« 天に宝を蓄えよ マタイ6:19-24 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.4.17 | トップページ | さばいてはいけない マタイ7:1-6 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.5.1 »

2016年4月22日 (金)

空の鳥を見よ マタイ6:25-34 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.4.24

 きょうの聖書箇所を読むと、非常に牧歌的で現代のようなハイテクの時代にはそぐわないような気がします。今の世の中は複雑であり、人間が作ったものに満ちています。しかし、人々はその中で何を食べるか、何を飲むか、何を着るか思いわずらって生きています。イエス様は「空の鳥を見よ」と言われましたが、上を見上げるときに、創造主なる神さまのことを思い出させてくれます。いくら世の中が複雑であっても、すべての必要は、創造主なる神さまから来ているのです。私たちを養ってくださる父なる神さまの存在を知るとき、心配事や思いわずらいから解放されるのではないでしょうか?

1.根源者なる父

 このところにいくつかのものが上げられています。1つは人間が働いて作り出したものです。もう1つは神さまが与えたもので、根源的なものです。では、人間が働いて作り出したものとはどういうものでしょうか?食べ物、飲み物、着るものがあります。一方、神さまが与えてくれた根源的なものとは何でしょう?いのち、からだであります。イエス様は、27節で「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」と言われました。「自分のいのちを延ばす」はギリシャ語では、「自分の身長を1キュビット(45センチ)でも伸ばすことができますか」となっています。また、新共同訳は「自分の寿命をわずかでも延ばすことができますか」と訳しています。いのち、身長、あるいは寿命は人間ではなく、神さまの御手の中にあるものです。いくらがんばっても、自分の身長や寿命を伸ばすことはできません。それにくらべると、食べ物、飲み物、着るものはどうでしょうか?いろんな食べ物があり、どれを食べるか迷ってしまいます。世の中はグルメ・ブームで、レストラン、スイーツ、名産品、ラーメンなどを紹介するテレビ番組がいっぱいあります。中には、自分で作った料理をブログに載せている人もいます。飲み物もビール、お酒、ワイン、コーヒー、青汁、健康飲料、たくさんあります。飲み物の動販売機がいたるところにあります。着るものはどうでしょうか?近くにこのアリオがありますが、横文字のお店がたくさんあります。土日には長い列ができています。人々は流行に遅れないように必死です。イエス様は631-32「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」と言われました。

 イエス様はこういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです」と言われました。つまり、彼らの心配ごとは、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、それらのことで心がいっぱいなんだということです。しかし、イエス様は「食べるものよりも、いのちが大切だ」と言われました。私たちは「食べものがなければ生きて行けないだろう」と反発するでしょう。イエス様は「何を食べようか、何を飲もうかと心配するな」とおっしゃったのです。何も食べるな、とか何も飲むなと言われたのではありません。つまり、こういうことです。もし、いのちを「健康」というふうに置き換えたらどうでしょう?いのちや健康があってこそ、食べ物や飲み物をいただくことができます。病気で衰弱していると、食べたり飲んだりできません。つまり、いのちや健康の源は神さまからくるものであり、食べ物や飲み物は人間の努力や働きの結果であります。私たちは本末転倒をしており、食べ物や飲み物が健康をささえ、寿命を延ばすように勘違いしています。おいしいものを食べたら健康で長生きするかというとそうではありません。ヨーロッパや日本でもそうですが、粗末なものを食べている山間部の人が長生きするというデーターが出ています。むしろ、おいしいものを食べる人が肥満になったり糖尿病になり短命だということです。さらにイエス様は「着るものよりも、からだが大切だ」と言われました。これに対して、私たちは「着るものがなければ、裸で暮らすのですか?」と反発するでしょう。イエス様は「何を着ようかと心配するな」とおっしゃったのです。何も着るなとおっしゃっているのではありません。もし、からだを「スタイル」というふうに置き換えたらどうでしょう?いくら高級なドレスを身に着けても、「どうかな?」と思います。テレビショッピングで衣類や装飾品を販売しています。それを身に着けている人はスタイルが良くて美しい人です。「とても良く似合っているな」と思って、買ってみるのでしょう。自分が着てみるとそうでもない、ということがあるのではないでしょうか?つまり、着る物よりも本体であるからだの方が大切だということです。衣類や装飾品は人間が加工して作るものです。でも、からだは神さまが与えた本質的なものであります。

