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2016年5月20日 (金)

求めなさい マタイ7:7-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.5.22

 「求めなさい。そうすれば与えられます」は、クリスチャンでなくても知っている有名なみことばです。また、ルカ福音書を見ますと、このみことばは「主の祈り」のすぐあとに出てきます。つまり、祈りとは何かということを教えている箇所です。私たちは長年、信仰生活をしていますと「求めても、そんな簡単には与えられないものだ」と諦める傾向があります。しかし、本日、学ぶ聖書箇所は、信仰の原則を教えてくれます。イエス様はきょうも私たちに「求めなさい。そうすれば与えられます」と励ましを与えてくださいます。 

1.祈りの極意

教会は長い歴史の中で、祈りとは何か、どのように祈るべきかを教えてきたことでしょう。たとえば、祈りがかなえられるためにいろんな条件があるということです。まず罪を悔い改めなければならないとか、聖書を読んで父のみこころをまず知らなければならないと教えるでしょう。あるいは、祈りにはいろんな要素や順番があって、そんなに単純なものじゃないと教えるでしょう。また、聖公会では「祈祷書」なるものを作り、自分勝手な祈りではなく、整えられた言葉で祈らなければならないとまで教えます。しかし、イエス様は祈りというものはとても単純であることを教えておられます。マタイ77「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」これが、祈りであり、祈りの極意と言えるでしょう。イエス様は祈りというものを3つの観点から説明しておられます。1つ目は、求めるということです。原文に忠実に訳すならば「求め続けなさい。そうすれば与えられる」ということです。2つ目は、捜すということです。これも、「捜し続けなさい。そうすれば見つかる」であります。3つ目は、たたくということです。これも、「たたき続けなさい。そうすれば開かれる」であります。つまり、祈りとは、求め続けること、捜し続けること、たたき続けることなんだということです。なぜ、私たちは与えられないのでしょうか?ヤコブ42「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」そうです。何よりも最初に来るべきものは、神さまに願う、求めるということです。そうでないと何も始まりません。

しかし、クリスチャンになると「神さまのみこころを知らないで、ただ求めてばかりいてもダメなんだ」と思うようになります。そして、「神さま、みこころならば、どうか与えてください」と祈るようになります。そして、祈りがかなえられないのが当たり前のように思ってしまい、最終的にはあまり祈らないようになります。イエスさまはゲツセマネで、はじめから「みこころがなるように」とは祈っていません。「父よ。この杯を私から過ぎ去らせて下さい」と率直に自分の願いをぶっつけました。その後に、「みこころがなるように」とすべてを明け渡されたのです。私たちの場合、「みこころならば」と祈るのは、敬虔な祈りに見えますが、不信仰な祈りであり、慇懃無礼な祈り方であります。小さな子どもがお父さんに、「みこころならば、どうかおもちゃを買ってください」と願うでしょうか?あるいは、「もし経済的に余裕があるならば、おもちゃを買ってください」と願うでしょうか?前置きなしに「ねぇ、おもちゃ買ってよ」と願うでしょう。私たちも詩篇の記者のように、ダイレクトに自分の思いをぶちまけて良いのです。そのようにして祈り続けて行くと、聖霊が私たちの自己中心的な祈りをきよめて下さいます。そして、神さまのみこころに合うように軌道修正してくださるのです。だから、イエス様は「求め続けなさい」「捜し続けなさい」「たたき続けなさい」と継続的なかたちで言われたのです。継続的な祈りをこのようにたとえることができます。釣り船のような小さな船が岸に接岸するとき、船頭はロープを岸の方に投げます。岸にいる人が、ロープの端っこを柱に結わえてくれます。船頭はそのロープをたぐっていきます。すると、船に乗っている人は、あたかも陸が自分に近づいているように見ええます。しかし、実際はボートの方が陸に近づいているのです。同じように、祈り続けていると、神のみころこが近づいてくるように思います。しかし、実際は私たちの方が神のみこころに近づいているのです。ですから、私たちはあれこれ考える前に、とにかく祈り求めることが大切なのです。ある人は「祈っていただけじゃ、ダメなんだ。実際に行動しないと」と言います。しかし、祈りと行動を分けてはいけません。私たちは祈り、なおかつ行動するのです。パウロは「絶えず祈りなさい」と命じていますが、その意味は「途絶えることなく祈れ」であります。

