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2016年3月25日 (金)

キリストの復活 ローマ4:19-25 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.3.27

 聖書には「キリストは私たちの罪のために死なれた」と書いてあります。つまり、イエス様が十字架で罪の贖いを成し遂げてくださったのです。このお方を救い主をして信じるときに人は救われます。しかし、イエス様は十字架で死んだだけではなく、三日後に復活しました。復活は何のためにあるのでしょうか?私たちは十字架の贖いだけではなく、キリストの復活も信じなければならないのでしょうか?以前の私もそうでしたが、「キリストの復活が何のためにあるのかわからない」というクリスチャンがおられるのではないでしょうか?きょうは、「キリストの復活」と題してイースターのメッセージをお届けしたいと思います。

1.復活の意味

 先週、私たち人間ではなく、父なる神が御子イエスを十字架に付けたということを学びました。罪の贖いに関しては、私たち人間が参与する余地は全くありません。神ご自身がご自分の義を満たすために、御子イエスに罪を負わせて罰したのです。御子イエスは、人類を救うために自ら十字架に付かれ、死んで罪の代価を支払われました。御子イエスによって成し遂げられた贖いを信じる人が、「ああ、キリストは私の罪のために死なれたんだ。私の罪の身代わりだったんだ」と言うことができるのです。ここで1つ問題が生じてきます。十字架で罪を負って死なれたキリストを信じるだけで救われるとするなら、どうしてキリストの復活が必要なのでしょうか?「イエス様が私の罪のために十字架で死んでくださったことを信じます。アーメン」。それで良いのではないでしょうか?復活に関して、2つの問題が残ります。第一は、なぜ、父なる神さまは御子イエスを死人の中からよみがえらせる必要があったのでしょう。「私たちの罪を贖うために死んでくださった、それだけで十分じゃないでしょうか?」と言うことです。第二は、「私たちはキリストの十字架の贖いを信じるだけでは足りないのか?キリストの復活も信じなければ救われないのだろうか」ということです。

聖書にこのことを証明しているみことばがあります。ローマ425「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」でも、このまま日本語の聖書を読むと、罪のために死なれたイエス様を信じるのは救いの半分で、よみがえられたイエス様を信じて完全に救われるような感じがします。つまり、十字架の死は私たちの罪の赦しのためであり、復活は私たちが義とされるためなのでしょうか?私は昨年のイースターまで、罪の赦しと義とは高さ的に異なると考えていました。十字架の死は罪の赦しのためであり、プラスマイナスゼロの段階です。キリストが復活されたとは、神の義が与えられること、プラスプラスの段階であると理解していました。そうなると、十字架の死だけでは救いの半分で、復活があって完全な救いとなるのでしょうか?しかし、昨年のイースターでも同じことをお話ししましたが、ローマ425はそのような意味ではないと分かりました。英語の詳訳聖書を直訳しますと、「キリストがよみがえらされたのは、私たちの義認が保障されるためである」となっています。F.Fブルースという聖書学者は、この2つの文節を義足のように分けて訳してはならないと言っています。For「ために」という前置詞は「…のおかげで」と訳すべきだと言っています。これら2つの出来事は分けることができません。復活は罪の贖いと無関係だと考えたり、またキリストの死は義認と無関係だと考えてはならないということです。F.Fブルースは結論的に「キリストは彼の人々の罪を贖うために死に渡され、彼らの義任の保障となるためによみがえらされた」と解説しています。彼の本にはguarantee、「債務履行の保障」という意味の言葉が用いられています。あとで詳しく話しますが、復活というのは「あなたの罪の贖いは完了している」という証書のようなものだということです。

