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2016年3月25日 (金)

キリストの復活 ローマ4:19-25 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.3.27

 聖書には「キリストは私たちの罪のために死なれた」と書いてあります。つまり、イエス様が十字架で罪の贖いを成し遂げてくださったのです。このお方を救い主をして信じるときに人は救われます。しかし、イエス様は十字架で死んだだけではなく、三日後に復活しました。復活は何のためにあるのでしょうか?私たちは十字架の贖いだけではなく、キリストの復活も信じなければならないのでしょうか?以前の私もそうでしたが、「キリストの復活が何のためにあるのかわからない」というクリスチャンがおられるのではないでしょうか?きょうは、「キリストの復活」と題してイースターのメッセージをお届けしたいと思います。

1.復活の意味

 先週、私たち人間ではなく、父なる神が御子イエスを十字架に付けたということを学びました。罪の贖いに関しては、私たち人間が参与する余地は全くありません。神ご自身がご自分の義を満たすために、御子イエスに罪を負わせて罰したのです。御子イエスは、人類を救うために自ら十字架に付かれ、死んで罪の代価を支払われました。御子イエスによって成し遂げられた贖いを信じる人が、「ああ、キリストは私の罪のために死なれたんだ。私の罪の身代わりだったんだ」と言うことができるのです。ここで1つ問題が生じてきます。十字架で罪を負って死なれたキリストを信じるだけで救われるとするなら、どうしてキリストの復活が必要なのでしょうか?「イエス様が私の罪のために十字架で死んでくださったことを信じます。アーメン」。それで良いのではないでしょうか?復活に関して、2つの問題が残ります。第一は、なぜ、父なる神さまは御子イエスを死人の中からよみがえらせる必要があったのでしょう。「私たちの罪を贖うために死んでくださった、それだけで十分じゃないでしょうか?」と言うことです。第二は、「私たちはキリストの十字架の贖いを信じるだけでは足りないのか?キリストの復活も信じなければ救われないのだろうか」ということです。

聖書にこのことを証明しているみことばがあります。ローマ425「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」でも、このまま日本語の聖書を読むと、罪のために死なれたイエス様を信じるのは救いの半分で、よみがえられたイエス様を信じて完全に救われるような感じがします。つまり、十字架の死は私たちの罪の赦しのためであり、復活は私たちが義とされるためなのでしょうか?私は昨年のイースターまで、罪の赦しと義とは高さ的に異なると考えていました。十字架の死は罪の赦しのためであり、プラスマイナスゼロの段階です。キリストが復活されたとは、神の義が与えられること、プラスプラスの段階であると理解していました。そうなると、十字架の死だけでは救いの半分で、復活があって完全な救いとなるのでしょうか?しかし、昨年のイースターでも同じことをお話ししましたが、ローマ425はそのような意味ではないと分かりました。英語の詳訳聖書を直訳しますと、「キリストがよみがえらされたのは、私たちの義認が保障されるためである」となっています。F.Fブルースという聖書学者は、この2つの文節を義足のように分けて訳してはならないと言っています。For「ために」という前置詞は「…のおかげで」と訳すべきだと言っています。これら2つの出来事は分けることができません。復活は罪の贖いと無関係だと考えたり、またキリストの死は義認と無関係だと考えてはならないということです。F.Fブルースは結論的に「キリストは彼の人々の罪を贖うために死に渡され、彼らの義任の保障となるためによみがえらされた」と解説しています。彼の本にはguarantee、「債務履行の保障」という意味の言葉が用いられています。あとで詳しく話しますが、復活というのは「あなたの罪の贖いは完了している」という証書のようなものだということです。

その前に、私たちが知らなければならないことがあります。私たちは「イエス様は死からよみがえられた」と言いますが、本当は「よみがえらされた」のです。英語の聖書でははっきり、He is risenと受身形に書かれています。では、だれがイエス様をよみがえらせたのでしょうか?もちろん、父なる神さまです。私たちは「ああ、イエス様が私たちの罪のために十字架で死んでくださったんだ。ありがたい」と手を合わせるかもしれません。実際に、ほとんどの宗教の教祖は死んでおり、人々は死んだ教祖たちを拝んでいます。釈迦、孔子、マホメット、日蓮上人、徳川家康、その他の教祖たちは、みんな死にました。でも、キリストだけが死からよみがえりました。ペテロは使徒の働き2章でキリストの復活をこのように説明しています。使徒224「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」文脈から考えますと、「キリストには罪がない。聖者なので、墓の中で朽ち果てることはない」ということです。確かにイエス様は罪を負って十字架で死なれました。しかし、その直前「すべてが完了した」と叫ばれました。それは、ご自分の死によって罪の代価を全部支払われたという意味です。その後、イエス様は陰府に落とされ、足かけ3日、陰府にいたことになります。そして、父なる神さまは十字架の贖いを成し遂げた御子イエスをよみがえらせました。なんだか、神さまの自作自演みたいな感じがします。「何だよ、初めからよみがえらせるつもりだったのか」と反発したくなります。しかし、そうではありません。確かにイエス様は罪における死の苦しみを味わい、神さまから捨てられ地獄に叩き落とされました。イエス様は罪に定められ殺されて、神としての誇りを失いました。では、父なる神さまがどうして、御子イエス様を死からよみがえらせたのでしょう?死や墓は、罪ある人が行くところです。しかし、キリストには罪がなったので、墓の中で朽ち果てることはなかったのです。父なる神さまは、聖者キリストを、死の苦しみから解き放ってよみがえらせました。でも、それだけではありません。父なる神さまは大切なことを示すためにキリストをよみがえらせたのです。復活の意味はわかりましたが、なぜ、復活がなければならないのでしょうか?パウロはこのように言っています。Ⅰコリント1514「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」

2.復活の意義

キリストの復活は何のためだったのでしょう?復活の意義について考えたいと思います。まず、ウォッチマンニーの『神の福音』から引用したいと思います。私たちは「イエスが十字架の上で死なれ、贖いのみわざを成就された」と言うことができます。しかし、神がそのようなみわざに満足しておられたことをどのように知ることができるでしょうか?主の復活は、主イエスのみわざと死に対する、神の“OK”のサインです。これは、この死が今よしとされており、人の罪の問題が解決されているという意味です。もし主が復活されなかったとしたら、たとえ贖いが成就されたとしても、私たちの心には疑いや心配があるでしょう。私たちは自分の罪から完全に贖われていることを、いつ認識するのでしょうか?それは、主イエスが復活されたのを見るときです。復活は、十字架のみわざが神によってよしとされ、受け入れられたことの証拠です。あまり良いたとえではありませんが、私がある人から多額の借金をして、全く返すことができないとします。私の貸主は蘇州にいて、私は上海にいます。一人の兄弟が貸主と大変親しく、私のために借金を免除してくれるように頼んでくると言いました。彼は蘇州にいる貸主の所に行って、ウォッチマンニーの大変さを語り、借金を帳消しにしてもらえないか頼みました。貸主は「あなたに免じて、忘れましょう。もう、返さなくてもいいです。この約束手形を彼に返してください」と言いました。貸主は続けて言いました。「私たちはお互いに何年も会っていませんね。あなたはこの蘇州にいるのだから、虎邱や寒山寺にでも旅行に行くと良いですよ。まずは、2,3日ここに泊まっていきませんか」と言いました。仮にこの兄弟が510日に蘇州に行って、その日に仕事を終えたとします。ところが彼は520日になっても上海に戻ってきません。彼は蘇州でごちそうにあずかっているのですが、私は上海でやきもきしています。彼は何か問題があったために戻って来ないのだろうか?あるいは仕事が解決していないのかもしれません。もう、10日もたっています。私は依然として、自分を負債者であると考えており、心は落ち着きません。いつ問題は処理されるのでしょうか?彼が上海に戻ってきて、はじめてその問題が解決されたことを知るのです。これが主イエスの復活です。彼は私たちのために死なれた時、罪の問題を解決されました。ところが、もし彼が死人の中から復活されなかったなら、もし彼が戻って来られなかったなら、私たちの心は不安なままです。彼は復活されなければなりません。そうしてこそ、私たちはみわざが成し遂げられたことを知るでしょう。神に感謝します。キリストの復活は、私たちの罪が完全に解決されていることを証明します。