「必要は発明の母である」と言われています。聖書的に言うなら、求めなければ与えられないということです。レオナルド・ダビンチは鳥を見て自分も空を飛びたいと願いました。そして羽ばたき飛行機やヘリコプターを考えました。その何百年もあと、ライト兄弟が有人飛行機を飛ばしました。自動車のアイディアは昔からありましたが、実際に走らせたのはヘンリー・フォードであります。彼は「大衆のために自動車を作りたい」と願いました。何度も失敗する彼を励ましたのが、かの発明王エジソンであります。私たちが使っているパソコンもいろんな人が関わって現在のものになりました。「だれもが持てる小型コンピューターを」と願って開発したのでしょう。今から20年前は100万円くらいしました。しかし、今では10万円で購入できるようになりました。電化製品にしても、さまざまな道具にしても、「もっと便利なものを」と願ったからこそであります。昨年、大和カルバリーで開かれたグローバルサミットに出席しました。そのとき、青木仁志という自己啓発会社の社長が1つのセミナーを担当しました。彼はとても貧しい境遇で育ち、高校も卒業していません。彼の座右の銘は「求めよ、さらば与えられん」でした。彼の生涯は失敗の連続でした。でも、29歳のときチョーヨンギ牧師の大きな伝道集会でイエス様を信じたそうです。何が変わったかというと、人生の土台に愛が入ったそうです。聖霊様が自分の中に住んでくださり、イエス様が私と共に歩んでくださることを体験しました。それから、毎日が感謝、感謝の日々を送ることができたそうです。彼は第一の問いは「私は何を求めているのか」を知ることですと言いました。第二の問いは「そのために今、何をしているのか?」です。第三、第四は省略しますが、「何を求めているか」が重要だということです。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」

2.祈りの法則

 マタイ78「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」このところに、祈りの法則が記されています。これは宇宙の法則です。「だれであれ」というのは、クリスチャンであっても、クリスチャンでなくてもということです。私たちは、新興宗教はご利益だと馬鹿にするかもしれません。しかし、彼らは朝から晩まで、願い求めています。だから、商売繁盛、病の癒し、立身出世、様々な望みのものが与えられます。なぜ、新興宗教が流行るのでしょうか?それは、ご利益があるからです。彼らは「求めなさい。そうすれば与えられます」ということを地で行っているのです。その点、私たちクリスチャンは、あまりにも上品すぎます。求めることを意地汚いように思っているところはないでしょうか?特に関東と関西では、違います。テレビで見ましたが「無料コーナー」をあえて作って、テストをしました。関東の人は「何か怪しい」と疑って、持っていこうとしません。ところが、関西の人は「これはもうけもんだ」と思って、パッとなくなりました。子どもであればあるほど、簡単に求めます。ところが、大人になると疑念がはいりますので、求めなくなります。イエス様は「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」(マルコ1015と言われました。私たちは大人になればなるほど、「ただより怖いものはない」と思います。しかし、神の国に入るためには、良い行いは不要です。ところが、私たちは修行とか、善行とか、お布施とか、何か自分にやることがあれば納得するところがあります。だから、宗教にはそういう人間の義務が課せられ、それが肉に合うのです。でも、子どものように素直になって、神の国を求めるならば、救いを手にすることができるのです。救いは行いではなく、恵みだからです。

