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2016年4月28日 (木)

さばいてはいけない マタイ7:1-6 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.5.1

 教会用語というのがあるかどうか分かりませんが、「さばく」とか「さばかれた」と良く聞きます。クリスチャンの場合は、この世の人たちと違い、「聖書」という絶対的な基準があります。本来、神さまから自分に向けられて語られているのですが、人にも向ける時があります。聖書の中には、律法と言われる命令や規則があります。これはとても切れ味が良くて、両刃の剣よりも鋭い(ヘブル412)と言われています。両刃ですから、相手を切ったつもりで、自分も切られる恐れがあるということです。そのため、マタイ7章には「さばくとさばかれる」と書いてあるのです。

 

1.さばいてはいけない

 さばくとは聖書的にどういう意味でしょうか?ギリシャ語のクリノウは、「正しいかどうかを判断する」という意味です。ですから英語の聖書にはjudge(裁判する、判決を下す)になっています。しかし、クリノウは他に、「批判する」「罪する」「責める」という意味もあります。ですから、JB.フィリップス訳ではDon’t criticize peopleとなっています。そうなると「批判するな」「非難するな」「あら捜しをするな」という意味にもなります。アダムとエバは食べてはならない木から取って食べました。その木は「善悪を知る木」でした。サタンは「それを食べると、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」と誘惑しました。「善悪を知る木」は神の主権を象徴するものであり、その木から取って食べるとは、自らが神になるということです。それは神の主権を犯す反逆的行為であり、クーデターでありました。アダム以来の人間はどうなったのでしょうか?本来、神さまが人間をさばくのですが、神さまの代わりに自分が他の人をさばくようになったのです。パウロはこのように言っています。ローマ21「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」私たちが人をさばくとき、自分も同じようなことをしていたらどうなるでしょう。今度は自分がさばかれることになります。イエス様は「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれる」とおっしゃった通りであります。たとえば、人に指をさしてさばくとします。すると、他の3本は自分に向けられています。そして、1本は天に向けられています。つまり、神さまに対してもさばいているんだということです。「神さま、いつまでもその人の罪を見過ごしているのですか?だったら、私があなたに代わってさばきますよ」ということなのです。ローマ144「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」これはどういう意味でしょう?「その人の主人は神さまであり、あなたではありません。その人の主人である神さまがさばくのであって、あなたには関係ありませんよ」ということです。

「エリヤハウス」の創設者サンフォード師は「物理には作法反作用の法則があります。『さばくとさばかれる』も作法反作用の法則ではないでしょうか。神さまは物理学にせよ、倫理道徳の法則にせよ、同じ永続性のある法則を造られたのです。」と言いました。エリヤハウスのテキストによると、裁く思いとは私たちが誰かに対して、「この人はこうだ」と決めつける思い、責めるような思いを抱くことであると定義しています。では、どこからそういう思いを抱いてしまうのでしょう。これは幼い時から、心に抱く印象です。また、人生で辛い出来事を経験すると、私たちは裁く思いを持つようになります。また、成長してからでも意識してそのような思いを抱くことがあります。私たちがだれかをさばくと、私たちも同時にさばかれます。これはエリヤハウスの講師、キャッシーさんの証です。私が子どものとき、母は怒ると、鍵をかけて3日も4日も出て来ないでひきこもっていました。小さい頃、「お母さん」「お母さん」とドアをノックしました。そのとき、私の心の中に裁く気持ち、苦々しい気持ちが起こりました。そして、「絶対、私は家族に対してそういうことはしない!」と決意しました。しかし、自分が結婚してから、絶対にしないということをするようになりました。私は母が傷つけたようなやり方で、自分の家族を傷つけました。お母さんがした同じことをやっていたのです。過去の傷と恨みが残っていました。私がお母さんを裁いたため、私自身もさばかれることになったのです。

 幼い時に、何らかのことで、父もしくは母をさばいたとします。それは種を蒔いたことになります。大人になった本人はそんなことを忘れています。しかし、どうでしょう。結婚して、自分がお父さん、あるいはお母さんになった時に蒔いた種の刈り取りをしなければなりません。自分の子どもから同じような仕打ちを受けたとき、「ああ、私もそんなことがあった」と思い出すのです。イエス様が「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」(マタイ72と言われたとおりです。エリヤハウスでは、これを「苦い根のさばき」と呼んでいますが、過去にさかのぼって悔い改めないと、ずっと継続していきます。そうすると自分の人生を汚すだけではなく、家族や親しい人までも汚してしまいます。幼い時のことは忘れていますので、今、結んでいる実をたどっていくと、「ああ、同じようなことがあった」と思い出すことがあります。そこには、不遇な境遇や不当な扱いがあったかもしれません。問題なのは、こっちが怒ってだれかをさばいたことであります。それは罪なので、悔い改める必要があります。同時に赦すべき人を赦します。最後に怒りを手離し、そこに神さまの慰めと新しい命をいただきます。そうすると「さばきの目」「さばきのものの見方」が消えます。私はさばきのことばを親や兄弟、学校の先生、友人からさんざん浴びせられて育ちました。ですから、こちらもさばきのことばで対抗する性質が残ってしまいました。私は信仰を持ってから、神さまの愛とあわれみを十分いただきました。まだ、この法則から完全には脱していませんが、だんだん解放されつつあります。

 本来、この「山上の説教」は弟子たちに語られたものです。しかし、彼らの周りに群衆や宗教家たちもいたと思われます。このところに、「偽善者よ」とか「犬」とか「豚」と呼ばれている人たちがいます。おそらく律法学者やパリサイ人のことをおっしゃっているのでしょう。彼らはイエス様の教えを聞くどころか、反発してイエス様を十字架に付けてしまいました。ヨハネ7章に書いてありますが、イエス様はある朝、人々に教えておられました。そのとき、律法学者とパリサイ人たちが、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来きました。彼らは「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか」と質問しました。彼らは、イエス様が「赦してやりなさい」と言えば、モーセの律法を破っていると訴えるでしょう。また、イエス様が「石打ちにしなさい」と言えば、「あなたは愛のない人だ」と批判するでしょう。これは罠であり、どっちをとっても不利になってしまいます。イエス様は何も答えずに、身をかがめ指で地面に何かを書かれました。彼らは「どうするんだ」と問い続けました。イエス様は身を起こして「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われました。そして、もう一度身をかがめて、地面に書かれました。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエス様と女だけが残されました。イエス様は、身を起こして、彼女に「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と言われました。律法学者やパリサイ人たちはモーセの律法を盾にして、この女性をさばきました。イエス様は身をかがめて彼らに考える時間を与えました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われたとき、自分たちは、他者をさばける者ではないことを悟ったのでしょう。最後に、最も罪を裁くことのできるイエス様が残り、そして彼女をさばきませんでした。

 ナタナエル・ホーソンという人が『緋文字』という小説を書きました。夫が行方知れずの一人の美しい女性がいました。彼女は赤ん坊を産み落しましたが、相手が分かりませんでした。教会は彼女をさらしものにして、彼女は胸にAという赤い文字の入った服を着せられました。Aとは姦淫罪、adulteryという意味です。歴史をたどると教会は神の名を借りて、人々を審判してきました。もちろん、教会のきよさを保つために、罪を犯し続ける人を排除しなければならないでしょう。でも、「さばきよりも大切なのは何か」ということをイエス様はヨハネ7章で教えておられるのではないでしょうか?ヤコブ213「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」もちろん、愛をもって罪を正すことも必要でしょう。しかし、その人の立場に立ってみないと分からないこともたくさんあります。英語では、in someone’s shoes「人の靴に足を入れる」と言います。そうです。その人の靴に足を入れないと、分からないことがたくさんあります。ですから、こっちの見方で、一方的にさばいてはいけません。むしろ、私たちは罪をあばくのではなく、むしろおおってあげる必要があります。Ⅰペテロ48「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」

2.ちりと梁

 マタイ73-4「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。」イエス様は大工さんだったので、このようなたとえを用いたのかもしれません。ここで言う「兄弟」とは、神さまを「お父さん」と呼ぶ信仰者の仲間のことです。私たちは外部の人たちには寛容ですが、仲間に対しては厳しくなる傾向があります。でも、イエス様はまず自分の梁に気づくようにと勧めておられます。岸義紘先生はある本で、教会での裁き合いのことを「ちり梁戦争」と呼んでおりました。その本の挿絵にはお互いの目から、梁が「ボーン」「ボーン」と飛び出しています。もうあぶなくて近よることができません。JB.フィリップス訳がとても分かり易いので引用します。「ちり」はspeck of sawdustと書かれています。Speckというのは「小さいしみ」「小粒」という意味です。Sawdustというのは、鋸で切った、鋸くず(おがくず)のことです。原文のギリシャ語ではchip「乾いた小片」になっています。さらに、JB.フィリップス訳では、plank in your ownとなっています。Plankというのは、厚板であります。製材所に行くと「鋸くず」と「厚板」を見ることができます。分かり易く言うと、「自分に厚板がささっているのに、兄弟の鋸くずを取らせてください」ということなのです。これは、イエス様のユーモアであります。

 私たちは他の人をjudgeする(裁判する、判決を下す)目を持っています。しかし、その目が人の悪いところや欠点を拡大して見る目でしょうか?あるいは、人の良いところや長所を拡大して見る目でしょうか?自分の目に梁がつきささっているのに、人の目からちりを取らせてくださいと言えるでしょうか?あるご夫妻が新しい家に引っ越しました。二人が朝食を取っていましたが、窓越しにお隣さんの洗濯物が見えました。奥さんは「なんと汚れているのでしょう?洗濯の仕方が分からないじゃないの。教えてあげなけりゃ!」と言いました。毎朝、毎朝、奥さんは隣の洗濯物が汚れていると言いました。ある朝、奥さんが窓の外を見て驚きました。「まあ、なんときれいな洗濯物なんでしょう?美しく輝いて見えるわ。やっと洗濯の仕方が分かったのね」と言いました。ご主人が笑いながら言いました。「今日の朝、早起きして居間の窓ガラスを磨いたんだよ」。問題は、お隣の洗濯物が汚れていたのではありません。こっちの窓ガラスが汚れていたのです。奥さんは、汚れた窓ガラスを通して見ていたのです。同じように、私たちも汚れたレンズで見るならばどうでしょうか?テトス115「きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。」とあります。つまり、問題なのは相手側ではなく、むしろこっちの見方にあるということです。だから、イエス様は「まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」とおっしゃったのです。私たちは相手の悪いところや短所ではなく、むしろ良いところや長所を拡大して見る目が必要です。これは、自然にできるものではなく、訓練しなければなりません。私の家内は人の悪いところや欠点をあげることをしません。私が「そう思うだろう?」と言っても、「そうじゃないわ」と反論します。私はイライラして「あなたは批判力がないんだ」と言います。私はさばきの目が発達しているのかもしれません。

