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2016年4月 1日 (金)

報いてくださる神 マタイ6:1-6、16-18 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.4.3

 イエス様は「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなた方の父から、報いが受けられません」と言われました。あるクリスチャンは、「神からの報いを期待することは卑しいことである」と言うかもしれません。でも、それは本当でしょうか?もちろん、私たちは人からの報いを期待してはいけません。しかし、聖書には「父なる神さまが豊かに報いてくださる」と書いてあります。当時、善行といわれるものが3つありました。第一は施し、第二は祈り、そして第三は断食です。これら3つの善行をどのように行ったなら、父なる神さまから報いが得られるのでしょうか?

1.隠れた施し

 「施し」は、英語の聖書ではcharity「慈善」となっています。当時は今と違って、福祉が整っていませんでした。ですからお金持ちが、貧しい人たちに施すのが当然のように考えられていました。しかし、人間として「私はこれだけ人に施しましたよ」と自慢したいものです。イエス様は「自分の前でラッパを吹いてはいけません」と言われました。ある説によると、献金箱がラッパの形をしていて、お金を投げ込むとジャラジャラ大きな音がしたそうです。イエス様は「彼らはすでに自分の報いを受け取っている」と言われました。「受け取っている」は完了形で、全額領収済みという商業用語になっています。そうなると、「父なる神さまの報いはもうない」ということになります。これはだれに言われているかというと、「人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者」に対してであります。彼らは、純粋な動機からではなく、人にほめられたいために目立つところで施しをしていました。イエス様は3節で「施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」と言われました。しかし、これは実際には不可能です。なぜなら、1つの頭脳から右手と左手に指令が出ているからです。おそらく、これはごく親しい人にも「私はこれだけ施したと、知らせるな」ということなのでしょう。4節「あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」重要なのは、その施しが隠れているならば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださるということです。

ところで、これを書いた人物はマタイであります。マタイは元取税人であり、金勘定にはうるさい人でした。また、商売柄、「この人はお金を持っている、この人はもっていない」、「この人は正直だ、この人はごまかしている」とすぐ分かったのではないでしょうか?お金というのは、その人の性格や考えが投影されるものです。当教会に山崎長老さんがおられましたが、よく捧げる人でした。教会の会計が赤字にならないように、いつも心配してくださいました。また、会堂建築のときも陣頭指揮を取ってくださいました。しかし、お金にとてもシビアーで、私の子どもにあげたお小遣いまで家計簿に付けているということでした。その山崎長老さんは「命の次に大切なものはお金じゃ。信仰がなければ1円たりとも献金できない」と言っていました。つまり、施し、あるいは献金は、信仰がなければできないということです。もし、人からの報いを期待して、捧げるとしたなら、それは信仰以外から来たものです。一方、「隠れたところで見ておられる父なる神さまが報いてくださる」というのが、本当の信仰であります。神さまは私たちから見えないので、こちらはただ信じるしかありません。あとから、「ああ、やっぱり報いてくださった」と分かるのは、捧げた人が体験することであります。そういう体験を重ねていくと、ささげる量も、また信仰も大きくなるのかもしれません。マタイはあえて、人前ではなく隠れたところで神さまの前でささげることの重要さを記したのであります。それは、ケチでお金を人生の目的としていた人が人生変更したことの証しであります。

私たちは施したり、与えたり、捧げると所持金が減ると考えます。特に与える賜物のある人は、その分、人々から評価されないと嫌になるでしょう。ケチな人はケチな人で、それなりの報いを期待したいところです。父なる神さまは、豊かに与える気前の良いお方です。もし、私たちが施して、与えて、捧げて、自分のものが減ってしまったならどうでしょう?隠れたところで見ておられる私たちの父が、無尽蔵の富の中から報いてくださるのではないでしょうか?ルカ638「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」与えたら、与えられる。これが御国の法則です。たとえていうとこういうことです。天には無尽蔵の富をたたえた湖があります。そこから、自分のところに小川が流れ込んでいます。確かに、施したり、与えたり、捧げると所持金が減ります。でも、その分、天の湖から、富が流れ込んでくると考えたらどうでしょう?泉は汲めば汲むほど、新しい水が湧き上がってきます。でも、「これしかないんだから」と溜池を作ってしまうのが人間です。溜池ですから、よどんでしまって、しまいには腐ってしまいます。同じように、与えたら与えた分だけ、天の湖から富が流れ込んでくるのです。でも、「与えたら、与えられる」という御国の法則は、実際に試してみないとわからないことです。神さまを試してはいけません。しかし、聖書には唯一、神さまを試して良いというみことばがあります。マラキ3:10 「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の【主】は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」

