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2016年4月28日 (木)

さばいてはいけない マタイ7:1-6 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.5.1

 教会用語というのがあるかどうか分かりませんが、「さばく」とか「さばかれた」と良く聞きます。クリスチャンの場合は、この世の人たちと違い、「聖書」という絶対的な基準があります。本来、神さまから自分に向けられて語られているのですが、人にも向ける時があります。聖書の中には、律法と言われる命令や規則があります。これはとても切れ味が良くて、両刃の剣よりも鋭い(ヘブル412)と言われています。両刃ですから、相手を切ったつもりで、自分も切られる恐れがあるということです。そのため、マタイ7章には「さばくとさばかれる」と書いてあるのです。

 

1.さばいてはいけない

 さばくとは聖書的にどういう意味でしょうか?ギリシャ語のクリノウは、「正しいかどうかを判断する」という意味です。ですから英語の聖書にはjudge(裁判する、判決を下す)になっています。しかし、クリノウは他に、「批判する」「罪する」「責める」という意味もあります。ですから、JB.フィリップス訳ではDon’t criticize peopleとなっています。そうなると「批判するな」「非難するな」「あら捜しをするな」という意味にもなります。アダムとエバは食べてはならない木から取って食べました。その木は「善悪を知る木」でした。サタンは「それを食べると、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」と誘惑しました。「善悪を知る木」は神の主権を象徴するものであり、その木から取って食べるとは、自らが神になるということです。それは神の主権を犯す反逆的行為であり、クーデターでありました。アダム以来の人間はどうなったのでしょうか?本来、神さまが人間をさばくのですが、神さまの代わりに自分が他の人をさばくようになったのです。パウロはこのように言っています。ローマ21「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」私たちが人をさばくとき、自分も同じようなことをしていたらどうなるでしょう。今度は自分がさばかれることになります。イエス様は「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれる」とおっしゃった通りであります。たとえば、人に指をさしてさばくとします。すると、他の3本は自分に向けられています。そして、1本は天に向けられています。つまり、神さまに対してもさばいているんだということです。「神さま、いつまでもその人の罪を見過ごしているのですか?だったら、私があなたに代わってさばきますよ」ということなのです。ローマ144「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」これはどういう意味でしょう?「その人の主人は神さまであり、あなたではありません。その人の主人である神さまがさばくのであって、あなたには関係ありませんよ」ということです。

「エリヤハウス」の創設者サンフォード師は「物理には作法反作用の法則があります。『さばくとさばかれる』も作法反作用の法則ではないでしょうか。神さまは物理学にせよ、倫理道徳の法則にせよ、同じ永続性のある法則を造られたのです。」と言いました。エリヤハウスのテキストによると、裁く思いとは私たちが誰かに対して、「この人はこうだ」と決めつける思い、責めるような思いを抱くことであると定義しています。では、どこからそういう思いを抱いてしまうのでしょう。これは幼い時から、心に抱く印象です。また、人生で辛い出来事を経験すると、私たちは裁く思いを持つようになります。また、成長してからでも意識してそのような思いを抱くことがあります。私たちがだれかをさばくと、私たちも同時にさばかれます。これはエリヤハウスの講師、キャッシーさんの証です。私が子どものとき、母は怒ると、鍵をかけて3日も4日も出て来ないでひきこもっていました。小さい頃、「お母さん」「お母さん」とドアをノックしました。そのとき、私の心の中に裁く気持ち、苦々しい気持ちが起こりました。そして、「絶対、私は家族に対してそういうことはしない!」と決意しました。しかし、自分が結婚してから、絶対にしないということをするようになりました。私は母が傷つけたようなやり方で、自分の家族を傷つけました。お母さんがした同じことをやっていたのです。過去の傷と恨みが残っていました。私がお母さんを裁いたため、私自身もさばかれることになったのです。

