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2016年5月27日 (金)

狭い門から入れ マタイ7:13-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.5.29

 先週は「求めなさい。そうすれば与えられます」ということを学びました。本日は、「狭い門から入りなさい」です。日本は教育が熱心な国です。クリスチャンでなくても、このような聖書のことばを一度は聞いたことがあるかもしれません。しかし、残念なことに、その意味を曲解して、単なる教訓として得ています。もちろん、聖書にはためになる教えがたくさんあります。でも、主人公であるイエス・キリストと出会わないと、単なる教えで終わってしまいます。教えだけでは人は変わりません。人が変わるのは、神のいのちであります。イエス様はいのちのことばであり、教え以上のお方です。

1.狭い門から入れ

「狭き門」という言葉は大変有名です。フランスのアンドレ・ジッドが書いた『狭き門』という小説があります。その本はルカ福音書から引用して「力を尽くして、狭き門より入れ」と書いています。また、大学受験などの場合、よく「狭き門」などと言われます。その場合、定員数が少ないところに、多くの人が殺到している、つまり競争率が高いという意味でしょう。しかし、聖書の「狭き門」は、それとは異なります。14節には、「それを見出だす者はまれです」と書いてあります。狭い門は、広い門と比べ、人気がないばかりか人目につかないということです。では、聖書の言う「狭い門」とはどういう意味でしょうか。一口に言って、「狭い門」と言うのは、罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主として信じることによって救いを得る道であります。これは、目立たないし、人気もありません。一方、「広い門」とはどう意味ことでしょう。当時のユダヤでは、律法学者やパリサイ人と呼ばれている宗教的な指導者がおりました。彼らは、律法を守ることによって義とされる(救われる)と解きました。それは自分の行ないや努力によって救われるという道でした。

 日本は環境こそ違いますが、似たような価値観があります。まず、「広い門」のことを考えてみたいと思います。大半は、「天国も地獄もない。人間は死ねば終りだ」と考えています。神様や救い、永遠の命などに全く興味を示さない人たちです。イザヤ53章にはそのような人をこう描写しています。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った」と書かれています。それは、まるで、新宿か渋谷のスクランブル交差点とよく似ています。信号機が青になると、交差点を洪水のように人々が渡ります。あの光景は「広い門、広い道」と良く似ています。人々は、コンサートやデパートのバーゲンセール、デズニーランドには殺到します。ところが、教会の門に並んでいる人たちを見ることはほとんどありません。広い門とは必ずしも、イベントやバーゲンだけでありません。世の中には真面目な人もおります。彼らは哲学やイデオロギーに真理を求めます。特に18世紀は啓蒙主義の時代でした。そこからたくさんの「主義(イズム)」が登場しました。自然主義、ヒューマニズム、実存主義、合理主義、共産主義。しかし、サルトルが言ったように、哲学には入り口があっても、出口がありません。第一次、第二次世界対戦後、人類には希望がないと多くの哲学者は認めましたが、日本人はどこまでその限界を理解しているでしょうか?

 またある人々は、宗教に救いを求めます。日本には神道や仏教が古くからあります。また、戦後に興った新興宗教があります。今は新・新興宗教、あるいはカルト宗教と言うように、数えられないくらいあります。初詣出の例のごとく、無宗教と言いながら、多くの人が一応は宗教を持っているようです。現にお葬式も仏式で行ないます。この世の宗教に共通して言えることは、人間は不完全であることは認めますが、人間を罪人であるとは言いません。一生懸命、信心すれば救われると言います。何かを信仰しても、自分の人生が支配されるのはまっぴらごめんなのです。姦淫をしてもOK、嘘や偽りも方便です。困ったときだけ、助けてもらえば良いのです。だから、そのような宗教は人気があります。しかし、人間が作った宗教には本当の救いがありません。なぜなら、人間が作ったのですから人間以上にはなりえないからです。

 それに比べて、イエス・キリストの道は目立たないし、人気もありません。私は「キリスト教」とはあえて言いません。何故なら、救いは、「教え」ではないからです。また、世の中には聖書的でないキリスト教もあるからです。中にはこの世の哲学や宗教と妥協して、キリストを「唯一の道」にしていなものもあります。本当の救いの道は「狭い門」「狭い道」であります。それはどんな道でしょうか。神観・人間観が違います。人間は生まれながら罪人で、暗い理性で神は発見できず、努力や行ないでも救われないということです。つまり、人間の正しさでは聖い神様に到達できないということです。Ⅰテモテ2:5,6 「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました」つまり、神様に到達する道は、イエス・キリストただ一つだということです。人が救われるためには2つのことが必要です。自分が罪人だということを認め、まことの神様の方に向きを変える、悔い改めです。その次に、私の罪のために十字架に死んで、よみがえって下さったイエス・キリストを救い主として信じることです。ある人は「信じる」ことの中に悔い改めも含まれていると言います。それでも結構です。それは、信仰によって義とされる道です。