 私たちは人をさばくことばと、人をほめることばにどっちらに応答するでしょうか?もし、奥さんが「あなたたまには庭の芝生を刈ってよ。暇なのにどうして刈らないの。草ぼうぼうで見っともないわよ」と言ったとします。3回くらいうるさく言われれば、重い腰をあげて刈るかもしれません。しかし、奥さんが「あなたって筋骨隆々で頼もしいわ。ハンサムで魅力的」と言ったとします。ご主人は、毎日、芝生を刈るんじゃないでしょうか。子どもでも同じです。お母さんが「どうしてゲームばかりやって、宿題をしないの。それじゃ進級できないでしょう」と言ったとします。3回くらいうるさく言われれば、重い腰をあげて勉強するかもしれません。しかし、お母さんが「あなたは元来できる子よ。ちょっとやれば伸びるわよ。私には分かるの」と言ったとします。子どもは、毎日、勉強をするようになります。カーネギーという人が『人を動かす』という本を書いています。ちょっと引用します。私は人の悪口を言わないことにしました。悪口を言う代わりに、ほめることにしています。自分の欲することについては何も言わず、もっぱら他人の立場に身をおいて物事を考えるように努めています。そうすると、生活に文字通り革命的な変化が起きました。私は以前とはすっかり違った人間になり、収入も増え、交友にも恵まれた幸福な人間になりました。目つき、口ぶり、身振りなどでも、相手の間違いを指摘することができるが、これは、あからさまに相手を罵倒するのとなんら変わりない。そもそも、相手の間違いを、何のために指摘するのだろう。相手の同意を得るために?とんでもない!相手は、自分の知能、判断、誇り、自尊心に平手打ちを食らわされているのだ。当然、打ち返してくる。考えを変えようなどと思うわけがない。どれだけプラトンやカントの論理を説いて聞かせても相手の意見は変わらない。傷つけられたのは、論理ではなく、感情なのだから。

もちろん、私たちは聖なるものを犬にやってはいけません。真珠を豚の前に投げてはいけません。しかし、もしその人が「目からちりを取り除きたい」と悩んでいたらどうでしょうか?今から3年くらい前、エディレオ師が、「ちりを取り除く」ことについてこのように教えてくださいました。当時は、よく見える鏡が存在していませんでした。鏡が曇っているので、細部まで見ることができないのです。そのため目の中にちりがあっても、自分自身では取り除くことができませんでした。しかし、自分では見えないけれど、他の人には見えます。だから、あなたにはちりを取ってくれる兄弟が必要なのです。ちりとは何でしょう?あなたの潜在意識の中にある何かです。その何かがあなたを何度もコントロールします。だから、悪いことを何度もさせてしまうのです。あなたはそのことに気付いていないので、何度もやってしまいます。しかし、他の人はそれに気付いています。もし、自らの目に梁がないならば、その人からちりを取り除くことができます。教会という、共同体の中でより効果的にできます。しかし、今日の教会は、このことを実践していません。だから、私たちは愛の共同体にならなければなりません。いくつかの共同体は不健康です。すべてのメンバーが梁を持っています。すべての人が梁を持って、互いにさばき合っています。互いに罪に定め、互いに打ちたたき合い、互いに容赦しません。こういう共同体ではちりを取り除くことができません。互いにさばき合うならば、人々はさらに傷つきます。最後には互いに心を開き合うことができなくなります。もし、私たちが健康であるなら、もう梁がなくなって、ちりを取り除くことができます。そして、互いに癒し合うことができるでしょう。互いに心を開き、透明な関係を持つことができます。そして、心と思いに変革が起こります。だから、私たちはちりを取り除くことを実践する必要があります。

キャロライン・リーフという脳神経医がいらっしゃいます。彼女は『だれが、私の脳のスイッチを取り消したか?』という本を書いています。エディレオ師が彼女の本を引用しながら、このようなメッセージしてくださいました。あなたの中の潜在意識の中に否定的ものがとどまっている状態では、あなたは力を失ってしまいます。あなたはそれを変えることができません。しかし、潜在意識が、顕在意識の中に移される時に、リアルなものとして理解します。あなたは自分自身のちりを発見するでしょう。その時、あなたはそれを変える力を得ることができます。なぜなら、それが顕在意識の中にあるので、自分で考えることができるからです。あなたはそれを変化できる自由を得るでしょう。あなたはそれを拒絶することができます。また、あなたはそれを虜にして、その力を打ち砕くことができます。あなたは顕在意識によって何でもすることができるのです。しかし、それをすぐしなければならなりません。なぜなら、顕在意識にやってきたものは、48時間しかとどまらないからです。48時間経ったあとには、潜在意識に戻ってしまいます。そうすると、もう一度、顕在意識に上がってくるまでに待たなければなりません。だから、否定的な思いが上がってきたときに、それを書き留めなければなりません。顕在意識に留まっている48時間の間に、このように言うでしょうか?「神様、私はなぜこんなに汚いのでしょう。「神様、私は価値がありません。」「神様、私は罪に定められている気がします。」「神様、私は恥で満ちています。」あなたがこのように言うとき、同時に、「私は変わることができない。変わらないだろう」と言っているのです。それらは、恥と罪悪感に基づいて言っています。恥と罪悪感に基づいて強くなった考えを、再び、潜在意識に戻しているのです。だからこそ、その罪悪感を取り除かなければなりません。アジア、とりわけ日本において、こう人たちをたくさん見てきました。彼らは恥と罪悪感に満ちています。罪に定められている気がします。罪悪感はイエス・キリストの血によって洗い流すことができます。キリストにあるなら、罪に定められることがありません。もう恥がなくなり、もう汚れもなくなります。なぜなら、イエス様があなたをきよくしたからです。ハレルヤ!イエス様はあなたを変えたいと願っておられます。ですから、私たちは教会という共同体の中で生きる必要があります。まず、自分の目から梁を取り除きましょう。その後は、兄弟の目からちりを取り除くお手伝いをさせていただきたいと思います。

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2016年4月22日 (金)

空の鳥を見よ マタイ6:25-34 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.4.24

 きょうの聖書箇所を読むと、非常に牧歌的で現代のようなハイテクの時代にはそぐわないような気がします。今の世の中は複雑であり、人間が作ったものに満ちています。しかし、人々はその中で何を食べるか、何を飲むか、何を着るか思いわずらって生きています。イエス様は「空の鳥を見よ」と言われましたが、上を見上げるときに、創造主なる神さまのことを思い出させてくれます。いくら世の中が複雑であっても、すべての必要は、創造主なる神さまから来ているのです。私たちを養ってくださる父なる神さまの存在を知るとき、心配事や思いわずらいから解放されるのではないでしょうか?

1.根源者なる父

 このところにいくつかのものが上げられています。1つは人間が働いて作り出したものです。もう1つは神さまが与えたもので、根源的なものです。では、人間が働いて作り出したものとはどういうものでしょうか?食べ物、飲み物、着るものがあります。一方、神さまが与えてくれた根源的なものとは何でしょう?いのち、からだであります。イエス様は、27節で「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」と言われました。「自分のいのちを延ばす」はギリシャ語では、「自分の身長を1キュビット(45センチ)でも伸ばすことができますか」となっています。また、新共同訳は「自分の寿命をわずかでも延ばすことができますか」と訳しています。いのち、身長、あるいは寿命は人間ではなく、神さまの御手の中にあるものです。いくらがんばっても、自分の身長や寿命を伸ばすことはできません。それにくらべると、食べ物、飲み物、着るものはどうでしょうか?いろんな食べ物があり、どれを食べるか迷ってしまいます。世の中はグルメ・ブームで、レストラン、スイーツ、名産品、ラーメンなどを紹介するテレビ番組がいっぱいあります。中には、自分で作った料理をブログに載せている人もいます。飲み物もビール、お酒、ワイン、コーヒー、青汁、健康飲料、たくさんあります。飲み物の動販売機がいたるところにあります。着るものはどうでしょうか?近くにこのアリオがありますが、横文字のお店がたくさんあります。土日には長い列ができています。人々は流行に遅れないように必死です。イエス様は631-32「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」と言われました。

 イエス様はこういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです」と言われました。つまり、彼らの心配ごとは、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、それらのことで心がいっぱいなんだということです。しかし、イエス様は「食べるものよりも、いのちが大切だ」と言われました。私たちは「食べものがなければ生きて行けないだろう」と反発するでしょう。イエス様は「何を食べようか、何を飲もうかと心配するな」とおっしゃったのです。何も食べるな、とか何も飲むなと言われたのではありません。つまり、こういうことです。もし、いのちを「健康」というふうに置き換えたらどうでしょう?いのちや健康があってこそ、食べ物や飲み物をいただくことができます。病気で衰弱していると、食べたり飲んだりできません。つまり、いのちや健康の源は神さまからくるものであり、食べ物や飲み物は人間の努力や働きの結果であります。私たちは本末転倒をしており、食べ物や飲み物が健康をささえ、寿命を延ばすように勘違いしています。おいしいものを食べたら健康で長生きするかというとそうではありません。ヨーロッパや日本でもそうですが、粗末なものを食べている山間部の人が長生きするというデーターが出ています。むしろ、おいしいものを食べる人が肥満になったり糖尿病になり短命だということです。さらにイエス様は「着るものよりも、からだが大切だ」と言われました。これに対して、私たちは「着るものがなければ、裸で暮らすのですか?」と反発するでしょう。イエス様は「何を着ようかと心配するな」とおっしゃったのです。何も着るなとおっしゃっているのではありません。もし、からだを「スタイル」というふうに置き換えたらどうでしょう?いくら高級なドレスを身に着けても、「どうかな?」と思います。テレビショッピングで衣類や装飾品を販売しています。それを身に着けている人はスタイルが良くて美しい人です。「とても良く似合っているな」と思って、買ってみるのでしょう。自分が着てみるとそうでもない、ということがあるのではないでしょうか?つまり、着る物よりも本体であるからだの方が大切だということです。衣類や装飾品は人間が加工して作るものです。でも、からだは神さまが与えた本質的なものであります。