 幼い時に、何らかのことで、父もしくは母をさばいたとします。それは種を蒔いたことになります。大人になった本人はそんなことを忘れています。しかし、どうでしょう。結婚して、自分がお父さん、あるいはお母さんになった時に蒔いた種の刈り取りをしなければなりません。自分の子どもから同じような仕打ちを受けたとき、「ああ、私もそんなことがあった」と思い出すのです。イエス様が「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」(マタイ72と言われたとおりです。エリヤハウスでは、これを「苦い根のさばき」と呼んでいますが、過去にさかのぼって悔い改めないと、ずっと継続していきます。そうすると自分の人生を汚すだけではなく、家族や親しい人までも汚してしまいます。幼い時のことは忘れていますので、今、結んでいる実をたどっていくと、「ああ、同じようなことがあった」と思い出すことがあります。そこには、不遇な境遇や不当な扱いがあったかもしれません。問題なのは、こっちが怒ってだれかをさばいたことであります。それは罪なので、悔い改める必要があります。同時に赦すべき人を赦します。最後に怒りを手離し、そこに神さまの慰めと新しい命をいただきます。そうすると「さばきの目」「さばきのものの見方」が消えます。私はさばきのことばを親や兄弟、学校の先生、友人からさんざん浴びせられて育ちました。ですから、こちらもさばきのことばで対抗する性質が残ってしまいました。私は信仰を持ってから、神さまの愛とあわれみを十分いただきました。まだ、この法則から完全には脱していませんが、だんだん解放されつつあります。

 本来、この「山上の説教」は弟子たちに語られたものです。しかし、彼らの周りに群衆や宗教家たちもいたと思われます。このところに、「偽善者よ」とか「犬」とか「豚」と呼ばれている人たちがいます。おそらく律法学者やパリサイ人のことをおっしゃっているのでしょう。彼らはイエス様の教えを聞くどころか、反発してイエス様を十字架に付けてしまいました。ヨハネ7章に書いてありますが、イエス様はある朝、人々に教えておられました。そのとき、律法学者とパリサイ人たちが、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来きました。彼らは「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか」と質問しました。彼らは、イエス様が「赦してやりなさい」と言えば、モーセの律法を破っていると訴えるでしょう。また、イエス様が「石打ちにしなさい」と言えば、「あなたは愛のない人だ」と批判するでしょう。これは罠であり、どっちをとっても不利になってしまいます。イエス様は何も答えずに、身をかがめ指で地面に何かを書かれました。彼らは「どうするんだ」と問い続けました。イエス様は身を起こして「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われました。そして、もう一度身をかがめて、地面に書かれました。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエス様と女だけが残されました。イエス様は、身を起こして、彼女に「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と言われました。律法学者やパリサイ人たちはモーセの律法を盾にして、この女性をさばきました。イエス様は身をかがめて彼らに考える時間を与えました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われたとき、自分たちは、他者をさばける者ではないことを悟ったのでしょう。最後に、最も罪を裁くことのできるイエス様が残り、そして彼女をさばきませんでした。

 ナタナエル・ホーソンという人が『緋文字』という小説を書きました。夫が行方知れずの一人の美しい女性がいました。彼女は赤ん坊を産み落しましたが、相手が分かりませんでした。教会は彼女をさらしものにして、彼女は胸にAという赤い文字の入った服を着せられました。Aとは姦淫罪、adulteryという意味です。歴史をたどると教会は神の名を借りて、人々を審判してきました。もちろん、教会のきよさを保つために、罪を犯し続ける人を排除しなければならないでしょう。でも、「さばきよりも大切なのは何か」ということをイエス様はヨハネ7章で教えておられるのではないでしょうか?ヤコブ213「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」もちろん、愛をもって罪を正すことも必要でしょう。しかし、その人の立場に立ってみないと分からないこともたくさんあります。英語では、in someone’s shoes「人の靴に足を入れる」と言います。そうです。その人の靴に足を入れないと、分からないことがたくさんあります。ですから、こっちの見方で、一方的にさばいてはいけません。むしろ、私たちは罪をあばくのではなく、むしろおおってあげる必要があります。Ⅰペテロ48「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」

