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2016年4月15日 (金)

天に宝を蓄えよ マタイ6:19-24 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.4.17

 子どもと大人の違いがあるとすればどんなことでしょうか?子どもは人からもらうことに喜びを感じます。一方、大人は人に差し上げること、つまり与えることに喜びを感じます。もちろん、大人でも人からもらうと嬉しいことは間違いありませんが、人に与えることができたらもっと嬉しいですね。天に宝を蓄えると言うのは、人々や神さまの働きのために与えることではないかと思います。常識的に、与えると自分のものがなくなるので悲しくなります。しかし、イエス様は天に宝を積むことになるんだと言われました。そこには、神さまの豊かな報いがあるということです。

1.天に宝を蓄えよ

 宝とはどんなものでしょうか?旧約聖書には金銀、宝石はもちろんそうですが、象牙、紫布、絹、麦、オリーブ油、羊、牛、男女の奴隷も含まれていたようです。ですから、その中には虫やさびで、傷ものになるものもあるでしょう。宝は蔵におさめ鍵をかけます。ところが、盗人が穴を開けて、大事なものが盗まれる恐れがあります。現代は、貸し金庫に預けるか、セコムのようにセキュリーティシステムで建物を守るかもしれません。「蓄えるほど宝のある人はうらやましいなー」と思います。しかし、たくさん持っている人は悩みがあるのです。「盗まれないかなー」「キズつかないかなー」ってしょっちゅう心配していなければなりません。たとえば、車でも新車のうちは傷つかないように慎重に運転するでしょう。もし、ちょっとでも、ぶつけたりしたら大ショックで板金に出します。ところが、2,3年たつと、あんまり気にしなくなります。たくさん持っている人というのは、気が休まらないのではないかと思います。イエス・キリストはどう言われたでしょうか。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめない。そこでは虫とさびでキズものになり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあえて盗むこともありません」と言われました。天国には盗人はいません。しかも、半永久的に自分のものになります。保管場所には最適なところだというわけです。

 しかし、どうやって、天にたくわえるのでしょう?宅配便もしくは航空便でしょうか?そうではありません。このことは、マタイ6章のはじめに書いてあります。天にたくわえるというのは、他者への施し、あるいは献金のことではないかと思います。困っている人たちや、神様の事業のために捧げることは、天に宝を積むことになるのだというのです。アーメンでしょうか?それとも、もったいなくて、そんなことはできないでしょうか?教会にはいろいろな団体から募金のお願いが来ます。10年くらい前までは会計が豊かだったので、いろいろな宣教団体にお送りしました。しかし、会計が厳しくなってからは、数か所になりました。それも、クリスマスの時だけです。個人としては、十分の一献金は当たり前だと思っていますが、その他の献金になるとついシビアになります。政府もそうかもしれませんが、人のお金だと気前良く使うことができます。しかし、自分のお金となると、つい渋ってしまうのではないでしょうか?昨年、外壁の工事の相談のため、会社の社長さんとお会いしました。社長さんは「教会さんはどうやってお金を集めていらっしゃるんですか?いわゆるお布施ですか?」と質問をされました。確かに教会は事業をしているわけではないので、愛兄姉の献金によって成り立っています。もちろん、献金は御賽銭とかお布施ではありません。これは、信仰であります。信仰がなければ1円たりとも、もったいなくてささげられません。どういう信仰かと言うと、第一は救われていることの感謝です。それまでは自分が働いてかせいだお金だという考えがありました。ところが、地下資源から私たちの健康にいたるまで、神さまからいただいたものだと分かります。そうすると、感謝のゆえにお返ししたくなるのです。第二は神さまの働き、御国のために投資できるということです。きょう言われている、天に宝を積むということは、まさしく投資であります。

