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2016年3月 4日 (金)

誓いと復讐 マタイ5:33-42 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.3.6

 きょう学ぶ箇所は有名であり、また実行不可能なように思われる箇所でもあります。キリスト教は道徳を学ぶ上でとても良いと言われていますが、道徳だけでは理解できないでしょう。それほど、イエス様の教えは崇高であり、御国のご支配と助けがなければならないということでしょう。きょうの箇所はあまりにも偉大なので、真正面から当たるのではなく、私なりの切り口で、少し斜めから踏み込んでみたいと思います。

.偽りの誓い

 「偽りの誓いを立ててはならない」という律法はどこにあるのでしょうか?旧約聖書から2箇所引用したいと思います。レビ記1912「あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。」申命記2321「あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。」これは、「主の御名によって誓うなら必ず果たせ」ということなのでしょう。しかし、当時の人たちは「主の御名でなければ、その誓いは反故することができる」と逃げ道を作りました。人々はその代り「天をさして誓ったり」「地をさして誓ったり」「エルサレムをさして誓ったり」あるいは「自分の頭をさして誓ったり」したのでしょう。イエス様は「どんなものに誓っても、そこには神さまが関与しておられるのだから、言い逃れはできない」と言われました。それにしても、なぜ人々はそんなに誓いをしなければならないのでしょうか?もし、何かを誓うならば、どうなるでしょう?その誓いによって自分が拘束されます。破ったら、嘘つき呼ばわりされるか、信用をなくしてしまいます。どうでしょうか?私たちの日常生活で「誓約」「誓い」みたいなことがあるでしょうか?結婚式はあるかもしれません。たまに、「誓約書」みたいなものを書かされるときがありますが、どうでしょうか。

もし、約束だったらどうでしょうか?私たちはたまに「きっと〇○します」と約束することはないでしょうか?たとえば、「あなたを幸せにします」「これを買ってあげます」「あそこに連れて行ってあげます」「きっと昇給させます」「きっと合格させます」「必ず成功させます」「必ずよくなります」など、安請け合いものから、命をかけたものまであります。でも、どうしてそんな約束をしければならないのでしょうか?可能になったとき、「はい、どうぞ」と実行すれば、だれからも文句は言われません。不言実行というのがありますが、そういうことと関係しているのかもしれません。でも、どうして約束なんかするのでしょう?おそらく、自分を良く見せたい、気に入ってもらいたい、尊敬してもらいたいからなのではないでしょうか?私も当教会に赴任したとき、「この教会は3年後に100名礼拝になります。ならなければ辞めます」と言いました。これは立派な誓いであり、約束です。しかし、あれから29年たとうとしていますが、いまだ実現していません。もう、3回くらい辞めてもおつりがきそうです。なぜ、あのようなことを豪語したのでしょうか?あの当時、「信仰による宣言」というのがありました。韓国のチョー・ヨンギ牧師が「信仰による宣言」をなさっておられ、最終的に70万人の教会になりました。それと比べたら、100名という数は微々たるもののように思えたからです。でも、「言ったらそうなる」「宣言したらそうなる」というのは本当でしょうか?確かにマルコ11章に「山に向かって、動いて、海に入れと言うならそうなる」と書いてあります。でも、本当にそれが神から来たものなのか、それとも自分の思いから来たことなのか、どうしたら分かるのでしょうか?約束の時が来たとき、そうならないなら、だれの目にも明らかになります。とても恐ろしいことです。

