がもてはやされるでしょう。韓国では今から50年前、牧師は人気がありませんでした。その頃、韓国の梨花女子大に「どういう職業の人と結婚したいか」アンケートをとったそうです。牧師の人気は14番目で、理髪店の次だったそうです。しかし、リバイバルが起こると、牧師は弁護士や医者の次にアップしたそうです。「どの牧師も美人と結婚している」とある牧師が嘆いていました。ですから、イエス様がおっしゃっていることはあながち間違いではありません。でも、このところで言われている教師や預言者とはどんな人物なのでしょうか?「『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』」彼らは、主の御名によって預言をし、悪霊を追い出し、奇蹟を行いました。みんなからも「すごい。大預言者、大伝道者」と呼ばれたに違いありません。しかし、彼らが死んで、イエス様の前に立ったとき、どう言われるのでしょうか?マタイ723「しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」何という恐ろしい言葉でしょうか?もし、私がイエス様から「あなたを全然知らない」言われたならどんなに悲しいでしょう。ぞっとします。

 このところで問題になっている事柄とは何でしょうか?彼らは「主よ、主よ」と言っていました。しかし、それは心からではなく、口先だけだったのです。確かに、Ⅰコリント12章には「だれでも聖霊によらなければイエスを主と告白できない」と書いてあります。でも、嘘・偽りの告白も可能なのです。ティンディルの本には、lip-serviceと書いてありました。lip-serviceというのは、「口先だけの厚意」、「口だけの信心」という意味です。また、J.C.ライルは、「単なる表面上の信仰告白である」と言っています。つまり、そういう人たちは本当に悔い改めて、本当にキリストを信じていないということです。でも、本当なのか嘘なのかどうして分かるのでしょうか?霊的なことなので、本人と神さましかわからないはずです。でも、分かる方法が1つあります。イエス様がおっしゃいました。マタイ720-21「こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」つまり、その人が父のみこころを行っているならば、「ああ、この人は本当に悔い改めて信じている」と分かるのです。なぜなら、行いこそが、救いの実だからです。しかし、それは善い行いをしているという意味ではありません。善い行いについては、マタイ6章で既に述べました。偽善者たちは人前で善い行いをしました。だから、善い行いというよりも、父のみこころを行うということがポイントになります。偽善者たちはパフォーマンスで人々の前で善い行いをしていました。彼らは、人々にほめられたくて会堂や通りで、施し、祈り、断食していたのです。しかし、本当の善い行いは人々の前ではなく、隠れたところで見ておられる父の前で行うべきなのです。もし、人々からの報いを期待して善い行いをするならば、父からの報いは得られません。このように本当の信仰があるならば、真実な行ないが現れてくるということです。

 でも、教師や預言者たちは目覚ましい働きをしました。彼らは、主の名よって預言をし、主の名によって悪霊を追い出し、主の名によって奇蹟をたくさん行いました。本当の信仰がなければ、預言をし、悪霊を追い出し、奇蹟を行うことができないのではないでしょうか?彼ら自身も、「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって行いましたよ」と断言しています。なのに、なぜ、彼らは「あなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け」と言われたのでしょうか?私はこのように思います。確かに悪霊の力で預言したり、奇蹟を行う「にせ教師」や「にせ預言者」はいると思います。おそらく、イエス様を信じていなくても、主の御名を用いるならば、ある程度のことはできます。福音書にもありますが、主の名を勝手に唱えて悪霊を追い出していた人たちがいました(マルコ938)。私は彼らのすべてが「にせ教師」や「にせ預言者」ではないと思います。彼らにはキリストを信じる信仰があったでしょう。一生懸命、神さまの働きをしていたでしょう。しかし、動機が汚れていました。「主の栄光のために」と口では言いながら、自分の栄光のためにやっていたのです。Ⅰコリント3章には「木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で働きの新価をためすからです」とあります。もし、建物が金、銀、宝石であれば残るでしょう。しかし、木、草、わらなどで建てるなら焼けてしまうでしょう。人はうわべを見ますが、主は心を見られます(Ⅰサムエル167)。いくら目覚ましい奉仕をしたとしても、主の前に届かないならば、なんと悲しいことでしょう。端的に申しますと、私たちは善いことをする必要はありません。私たちは主のみこころを行えば良いのです。神さまが手や足がないので、私たちが奉仕をしなければならないのでしょうか?神さまに口がないので、私たちが伝道しなければならないのでしょうか?神さまは全能ですから、私たちの助けなど必要としません。神さまは私たちを通して、ご自分が働きたいのです。神さまは私たちを通して、ご自分が語りたいのです。主役は神さまで、私たちは神さまの器として差し出せば良いのです。彼らは「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか」と言いました。そうではなく、すべての奉仕は、私たちではなく主がなさるのです。「私が行った」ということ自体が間違っているのです。私たちは主の手足であり、主の口なのです。主が私たちを用いてくださるのです。だから、すべての栄光は神さまのものなのです。たとえ、私たちが偉大なことをしたとしても、「ふつつかなしもべです。しなければならないことをしただけです」と言うのです。アーメン。