2.隠れた祈り

善行の第二番目は祈りです。当時、ユダヤ教では午前9時、正午、午後三時に、どこにいても手を上げて祈らなればなりませんでした。もし、ちょうどその時刻に人が集まっている場所にさしかかったらどうでしょうか?「よーし」と自分の敬虔さを誇示するような祈りをする誘惑にかられるでしょう?ここで言われている偽善者とは、パリサイ人や律法学者たちであります。彼らはわざわざ会堂や通りの四つ角で長い祈りをしました。なぜなら、人々から「ああ、なんて信仰深い人たちなんだろう」と思われたいからです。イエス様は「彼らはすでに自分の報いを受け取っている」と言われました。それでは、どういう祈りが神さまから報われるのでしょうか?6節「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」イエス様は「だれからも見られないように、隠れたところで祈りなさい」と教えられました。ある英語の聖書には、隠れた所をprivate roomと書いてありました。この意味は密室の祈り、つまりprivateな祈りが祈りの基本なんだということです。私たちはお祈りを義務やノルマだと考えてはいけません。祈りは神さまとの交わりであり、特権です。元来、私たちには罪があるために聖い神さまのところには行けません。昔はそのために様々な動物を犠牲として携えて来なければなりませんでした。ところが、イエス・キリストが十字架で私たちの罪を贖って下さいました。私たちはイエス様が流された血潮を通して、神さまの御座に遠慮なく近づくことができます。ヘブル416「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」アーメン。イエス様がここでprivateな祈りを勧めておられますが、これは神さまを独り占めできるということです。恵みの座にころがりこんで、父なる神さまと会話ができるのです。電話のように話し中ということがありません。向こうはいつでも、こちらに時間をさいてくださいます。ですから、祈りは義務ではなく、すばらしい特権であることを覚えたいと思います。

祈りには大きくわけて2つあります。1つは公の祈りです。牧師や司会者、あるいは献金当番の方がこのような礼拝で祈ります。あるいは祈祷会や何かの集会で人々の前で祈る祈りもその部類に入ります。公の祈りの中で、個人的な出来事や感情を述べると問題が生じます。できるなら、さしさわりのないような平面化した祈りが良いでしょう。しかし、当時の宗教家は人に聞かせるように、美辞麗句に満ちた祈りをしたようです。牧師も油断をすると、人に聞かせるような祈りになったり、説教で言えないことを祈りの中で補充する場合があります。私が神学生のときです。毎週木曜日の午後は伝道実習がありました。あるとき、川越の喫茶店で、高校生に向けての伝道集会がありました。そこで私が救いの証をすることになりました。先輩のある姉妹が隣りに座って私のために祈ってくださいました。「どうか、鈴木兄弟の唇をきよめてください。どうか、鈴木兄弟の唇をきよめてください」と切に祈ってくれました。私は「これから証をするのにテンション下がるだろう」とむっとしました。そのように祈りによって勧めたり、説教することは良くありません。公の祈りは神さまにではなく、人々に向かって祈ってしまう誘惑があります。しかし、人に聞かせるような祈りは、神さまには届きません。なぜなら、そこで報いられてしまうからです。