 イエス様はそのことをもっと分かるようにするために2つのイラストレーション(実例)を与えました。1つは空の鳥であり、もう1つは野のゆりであります。とてもシンプルでありますが、現代人にも通用する立派な実例であります。イエス様は「空の鳥を見なさい」と言われました。彼らは種まきもせず、刈り入れもせず、倉におさめることもしません。この3つの作業は、私たち人間が食物を得るために必要なことです。つまり、これらは人間の働きであり、生産物です。空の鳥はそういうことをしていなくても、天の父が養ってくださいます。彼らはきょうは何を食べようか、人間のように心配していません。ただ、神さまが与えてくれたものを食べているのです。そして、そのいのちすらも、神さまが与えているのです。イエス様は私たち人間が「彼らよりももっとすぐれたものではありませんか?」とおっしゃっています。どういうことかと言うと、神さまが空の鳥を養っているのなら、もっとすぐれた人間を養わないはずはないだろうというこです。もう1つは野のゆりです。野のゆりは働きもせず、紡ぎもしません。しかし、神さまが彼らを着飾ってあげておられ、「栄華をおさめたソロモンもかなわない」と言われました。働きもせず、紡ぎもしないということは、着る物を作っていないということです。神さまが野のゆりに着る物をちゃんと与えているということです。神さまがこれほどに装ってくださるのだから、まして人間によくしたくださらないことがあろうかということです。あすは炉に投げ込まれる野の草さえも装ってくださるとはどのような神さまでしょう。

私たちが前半のメッセージで学ぶことは何でしょう?食べ物、飲み物、着る物は人間が働いて作り出したものです。私たちはいつの間にか、こういうものがなければ生きてゆけないと心配します。挙句の果て、どれを食べるか、どれを飲むか、どれを着るかという贅沢な悩みまで持ってしまいます。お金を持つと、だんだんおいしいもの、高級品に傾いていきます。2000年の統計ですが、日本では家庭や食品工場、外食産業で、合計3000万トンの食糧が無駄になっているそうです。発展途上国での4600万人の年間食糧に相当するそうです。また、衣類はどうでしょうか?昔は1つの洋服を使い回ししていたかもしれません。しかし、今では少し流行に遅れるとタンスの肥やしになります。私も家内から注意されますが、クロゼットにジャケットやシャツがいっぱいつまっています。水前寺清子という歌手がいますが、三階の家全部に衣服があふれており、お風呂場も使えない状況でした。今の人たちは、着る物がないので悩むのではなく、どれを着るか悩んでいるのです。どうして、イエス様が空の鳥や野のゆりのことをあげたのでしょう?それはもっとシンプルに考えなさいということです。世の中の経済機構や流通機構を考えると一体だれが、必要を与えているのか分かりません。特に日本は創造主の概念がないので、みんな人間が生産して加工しているんだと考えるでしょう。そして、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか心配しています。しかし、そういうものは本質的なものではなく、すべて付随的なものであります。神さまは私たちがどうすることもできない、いのち、からだ、寿命を与えているんだということです。もし、いのち、からだ、寿命がちゃんと与えられていれば、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか心配する必要はありません。

つまり、すべての根源者なる神を知るということです。しかも、イエス様は「あなたがたの天の父」とおっしゃっています。私たちの神さまは、もっと、パーソナルで親しいお方だということです。父親と子どもという関係であるならば、どうでしょうか?父親は子どものことを心配し、必要なものであれば、いくらでもあげたいと思うでしょう。ところが、子どもは放蕩息子になり、父親なんかいらない、自分で生きて行けると思っています。生まれつきの人間は、霊的な孤児であり、「神なんかいらない。自分で働き、自分で生産し、自分で作るんだ」と高慢になっているのです。根源者なる天の父から離れたならどうなるでしょう?いくら食べても満足しない。いくら飲んでも満足しない。いくら着ても暖まらないのです。そして、心の中には心配やおもいわずらい、孤独感が満ちています。日本人の多くの人たちが鬱などの精神疾患で病んでいます。あるデーターでは「日本の人口が約1億2000万人で、過去一年間に、1000万人以上の方が精神疾患にかかり、うつ病は、380万人以上がかかっている」と言っています。私たちには、いのちとからだ、寿命をささえておられる天の父がおられます。空の鳥に食物を与え、野のゆりを飾ってくださる神さまが、どうして神のかたちに造られた私たちを養ってくださらないことがあるでしょうか?信仰の薄い人とはそういう天の父を信頼しない人であります。私たちは根源者なる天の父をひたすら慕い求めていきたいと思います。

2.神の優先順位

マタイ633「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」このみことばは、とても有名です。ある人たちは、このみことばを座右の銘にしています。しかし、あるクリスチャンたちは、このことは教会を第一にすることなんだと解釈しています。つまり、第一に教会の奉仕、第二が家庭、第三が仕事、第四が趣味というふうに優先順位をつけています。中には日曜日の朝から教会に行って、家に戻るのが夜だという人がいます。独身者だったらまだしも、もし家族の中で自分だけがクリスチャンであるという主婦であったらどうでしょうか?家で残されたご主人や子どもたちのお昼はどうなるのでしょうか?さらに、水曜日の祈祷会や他の奉仕で留守をするとなると、残された家族は教会を恨むかもしれません。実際、カルト的な教会は、すべての時間を教会の奉仕に向けることが本当のクリスチャンなんだと言います。また、世の中の仕事は、お金を得て、献金するためなんだとするならどうでしょうか?教会に関する奉仕がきよくて、世の中の仕事はきよくない。だから、お金を得るためだけに働くというのです。しかし、そうなると人生の半分近くが無駄なことをしているんだということになります。このように、教会とこの世ということを分けるという考えがピューリタンの中に生まれました。どういう意味かというと、神さまに関することだけがきよいのです。聖書、讃美歌、礼拝、祈祷会、奉仕、信徒の交わりがきよいのです。一方、きよくないものは政治、経済、学校、仕事、この世の音楽、スポーツ、ダンス、趣味などです。今はそういう極端な人はいないと思います。でも、教会とこの世とを分けて、考える人はたくさんいます。教会に関することはきよくて、この世のビジネスや芸術、政治はきよくないと考えるということです。もし、そのように二元論的に考えるならば、神さまを第一にするということは、かなり偏ってくるし、この世とは無関係なものとなるでしょう。ですから、神の国とその義を第一にすることは、教会を第一にするということではないということです。

私は第一に教会の奉仕、第二が家庭、第三が仕事、第四が趣味というふうに分けるのは間違っていると思います。あるいは、神さまに関することがきよくて、この世の政治やビジネスや芸術がきよくないと考えるのも間違っていると思います。では、どういうことが神の国とその義とをまず第一に求めなさいということなのでしょうか?まず、私たちは文脈からこのみことばを考えなければなりません。イエス様は「だから」と言われました。だからということは、その前の文章をふまえて言っていることであります。では、どこまでなのでしょうか?イエスさまは「そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」とおっしゃいました。少し前の31節には、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るかなど心配するな」と書かれています。もし、神の国とその義を第一に求めるならば、食べ物、飲み物、着る物がちゃんと与えられるということです。空の鳥や野の花が人間のように働いて生産しなくても、天の父が彼らを養ってくださいます。ましてや神のかたちに造られた私たちはもっと価値があり、もっと神さまが養ってくださるということでした。でも、そこには1つの条件があるということです。それは、神の国とその義とをまず第一に求めるということです。そうれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられるのです。なぜなら、天の父は、それがみんな私たちに必要であることを知っておられるからです。神を信じない異邦人は、天の父もいないし、神の国とその義とを第一に求めていません。当然、そういう人たちには思いわずらいや心配が伴うんだということです。自分の力しか頼れないと思っているので、明日のことも心配になります。いくら持っていても、明日どうなるか分からないので、心が休まることがないのです。日本ほど、生命保険をはじめいろんな保険に入っている国もないそうです。また、日本ほど貯蓄する国もないそうです。また、日本ほど勤勉な国もないそうです。なぜでしょう?それは裏返すと、自分たちを養い、守って下さる天の父がいないからではないでしょうか?しかし、西洋から入ってきた、キリスト教信仰の多くは、天の父はたしかにいらっしゃいます。しかし、教会とこの世を分離して、教会に関するものはきよくて、この世のものはきよくないという二元論を教え込まれました。クリスチャンになって救われるのはすばらしいことですが、禁欲的で、この世から離れて暮らす信仰生活になります。この世では、ひたすら我慢して、天国に行ったら豊かな生活ができると考えます。クリスチャン一世は熱心でそれで良いかもしれませんが、子弟たちは「世捨て人みたいでいやだよ」と離れるでしょう。