今から約20年前、会堂建築工事がありました。熱心な信仰によって13000万円が集まり、本体と付帯設備が満たされました。ところが、椅子とかピアノなどの備品を買うための資金がありませんでした。もう何度も献金のアピールをしたので、嫌がられると思いましたが、備品献金を募りました。そうしますと、長椅子の一部、講壇、ピアノ、オルガン、テーブル、椅子、時計、食器…1,100万円相当が与えられました。この世では、ピアノ、オルガンのどこかに寄贈者の名前を入れるかもしれません。しかし、教会員は天国に宝を積むんだという信仰からくる喜びに満ちていました。今振り返ると、「なんと無謀だったんだろう」と思いますが、「勢いがあったなー」と思います。献金の喜びは、捧げた人でなければわかりません。捧げたあと、どうやって捧げることができたんだろうとびっくりします。はっきり分かることは、神さまが捧げることができるように、私たちを祝福してくださったのであります。Ⅱコリント910「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」アーメン。

 D.Lカーネギーの本にからの引用です。アメリカに大富豪のジョン・R・ロックフェラー(1839-1937)という人がいました。この人はアメリカの石油業の95%を独り占めしていた大実業家です。彼は貧しい行商人の息子として育ち、若い時から野心でいっぱいでした。彼のモットーは「自分のため、金のため」ということでした。彼はこのモットーで押し通して、1セントでも余計にもうけるために、雇い人や商売相手から情け容赦なくお金をはぎ取っていました。このロックフェラーが50歳を過ぎた頃、極度のノイローゼにかかりました。そのどん底の苦しみの中で彼は我に返り、「自分のため、金のため」という人生は滅びでしかないということが分かったのです。彼は悔い改めてイエス様に立ち返りました。ロックフェラーは、実業界から引退すると慈善事業に全精力を傾けました。有名なロックフェラー財団を創設して、シカゴ大学の創設や病院の創設など、彼が得た財産を社会に還元するようになりました。彼の宝は地上から天に移ったのです。ですから彼の心も地上から天に移ったのです。アーメン。自分の宝を地上にたくわえるか、それとも天にたくわえるか、その人の生き方が違ってきます。21節「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」とあります。もし、縁の下に隠していたら、いつも、縁の下に目がいきます。へそくりを、額縁に隠していたなら、いつも額縁に目がとまるでしょう。ところが、天に蓄えていると、いつも天国に心が向くのです。富を持っていると、人がみんな泥棒に見えますが、天を目指して生きる人生は爽やかです。しかも天に宝を積む人は、自由で前向きです。それに、やがて行ってからの楽しみがあります。あなたの関心は地上と天国どちらでしょうか。

2.純粋な目を持て

 22-23節「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」この聖句は解釈が難しく、分かりそうで分かりません。原文で「あかり」はランプです。「からだのランプは目です」となります。そうすると「目」というのは、物の見方、識別力、考え方のことかもしれません。そうすると、「全身」というのは、その人の生活や人生ということになります。しかし、「目が健全」というのは、原文では「目が単一の、シングルの」となっています。そうすると、「目が悪い」というのは、二重に見える乱視のような目であります。もし、天国にだけに目を向けているならば、その人の目は健全であり、純粋であります。しかし、天国と地上を天秤にかけている人の目は悪いということになります。ヤコブ19「そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」英語の聖書で「二心」は、ダブル・マインドとなっています。旧約聖書を見ると分かりますが、イスラエルはヤーウェなる神に選ばれた特別な民でした。ところがカナンに定着してからは、バアルなど土着の神さまを慕うようになりました。バビロンに滅ぼされるまで、偶像礼拝がなおりませんでした。新約の私たちはどうでしょうか?天上のものと地上のもの、どちらを選んでいるでしょうか?もしかしたら、地上のことに目をうばわれているのではないでしょうか?ヤコブ44「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」ヤコブ48「二心の人たち。心を清くしなさい。」とあります。ということは、決して他人事ではないということです。