 救いの道は、行ないではありません。信仰のみです。人は神の義を満たされた主イエス・キリストを信じることによって、神の義が与えられるのです。「義」という漢字は、キリスト教の影響によってできたといわれます。羊の下に我という字を書いて義と読みます。羊は神の小羊イエス・キリストであり、我とは自分です。我の上に羊をいただいてこそ、神様から義と認められるのです。あまり、「義」という用語は日本には馴染みがありません。簡単に言いますと、キリストによって、神にかなうものとなるということです。今まで、失われていた存在であったのに、神さまのものとなったということです。つまり、神の子供とされ、御国と神が持っておられるすべての富を受け継ぐことができるということです。そのままでは、滅び行く絶望的な存在であったのに、愛と希望に満たされながら、永遠の御国に住まう存在になったのです。ある伝道者が幻を見たそうです。真っ暗な道を大勢の人が崖に向かって行進しています。崖の下は奈落の底、滅びです。崖の手前には、何人かの人が両手を結びあって、この向こうはあぶないから向きを変えなさいとストップをかけています。ところが、その人たちはあまりにも少なく、その手をかいくぐって、どんどん人々は行進をやめようとしません。夢の中の自分は、「そっちは危ない。崖ですよ。」と一人の人に声をかけました。なんと、その人は目かくしされて目が見えません。そればかりか、耳も聞こえていないようなのです。「ダメ、そっちへ行ってはダメ」と止めてもほとんど効果がありません。どんどん、どんどん、人々は崖をめざして行進しています。彼はそのような恐ろしい幻を見たそうです。

 みなさん、多くの人がその道を行くから大丈夫だ、正しいという保証はどこにもありません。神様がなんとおっしゃっているかです。イエス様はご自身このように言われました。ヨハネ10:9「私は門です。だれでも、私を通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見付けます。」また、ヨハネ14:6「私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、だれ一人父のみもとに来ることはありません。」と言われました。キリスト教というと「教え」を勉強すれば良いというニュアンスがあります。そうではありません。救いは「教え」ではなく、イエス・キリストというご人格にあります。イエス様ご自身が門であり、道なのです。確かに狭い道であり、日本においては、この御言葉のごとく「見出だす人はまれ」かもしれません。しかし、それは、狭くても確かな道、不人気でも命の道です。イエス様は少し前の箇所で、この救いの「狭き門」に関してこうも言われました。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見付かります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」天国の門は、まもなく、締まってしまうでしょうが、まだ、オープンされています。夜9時閉店のショッピング・モールでしたら、今は850分くらいです。もうすぐ、「ほたるの光」とともに、シャッターが締まろうとしています。すでにクリスチャンの方は、キリストの門をくぐって、天のエルサレムを目指して歩いているのです。脇道にそれないように、注意しましょう。「歌いつつ歩まん、ハレルヤ!ハレルヤ!」と賛美しながら、主と共に天国を目指して行きましょう。

2.実によって見分ける

 にせ預言者たちとは、「神様がそう言っていないのに、こうだ」と嘘偽りを言う預言者です。また、彼らは自分がキリスト(救い主)だという偽キリストとも言うことができます。イエス様はどれが本当か、それは実によって彼らを見分けることができると言われました。「実」というのは、その人たちの行ないとか、結末ともいうことができます。いばらとかあざみは、呪いの象徴であり、良い実を結ぶことができません。15節に「彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」と書いています。彼らは羊のように外側は柔和で親切で、丁重で、熱心です。しかも、聖書を持ってやって来るので、見掛けだけではわかりません。しかし、その実態は狼です。羊の群れを荒らし、引き裂き、食い物にするということです。イエス様は「彼らをその実によって知ることができる」と言われました。少し前に、文鮮明という統一教会の教祖がいました。彼の教えを信じた人々はどうなるでしょうか。幸福と理想を求めて入ったのに、組織のために奴隷となり人格が破壊されてしまいます。自分がダメになるだけではなく、人々をだまして被害を与えてしまいます。統一教会の他にも、キリスト教と似たものがいくつもあります。共通して言えることは、人格と家庭が破壊され、経済的な破綻をきたしているということであります。現代はニューエイジが映画や漫画、ゲームなど、あらゆるところに浸透しています。汎神論と申しましょうか、自分が宇宙の大霊と一体になり、自分が神の一部になるという考えがあります。オカルトや霊媒、あらゆる不思議を行います。結果的に、現実離れをした生き方をするようになります。

