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2016年4月 8日 (金)

主の祈り マタイ6:7-15 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.4.10

 「主の祈り」は、主イエス様が弟子たちに教えた祈り方であります。イエス様は「異邦人のように同じことばを、ただ繰り返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです」と言われました。確かに、仏教や新興宗教は、テープレコーダーのように、同じことばを繰り返しています。中には呪文みたいなものがあり、もはや人格と人格との交わりではありません。祈りは、父なる神さまと私たちの人格的な交わりが基礎になっています。ところで、マタイによる福音書に記されている「主の祈り」は3つの部分からなりなっていますので、この順番で学びたいと思います。

1.神さまに対する求め

 驚くべきことに、「主の祈り」は、私たちが神さまに対する求めが最初になっています。一般に祈りというのは、こちらから神さまに求めるものです。「導いてください」「お与えください」「守ってください」「赦してください」などと、神さまにお願いします。ところが、イエス様は「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。だから、こう祈りなさい。」と言われました。これは、どういう意味でしょう?祈りというのは、父なる神さまに近づく行為であります。人間同士のことも考えてみるとどうでしょうか?親子や夫婦、他の人間関係でも言えますが、何かを頼むために自分に近づいてくるならどう思うでしょうか?「この人は、私に近づいてくるときは、何か頼みがある時だ。嫌だなー、できれば避けたい」と思うのではないでしょうか?父なる神さまも人格をもっておられますので、私たちと同じように思われるかもしれません。すばらしいことに、神さまは私たちの必要をご存じであり、くどくど求めなくても、豊かに与えてくださるお方です。その神さまが、まず私たちにお願いしたいことがあるのです。言い換えると、このように近づいてくることを父なる神さまが願っておられるということです。

 9節と10節を見るとわかりますが、「主の祈り」の前半は父なる神さまに対する求めになっています。第一は、「御名があがめられますように」という祈りです。御名というのは、単なる名前ではありません。「あなたという存在すべてが」という意味です。なぜ、御名があがめられる必要があるのでしょうか?父なる神さまは天におられ、この世の人たちは地上に住んでいます。私たちはイエス様を信じて神の子になりましたが、それでもこの世の人たちの中に住んでいます。では、この世の人たちは神さまを神さまとしてあがめているでしょうか?「あがめる」という意味は、神さまを高める、あるいは礼拝するという意味です。残念ですが、この世の人たちは、人間をあがめたり、被造物や偶像の神さまをあがめています。つまり、まことの神さまをあがめないで、他のものをあがめ、礼拝しているということです。何たることでしょう?私たち人間は被造物でありますが、被造物の中で冠が与えられています。なぜなら、神のかたちに似せて造られた、霊的な存在だからです。私たち人間は創造者なる神さまをあがめ、礼拝することが第一の存在目的になっているのです。ウエストミンスター小教理問答の第1問は「人の主な目的は何か」です。その答えは「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです 」となっています。私は神の栄光を喜ぶことが何よりも始めだと思います。その次に、「私は神の栄光をあらわしたい」と願うようになるのではないでしょうか?もし、人が神さまを神さまとして認めず、あがめもせず、礼拝もしないならどうでしょう?人間としての本分を忘れ、自分が良いと思うことを勝手に行うのではないでしょうか?しかし、それでは本当の自由も、本当の喜びも得られません。なぜなら神さまは創造主であり、神さまあっての私たちだからです。