 ウォッチマンニーは「自分が借金を免除された例話はあまり良くないかもしれない」と言っています。でも、その例話は復活をとても明快に説明しています。十字架の贖いで私たちの罪は完全にあがなわれました。私たちはイエス・キリストを信じると罪赦され、神からの義をいただくことができるのです。でも、私たちが本当に罪赦され、義と認められているのかどうしてわかるでしょうか?ひょっとしたら私たちが死んだのち、神さまの前に立って、「十字架の贖いだけじゃ足りなかったんだ」と言われるかもしれません。死後、良い行いとか、罪の悔い改め、あるいは償いが必要だったと言われたらどうするでしょう。本当にキリストの贖いを信じるだけで救われるのでしょうか?安心してください。そのために、父なる神さまは御子イエスを死からよみがえらせたのです。父なる神さまはキリストをよみがえらせることによって、「キリストの贖いは十分であり、あなたは義とされている」ということを証明されたのです。ですから、さきほど引用したローマ425をウォッチマンニー風に訳すとこうなります。「主イエスは、私の罪のために死に渡されました。赦しの事実は主イエスの死にあります。そして、主イエスの復活は、私たちが罪から贖われたことを知らせくれます。赦しの確信は主イエスの復活にあります。」アーメン。復活はたとえていうならば、神さまが下さった受領書であります。もう一度、まとめてお話ししたいと思います。父なる神さまが、私たちに代わって代価を払ってくださいました。ご自分の御子に罪を負わせ、裁かれました。それは私たちが頼んだわけではなく、神さまが罪に対する怒りを取り除くためであり、ご自分の義を満足させるためです。罪の贖いは父なる神さまと御子イエスだけのことであり、私たちが関与するところは全くありません。信仰による義ということが、ローマ3章に書かれています。キリストを信じた者に神の義が与えられ救われるということです。「でも、十字架における贖いが完全であり、本当に罪赦され、義とされるのだろうか?」という疑問が残ります。神さまは「大丈夫、キリストの贖いは十分であり、信じる者は義とされる」と言うことを示したかったのであります。そのために、神さまは死者の中からキリストをよみがえらせました。そのことは、私たちが信仰によって義とされ、救われることの保障であります。言い換えると、復活は受領書であります。私たちはこの受領書を握って入れば、神さまの前に立ったときも、全く恐れることはありません。復活によって、キリストの贖いが完全であることが分かっているからです。

3.復活の信仰

もう1つ問題が残っています。私たちはキリストの十字架を信じ、同時にまた、復活を信じなければならないのでしょうか?驚くべきことに、聖書に「キリストの十字架があなたの罪であると信じなさい」と命じている箇所は1つもありません。もちろん、聖書には「私たちの罪のためにです」と信じた人の証言はたくさんあります。「キリストは私たちの罪のために死なれた」というのは、信じた人たちが告白することばです。それに比べて、「あなたはキリストの復活を信じなさい」という表現は何か所もあります。ローマ109「 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」パウロはイエスを主と告白し、復活を信じるなら救われると言っています。Ⅱテモテ28「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」パウロはテモテに対して、「十字架で死なれたイエス・キリストを、いつも思っていなさい」とは言っていません。パウロが「私の福音」と言っているのは、死者の中からよみがえったイエス・キリストことであります。

使徒の働きを見るとわかりますが、弟子たちはキリストの十字架の死よりも、キリストの復活を宣べ伝えました。これはペテロが異邦人コルネリオに語ったことばです。使徒10:39-43「私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。…イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」ペテロはユダヤ人たちがイエス様を木にかけて殺したと言っています。異邦人のコルネリオが殺したとは言っていません。ペテロは客観的に言っているのは、神がキリストによって十字架の贖いをなされたからです。ペテロは、「しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました」と言っています。これはキリストが罪の贖いを完成したので、神さまが彼を復活させたという意味です。さらに、ペテロは「私たちはキリストの復活の証人である」と言っています。ペテロは「この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる」と言いました。なんと、ペテロが「信じなさい」と招いていないのに、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになりました。ペテロのメッセージはまだ途中だったのですが、人々が救われました。おそらく、コルネリオたちは、「神がキリストをよみがえらせたのだったら、信じても大丈夫だ。私たちはきっと救われる」と確信したのに違いありません。だめ押しをするかのように、彼らの上に聖霊が下りました。

ウォッチマンニーの本に、このような逸話が載っていました。ある宗派の会員で、38年間長老であり、信じてすでに50年、あるいは60年にもなる人に会ったことがあります。私は彼が主イエスを信じているかどうか尋ねると、彼は「信じます」と言いました。ところが、自分の罪が赦されたことを知っているかどうかと問うと、「はっきりしない」と言いました。そこで、イエスはあなたの救い主ですか、と問うと、「そうです」と答えました。救われたかどうか尋ねると、「わからない」と言いました。私は、主イエスが私たちの罪のために、十字架上で裁かれたことを信じるかと尋ねると、彼はすぐに「もちろん信じる。聖書がそう言っているだけではなく、私たちの詩歌もそう言っている」と答えました。私は彼に、罪から清められたかどうか、尋ねました。すると彼は、「主の十字架が自分の罪のためであることを信じるが、自分の罪が洗い去られたとはあえて言えない」と言いました。私は彼がはっきりしないのを責めることはできません。主が十字架上で死なれたことは本当です。しかし人はどのようにして、この十字架の価値を知るのでしょうか?罪の解決は十字架上で起りましたが、私たちをはっきりさせるのは復活です。主イエスを受け入れるだけで十分であるか、私に尋ねるなら、私は二句の言葉で答えましょう。私が救われているのは主の死のゆえです。しかし、私が救われていると知るのは、主の復活のゆえです。御子は十字架の上で、私たちのすべての罪の負債を支払われました。そして、御子の復活を通して、罪の負債が完全に清算されていることを、彼は私たちに知らされたのです。私たちは負債が完全に清算したことを知るのは、私が受領書を持っているからです。主は私たちに証拠と受領書を下さいました。復活はその金額を完全に支払ったという貸主である神さまからの受領書です。

もし、キリストの十字架の死しか語らなければ、それは完全な福音ではありません。その人は信じて救いを受けるかもしれません。でも、復活まで語らないと、本当に救われているのか確信が持てないでしょう?「私たちの罪のためにキリストが死なれ、私たちに保障を与えるためによみがえられた」いうことが福音なのであります。「信じた者は、罪をさばかれることはなく、罪赦され、義とされている」という受領書付きの福音であります。あなたは、受領書付きの福音を信じていらっしゃるでしょうか?パウロはテモテに言いました。Ⅱテモテ28「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」アーメン。年に一度、イースターの時だけ復活を信じるのではありません。だから私は、宗教的な教会行事は好きではありません。「死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」とはどういう意味でしょうか?一年、365日、いつも思っているということです。ある人たちはキリストの復活は、私たちが死んだあとキリストのように栄光のからだが与えられる保障なんだと言います。確かにそうですが、それは死後、御国の完成時であります。復活は私たちの死後のためにだけあるのではありません。なぜ、パウロが「死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」と言ったのでしょう?第一に「キリストの贖いは完全であり、あなたの罪が赦され義とされているよ。あなたはもう罪の中にはいないよ」ということを理解するためです。第二は何でしょう?復活の信仰が日々の生活で役に立つのでしょうか?Ⅱコリント4:11 「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」いのちとはもちろん復活のいのちです。パウロが四方から苦しめられて、窮することはないのは、キリストの復活のいのちを持っているからです。死にそうで死なない、倒れても滅びないのはそのためです。ローマ811 「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」このことは、パウロが死んでからのことを言っているのではありません。この地上で死ぬべき体を持っている私たちが、逆転勝利できるというということです。キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方(神さま)が、御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。そうです。日々、現実の真ん中で、私たちのからだに復活のいのちが与えられるということです。だから、私たちは死にそうで死なない、倒れても滅びないのです。