2.ちりと梁

 マタイ73-4「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。」イエス様は大工さんだったので、このようなたとえを用いたのかもしれません。ここで言う「兄弟」とは、神さまを「お父さん」と呼ぶ信仰者の仲間のことです。私たちは外部の人たちには寛容ですが、仲間に対しては厳しくなる傾向があります。でも、イエス様はまず自分の梁に気づくようにと勧めておられます。岸義紘先生はある本で、教会での裁き合いのことを「ちり梁戦争」と呼んでおりました。その本の挿絵にはお互いの目から、梁が「ボーン」「ボーン」と飛び出しています。もうあぶなくて近よることができません。JB.フィリップス訳がとても分かり易いので引用します。「ちり」はspeck of sawdustと書かれています。Speckというのは「小さいしみ」「小粒」という意味です。Sawdustというのは、鋸で切った、鋸くず(おがくず)のことです。原文のギリシャ語ではchip「乾いた小片」になっています。さらに、JB.フィリップス訳では、plank in your ownとなっています。Plankというのは、厚板であります。製材所に行くと「鋸くず」と「厚板」を見ることができます。分かり易く言うと、「自分に厚板がささっているのに、兄弟の鋸くずを取らせてください」ということなのです。これは、イエス様のユーモアであります。

 私たちは他の人をjudgeする(裁判する、判決を下す)目を持っています。しかし、その目が人の悪いところや欠点を拡大して見る目でしょうか?あるいは、人の良いところや長所を拡大して見る目でしょうか?自分の目に梁がつきささっているのに、人の目からちりを取らせてくださいと言えるでしょうか?あるご夫妻が新しい家に引っ越しました。二人が朝食を取っていましたが、窓越しにお隣さんの洗濯物が見えました。奥さんは「なんと汚れているのでしょう?洗濯の仕方が分からないじゃないの。教えてあげなけりゃ!」と言いました。毎朝、毎朝、奥さんは隣の洗濯物が汚れていると言いました。ある朝、奥さんが窓の外を見て驚きました。「まあ、なんときれいな洗濯物なんでしょう?美しく輝いて見えるわ。やっと洗濯の仕方が分かったのね」と言いました。ご主人が笑いながら言いました。「今日の朝、早起きして居間の窓ガラスを磨いたんだよ」。問題は、お隣の洗濯物が汚れていたのではありません。こっちの窓ガラスが汚れていたのです。奥さんは、汚れた窓ガラスを通して見ていたのです。同じように、私たちも汚れたレンズで見るならばどうでしょうか?テトス115「きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。」とあります。つまり、問題なのは相手側ではなく、むしろこっちの見方にあるということです。だから、イエス様は「まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」とおっしゃったのです。私たちは相手の悪いところや短所ではなく、むしろ良いところや長所を拡大して見る目が必要です。これは、自然にできるものではなく、訓練しなければなりません。私の家内は人の悪いところや欠点をあげることをしません。私が「そう思うだろう?」と言っても、「そうじゃないわ」と反論します。私はイライラして「あなたは批判力がないんだ」と言います。私はさばきの目が発達しているのかもしれません。

 私たちは人をさばくことばと、人をほめることばにどっちらに応答するでしょうか?もし、奥さんが「あなたたまには庭の芝生を刈ってよ。暇なのにどうして刈らないの。草ぼうぼうで見っともないわよ」と言ったとします。3回くらいうるさく言われれば、重い腰をあげて刈るかもしれません。しかし、奥さんが「あなたって筋骨隆々で頼もしいわ。ハンサムで魅力的」と言ったとします。ご主人は、毎日、芝生を刈るんじゃないでしょうか。子どもでも同じです。お母さんが「どうしてゲームばかりやって、宿題をしないの。それじゃ進級できないでしょう」と言ったとします。3回くらいうるさく言われれば、重い腰をあげて勉強するかもしれません。しかし、お母さんが「あなたは元来できる子よ。ちょっとやれば伸びるわよ。私には分かるの」と言ったとします。子どもは、毎日、勉強をするようになります。カーネギーという人が『人を動かす』という本を書いています。ちょっと引用します。私は人の悪口を言わないことにしました。悪口を言う代わりに、ほめることにしています。自分の欲することについては何も言わず、もっぱら他人の立場に身をおいて物事を考えるように努めています。そうすると、生活に文字通り革命的な変化が起きました。私は以前とはすっかり違った人間になり、収入も増え、交友にも恵まれた幸福な人間になりました。目つき、口ぶり、身振りなどでも、相手の間違いを指摘することができるが、これは、あからさまに相手を罵倒するのとなんら変わりない。そもそも、相手の間違いを、何のために指摘するのだろう。相手の同意を得るために?とんでもない!相手は、自分の知能、判断、誇り、自尊心に平手打ちを食らわされているのだ。当然、打ち返してくる。考えを変えようなどと思うわけがない。どれだけプラトンやカントの論理を説いて聞かせても相手の意見は変わらない。傷つけられたのは、論理ではなく、感情なのだから。