 イエス様はそのことをもっと分かるようにするために2つのイラストレーション(実例)を与えました。1つは空の鳥であり、もう1つは野のゆりであります。とてもシンプルでありますが、現代人にも通用する立派な実例であります。イエス様は「空の鳥を見なさい」と言われました。彼らは種まきもせず、刈り入れもせず、倉におさめることもしません。この3つの作業は、私たち人間が食物を得るために必要なことです。つまり、これらは人間の働きであり、生産物です。空の鳥はそういうことをしていなくても、天の父が養ってくださいます。彼らはきょうは何を食べようか、人間のように心配していません。ただ、神さまが与えてくれたものを食べているのです。そして、そのいのちすらも、神さまが与えているのです。イエス様は私たち人間が「彼らよりももっとすぐれたものではありませんか?」とおっしゃっています。どういうことかと言うと、神さまが空の鳥を養っているのなら、もっとすぐれた人間を養わないはずはないだろうというこです。もう1つは野のゆりです。野のゆりは働きもせず、紡ぎもしません。しかし、神さまが彼らを着飾ってあげておられ、「栄華をおさめたソロモンもかなわない」と言われました。働きもせず、紡ぎもしないということは、着る物を作っていないということです。神さまが野のゆりに着る物をちゃんと与えているということです。神さまがこれほどに装ってくださるのだから、まして人間によくしたくださらないことがあろうかということです。あすは炉に投げ込まれる野の草さえも装ってくださるとはどのような神さまでしょう。

私たちが前半のメッセージで学ぶことは何でしょう?食べ物、飲み物、着る物は人間が働いて作り出したものです。私たちはいつの間にか、こういうものがなければ生きてゆけないと心配します。挙句の果て、どれを食べるか、どれを飲むか、どれを着るかという贅沢な悩みまで持ってしまいます。お金を持つと、だんだんおいしいもの、高級品に傾いていきます。2000年の統計ですが、日本では家庭や食品工場、外食産業で、合計3000万トンの食糧が無駄になっているそうです。発展途上国での4600万人の年間食糧に相当するそうです。また、衣類はどうでしょうか?昔は1つの洋服を使い回ししていたかもしれません。しかし、今では少し流行に遅れるとタンスの肥やしになります。私も家内から注意されますが、クロゼットにジャケットやシャツがいっぱいつまっています。水前寺清子という歌手がいますが、三階の家全部に衣服があふれており、お風呂場も使えない状況でした。今の人たちは、着る物がないので悩むのではなく、どれを着るか悩んでいるのです。どうして、イエス様が空の鳥や野のゆりのことをあげたのでしょう?それはもっとシンプルに考えなさいということです。世の中の経済機構や流通機構を考えると一体だれが、必要を与えているのか分かりません。特に日本は創造主の概念がないので、みんな人間が生産して加工しているんだと考えるでしょう。そして、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか心配しています。しかし、そういうものは本質的なものではなく、すべて付随的なものであります。神さまは私たちがどうすることもできない、いのち、からだ、寿命を与えているんだということです。もし、いのち、からだ、寿命がちゃんと与えられていれば、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか心配する必要はありません。

つまり、すべての根源者なる神を知るということです。しかも、イエス様は「あなたがたの天の父」とおっしゃっています。私たちの神さまは、もっと、パーソナルで親しいお方だということです。父親と子どもという関係であるならば、どうでしょうか?父親は子どものことを心配し、必要なものであれば、いくらでもあげたいと思うでしょう。ところが、子どもは放蕩息子になり、父親なんかいらない、自分で生きて行けると思っています。生まれつきの人間は、霊的な孤児であり、「神なんかいらない。自分で働き、自分で生産し、自分で作るんだ」と高慢になっているのです。根源者なる天の父から離れたならどうなるでしょう?いくら食べても満足しない。いくら飲んでも満足しない。いくら着ても暖まらないのです。そして、心の中には心配やおもいわずらい、孤独感が満ちています。日本人の多くの人たちが鬱などの精神疾患で病んでいます。あるデーターでは「日本の人口が約1億2000万人で、過去一年間に、1000万人以上の方が精神疾患にかかり、うつ病は、380万人以上がかかっている」と言っています。私たちには、いのちとからだ、寿命をささえておられる天の父がおられます。空の鳥に食物を与え、野のゆりを飾ってくださる神さまが、どうして神のかたちに造られた私たちを養ってくださらないことがあるでしょうか?信仰の薄い人とはそういう天の父を信頼しない人であります。私たちは根源者なる天の父をひたすら慕い求めていきたいと思います。