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2016年3月18日 (金)

キリストの十字架 ローマ3:19-26 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.3.20

 きょうから受難週に入ります。普通でしたら、福音書からイエス様がどのような苦しみを受けて十字架で死なれたのかというストーリーを語ります。しかし、きょうはもっと神学的な立場からキリストの十字架について学びたいと思います。言い換えれば、人間の側から見た十字架ではなく、神さまの側から見た十字架であります。尚、本日のメッセージは、ウォッチマンニーが書かれた『神の福音』を参考にしています。来週はイースターですが、これもまた、ウォッチマンニーの書物を参考にしてお届けしたいと思います。彼は福音とは何かということをだれよりも深く教えておられるからです。

1.神の義

 神は愛です。聖書の最大の啓示は、神が愛であるということです。すべてのクリスチャンが知るべき最大のことは神が愛であるということです。ヨハネ316前半「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」と書いてあります。このみことばから、神さまが愛であることと、そのひとり子をお与えになったことが深い関係にあることがわかります。なぜ、ご自分のひとり子を与えることが、神ご自身の愛なのでしょうか?この問題を解くためには、神さまのもう1つのご性質を知らなければなりません。それは、神は義であるということです。パウロは「すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。」と言いました。そうです。義なる神さまは、1つの罪をも見過ごすことができず、必ず罰しなければなりません。もし、神さまが「あなたは罪を犯したのですか?よろしい、もう失敗してはいけませんよ」と罪を見過ごしたら、神の義が成り立ちません。愛なる神さまが、人を救いたいと願うときに出くわす最大の困難は人間の罪です。この世の中には、義の伴わない愛がたくさんあります。自分の子どもを愛するがために、不正に得た金銭を与えることもあるでしょう。本来なら許されないところを、賄賂をもらって、便宜を図ってあげることもあるでしょう。人を捕まえる警察でも、同僚の罪には目をつぶるかもしれません。昨年、可愛い教え子に、司法試験の内容を教えた大学教授もいました。彼らは多くの愛を持っていますが、彼らのしていることは義ではありません。神さまは私たちを救いたいがゆえに、ご自分を不義にまで陥れることはできません。神さまは、ご自身の義によって私たちを救わなければなりません。神さまはどのようして、不義に陥らないで、罪人を義とすることができるのでしょうか?

 ローマ3:21-22「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」パウロは律法を行って義とされる別の道があると言っています。もちろん、律法を行って義とされる人はひとりもいません。それは不可能です。でも、このところには「イエス・キリストを信じる信仰による神の義を、すべての信じる人に与える」と書いてあります。神さまは義ですが、なんとご自分の義を与えるというのです。だれに、でしょう?イエス・キリストを信じる人に、であります。ヨハネ316後半「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と書いてあります。ヨハネは救われることを、滅びないで永遠のいのちを持つことだと定義しています。一方、パウロは神の義をいただくことが救いだと言っています。前者は生命的な見方で、後者は法律的な見方です。神さまはイエス・キリストを信じる者に、ご自身の義を与えると約束されました。神さまは義なるお方なので、嘘はつきません。確実に、イエス・キリストを信じる者に無代価の赦しを与えるというのです。元来、無代価の赦しと言うものは存在しません。罪に対しては必ず刑罰が伴い、ときには死をもって償わなければなりません。しかし、イエス様が私たちに代わって血を流して、罪の代価を払ってくださったのです。これを罪の贖いと言います。

ウォッチマンニーは、分かり易いたとえ話を『神の福音』という本に書いています。ある兄弟は名ばかりのクリスチャンで、よく人から借金をしていました。私は彼が他人のお金にいい加減であることを知っていました。私は貸さないであげようと思いましたが、彼のためにそれは良くありません。それで、私は彼に支払期日を定めさせました。期日がやって来た時、私はことさら手紙を書いて、その期日が来たことを思い出させました。彼はその手紙を受け取ると、私に会いに来ました。私は彼の話をさえぎり、「あなたの妻が話があるようだから、家に帰って妻に会うように」と告げました。彼は家に帰りました。実は、彼が私に会いに来る前に、私は彼の負債と同じ額を彼の家に持って行き、それを彼の妻に渡したのです。私は彼女に、夫が家に帰って来た時、私が彼の負債と同額のお金を彼に送ったので、それで借金の負債を返済すべきであることを、彼に告げるように言いました。夫が家に着くと、妻は私が話したことを彼に言いました。彼はその包みを開いて、自分の負債と同額のお金があるのを見ました。彼は次に何をすべきか理解しました。彼は私の家に戻って来て、そのお金を私に返しました。この行動の中に、愛を見ることができ、義を見ることができます。もしこの人が払うことを強いられたのでしたら、そこには愛はありません。しかし、もし私が彼に払わなくても良いと言うなら、私は不義になるでしょう。なぜなら、私はこれが借金であることをはっきりと言っているからです。私自身が不義であるだけでなく、彼に悪い影響も与えます。次からは、彼はもっと無責任になるでしょう。こうして私は成すべきことをしました。

 イエス・キリストが地上に来られたのは、神の義を満たすためでした。愛だけであって義がないのでしたら、イエス様は地上に来る必要はありませんでした。そして十字架は不必要だったでしょう。義の問題のゆえに、イエス様は来なければなりませんでした。神さまは義であるので、罪を裁かないわけにはいきません。また、神さまは愛なので、罪ある人を救いたいと願います。この相反する問題を神さまはどうしたのでしょうか?神さまご自身が人の罪を負って、刑罰を受けるということです。神ご自身が私たちに代わって、裁きを受けてくださいました。それが十字架であります。十字架は神の義が現される場所です。神さまがどれほど罪を憎んでおられるかを私たちに示しています。神さまは罪を裁くことを決心され、御子を十字架に付けるという大きな代価を払われました。神さまはご自身の義を放棄されず、御子を死に渡しました。ここに神の愛があります。神さまが罪の刑罰を取り去るために、私たちの代わりに罪を担ってくださったのですから、義と愛の両方があります。私たちは無代価で赦されたと言うかもしれません。しかし、無代価の赦しというものはありません。神さまにとっては、罪の贖いがあってはじめて赦しがあるのです。キリストが私たちの代わりに十字架で裁かれたので、私たちに救いがやってきたのです。そして義なる神さまは、キリストを信じる人に、ご自身の義をお与えになられます。これが救いです。

2.キリストの贖い

 最初に私たちが知らなければならないことは、イエス様が神さまであることです。神さまでなければ、罪を担うことができないからです。しかし、イエス様が第三者として身代わりに死なれたということでは決してありません。神さまが第一当事者、人は第二当事者、イエス様が第三者と考えてはいけません。ある人たちはこういう福音を宣べ伝えているかもしれません。債権者が神さまで、負債者は私たち人間です。負債者は、借金を払うお金がありません。債権者は非常に厳しく、支払を迫ります。しかし、債権者の息子が出てきて、債権者に代わって借金を支払い、負債者が解放されるという物語です。もしこれが正しければ、神さまは意地悪い方で、イエス様が恵み深い方となります。この例話からは、神さまが世を愛されたということを見ることができません。ヨハネ316前半「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」と書いてあります。永遠の昔から、神さまにはひとり子がおられました。この父なる神さまは神さまはであり、ひとり子はもちろん神さまです。ひとり子を私たちは御子イエスと呼んだり、イエス・キリストと呼んでいます。父なる神さまが、ご自分のひとり子を与えたということは、イコール、自分の分身、自分のいのちを与えたということです。父なる神が御子を与えたのは、私たちを愛して救いたかったからです。ですから、イエス様は、父なる神さまと同じ当事者なのです。ウォッチマンニーはこう述べています。「キリストの贖いのみわざとは何でしょう?キリストの贖いのみわざは、神ご自身がやって来て、ご自身に対する罪を担われたことです。言い換えれば、ナザレのイエスが神でなければ、彼は私たちの罪を担う資格はないでしょう。ナザレのイエスは神でした。彼こそ、私たちが罪を犯した対象である神です。私たちの神は自ら地に下って、私たちの罪を担われたのです。これが主イエスの十字架でのみわざです。」アーメン。