2.聞くだけではなく

24節からはとても有名なイラストレーションが記されています。クリスチャンであるなら、「岩の上に建てた家と砂の上に建てた家の物語」は知っていると思います。でも、意外と知らないことがあるかもしれません。つまり、聖書を読んではいても、先入観をもって読んでいるからです。ある人たちはこのように解釈するでしょう。「岩とはキリストである。岩の上に自分の家を建てるということは、キリストを信じている人のことである。一方、砂の上に自分の家を建てるとはキリストを信じていない未信者のことである。」と。しかし、このところには彼らに信仰があったかどうかは記されていません。一番の違いは、イエス様のことばを聞いてそれを行ったか、行なわなかったということです。第一のポイントでも申し上げましたが、イエス様の周りには弟子たちや群衆、そしてイスラエルの教師や預言者たちもいたでしょう。そして、山の上で御国の教えを聞きました。イエス様は律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えました。他の人たちは「聖書にこう書いてある」とみことばを引用しました。しかし、イエス様は「わたしはこう言う」と直接的に語りました。なぜなら、イエス様ご自身が神のことばであり、聖書の著者だからです。だから人々がその権威に圧倒され、驚いたのです。まさしく、その権威はイエス様が神であることの証拠であります。人々はイエス様から直接、生ける言葉を聞いたのです。それは単なる解説ではありません。人生の根幹を揺るがすいのちのことばだったのです。ですから、弟子たちも群衆も、教師や預言者たちもイエス様のことばに魅了され、いつまでもそこにとどまっていたかったと思いました。つまり、ずっとずっと、イエス様の説教を聞いていたかったのです。でも、イエス様は「聞くだけではだめなんだ。私のことばを聞いて行いなさい」とおっしゃりたかったのです。だから、このたとえを話されたのです。

 キリスト教会の歴史をたどるとたくさんの神学や信条を積み重ねてきました。なぜなら、たくさんの異端が出てきて、理論武装する必要があったからです。また、大きなリバイバルが起こると、「これこそが真実だ」と新たな神学や信条を構築しました。教会の中にどのような考えが生まれたでしょう?「正しい教理を教えるならば、人々は正しい信仰生活をする。だから、教会は正しい教理を教え、信徒はそれを学ぶ必要がある。」ということです。言い換えると、「無知はだめであり、聖書の知的な勉強こそが最も大切なんだ」ということです。しかし、それは本当でしょうか?教育にも言えますが、人が知識を得るならば、正しい生活ができるのでしょうか?同じように、クリスチャンが聖書を学び、知識を得るならば、正しい信仰生活ができるのでしょうか?残念ながら、それはノーであります。ヤコブは「行いのない信仰は死んだものである」と言いました。ヤコブ122「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」ヤコブはイエス様のたとえと同じことを言っています。群衆および教会の会衆には二種類の人がいるということです。一種類は聞くだけの人です。英語ではhearerとなっています。もう一種類は聞いて行う人たちです。英語ではdoerとなっています。

さて、この両者に同じことが起ります。注目すべき事は、岩の上に家を建てた人にも、砂の上に家を建てた人にも災害が及んだということです。「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けた」と25節にも27節にも書いてあります。嵐における洪水とは、人生における様々な苦しみや迫害を象徴しています。私たちは神さまを信じていても、この世の人と同じように、病の洪水、悲しみの洪水、貧困の洪水、失望の洪水、死別の洪水に見舞われることがあるのです。足元が洪水で流されると、私たちが何の上に人生を構築しているかはっきりします。当時の建物は現代と違って、石でできていました。日本の家屋は木造ですから、基礎がしっかりしていても、洪水が来たら家ごと流されてしまうでしょう。しかし、石でできているので、洪水にはびくともしません。ただし、洪水によって基礎の部分が流されてしまいます。もし、砂の上に建てていたなら、全部流されてしまい倒れてしまうでしょう。イエス様は「しかもそれはひどい倒れ方でした」とおっしゃっています。イエス様は地上では大工でしたので、そのことがよく分かっていたのです。一方、岩の上に建てられた家は、洪水が来て、足元が流されてしまいました。ところが、くっきりと岩と土台が露出して、「ああ、これならば大丈夫だ」とだれの目にも明らかになったことでしょう。数か月前、常総地区で河川が氾濫したことがあります。テレビにも映っていましたが、白い家が水に流されずに立っていました。隣の家が流されましたが、白い家にぶつかり、それで隣の住民も助かったそうです。後から、「あの白い家はなんだったんだ」と話題になりました。その家は、地中に18本のくいを打ち込み、コンクリートの基礎にしました。その上に鉄骨2階建て、コンクリートの壁材を張りました。だから、濁流によって家と地面との隙間の土が流されても、基礎がしっかりしていたので流されなかったのです。白い家の持ち主は家の中に留まり、後で、ヘリコプターで救出されました。私たちにも信仰があるないに関わらず、人生の嵐や洪水が押し寄せてくるということです。そのとき、真価が試されるのです。