もう1つの祈りは個人の祈りです。このところには「自分の奥まった部屋に入り、戸を閉めて」と書かれています。ですから、ある人たちは「密室の祈り」と名付けています。イエス様は朝早く起きてお一人で父なる神さまと交わっていました。また、時々、淋しいところへ退いて祈っておられたようです。現代の家屋は、「奥まった部屋」を確保することがむずかしいかもしれません。でも、なんとか工夫して、ひとりで祈る時間を持てたら良いと思います。さきほど公の祈りについて申し上げましたが、祈りの基本は個人の祈りです。いくら公の祈りが立派であったとしても、個人の祈りが貧しければ、偽善になってしまうでしょう。牧師や司会者はどうしても、人の前で祈る機会が増えてきます。ですから、それと比例して、個人の祈りを充実させる必要があります。では、個人の祈りとは何であり、どうすれば良いのでしょうか?詩篇にはダビデの祈りが記されています。その中には代表者としての祈りもあれば、なまなましい個人の祈りも記されています。敵を呪う祈りもありますし、罪の告白もあります。涙の祈りもあれば、心からの賛美もあります。「祈りの時間はどのくらいか」と話題にされることがあります。私は時間も大切ですが、「心を注ぎ出す祈り」がもっと大切だと思います。ある人たちは「やっとエンジンがかかった」というところで祈りを終えてしまいます。しかし、苦しいところを越えると、すらすらと祈りがあふれてきます。なぜ、祈りが辛いのでしょう?それは、祈りが心から出てくる一歩手前でやめてしまうからです。マラソンや水泳もそうですが、苦しいところを越えると、楽になります。祈りの醍醐味は、聖霊の助けによって心から注ぎ出される祈りです。

祈りは父なる神さま、イエス様、聖霊様とのデートです。恋人とデートしたとき、「あなたと30分間、会話をしました。必至に会話をしましたよ。偉いでしょう?」と言ったらどうなるでしょう?「私と過ごすのがそんなに苦痛なの?さようなら」と言われるでしょう。ところが神さまとの交わりになるとどうでしょう。5分もたつと祈りの課題がなくなります。私はすぐに祈りの課題を出して人々のためにとりなしの祈りをするのは反対です。まず、自分と神さまの関係を第一にすべきです。神さまと二人の蜜の時間を楽しむのです。自分の思いや願いも述べて結構です。でも、ちょっとだけ神さまにも時間を与えましょう。立て板に水の祈りではなく、祈りを聞いておられるお方がいるんだということを自覚したいと思います。あるときは、祈りが途絶えて、言葉では表現できないかもしれません。それでも良いのです。ローマ826「 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」アーメン。そうです。私たちの内におられる神の御霊が私たちに祈らせてくださるのです。私たちのつたない祈りを聞いてくださる神さまがおられます。イエス様は今、聖霊によってあなたのところにいらっしゃっています。あなたの弁護者、助け主として、あなたの側でとりなしてくださいます。祈りはすばらしい特権です。なぜなら、全能なる神さまと親しく交わり、その愛と恵みを独占できるからです。

3.隠れた断食

旧約聖書の律法においては、特別な日に断食が定められていたようです。新約時代になると、パリサイ人たちが週に2回断食を守っていました。使徒の働きを見ますと、礼拝だけではなく、断食もしていたようです。仏教などでは断食は、修行の1つであるかもしれません。なぜなら、食欲は人間が持つ最大の欲求であり、これを断つというのはものすごい覚悟が必要だからです。断食するといろんな欲望がなくなり、精神統一を図ることができるということも事実です。教会でも、病気の癒しとか、重要な導きを得るために断食する場合があります。そもそも断食とは何なのでしょうか?私はのっぴきならない状況で、切なる求めがあるときに断食して祈るべきだと思います。大事なことに関して神さまのみこころを得たい時や病の癒し、あるいは特別な力を得たいときもそうです。イエス様は福音書で「この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません」(マタイ1721と言われました。しかし、断食を神さまとの取引きで用いるのは違うと思います。食を断って苦しい思いをしたからと言って、神さまのみこころが変わるとは思えません。むしろ、私たちが食を断ち、すべての邪念を払って、神さまに近づいて交わるのです。そのときに、神さまがご自分の思いを打ち明けてくださるのではないかと思います。私は人生の岐路に立った時、たとえば結婚、手術、転職、お家や教会を建てるときは断食をして、みこころを問うべきだと思います。私も結婚するときは、断食しました。でも、あんまりお腹が減って、「ま、いいか」みたいなところもありました。また、福島の断食祈祷院に何度か行きましたが、ちゃんとした施設があると断食は楽です。でも、家でごはんを作りながら、断食するのは辛いです。2日目がとっても辛くて、3日過ぎると楽になります。でも、断食で辛い思いをすると、次から断食したくなくなります。やっぱり、神さまから「断食して求めなさい」と導かれたなら、すんなりできます。