 ひとり子なる神が罪を担って、代価を払うということは分かりました。でも、罪の報酬は死です。もし、ひとり子なる神がこの世に来られ、罪の結果を担うのであれば、彼は死ななければなりません。しかし、神は死ぬことができません。なぜ神が人にならなければならなかったのでしょうか?それは、神が人の体を取って、罪を担って死ぬためです。ヘブル105-6「ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。『あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。』」神さまがキリストのために体を備えられたのは、キリストがご自身を全焼の捧げものと罪の捧げものとしてささげることができるためでした。今やキリストはご自身の体をささげて、人の罪を対処されます。ですから、御子イエスは人となって、この世に来て、十字架に釘づけられたのです。人となられたイエスは、神の律法を全うされました。イエス様は肉体を持っていたので、私たちと同じような誘惑を受けたでしょう。しかし、罪を犯さなかったと聖書に書いてあります。イエス様は律法を守られ、罪を犯さず、義なるお方でした。だからこそ、イエス様は私たちの罪の身代わりになって死ぬことができたのです。なぜなら、罪がある人は、他の人の罪を負うことができないからです。でも、罪のないお方が、人の罪を負うということはたやすいことではありません。Ⅱコリント5:21 「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」パウロは、イエス様は罪を知らないお方であり、罪を負ったというよりも、罪そのものとなったと言っています。これは大変なことであります。もし、罪を負ったなら、父なる神から断罪され、捨てられてしまいます。イエス様は十字架に行く前に、ゲツセマネの園で、血のしたたりのような汗を流されて祈りました。苦しみもだえて「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と三度も祈りました。杯を飲むというのは、自分が人類の罪を負い、刑罰を受けて死ぬということです。肉体を持ったイエス様は「そんなのは、いやだ」と正直に訴えました。最後に「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」と祈られました。この「しかし」があったからこそ、私たちへの贖いが成し遂げられたのです。

 イエス様を十字架につけたのはだれでしょう?福音書を読む人はだれでも、ユダヤ人が彼を異邦人に渡したのであり、異邦人が彼を十字架につけたということを知っています。聖書にはローマ総督ピラトが十字架に渡したと書いてあります。ペテロは使徒2章でこのように言いました。使徒223「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」ペテロはユダヤ人たちに「あなたがたが十字架につけて殺した」と言いました。確かに人はイエス様を十字架に釘づけました。しかし、イエス様はこのように言われました。ヨハネ1018「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」確かに人がイエス様を十字架につけて殺しました。しかし、イエス様は神さまによって十字架に付けられ、私たちに代わって罪を贖われたのです。言い換えると、イエス様を十字架につけたのは人ではなく、神でした。十字架は神のみわざでした。イザヤ53:5-6「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」アーメン。人々は「十字架から降りて来い。そうしたら信じるから」と言いました。イエス様は降りるつもりだったら、降りられました。でもそうすれば、贖いが成り立たなくなります。十字架にイエス様をとどめていたのは釘ではなく、イエス様ご自身だったということです。イエス様は「ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開きませんでした」。だまって、私たちの罪を負って、神さまによって裁かれたのです。十字架こそが、イエス様が死を通して贖いを成就される道でした。十字架は神のみわざです。神さまがイエス様を遣わして、罪の贖いをなさってくださったからです。

3.贖いと身代わり

 昔、塩狩峠という映画がありました。永野青年が路傍伝道をしていた伝道師の家に行きました。その家の壁に十字架の絵がかかっていました。永野青年は、その家でイエス様が神の子であることを信じると告白しました。すると、伝道師は、「キリストを十字架につけたのはあなた自身だということを、分かっていますか」と聞きました。永野青年は「とんでもない、僕はキリストを十字架につけた覚えなんかありません」と答えました。すると、伝道師は「それじゃ、君はキリストと何の縁もない人間ですよ。あなたがイエス様を十字架につけたんですよ」と言いました。永野青年は「まさか、私はイエス様を十字架につけてはいませんよ」と反論しました。すると、伝道師は「それだったら、あなたとイエス様とは何の関係もありません」と言いました。永野青年は「僕は明治の御代の人間です。キリストがはりつけにされたのは、千何年も前のことではありませんか。どうして明治生まれの僕が、キリストを十字架にかけたなどと思えるのでしょうか」と答えました。私は小説でもそのところを読みましたが、「論理の飛躍があるなー」と思いました。一般に、福音を提示するとき、「あなたの罪が、イエス様を十字架につけたのですよ」と言います。でも、「どうして2000年前のキリストの十字架の死が、現代の私と関係があるのか」ということです。そこには、頭で理解できない深い淵があって簡単には「十字架は私の罪のためです」とは言えません。もちろん、今の今だったら、そう言えます。でも、多くの人たちは、そのところで迷っているのではないでしょうか?

 ウォッチマンニーは、「贖いと身代わり」は違うと言っています。彼は「主イエスのみわざは贖いのみわざです。しかし、この贖いのみわざの結果が、身代わりです。贖いは原因であり、身代わりは結果です。贖いの範囲は非常に大きいです。しかし、身代わりの範囲は同じ大きさではありません」と言っています。Ⅱコリント5章には、「ひとりの人がすべての人のために死なれた。また、キリストがすべての人のために死なれた」と書いてあります。興味深いことに、すべての人の罪のために死なれたとは言っていません。ただ、すべての人のために死なれたと言っています。つまりこういうことです。イエス様が十字架上で贖いを成就されたとき、この贖いのみわざは根本的に人とは無関係でした。贖いは人とは関係ありません。贖いとは神さまがこの世に来て、罪の問題を解決されることです。いったん罪の問題が解決されると、贖いのみわざがなされます。Ⅰヨハネ22「この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」とあります。贖いは世全体、すべての人のためでありました。そのような贖いには、救われていない者でさえみな含まれます。しかし、聖書にはこのようにも書かれています。Ⅰヨハネ22前半「この方こそ、私たちの罪のため」とあります。Ⅰペテロ2:24「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」このところにも、私たちの罪を負われたと書いてあります。すべての人とか、彼らの罪を負ったとは書いてありません。一人称の「私」もしくは、「私たち」の罪であります。マタイ2628「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」このところには、「多くの人」のためであって、「すべての人のため」ではありません。どういう意味かと言うと、イエス様はすべての人々のために十字架で死なれました。すべての人のために罪を贖われたということです。しかし、それですべての人が救われるわけではありません。キリストの贖いを自分のものとして信じなければなりません。信じた人がはじめて「キリストは私の罪のために死なれました。キリストの死は身代わりです」と言えるのです。Ⅰコリント15章には使信が記されています。「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれた」と自分たちの信仰を告白しています。つまり、キリストの贖いを信じたものが、はじめて「私たちの罪のために死なれた」と言えるのです。 

 さきほどの塩狩峠のお話しに戻りたいと思います。伝道師は永野青年自身がキリストを十字架につけたと信じなければ本当の信仰でないと言いました。永野青年は「僕はキリストを十字架につけた覚えなんかありません」と言いました。キリストは十字架につき贖いをなされました。しかし、それは人間が関わる余地のないことであり、神さまがご自分の義を満たすために一方的になさったことです。キリストはすべての人を贖うために死なれました。しかし、そのキリストを救い主として信じるときその人は贖われます。いわば、その人は贖われて、奴隷市場から出た人なのです。キリストを信じたら、「ああ、キリストは私の罪のために死なれたんだ。私の身代わりだったんだ」と言えるのです。聖歌402「丘に立てる荒削りの」という歌があります。「丘に立てる荒削りの十字架にかかりて、救い主は人のためにすてませり命を」とあります。まさしく、イエス様は人のために十字架にかかって命をすてられました。後半、「十字架にイエスきみ、われを贖いたもう。十字架の悩みはわが罪のためなり」。後半はイエス様の贖いをいただき、救われた人が「十字架の悩みはわが罪のためなり」と告白しているのです。ローマ4:25「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」よみがえりのことは次週学びますが、主イエス様は私たちの罪のために死に渡されたのです。アーメン。

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2016年3月11日 (金)