イエス様は誓いについて何とおっしゃっておられるのでしょうか?マタイ537 「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」この意味は、一切、誓いをしてはいけないという意味ではありません。私たちは社会生活をしていますと、どうしても誓約することがあります。結婚もそうですが、売買契約とか、保険や相続、いろいろあります。イエス様はそういうことをおっしゃっておられるのではありません。当時の人たちは、主の御名以外で誓ったなら、約束を果たす責任がないと言い逃れをしていました。もし、そんなことをするなら2つの律法を犯したことになります。1つは主の御名をみだりに唱えること、2つ目は偽りの証言であります。では、これらの律法に違反しないで、自由に生きる方法は何でしょうか?私たちはむやみに約束をしたり、誓ったりするとどうしてもそのことに拘束されてしまいます。拘束されるのが好きならば別ですが、実行できるかどうかわからない約束はしない方が得策です。人の心をもてあそぶことになります。2度目ならば我慢できますが、3度目ならば「ああ、この人はこういう人なんだ」と信用されなくなります。でも、そういう人に限って「今度こそきっと」「次回こそきっと」とさらに、力を入れて約束したりします。そういう人が身近にいるでしょうか?でも、なぜ、そういうのでしょうか?おそらく、その人は信用されていないから誓うのではないでしょうか?

イエス様は「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」と言われました。これはどういう意味でしょう?もし、その人が真実に生きていたなら、改めて誓う必要もないということです。つまり、ふだんから、言っていることをちゃんと守っているなら、誓う必要がありません。言うということは、行うということです。でも、「行えないな」というものあります。そういうのは無理して言わなければ良いのです。私は8人兄弟の7番目で育ちました。一番上の長女とは18歳年が離れています。長女が結婚してから、時々、長女の夫、つまりおじさんが家に来ることがありました。家はとても貧しくて、家屋も立派でありませんでした。私たちは着るものも食べ物もそんなにありません。ゲームとか遊び道具もありません。そのおじさんは「今度○○買ってやるから」と約束する人でした。父も母も、私たち兄弟も「ああ、うれしいな」と期待しました。しかし、ほとんど実現することはなく、「ああ、あの人は嘘つきなんだ」とみんなが思いました。私たち家族は、とても貧しかったので、どうしても期待してしまうのです。しかし、それが実行されないと高いところから、「どーん」と落とされたような感じがしました。そのため、私の心には傷があります。不誠実な人はどうしても好きになれません。おじさんのことを思い出してしまうからです。

でも、どうなんでしょう。「自分がそんなに誠実だったのか?」と胸に手を当てて考えると、「約束を破ったことがたくさんあったなー」と思います。そのときは、誠実に「必ずやります」と言っても、それができなかったことがたくさんあります。仮にも、私のように人を指導するような立場になると、多大な被害を与えることになります。それは会社のリーダーや家長でも同じことだと思います。神を恐れ、誠実であることは、地味かもしれませんが大切な徳であることは確かです。「徳」というのは変ですが、基本的な資質というべきでしょうか?ヤコブ書にはこのようなことが書かれています。ヤコブ413-16 聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。私たちは神さまを恐れなければなりません。大言壮語と信仰とは違います。確かに、信仰はまだなっていないことを、なったかのように宣言するところがあります。「主の御名によってこうことをします。あのようなことをします。」と言うことがあるかもしれません。しかし、そこにはそのことを実現させてくださる神さまが共におられるかどうかであります。神さまが共にいないのに、勝手なことを言うならあとで恥をかくことになります。ですから、イエス様が教えられたように、「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言い」できるだけ誓わないことです。しかし、信仰によって約束したり、誓約するときもあるでしょう。そういう時は、全身全霊で神さまがそうなしてくださることを期待して進むしかありません。箴言161-3「人は心に計画を持つ。【主】はその舌に答えを下さる。人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし【主】は人のたましいの値うちをはかられる。あなたのしようとすることを【主】にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。