2.神の優先順位

マタイ633「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」このみことばは、とても有名です。ある人たちは、このみことばを座右の銘にしています。しかし、あるクリスチャンたちは、このことは教会を第一にすることなんだと解釈しています。つまり、第一に教会の奉仕、第二が家庭、第三が仕事、第四が趣味というふうに優先順位をつけています。中には日曜日の朝から教会に行って、家に戻るのが夜だという人がいます。独身者だったらまだしも、もし家族の中で自分だけがクリスチャンであるという主婦であったらどうでしょうか?家で残されたご主人や子どもたちのお昼はどうなるのでしょうか?さらに、水曜日の祈祷会や他の奉仕で留守をするとなると、残された家族は教会を恨むかもしれません。実際、カルト的な教会は、すべての時間を教会の奉仕に向けることが本当のクリスチャンなんだと言います。また、世の中の仕事は、お金を得て、献金するためなんだとするならどうでしょうか?教会に関する奉仕がきよくて、世の中の仕事はきよくない。だから、お金を得るためだけに働くというのです。しかし、そうなると人生の半分近くが無駄なことをしているんだということになります。このように、教会とこの世ということを分けるという考えがピューリタンの中に生まれました。どういう意味かというと、神さまに関することだけがきよいのです。聖書、讃美歌、礼拝、祈祷会、奉仕、信徒の交わりがきよいのです。一方、きよくないものは政治、経済、学校、仕事、この世の音楽、スポーツ、ダンス、趣味などです。今はそういう極端な人はいないと思います。でも、教会とこの世とを分けて、考える人はたくさんいます。教会に関することはきよくて、この世のビジネスや芸術、政治はきよくないと考えるということです。もし、そのように二元論的に考えるならば、神さまを第一にするということは、かなり偏ってくるし、この世とは無関係なものとなるでしょう。ですから、神の国とその義を第一にすることは、教会を第一にするということではないということです。

私は第一に教会の奉仕、第二が家庭、第三が仕事、第四が趣味というふうに分けるのは間違っていると思います。あるいは、神さまに関することがきよくて、この世の政治やビジネスや芸術がきよくないと考えるのも間違っていると思います。では、どういうことが神の国とその義とをまず第一に求めなさいということなのでしょうか?まず、私たちは文脈からこのみことばを考えなければなりません。イエス様は「だから」と言われました。だからということは、その前の文章をふまえて言っていることであります。では、どこまでなのでしょうか?イエスさまは「そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」とおっしゃいました。少し前の31節には、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るかなど心配するな」と書かれています。もし、神の国とその義を第一に求めるならば、食べ物、飲み物、着る物がちゃんと与えられるということです。空の鳥や野の花が人間のように働いて生産しなくても、天の父が彼らを養ってくださいます。ましてや神のかたちに造られた私たちはもっと価値があり、もっと神さまが養ってくださるということでした。でも、そこには1つの条件があるということです。それは、神の国とその義とをまず第一に求めるということです。そうれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられるのです。なぜなら、天の父は、それがみんな私たちに必要であることを知っておられるからです。神を信じない異邦人は、天の父もいないし、神の国とその義とを第一に求めていません。当然、そういう人たちには思いわずらいや心配が伴うんだということです。自分の力しか頼れないと思っているので、明日のことも心配になります。いくら持っていても、明日どうなるか分からないので、心が休まることがないのです。日本ほど、生命保険をはじめいろんな保険に入っている国もないそうです。また、日本ほど貯蓄する国もないそうです。また、日本ほど勤勉な国もないそうです。なぜでしょう?それは裏返すと、自分たちを養い、守って下さる天の父がいないからではないでしょうか?しかし、西洋から入ってきた、キリスト教信仰の多くは、天の父はたしかにいらっしゃいます。しかし、教会とこの世を分離して、教会に関するものはきよくて、この世のものはきよくないという二元論を教え込まれました。クリスチャンになって救われるのはすばらしいことですが、禁欲的で、この世から離れて暮らす信仰生活になります。この世では、ひたすら我慢して、天国に行ったら豊かな生活ができると考えます。クリスチャン一世は熱心でそれで良いかもしれませんが、子弟たちは「世捨て人みたいでいやだよ」と離れるでしょう。