自分の敵を愛せよ マタイ5:43-48 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.3.13

 マタイによる福音書5章は説教者泣かせであります。なぜなら、実行できないような崇高な倫理を突きつけられているからです。これまで、何度も言いましたが、これらは地上の倫理ではなく、御国の倫理、天国の律法なんだということです。この地上でイエス様がおっしゃることを生身では決して実行できないでしょう。でも、御国のいのちをいただき、御国の王であるイエス様が共におられるなら、可能になるんだということです。イエス様がおっしゃることは倫理や道徳ではありません。それは御国の倫理、天国の律法です。でも、ちゃんとそこには実行できる隠れた道があるんだということです。

1.不可能な命令

 マタイ543-44「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」マタイ5章の教えの中で、最も実行不可能なのはこの命令ではないでしょうか?さらに、当時の人たちは、「自分の敵を憎め」と教えられていました。しかし、これは神さまから、与えたものではありません。確かに「自分の隣人を愛しなさい」という戒めはレビ記19章にあります。詳しくは「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」であります。「自分の敵を憎め」は、おそらく律法を教えるラビが、旧約聖書のいくつかの書を解釈して付け加えたのではないかと思います。当時の解釈では、隣人とはイスラエルの民であり、敵とは異邦人のことでした。つまり、ギリシャやローマ、シリア、エジプト、バビロン、ペルシャはみな敵なのであります。旧約聖書の歴史を見ますと、小さなイスラエルは大国によってたびたび侵略されてきました。大国と同盟を結ぶことは罪であり、主なる神さまのみを頼るべきことを教えられてきました。ですから、「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」とは、言わずと知れた真理だったわけです。しかし、神さまがアブラハムを選び、イスラエルをそこから誕生させたのは目的がありました。神さまはイスラエルを祭司の国として、イスラエルを通して、すべての国民を祝福したかったのです。ところが、堕落して、「自分の国さえよければ良い」という偏狭で利己的な国になっていたのです。

 イエス様が「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われたとき、驚天動地というか、あまりにも崇高な教えのゆえに卒倒したのではないかと思います。ルカ福音書にも同じような教えがありますが、「あなたを呪う者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」とあります。もし、これができたら国同士、民族同士、あるいは人間同士の争いはただちに止むでしょう。韓国と中国は長い間、日本が犯した太平洋戦争の罪を赦そうとしません。先日も慰安婦の問題が取り上げられていました。もちろん日本が戦争をふっかけて様々な罪を犯しました。罪の悔い改めが徹底しているかというとそうでもないかもしれません。でも、韓国がキリスト者の数が30%であることが知られていますが、イエス様の教えを守っていないのではないでしょうか?これは政治的な問題ではなく、人間が胸の内にしまって、処理し切れていない問題であります。大体、生身の人間が敵を愛し、迫害する者のために祈ることができるでしょうか?また、呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈ることができるでしょうか?まず、私たちが知るレベルは、46節にあるように「自分を愛してくれる者は愛せる」ということです。もし、「自分を愛してくれる隣人を愛しなさいということであれば、「アーメン、ハレルヤ!」であります。私たちの身の周りにも、自分の愛してくれる人が何人かいるでしょう。「ああ、神さまどうかそういう人たちを限りなく増やし、私を憎む者、嫌う者、迫害する敵どもを遠ざけてください」と祈りたくなります。もし、これが私たちの祈りであるならば、地上の人たちと全く変わりありません。別に御国が来なくても、神さまのいのちがなくても実行できます。なんと、イエス様が持ってきたのは、御国の教え、天国の律法であります。私たちの肉では全く不可能、私たちの肉が決して喜ばないことがらなのであります。

 なぜ、イエス様は、こんな実行不可能な倫理、あるいは律法を教えられたのでしょうか?まず、私たちは十戒をはじめとする律法がなぜ、人間に与えられたのか知る必要があります。律法は私たちがこれを守って、神さまに受け入れられるためにあるのではありません。ユダヤ人は「律法を守り行うことによって、神さまから受け入れられ義とされるんだ」と理解していました。しかし、そうではありません。律法を守ろうとすればするほど、私たちは逆の方向に行ってしまいます。ついには律法から「お前には罪があるぞ、不完全だ」と糾弾されてしまいます。そのことをパウロはローマ7章ではっきり教えています。パウロは「律法は良いものであるが、私の肉のうちには、それを実行することがない。かえってしなくない悪を行っています」と言っています。さらに、ガラテヤ324「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」アーメン。律法は私たちに「あなには罪がありますよ」と教えてくれます。しかし、律法自体には人を救う力がありません。律法の目的は私たちをキリストへ導くためにあるのです。キリストへ導かれた義人は、御霊によって、信仰によって生きるのです。このことを知らないで、山上の説教の戒めを実行しようとするなら、私たちは信仰から迷い出てしまいます。『塩狩峠』永野さんという人が、「自分の隣人を愛しなさい」という戒めを実行しました。そのため、職場で一番嫌いな人の隣人になりました。しかし、その人は「俺を馬鹿にするのか」とかえって心を閉ざしてしまいました。でも、永野さんは、暴走する列車の下敷きになって列車を止めました。次の駅に婚約者が待っているのに、友人を乗せた数名の乗客を守るために、自分の命を捨てたのです。そういう意味で、永野さんは自分の隣人を愛するという律法を守ったのであります。彼は立派な信仰者です。しかし、もし律法が守るためにあるんだとしたら、私たちの命がいくつあっても足りないでしょう。

 当時のユダヤ人は「私たちは『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』という戒めを守っていると自負していたことでしょう。しかし、イエス様は本当の愛とは、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ることなんだ」と律法の真の意味を教えたのです。彼らは隣人を同胞のユダヤ人と限定し、他の人たちは愛さなくても良いんだと考えていたからです。しかし、それは律法を人間が守れるように曲解したものです。それに対して、イエス様は「私はあなたがたにこう言います」と律法の本当の意味を教えたのです。本当の愛とは、「自分の敵を愛し、迫害するもののために祈ることなんだ。これが神からの律法だ」と教えたのです。そうなると、この律法は生身の人間にはとうてい不可能になります。しかし、それが律法の目的なのです。「私たちには罪があって、律法を守ることは不可能です」と言わしめることが律法の目的なのです。しかし、イエス様だけは、この律法を全うされました。イエス様が十字架に付けられ、今、殺されようとしたとき何とおっしゃったでしょうか?その時代、十字架はもっとも醜悪で恐ろしい死刑の道具でした。多くの犯罪者は「俺は悪くはない。あいつが悪いんだ。やめろ、お前たちを呪ってやるぞ」と叫んで死んでいったでしょう。佐倉惣五郎という人は、年貢の取り立てが年々厳しくなるので、藩主や老中に訴えましたが聞き入れられませんでした。そこで、彼は将軍家綱に直訴しました。その結果、藩主の苛政は納められましたが、惣五郎夫妻は磔となり、男子も死罪になりました。惣五郎は十字架にはりつけにされた時に、あまりの苦しみに耐えられず、「俺は、お前の代の六代も七代までも、呪ってやるぞ!」と絶叫して死んだと伝えられています。福沢諭吉は惣五郎を「古来唯一の忠臣義士」と評価しています。一方、イエス様は十字架でこう言われました。ルカ2334「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」何と、イエス様は自分を殺そうとしているローマ兵やユダヤ教の指導者のために祈られたのです。これは生身の人間にはできることではありません。「イエス様は罪を犯さなかった」とヘブル書に書いていますが、そのとおりです。イエス様はご自分が人々に教えられたように、敵を愛し、敵のために祈られたのです。つまり、イエス様だけが神の律法を守ったということです。しかし、それは私たちの模範と取るべきではなく、イエス様が律法を全うし、律法の呪いから私たちを解放したということです。