では、重要なことは何なのでしょうか?それはイエス様のことばを行うこと、実践するということです。この世は、知性偏重の文化です。だから、教会も聖書的な知識があれば、正しい信仰生活が送れると錯覚しているのです。もっと聖書を勉強しなければ、もっと神学的な知識を得なければならないと思います。しかし、そうすればするほど、「まだ、足りない」「まだ不十分だ」という恐れがやってきます。しかし、私たちはもっと信仰生活はシンプルであることを覚えなければなりません。それは「みことばを行う」ということです。「信仰生活は、神さまのみことばに生きることです。アーメン」これが、イエス様の弟子として生きる姿勢であります。聖霊様がみことばを教え、聖霊様がみことばを行う力を与えてくださるのです。私は聖書を解き明かして語る説教者であります。どうしても神学的で崇高な教えをしたいという誘惑にかられます。でも、神さまは私に学問的な知識や理解力を与えてくれませんでした。30代、日本基督教団の正教師になるためにたくさんの本を読みました。まるで哲学書のようであり、読んでいく先から、忘れていきます。ほとんど頭に残らないのです。それでどうしたかと言うと、自動車免許のように質問を作り、それを解くというかたちにしました。過去問から、自分で問題を作り、その答えを暗記したわけです。そうしたら、見事合格しました。でも、頭にはほとんど残っていません。私が最も影響を受けたのは、ディボーションであります。1990年からディボーションの内容をずっとノートに付けています。何が違うかというと、聖書から教えをいただくことは同じです。違うのは、適用を考えるということです。教えをいただいても、それを行ないなら不従順の罪を犯すという考えがありました。聖書から教えをいただくことは案外簡単です。しかし、実生活においてその教えを実行するというのは別の問題です。結婚したての頃は、よく家内と言い争いをしました。結婚して、女性は違う惑星の生き物ではないかと思いました。ある時、心をとらえた聖書のことばがありました。Ⅰテモテ28「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」とありました。Ⅰテモテ2章を見ると分かりますが、女性に対しては、7節の教えがあります。パウロは女性を教えるためになんと7節も使いました。しかし、男性はたった1節です。それだけ男性は女性より単純にできているということです。「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」アーメン。まだ、怒ったり言い争ったりすることはありますが、かなりセーブされてはいます。

 このようにみことばをただ聞くだけではなく、実際に行なうとどうなるのでしょうか?それは霊的な筋肉が強くなるということです。この世では、肉体のエクササイズということを言います。筋肉は使わないと衰えてしまうそうです。ですから、エクササイズが必要だということです。私も「ワンダーコア」というのをヤフー・オクションで購入しました。いつまで続くか分かりませんが、腹筋と背筋を鍛えています。同じように、みことばを1つでも、実行するならば、霊的な筋肉がついてくるということです。霊的な筋肉がつくとどうなるのでしょうか?人生の起こる様々な嵐や洪水を乗り越えることができるのです。雨が激しく打ち付けても平気です。激流が押し寄せてきても平気です。しかし、おなじクリスチャンでもみことばの知識だけで、行ないがないならばどうでしょうか?砂の上に建てた家のように、簡単に流されてしまうでしょう。イエス様は「この世はわざわいであり、つまずきが起こるのは避けられない」(マタイ187と言われました。また、「世にあっては患難があります」(ヨハネ1633とも言われました。人生の嵐はだれにでもやくるのです。しかし、普段からみことばを行っているならば、「思いがけないことが起きてしまったと」つまずくことはありません。その人は、かえってイエス様に信頼し、「神を愛する者に約束された、いのちの冠を受ける」者となるのです(ヤコブ112)。私たちは今、世の終わりの時代に生きています。ますます世の中は混迷し、人々の愛が冷え、悪がはびこるでしょう。また、私たちに対する迫害が増し加わるでしょう。だからこそ、私たちは神さまのみことばに土台し、みことばを行う者となりたいと思います。主は私たちと共におられ、みことばに伴うしるしをもって私たちを励ましてくださいます。アーメン。

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