2.復讐をするな

 マタイ538-39 「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」最も聖書で実行不可能な聖句はこのところかもしれません。クリスチャンが本当にイエス様の命令を守っているかどうか知るための方法があります。それは、相手の右の頬を打ちたたくとわかります。もし、その人が左の頬も向けたなら本物のクリスチャンかもしれません。多くの人は顔を真っ赤にして、「何をするんだ」と叩き返すのではないでしょうか?まず、「目には目で、歯には歯で」という戒めの背景を調べたいと思います。出エジプト2124-25「目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷」とあります。これは同害報復法(同態復讐法)と呼ばれ、怒って命まで奪ったりしないで、同量の報復をもって満足しなさいということです。つまり、無制限な報復を制限するためであります。おそらく、この教えを聞いていた人たちはこう解釈していたでしょう。「目だったら目を報復する権利がある、歯だったら歯を報復する権利がある」と。しかし、イエス様は「報復する権利を主張しないように」と教えておられます。しかし、被害者の方はそれでは気が収まりません。「失った分をなんとか取り返したい」と思うでしょう。イエス様は復讐あるいは報復に打ち勝つ道を教えてくださいました。それは、相手に自分の意思で、もう1つ与えるということです。右の頬を打たれたら、左の頬を向ける。つまり、そのことによって、勝利できるんだということです。なぜなら、復讐する権利を放棄したばかりか、もう1つ相手に与えたからです。いやー、そんなことが可能なのでしょうか?でも、これは御国の教えなので、地上の道徳で理解することは不可能です。

 40節以降には、さらに3つのことがあげられています。40節「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」ここで言われている告訴は、借金のことです。ある人が期日まで返すことができなかった場合、担保がないとき、下着でも抵当に取ることができました。しかし、上着は1枚しかなので、夕方には返してあげました。なぜなら、上着は夜、毛布の役目をしたからです。でも、イエス様は「上着もやりなさい」と言われました。しかし、夜、一時的に上着を返してもうらことは自分の当然の権利であります。イエス様は「その権利すらも、相手に与えよ」と言われるのです。41節「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」当時のユダヤはローマの支配下にありました。ローマ兵は何か不足が生じると強制的に、食べ物、宿舎、馬、助力を提供させ、次の宿屋まで郵便物を運ばせたようです。1ミリオンとは「走り使い」ということばから来ているようですが、1480メートルの距離です。英語の聖書は1マイル(1609メートル)と訳しています。「1マイル行けと強いるような者とは、いっしょに2マイル行きなさい」となっています。1マイルだけでも「参る」のに、2マイルも行かされたら、たまったものではありません。そういえば、イエス様が十字架を負えなくなったとき、ローマ兵がクレネのシモンに「お前、かつげ」と命じたことがあります。クレネのシモンは過ぎ越しの祭りに来ていたのに、運悪く捕まってしまいました。親戚の者からも「どじなだー」と思われ、本人も十字架をかつがされ「貧乏くじを引かされた」と赤面したことでしょう。でも、あとから何と光栄なことをさせていただいたのだろうと感謝したことでしょう。42節「求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。」注解書には「これは思慮なしに与えたり、貸したりすることではない」と書かれていました。たとえ制限があるにしても、大変な戒めです。

 では、なぜイエス様は「目には目で、歯には歯で」という古い戒めを「私はこう言う」と再解釈されたのでしょうか?それはこの世は「やられたらやり返す」という復讐するのが常だからです。個人と個人、家と家、民族と民族、国家と国家、復讐の歴史と言っても良いかもしれません。文学ではシェークスピアの「ハムレット」、日本では忠臣蔵が有名です。また、「ランボー」など復讐をテーマとした映画が多いです。最近、アカデミー賞をとったディカプリオ主演の「蘇えりし者」も復讐がテーマです。私たちの中には、「やられたらやり返すのが当然、泣き寝入りは恥だ」という考えがあるからです。もし、イエス様が言われたとおり、やられてもやりかえさず、むしろ相手を有利にするならどうでしょう?復讐の連鎖は収まります。アメリカはキリスト教国と言われていますが、9.11のときは「めいっぱい爆弾」を落としました。アメリカは訴訟大国であり、イエス様のこの教えを全く守っていません。日本でも、テレビによく出てくる殺人事件は「報復」「仕返し」ではないでしょうか?会社の内部告発がありますが、不当な扱いを受けた元社員が仕返しにやることではないでしょうか?私も高校のとき私をいじめてくれた男を復讐するシーンを何度も思い浮かべたことがあります。みなさんも、できれば仕返ししたい人が右手の指にあまるくらいいるのではないでしょうか?実際にできないので、その人が不幸になるようにと願っているかもしれません。「人を呪わば、穴二つ」ということわざがあります。こういう復讐心、恨み、憤慨は、自分の肉体や精神に毒を流し込みます。当事者はそのことを忘れ、涼しい顔をしています。でも、被害者は恨みを手放すことができず悶々としています。李光雨師は、うつ病の1つの原因は、かくされた怒り、処理されていない怒りが内側で暴発することだと言っています。

