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2016年5月27日 (金)

狭い門から入れ マタイ7:13-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.5.29

 先週は「求めなさい。そうすれば与えられます」ということを学びました。本日は、「狭い門から入りなさい」です。日本は教育が熱心な国です。クリスチャンでなくても、このような聖書のことばを一度は聞いたことがあるかもしれません。しかし、残念なことに、その意味を曲解して、単なる教訓として得ています。もちろん、聖書にはためになる教えがたくさんあります。でも、主人公であるイエス・キリストと出会わないと、単なる教えで終わってしまいます。教えだけでは人は変わりません。人が変わるのは、神のいのちであります。イエス様はいのちのことばであり、教え以上のお方です。

1.狭い門から入れ

「狭き門」という言葉は大変有名です。フランスのアンドレ・ジッドが書いた『狭き門』という小説があります。その本はルカ福音書から引用して「力を尽くして、狭き門より入れ」と書いています。また、大学受験などの場合、よく「狭き門」などと言われます。その場合、定員数が少ないところに、多くの人が殺到している、つまり競争率が高いという意味でしょう。しかし、聖書の「狭き門」は、それとは異なります。14節には、「それを見出だす者はまれです」と書いてあります。狭い門は、広い門と比べ、人気がないばかりか人目につかないということです。では、聖書の言う「狭い門」とはどういう意味でしょうか。一口に言って、「狭い門」と言うのは、罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主として信じることによって救いを得る道であります。これは、目立たないし、人気もありません。一方、「広い門」とはどう意味ことでしょう。当時のユダヤでは、律法学者やパリサイ人と呼ばれている宗教的な指導者がおりました。彼らは、律法を守ることによって義とされる(救われる)と解きました。それは自分の行ないや努力によって救われるという道でした。

 日本は環境こそ違いますが、似たような価値観があります。まず、「広い門」のことを考えてみたいと思います。大半は、「天国も地獄もない。人間は死ねば終りだ」と考えています。神様や救い、永遠の命などに全く興味を示さない人たちです。イザヤ53章にはそのような人をこう描写しています。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った」と書かれています。それは、まるで、新宿か渋谷のスクランブル交差点とよく似ています。信号機が青になると、交差点を洪水のように人々が渡ります。あの光景は「広い門、広い道」と良く似ています。人々は、コンサートやデパートのバーゲンセール、デズニーランドには殺到します。ところが、教会の門に並んでいる人たちを見ることはほとんどありません。広い門とは必ずしも、イベントやバーゲンだけでありません。世の中には真面目な人もおります。彼らは哲学やイデオロギーに真理を求めます。特に18世紀は啓蒙主義の時代でした。そこからたくさんの「主義(イズム)」が登場しました。自然主義、ヒューマニズム、実存主義、合理主義、共産主義。しかし、サルトルが言ったように、哲学には入り口があっても、出口がありません。第一次、第二次世界対戦後、人類には希望がないと多くの哲学者は認めましたが、日本人はどこまでその限界を理解しているでしょうか?

 またある人々は、宗教に救いを求めます。日本には神道や仏教が古くからあります。また、戦後に興った新興宗教があります。今は新・新興宗教、あるいはカルト宗教と言うように、数えられないくらいあります。初詣出の例のごとく、無宗教と言いながら、多くの人が一応は宗教を持っているようです。現にお葬式も仏式で行ないます。この世の宗教に共通して言えることは、人間は不完全であることは認めますが、人間を罪人であるとは言いません。一生懸命、信心すれば救われると言います。何かを信仰しても、自分の人生が支配されるのはまっぴらごめんなのです。姦淫をしてもOK、嘘や偽りも方便です。困ったときだけ、助けてもらえば良いのです。だから、そのような宗教は人気があります。しかし、人間が作った宗教には本当の救いがありません。なぜなら、人間が作ったのですから人間以上にはなりえないからです。

 それに比べて、イエス・キリストの道は目立たないし、人気もありません。私は「キリスト教」とはあえて言いません。何故なら、救いは、「教え」ではないからです。また、世の中には聖書的でないキリスト教もあるからです。中にはこの世の哲学や宗教と妥協して、キリストを「唯一の道」にしていなものもあります。本当の救いの道は「狭い門」「狭い道」であります。それはどんな道でしょうか。神観・人間観が違います。人間は生まれながら罪人で、暗い理性で神は発見できず、努力や行ないでも救われないということです。つまり、人間の正しさでは聖い神様に到達できないということです。Ⅰテモテ2:5,6 「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました」つまり、神様に到達する道は、イエス・キリストただ一つだということです。人が救われるためには2つのことが必要です。自分が罪人だということを認め、まことの神様の方に向きを変える、悔い改めです。その次に、私の罪のために十字架に死んで、よみがえって下さったイエス・キリストを救い主として信じることです。ある人は「信じる」ことの中に悔い改めも含まれていると言います。それでも結構です。それは、信仰によって義とされる道です。

 救いの道は、行ないではありません。信仰のみです。人は神の義を満たされた主イエス・キリストを信じることによって、神の義が与えられるのです。「義」という漢字は、キリスト教の影響によってできたといわれます。羊の下に我という字を書いて義と読みます。羊は神の小羊イエス・キリストであり、我とは自分です。我の上に羊をいただいてこそ、神様から義と認められるのです。あまり、「義」という用語は日本には馴染みがありません。簡単に言いますと、キリストによって、神にかなうものとなるということです。今まで、失われていた存在であったのに、神さまのものとなったということです。つまり、神の子供とされ、御国と神が持っておられるすべての富を受け継ぐことができるということです。そのままでは、滅び行く絶望的な存在であったのに、愛と希望に満たされながら、永遠の御国に住まう存在になったのです。ある伝道者が幻を見たそうです。真っ暗な道を大勢の人が崖に向かって行進しています。崖の下は奈落の底、滅びです。崖の手前には、何人かの人が両手を結びあって、この向こうはあぶないから向きを変えなさいとストップをかけています。ところが、その人たちはあまりにも少なく、その手をかいくぐって、どんどん人々は行進をやめようとしません。夢の中の自分は、「そっちは危ない。崖ですよ。」と一人の人に声をかけました。なんと、その人は目かくしされて目が見えません。そればかりか、耳も聞こえていないようなのです。「ダメ、そっちへ行ってはダメ」と止めてもほとんど効果がありません。どんどん、どんどん、人々は崖をめざして行進しています。彼はそのような恐ろしい幻を見たそうです。

 みなさん、多くの人がその道を行くから大丈夫だ、正しいという保証はどこにもありません。神様がなんとおっしゃっているかです。イエス様はご自身このように言われました。ヨハネ10:9「私は門です。だれでも、私を通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見付けます。」また、ヨハネ14:6「私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、だれ一人父のみもとに来ることはありません。」と言われました。キリスト教というと「教え」を勉強すれば良いというニュアンスがあります。そうではありません。救いは「教え」ではなく、イエス・キリストというご人格にあります。イエス様ご自身が門であり、道なのです。確かに狭い道であり、日本においては、この御言葉のごとく「見出だす人はまれ」かもしれません。しかし、それは、狭くても確かな道、不人気でも命の道です。イエス様は少し前の箇所で、この救いの「狭き門」に関してこうも言われました。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見付かります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」天国の門は、まもなく、締まってしまうでしょうが、まだ、オープンされています。夜9時閉店のショッピング・モールでしたら、今は850分くらいです。もうすぐ、「ほたるの光」とともに、シャッターが締まろうとしています。すでにクリスチャンの方は、キリストの門をくぐって、天のエルサレムを目指して歩いているのです。脇道にそれないように、注意しましょう。「歌いつつ歩まん、ハレルヤ!ハレルヤ!」と賛美しながら、主と共に天国を目指して行きましょう。