 ですから、私たちはマタイ633のみことばを正しく理解しなければなりません。もう一度言いますが、私たちが第一に求めるのは教会ではなく、神の国とその義であります。また、ここで言われているのは、神さまを第一に求めるならば、食べ物、飲み物、着る物が必ず与えられるということです。まず、このことに私たちは安息すべきであります。天の神さまが私たちを養ってくださるのです。私たちにいのちを与え、からだを与え、寿命を与えてくださいます。また、食べ物、飲み物、着る物のもとの原料や資源も与えて下さっているのです。人間は生産したり、加工したりしていますが、すべて根源者なる神さまがおられるからです。アーメン。しかし、1つ問題が残っています。第一に教会の奉仕、第二が家庭、第三が仕事、第四が趣味なんでしょうか?また、教会に関することはきよくて、この世のものはきよくないのでしょうか?マタイによる福音書をはじめたときから、何度も言っていることがあります。この世は神から離れて暮らしている人間のことをさしています。背後に悪魔がいて、この世が神の代わりに人々を占有するように誘惑しています。しかし、この世にイエス様が御国をもって入ってこられました。御国とは神の支配であります。まだ、神の領土は目に見えませんが、神の支配として確かに来ています。私たちクリスチャンは、この世から、御国に入った存在です。私たちはこの世に住んでいますが神の民であります。さて、このようなことが分かるとさっきの問題はどうなるのでしょうか?イエス様はルカ福音書で「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ1721と言われました。私たちは神の国の中にいますが、同時に、私たちの中に神の国があるのです。ということはどうなるでしょうか?この世の中に、御国があり、御国が私たちの中にあるということです。つまり、神の支配である御国が私たちと共にあるということです。言い換えると、私たちが御国を運んでいる器だということです。では、教会とは何でしょうか?そういう御国を持っている人たちが集まっているところを教会と呼ぶのです。ですから、この地上において教会が1つにまとまり大きくなったり、あるときは小さなかたまりで散らされるということです。私たちは今、教会という建物の中にいます。しかし、この集会が終わると、家庭、職場、学校、地域社会に散らされて行くということです。だから、教会とこの世を二分することはできません。なぜなら、私たちが教会の一部として、いろんなところに派遣されているからです。10年近く前、香港からベン・ウォンが来られたことがあります。私たちクリスチャンが教会なんだと言っていました。先生は、「人々を教会に連れて来てはいけません。私たちが人々のところに行くのです。なぜなら、私たちが教会だからです」と言われました。先生は教会になまじっか建物があると、建物を教会と呼んで、何でも教会の中でやってしまうと批判していました。そうではなく、私たちが人々のところに教会を持ち運ぶ存在なんだと言っていました。ちょっと過激すぎたので、会堂建築にストップがかかってしまったところもあります。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい」とはどういう意味でしょう?それは家庭で家事をしているとき、家族と接しているときもそうなんですよということです。家庭に神さまの支配を歓迎し、神さまが喜ばれるようなことが行われように願って行動するということです。あなたが神の国の代表者、大使であるならば、家族の人が当然、祝福されるのではないでしょうか?また、それは会社や職場で仕事をしているときであります。上司や同僚、部下、顧客と接しているとき、神さまの支配を歓迎し、神さまが喜ばれるようなことが行われように願って行動するということです。あなたは神の国の代表者、大使であるならば、職場の人たちが当然、祝福されるのではないでしょうか?これは、地域社会、趣味のサークル、あらゆることに適用できるのではないでしょうか?つまり、この世という神から離れた世界に、地の塩、世の光として派遣されているということです。では、「そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とはどういう意味でしょう?すべてのものとは、食べ物、飲み物、着る物、生活必需品であります。でも、「それに加えて」とあります。それとは、あなたが第一に求めた「神の国とその義」であります。私たちクリスチャンは、神の国とその義を求めるという姿勢が大切だと言うかもしれません。しかし、求めた人に神の国とその義が与えられると聞かされたことがあるでしょうか?また、神の国とその義が与えられたらどうなるのでしょうか?イエス様は主の祈りで、「御国が来ますように」祈れと言われました。ですから、その人の中に神の国と神の義が与えられるということです。ハレルヤ!旧約時代の人は「神が共におられることが救いだ」と言いました。しかし、新約の私たちは天国に行く前に、すでに神の国と神の義があるということです。言い換えると、自分の中に天国があるということです。私たちには、この世にいながらも、天国の豊かさ、天国のいのち、天国の喜び、天国の力、天国の守り、天国の健康、天国の回復があるのです。

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2016年4月15日 (金)

天に宝を蓄えよ マタイ6:19-24 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.4.17

 子どもと大人の違いがあるとすればどんなことでしょうか?子どもは人からもらうことに喜びを感じます。一方、大人は人に差し上げること、つまり与えることに喜びを感じます。もちろん、大人でも人からもらうと嬉しいことは間違いありませんが、人に与えることができたらもっと嬉しいですね。天に宝を蓄えると言うのは、人々や神さまの働きのために与えることではないかと思います。常識的に、与えると自分のものがなくなるので悲しくなります。しかし、イエス様は天に宝を積むことになるんだと言われました。そこには、神さまの豊かな報いがあるということです。

1.天に宝を蓄えよ

 宝とはどんなものでしょうか?旧約聖書には金銀、宝石はもちろんそうですが、象牙、紫布、絹、麦、オリーブ油、羊、牛、男女の奴隷も含まれていたようです。ですから、その中には虫やさびで、傷ものになるものもあるでしょう。宝は蔵におさめ鍵をかけます。ところが、盗人が穴を開けて、大事なものが盗まれる恐れがあります。現代は、貸し金庫に預けるか、セコムのようにセキュリーティシステムで建物を守るかもしれません。「蓄えるほど宝のある人はうらやましいなー」と思います。しかし、たくさん持っている人は悩みがあるのです。「盗まれないかなー」「キズつかないかなー」ってしょっちゅう心配していなければなりません。たとえば、車でも新車のうちは傷つかないように慎重に運転するでしょう。もし、ちょっとでも、ぶつけたりしたら大ショックで板金に出します。ところが、2,3年たつと、あんまり気にしなくなります。たくさん持っている人というのは、気が休まらないのではないかと思います。イエス・キリストはどう言われたでしょうか。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめない。そこでは虫とさびでキズものになり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあえて盗むこともありません」と言われました。天国には盗人はいません。しかも、半永久的に自分のものになります。保管場所には最適なところだというわけです。

 しかし、どうやって、天にたくわえるのでしょう?宅配便もしくは航空便でしょうか?そうではありません。このことは、マタイ6章のはじめに書いてあります。天にたくわえるというのは、他者への施し、あるいは献金のことではないかと思います。困っている人たちや、神様の事業のために捧げることは、天に宝を積むことになるのだというのです。アーメンでしょうか?それとも、もったいなくて、そんなことはできないでしょうか?教会にはいろいろな団体から募金のお願いが来ます。10年くらい前までは会計が豊かだったので、いろいろな宣教団体にお送りしました。しかし、会計が厳しくなってからは、数か所になりました。それも、クリスマスの時だけです。個人としては、十分の一献金は当たり前だと思っていますが、その他の献金になるとついシビアになります。政府もそうかもしれませんが、人のお金だと気前良く使うことができます。しかし、自分のお金となると、つい渋ってしまうのではないでしょうか?昨年、外壁の工事の相談のため、会社の社長さんとお会いしました。社長さんは「教会さんはどうやってお金を集めていらっしゃるんですか?いわゆるお布施ですか?」と質問をされました。確かに教会は事業をしているわけではないので、愛兄姉の献金によって成り立っています。もちろん、献金は御賽銭とかお布施ではありません。これは、信仰であります。信仰がなければ1円たりとも、もったいなくてささげられません。どういう信仰かと言うと、第一は救われていることの感謝です。それまでは自分が働いてかせいだお金だという考えがありました。ところが、地下資源から私たちの健康にいたるまで、神さまからいただいたものだと分かります。そうすると、感謝のゆえにお返ししたくなるのです。第二は神さまの働き、御国のために投資できるということです。きょう言われている、天に宝を積むということは、まさしく投資であります。

今から約20年前、会堂建築工事がありました。熱心な信仰によって13000万円が集まり、本体と付帯設備が満たされました。ところが、椅子とかピアノなどの備品を買うための資金がありませんでした。もう何度も献金のアピールをしたので、嫌がられると思いましたが、備品献金を募りました。そうしますと、長椅子の一部、講壇、ピアノ、オルガン、テーブル、椅子、時計、食器…1,100万円相当が与えられました。この世では、ピアノ、オルガンのどこかに寄贈者の名前を入れるかもしれません。しかし、教会員は天国に宝を積むんだという信仰からくる喜びに満ちていました。今振り返ると、「なんと無謀だったんだろう」と思いますが、「勢いがあったなー」と思います。献金の喜びは、捧げた人でなければわかりません。捧げたあと、どうやって捧げることができたんだろうとびっくりします。はっきり分かることは、神さまが捧げることができるように、私たちを祝福してくださったのであります。Ⅱコリント910「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」アーメン。

 D.Lカーネギーの本にからの引用です。アメリカに大富豪のジョン・R・ロックフェラー(1839-1937)という人がいました。この人はアメリカの石油業の95%を独り占めしていた大実業家です。彼は貧しい行商人の息子として育ち、若い時から野心でいっぱいでした。彼のモットーは「自分のため、金のため」ということでした。彼はこのモットーで押し通して、1セントでも余計にもうけるために、雇い人や商売相手から情け容赦なくお金をはぎ取っていました。このロックフェラーが50歳を過ぎた頃、極度のノイローゼにかかりました。そのどん底の苦しみの中で彼は我に返り、「自分のため、金のため」という人生は滅びでしかないということが分かったのです。彼は悔い改めてイエス様に立ち返りました。ロックフェラーは、実業界から引退すると慈善事業に全精力を傾けました。有名なロックフェラー財団を創設して、シカゴ大学の創設や病院の創設など、彼が得た財産を社会に還元するようになりました。彼の宝は地上から天に移ったのです。ですから彼の心も地上から天に移ったのです。アーメン。自分の宝を地上にたくわえるか、それとも天にたくわえるか、その人の生き方が違ってきます。21節「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」とあります。もし、縁の下に隠していたら、いつも、縁の下に目がいきます。へそくりを、額縁に隠していたなら、いつも額縁に目がとまるでしょう。ところが、天に蓄えていると、いつも天国に心が向くのです。富を持っていると、人がみんな泥棒に見えますが、天を目指して生きる人生は爽やかです。しかも天に宝を積む人は、自由で前向きです。それに、やがて行ってからの楽しみがあります。あなたの関心は地上と天国どちらでしょうか。

2.純粋な目を持て

 22-23節「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」この聖句は解釈が難しく、分かりそうで分かりません。原文で「あかり」はランプです。「からだのランプは目です」となります。そうすると「目」というのは、物の見方、識別力、考え方のことかもしれません。そうすると、「全身」というのは、その人の生活や人生ということになります。しかし、「目が健全」というのは、原文では「目が単一の、シングルの」となっています。そうすると、「目が悪い」というのは、二重に見える乱視のような目であります。もし、天国にだけに目を向けているならば、その人の目は健全であり、純粋であります。しかし、天国と地上を天秤にかけている人の目は悪いということになります。ヤコブ19「そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」英語の聖書で「二心」は、ダブル・マインドとなっています。旧約聖書を見ると分かりますが、イスラエルはヤーウェなる神に選ばれた特別な民でした。ところがカナンに定着してからは、バアルなど土着の神さまを慕うようになりました。バビロンに滅ぼされるまで、偶像礼拝がなおりませんでした。新約の私たちはどうでしょうか?天上のものと地上のもの、どちらを選んでいるでしょうか?もしかしたら、地上のことに目をうばわれているのではないでしょうか?ヤコブ44「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」ヤコブ48「二心の人たち。心を清くしなさい。」とあります。ということは、決して他人事ではないということです。