 私たちはすべての聖書の戒め、すべての聖書の命令をイエス様の贖いを通して見なければなりません。ある人たちは、イエス様抜きで聖書の戒めや命令を守ろうとするので、信仰的に迷ってしまいます。そうではありません。どんな戒め、どんな命令であろうとも、私たちはキリストの贖いを通して受け取るべきであります。そうすると、「この戒めは生身の人間には守ることできないんだ。私には罪があると分かった。私にはイエス様の贖いが必要なんだ」と分かります。自分にはできないということが分かると、こんどはキリストならできると分かってきます。パウロはガラテヤ220「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、…神の御子を信じる信仰によっているのです。」と言いました。つまり、神からの戒めや命令は、私の中におられるキリストが守らせてくださるんだということです。これが信仰によって生きるということなのです。そうです。聖書の律法や戒めは、私たちが罪あることを知り、キリストを信じる信仰によって生きることが目的なのです。

2.敵と悪い人

 マタイ545-48「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」このところに、私たちが敵を愛することのできる根拠が記されています。なぜ、私たちが敵を愛するのでしょうか?イエス様は「父なる神さまが愛のお方であり、あなたがたはその父の子どもだからだ」とおっしゃるのです。天の父は、「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」と書いてあります。私たちは、太陽は良いと思いますが、雨は悪いものと思っているのではないでしょうか?悪い人のところに、集中的に雨が降れば良いと願うでしょうか?そうではありません。パレスチナは乾燥地帯であり、雨が少ないので、雨が降るということは良いことなのです。父なる神さまはわけへだてのないお方であり、正しくない人にも雨を降らせてくだるということです。最後に、イエス様は「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」と命じられました。これをまともに聞いた人たちは、度胆を抜かれたのではないでしょうか?今日でも、「天の父のように完全であれ」と言われたら、どこかに隠れたくなります。イギリスのジョン・ウェスレーという人は、このところから「愛における完全」ということを言いました。「『完全であれ』とは、道徳的に罪を犯さないということではなく、愛において父なる神さまのように完全であることだ」と言いました。また、完全ということばのテレィオーは「完成する」「成熟する」という意味もあります。だから、「愛における成長」と言えるかもしれません。しかし、どちらにしても、難しい課題であります。

 私はこのところを読んで1つ発見したことがあります。それは私たちの周りには、敵や悪い人、正しくない人がいるという前提です。イエス様が「自分の敵を愛しなさい」と言われたということは、自分の敵がいるんだということです。また、この世の中には、悪い人も正しくない人もいるんだということです。そういうことを前提としながら、「彼らを天の父のように愛しなさいよ」ということなのです。私たちは「世の中には本当に悪い人はいない」とか「罪を憎んでも人は憎まず」ということを聞きます。私たちは道徳的な教育やヒューマニズムの教えを受けているので、人のことを「敵」と呼んだり、「悪人」と呼んではいけないんだと教えられています。特に日本は単一民族なので和を重んじるので、敵とか悪人は存在しないことになっています。しかし、イエス様が教えておられる場所、あるいは時代はどうでしょうか?戦争のために領土が侵略されたり、負けために奴隷になっている者がたくさんいました。いろんな民族が混じり合っているので、いつこの人が敵になるか分かりませんでした。「今日の友は明日の敵」「今日の敵は明日の友」みたいなところがあったのではないでしょうか?だから、彼らは顔なじみということよりも、契約を重んじたようです。日本はその逆ですから、あまり緊張感がありません。私たちは聖書を基準にしていますが、特に旧約聖書には敵の侵略、敵との戦いがよく登場します。詩篇には主は、盾、要塞、隠れ家、高きやぐらということばが数多く出てきます。また「ダビデのうた」という副題がたくさんありますが、サウロから命を狙われて逃亡するモチーフがよく出てきます。ダビデが救われるというのは、敵から救われるということです。ダビデ自身は二度も、サウロを殺すことができましたが、主にさばきをゆだねました。なぜ、旧約聖書に戦いのシーンが出てくるのでしょうか?それは「信仰は戦いである」ことを教えているからではないでしょうか?当然そこには、敵もいれば味方もいます。復讐をしたいときもあるでしょう。倒されたり、打ち負かされたりすることもたびたびあります。でも、主が共におられて勝利を与え、回復を与えてくださいます。ところで、イエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われました。ということは私たちの周りには敵がおり、迫害する者がいるんだということです。また、悪い人や良い人、あるいは正しい人や正しくない人がいるんだということです。もちろん、何を基準に言っているのか、わかりません。でも、世の中はそういうものなんだということは分かります。

 私たちにはバウンダリーが必要です。バウンダリーは境界線と言いますが、私たちを守る壁や塀みたいなものです。体で言うならば皮膚であります。もし、皮膚がないならば、たちどころにばい菌にやられてしまうでしょう。また、バウンダリーは良いものは取り入れ、悪いものは排除するという意味があります。私たちは意識していないかもしれませんが、この人は受け入れて良い人、この人は近づいてはいけない人と判断しているのではないでしょうか?もし、「この世には悪い人はいないんだ、みんな善人なんだ。人類みな兄弟なんだ」と教えられていたらどうでしょう?その人は無防備なために、さんざん傷つけられ、大事なものを奪い取られるでしょう。しかし、世の中には「敵対する人もいるし、悪い人や正しくない人がいるんだ」と理解していたなら、準備ができます。私たちはクリスチャンですが、クリスチャンだからと言って、すべての人を信用してはいけません。イエス様はヨハネ2章の後半でこうおっしゃっています。ヨハネ224-25「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。」イエス様ですら、人を見ておられたのですから、私たちも自分を任せて良い人と、任せたら大変なことになる人とを区別しなければなりません。でも、心に傷のある人は白か黒、善か悪、100かゼロに分ける傾向があります。それは知恵がありません。そんなことをしていたら、地上で平安に生活できません。バウンダリーということを考えながら、いくつかの段階を作ったら良いと思います。ジョエル・オスティーンは4つに分けています。第1は何をやっても自分を好きで味方になってくれる人。ありのままの自分をゆだねられる人です。第2は、まあまあ私のことを好きだけど、こっちも気も使わなければならない人です。第3は私のことをあまり好きじゃないし、受け入れてもくれない。付き合うためには、こちらが少し努力すべき人です。第4は私のことを全く理解せず、受け入れてもくれない。こっちがいくら努力しても批判したり、離れていく人です。ジョエル・オスティーンは「第4の人を決して追いかけないように。それは無理なんだ」と言っています。これはとても主観的な基準なので、その人の偏見や傷や先入観も大いに入り込む要素があるでしょう。でも、大事なことはそこで、おしまいにならないで、それからイエス様のおっしゃることを適用するんだということです。

 イエス様は「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです」とおっしゃいました。そこでこそ、とは「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈るなら」です。また、マタイ5:46-47「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。」取税人や異邦人というのは、最低の人のように扱われています。彼らも自分を愛してくれる人を愛するからです。それでは、天の父の子どもの特徴とは、どうなのでしょうか?自分の敵を愛するということです。分かりやすく言うと、敵であると認めた上でも、愛するということです。大体、聖書が言う愛というのは、好き嫌いのレベルではありません。また、条件付きの愛ではありません。一方的で、無条件の愛です。この愛は神さましか持っていません。でも、もし神の子どもであるなら、同じような性質、同じような愛を持っているはずだというのです。イエス様は「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」と言われました。完全な人、つまり成熟した人、信仰的に達成した人の特徴は何でしょうか?それは、損得抜きで、自分の敵を愛せる人なんだということです。たとえ、しっぺ返しされても、こちらは愛するということです。世の人は、「なんて損するようなひどい教えなのだろう、馬鹿げている」と言うでしょう。でも、イエス様は「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう」と言われました。と言うことは、自分の思いや感情はどうであれ、自分の敵を愛するならば、神さまからの報いがあるということです。私はまた未完成の途中の段階の人ですが、このような体験とこのような報いを得ています。イエス様のおっしゃるように自分の敵と思われる人、あるいは迫害したり、悪を行う人を少しでも愛したとします。でも、正しく受け止められなかったり、かえって悪い状態になったりすることがあります。するとどうでしょう?イエス様がこの地上でこられたときどんな体験をされたのか少しは分かります。嫌な気持と同時に、神さまからの慰め、神さまからの教えを直接味わうことができます。いろいろ考えさせられます。まるで哲学者になったような洞察や思想が与えられます。でも、それらがすばらしい神さまからの報いではないかと思います。考えてみると、自分もかつては神さまの敵であり、悪い者でした。でも、こんな者をも無条件の愛で愛されていたんだということを知ることができます。