2.実によって見分ける

 にせ預言者たちとは、「神様がそう言っていないのに、こうだ」と嘘偽りを言う預言者です。また、彼らは自分がキリスト(救い主)だという偽キリストとも言うことができます。イエス様はどれが本当か、それは実によって彼らを見分けることができると言われました。「実」というのは、その人たちの行ないとか、結末ともいうことができます。いばらとかあざみは、呪いの象徴であり、良い実を結ぶことができません。15節に「彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」と書いています。彼らは羊のように外側は柔和で親切で、丁重で、熱心です。しかも、聖書を持ってやって来るので、見掛けだけではわかりません。しかし、その実態は狼です。羊の群れを荒らし、引き裂き、食い物にするということです。イエス様は「彼らをその実によって知ることができる」と言われました。少し前に、文鮮明という統一教会の教祖がいました。彼の教えを信じた人々はどうなるでしょうか。幸福と理想を求めて入ったのに、組織のために奴隷となり人格が破壊されてしまいます。自分がダメになるだけではなく、人々をだまして被害を与えてしまいます。統一教会の他にも、キリスト教と似たものがいくつもあります。共通して言えることは、人格と家庭が破壊され、経済的な破綻をきたしているということであります。現代はニューエイジが映画や漫画、ゲームなど、あらゆるところに浸透しています。汎神論と申しましょうか、自分が宇宙の大霊と一体になり、自分が神の一部になるという考えがあります。オカルトや霊媒、あらゆる不思議を行います。結果的に、現実離れをした生き方をするようになります。

 それでは、主イエス・キリストを信じるとどのような良い実を結ぶことができるのでしょうか。私はズバリ「永遠の命、天国である」と言いたいのですが、一般の人にはピンとこないかもしれません。昔、チョーヨンギ先生のテープを聞いたことがあります。先生が開拓伝道をしたとき、ある1件の家を訪問したそうです。ご主人は、前は麻薬中毒でしたが、今はアルコール中毒で朝から晩まで飲んでいます。奥様は両家の出で美しい人でしたが、ご主人がこういう調子なので、慢性の胃炎で心臓も弱っています。子供が10人もいて学校にも行けません。靴磨きとかして働いても、みなお父さんの酒代になります。そういう家を訪問しました。「奥様、イエス様信じましょう。信じたら天国に行くことができますよ」。そうしたら、カンカンに怒って、「うちはキリスト教はいらない、天国もほしくない」と答えました。すると、チョーヨンギ先生は「信じなければ地獄へ行きますよ」と言いました。彼女はカンラカンラ笑って、「あんた、今が地獄だよ。これ以上悪い所はないよ」と言いました。彼女の説明を聞いて、絶望して帰ってきたそうです。福音を伝えるべきはずなの、すっかり絶望を伝えられて帰ってきました。

先生は「神様、どうしてですか」と祈りました。すると、Ⅲヨハネ2節のことばが与えられました。神のみこころは「魂が恵まれているように、健やかで、すべてのことにおいても恵まれる」ということがわかりました。人々は、遠くの天国よりも、今その天国の実を味わいたいのです。その人のニーズを満たしてあげることによって、永遠の命をも求めるようになるのです。そして、もう一度出掛けました。「何しに来たのか」と怒鳴られました。「奥様、キリスト様によって、あなたの運命は変わります。ご主人もアルコールから解放されます。子供たちも学校で勉強できるようになります」と言いました。すると、奥様の目が変わりました。「奥様一緒に教会に来てお祈りしましょう」と言いました。その時、チョウ先生は教会開拓中で、米軍の払い下げたオンボロ・テントで所々穴が開いています。それを見た奥様は「なあんだ、あんた、自分の運命も変えられないのに」と笑いました。先生は「私も三拍子の祝福を発見したばかりです、一緒に運命を変えていきましょう」と励ましました。3ケ月たち、彼女のご主人はアルコールから解放されました。友人たちも助けてくれ、仕事ができるようになりました。まもなく、彼女も病気がなおり、子どもたちも学校へ行けるようになりました。やがて、ご主人は教会の長老になり、子供達も大学に入り、3人の子供は牧師になったそうです。父なる神様は魂の救いだけではなく、この地上における必要、健康と経済的な祝福も与えて下さる方です。リンゴでも、モモでもタネから食べる人はいません。「確かにおいしい」と実を味わってから、福音のタネである永遠の命も受け入れるのです。

 私は、現代の日本においては、経済的な祝福もさることながら、心の問題が一番だと思います。モノがあってもモノ足りないという時代だと言われています。主イエス・キリスト様が下さる良い実は「平安」です。聖書の平安は、何もなくて平穏無事な状態という意味ではありません。それは、コマが高回転している状態であります。コマは回転が遅いとあっちヘフラフラしますが、高回転していますと、余り動きません。眠っているように見えますが、力に満たされ安定した状態です。ですから、「平安」とは心の中に調和があり力に満たされているということです。クリスチャンになるとこの「平安」という実が最初に現われてきます。私は学校時代にこの「平安」があれば、もっと集中力が与えられて勉強できたのになーと思います。「あのときは、人がどう思っているとか、自分には能力があるのかないのか、劣等感でいっぱいで、実力を出し切っていなかったなー」と思います。この平安はお年を召して、たとえ死が近づいても消えない平安です。今はすでに天に召されましたが、五藤千代姉がおりました。生前、彼女が心筋拘束で入院されたことがあります。クリスチャンになる前、内臓の病気で入院されたときは、死んだらどうなるだろうと不安で仕方がなかったそうです。しかし、そのときは、前と違って、本当に平安だったそうです。このまま死んでも天国へ行けるという、なんとも言えない安心感があったそうです。

 その他に、喜び、愛、柔和、善意の実がクリスチャンに現われてきます。これらは聖霊がその人のうちに与える御霊の実であります。また、コロサイ110「あらゆる善行のうちに実を結び」とあるように、善い行ないが実として現われてきます。「クリスチャンになると完全に聖められるか」というと残念ながらそうではありません。私の場合は、疑い、怒り、悪いことば、意地悪な思い、自己義認、それから不品行な思いもチラッとあります。「キリストと共に死んで、新しく生まれ変わったのに何故だろうなー」と思います。それでは、私も悪い木として、切り倒されて、火に投げ込まれても仕方がないのでしょうか。あるとき私は、本当に自分の中にはそういうものがあると、悔い改めました。特に「怒りとか悪い言葉」そういうものが、神様の働きをはばんでいるのだなーと自覚しました。不思議なことに、それらを神様の前に告白したらスッキリしました。これから、幾分か少なくなるだろうと思います。その分、救いの実が教会にも現われていくと信じます。

 ヨハネ15章には「わたしはまことのぶどうの木」と書いています。主イエス様がまことのぶどう木であるという有名な言葉です。黙想していたら、私は野生の木の枝だったのですが、キリスト様に接ぎ木していただいたことが分かりました。私はアダムの罪を持つ、悪い木の枝でありました。しかし、そこから切り取られ、良い木であるイエス様に接木されました。すると、イエス様の方から良い命が流れてきます。また、昔のいばらの要素があるのですが、良い命によって悪い要素がかき消され、悪い実がなりそうでなりません。むしろ、良い実が結ばれていくのです。大切なのは、良い木であるイエス様につながって、いつも、イエス様から命をいだだくということです。そうすると、必ず豊かな実を結ぶと信じます。ヨハネ15:5「私はぶどうの木で、あなたがたは枝です。人が私にとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができかないからです。」イエス様が、多くの実を結ぶと約束しています。これは努力やガンバリではなく、神様から来る恵みです。もちろん、まだ、まだ、良い枝に体質改善されるべき要素はあります。しかし、つながってさえいれば、かならず良い実を結んでいくと信じます。