 私が神学生の頃、小林和夫先生というとても有名な先生がいらっしゃいました。先生のご自宅で開かれていた祈祷会にこっそり出させていただきました。お部屋の書棚には、レースカーテン越しに、洋書の神学書がぎっしり並べられていました。先生がある時ご自分の証をされたことがあります。アメリカの神学校で、ガーベージを片付けるアルバイトをしながら、学んだそうです。もうすぐ博士号を取れるというのに、教団本部から戻って来いと言われたそうです。先生は博士号が偶像になるかもしれないので、きっぱり学校を辞めて帰国したそうです。先生は組織神学や旧約聖書の他、ジョン・ウェスレーについても教えておられました。大伝道者・ジョン・ウェスレーという人は「一書の人」と言われたそうであります。一書とは聖書ですが、聖書以外の本を読まなかったということではありません。何よりも聖書を深く読み、聖書に土台したメッセージ、聖書をよりどころとした生き方を提唱したということです。私が座間キリスト教会で奉仕していたころ、時々、夕拝の説教が回ってきました。どうしても良い説教、深い説教をしたいという誘惑に駆られました。それで、いろんな注解書を読みあさりました。しかし、偉い先生方の本を読めば読むほど恐れが出てきて、頭も痛くなりました。私はある時から、注解書を参考にしないで、まず、聖書を熟読し、聖霊様にその意味を聞くことにしました。詩篇119:18「私の目を開いて下さい。私があなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにして下さい」。霊的な目が開かれ、みことばを理解できるように神さまに祈り求めました。そうすると、ぱーっとみことばが開かれ、神さまからメッセージが与えられるようになりました。


 イエス様は「からだのあかりは目です」と言われました。もし、目が物の見方、識別力、考え方だとするならば、どうなるでしょうか?神さまが良きものをたくさん与えておられるのに、感謝もしないなら、それは悪い目です。また、人の欠点や悪いところばっかり見るのも、悪い目であります。私は育った環境が悪かったので、どうしても悪く捉える癖がありました。相手が、そういうつもりで言っていなくても、批判しているように聞こえました。どうでしょうか?みなさんの中に傷つきやすい人がいるでしょうか?あるいは、みんなが自分に敵対しているように思うでしょうか?そういう人はおそらく、物の見方がゆがんでいるのかもしれません。なんでも否定的に見てしまうならば、結果的には自分の生活が狭くなり貧弱になってしまいます。私たちは主の愛と恵みによって癒され、健全な目にしていただきたいと思います。それは物事を肯定的、生産的、前向きに考える性質であります。今は日立に引っ越しされましたが、当教会に石塚兄姉が10年くらいおられました。石塚兄姉は決して批判的なことは言わないで、いつも良いところだけを取り上げて喜んでくださいました。記憶をたどりますと、大川牧師の礼拝テープの貸し出しを推薦されました。セル集会を率先してリードしてくださいました。すずめの学校を開いたときも応援してくださいました。また、ゴスペルクワイヤーが発足したときもとっても喜んでくださいました。お二人はギデオンの聖書配布しながら、行く先々で、ゴスペルクワイヤーを宣伝しておられたようです。私が一番、心に残るのは我が家で猫を飼っていたときです。猫が教会のあちこちにおしっこをひっかけて困っていました。私が家と教会の板挟みになっていたとき、深く同情してくださいました。私は何でも捻じ曲げて考えるのに、どうして石塚兄姉は良いところだけを見られるのか本当に不思議でした。大川牧師は「ちょっと頭が良ければ、批判はだれでもできる。しかし、聖霊様が喜ばれるのは裁き合わないことだ」とよくおっしゃっていました。主の恵みによって目が癒され、健全な物の見方をしたいものであります。使徒パウロがこのように教えています。コロサイ31-2「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」


3.一人の主人に仕えよ

 マタイ6:24「だれも、二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」きょうのテキスト、マタイ619-24節は、富の問題を扱っていると思って間違いありません。第一は、宝というのは富であり、地上ではなく天に蓄えるのが良いということでした。第二は、地上の富に目を向けるのではなく、天にあるものを求めるということでした。そして、第三の24節は、私たちは神さまか富か、どちらか一方にしか仕えられないと書かれています。イエス様は富の所有を全く否定しているのではありません。主がここでおっしゃっていることは、富を自分の幸福と考え、それを目的として富の奴隷になってしまうということです。結果的には、神さまの代わりに、富を拝んでしまうことになります。これは言い換えると、貪欲であり、偶像礼拝なんだということです。旧約聖書を見てわかりますが、イスラエルの民がカナンに定着してから、だんだん土着の神さまバアルを礼拝するようになりました。偶像礼拝から、さまざまな罪が生まれてきたようであります。預言者エリヤは彼らにこう言いました。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え」(Ⅰ列王記1821と叫びました。イスラエルの民はバアルにひざまずきながらも、自分たちは唯一の神を捨てたとは考えていませんでした。神様はこのような二心を赦されません。あるときには、神にも仕え、また、あるときには富にも仕えるというのは二心の人です。ヤコブ1: 8「そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」英語の聖書で「二心」はダブル・マインドとなっています。ダブル・マインドの人は信仰の安定がありません。

 マタイ福音書19章このような物語があります。一人の青年が「永遠の命を得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」とイエス様に質問しました。イエス様が十戒の後半を言いますと、彼は「そのようなことはみな守っています。何がまだ欠けているのでしょうか?」と言いました。すると、イエス様は彼に、「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」と言われました。ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行きました。この人は多くの財産を持っていたからです。この青年は若くして役人であり資産家でした。ユダヤ人たちは、金持ちは神から特別に祝福を受けていると考えていました。彼は「私は行ないで永遠の命を得られる」という自信がありました。しかし、イエス様に言われて、自分が本当によりどころとしているものが暴露されたのです。青年にとって、大切なのは神様よりも富という偶像だったのです。この人は財産全部、ささげなければ救われないということではありません。神さまではなく、富が自分の主人になっていることが証明されたのです。もしも、真の神を主人として、富を用いるならそれは奴隷ではありません。しかし、クリスチャンは献金するとき、どちらが神様かいつも試されているようにも思えます。人に施したり、献金したりすることは信仰がなければできません。もし、クリスチャンが富ではなく、神さまが主人であるということを証明したいならどうすれば良いでしょうか?給与(収入)が与えられて、生活費にすぐ回すのではなく、まず神さまへの献金を第一にするということです。旧約聖書には「初なり」とか「初物」を主の家に持って来なさいと書かれています。つまり、給与の残りをささげるのではなく、最初にいただいたとき、何よりも前にささげるということです。そうすると、不思議なことに、家計がマイナスにならなくなるのです。

 私たちは、あればあったなりに、なければないなりに過ごすかもしれません。ジョン・ウェスレーは、いくら多くの給与をいただいても、生活費はずっと同じであったと言われています。そういう訳で、ジョン・ウェスレーは人々から「メソジスト、几帳面屋」とあだなされました。彼は金銭ばかりか、時間、賜物、健康においても正しく管理した人でありました。そのため、彼は87歳まで現役で働くことができました。メソジスト運動は彼の死後も続き、メソジストという教派になりました。富の管理において、パウロの言葉を引用して終えたいと思います。ピリピ4:11以降「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くして下さる方によって、どんなことでもできるのです。」「満ち足りる」は、英語の聖書に、contentと書いてあります。Contentは「満足な状態」「不満や不安のない状態」をさします。私たちはとかく自分が持っていないものに目がいきがちです。本当は神さまがすでに良いものをたくさん与えているのに、それが見えないのです。たまに病気で寝込むことがあるかもしれません。健康になってから分かることがたくさんあります。手足が動くことも感謝です。おトイレに行けることも感謝です。ご飯がおいしく食べられることも感謝です。私たちの天の父は日の光をはじめ、すべてのものを造られました。ところが、私たち人間はそれらを当たり前のように思ってしまいました。それがさらに進むと、富やお金が神さまになってしまいます。造り主があってこその私たちなのですが、目に見えない神さまよりも、目に見える富やお金を頼る傾向があります。クリスマス・コンサートのときBecause of who You areという賛美をしました。「主よ、あなたがこういう方だから、私は賛美をささげますよ」という内容です。後半が3つ続きます。「ジェホバ・エレ、私の供給者」。「ジェホバ・ニシ、私の勝利」、「ジェホバ・シャローム、私の平和」であります。つまり、主なる神さまがいらっしゃるだけで私は満足していますということです。なぜならば、主なる神さまご自身の中に、私たちの必要、私たちの勝利、私たちの平和があるからです。私たちはどうしてもこの世の目に見えるものや人に頼りがちです。確かに現実にはそういう力があります。しかし、私たちは現実の上に働かれる主なる神さまを第一に求めていきたいと思います。

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2016年4月 8日 (金)

主の祈り マタイ6:7-15 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.4.10

 「主の祈り」は、主イエス様が弟子たちに教えた祈り方であります。イエス様は「異邦人のように同じことばを、ただ繰り返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです」と言われました。確かに、仏教や新興宗教は、テープレコーダーのように、同じことばを繰り返しています。中には呪文みたいなものがあり、もはや人格と人格との交わりではありません。祈りは、父なる神さまと私たちの人格的な交わりが基礎になっています。ところで、マタイによる福音書に記されている「主の祈り」は3つの部分からなりなっていますので、この順番で学びたいと思います。

1.神さまに対する求め

 驚くべきことに、「主の祈り」は、私たちが神さまに対する求めが最初になっています。一般に祈りというのは、こちらから神さまに求めるものです。「導いてください」「お与えください」「守ってください」「赦してください」などと、神さまにお願いします。ところが、イエス様は「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。だから、こう祈りなさい。」と言われました。これは、どういう意味でしょう?祈りというのは、父なる神さまに近づく行為であります。人間同士のことも考えてみるとどうでしょうか?親子や夫婦、他の人間関係でも言えますが、何かを頼むために自分に近づいてくるならどう思うでしょうか?「この人は、私に近づいてくるときは、何か頼みがある時だ。嫌だなー、できれば避けたい」と思うのではないでしょうか?父なる神さまも人格をもっておられますので、私たちと同じように思われるかもしれません。すばらしいことに、神さまは私たちの必要をご存じであり、くどくど求めなくても、豊かに与えてくださるお方です。その神さまが、まず私たちにお願いしたいことがあるのです。言い換えると、このように近づいてくることを父なる神さまが願っておられるということです。