 ですから、私たちはマタイ633のみことばを正しく理解しなければなりません。もう一度言いますが、私たちが第一に求めるのは教会ではなく、神の国とその義であります。また、ここで言われているのは、神さまを第一に求めるならば、食べ物、飲み物、着る物が必ず与えられるということです。まず、このことに私たちは安息すべきであります。天の神さまが私たちを養ってくださるのです。私たちにいのちを与え、からだを与え、寿命を与えてくださいます。また、食べ物、飲み物、着る物のもとの原料や資源も与えて下さっているのです。人間は生産したり、加工したりしていますが、すべて根源者なる神さまがおられるからです。アーメン。しかし、1つ問題が残っています。第一に教会の奉仕、第二が家庭、第三が仕事、第四が趣味なんでしょうか?また、教会に関することはきよくて、この世のものはきよくないのでしょうか?マタイによる福音書をはじめたときから、何度も言っていることがあります。この世は神から離れて暮らしている人間のことをさしています。背後に悪魔がいて、この世が神の代わりに人々を占有するように誘惑しています。しかし、この世にイエス様が御国をもって入ってこられました。御国とは神の支配であります。まだ、神の領土は目に見えませんが、神の支配として確かに来ています。私たちクリスチャンは、この世から、御国に入った存在です。私たちはこの世に住んでいますが神の民であります。さて、このようなことが分かるとさっきの問題はどうなるのでしょうか?イエス様はルカ福音書で「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ1721と言われました。私たちは神の国の中にいますが、同時に、私たちの中に神の国があるのです。ということはどうなるでしょうか?この世の中に、御国があり、御国が私たちの中にあるということです。つまり、神の支配である御国が私たちと共にあるということです。言い換えると、私たちが御国を運んでいる器だということです。では、教会とは何でしょうか?そういう御国を持っている人たちが集まっているところを教会と呼ぶのです。ですから、この地上において教会が1つにまとまり大きくなったり、あるときは小さなかたまりで散らされるということです。私たちは今、教会という建物の中にいます。しかし、この集会が終わると、家庭、職場、学校、地域社会に散らされて行くということです。だから、教会とこの世を二分することはできません。なぜなら、私たちが教会の一部として、いろんなところに派遣されているからです。10年近く前、香港からベン・ウォンが来られたことがあります。私たちクリスチャンが教会なんだと言っていました。先生は、「人々を教会に連れて来てはいけません。私たちが人々のところに行くのです。なぜなら、私たちが教会だからです」と言われました。先生は教会になまじっか建物があると、建物を教会と呼んで、何でも教会の中でやってしまうと批判していました。そうではなく、私たちが人々のところに教会を持ち運ぶ存在なんだと言っていました。ちょっと過激すぎたので、会堂建築にストップがかかってしまったところもあります。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい」とはどういう意味でしょう?それは家庭で家事をしているとき、家族と接しているときもそうなんですよということです。家庭に神さまの支配を歓迎し、神さまが喜ばれるようなことが行われように願って行動するということです。あなたが神の国の代表者、大使であるならば、家族の人が当然、祝福されるのではないでしょうか?また、それは会社や職場で仕事をしているときであります。上司や同僚、部下、顧客と接しているとき、神さまの支配を歓迎し、神さまが喜ばれるようなことが行われように願って行動するということです。あなたは神の国の代表者、大使であるならば、職場の人たちが当然、祝福されるのではないでしょうか?これは、地域社会、趣味のサークル、あらゆることに適用できるのではないでしょうか?つまり、この世という神から離れた世界に、地の塩、世の光として派遣されているということです。では、「そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とはどういう意味でしょう?すべてのものとは、食べ物、飲み物、着る物、生活必需品であります。でも、「それに加えて」とあります。それとは、あなたが第一に求めた「神の国とその義」であります。私たちクリスチャンは、神の国とその義を求めるという姿勢が大切だと言うかもしれません。しかし、求めた人に神の国とその義が与えられると聞かされたことがあるでしょうか?また、神の国とその義が与えられたらどうなるのでしょうか?イエス様は主の祈りで、「御国が来ますように」祈れと言われました。ですから、その人の中に神の国と神の義が与えられるということです。ハレルヤ!旧約時代の人は「神が共におられることが救いだ」と言いました。しかし、新約の私たちは天国に行く前に、すでに神の国と神の義があるということです。言い換えると、自分の中に天国があるということです。私たちには、この世にいながらも、天国の豊かさ、天国のいのち、天国の喜び、天国の力、天国の守り、天国の健康、天国の回復があるのです。

|

« 天に宝を蓄えよ マタイ6:19-24 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.4.17 | トップページ | さばいてはいけない マタイ7:1-6 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.5.1 »