 神さまの求めの第二番目は、「御国が来ますように」という祈りです。イエス様を信じている私たちは神の子であり、神の国に属しています。しかし、私たちはこの世で、この世の人たちの間に住んでいます。でも、イエス様は「御国が来るように祈れ」と言われました。これはどういう意味でしょうか?「御国」というギリシャ語はバシレイアーであり、支配とか王国という意味です。しかし、御国はユダヤ人的な響きがあり、正しくは「神の国」であります。ですから、詳しく訳すと「神さまの王的な支配がこの世に来ますように」という意味です。大体、この世の人たちは、「御国が来ますように、神のご支配が来るように」などと祈っていません。そんなことはどうでも良いことであり、むしろ来たら困るのです。なぜなら、自分の好きなことができなくなるからです。ある人たちは神さまやイエス・キリストを認めてはいます。しかし、信じて洗礼を受けるところまではいきません。なぜでしょう?神さまに従いたくないからです。日本には「さわらぬ神にたたりなし」ということわざがあります。ですから、たとえ神さまがいたとしても、近づかない。高い所に祭り上げておく。なぜなら、関わったらえらい目にあうからです。その人は、まるで神さまをブラックホールみたいに思っていて、「近づいたら飲み込まれる」と恐れています。だから、引力の届かないところをウロウロしているのです。しかし、この「御国が来ますように」という祈りは信仰の極意です。もし、自分の生活の中に御国が来たならどうなるでしょう?御国は神のご支配ですから、もしかしたら「それは良くない、やめなさい」ということもあるからです。御国というのはそういうものです。でも、神さまを心から信頼し、「私の生活に御国が来ることが一番良いんだ」という姿勢だったらどうでしょう?詩篇139篇では、すべてをご存じである神さまにこのように祈っています。詩篇13923,24「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」まるで、治療を求める患者が、お医者さんにMRIでもCTスキャンでもお願いしているかのようです。このところには、「もし、神さまのみむねに反するものがあれば、ただちに直します」という従順さがあります。でも、一番良いのは、自分自身と自分の生活に「御国が来る」ことであります。そうしたら、ごちゃごちゃした問題や悩み事が整然とされ解決が見えてきます。そうすれば、神さまが主権をもって解決し、正しい道に導いてくださいます。このような祈りをしている人が、私のまわりに、地上の人たちに、この国に来るようにと祈っていくのです。すると、神さまはその人の祈りを通して、この世を御国へと変えてくださいます。つまり、神の国がこの世に入り込んで、神の国が拡大していくということです。

 神さまの求めの第三番目は、「みこころが天で行われるように地でも行われますように」という祈りです。英語の聖書は、Thy will be done on earth as it is in heaven.となっています。Willというのは原文もそうですが、意志、意欲、願望ということです。ですから「みこころ」というのは、「神さまのご意志、神さまのご意向」という意味になります。天、つまり神さまがいらっしゃる第三の天においては、神さまのご意志は完全になされています。使徒パウロは、「私は第三の天に上ったことがある」と言いました。第三の天は神さまのご支配とご意志が完全になされているところです。でも、問題なのは、私たちが住んでいる地上であります。地上とは、第一の天です。それは、自然科学が通用する物質の世界と言うことができます。学校教育もそうですが、科学者はこの目に見えて、実験可能な物質の世界しか認めていません。しかし、この考えは18世紀フランス革命の頃から芽生えた思想であります。しかし、有史以来、人々は目に見えない世界がある、霊的な存在はあると信じてきました。という日本も、アニミズム、精霊崇拝の国です。西洋の学校教育を受けて、自分は科学的だと言っても霊やパワースポットを信じています。この目に見えない霊の世界は、第二の天と呼ぶことができます。第二の天の支配者はこの世の神である悪魔とその子分である悪霊です。でも、同時に天使も神さまのみこころを行うべく、忙しく活動している場でもあります。第三の天と私たちの住んでいる第一の天の間に、この第二の天があるのです。この第二の天をエペソ2章では、「空中」と呼んでいます。空中の権威を持つ支配者が不従順の子ら(神さまを信じていない人たち)を支配していると書いてあります。私たち神の子らは、2つの影響を受けます。1つは第二の天からくる悪魔と悪霊の攻撃です。もう1つは、第三の天からくる神の助けです。神さまは聖霊として私たちのところに助け主として来られ、さらに天の御使いを第二の天からも与えてくださいます。しかし、神さまを信じてない人たちのところには、そういう助けも守りもありません。ある人たちは「神さまがいるのに、どうして災難やひどいことが起こるのですか?」と質問します。その答えは、神から離れた人間は第一の天、地上に住んでいるからです。この地上では物理的な法則(自然法則)が働きます。と、同時に第二の天から、悪魔が地上の人たちを攻撃しているのです。ですから、どうしても、私たちは「みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈らなければなりません。こういう三重の世界構造を知っている人と知らない人とでは、祈り方が全く違います。エペソ26に書いてありますように、私たちは神の子であり霊的には、第三の天(神の御座)にあります。しかし、同時に物理的に、肉体は第一の地上にあります。ですから、私たちは神の御座にいるつもりで、神の御座の隣にいらっしゃるイエス様に、「みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈る必要があるのです。