 新約聖書には恥も外聞も捨てて、イエス様のところに求めてやって来た人たちに満ちています。たとえば、エリコの町にバルテマイという盲人の物乞いがいました。彼は目が見えませんので、イエス様のところに自分で行けません。そのため、「ダビデの子イエス様、私をあわれんでください」と叫びました。群衆は彼をだまらせようとしましたが、ますます大きな声で叫びました。イエス様が彼を連れてくるように言いました。イエス様は彼に「私に何をしてほしいのか」と言われました。イエス様は、当たり前のことをあえて聞かれました。彼は「先生。目が見えるようになることです」と言いました。イエス様は「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。彼はすぐさま見えるようになりました。また、あるところに12年間、長血を患った女性がおりました。イエス様はヤイロの家に向かっているところでした。群衆もいっぱいいるし、近づくことが容易でありません。それに、長血の病は宗教的に汚れているとみなされていました。彼女は弱った体を引っ張って「お着物にさわることができれば、きっと治る」と言いながら、イエス様の衣のふさに触ったのです。すぐに血の源がかれて、ひどい痛みが治りました。イエス様はご自分から力が外に流れたことを知り、「だれかが、私に触った」と言われました。弟子たちは、「群衆が押し迫っているのに、だれが触ったなんてわかりっこありませんよ」と言いました。彼女は恐れおののきながら「私です。私が触りました」と前に出ました。イエス様は「娘よ。あなたの信仰があなたを治したのです」と言われました。他には、ローマの百人隊長、重い皮膚病にかかった人たち、てんかんの息子を持つ父親、みんな神さまから求めるにはふさわしくなさそうな人たちです。彼らは恥も外聞も捨てて、イエス様に求めたのです。イエス様はそれを信仰として受け止めてくださいました。まさしく、「だれであれ、求める者は受ける」のです。新約聖書にそういう物語がいっぱい記されているのに、教会は「聖書が完成した今日は、奇蹟やしるしの時代は終わった」と言っています。つまり、「医療が発達した今日は、そんな低次元なことは求めなくてよい。イエス様を煩わせてはいけない」と言わんばかりです。求めるのに、高次元も低次元もありません。教会がそういう姿勢なので、世の中に新興宗教が流行るのです。

 「だれであれ、求める者は受ける」これはいわば、宇宙の法則です。法則というのは、どの時代も、どの国においても、だれでにも起こるということです。ましてや、私たちは神の子どもではないでしょうか?たとえば、知らない子どもが道で、「おじちゃん、アイスクリーム買って」と言われたらどうするでしょうか?気が向いたら、買ってあげるかもしれません。でも、「なんで私が?」と頭をかしげながら与えるでしょう。しかし、自分の子どもが「お父さん、アイスクリーム買って」と言ったなら、喜んで買ってあげるでしょう。なぜなら、他人ではなく親子だからです。イエス様はヨハネ福音書でこのようにおっしゃっています。ヨハネ1623-24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」イエス様は「何でも、私の名によって父に願えば与えられる」と言われました。イエス様がおっしゃるのは100%の「何でも」であります。しかし、私たちは「30%でも良いかな?」と思ってはいないでしょうか?もう、最初から疑っていますから、1回できかれないと、「もう、結構です。自分でやりますから」という及び腰の祈りです。私たちはクリスチャンは「イエス様の名前で願うことができる」という天下の宝刀をいただいているのです。天国に行ってから、「ああ、もっと願い求めればよかった」と後悔するかもしれません。ある人が天国に行きました。目の前に大きな倉庫がありました。ペテロさんに「これは何ですか?」と聞きました。「これは一度配達したけど受取人がいなかったので戻ってきたものです」と言いました。中を見たいと言うとペテロさんは「やめた方が良いですよ」と言いました。どうしても見たいと願うと倉庫の中に入れてくれました。あるコーナーに、自分あての品物が山積みにされていました。彼は「ああ、これはかつて私が願ったものだ」とすぐ分かりました。私たちは天国に行ってからは求める必要はありません。そこにはすべてのものが有り余るほど備えられているからです。私たちはこの地上において、イエス様のお名前によって何でも父なる神に求めるべきであります。

3.祈りの特権

 マタイ79-11「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」この地上で、親ならば、自分の子どもには良い物を与えるということであります。イエス様はたとえ「悪い者であっても」とおっしゃっています。悪い者というのは、犯罪者という意味ではありません。これは自己中心で、肉的な者という意味です。神さまの目から見たならば、私たちは自己中心で、肉的な者であります。たとえ、そのような悪い者であっても、我が子には、良い者を与えるでしょう。ましてや、「天におられる父が、どうして求める者たちに良いものを下さらないことがあるだろうか」ということです。しかし、問題は私たちが父なる神さまをその通り見ているかということです。話半分に考えているんじゃないだろうか、ということです。マタイ25章には、タラントのたとえが書いてありますが、1タラント預かったしもべはどのような神観を持っていたでしょうか?「ご主人さま、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました」とぬけぬけと言いました。だから、彼は1タラントを用いないで地の中にそれを隠したのです。彼のような神観をもっていたら、どうなるでしょうか?もしかしたら、神さまはケチで、厳しく、何もくれないひどい方だと思ってはいないでしょうか?