 サタンは嘘つきです。「希望がない」とか「ダメだ」と言います。「難しい」「できない」とも言うでしょう。しかし、それは真っ赤なウソです。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架に死んで、罪の代価を全部支払って下さいました。私たちの罪は全部、解決され、今は神の目からは義(正しい者)とされています。世の人々や自分の評価ではありません、悪魔の評価でもありません。神様は「あなたは、もう罪人ではない、義とされた私の子どもだ」と呼んで下さっていいます。ピリピ1:6 「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」つまり、救いを与えてくださった神様は、それを終りの日まで、完成させて下さるのです。アーメン!失望することは全くありません。向こう様が責任を取って下さるというのですから、お任せしようではありませんか。御霊ではじまったことを肉で完成させてはいけません。恵みではじまったことを肉の努力で完成してはいけません。最後まで御霊(恵み)によって完成させていただくべきです。

 神様は「救いは恵みだけど、クリスチャン生活は、君たちの努力だ」とは言いません。きよい、勝利的な信仰生活の実も、聖霊の恵みによってなされると確信します。日本のクリスチャンが教会がこのことを知って恵まれていくなら、必ず、神様の働が進み、日本にも多くの魂が救われていくと信じます。多くの実とは、魂が救われる救いの実ともとれるからです。まずは、クリスチャンが(教会が)体質改善され、良い枝になって、キリスト様から命を豊かにいただくことです。兄弟姉妹が愛し合い、赦し合っていくのです。そうしていくと、世の人々もあれはなんだろうと好意を持ってくれるようになるでしょう。使徒の働きの教会のように、主も、日々救われる人を加えて下さいます。アーメン。「教会成長」「教会成長」と言いますが、本当はそう難しいことはありません。イエス様の恵みをいただいて行けば大丈夫です。それは、狭い道かもしれません、世の人々の目からは隠されているかもしれませんが、確かな道であります。ハレルヤ!私たちを豊かな人生へと導いて下さる神様をほめたたえ、ますますイエス様に従って行きたいと思います。

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2016年5月20日 (金)

求めなさい マタイ7:7-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.5.22

 「求めなさい。そうすれば与えられます」は、クリスチャンでなくても知っている有名なみことばです。また、ルカ福音書を見ますと、このみことばは「主の祈り」のすぐあとに出てきます。つまり、祈りとは何かということを教えている箇所です。私たちは長年、信仰生活をしていますと「求めても、そんな簡単には与えられないものだ」と諦める傾向があります。しかし、本日、学ぶ聖書箇所は、信仰の原則を教えてくれます。イエス様はきょうも私たちに「求めなさい。そうすれば与えられます」と励ましを与えてくださいます。 

1.祈りの極意

教会は長い歴史の中で、祈りとは何か、どのように祈るべきかを教えてきたことでしょう。たとえば、祈りがかなえられるためにいろんな条件があるということです。まず罪を悔い改めなければならないとか、聖書を読んで父のみこころをまず知らなければならないと教えるでしょう。あるいは、祈りにはいろんな要素や順番があって、そんなに単純なものじゃないと教えるでしょう。また、聖公会では「祈祷書」なるものを作り、自分勝手な祈りではなく、整えられた言葉で祈らなければならないとまで教えます。しかし、イエス様は祈りというものはとても単純であることを教えておられます。マタイ77「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」これが、祈りであり、祈りの極意と言えるでしょう。イエス様は祈りというものを3つの観点から説明しておられます。1つ目は、求めるということです。原文に忠実に訳すならば「求め続けなさい。そうすれば与えられる」ということです。2つ目は、捜すということです。これも、「捜し続けなさい。そうすれば見つかる」であります。3つ目は、たたくということです。これも、「たたき続けなさい。そうすれば開かれる」であります。つまり、祈りとは、求め続けること、捜し続けること、たたき続けることなんだということです。なぜ、私たちは与えられないのでしょうか?ヤコブ42「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」そうです。何よりも最初に来るべきものは、神さまに願う、求めるということです。そうでないと何も始まりません。

しかし、クリスチャンになると「神さまのみこころを知らないで、ただ求めてばかりいてもダメなんだ」と思うようになります。そして、「神さま、みこころならば、どうか与えてください」と祈るようになります。そして、祈りがかなえられないのが当たり前のように思ってしまい、最終的にはあまり祈らないようになります。イエスさまはゲツセマネで、はじめから「みこころがなるように」とは祈っていません。「父よ。この杯を私から過ぎ去らせて下さい」と率直に自分の願いをぶっつけました。その後に、「みこころがなるように」とすべてを明け渡されたのです。私たちの場合、「みこころならば」と祈るのは、敬虔な祈りに見えますが、不信仰な祈りであり、慇懃無礼な祈り方であります。小さな子どもがお父さんに、「みこころならば、どうかおもちゃを買ってください」と願うでしょうか?あるいは、「もし経済的に余裕があるならば、おもちゃを買ってください」と願うでしょうか?前置きなしに「ねぇ、おもちゃ買ってよ」と願うでしょう。私たちも詩篇の記者のように、ダイレクトに自分の思いをぶちまけて良いのです。そのようにして祈り続けて行くと、聖霊が私たちの自己中心的な祈りをきよめて下さいます。そして、神さまのみこころに合うように軌道修正してくださるのです。だから、イエス様は「求め続けなさい」「捜し続けなさい」「たたき続けなさい」と継続的なかたちで言われたのです。継続的な祈りをこのようにたとえることができます。釣り船のような小さな船が岸に接岸するとき、船頭はロープを岸の方に投げます。岸にいる人が、ロープの端っこを柱に結わえてくれます。船頭はそのロープをたぐっていきます。すると、船に乗っている人は、あたかも陸が自分に近づいているように見ええます。しかし、実際はボートの方が陸に近づいているのです。同じように、祈り続けていると、神のみころこが近づいてくるように思います。しかし、実際は私たちの方が神のみこころに近づいているのです。ですから、私たちはあれこれ考える前に、とにかく祈り求めることが大切なのです。ある人は「祈っていただけじゃ、ダメなんだ。実際に行動しないと」と言います。しかし、祈りと行動を分けてはいけません。私たちは祈り、なおかつ行動するのです。パウロは「絶えず祈りなさい」と命じていますが、その意味は「途絶えることなく祈れ」であります。

「必要は発明の母である」と言われています。聖書的に言うなら、求めなければ与えられないということです。レオナルド・ダビンチは鳥を見て自分も空を飛びたいと願いました。そして羽ばたき飛行機やヘリコプターを考えました。その何百年もあと、ライト兄弟が有人飛行機を飛ばしました。自動車のアイディアは昔からありましたが、実際に走らせたのはヘンリー・フォードであります。彼は「大衆のために自動車を作りたい」と願いました。何度も失敗する彼を励ましたのが、かの発明王エジソンであります。私たちが使っているパソコンもいろんな人が関わって現在のものになりました。「だれもが持てる小型コンピューターを」と願って開発したのでしょう。今から20年前は100万円くらいしました。しかし、今では10万円で購入できるようになりました。電化製品にしても、さまざまな道具にしても、「もっと便利なものを」と願ったからこそであります。昨年、大和カルバリーで開かれたグローバルサミットに出席しました。そのとき、青木仁志という自己啓発会社の社長が1つのセミナーを担当しました。彼はとても貧しい境遇で育ち、高校も卒業していません。彼の座右の銘は「求めよ、さらば与えられん」でした。彼の生涯は失敗の連続でした。でも、29歳のときチョーヨンギ牧師の大きな伝道集会でイエス様を信じたそうです。何が変わったかというと、人生の土台に愛が入ったそうです。聖霊様が自分の中に住んでくださり、イエス様が私と共に歩んでくださることを体験しました。それから、毎日が感謝、感謝の日々を送ることができたそうです。彼は第一の問いは「私は何を求めているのか」を知ることですと言いました。第二の問いは「そのために今、何をしているのか?」です。第三、第四は省略しますが、「何を求めているか」が重要だということです。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」