その前に、私たちが知らなければならないことがあります。私たちは「イエス様は死からよみがえられた」と言いますが、本当は「よみがえらされた」のです。英語の聖書でははっきり、He is risenと受身形に書かれています。では、だれがイエス様をよみがえらせたのでしょうか?もちろん、父なる神さまです。私たちは「ああ、イエス様が私たちの罪のために十字架で死んでくださったんだ。ありがたい」と手を合わせるかもしれません。実際に、ほとんどの宗教の教祖は死んでおり、人々は死んだ教祖たちを拝んでいます。釈迦、孔子、マホメット、日蓮上人、徳川家康、その他の教祖たちは、みんな死にました。でも、キリストだけが死からよみがえりました。ペテロは使徒の働き2章でキリストの復活をこのように説明しています。使徒224「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」文脈から考えますと、「キリストには罪がない。聖者なので、墓の中で朽ち果てることはない」ということです。確かにイエス様は罪を負って十字架で死なれました。しかし、その直前「すべてが完了した」と叫ばれました。それは、ご自分の死によって罪の代価を全部支払われたという意味です。その後、イエス様は陰府に落とされ、足かけ3日、陰府にいたことになります。そして、父なる神さまは十字架の贖いを成し遂げた御子イエスをよみがえらせました。なんだか、神さまの自作自演みたいな感じがします。「何だよ、初めからよみがえらせるつもりだったのか」と反発したくなります。しかし、そうではありません。確かにイエス様は罪における死の苦しみを味わい、神さまから捨てられ地獄に叩き落とされました。イエス様は罪に定められ殺されて、神としての誇りを失いました。では、父なる神さまがどうして、御子イエス様を死からよみがえらせたのでしょう?死や墓は、罪ある人が行くところです。しかし、キリストには罪がなったので、墓の中で朽ち果てることはなかったのです。父なる神さまは、聖者キリストを、死の苦しみから解き放ってよみがえらせました。でも、それだけではありません。父なる神さまは大切なことを示すためにキリストをよみがえらせたのです。復活の意味はわかりましたが、なぜ、復活がなければならないのでしょうか?パウロはこのように言っています。Ⅰコリント1514「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」

2.復活の意義

キリストの復活は何のためだったのでしょう?復活の意義について考えたいと思います。まず、ウォッチマンニーの『神の福音』から引用したいと思います。私たちは「イエスが十字架の上で死なれ、贖いのみわざを成就された」と言うことができます。しかし、神がそのようなみわざに満足しておられたことをどのように知ることができるでしょうか?主の復活は、主イエスのみわざと死に対する、神の“OK”のサインです。これは、この死が今よしとされており、人の罪の問題が解決されているという意味です。もし主が復活されなかったとしたら、たとえ贖いが成就されたとしても、私たちの心には疑いや心配があるでしょう。私たちは自分の罪から完全に贖われていることを、いつ認識するのでしょうか?それは、主イエスが復活されたのを見るときです。復活は、十字架のみわざが神によってよしとされ、受け入れられたことの証拠です。あまり良いたとえではありませんが、私がある人から多額の借金をして、全く返すことができないとします。私の貸主は蘇州にいて、私は上海にいます。一人の兄弟が貸主と大変親しく、私のために借金を免除してくれるように頼んでくると言いました。彼は蘇州にいる貸主の所に行って、ウォッチマンニーの大変さを語り、借金を帳消しにしてもらえないか頼みました。貸主は「あなたに免じて、忘れましょう。もう、返さなくてもいいです。この約束手形を彼に返してください」と言いました。貸主は続けて言いました。「私たちはお互いに何年も会っていませんね。あなたはこの蘇州にいるのだから、虎邱や寒山寺にでも旅行に行くと良いですよ。まずは、2,3日ここに泊まっていきませんか」と言いました。仮にこの兄弟が510日に蘇州に行って、その日に仕事を終えたとします。ところが彼は520日になっても上海に戻ってきません。彼は蘇州でごちそうにあずかっているのですが、私は上海でやきもきしています。彼は何か問題があったために戻って来ないのだろうか?あるいは仕事が解決していないのかもしれません。もう、10日もたっています。私は依然として、自分を負債者であると考えており、心は落ち着きません。いつ問題は処理されるのでしょうか?彼が上海に戻ってきて、はじめてその問題が解決されたことを知るのです。これが主イエスの復活です。彼は私たちのために死なれた時、罪の問題を解決されました。ところが、もし彼が死人の中から復活されなかったなら、もし彼が戻って来られなかったなら、私たちの心は不安なままです。彼は復活されなければなりません。そうしてこそ、私たちはみわざが成し遂げられたことを知るでしょう。神に感謝します。キリストの復活は、私たちの罪が完全に解決されていることを証明します。