 「私に求めよ」とかと言われても、「はい、そうですか」と願わない人がいます。そういう人は独立心の強い人であります。良い面では人を頼らないということです。それはそれで良いかもしれません。でも、イエス様が「私の名前によって何でも求めなさい」と言っているのに、あまり求めない人っているのではないでしょうか?どちらかというと、自分でさっさとやってしまいます。そして、本当に困った時だけ神さまに祈るのです。でも、心から願ったことは年に1回もあるかないかです。私たちは地上の父から、どうしても天の父を連想してしまいます。不幸にも、地上の父が経済的に豊かで気前の良い人でない場合、どうしても父なる神さまに求める気持ちがわきません。あなたの地上のお父さんは以下の4つの中に入るでしょうか?第一は、厳格な父です。まるで独裁者のように自分で決めるので、子どもの意志などはありません。第二は、弱々しい父です。痩せて病気がちなので、あんまり頼りになりません。余計な心配をかけたくないので、何でも自分でやります。第三は、いい加減な父です。ギャンブルをやって家にお金を入れません。大きくなったら子どもからお金をせびります。そんな親だったので、神さまを頼る気持ちになりません。第四はいない父です。離婚したか、亡くなったかで家庭にいません。その人がクリスチャンになって「天のお父様」と祈っても天が空っぽなのです。「イエス様」とは祈れても、「天のお父様」とは祈れません。求めても答えてくれないので、やっぱり自分でかせぐしかありません。「天は自ら助くる者を助く」ということわざがあります。これは、英語から来たものかもしれませんが、自助論、Self-Helpであります。他人に頼らないで、自立して努力するということは良いことです。でも、こっちで一生懸命やらない人には、神さまは答えてくれないという悲しい響きがあります。無条件ではなく、条件付きであります。こっちができるところまではやって、できないところは神さまに求めるというところがあります。しかし、それは正しい関係ではありません。

 イエス様は父なる神さまの子どもとしてこの地上で過ごされました。イエス様がラザロの墓の前でどのように祈られたでしょうか?ヨハネ1141「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。」それから、「ラザロよ、出て来なさい」と叫ばれたのです。地上におられたイエス様はいつも御父を信頼して生きていました。1から10まで御父に依存し、御父から力と導きを得て生活しておられました。だから、この時も「わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました」と、奇蹟が起こる前から、そうなることを信じていたのです。このイエス様と御父の関係こそ、私たちが持つべき関係ではないでしょうか?父なる神さまは私たちのことを愛しておられ、我が子には良いものを与えたいと願っておられます。ルカ15章にありますが、ほうとう息子が帰って来たので、お父さんは「肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか」と言いました。ところが、兄は怒って家に入ろうとしませんでした。そして、お父さんにこう言いました。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。」兄息子は、お父さんは「ケチで、偏愛の持ち主だ」と裁いていたのです。ジョエル・オスティーンの父は貧しい農家で生まれました。彼の家族は綿花を栽培し、ちょうど大恐慌が襲って、食べる者も着る物もありませんでした。ところが17歳のとき、イエス様を信じて献身しました。そのとき、「私の家族と子どもたち、孫たちは貧しい生活はしない。みんな豊かになる」と誓いました。しかし、家族や周りの人たちは「私たちはずっとこれから先もここで暮らすんだ。夢のような願いは捨てろ」と言いました。しかし、お父さんはそれを振り切って、聖書の神さまを信じました。お父さんが願ったように、家族も子どもたちも、孫も豊かになりました。息子のジョエル・オスティーンは詩篇23篇を引用して、神さまは豊かで、generously気前の良いお方と言います。詩篇235-6「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。」アーメン。借金取りが私を追いかけてくるのではありません。いつくしみと恵みとが、私を追って来るのです。「求めなさい。そうすれば与えられます。…とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」

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