2.祈りの法則

 マタイ78「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」このところに、祈りの法則が記されています。これは宇宙の法則です。「だれであれ」というのは、クリスチャンであっても、クリスチャンでなくてもということです。私たちは、新興宗教はご利益だと馬鹿にするかもしれません。しかし、彼らは朝から晩まで、願い求めています。だから、商売繁盛、病の癒し、立身出世、様々な望みのものが与えられます。なぜ、新興宗教が流行るのでしょうか?それは、ご利益があるからです。彼らは「求めなさい。そうすれば与えられます」ということを地で行っているのです。その点、私たちクリスチャンは、あまりにも上品すぎます。求めることを意地汚いように思っているところはないでしょうか?特に関東と関西では、違います。テレビで見ましたが「無料コーナー」をあえて作って、テストをしました。関東の人は「何か怪しい」と疑って、持っていこうとしません。ところが、関西の人は「これはもうけもんだ」と思って、パッとなくなりました。子どもであればあるほど、簡単に求めます。ところが、大人になると疑念がはいりますので、求めなくなります。イエス様は「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」(マルコ1015と言われました。私たちは大人になればなるほど、「ただより怖いものはない」と思います。しかし、神の国に入るためには、良い行いは不要です。ところが、私たちは修行とか、善行とか、お布施とか、何か自分にやることがあれば納得するところがあります。だから、宗教にはそういう人間の義務が課せられ、それが肉に合うのです。でも、子どものように素直になって、神の国を求めるならば、救いを手にすることができるのです。救いは行いではなく、恵みだからです。

 新約聖書には恥も外聞も捨てて、イエス様のところに求めてやって来た人たちに満ちています。たとえば、エリコの町にバルテマイという盲人の物乞いがいました。彼は目が見えませんので、イエス様のところに自分で行けません。そのため、「ダビデの子イエス様、私をあわれんでください」と叫びました。群衆は彼をだまらせようとしましたが、ますます大きな声で叫びました。イエス様が彼を連れてくるように言いました。イエス様は彼に「私に何をしてほしいのか」と言われました。イエス様は、当たり前のことをあえて聞かれました。彼は「先生。目が見えるようになることです」と言いました。イエス様は「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。彼はすぐさま見えるようになりました。また、あるところに12年間、長血を患った女性がおりました。イエス様はヤイロの家に向かっているところでした。群衆もいっぱいいるし、近づくことが容易でありません。それに、長血の病は宗教的に汚れているとみなされていました。彼女は弱った体を引っ張って「お着物にさわることができれば、きっと治る」と言いながら、イエス様の衣のふさに触ったのです。すぐに血の源がかれて、ひどい痛みが治りました。イエス様はご自分から力が外に流れたことを知り、「だれかが、私に触った」と言われました。弟子たちは、「群衆が押し迫っているのに、だれが触ったなんてわかりっこありませんよ」と言いました。彼女は恐れおののきながら「私です。私が触りました」と前に出ました。イエス様は「娘よ。あなたの信仰があなたを治したのです」と言われました。他には、ローマの百人隊長、重い皮膚病にかかった人たち、てんかんの息子を持つ父親、みんな神さまから求めるにはふさわしくなさそうな人たちです。彼らは恥も外聞も捨てて、イエス様に求めたのです。イエス様はそれを信仰として受け止めてくださいました。まさしく、「だれであれ、求める者は受ける」のです。新約聖書にそういう物語がいっぱい記されているのに、教会は「聖書が完成した今日は、奇蹟やしるしの時代は終わった」と言っています。つまり、「医療が発達した今日は、そんな低次元なことは求めなくてよい。イエス様を煩わせてはいけない」と言わんばかりです。求めるのに、高次元も低次元もありません。教会がそういう姿勢なので、世の中に新興宗教が流行るのです。

 「だれであれ、求める者は受ける」これはいわば、宇宙の法則です。法則というのは、どの時代も、どの国においても、だれでにも起こるということです。ましてや、私たちは神の子どもではないでしょうか?たとえば、知らない子どもが道で、「おじちゃん、アイスクリーム買って」と言われたらどうするでしょうか?気が向いたら、買ってあげるかもしれません。でも、「なんで私が?」と頭をかしげながら与えるでしょう。しかし、自分の子どもが「お父さん、アイスクリーム買って」と言ったなら、喜んで買ってあげるでしょう。なぜなら、他人ではなく親子だからです。イエス様はヨハネ福音書でこのようにおっしゃっています。ヨハネ1623-24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」イエス様は「何でも、私の名によって父に願えば与えられる」と言われました。イエス様がおっしゃるのは100%の「何でも」であります。しかし、私たちは「30%でも良いかな?」と思ってはいないでしょうか?もう、最初から疑っていますから、1回できかれないと、「もう、結構です。自分でやりますから」という及び腰の祈りです。私たちはクリスチャンは「イエス様の名前で願うことができる」という天下の宝刀をいただいているのです。天国に行ってから、「ああ、もっと願い求めればよかった」と後悔するかもしれません。ある人が天国に行きました。目の前に大きな倉庫がありました。ペテロさんに「これは何ですか?」と聞きました。「これは一度配達したけど受取人がいなかったので戻ってきたものです」と言いました。中を見たいと言うとペテロさんは「やめた方が良いですよ」と言いました。どうしても見たいと願うと倉庫の中に入れてくれました。あるコーナーに、自分あての品物が山積みにされていました。彼は「ああ、これはかつて私が願ったものだ」とすぐ分かりました。私たちは天国に行ってからは求める必要はありません。そこにはすべてのものが有り余るほど備えられているからです。私たちはこの地上において、イエス様のお名前によって何でも父なる神に求めるべきであります。

3.祈りの特権

 マタイ79-11「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」この地上で、親ならば、自分の子どもには良い物を与えるということであります。イエス様はたとえ「悪い者であっても」とおっしゃっています。悪い者というのは、犯罪者という意味ではありません。これは自己中心で、肉的な者という意味です。神さまの目から見たならば、私たちは自己中心で、肉的な者であります。たとえ、そのような悪い者であっても、我が子には、良い者を与えるでしょう。ましてや、「天におられる父が、どうして求める者たちに良いものを下さらないことがあるだろうか」ということです。しかし、問題は私たちが父なる神さまをその通り見ているかということです。話半分に考えているんじゃないだろうか、ということです。マタイ25章には、タラントのたとえが書いてありますが、1タラント預かったしもべはどのような神観を持っていたでしょうか?「ご主人さま、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました」とぬけぬけと言いました。だから、彼は1タラントを用いないで地の中にそれを隠したのです。彼のような神観をもっていたら、どうなるでしょうか?もしかしたら、神さまはケチで、厳しく、何もくれないひどい方だと思ってはいないでしょうか?