2.私たちの求め

 やっと私たちの求める祈りがやってきました。イエス様はまず、何のために祈れとおっしゃったのでしょうか?「お金が与えられて、豊かな生活ができるように」でしょうか?あるいは「健康で長生きできるように」でしょうか?あるいは「自分の夢や願望が叶うように祈れ」ということでしょうか?そうではありません。何と、イエス様はまず第一に「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えくださいと祈りなさい」と言われました。日ごとの糧とは、食べ物を代表する私たちの必要です。戦中戦後ならわかりますが、なんと地味な祈りなのでしょうか?また、私たちは今日だけではなく、「明日も、あさっても、老後もずっと与えられますように」と祈りたくなります。私たちは被造物です。そして、神さまは創造主であり、すべての供給者です。ところが、今日のように社会が複雑になってくるとだれが供給者なのか分からなくなります。そして、あれも必要だ、これも必要だと思いわずらうようになります。テレビ・ショッピングでは体に良いとされる色んなサプリメントが宣伝されています。もし、それらをまともに買うならば、一回で手の平いっぱいの量を摂ることになるでしょう。衣服も流行に合わせていたら、昨年、来ていたものが時代遅れになります。ジャパネットもいろんな電化製品を売ろうと甲高い声でせまってきます。使徒パウロは何と言ったでしょうか?Ⅰテモテ66-8「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。」まず、私たちは「満ち足りる心」を持つ必要があります。それは主の祈りの前半、「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈るので可能になるのです。つまり、「私は父なる神さまを持っているので、思いわずらわなくても良い。必要なものは必ず与えられる」という信仰があるからです。そして、日ごとの糧が今日、与えられていることを感謝できるのです。この世のコマーシャルに惑わされず、神さまを信頼するシンプル・ライフが一番良いのです。

 第二番目の必要は何でしょう。マタイ612「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。」「負い目」はユダヤ人的な表現であり、ルカ福音書では「私たちの罪をお赦しください」となっています。問題は、「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました」という祈りです。原文は、「私たちが、私たちの負い目のある人たちを赦したように」となっています。何か私たちの他者への赦しが、自分の赦しのための交換条件のように聞こえます。しかし、それもあながち間違いではありません。なぜなら、マタイ614-15「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」とあるからです。私たちは「他者の罪を赦しておかないで、神さまに自分の罪だけはどうか赦してください」とは言えません。良心が咎め、それは虫が良すぎると思うからです。ですから、他者の罪を赦すことを保留している人は、神さまの前に出て、自分の罪を赦してくださいとは祈れないのです。すると、イエス様が教えられた「主の祈り」はどういう目的のためにあるのでしょうか?イエス様はまず「私たちの負い目をお赦しください」と祈って良いとおっしゃったのです。そうすると、その人は神さまからの赦しを体験します。そうすると応答として、「私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」となるのではないでしょうか?私が聖書解釈で一番、注意していることはみことばを律法的にとらないということです。主の恵みで理解するということです。問題をぶらさげたまま、罪を赦すことのできない自分をぶらさげたまま、恵みの座に出て祈って良いのです。そうすると、そこで神さまの愛と赦しをいただきます。「ああ、そうなんだ」と今度は、自分に罪を犯した人を喜んで赦したくなるのです。「赦すなら赦さない」ではなく、「赦されたから赦す」のです。他者の罪の赦しは交換条件ではなく、恵みの結果なのです。