 ウォッチマンニーは「自分が借金を免除された例話はあまり良くないかもしれない」と言っています。でも、その例話は復活をとても明快に説明しています。十字架の贖いで私たちの罪は完全にあがなわれました。私たちはイエス・キリストを信じると罪赦され、神からの義をいただくことができるのです。でも、私たちが本当に罪赦され、義と認められているのかどうしてわかるでしょうか?ひょっとしたら私たちが死んだのち、神さまの前に立って、「十字架の贖いだけじゃ足りなかったんだ」と言われるかもしれません。死後、良い行いとか、罪の悔い改め、あるいは償いが必要だったと言われたらどうするでしょう。本当にキリストの贖いを信じるだけで救われるのでしょうか?安心してください。そのために、父なる神さまは御子イエスを死からよみがえらせたのです。父なる神さまはキリストをよみがえらせることによって、「キリストの贖いは十分であり、あなたは義とされている」ということを証明されたのです。ですから、さきほど引用したローマ425をウォッチマンニー風に訳すとこうなります。「主イエスは、私の罪のために死に渡されました。赦しの事実は主イエスの死にあります。そして、主イエスの復活は、私たちが罪から贖われたことを知らせくれます。赦しの確信は主イエスの復活にあります。」アーメン。復活はたとえていうならば、神さまが下さった受領書であります。もう一度、まとめてお話ししたいと思います。父なる神さまが、私たちに代わって代価を払ってくださいました。ご自分の御子に罪を負わせ、裁かれました。それは私たちが頼んだわけではなく、神さまが罪に対する怒りを取り除くためであり、ご自分の義を満足させるためです。罪の贖いは父なる神さまと御子イエスだけのことであり、私たちが関与するところは全くありません。信仰による義ということが、ローマ3章に書かれています。キリストを信じた者に神の義が与えられ救われるということです。「でも、十字架における贖いが完全であり、本当に罪赦され、義とされるのだろうか?」という疑問が残ります。神さまは「大丈夫、キリストの贖いは十分であり、信じる者は義とされる」と言うことを示したかったのであります。そのために、神さまは死者の中からキリストをよみがえらせました。そのことは、私たちが信仰によって義とされ、救われることの保障であります。言い換えると、復活は受領書であります。私たちはこの受領書を握って入れば、神さまの前に立ったときも、全く恐れることはありません。復活によって、キリストの贖いが完全であることが分かっているからです。

3.復活の信仰

もう1つ問題が残っています。私たちはキリストの十字架を信じ、同時にまた、復活を信じなければならないのでしょうか?驚くべきことに、聖書に「キリストの十字架があなたの罪であると信じなさい」と命じている箇所は1つもありません。もちろん、聖書には「私たちの罪のためにです」と信じた人の証言はたくさんあります。「キリストは私たちの罪のために死なれた」というのは、信じた人たちが告白することばです。それに比べて、「あなたはキリストの復活を信じなさい」という表現は何か所もあります。ローマ109「 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」パウロはイエスを主と告白し、復活を信じるなら救われると言っています。Ⅱテモテ28「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」パウロはテモテに対して、「十字架で死なれたイエス・キリストを、いつも思っていなさい」とは言っていません。パウロが「私の福音」と言っているのは、死者の中からよみがえったイエス・キリストことであります。

使徒の働きを見るとわかりますが、弟子たちはキリストの十字架の死よりも、キリストの復活を宣べ伝えました。これはペテロが異邦人コルネリオに語ったことばです。使徒10:39-43「私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。…イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」ペテロはユダヤ人たちがイエス様を木にかけて殺したと言っています。異邦人のコルネリオが殺したとは言っていません。ペテロは客観的に言っているのは、神がキリストによって十字架の贖いをなされたからです。ペテロは、「しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました」と言っています。これはキリストが罪の贖いを完成したので、神さまが彼を復活させたという意味です。さらに、ペテロは「私たちはキリストの復活の証人である」と言っています。ペテロは「この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる」と言いました。なんと、ペテロが「信じなさい」と招いていないのに、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになりました。ペテロのメッセージはまだ途中だったのですが、人々が救われました。おそらく、コルネリオたちは、「神がキリストをよみがえらせたのだったら、信じても大丈夫だ。私たちはきっと救われる」と確信したのに違いありません。だめ押しをするかのように、彼らの上に聖霊が下りました。