 私が神学生の頃、小林和夫先生というとても有名な先生がいらっしゃいました。先生のご自宅で開かれていた祈祷会にこっそり出させていただきました。お部屋の書棚には、レースカーテン越しに、洋書の神学書がぎっしり並べられていました。先生がある時ご自分の証をされたことがあります。アメリカの神学校で、ガーベージを片付けるアルバイトをしながら、学んだそうです。もうすぐ博士号を取れるというのに、教団本部から戻って来いと言われたそうです。先生は博士号が偶像になるかもしれないので、きっぱり学校を辞めて帰国したそうです。先生は組織神学や旧約聖書の他、ジョン・ウェスレーについても教えておられました。大伝道者・ジョン・ウェスレーという人は「一書の人」と言われたそうであります。一書とは聖書ですが、聖書以外の本を読まなかったということではありません。何よりも聖書を深く読み、聖書に土台したメッセージ、聖書をよりどころとした生き方を提唱したということです。私が座間キリスト教会で奉仕していたころ、時々、夕拝の説教が回ってきました。どうしても良い説教、深い説教をしたいという誘惑に駆られました。それで、いろんな注解書を読みあさりました。しかし、偉い先生方の本を読めば読むほど恐れが出てきて、頭も痛くなりました。私はある時から、注解書を参考にしないで、まず、聖書を熟読し、聖霊様にその意味を聞くことにしました。詩篇119:18「私の目を開いて下さい。私があなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにして下さい」。霊的な目が開かれ、みことばを理解できるように神さまに祈り求めました。そうすると、ぱーっとみことばが開かれ、神さまからメッセージが与えられるようになりました。


 イエス様は「からだのあかりは目です」と言われました。もし、目が物の見方、識別力、考え方だとするならば、どうなるでしょうか?神さまが良きものをたくさん与えておられるのに、感謝もしないなら、それは悪い目です。また、人の欠点や悪いところばっかり見るのも、悪い目であります。私は育った環境が悪かったので、どうしても悪く捉える癖がありました。相手が、そういうつもりで言っていなくても、批判しているように聞こえました。どうでしょうか?みなさんの中に傷つきやすい人がいるでしょうか?あるいは、みんなが自分に敵対しているように思うでしょうか?そういう人はおそらく、物の見方がゆがんでいるのかもしれません。なんでも否定的に見てしまうならば、結果的には自分の生活が狭くなり貧弱になってしまいます。私たちは主の愛と恵みによって癒され、健全な目にしていただきたいと思います。それは物事を肯定的、生産的、前向きに考える性質であります。今は日立に引っ越しされましたが、当教会に石塚兄姉が10年くらいおられました。石塚兄姉は決して批判的なことは言わないで、いつも良いところだけを取り上げて喜んでくださいました。記憶をたどりますと、大川牧師の礼拝テープの貸し出しを推薦されました。セル集会を率先してリードしてくださいました。すずめの学校を開いたときも応援してくださいました。また、ゴスペルクワイヤーが発足したときもとっても喜んでくださいました。お二人はギデオンの聖書配布しながら、行く先々で、ゴスペルクワイヤーを宣伝しておられたようです。私が一番、心に残るのは我が家で猫を飼っていたときです。猫が教会のあちこちにおしっこをひっかけて困っていました。私が家と教会の板挟みになっていたとき、深く同情してくださいました。私は何でも捻じ曲げて考えるのに、どうして石塚兄姉は良いところだけを見られるのか本当に不思議でした。大川牧師は「ちょっと頭が良ければ、批判はだれでもできる。しかし、聖霊様が喜ばれるのは裁き合わないことだ」とよくおっしゃっていました。主の恵みによって目が癒され、健全な物の見方をしたいものであります。使徒パウロがこのように教えています。コロサイ31-2「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」


3.一人の主人に仕えよ

 マタイ6:24「だれも、二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」きょうのテキスト、マタイ619-24節は、富の問題を扱っていると思って間違いありません。第一は、宝というのは富であり、地上ではなく天に蓄えるのが良いということでした。第二は、地上の富に目を向けるのではなく、天にあるものを求めるということでした。そして、第三の24節は、私たちは神さまか富か、どちらか一方にしか仕えられないと書かれています。イエス様は富の所有を全く否定しているのではありません。主がここでおっしゃっていることは、富を自分の幸福と考え、それを目的として富の奴隷になってしまうということです。結果的には、神さまの代わりに、富を拝んでしまうことになります。これは言い換えると、貪欲であり、偶像礼拝なんだということです。旧約聖書を見てわかりますが、イスラエルの民がカナンに定着してから、だんだん土着の神さまバアルを礼拝するようになりました。偶像礼拝から、さまざまな罪が生まれてきたようであります。預言者エリヤは彼らにこう言いました。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え」(Ⅰ列王記1821と叫びました。イスラエルの民はバアルにひざまずきながらも、自分たちは唯一の神を捨てたとは考えていませんでした。神様はこのような二心を赦されません。あるときには、神にも仕え、また、あるときには富にも仕えるというのは二心の人です。ヤコブ1: 8「そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」英語の聖書で「二心」はダブル・マインドとなっています。ダブル・マインドの人は信仰の安定がありません。