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2016年3月 4日 (金)

誓いと復讐 マタイ5:33-42 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.3.6

 きょう学ぶ箇所は有名であり、また実行不可能なように思われる箇所でもあります。キリスト教は道徳を学ぶ上でとても良いと言われていますが、道徳だけでは理解できないでしょう。それほど、イエス様の教えは崇高であり、御国のご支配と助けがなければならないということでしょう。きょうの箇所はあまりにも偉大なので、真正面から当たるのではなく、私なりの切り口で、少し斜めから踏み込んでみたいと思います。

.偽りの誓い

 「偽りの誓いを立ててはならない」という律法はどこにあるのでしょうか?旧約聖書から2箇所引用したいと思います。レビ記1912「あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。」申命記2321「あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。」これは、「主の御名によって誓うなら必ず果たせ」ということなのでしょう。しかし、当時の人たちは「主の御名でなければ、その誓いは反故することができる」と逃げ道を作りました。人々はその代り「天をさして誓ったり」「地をさして誓ったり」「エルサレムをさして誓ったり」あるいは「自分の頭をさして誓ったり」したのでしょう。イエス様は「どんなものに誓っても、そこには神さまが関与しておられるのだから、言い逃れはできない」と言われました。それにしても、なぜ人々はそんなに誓いをしなければならないのでしょうか?もし、何かを誓うならば、どうなるでしょう?その誓いによって自分が拘束されます。破ったら、嘘つき呼ばわりされるか、信用をなくしてしまいます。どうでしょうか?私たちの日常生活で「誓約」「誓い」みたいなことがあるでしょうか?結婚式はあるかもしれません。たまに、「誓約書」みたいなものを書かされるときがありますが、どうでしょうか。

もし、約束だったらどうでしょうか?私たちはたまに「きっと〇○します」と約束することはないでしょうか?たとえば、「あなたを幸せにします」「これを買ってあげます」「あそこに連れて行ってあげます」「きっと昇給させます」「きっと合格させます」「必ず成功させます」「必ずよくなります」など、安請け合いものから、命をかけたものまであります。でも、どうしてそんな約束をしければならないのでしょうか?可能になったとき、「はい、どうぞ」と実行すれば、だれからも文句は言われません。不言実行というのがありますが、そういうことと関係しているのかもしれません。でも、どうして約束なんかするのでしょう?おそらく、自分を良く見せたい、気に入ってもらいたい、尊敬してもらいたいからなのではないでしょうか?私も当教会に赴任したとき、「この教会は3年後に100名礼拝になります。ならなければ辞めます」と言いました。これは立派な誓いであり、約束です。しかし、あれから29年たとうとしていますが、いまだ実現していません。もう、3回くらい辞めてもおつりがきそうです。なぜ、あのようなことを豪語したのでしょうか?あの当時、「信仰による宣言」というのがありました。韓国のチョー・ヨンギ牧師が「信仰による宣言」をなさっておられ、最終的に70万人の教会になりました。それと比べたら、100名という数は微々たるもののように思えたからです。でも、「言ったらそうなる」「宣言したらそうなる」というのは本当でしょうか?確かにマルコ11章に「山に向かって、動いて、海に入れと言うならそうなる」と書いてあります。でも、本当にそれが神から来たものなのか、それとも自分の思いから来たことなのか、どうしたら分かるのでしょうか?約束の時が来たとき、そうならないなら、だれの目にも明らかになります。とても恐ろしいことです。

イエス様は誓いについて何とおっしゃっておられるのでしょうか?マタイ537 「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」この意味は、一切、誓いをしてはいけないという意味ではありません。私たちは社会生活をしていますと、どうしても誓約することがあります。結婚もそうですが、売買契約とか、保険や相続、いろいろあります。イエス様はそういうことをおっしゃっておられるのではありません。当時の人たちは、主の御名以外で誓ったなら、約束を果たす責任がないと言い逃れをしていました。もし、そんなことをするなら2つの律法を犯したことになります。1つは主の御名をみだりに唱えること、2つ目は偽りの証言であります。では、これらの律法に違反しないで、自由に生きる方法は何でしょうか?私たちはむやみに約束をしたり、誓ったりするとどうしてもそのことに拘束されてしまいます。拘束されるのが好きならば別ですが、実行できるかどうかわからない約束はしない方が得策です。人の心をもてあそぶことになります。2度目ならば我慢できますが、3度目ならば「ああ、この人はこういう人なんだ」と信用されなくなります。でも、そういう人に限って「今度こそきっと」「次回こそきっと」とさらに、力を入れて約束したりします。そういう人が身近にいるでしょうか?でも、なぜ、そういうのでしょうか?おそらく、その人は信用されていないから誓うのではないでしょうか?

イエス様は「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」と言われました。これはどういう意味でしょう?もし、その人が真実に生きていたなら、改めて誓う必要もないということです。つまり、ふだんから、言っていることをちゃんと守っているなら、誓う必要がありません。言うということは、行うということです。でも、「行えないな」というものあります。そういうのは無理して言わなければ良いのです。私は8人兄弟の7番目で育ちました。一番上の長女とは18歳年が離れています。長女が結婚してから、時々、長女の夫、つまりおじさんが家に来ることがありました。家はとても貧しくて、家屋も立派でありませんでした。私たちは着るものも食べ物もそんなにありません。ゲームとか遊び道具もありません。そのおじさんは「今度○○買ってやるから」と約束する人でした。父も母も、私たち兄弟も「ああ、うれしいな」と期待しました。しかし、ほとんど実現することはなく、「ああ、あの人は嘘つきなんだ」とみんなが思いました。私たち家族は、とても貧しかったので、どうしても期待してしまうのです。しかし、それが実行されないと高いところから、「どーん」と落とされたような感じがしました。そのため、私の心には傷があります。不誠実な人はどうしても好きになれません。おじさんのことを思い出してしまうからです。

でも、どうなんでしょう。「自分がそんなに誠実だったのか?」と胸に手を当てて考えると、「約束を破ったことがたくさんあったなー」と思います。そのときは、誠実に「必ずやります」と言っても、それができなかったことがたくさんあります。仮にも、私のように人を指導するような立場になると、多大な被害を与えることになります。それは会社のリーダーや家長でも同じことだと思います。神を恐れ、誠実であることは、地味かもしれませんが大切な徳であることは確かです。「徳」というのは変ですが、基本的な資質というべきでしょうか?ヤコブ書にはこのようなことが書かれています。ヤコブ413-16 聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。私たちは神さまを恐れなければなりません。大言壮語と信仰とは違います。確かに、信仰はまだなっていないことを、なったかのように宣言するところがあります。「主の御名によってこうことをします。あのようなことをします。」と言うことがあるかもしれません。しかし、そこにはそのことを実現させてくださる神さまが共におられるかどうかであります。神さまが共にいないのに、勝手なことを言うならあとで恥をかくことになります。ですから、イエス様が教えられたように、「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言い」できるだけ誓わないことです。しかし、信仰によって約束したり、誓約するときもあるでしょう。そういう時は、全身全霊で神さまがそうなしてくださることを期待して進むしかありません。箴言161-3「人は心に計画を持つ。【主】はその舌に答えを下さる。人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし【主】は人のたましいの値うちをはかられる。あなたのしようとすることを【主】にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。