 「私に求めよ」とかと言われても、「はい、そうですか」と願わない人がいます。そういう人は独立心の強い人であります。良い面では人を頼らないということです。それはそれで良いかもしれません。でも、イエス様が「私の名前によって何でも求めなさい」と言っているのに、あまり求めない人っているのではないでしょうか?どちらかというと、自分でさっさとやってしまいます。そして、本当に困った時だけ神さまに祈るのです。でも、心から願ったことは年に1回もあるかないかです。私たちは地上の父から、どうしても天の父を連想してしまいます。不幸にも、地上の父が経済的に豊かで気前の良い人でない場合、どうしても父なる神さまに求める気持ちがわきません。あなたの地上のお父さんは以下の4つの中に入るでしょうか?第一は、厳格な父です。まるで独裁者のように自分で決めるので、子どもの意志などはありません。第二は、弱々しい父です。痩せて病気がちなので、あんまり頼りになりません。余計な心配をかけたくないので、何でも自分でやります。第三は、いい加減な父です。ギャンブルをやって家にお金を入れません。大きくなったら子どもからお金をせびります。そんな親だったので、神さまを頼る気持ちになりません。第四はいない父です。離婚したか、亡くなったかで家庭にいません。その人がクリスチャンになって「天のお父様」と祈っても天が空っぽなのです。「イエス様」とは祈れても、「天のお父様」とは祈れません。求めても答えてくれないので、やっぱり自分でかせぐしかありません。「天は自ら助くる者を助く」ということわざがあります。これは、英語から来たものかもしれませんが、自助論、Self-Helpであります。他人に頼らないで、自立して努力するということは良いことです。でも、こっちで一生懸命やらない人には、神さまは答えてくれないという悲しい響きがあります。無条件ではなく、条件付きであります。こっちができるところまではやって、できないところは神さまに求めるというところがあります。しかし、それは正しい関係ではありません。

 イエス様は父なる神さまの子どもとしてこの地上で過ごされました。イエス様がラザロの墓の前でどのように祈られたでしょうか?ヨハネ1141「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。」それから、「ラザロよ、出て来なさい」と叫ばれたのです。地上におられたイエス様はいつも御父を信頼して生きていました。1から10まで御父に依存し、御父から力と導きを得て生活しておられました。だから、この時も「わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました」と、奇蹟が起こる前から、そうなることを信じていたのです。このイエス様と御父の関係こそ、私たちが持つべき関係ではないでしょうか?父なる神さまは私たちのことを愛しておられ、我が子には良いものを与えたいと願っておられます。ルカ15章にありますが、ほうとう息子が帰って来たので、お父さんは「肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか」と言いました。ところが、兄は怒って家に入ろうとしませんでした。そして、お父さんにこう言いました。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。」兄息子は、お父さんは「ケチで、偏愛の持ち主だ」と裁いていたのです。ジョエル・オスティーンの父は貧しい農家で生まれました。彼の家族は綿花を栽培し、ちょうど大恐慌が襲って、食べる者も着る物もありませんでした。ところが17歳のとき、イエス様を信じて献身しました。そのとき、「私の家族と子どもたち、孫たちは貧しい生活はしない。みんな豊かになる」と誓いました。しかし、家族や周りの人たちは「私たちはずっとこれから先もここで暮らすんだ。夢のような願いは捨てろ」と言いました。しかし、お父さんはそれを振り切って、聖書の神さまを信じました。お父さんが願ったように、家族も子どもたちも、孫も豊かになりました。息子のジョエル・オスティーンは詩篇23篇を引用して、神さまは豊かで、generously気前の良いお方と言います。詩篇235-6「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。」アーメン。借金取りが私を追いかけてくるのではありません。いつくしみと恵みとが、私を追って来るのです。「求めなさい。そうすれば与えられます。…とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」

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2016年5月14日 (土)

~神への畏敬~詩篇145篇17-21節 亀有教会副牧師 毛利佐保

<詩篇145篇17-21節>(新改訳)

145:17

【主】はご自分のすべての道において正しく、またすべてのみわざにおいて恵み深い。

145:18

主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに【主】は近くあられる。

145:19

また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。

145:20

すべて主を愛する者は【主】が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。

145:21

私の口が【主】の誉れを語り、すべて肉なる者が聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように。

 

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キリスト教の暦では、本日がペンテコステ礼拝の日となっておりますが、諸事情により先週に繰り上げしていただくことになりましたのでご了承ください。鈴木先生は最近、新約聖書のマタイの福音書から説教されていますので、本日は旧約聖書の詩篇から、みことばを取次がせていただこうと思います。

 

「旧約聖書は苦手だな~。」と思っている方もいらっしゃるかと思いますが、旧約聖書はとても大切です。世界三大宗教と言われている、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は、実はみんな同じ旧約聖書を教典のひとつとして用いています。つまり、みんな同じ唯一の神を信じているということです。

 

その点では共通しているわけですが、それにも関わらず現在お互い相容れない敵対関係のようになってしまっているのは、その他に使っている教典の違いがあるからです。キリスト教は新約聖書を使い、ユダヤ教はタルムードなどのラビ文献を使い、イスラム教はコーランを使っています。

 

ご存知の通りキリスト教徒は、父なる神、御子なる神、聖霊なる神による三位一体の唯一の神を信じています。三位一体を説明するのは難しいので割愛しますが、旧約聖書を読む時には、新約聖書とのつながりについても意識していただけたらと思います。単純に、「旧約聖書は古い契約。イエス様は新約聖書になってや~~っと登場してくる御子なる神様で、新しい契約。」といったものではない、ということです。イエス様は、ヨハネの福音書の1章に書かれているように、世の初めから神とともにおられました。ですから、旧約聖書の中にも、イエス様はおられるということです。

 

では、それらを踏まえて詩篇145篇を読んでいきたいと思います。

詩篇は全部で150篇ありますので、145篇は詩篇のクライマックスに向かうところの最初の箇所となります。原語のヘブライ語では、各節の頭がアルファベットになっている、「いろは歌」のようです。先ほど読み上げていただいたのは、新改訳ですが、新共同訳だと、「いろは歌」だということが、よく解ります。

御一緒に新共同訳の方を朗読してみましょう。

 

詩篇14517-18>(新共同訳

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145:17

主の道はことごとく正しく/御業は慈しみを示しています。

145:18

主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし

145:19

主を畏れる人々の望みをかなえ/叫びを聞いて救ってくださいます。

145:20

主を愛する人は主に守られ/主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。

145:21

わたしの口は主を賛美します。すべて肉なるものは/世々限りなく聖なる御名をたたえます。

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17-20節には、神がどのような御方か、私たちにどのような関わりを持ってくださり、何をしてくださるのか、ということが書かれています。21節では、だからこそ私は主を証し、とこしえに賛美したいのだと言っています。

 

今日はこの箇所から特に、19節の「主を恐れる者」とは、どういう人のことなのか?「神への恐れ」とは、どういう「恐れ」なのか?ということについて中心に考えてみたいと思います。

 

聖書に書かれている「恐れ」には、①神に対する恐れ、②罪から来る刑罰への恐れ、③人に対する恐れ、の3種類があります。「恐れる」という漢字は、新改訳聖書では「恐れる」と書き、新共同訳聖書では「畏れる」と書きます。つまり、聖書が語っている「神に対する恐れ」とは、「神への畏敬」です。敬う心です。「神に対する恐れ」とは、私たち人間が自我を捨ててへりくだり、神を敬い礼拝し、賛美して褒め称えることなのです。

 

では新改訳にもどって、まず詩篇14517節、

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【主】はご自分のすべての道において正しく、またすべてのみわざにおいて恵み深い。

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◆①聖書の神は人格的な御方であり、今も生きておられます。

 

ここでは、神様のすべての道は正しく完全であるだけではなく、そのすべての御業は慈しみと恵みに満ちていることが語られています。神様が、「すべての道において正しく完全であるだけ」の御方であれば、私たちはその正しさゆえに行きどころがなく、恐怖心を抱き、ただただ神の怒りに触れないように震え上がるだけです。しかし、聖書の神様は人格的な御方であり、「すべてのみわざにおいて恵み深い」御方なのです。

 

何をやっても的外れで神様の道において正しくない歩みを続けている私たちに、神様は大切なひとり子であるイエス様を与えてくださいました。それは最大の恵みです。また、イエス様が私たちにしてくださったひとつひとつの御業は、愛と恵みに満ち満ちています。ですから、神様は恐れ多い御方ですが、恵み深く私たちを、その神様のふところに抱いて慈しんでくださる御方なので、畏敬の心を持つことができるのです。

 