 9節と10節を見るとわかりますが、「主の祈り」の前半は父なる神さまに対する求めになっています。第一は、「御名があがめられますように」という祈りです。御名というのは、単なる名前ではありません。「あなたという存在すべてが」という意味です。なぜ、御名があがめられる必要があるのでしょうか?父なる神さまは天におられ、この世の人たちは地上に住んでいます。私たちはイエス様を信じて神の子になりましたが、それでもこの世の人たちの中に住んでいます。では、この世の人たちは神さまを神さまとしてあがめているでしょうか?「あがめる」という意味は、神さまを高める、あるいは礼拝するという意味です。残念ですが、この世の人たちは、人間をあがめたり、被造物や偶像の神さまをあがめています。つまり、まことの神さまをあがめないで、他のものをあがめ、礼拝しているということです。何たることでしょう?私たち人間は被造物でありますが、被造物の中で冠が与えられています。なぜなら、神のかたちに似せて造られた、霊的な存在だからです。私たち人間は創造者なる神さまをあがめ、礼拝することが第一の存在目的になっているのです。ウエストミンスター小教理問答の第1問は「人の主な目的は何か」です。その答えは「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです 」となっています。私は神の栄光を喜ぶことが何よりも始めだと思います。その次に、「私は神の栄光をあらわしたい」と願うようになるのではないでしょうか?もし、人が神さまを神さまとして認めず、あがめもせず、礼拝もしないならどうでしょう?人間としての本分を忘れ、自分が良いと思うことを勝手に行うのではないでしょうか?しかし、それでは本当の自由も、本当の喜びも得られません。なぜなら神さまは創造主であり、神さまあっての私たちだからです。

 神さまの求めの第二番目は、「御国が来ますように」という祈りです。イエス様を信じている私たちは神の子であり、神の国に属しています。しかし、私たちはこの世で、この世の人たちの間に住んでいます。でも、イエス様は「御国が来るように祈れ」と言われました。これはどういう意味でしょうか?「御国」というギリシャ語はバシレイアーであり、支配とか王国という意味です。しかし、御国はユダヤ人的な響きがあり、正しくは「神の国」であります。ですから、詳しく訳すと「神さまの王的な支配がこの世に来ますように」という意味です。大体、この世の人たちは、「御国が来ますように、神のご支配が来るように」などと祈っていません。そんなことはどうでも良いことであり、むしろ来たら困るのです。なぜなら、自分の好きなことができなくなるからです。ある人たちは神さまやイエス・キリストを認めてはいます。しかし、信じて洗礼を受けるところまではいきません。なぜでしょう?神さまに従いたくないからです。日本には「さわらぬ神にたたりなし」ということわざがあります。ですから、たとえ神さまがいたとしても、近づかない。高い所に祭り上げておく。なぜなら、関わったらえらい目にあうからです。その人は、まるで神さまをブラックホールみたいに思っていて、「近づいたら飲み込まれる」と恐れています。だから、引力の届かないところをウロウロしているのです。しかし、この「御国が来ますように」という祈りは信仰の極意です。もし、自分の生活の中に御国が来たならどうなるでしょう?御国は神のご支配ですから、もしかしたら「それは良くない、やめなさい」ということもあるからです。御国というのはそういうものです。でも、神さまを心から信頼し、「私の生活に御国が来ることが一番良いんだ」という姿勢だったらどうでしょう?詩篇139篇では、すべてをご存じである神さまにこのように祈っています。詩篇13923,24「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」まるで、治療を求める患者が、お医者さんにMRIでもCTスキャンでもお願いしているかのようです。このところには、「もし、神さまのみむねに反するものがあれば、ただちに直します」という従順さがあります。でも、一番良いのは、自分自身と自分の生活に「御国が来る」ことであります。そうしたら、ごちゃごちゃした問題や悩み事が整然とされ解決が見えてきます。そうすれば、神さまが主権をもって解決し、正しい道に導いてくださいます。このような祈りをしている人が、私のまわりに、地上の人たちに、この国に来るようにと祈っていくのです。すると、神さまはその人の祈りを通して、この世を御国へと変えてくださいます。つまり、神の国がこの世に入り込んで、神の国が拡大していくということです。

 神さまの求めの第三番目は、「みこころが天で行われるように地でも行われますように」という祈りです。英語の聖書は、Thy will be done on earth as it is in heaven.となっています。Willというのは原文もそうですが、意志、意欲、願望ということです。ですから「みこころ」というのは、「神さまのご意志、神さまのご意向」という意味になります。天、つまり神さまがいらっしゃる第三の天においては、神さまのご意志は完全になされています。使徒パウロは、「私は第三の天に上ったことがある」と言いました。第三の天は神さまのご支配とご意志が完全になされているところです。でも、問題なのは、私たちが住んでいる地上であります。地上とは、第一の天です。それは、自然科学が通用する物質の世界と言うことができます。学校教育もそうですが、科学者はこの目に見えて、実験可能な物質の世界しか認めていません。しかし、この考えは18世紀フランス革命の頃から芽生えた思想であります。しかし、有史以来、人々は目に見えない世界がある、霊的な存在はあると信じてきました。という日本も、アニミズム、精霊崇拝の国です。西洋の学校教育を受けて、自分は科学的だと言っても霊やパワースポットを信じています。この目に見えない霊の世界は、第二の天と呼ぶことができます。第二の天の支配者はこの世の神である悪魔とその子分である悪霊です。でも、同時に天使も神さまのみこころを行うべく、忙しく活動している場でもあります。第三の天と私たちの住んでいる第一の天の間に、この第二の天があるのです。この第二の天をエペソ2章では、「空中」と呼んでいます。空中の権威を持つ支配者が不従順の子ら(神さまを信じていない人たち)を支配していると書いてあります。私たち神の子らは、2つの影響を受けます。1つは第二の天からくる悪魔と悪霊の攻撃です。もう1つは、第三の天からくる神の助けです。神さまは聖霊として私たちのところに助け主として来られ、さらに天の御使いを第二の天からも与えてくださいます。しかし、神さまを信じてない人たちのところには、そういう助けも守りもありません。ある人たちは「神さまがいるのに、どうして災難やひどいことが起こるのですか?」と質問します。その答えは、神から離れた人間は第一の天、地上に住んでいるからです。この地上では物理的な法則(自然法則)が働きます。と、同時に第二の天から、悪魔が地上の人たちを攻撃しているのです。ですから、どうしても、私たちは「みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈らなければなりません。こういう三重の世界構造を知っている人と知らない人とでは、祈り方が全く違います。エペソ26に書いてありますように、私たちは神の子であり霊的には、第三の天(神の御座)にあります。しかし、同時に物理的に、肉体は第一の地上にあります。ですから、私たちは神の御座にいるつもりで、神の御座の隣にいらっしゃるイエス様に、「みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈る必要があるのです。

2.私たちの求め

 やっと私たちの求める祈りがやってきました。イエス様はまず、何のために祈れとおっしゃったのでしょうか?「お金が与えられて、豊かな生活ができるように」でしょうか?あるいは「健康で長生きできるように」でしょうか?あるいは「自分の夢や願望が叶うように祈れ」ということでしょうか?そうではありません。何と、イエス様はまず第一に「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えくださいと祈りなさい」と言われました。日ごとの糧とは、食べ物を代表する私たちの必要です。戦中戦後ならわかりますが、なんと地味な祈りなのでしょうか?また、私たちは今日だけではなく、「明日も、あさっても、老後もずっと与えられますように」と祈りたくなります。私たちは被造物です。そして、神さまは創造主であり、すべての供給者です。ところが、今日のように社会が複雑になってくるとだれが供給者なのか分からなくなります。そして、あれも必要だ、これも必要だと思いわずらうようになります。テレビ・ショッピングでは体に良いとされる色んなサプリメントが宣伝されています。もし、それらをまともに買うならば、一回で手の平いっぱいの量を摂ることになるでしょう。衣服も流行に合わせていたら、昨年、来ていたものが時代遅れになります。ジャパネットもいろんな電化製品を売ろうと甲高い声でせまってきます。使徒パウロは何と言ったでしょうか?Ⅰテモテ66-8「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。」まず、私たちは「満ち足りる心」を持つ必要があります。それは主の祈りの前半、「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈るので可能になるのです。つまり、「私は父なる神さまを持っているので、思いわずらわなくても良い。必要なものは必ず与えられる」という信仰があるからです。そして、日ごとの糧が今日、与えられていることを感謝できるのです。この世のコマーシャルに惑わされず、神さまを信頼するシンプル・ライフが一番良いのです。

 第二番目の必要は何でしょう。マタイ612「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。」「負い目」はユダヤ人的な表現であり、ルカ福音書では「私たちの罪をお赦しください」となっています。問題は、「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました」という祈りです。原文は、「私たちが、私たちの負い目のある人たちを赦したように」となっています。何か私たちの他者への赦しが、自分の赦しのための交換条件のように聞こえます。しかし、それもあながち間違いではありません。なぜなら、マタイ614-15「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」とあるからです。私たちは「他者の罪を赦しておかないで、神さまに自分の罪だけはどうか赦してください」とは言えません。良心が咎め、それは虫が良すぎると思うからです。ですから、他者の罪を赦すことを保留している人は、神さまの前に出て、自分の罪を赦してくださいとは祈れないのです。すると、イエス様が教えられた「主の祈り」はどういう目的のためにあるのでしょうか?イエス様はまず「私たちの負い目をお赦しください」と祈って良いとおっしゃったのです。そうすると、その人は神さまからの赦しを体験します。そうすると応答として、「私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」となるのではないでしょうか?私が聖書解釈で一番、注意していることはみことばを律法的にとらないということです。主の恵みで理解するということです。問題をぶらさげたまま、罪を赦すことのできない自分をぶらさげたまま、恵みの座に出て祈って良いのです。そうすると、そこで神さまの愛と赦しをいただきます。「ああ、そうなんだ」と今度は、自分に罪を犯した人を喜んで赦したくなるのです。「赦すなら赦さない」ではなく、「赦されたから赦す」のです。他者の罪の赦しは交換条件ではなく、恵みの結果なのです。