2.復讐をするな

 マタイ538-39 「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」最も聖書で実行不可能な聖句はこのところかもしれません。クリスチャンが本当にイエス様の命令を守っているかどうか知るための方法があります。それは、相手の右の頬を打ちたたくとわかります。もし、その人が左の頬も向けたなら本物のクリスチャンかもしれません。多くの人は顔を真っ赤にして、「何をするんだ」と叩き返すのではないでしょうか?まず、「目には目で、歯には歯で」という戒めの背景を調べたいと思います。出エジプト2124-25「目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷」とあります。これは同害報復法(同態復讐法)と呼ばれ、怒って命まで奪ったりしないで、同量の報復をもって満足しなさいということです。つまり、無制限な報復を制限するためであります。おそらく、この教えを聞いていた人たちはこう解釈していたでしょう。「目だったら目を報復する権利がある、歯だったら歯を報復する権利がある」と。しかし、イエス様は「報復する権利を主張しないように」と教えておられます。しかし、被害者の方はそれでは気が収まりません。「失った分をなんとか取り返したい」と思うでしょう。イエス様は復讐あるいは報復に打ち勝つ道を教えてくださいました。それは、相手に自分の意思で、もう1つ与えるということです。右の頬を打たれたら、左の頬を向ける。つまり、そのことによって、勝利できるんだということです。なぜなら、復讐する権利を放棄したばかりか、もう1つ相手に与えたからです。いやー、そんなことが可能なのでしょうか?でも、これは御国の教えなので、地上の道徳で理解することは不可能です。

 40節以降には、さらに3つのことがあげられています。40節「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」ここで言われている告訴は、借金のことです。ある人が期日まで返すことができなかった場合、担保がないとき、下着でも抵当に取ることができました。しかし、上着は1枚しかなので、夕方には返してあげました。なぜなら、上着は夜、毛布の役目をしたからです。でも、イエス様は「上着もやりなさい」と言われました。しかし、夜、一時的に上着を返してもうらことは自分の当然の権利であります。イエス様は「その権利すらも、相手に与えよ」と言われるのです。41節「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」当時のユダヤはローマの支配下にありました。ローマ兵は何か不足が生じると強制的に、食べ物、宿舎、馬、助力を提供させ、次の宿屋まで郵便物を運ばせたようです。1ミリオンとは「走り使い」ということばから来ているようですが、1480メートルの距離です。英語の聖書は1マイル(1609メートル)と訳しています。「1マイル行けと強いるような者とは、いっしょに2マイル行きなさい」となっています。1マイルだけでも「参る」のに、2マイルも行かされたら、たまったものではありません。そういえば、イエス様が十字架を負えなくなったとき、ローマ兵がクレネのシモンに「お前、かつげ」と命じたことがあります。クレネのシモンは過ぎ越しの祭りに来ていたのに、運悪く捕まってしまいました。親戚の者からも「どじなだー」と思われ、本人も十字架をかつがされ「貧乏くじを引かされた」と赤面したことでしょう。でも、あとから何と光栄なことをさせていただいたのだろうと感謝したことでしょう。42節「求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。」注解書には「これは思慮なしに与えたり、貸したりすることではない」と書かれていました。たとえ制限があるにしても、大変な戒めです。

 では、なぜイエス様は「目には目で、歯には歯で」という古い戒めを「私はこう言う」と再解釈されたのでしょうか?それはこの世は「やられたらやり返す」という復讐するのが常だからです。個人と個人、家と家、民族と民族、国家と国家、復讐の歴史と言っても良いかもしれません。文学ではシェークスピアの「ハムレット」、日本では忠臣蔵が有名です。また、「ランボー」など復讐をテーマとした映画が多いです。最近、アカデミー賞をとったディカプリオ主演の「蘇えりし者」も復讐がテーマです。私たちの中には、「やられたらやり返すのが当然、泣き寝入りは恥だ」という考えがあるからです。もし、イエス様が言われたとおり、やられてもやりかえさず、むしろ相手を有利にするならどうでしょう?復讐の連鎖は収まります。アメリカはキリスト教国と言われていますが、9.11のときは「めいっぱい爆弾」を落としました。アメリカは訴訟大国であり、イエス様のこの教えを全く守っていません。日本でも、テレビによく出てくる殺人事件は「報復」「仕返し」ではないでしょうか?会社の内部告発がありますが、不当な扱いを受けた元社員が仕返しにやることではないでしょうか?私も高校のとき私をいじめてくれた男を復讐するシーンを何度も思い浮かべたことがあります。みなさんも、できれば仕返ししたい人が右手の指にあまるくらいいるのではないでしょうか?実際にできないので、その人が不幸になるようにと願っているかもしれません。「人を呪わば、穴二つ」ということわざがあります。こういう復讐心、恨み、憤慨は、自分の肉体や精神に毒を流し込みます。当事者はそのことを忘れ、涼しい顔をしています。でも、被害者は恨みを手放すことができず悶々としています。李光雨師は、うつ病の1つの原因は、かくされた怒り、処理されていない怒りが内側で暴発することだと言っています。

 イエス様が復讐する代わりに、「相手をもっと有利にするようなことをしなさい」と言われました。英語にはadvantageということばがあります。有利とか、利益という意味です。これが、to a persons advantageとなると「人に有利に」「人に都合が良く」という意味になります。マタイ5章に39節以降言われている「左の頬を向けること」「上着もやること」「2ミリオン行くこと」「求める者に与えること」すべて、相手に有利なことをするということです。本来なら、こちらがadvantageを主張して、pay back仕返しをしたいところです。でも、逆に取り返したい分を相手にあげるというのですから全く割が合いません。これは地上の法律や道徳では決して成り立ちません。しかし、イエス様が教えておられるのは御国、天国の律法です。もし、イエス様がおっしゃることをそのまま実行するとどうでしょうか?上司が「1ミリオン行け」と命令した事柄を、2ミリオン行ったらどうなるでしょうか?1ミリオンは上司から言われた分です。しかし、もう1ミリオンは自分の意思でやった分です。1ミリオン行っただけだったら、いやいや従ったという感じがします。しかし、2ミリオン行ったのだったら、上司ではなく、自分の意思が勝っていたということになります。イエス様が、相手に有利なことをするということによって逆に勝利することができると教えたのではないでしょうか?私は自分の権利を主張しないで、相手の言いなりになれという極端なことを言っているのではありません。冒頭で「真正面から当たるのではなく、私なりの切り口で、少し斜めから踏み込んでみたい」と申し上げました。大それたことを言っているのではありません。私たちの日常の人間関係において「報復しないで、相手に有利なことをする」ということです。職場の人間関係、家庭の人間関係、教会の人間関係、つまり身近に触れる人との関係であります。Ⅰコリント13章は愛の教えで有名です。135「人のした悪を思わず」というみことばがあります。J.Bフィリプスは、「悪のaccount勘定口座にとどめておくな」と訳しています。いわゆる心の帳簿であります。「今日、あの人は私にこういうことをした。マイナス10ポイント。これで合計80ポイントになった。100になったら一発殴って絶交する」とか、あるかもしれませんよ。こういう話を聞いて、「私はだれも恨んでいませんよ。もちろん復讐をしたいとか考えたこともありません」と言うかもしれません。では、質問を変えます。「あなたは会いたくない人はいませんか?できれば避けたい、会いたくない」。いるんじゃないでしょうか?そういう人こそ、あなたが恨みを抱いている人、赦さない人、できれば報復したい人ではないでしょうか?できたら会わなくて生活したいです。でも、会社や家庭や教会でご近所で会わなければなりません。彼らに勝利する道は一体あるのでしょうか?あります。「左の頬を向けること」「上着もやること」「2ミリオン行くこと」「求める者に与えること」。相手に有利なことをするということです。

パウロがローマ12章でこのように述べています。ローマ1212-21 「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」パウロが言う、敵に食べさせること、飲ませること、善をおこなうことが悪に打ち勝つ道なのです。このように山上の説教を地上の尺度で理解しようとすると挫折するか、迷路にはまってしまいます。これは地上の教えではなく、御国と天国の教えです。生身の人間には全く不可能です。これは罪のために十字架につき贖いを成し遂げたイエス様が共にいなければ無理です。この世に勝利をされたイエス様がこの世の損得を超える道を与えてくださいます。しかも、損したところは神さまが報いてくださいます。神さまの報いがあるので、負け犬になるようなことができるのです。逆に仕返しをしてこの世で勝利しても、御国において敗北するなら何の得があるでしょう。どうぞ、地上の貸し借りの帳簿ではなく、御国の帳簿をもって生活しましょう。父なる神さまが、イエス様に従っていく人の口座にたくさんの恵みを振り込んで下さると信じます。

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