 それでは、主イエス・キリストを信じるとどのような良い実を結ぶことができるのでしょうか。私はズバリ「永遠の命、天国である」と言いたいのですが、一般の人にはピンとこないかもしれません。昔、チョーヨンギ先生のテープを聞いたことがあります。先生が開拓伝道をしたとき、ある1件の家を訪問したそうです。ご主人は、前は麻薬中毒でしたが、今はアルコール中毒で朝から晩まで飲んでいます。奥様は両家の出で美しい人でしたが、ご主人がこういう調子なので、慢性の胃炎で心臓も弱っています。子供が10人もいて学校にも行けません。靴磨きとかして働いても、みなお父さんの酒代になります。そういう家を訪問しました。「奥様、イエス様信じましょう。信じたら天国に行くことができますよ」。そうしたら、カンカンに怒って、「うちはキリスト教はいらない、天国もほしくない」と答えました。すると、チョーヨンギ先生は「信じなければ地獄へ行きますよ」と言いました。彼女はカンラカンラ笑って、「あんた、今が地獄だよ。これ以上悪い所はないよ」と言いました。彼女の説明を聞いて、絶望して帰ってきたそうです。福音を伝えるべきはずなの、すっかり絶望を伝えられて帰ってきました。

先生は「神様、どうしてですか」と祈りました。すると、Ⅲヨハネ2節のことばが与えられました。神のみこころは「魂が恵まれているように、健やかで、すべてのことにおいても恵まれる」ということがわかりました。人々は、遠くの天国よりも、今その天国の実を味わいたいのです。その人のニーズを満たしてあげることによって、永遠の命をも求めるようになるのです。そして、もう一度出掛けました。「何しに来たのか」と怒鳴られました。「奥様、キリスト様によって、あなたの運命は変わります。ご主人もアルコールから解放されます。子供たちも学校で勉強できるようになります」と言いました。すると、奥様の目が変わりました。「奥様一緒に教会に来てお祈りしましょう」と言いました。その時、チョウ先生は教会開拓中で、米軍の払い下げたオンボロ・テントで所々穴が開いています。それを見た奥様は「なあんだ、あんた、自分の運命も変えられないのに」と笑いました。先生は「私も三拍子の祝福を発見したばかりです、一緒に運命を変えていきましょう」と励ましました。3ケ月たち、彼女のご主人はアルコールから解放されました。友人たちも助けてくれ、仕事ができるようになりました。まもなく、彼女も病気がなおり、子どもたちも学校へ行けるようになりました。やがて、ご主人は教会の長老になり、子供達も大学に入り、3人の子供は牧師になったそうです。父なる神様は魂の救いだけではなく、この地上における必要、健康と経済的な祝福も与えて下さる方です。リンゴでも、モモでもタネから食べる人はいません。「確かにおいしい」と実を味わってから、福音のタネである永遠の命も受け入れるのです。

 私は、現代の日本においては、経済的な祝福もさることながら、心の問題が一番だと思います。モノがあってもモノ足りないという時代だと言われています。主イエス・キリスト様が下さる良い実は「平安」です。聖書の平安は、何もなくて平穏無事な状態という意味ではありません。それは、コマが高回転している状態であります。コマは回転が遅いとあっちヘフラフラしますが、高回転していますと、余り動きません。眠っているように見えますが、力に満たされ安定した状態です。ですから、「平安」とは心の中に調和があり力に満たされているということです。クリスチャンになるとこの「平安」という実が最初に現われてきます。私は学校時代にこの「平安」があれば、もっと集中力が与えられて勉強できたのになーと思います。「あのときは、人がどう思っているとか、自分には能力があるのかないのか、劣等感でいっぱいで、実力を出し切っていなかったなー」と思います。この平安はお年を召して、たとえ死が近づいても消えない平安です。今はすでに天に召されましたが、五藤千代姉がおりました。生前、彼女が心筋拘束で入院されたことがあります。クリスチャンになる前、内臓の病気で入院されたときは、死んだらどうなるだろうと不安で仕方がなかったそうです。しかし、そのときは、前と違って、本当に平安だったそうです。このまま死んでも天国へ行けるという、なんとも言えない安心感があったそうです。