 第三は「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」です。キリスト教会でも「悪」というと、概念的にとらえる人がいます。しかし、「悪」とは人格を持った悪魔のことです。尾山令仁師の現代訳聖書では、「私たちを悪魔から救い出してください」と訳されています。私たちを試みに会わせるのは、神さまではなく悪魔だからです。ヤコブ113「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。」とあります。問題は、誘惑されるものが自分の中にあるということです。ヤコブはそれを「欲」と言っています。ヤコブ1:14 「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」。欲というとすべての欲望が悪いと誤解されがちですが、そうではありません。欲は英語でlust、抑えがたい強い欲望、肉欲、煩悩となっています。ギリシャ語では「渇望、貪欲、肉の欲を満足させるため」という意味です。神さまは私たちに生きるために様々な欲、欲求を与えています。この祈りも、私たちの必要を求める祈りです。でも、貪欲や肉の欲は、神さまが与えた範囲を越えたものです。道路には左右にガードレールがあります。貪欲や肉の欲は、そのガードレールを越えたところにあるものです。つまり、神さまが与えた、法を犯す、飛び越える行為であります。でも、私たちは神さまが与えたガードレール内で喜びと楽しみを得て良いのです。ところが、悪魔は「それを飛び越えて楽しみなさい」と誘惑してくるのです。だから、エバのときも「食べてはならない木から食べよ」と誘惑したのです。それは、神の主権を犯す行為でした。神さまは「園のどの木からでも思いのままに食べて良い」と言われました。しかし、悪魔は「園のどんな木からも食べてはならない、と本当に言われたのですか?」と疑いをかけました。つまり、「神さまはケチで、独り占めしているんじゃないの」と言わんばかりです。そのとき、他のたくさんの木の実が見えなくなったのです。

 私たちは誘惑と真正面から戦うべきではありません。誘惑から避ける、つまり自分の方から遠ざかるべきです。たとえば男性なら、「性的な罪を犯さないように、犯さないように」と言うと、そちらの方に意識が行ってしまいます。しかし、それでも誘惑を受けることがあります。誘惑を受けること自体は罪ではありません。イエス様も悪魔から誘惑を受けました。では、どうしすれば良いでしょう?マルティン・ルターは、「空の鳥が自分の頭の上を飛ぶことは妨げられない。それは鳥の権利だからである。しかし、その鳥が自分の頭の髪の毛で巣を作ろうとしたなら、やめろと払いのけることができる」と。そうです。誘惑を思いの中にとどめてしまうので、誘惑にはまってしまうのです。誘惑がきたら、「ハレルヤ、主よ、感謝します」と、主を礼拝する時としましょう。特に男性は、誘惑の機会が多いのですから、それを礼拝の時に変えるととても幸いです。

3.頌栄

 頌栄の部分は、あとから教会がくっつけたものだと言われています。だから、かっこの中に入れられています。〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕しかし、これは、すばらしい祈りだと思います。国とは何でしょう?これは、御国と同じで、支配とか王国という意味です。ですから、「すべての支配と王国は、主よ、あなたのものです」という告白になります。その次は、力です。このことを私たちが告白するときどうなるのでしょうか?それは「すべての力は、主よ、あなただけに属します」という告白になります。最後は、「栄え」です。これは「栄光」とも訳すことができます。栄光は被造物のものではなく、神さまのものです。ですから、このことを私たちが告白するときどうなるのでしょうか?それは「すべての栄光は、主よ、あなただけのものです」となります。私たちは礼拝の最後に、この頌栄を歌います。その時、私たちは主なる神さまを賛美し、栄光をおささげしているわけです。

 きょうは「主の祈り」について学びました。みなさん、「主の祈り」がいくらすばらしいからと言って、同じことばを繰り返したなら、異邦人の祈りと同じになります。マルティン・ルターは、「主の祈り」は、最大の殉教者だと言いました。その意味は、最も多く口で唱えられながら、最も多く足げにされ、軽んぜられ、その生命が殺されてしまっているということでしょう。主の祈りは口先で唱えるものではなく、心から祈るものであります。しかし、同時に私たちは「主の祈り」の順番で自分の祈りを構築していくべきではないかと思います。つまり、祈りは、いきなり自分の必要を神さまの前に並べ立てるのではありません。まず、神さまがどんなにすばらしいか、神さまを賛美することから始めるべきだと思います。特に、キリストによって罪が贖われ、父なる神さまに受け入れられていることはどんなにすばらしことでしょうか?神さまの偉大さ、その愛といつくしみ、善…こんな者をも覚えてくださる、感謝します。その次に、自分の必要、悩みや問題をさらけ出すのです。父なる神さまは何を言っても受け止めてくださいます。でも、最後に「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」と祈ったならどうなるでしょうか?「ああ、神さまは何とかしてくださる」という信仰と希望が与えられます。祈ったあとは、共におられるイエス様と共に生活するのです。イエス様の贖いによって、天の神さまを「お父さん」と呼べることを感謝します。

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