 第三は「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」です。キリスト教会でも「悪」というと、概念的にとらえる人がいます。しかし、「悪」とは人格を持った悪魔のことです。尾山令仁師の現代訳聖書では、「私たちを悪魔から救い出してください」と訳されています。私たちを試みに会わせるのは、神さまではなく悪魔だからです。ヤコブ113「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。」とあります。問題は、誘惑されるものが自分の中にあるということです。ヤコブはそれを「欲」と言っています。ヤコブ1:14 「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」。欲というとすべての欲望が悪いと誤解されがちですが、そうではありません。欲は英語でlust、抑えがたい強い欲望、肉欲、煩悩となっています。ギリシャ語では「渇望、貪欲、肉の欲を満足させるため」という意味です。神さまは私たちに生きるために様々な欲、欲求を与えています。この祈りも、私たちの必要を求める祈りです。でも、貪欲や肉の欲は、神さまが与えた範囲を越えたものです。道路には左右にガードレールがあります。貪欲や肉の欲は、そのガードレールを越えたところにあるものです。つまり、神さまが与えた、法を犯す、飛び越える行為であります。でも、私たちは神さまが与えたガードレール内で喜びと楽しみを得て良いのです。ところが、悪魔は「それを飛び越えて楽しみなさい」と誘惑してくるのです。だから、エバのときも「食べてはならない木から食べよ」と誘惑したのです。それは、神の主権を犯す行為でした。神さまは「園のどの木からでも思いのままに食べて良い」と言われました。しかし、悪魔は「園のどんな木からも食べてはならない、と本当に言われたのですか?」と疑いをかけました。つまり、「神さまはケチで、独り占めしているんじゃないの」と言わんばかりです。そのとき、他のたくさんの木の実が見えなくなったのです。

 私たちは誘惑と真正面から戦うべきではありません。誘惑から避ける、つまり自分の方から遠ざかるべきです。たとえば男性なら、「性的な罪を犯さないように、犯さないように」と言うと、そちらの方に意識が行ってしまいます。しかし、それでも誘惑を受けることがあります。誘惑を受けること自体は罪ではありません。イエス様も悪魔から誘惑を受けました。では、どうしすれば良いでしょう?マルティン・ルターは、「空の鳥が自分の頭の上を飛ぶことは妨げられない。それは鳥の権利だからである。しかし、その鳥が自分の頭の髪の毛で巣を作ろうとしたなら、やめろと払いのけることができる」と。そうです。誘惑を思いの中にとどめてしまうので、誘惑にはまってしまうのです。誘惑がきたら、「ハレルヤ、主よ、感謝します」と、主を礼拝する時としましょう。特に男性は、誘惑の機会が多いのですから、それを礼拝の時に変えるととても幸いです。

3.頌栄

 頌栄の部分は、あとから教会がくっつけたものだと言われています。だから、かっこの中に入れられています。〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕しかし、これは、すばらしい祈りだと思います。国とは何でしょう?これは、御国と同じで、支配とか王国という意味です。ですから、「すべての支配と王国は、主よ、あなたのものです」という告白になります。その次は、力です。このことを私たちが告白するときどうなるのでしょうか?それは「すべての力は、主よ、あなただけに属します」という告白になります。最後は、「栄え」です。これは「栄光」とも訳すことができます。栄光は被造物のものではなく、神さまのものです。ですから、このことを私たちが告白するときどうなるのでしょうか?それは「すべての栄光は、主よ、あなただけのものです」となります。私たちは礼拝の最後に、この頌栄を歌います。その時、私たちは主なる神さまを賛美し、栄光をおささげしているわけです。

 きょうは「主の祈り」について学びました。みなさん、「主の祈り」がいくらすばらしいからと言って、同じことばを繰り返したなら、異邦人の祈りと同じになります。マルティン・ルターは、「主の祈り」は、最大の殉教者だと言いました。その意味は、最も多く口で唱えられながら、最も多く足げにされ、軽んぜられ、その生命が殺されてしまっているということでしょう。主の祈りは口先で唱えるものではなく、心から祈るものであります。しかし、同時に私たちは「主の祈り」の順番で自分の祈りを構築していくべきではないかと思います。つまり、祈りは、いきなり自分の必要を神さまの前に並べ立てるのではありません。まず、神さまがどんなにすばらしいか、神さまを賛美することから始めるべきだと思います。特に、キリストによって罪が贖われ、父なる神さまに受け入れられていることはどんなにすばらしことでしょうか?神さまの偉大さ、その愛といつくしみ、善…こんな者をも覚えてくださる、感謝します。その次に、自分の必要、悩みや問題をさらけ出すのです。父なる神さまは何を言っても受け止めてくださいます。でも、最後に「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」と祈ったならどうなるでしょうか?「ああ、神さまは何とかしてくださる」という信仰と希望が与えられます。祈ったあとは、共におられるイエス様と共に生活するのです。イエス様の贖いによって、天の神さまを「お父さん」と呼べることを感謝します。

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2016年4月 1日 (金)

報いてくださる神 マタイ6:1-6、16-18 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.4.3

 イエス様は「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなた方の父から、報いが受けられません」と言われました。あるクリスチャンは、「神からの報いを期待することは卑しいことである」と言うかもしれません。でも、それは本当でしょうか?もちろん、私たちは人からの報いを期待してはいけません。しかし、聖書には「父なる神さまが豊かに報いてくださる」と書いてあります。当時、善行といわれるものが3つありました。第一は施し、第二は祈り、そして第三は断食です。これら3つの善行をどのように行ったなら、父なる神さまから報いが得られるのでしょうか?

1.隠れた施し

 「施し」は、英語の聖書ではcharity「慈善」となっています。当時は今と違って、福祉が整っていませんでした。ですからお金持ちが、貧しい人たちに施すのが当然のように考えられていました。しかし、人間として「私はこれだけ人に施しましたよ」と自慢したいものです。イエス様は「自分の前でラッパを吹いてはいけません」と言われました。ある説によると、献金箱がラッパの形をしていて、お金を投げ込むとジャラジャラ大きな音がしたそうです。イエス様は「彼らはすでに自分の報いを受け取っている」と言われました。「受け取っている」は完了形で、全額領収済みという商業用語になっています。そうなると、「父なる神さまの報いはもうない」ということになります。これはだれに言われているかというと、「人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者」に対してであります。彼らは、純粋な動機からではなく、人にほめられたいために目立つところで施しをしていました。イエス様は3節で「施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」と言われました。しかし、これは実際には不可能です。なぜなら、1つの頭脳から右手と左手に指令が出ているからです。おそらく、これはごく親しい人にも「私はこれだけ施したと、知らせるな」ということなのでしょう。4節「あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」重要なのは、その施しが隠れているならば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださるということです。

ところで、これを書いた人物はマタイであります。マタイは元取税人であり、金勘定にはうるさい人でした。また、商売柄、「この人はお金を持っている、この人はもっていない」、「この人は正直だ、この人はごまかしている」とすぐ分かったのではないでしょうか?お金というのは、その人の性格や考えが投影されるものです。当教会に山崎長老さんがおられましたが、よく捧げる人でした。教会の会計が赤字にならないように、いつも心配してくださいました。また、会堂建築のときも陣頭指揮を取ってくださいました。しかし、お金にとてもシビアーで、私の子どもにあげたお小遣いまで家計簿に付けているということでした。その山崎長老さんは「命の次に大切なものはお金じゃ。信仰がなければ1円たりとも献金できない」と言っていました。つまり、施し、あるいは献金は、信仰がなければできないということです。もし、人からの報いを期待して、捧げるとしたなら、それは信仰以外から来たものです。一方、「隠れたところで見ておられる父なる神さまが報いてくださる」というのが、本当の信仰であります。神さまは私たちから見えないので、こちらはただ信じるしかありません。あとから、「ああ、やっぱり報いてくださった」と分かるのは、捧げた人が体験することであります。そういう体験を重ねていくと、ささげる量も、また信仰も大きくなるのかもしれません。マタイはあえて、人前ではなく隠れたところで神さまの前でささげることの重要さを記したのであります。それは、ケチでお金を人生の目的としていた人が人生変更したことの証しであります。

私たちは施したり、与えたり、捧げると所持金が減ると考えます。特に与える賜物のある人は、その分、人々から評価されないと嫌になるでしょう。ケチな人はケチな人で、それなりの報いを期待したいところです。父なる神さまは、豊かに与える気前の良いお方です。もし、私たちが施して、与えて、捧げて、自分のものが減ってしまったならどうでしょう?隠れたところで見ておられる私たちの父が、無尽蔵の富の中から報いてくださるのではないでしょうか?ルカ638「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」与えたら、与えられる。これが御国の法則です。たとえていうとこういうことです。天には無尽蔵の富をたたえた湖があります。そこから、自分のところに小川が流れ込んでいます。確かに、施したり、与えたり、捧げると所持金が減ります。でも、その分、天の湖から、富が流れ込んでくると考えたらどうでしょう?泉は汲めば汲むほど、新しい水が湧き上がってきます。でも、「これしかないんだから」と溜池を作ってしまうのが人間です。溜池ですから、よどんでしまって、しまいには腐ってしまいます。同じように、与えたら与えた分だけ、天の湖から富が流れ込んでくるのです。でも、「与えたら、与えられる」という御国の法則は、実際に試してみないとわからないことです。神さまを試してはいけません。しかし、聖書には唯一、神さまを試して良いというみことばがあります。マラキ3:10 「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の【主】は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」

2.隠れた祈り

善行の第二番目は祈りです。当時、ユダヤ教では午前9時、正午、午後三時に、どこにいても手を上げて祈らなればなりませんでした。もし、ちょうどその時刻に人が集まっている場所にさしかかったらどうでしょうか?「よーし」と自分の敬虔さを誇示するような祈りをする誘惑にかられるでしょう?ここで言われている偽善者とは、パリサイ人や律法学者たちであります。彼らはわざわざ会堂や通りの四つ角で長い祈りをしました。なぜなら、人々から「ああ、なんて信仰深い人たちなんだろう」と思われたいからです。イエス様は「彼らはすでに自分の報いを受け取っている」と言われました。それでは、どういう祈りが神さまから報われるのでしょうか?6節「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」イエス様は「だれからも見られないように、隠れたところで祈りなさい」と教えられました。ある英語の聖書には、隠れた所をprivate roomと書いてありました。この意味は密室の祈り、つまりprivateな祈りが祈りの基本なんだということです。私たちはお祈りを義務やノルマだと考えてはいけません。祈りは神さまとの交わりであり、特権です。元来、私たちには罪があるために聖い神さまのところには行けません。昔はそのために様々な動物を犠牲として携えて来なければなりませんでした。ところが、イエス・キリストが十字架で私たちの罪を贖って下さいました。私たちはイエス様が流された血潮を通して、神さまの御座に遠慮なく近づくことができます。ヘブル416「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」アーメン。イエス様がここでprivateな祈りを勧めておられますが、これは神さまを独り占めできるということです。恵みの座にころがりこんで、父なる神さまと会話ができるのです。電話のように話し中ということがありません。向こうはいつでも、こちらに時間をさいてくださいます。ですから、祈りは義務ではなく、すばらしい特権であることを覚えたいと思います。