ウォッチマンニーの本に、このような逸話が載っていました。ある宗派の会員で、38年間長老であり、信じてすでに50年、あるいは60年にもなる人に会ったことがあります。私は彼が主イエスを信じているかどうか尋ねると、彼は「信じます」と言いました。ところが、自分の罪が赦されたことを知っているかどうかと問うと、「はっきりしない」と言いました。そこで、イエスはあなたの救い主ですか、と問うと、「そうです」と答えました。救われたかどうか尋ねると、「わからない」と言いました。私は、主イエスが私たちの罪のために、十字架上で裁かれたことを信じるかと尋ねると、彼はすぐに「もちろん信じる。聖書がそう言っているだけではなく、私たちの詩歌もそう言っている」と答えました。私は彼に、罪から清められたかどうか、尋ねました。すると彼は、「主の十字架が自分の罪のためであることを信じるが、自分の罪が洗い去られたとはあえて言えない」と言いました。私は彼がはっきりしないのを責めることはできません。主が十字架上で死なれたことは本当です。しかし人はどのようにして、この十字架の価値を知るのでしょうか?罪の解決は十字架上で起りましたが、私たちをはっきりさせるのは復活です。主イエスを受け入れるだけで十分であるか、私に尋ねるなら、私は二句の言葉で答えましょう。私が救われているのは主の死のゆえです。しかし、私が救われていると知るのは、主の復活のゆえです。御子は十字架の上で、私たちのすべての罪の負債を支払われました。そして、御子の復活を通して、罪の負債が完全に清算されていることを、彼は私たちに知らされたのです。私たちは負債が完全に清算したことを知るのは、私が受領書を持っているからです。主は私たちに証拠と受領書を下さいました。復活はその金額を完全に支払ったという貸主である神さまからの受領書です。

もし、キリストの十字架の死しか語らなければ、それは完全な福音ではありません。その人は信じて救いを受けるかもしれません。でも、復活まで語らないと、本当に救われているのか確信が持てないでしょう?「私たちの罪のためにキリストが死なれ、私たちに保障を与えるためによみがえられた」いうことが福音なのであります。「信じた者は、罪をさばかれることはなく、罪赦され、義とされている」という受領書付きの福音であります。あなたは、受領書付きの福音を信じていらっしゃるでしょうか?パウロはテモテに言いました。Ⅱテモテ28「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」アーメン。年に一度、イースターの時だけ復活を信じるのではありません。だから私は、宗教的な教会行事は好きではありません。「死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」とはどういう意味でしょうか?一年、365日、いつも思っているということです。ある人たちはキリストの復活は、私たちが死んだあとキリストのように栄光のからだが与えられる保障なんだと言います。確かにそうですが、それは死後、御国の完成時であります。復活は私たちの死後のためにだけあるのではありません。なぜ、パウロが「死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」と言ったのでしょう?第一に「キリストの贖いは完全であり、あなたの罪が赦され義とされているよ。あなたはもう罪の中にはいないよ」ということを理解するためです。第二は何でしょう?復活の信仰が日々の生活で役に立つのでしょうか?Ⅱコリント4:11 「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」いのちとはもちろん復活のいのちです。パウロが四方から苦しめられて、窮することはないのは、キリストの復活のいのちを持っているからです。死にそうで死なない、倒れても滅びないのはそのためです。ローマ811 「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」このことは、パウロが死んでからのことを言っているのではありません。この地上で死ぬべき体を持っている私たちが、逆転勝利できるというということです。キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方(神さま)が、御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。そうです。日々、現実の真ん中で、私たちのからだに復活のいのちが与えられるということです。だから、私たちは死にそうで死なない、倒れても滅びないのです。

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