 マタイ福音書19章このような物語があります。一人の青年が「永遠の命を得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」とイエス様に質問しました。イエス様が十戒の後半を言いますと、彼は「そのようなことはみな守っています。何がまだ欠けているのでしょうか?」と言いました。すると、イエス様は彼に、「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」と言われました。ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行きました。この人は多くの財産を持っていたからです。この青年は若くして役人であり資産家でした。ユダヤ人たちは、金持ちは神から特別に祝福を受けていると考えていました。彼は「私は行ないで永遠の命を得られる」という自信がありました。しかし、イエス様に言われて、自分が本当によりどころとしているものが暴露されたのです。青年にとって、大切なのは神様よりも富という偶像だったのです。この人は財産全部、ささげなければ救われないということではありません。神さまではなく、富が自分の主人になっていることが証明されたのです。もしも、真の神を主人として、富を用いるならそれは奴隷ではありません。しかし、クリスチャンは献金するとき、どちらが神様かいつも試されているようにも思えます。人に施したり、献金したりすることは信仰がなければできません。もし、クリスチャンが富ではなく、神さまが主人であるということを証明したいならどうすれば良いでしょうか?給与(収入)が与えられて、生活費にすぐ回すのではなく、まず神さまへの献金を第一にするということです。旧約聖書には「初なり」とか「初物」を主の家に持って来なさいと書かれています。つまり、給与の残りをささげるのではなく、最初にいただいたとき、何よりも前にささげるということです。そうすると、不思議なことに、家計がマイナスにならなくなるのです。

 私たちは、あればあったなりに、なければないなりに過ごすかもしれません。ジョン・ウェスレーは、いくら多くの給与をいただいても、生活費はずっと同じであったと言われています。そういう訳で、ジョン・ウェスレーは人々から「メソジスト、几帳面屋」とあだなされました。彼は金銭ばかりか、時間、賜物、健康においても正しく管理した人でありました。そのため、彼は87歳まで現役で働くことができました。メソジスト運動は彼の死後も続き、メソジストという教派になりました。富の管理において、パウロの言葉を引用して終えたいと思います。ピリピ4:11以降「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くして下さる方によって、どんなことでもできるのです。」「満ち足りる」は、英語の聖書に、contentと書いてあります。Contentは「満足な状態」「不満や不安のない状態」をさします。私たちはとかく自分が持っていないものに目がいきがちです。本当は神さまがすでに良いものをたくさん与えているのに、それが見えないのです。たまに病気で寝込むことがあるかもしれません。健康になってから分かることがたくさんあります。手足が動くことも感謝です。おトイレに行けることも感謝です。ご飯がおいしく食べられることも感謝です。私たちの天の父は日の光をはじめ、すべてのものを造られました。ところが、私たち人間はそれらを当たり前のように思ってしまいました。それがさらに進むと、富やお金が神さまになってしまいます。造り主があってこその私たちなのですが、目に見えない神さまよりも、目に見える富やお金を頼る傾向があります。クリスマス・コンサートのときBecause of who You areという賛美をしました。「主よ、あなたがこういう方だから、私は賛美をささげますよ」という内容です。後半が3つ続きます。「ジェホバ・エレ、私の供給者」。「ジェホバ・ニシ、私の勝利」、「ジェホバ・シャローム、私の平和」であります。つまり、主なる神さまがいらっしゃるだけで私は満足していますということです。なぜならば、主なる神さまご自身の中に、私たちの必要、私たちの勝利、私たちの平和があるからです。私たちはどうしてもこの世の目に見えるものや人に頼りがちです。確かに現実にはそういう力があります。しかし、私たちは現実の上に働かれる主なる神さまを第一に求めていきたいと思います。

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