祈りには大きくわけて2つあります。1つは公の祈りです。牧師や司会者、あるいは献金当番の方がこのような礼拝で祈ります。あるいは祈祷会や何かの集会で人々の前で祈る祈りもその部類に入ります。公の祈りの中で、個人的な出来事や感情を述べると問題が生じます。できるなら、さしさわりのないような平面化した祈りが良いでしょう。しかし、当時の宗教家は人に聞かせるように、美辞麗句に満ちた祈りをしたようです。牧師も油断をすると、人に聞かせるような祈りになったり、説教で言えないことを祈りの中で補充する場合があります。私が神学生のときです。毎週木曜日の午後は伝道実習がありました。あるとき、川越の喫茶店で、高校生に向けての伝道集会がありました。そこで私が救いの証をすることになりました。先輩のある姉妹が隣りに座って私のために祈ってくださいました。「どうか、鈴木兄弟の唇をきよめてください。どうか、鈴木兄弟の唇をきよめてください」と切に祈ってくれました。私は「これから証をするのにテンション下がるだろう」とむっとしました。そのように祈りによって勧めたり、説教することは良くありません。公の祈りは神さまにではなく、人々に向かって祈ってしまう誘惑があります。しかし、人に聞かせるような祈りは、神さまには届きません。なぜなら、そこで報いられてしまうからです。

もう1つの祈りは個人の祈りです。このところには「自分の奥まった部屋に入り、戸を閉めて」と書かれています。ですから、ある人たちは「密室の祈り」と名付けています。イエス様は朝早く起きてお一人で父なる神さまと交わっていました。また、時々、淋しいところへ退いて祈っておられたようです。現代の家屋は、「奥まった部屋」を確保することがむずかしいかもしれません。でも、なんとか工夫して、ひとりで祈る時間を持てたら良いと思います。さきほど公の祈りについて申し上げましたが、祈りの基本は個人の祈りです。いくら公の祈りが立派であったとしても、個人の祈りが貧しければ、偽善になってしまうでしょう。牧師や司会者はどうしても、人の前で祈る機会が増えてきます。ですから、それと比例して、個人の祈りを充実させる必要があります。では、個人の祈りとは何であり、どうすれば良いのでしょうか?詩篇にはダビデの祈りが記されています。その中には代表者としての祈りもあれば、なまなましい個人の祈りも記されています。敵を呪う祈りもありますし、罪の告白もあります。涙の祈りもあれば、心からの賛美もあります。「祈りの時間はどのくらいか」と話題にされることがあります。私は時間も大切ですが、「心を注ぎ出す祈り」がもっと大切だと思います。ある人たちは「やっとエンジンがかかった」というところで祈りを終えてしまいます。しかし、苦しいところを越えると、すらすらと祈りがあふれてきます。なぜ、祈りが辛いのでしょう?それは、祈りが心から出てくる一歩手前でやめてしまうからです。マラソンや水泳もそうですが、苦しいところを越えると、楽になります。祈りの醍醐味は、聖霊の助けによって心から注ぎ出される祈りです。

祈りは父なる神さま、イエス様、聖霊様とのデートです。恋人とデートしたとき、「あなたと30分間、会話をしました。必至に会話をしましたよ。偉いでしょう?」と言ったらどうなるでしょう?「私と過ごすのがそんなに苦痛なの?さようなら」と言われるでしょう。ところが神さまとの交わりになるとどうでしょう。5分もたつと祈りの課題がなくなります。私はすぐに祈りの課題を出して人々のためにとりなしの祈りをするのは反対です。まず、自分と神さまの関係を第一にすべきです。神さまと二人の蜜の時間を楽しむのです。自分の思いや願いも述べて結構です。でも、ちょっとだけ神さまにも時間を与えましょう。立て板に水の祈りではなく、祈りを聞いておられるお方がいるんだということを自覚したいと思います。あるときは、祈りが途絶えて、言葉では表現できないかもしれません。それでも良いのです。ローマ826「 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」アーメン。そうです。私たちの内におられる神の御霊が私たちに祈らせてくださるのです。私たちのつたない祈りを聞いてくださる神さまがおられます。イエス様は今、聖霊によってあなたのところにいらっしゃっています。あなたの弁護者、助け主として、あなたの側でとりなしてくださいます。祈りはすばらしい特権です。なぜなら、全能なる神さまと親しく交わり、その愛と恵みを独占できるからです。

3.隠れた断食

旧約聖書の律法においては、特別な日に断食が定められていたようです。新約時代になると、パリサイ人たちが週に2回断食を守っていました。使徒の働きを見ますと、礼拝だけではなく、断食もしていたようです。仏教などでは断食は、修行の1つであるかもしれません。なぜなら、食欲は人間が持つ最大の欲求であり、これを断つというのはものすごい覚悟が必要だからです。断食するといろんな欲望がなくなり、精神統一を図ることができるということも事実です。教会でも、病気の癒しとか、重要な導きを得るために断食する場合があります。そもそも断食とは何なのでしょうか?私はのっぴきならない状況で、切なる求めがあるときに断食して祈るべきだと思います。大事なことに関して神さまのみこころを得たい時や病の癒し、あるいは特別な力を得たいときもそうです。イエス様は福音書で「この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません」(マタイ1721と言われました。しかし、断食を神さまとの取引きで用いるのは違うと思います。食を断って苦しい思いをしたからと言って、神さまのみこころが変わるとは思えません。むしろ、私たちが食を断ち、すべての邪念を払って、神さまに近づいて交わるのです。そのときに、神さまがご自分の思いを打ち明けてくださるのではないかと思います。私は人生の岐路に立った時、たとえば結婚、手術、転職、お家や教会を建てるときは断食をして、みこころを問うべきだと思います。私も結婚するときは、断食しました。でも、あんまりお腹が減って、「ま、いいか」みたいなところもありました。また、福島の断食祈祷院に何度か行きましたが、ちゃんとした施設があると断食は楽です。でも、家でごはんを作りながら、断食するのは辛いです。2日目がとっても辛くて、3日過ぎると楽になります。でも、断食で辛い思いをすると、次から断食したくなくなります。やっぱり、神さまから「断食して求めなさい」と導かれたなら、すんなりできます。

 パリサイ人はわざと顔をやつらせて、「私は断食をしてますよ」と誇っていたのです。イエス様は断食そのものを禁じてはいません。「あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。隠れたところ見ておられる父が報いてくださる」とおっしゃっているからです。歴代の神の人を調べて分かったのですが、彼らはしばしば断食をしています。中国のハドソンティラーはこう言いました。「上海で、断食をし祈りに時間を費やす事を習慣とした中国のクリスチャン達を私は見出した。断食は、人をか弱く疲れさせるので、多くの人達はいやがるが、神への信仰が要求されるこの断食は、真に神の約束された恵みによる手段である事を彼らは認識していた。」アメリカン・インデアンへの初期の宣教者、ブレイナードはこのように言いました。「福音の説教の考察に関して…私はひそかな断食と祈りの為にこの日を定めた。」ブレイナードが説教をした時に、インディアン達の間に非常に力強いリバイバルを体験しました。イギリスにリバイバルをもたらしたジョン・ウェスレーはこのように言いました。「あなた方は断食と祈りの日を指定しているか?恵みの御座に突進し、それを耐え抜く。そうすれば、神の恵みが下るであろう。」つまり、断食の祈りは、恵みの御座に突進することなんだということです。リバイバルは神さまからのものですが、断食して祈るような飢え渇きが必要であることも確かです。

 きょうのテキストをまとめたいと思います。本日、読んだ聖書箇所に幾度となく出てきた表現とは何でしょうか?「報い」が7回、「偽善者」が3回です。そして、「隠れた」は6回です。偽善者は人々に見せるために、施しや祈り、断食をしていました。偽善者とは仮面をかぶる、演技をするという言葉からきています。彼らは人々から賞賛を受けて、報いられてしまいました。しかし、イエス様は施しや祈り、断食を隠れたところでしなさいと勧めました。なぜなら、隠れたところにいらっしゃる神さまが報いて下さるからです。私たちは「報い」と聞くとどんな気持ちをいだくでしょうか?私は8人兄弟の7番目でしたが、兄たちのように家の手伝いをしました。風呂の水汲み、槇割、たけの子取り、縄ないのためにわらを打つこと、田んぼの手伝い。父の煙突掃除の手伝い。でも、私は末っ子なので力がありませんでした。学校の成績も長女や長男と比べられ、ほめられたこともありません。高校3年生の時、母が階段の下から「お前が一番、親不孝者だった。他の兄弟はみんな我慢したのに、どうしてお前は我慢できないんだ。ああ、情けない」と言われました。私は隣の長男で跡取りの時雄君と同じものが欲しくて、「あれ買ってくれ、これが欲しい」と母にせがみました。でも、「あんなに母のために尽くしたのに、ちっとも報われなかった」と思いました。ですから、私は人からの報いとかご褒美には冷めていました。

 ある人は「天が知っている、神さまがきっと報いてくださる」と言います。また、ある人は「報いを求めるなんてゲスなこと」と言うかもしれません。でも、そこには悲しみと失望が隠されているかもしれません。イエス様は「天」とか「神さま」とはおっしゃっていません。「あなたがたの父から、報いを受けられません」「あなたの父が、あなたに報いてくださいます」とおっしゃいました。そうです、隠れたところで見ておられる、あなたの父が報いてくださるのです。単なる神さまではなく、あなたの個人的な父であります。私たちは偽善者たちのように、人々からの報いや評価は気にしなくても良いのです。隠れたところで、私たちのことをご覧になっておられる父なる神さまがおられるのです。ですから、何をするにしても父なる神さまの御目のもとで行えば良いのです。「コランディオー」ということばがあります。それは、ラテン語で「神の御顔の前で」という意味です。大きいことから、小さな日常のことまで、神さまの御顔の前で行うということです。ここに来ている人たちは、ほとんど大人ですが、少年、少女が、内側にいるんじゃないでしょうか?時には不平をこぼしたり、すねたり、怒ったりしています。多くの場合、過去に報いられたことがないのでへそを曲げているのです。しかし、そうではありません。父なる神さまが少年、少女の頭をなでて、「私が知っているよ。あなたはよくやっている」とほめてくださいます。いろんな報いがありますが、父なる神さまが個人的に、認めてくださるということではないでしょうか?マタイ2523「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」。

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