しかし残念ながら、この神観は、日本の文化とは全く噛み合いません。日本人は古くから八百万の神を信じ、祖先崇拝をします。神も仏も混同され、死んだ人が神になったりもします。信心深い行いをすれば、「ご利益(ごりやく)」があり、不信心だと「祟り」があると考えます。そこには、神を求めたり、愛したり、信頼したりという人格的な交わりはありません。聖書の祝福や呪い、さばきとは違います。ただ訳が解らず恐ろしいのです。

 

私も以前は間違った神観を持っていました。

クリスチャンホームで育たなかった私は、当たり前のように、八百万の神を信じ、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の仏様をありがたく思い、死んだご先祖が守ってくれると思っていた、ごちゃまぜの神観でした。

御葬式といえば、御寺のお坊さんに来てもらって御経をあげてもらうし、お正月といえば家族で近所の神社に初詣に行きました。その神社のお祭りがあれば地域をあげて盛り上がりましたし、子どもだった私は御神輿について行ってお菓子をもらったりしました。その神社の氏子の家庭に中学2年の女子がいれば、その女子はその年に限り、お祭りの時に巫女さんになれるというので、アルバイト代目当てで同級生の女子と赤と白の袴を着て、嬉しそうに御札を売ったりもしました。

今考えれば、中学2年の女子たちは神社の神への捧げものとして召集されたってことだったんですが、よくわかってなかったとはいえ、偶像の神に捧げられてしまったとすれば、なんだか複雑な気持ちです。

クリスチャンは私の育った地域にはひとりもいなかったと思います。家から少し遠いところに、カトリックの聖カタリナ女子校はありましたが、異質な学校があるといった感じでした。それなのにクリスマスには、近所の子ども会の行事でクリスマス会があって、クリスチャンはひとりもいないのに、キャンドルサービスをして、「きよしこの夜」を厳かに歌って、おみやげにケーキをもらって帰るという子どもにとっては楽しい行事がありました。

 

私だけではなく、クリスチャンホームで育たなかったみなさんは、多かれ少なかれ、私と同じような体験はしてきたのではないでしょうか。

そういうわけですから、私の神観というのは、「何だかわからないけど、神様は物凄く超越した力を持っていて、何だかわからないけど、ありがたくて恐い。」といったもので、祖母や母からは、何か悪さをする度に「罰(ばち)が当たるよ!崇(たた)りがあるよ!」と脅され、なにか信心深いような真似事をすると、「御利益(ごりやく)があるよ。」と言われました。

ところが、キリスト教にふれ、聖書の神様の存在を知ったときに、「待てよ」と思ったのです。「なんか著しく自分は間違ってなかったか?」「自分どころか、家族中、地域中間違ってなかったか?」と思ったのです。

聖書の神様は、私たちに聖書を通して啓示を与えてくださり、私たちと人格的に関わってくださっています。

 

私たちに理解できる言葉でご自身がどのような御方かを示してくださっています。そしてイエス様は、今も生きておられ、私たちに模範を示してくださり、どのように人生を歩んで行けば良いかを教えてくださっています。聖霊なる神様はそんな私たちに、生きる力を与え導いてくださっています。

 

八百万の神はそんなことは示してもくれないし、教えても導いてもくれませんでした。私は、ただ自分の思うままに、自己実現のために拝んでいただけでした。そこには表面的な達成感はありましたが、どこかザラザラしていて現実的なのに、なぜか全部が嘘くさく、魂や霊が打ち震えるような喜びや慰めはありませんでした。

 

私は聖書の神様に出会って、心から喜び、慰めを得ることができました。そして、主に信頼することができました。これが聖書の神観です。ですから、私は聖書の神様に感謝して、八百万の神も、仏も捨てました。

 

◆②神の御前では、隠しおおせるものは何もありません。

 

<詩篇145:18-19節>

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145:18

主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに【主】は近くあられる。

145:19

また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。

145:20

すべて主を愛する者は【主】が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。

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ここには、「主を呼び求める者」「主を恐れる者」「主を愛する者」への祝福が記されています。

「主を呼び求める者」すべてに、主は近くにいてくださり、

「主を恐れる者」の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救ってくださいます。

「主を愛する者」は主が守ってくださいます。悪者はすべて滅ぼされます。

 

ここで大切なのは、主を呼び求め、主を恐れ、主を愛する時に、自らを隠さずにさらけ出し、へりくだることです。なぜなら、神様の御前では、何ひとつ隠しおおせるものはないからです。被造物である私たちを造ってくださった創造主なる神様は、私たちの罪、汚れ、弱さ、傲慢さ、愚かさ、すべてご存知です。

そして、私たちの切なる願いも、叫びも、すべて聞いてくださっています。

 

●主を呼び求めましょう。

 

イザヤ書65章24節>にはこう書かれています。

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彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。

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主はこのようにすべてご存知で、呼び求める者の近くにいてくださいます。

 

●主を恐れましょう。

 

<詩篇111篇10節>にはこう書かれています。

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【主】を恐れることは、知恵の初め。これを行う人はみな、良い明察を得る。主の誉れは永遠に堅く立つ。

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畏れ多い神様を知るごとに、私たちは自らの未熟さを知り、ますますこうべを垂れ、へりくだる心を持つことができます。

 

●主を愛しましょう。

 

このことは、<申命記6:5>で

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心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。

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と、神様ご自身が第一の戒めとして私たちに求めておられることです。

主を呼び求めることも、主を恐れることも、主を愛することが大前提となっています。

 

◆③「神を恐れること」と、「神を愛すること」とは切り離せません。

 

<ローマ8:28>にはこう書かれています。

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神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

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すべての祝福は、神様を愛することから始まっています。

もしかしたら、「愛する」というよりも、「お慕いする」と言った方が、神様を畏れ敬う感じがして、しっくりするかもしれませんね。でも、聖書には「主を愛する者」と書かれているので、「私は神様を愛してお慕いします!」とダブルで宣言するというのはいかがでしょうか。

愛しているからこそ、お慕いしているからこそ、主を畏れ敬うのです。

 

最後に、<詩篇145:21>にはこう書かれています。

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私の口が【主】の誉れを語り、すべて肉なる者が聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように。

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これは、主なる神様が、私たちにしてくださっている御業を思い起こし、そのことを私たちが証し、世界中の人々が、世々限りなく、とこしえに聖なる御名を褒め称えますように!!との願いです。

 

このみことばで詩篇145篇は締めくくられています。

続く詩篇146-150篇は、「ハレルヤ詩篇」と言われていて、神への賛美の大合唱が続きます。

 

のみことばの通り、私たちは主の誉れを語って福音宣教に励み、すべての人が聖なる御名を世々限りなくほめたたえる日が来ることを信じて、神への畏敬の心をもち、感謝して賛美しつつ、神の国の到来を待ち望みましょう。

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2016年5月 7日 (土)

エペソのペンテコステ 使徒19:1-7 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.5.8

 イエス様は復活してから40日間、弟子たちの前に現れました。そして、父のもとにお帰りになられました。その10日後、地上に聖霊が注がれました。使徒の働き2章に記されていますが、120人の弟子たちの上に聖霊が臨んで、異言や預言を発したのであります。その日がちょうど、ペンテコステの祝いの日でした。五旬節とも言いますが、大麦の収穫が終わり、いよいよ小麦の収穫がはじまるという日でした。その日、ペテロが説教すると3000人の人たちが救われました。彼らは教会の初穂であり、ペンテコステの日から教会がスタートしたと言っても過言ではありません。しかし、エペソにはペンテコステの出来事を知らない人たちがいたのです。