もちろん、私たちは聖なるものを犬にやってはいけません。真珠を豚の前に投げてはいけません。しかし、もしその人が「目からちりを取り除きたい」と悩んでいたらどうでしょうか?今から3年くらい前、エディレオ師が、「ちりを取り除く」ことについてこのように教えてくださいました。当時は、よく見える鏡が存在していませんでした。鏡が曇っているので、細部まで見ることができないのです。そのため目の中にちりがあっても、自分自身では取り除くことができませんでした。しかし、自分では見えないけれど、他の人には見えます。だから、あなたにはちりを取ってくれる兄弟が必要なのです。ちりとは何でしょう?あなたの潜在意識の中にある何かです。その何かがあなたを何度もコントロールします。だから、悪いことを何度もさせてしまうのです。あなたはそのことに気付いていないので、何度もやってしまいます。しかし、他の人はそれに気付いています。もし、自らの目に梁がないならば、その人からちりを取り除くことができます。教会という、共同体の中でより効果的にできます。しかし、今日の教会は、このことを実践していません。だから、私たちは愛の共同体にならなければなりません。いくつかの共同体は不健康です。すべてのメンバーが梁を持っています。すべての人が梁を持って、互いにさばき合っています。互いに罪に定め、互いに打ちたたき合い、互いに容赦しません。こういう共同体ではちりを取り除くことができません。互いにさばき合うならば、人々はさらに傷つきます。最後には互いに心を開き合うことができなくなります。もし、私たちが健康であるなら、もう梁がなくなって、ちりを取り除くことができます。そして、互いに癒し合うことができるでしょう。互いに心を開き、透明な関係を持つことができます。そして、心と思いに変革が起こります。だから、私たちはちりを取り除くことを実践する必要があります。

キャロライン・リーフという脳神経医がいらっしゃいます。彼女は『だれが、私の脳のスイッチを取り消したか?』という本を書いています。エディレオ師が彼女の本を引用しながら、このようなメッセージしてくださいました。あなたの中の潜在意識の中に否定的ものがとどまっている状態では、あなたは力を失ってしまいます。あなたはそれを変えることができません。しかし、潜在意識が、顕在意識の中に移される時に、リアルなものとして理解します。あなたは自分自身のちりを発見するでしょう。その時、あなたはそれを変える力を得ることができます。なぜなら、それが顕在意識の中にあるので、自分で考えることができるからです。あなたはそれを変化できる自由を得るでしょう。あなたはそれを拒絶することができます。また、あなたはそれを虜にして、その力を打ち砕くことができます。あなたは顕在意識によって何でもすることができるのです。しかし、それをすぐしなければならなりません。なぜなら、顕在意識にやってきたものは、48時間しかとどまらないからです。48時間経ったあとには、潜在意識に戻ってしまいます。そうすると、もう一度、顕在意識に上がってくるまでに待たなければなりません。だから、否定的な思いが上がってきたときに、それを書き留めなければなりません。顕在意識に留まっている48時間の間に、このように言うでしょうか?「神様、私はなぜこんなに汚いのでしょう。「神様、私は価値がありません。」「神様、私は罪に定められている気がします。」「神様、私は恥で満ちています。」あなたがこのように言うとき、同時に、「私は変わることができない。変わらないだろう」と言っているのです。それらは、恥と罪悪感に基づいて言っています。恥と罪悪感に基づいて強くなった考えを、再び、潜在意識に戻しているのです。だからこそ、その罪悪感を取り除かなければなりません。アジア、とりわけ日本において、こう人たちをたくさん見てきました。彼らは恥と罪悪感に満ちています。罪に定められている気がします。罪悪感はイエス・キリストの血によって洗い流すことができます。キリストにあるなら、罪に定められることがありません。もう恥がなくなり、もう汚れもなくなります。なぜなら、イエス様があなたをきよくしたからです。ハレルヤ!イエス様はあなたを変えたいと願っておられます。ですから、私たちは教会という共同体の中で生きる必要があります。まず、自分の目から梁を取り除きましょう。その後は、兄弟の目からちりを取り除くお手伝いをさせていただきたいと思います。

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