 パリサイ人はわざと顔をやつらせて、「私は断食をしてますよ」と誇っていたのです。イエス様は断食そのものを禁じてはいません。「あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。隠れたところ見ておられる父が報いてくださる」とおっしゃっているからです。歴代の神の人を調べて分かったのですが、彼らはしばしば断食をしています。中国のハドソンティラーはこう言いました。「上海で、断食をし祈りに時間を費やす事を習慣とした中国のクリスチャン達を私は見出した。断食は、人をか弱く疲れさせるので、多くの人達はいやがるが、神への信仰が要求されるこの断食は、真に神の約束された恵みによる手段である事を彼らは認識していた。」アメリカン・インデアンへの初期の宣教者、ブレイナードはこのように言いました。「福音の説教の考察に関して…私はひそかな断食と祈りの為にこの日を定めた。」ブレイナードが説教をした時に、インディアン達の間に非常に力強いリバイバルを体験しました。イギリスにリバイバルをもたらしたジョン・ウェスレーはこのように言いました。「あなた方は断食と祈りの日を指定しているか?恵みの御座に突進し、それを耐え抜く。そうすれば、神の恵みが下るであろう。」つまり、断食の祈りは、恵みの御座に突進することなんだということです。リバイバルは神さまからのものですが、断食して祈るような飢え渇きが必要であることも確かです。

 きょうのテキストをまとめたいと思います。本日、読んだ聖書箇所に幾度となく出てきた表現とは何でしょうか?「報い」が7回、「偽善者」が3回です。そして、「隠れた」は6回です。偽善者は人々に見せるために、施しや祈り、断食をしていました。偽善者とは仮面をかぶる、演技をするという言葉からきています。彼らは人々から賞賛を受けて、報いられてしまいました。しかし、イエス様は施しや祈り、断食を隠れたところでしなさいと勧めました。なぜなら、隠れたところにいらっしゃる神さまが報いて下さるからです。私たちは「報い」と聞くとどんな気持ちをいだくでしょうか?私は8人兄弟の7番目でしたが、兄たちのように家の手伝いをしました。風呂の水汲み、槇割、たけの子取り、縄ないのためにわらを打つこと、田んぼの手伝い。父の煙突掃除の手伝い。でも、私は末っ子なので力がありませんでした。学校の成績も長女や長男と比べられ、ほめられたこともありません。高校3年生の時、母が階段の下から「お前が一番、親不孝者だった。他の兄弟はみんな我慢したのに、どうしてお前は我慢できないんだ。ああ、情けない」と言われました。私は隣の長男で跡取りの時雄君と同じものが欲しくて、「あれ買ってくれ、これが欲しい」と母にせがみました。でも、「あんなに母のために尽くしたのに、ちっとも報われなかった」と思いました。ですから、私は人からの報いとかご褒美には冷めていました。

 ある人は「天が知っている、神さまがきっと報いてくださる」と言います。また、ある人は「報いを求めるなんてゲスなこと」と言うかもしれません。でも、そこには悲しみと失望が隠されているかもしれません。イエス様は「天」とか「神さま」とはおっしゃっていません。「あなたがたの父から、報いを受けられません」「あなたの父が、あなたに報いてくださいます」とおっしゃいました。そうです、隠れたところで見ておられる、あなたの父が報いてくださるのです。単なる神さまではなく、あなたの個人的な父であります。私たちは偽善者たちのように、人々からの報いや評価は気にしなくても良いのです。隠れたところで、私たちのことをご覧になっておられる父なる神さまがおられるのです。ですから、何をするにしても父なる神さまの御目のもとで行えば良いのです。「コランディオー」ということばがあります。それは、ラテン語で「神の御顔の前で」という意味です。大きいことから、小さな日常のことまで、神さまの御顔の前で行うということです。ここに来ている人たちは、ほとんど大人ですが、少年、少女が、内側にいるんじゃないでしょうか?時には不平をこぼしたり、すねたり、怒ったりしています。多くの場合、過去に報いられたことがないのでへそを曲げているのです。しかし、そうではありません。父なる神さまが少年、少女の頭をなでて、「私が知っているよ。あなたはよくやっている」とほめてくださいます。いろんな報いがありますが、父なる神さまが個人的に、認めてくださるということではないでしょうか?マタイ2523「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」。

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