1.ヨハネのバプテスマ

使徒の働き18章の終わりをみて分かりますが、アポロという人物がエペソに福音を伝えに来ました。アポロはとても雄弁で、聖書に通じていました。使徒1825「この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。」彼は聖書の知識に富んでおり、人々に教えることもできました。しかし、ヨハネのバプテスマしか知りませんでした。何だか現代の神学者や神学校の教授を想像してしまいますが、致命的な欠陥があるような感じがします。アポロはその後、コリントなどの町があるアカヤに旅立ちました。その後、パウロがエペソに渡ってきました。パウロが幾人かの弟子たちに出会って「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねました。すると彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えました。パウロは「では、どんなバプテスマを受けたのですか」と聞くと、「ヨハネのバプテスマです」と答えました。私たちはマタイ3章からバプテスマのヨハネが、ヨルダン川で人々に洗礼を授けたシーンを学びました。バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言いました。人々は自分の罪を告白して、彼からバプテスマを受けました。それがヨハネのバプテスマであります。でも何が足りないのでしょうか?ヨハネのバプテスマで、罪の赦しは受けられるかもしれませんが、聖霊を受けることができなかったのです。バプテスマのヨハネは「私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。…その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」と言いました。つまり、イエス様が聖霊のバプテスマをお授けになるお方なんだということです。

ここで問題になる表現があります。パウロが言った「信じたとき、聖霊を受けましたか」という表現です。キリスト教会にはペンテコステ派の人たちがいます。彼らも「信じたとき、聖霊を受けましたか」と聞きます。福音派の人たちは「ええ、受けましたよ」と答えます。すると、ペンテコステ派の人たちは「それでは異言を話すことができますか?」と聞きます。すると、福音派の人たちは「いいえ」と答えます。すると彼らは「では、あなたは聖霊を受けていませんね」と言います。福音派の人たちは「いいえ、信じたとき聖霊を受けていますよ」と答えるでしょう。すると彼らは「そんな馬鹿なことはない」と怒り出します。私は両方の立場が分かるつもりであります。第一の問題は「聖霊を受ける」という表現であります。第二の問題は「ペンテコステのようなことが繰り返し起こるのか」ということです。まず、パウロの「信じたとき、聖霊を受けましたか」という問から考えたいと思います。エペソの人たちは、ヨハネのバプテスマしか知りませんでした。パウロは「ヨハネは、自分のあとから来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです」と言いました。つまり、罪の赦しのバプテスマは受けても、主イエスの名によるバプテスマは受けていないということです。ということは、聖霊がその人の中に入っていないということです。もし、人がイエス様を信じて、主イエスの御名によってバプテスマを受けるなら聖霊が内に入り、その人は新生します。その意味から言うと、「信じたとき、聖霊を受ける」のです。でも、それはいわゆる聖霊のバプテスマではなく、「内住の御霊」ということができます。パウロはⅠコリント12章で「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません」と言いました。また、ローマ8章で「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」とも言いました。つまり、クリスチャンであるならば、もれなく聖霊を内にいただいています。内側に聖霊を持っていないクリスチャンなど存在しないということです。

また、問題はエペソに伝えられた福音は不完全だったということです。ヨハネのバプテスマは罪の赦しを得るためのバプテスマでした。ところが、主の御名によるバプテスマは信仰の証としてのバプテスマでした。パウロがエペソに来たときは、ペンテコステの日から20年以上たっていたと思われます。聖霊は地上におられたのです。ただし、ヨハネのバプテスマでは、その人の中に聖霊が入らないということです。その人が信仰告白して、主の御名によるバプテスマを受けるなら、その人に聖霊がお入りになるのです。21世紀の今は、ヨハネのバプテスマを受ける人はいません。みんな主の御名によるバプテスマを受けて、聖霊を内にいただきます。ところがある人たちは、「父、子、聖霊の御名によって」ではなく、「主の御名によるバプテスマが有効なんだ」と言います。それは屁理屈であり、どっちでも良いのです。マタイによる福音書もちゃんと霊感されていますし、「使徒の働き」もまたそうであります。なぜ、三位一体ではなく、「主の御名によるバプテスマ」になっているのか私にはわかりません。でも、重要なことは、エペソは例外だったということです。私たちはイエス様を信じてバプテスマを受けるとき、ちゃんと聖霊を内にいただいています。Ⅰコリント1213「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」アーメン。私たちクリスチャンは聖霊によって新しく生まれ、キリストのからだなる教会に組み入れられているのです。私たちは信じたときに、聖霊を内側に受けたのです。このお方は、私たちを慰め、励まし、世の終わりまでともにいてくださるのです。アーメン。



2.
聖霊のバプテスマ

前のポイントでヨハネのバプテスマと主の御名のバプテスマがあると学びました。ここで問題になるのは「聖霊のバプテスマ」という用語であります。さきほど、「聖霊を受けましたか」というパウロの質問がありました。実は、ペンテコステ派は、「聖霊のバプテスマ」イコール、「聖霊を受ける」と解釈しています。それはどういうことかというと、ペンテコステの日、弟子たちが受けた聖霊のバプテスマと同じ体験をするということです。確かに、パウロから手を置いて祈ったら、同じようなことが起りました。使徒196-7「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。その人々は、みなで十二人ほどであった。」このことから、ペンテコステ派の人たちは、「イエス様を信じるだけでは不十分で、聖霊のバプテスマという意味での聖霊を受けなければ一人前のクリスチャンではない」とまで言います。彼らは洗礼日の他に、受霊日まで明確にします。「異言が出ないならば、半人前のクリスチャンなんだ」と言われたらどうするでしょうか?私は前にも申し上げましたが、聖霊を受けるという意味には二種類あると思います。第一は内側に受ける、ギリシャ語で言うとエンであります。イエス様はヨハネ14章で、「私は父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」と言われました。使徒パウロは、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ127と言いました。何度も言いますが、イエス様を救い主として信じるとき、キリストの御霊、聖霊が私たちの内側に宿ります。これを内住の御霊と呼んでいます。そして、聖霊に満たされるというのは、キリストの御霊によって満たされるということです。そのことによって、ガラテヤ5章にあるような、さまざまな御霊の実、人格的な実があふれてきます。

では、聖霊を受けるという第二の意味とは何でしょうか?それは上から受ける、ギリシャ語でいうとエピ(エフィ)であります。復活の夜、イエス様から息を吹きかけられ「聖霊を受けよ」と言われたとき、11人の弟子たちは聖霊を内側に受けたのではないでしょうか。でも、それだけでは力がありませんでした。弟子たちは迫害を恐れて、よみがえられたイエス様を証することができませんでした。天にお帰りになる前、イエス様はこのように弟子たちに言い残しました。ルカ24:49 「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」ここには、「着物のように、力を着せられる」というニュアンスがあります。同じようなことばが使徒1章にもあります。同じルカが書いたのですから、そうかもしれません。使徒18「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」このところには、「上から臨まれる」エピ、英語ではuponと書いてあります。ルカ24章と使徒1章に共通して言えることは、「力」であります。弟子たちは、力を受けるために聖霊を上からいただく必要がありました。弟子たちは聖霊の力によって、世の終わりまでキリストを証し、奇蹟やしるしを行ったのであります。

では、上から聖霊を受けるとはどういうことなのでしょうか?旧約聖書の時代は、新約と違って、「内側に聖霊を宿す」つまり、霊的に生まれ変わるということがありませんでした。「内住の御霊」は、キリストが昇天し、父のみもとから助け主、聖霊をお遣わしになってから実現したのです。では、旧約聖書の時代はどのように聖霊が働いていたのでしょうか?一番分かり易いのはサムソンの例であります。サムソンは士師(さばき司)の一人でした。彼は人格的にかなり問題がありましたが、神さまによって用いられました。士師146「このとき、主の霊が激しく彼の上に下って、彼は、まるで子やぎを引き裂くように、それを引き裂いた。彼はその手に何も持っていなかった。」このところに、使徒18と同じ表現があります。And the Spirit of the Lord came mightily upon him,「彼の上に霊が下った」のであります。そうすると、彼は超人的な怪力が与えられ、子やきでも引き裂くかのようにライオンを引き裂きました。サムソンは、この後、何度も危険にさらされますが、そのたびに「主の霊が激しく彼の上に下って」怪力が与えられ敵を打倒しました。ところが、彼の長い髪の毛が切られたらどうでしょう?もう、その力は出てきませんでした。なぜなら、主が彼から去っていたからです。でも、最後に、もう一度、チャンスが与えられ、自分の命と引き換えに大勢のペリシテ人を倒すことができました。サムソンだけではありませんが、旧約聖書の時代も聖霊が働かれました。でも、それは一時的であったということです。また、上から臨む聖霊は、人格というよりも、力とか奉仕に関係があるということです。つまり、上から聖霊が臨まないと、神さまの奉仕ができないということです。イエス様ですら、公生涯の前に「私の上に主の御霊がおられる」と聖霊によって福音を伝え、ミニストリーをしたのであります。