 イエス様が復讐する代わりに、「相手をもっと有利にするようなことをしなさい」と言われました。英語にはadvantageということばがあります。有利とか、利益という意味です。これが、to a persons advantageとなると「人に有利に」「人に都合が良く」という意味になります。マタイ5章に39節以降言われている「左の頬を向けること」「上着もやること」「2ミリオン行くこと」「求める者に与えること」すべて、相手に有利なことをするということです。本来なら、こちらがadvantageを主張して、pay back仕返しをしたいところです。でも、逆に取り返したい分を相手にあげるというのですから全く割が合いません。これは地上の法律や道徳では決して成り立ちません。しかし、イエス様が教えておられるのは御国、天国の律法です。もし、イエス様がおっしゃることをそのまま実行するとどうでしょうか?上司が「1ミリオン行け」と命令した事柄を、2ミリオン行ったらどうなるでしょうか?1ミリオンは上司から言われた分です。しかし、もう1ミリオンは自分の意思でやった分です。1ミリオン行っただけだったら、いやいや従ったという感じがします。しかし、2ミリオン行ったのだったら、上司ではなく、自分の意思が勝っていたということになります。イエス様が、相手に有利なことをするということによって逆に勝利することができると教えたのではないでしょうか?私は自分の権利を主張しないで、相手の言いなりになれという極端なことを言っているのではありません。冒頭で「真正面から当たるのではなく、私なりの切り口で、少し斜めから踏み込んでみたい」と申し上げました。大それたことを言っているのではありません。私たちの日常の人間関係において「報復しないで、相手に有利なことをする」ということです。職場の人間関係、家庭の人間関係、教会の人間関係、つまり身近に触れる人との関係であります。Ⅰコリント13章は愛の教えで有名です。135「人のした悪を思わず」というみことばがあります。J.Bフィリプスは、「悪のaccount勘定口座にとどめておくな」と訳しています。いわゆる心の帳簿であります。「今日、あの人は私にこういうことをした。マイナス10ポイント。これで合計80ポイントになった。100になったら一発殴って絶交する」とか、あるかもしれませんよ。こういう話を聞いて、「私はだれも恨んでいませんよ。もちろん復讐をしたいとか考えたこともありません」と言うかもしれません。では、質問を変えます。「あなたは会いたくない人はいませんか?できれば避けたい、会いたくない」。いるんじゃないでしょうか?そういう人こそ、あなたが恨みを抱いている人、赦さない人、できれば報復したい人ではないでしょうか?できたら会わなくて生活したいです。でも、会社や家庭や教会でご近所で会わなければなりません。彼らに勝利する道は一体あるのでしょうか?あります。「左の頬を向けること」「上着もやること」「2ミリオン行くこと」「求める者に与えること」。相手に有利なことをするということです。

パウロがローマ12章でこのように述べています。ローマ1212-21 「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」パウロが言う、敵に食べさせること、飲ませること、善をおこなうことが悪に打ち勝つ道なのです。このように山上の説教を地上の尺度で理解しようとすると挫折するか、迷路にはまってしまいます。これは地上の教えではなく、御国と天国の教えです。生身の人間には全く不可能です。これは罪のために十字架につき贖いを成し遂げたイエス様が共にいなければ無理です。この世に勝利をされたイエス様がこの世の損得を超える道を与えてくださいます。しかも、損したところは神さまが報いてくださいます。神さまの報いがあるので、負け犬になるようなことができるのです。逆に仕返しをしてこの世で勝利しても、御国において敗北するなら何の得があるでしょう。どうぞ、地上の貸し借りの帳簿ではなく、御国の帳簿をもって生活しましょう。父なる神さまが、イエス様に従っていく人の口座にたくさんの恵みを振り込んで下さると信じます。

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