 その他に、喜び、愛、柔和、善意の実がクリスチャンに現われてきます。これらは聖霊がその人のうちに与える御霊の実であります。また、コロサイ110「あらゆる善行のうちに実を結び」とあるように、善い行ないが実として現われてきます。「クリスチャンになると完全に聖められるか」というと残念ながらそうではありません。私の場合は、疑い、怒り、悪いことば、意地悪な思い、自己義認、それから不品行な思いもチラッとあります。「キリストと共に死んで、新しく生まれ変わったのに何故だろうなー」と思います。それでは、私も悪い木として、切り倒されて、火に投げ込まれても仕方がないのでしょうか。あるとき私は、本当に自分の中にはそういうものがあると、悔い改めました。特に「怒りとか悪い言葉」そういうものが、神様の働きをはばんでいるのだなーと自覚しました。不思議なことに、それらを神様の前に告白したらスッキリしました。これから、幾分か少なくなるだろうと思います。その分、救いの実が教会にも現われていくと信じます。

 ヨハネ15章には「わたしはまことのぶどうの木」と書いています。主イエス様がまことのぶどう木であるという有名な言葉です。黙想していたら、私は野生の木の枝だったのですが、キリスト様に接ぎ木していただいたことが分かりました。私はアダムの罪を持つ、悪い木の枝でありました。しかし、そこから切り取られ、良い木であるイエス様に接木されました。すると、イエス様の方から良い命が流れてきます。また、昔のいばらの要素があるのですが、良い命によって悪い要素がかき消され、悪い実がなりそうでなりません。むしろ、良い実が結ばれていくのです。大切なのは、良い木であるイエス様につながって、いつも、イエス様から命をいだだくということです。そうすると、必ず豊かな実を結ぶと信じます。ヨハネ15:5「私はぶどうの木で、あなたがたは枝です。人が私にとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができかないからです。」イエス様が、多くの実を結ぶと約束しています。これは努力やガンバリではなく、神様から来る恵みです。もちろん、まだ、まだ、良い枝に体質改善されるべき要素はあります。しかし、つながってさえいれば、かならず良い実を結んでいくと信じます。

 サタンは嘘つきです。「希望がない」とか「ダメだ」と言います。「難しい」「できない」とも言うでしょう。しかし、それは真っ赤なウソです。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架に死んで、罪の代価を全部支払って下さいました。私たちの罪は全部、解決され、今は神の目からは義(正しい者)とされています。世の人々や自分の評価ではありません、悪魔の評価でもありません。神様は「あなたは、もう罪人ではない、義とされた私の子どもだ」と呼んで下さっていいます。ピリピ1:6 「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」つまり、救いを与えてくださった神様は、それを終りの日まで、完成させて下さるのです。アーメン!失望することは全くありません。向こう様が責任を取って下さるというのですから、お任せしようではありませんか。御霊ではじまったことを肉で完成させてはいけません。恵みではじまったことを肉の努力で完成してはいけません。最後まで御霊(恵み)によって完成させていただくべきです。

 神様は「救いは恵みだけど、クリスチャン生活は、君たちの努力だ」とは言いません。きよい、勝利的な信仰生活の実も、聖霊の恵みによってなされると確信します。日本のクリスチャンが教会がこのことを知って恵まれていくなら、必ず、神様の働が進み、日本にも多くの魂が救われていくと信じます。多くの実とは、魂が救われる救いの実ともとれるからです。まずは、クリスチャンが(教会が)体質改善され、良い枝になって、キリスト様から命を豊かにいただくことです。兄弟姉妹が愛し合い、赦し合っていくのです。そうしていくと、世の人々もあれはなんだろうと好意を持ってくれるようになるでしょう。使徒の働きの教会のように、主も、日々救われる人を加えて下さいます。アーメン。「教会成長」「教会成長」と言いますが、本当はそう難しいことはありません。イエス様の恵みをいただいて行けば大丈夫です。それは、狭い道かもしれません、世の人々の目からは隠されているかもしれませんが、確かな道であります。ハレルヤ!私たちを豊かな人生へと導いて下さる神様をほめたたえ、ますますイエス様に従って行きたいと思います。

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