おもに福音派の人たちは、「聖霊を受ける」イコール、「信じるとき内側に聖霊を受ける」という意味で考えます。また、おもにペンテコステ派の人たちは、「聖霊を受ける」イコール、「聖霊のバプテスマ、聖霊を上からいただく」と捉えるのではないかと思います。私は30年近く、ビリー・グラハムの『聖霊』という本の立場を取っていました。ビリー・グラハムはその本の中で、「御霊によるバプテスマが新生の時に起こる。聖霊のバプテスマとは御霊の満たしに属する」と書いてあります。だから、クリスチャンは改めて聖霊のバプテスマを求める必要はないのだ、と言います。これは、「聖霊のバプテスマ」という用語の解釈から来ていますので、ちょっと複雑になります。おお方の福音派はビリー・グラハムの立場を取っていると思います。私もそうでした。ところが、チャック・スミス牧師が『聖霊について教えてください』という本を2002年に出版しました。彼は「聖霊のバプテスマと新生とは同じではない」と言っています。さらに、彼はギリシャ語の前置詞、「エン」と「エピ」を使って説明しています。「あなたが主イエスを受け入れた瞬間に、聖霊があなたの中に入って来られ、あなたの内に住まわれはじめた。エン(内に)の状態になったのだ。使徒18の弟子たちの経験は、エピ(上から)聖霊が臨まれたのだ。このエピの状態が、信者を奉仕へと向かわせるパワーの源となる。聖霊があふれ出る状態だ。聖霊があなたの内におられるエンとは違う。上に臨まれるエピは、グラスから水があふれ出ている状態である。彼らはエピの体験である聖霊のバプテスマを体験しなければならない」と言いました。私は2年くらい、チャック・スミス師の本をほうっておきました。しかし、ウィットネスリーの『命の経験』を読んだとき、よく分かりました。彼の本にこう書いてありました「ペンテコステの時から、聖霊の内側と外側の経験が、完全に成就されました。この時以来、聖霊の働きを望む人たちは、聖霊の内住と外側の注ぎの両方を同時に経験することができます。」アーメン。と言う訳で、私は、クリスチャンは聖霊を内側にいただくだけではなく、上からもいただく必要があると考えます。なぜなら、神さまのために仕えるために、上から力として聖霊を受ける必要があるからです。

3.標準的なクリスチャン

ウィットネスリーは「ペンテコステ以来、聖霊の働きを望む人たちは、聖霊の内住と外側の注ぎの両方を同時に経験することができる」と言いました。ということは、上から力として聖霊を受けるということはありえないことではないということです。むしろ、それはクリスチャンとして標準的なものだということです。初代教会は今の私たちと違って、両方を普通に体験できたのではないかと思います。たとえば、ガラテヤ教会の人たちはどうだったでしょうか?ガラテヤ34「あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか」。文脈から、ガラテヤ教会の人たちは、律法ではなく、信仰によって御霊を受けました。おそらく、その時、大きな経験、つまり奇蹟的な体験をしたと思われます。そのような体験をした人たちが、「肉(人間の力)に頼るのはおかしいだろう」とパウロが言っているのです。また、ヘブル6章にも同じようなことが記されています。ヘブル64-6「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば…」とあります。おそらく、ヘブルの人たちも、天からの賜物とやがて来る世の力を体験したのでしょう?だから、「そういう体験をした人たちが堕落することなどありえるだろうか?」と言っているのであります。

もちろん聖霊による体験は人それぞれであり、それを神学的な教理にすることはできません。多くのペンテコステ派のように「異言を語らなければ、聖霊のバプテスマを受けたことにはならない」と言ってはいけないと思います。また、多くの福音派のように「たとえ力があっても、愛がなければ無益だ」と聖霊の賜物を軽んじるような言い方もよくありません。第一に、聖霊の賜物と人格とは違います。サムソンの例からもわかります。また、世界では奇蹟やしるしを行う伝道者がたくさんおられます。では、彼らが人格的に問題がないか、というとそうではありません。神さまは人格に関係なく、ご自分の主権によって霊的な力や賜物をお与えになられます。ただし、私たちは与えられた賜物に対しては、忠実でなければなりません。一番問題なのは、極端に走ることです。何ごともバランスが必要です。ここで、私が申し上げたいことは、体験を第一に求めてはいけないということです。体験よりも重要なのは、信仰であります。私たちは神さまのご栄光のために、自分をささげる必要があります。「主よ。私をあなたにささげます。どうかあなたの御用のためにお用いください。そのために、あなたは聖霊による力をくださると約束されました。どうか、弟子たちにそうであったように、上から聖霊を臨ませてください。アーメン」と祈るのです。そうすれば、神さまが必ず、そのようにしてくださいます。

また、このことは個人で祈り求めることもできますが、霊的な指導者から祈ってもらうとより効果的です。使徒19章にもあるように、パウロが手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれたからです。手を置くということを、キリスト教会では「按手」と呼んでいます。パウロもテモテにこのように注意しています。Ⅱテモテ16「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」テモテもパウロから按手してもらって、聖霊の力と賜物を受けたと信じます。でも、霊的な力が弱っていたのではないかと思います。だから、パウロは神の賜物を、再び燃え立たせるように注意したのでしょう。私はたくさんの聖会に出席しました。最後に、「恵みの座」というものがあり、講師が手を置いて祈ってくださいます。ですから、いつ上から聖霊を受けたのか分かりません。ただ言えることは、聖霊は確かに私の上に臨まれ、主の注ぎはあるということです。ただし、按手は誰でも良いというわけではなく、教会が認めている先生でないと怖いです。なぜなら、悪いものも一緒に受ける可能性があるからです。エペソの人たちのように霊的な指導者から祈ってもらうとより楽であります。「楽」というのは英語でeasy簡単という意味です。でも、easy come easy goという諺もあります。簡単に得たものは、簡単に手放してしまいます。現代のクリスチャンに最も必要なものは「霊的な飢え渇き」であろうと思います。クリスチャンであるなら内側に聖霊はいらっしゃいます。でも、「どうか私を聖霊で満たしてください」「どうか力としての聖霊が私の上に臨みますように」と切なる飢え渇きをもって求めるべきではないでしょうか?ルカは「求めなさい。そうすれば与えられます」と言いながら、「なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」聖霊こそが、私たちが求めるべき最上のものです。

もし、「内住の御霊」と「上からの聖霊」とどっちが大切かと言われたなら、「内住の御霊」でしょう。なぜなら、キリストが聖霊によって自分の中に住んでいてくださるからです。この内住の御霊が私たちを内側から慰め、助けてくださいます。でも、私たちは神さまに仕えるために力も必要です。弟子たちがそうであったように、私たちは上からの聖霊をいただきましょう。パウロは「霊に燃えて主に仕えよ」と言いました。私たちは奉仕のための、聖霊のパワー、聖霊の原動力が必要です。そのためには飢え渇きをもって、主に求めようではありませんか。

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