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2016年2月26日 (金)

律法の再解釈 マタイ5:21-32 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.2.28

 律法というのは十戒を中心とする様々な神から人への要求であり、また戒めです。当時の人たちはパリサイ人や律法学者たちから、律法の細かい解釈を受けていました。彼らはゲマラやミシュナという律法の解説書や言い伝えを持っていました。ところが、律法の精神から離れ、形式的であったり、言い逃れ的なものもありました。イエス様は「○○とあなたがたは聞いています。しかし、私はあなたがたに言います」というくだりで、律法の本当の意味を教えておられます。きょうは十戒の6番目と7番目から学びたいと思います。32節の離別に関する教えは、マタイ19章のときに学びたいと思います。

1.人を殺すな

 「人を殺してはならない」というのは、十戒の6番目です。当時の人たちは実際に人を殺さない限りは、律法をやぶったことにはならないと考えていました。ユダヤ教の指導者もそう教えたし、人々もそのように聞いていました。ところがイエス様は実際に殺人を犯さなくても、以下のことによって、さばかれ燃えるゲヘナに投げ込まれると言われました。まず、1つ目は、兄弟に向かって腹を立てるなら裁きを受けるとあります。英語の聖書では怒るとか恨みを持つという意味の単語が使われています。もし、このような悪い思いを持ち続けるならば、機会があったとき相手を殺してしまうかもしれません。昔、明智光秀という武将がいましたが、織田信長からさんざんいじめられました。その恨みが積もって、「本能寺の変」になったのではないでしょうか?2つ目は、兄弟に向かって「能なし」と言う者は最高議会に引き渡されるとあります。原文は「ラカ」ですが、人を侮辱しながら、吐き捨てて言うことばです。日本語では「役立たず」「カス」「ボケ」などのように人を侮辱することばです。3つ目は人に「ばか者」と言う者は燃えるゲヘナに投げ込まれるということです。英語の聖書ではfoolです。実際、アメリカ人はstupidとか、idiotをより多く使うかもしれません。おそらく、スラングではもっとひどい言葉があるでしょう。つまり、心で恨みを抱いたり、こういう馬鹿にするようなことばでも、さばかれて燃えるゲヘナに投げ込まれるのです。私などは何百回、何千回、投げ込まれたら良いでしょうか?

24節以降は和解をする必要性を解いています。「供え物を祭壇にささげるよりも、まず、兄弟と仲直りしなさい」と言われています。これは現代風に言いますと、「聖日礼拝に来る前に、兄弟姉妹と仲直りしなさいよ」ということです。しかし、これはどのくらい守られているでしょうか?たとば、夫婦が礼拝の出がけに、小さなことで喧嘩をしたとします。二人は敬虔なクリスチャンなので何があっても礼拝を守るために教会に向かいます。途中、二人ともぶすっとして会話もありません。教会に来ると急にニコッとなり「ハレルヤ!」と兄弟姉妹とあいさつし、礼拝をささげます。家に帰るとまたぶすっとなります。もし、そうであるならイエス様の教えを守っていないということになります。神さまはそういう礼拝は受け入れないかもしれません。岸義紘先生が牧師になってまもない頃、アメリカ人宣教師の通訳をなさられたそうです。ある夜の集会の最初の部分で賛美をしていました。すると、急に宣教師が岸先生の所に来て「ミスター・キシ、家に帰ります。10分位で戻って来ますから。他の歌を歌って待っていて下さい。」「ああ、腹をやられているなー」と岸先生は直感しました。10分位で先生が帰って来て、いつものように話をされて、いつものように集会が終りました。人々が帰ったあとで先生に聞きました。「先生、腹の具合はどうですか?」。そしたら、腹はなんでもないって言いました。「何で家へ帰られたんですか。」「実は、この集会に来る前、家内と食事をしていて、夫婦喧嘩になりました。夫婦喧嘩のときには、家内には言っていけないことが34つあるんですけど、私は腹が立ったからみな、家内にそれを言いました。そしたら家内が泣き出した。私は時間が来たから、勝ったと思って集会に来たんです。ところが、いよいよ皆さんの前に立って話をするという番になって、私は自分の心の中に、何の力もないことに気がつきました。皆さんの前には立てない。家に帰って謝って来ました。」岸先生は、教会の帰り自転車をこぎながら、ハラハラ涙が止まりませんでした。「偉い先生だなー、結婚生活もう25年、夫婦喧嘩したぐらいで、奥さんの所に謝りに帰った。偉い先生だなー」って思ったそうです。その方は無名の宣教師でありましたが、岸先生は、それまで、偉大で有名な牧師になりたいと考えていました。しかし、その夜、神が喜んで用いている人とはこう先生のことだ。人間観、人生観が変わったそうです。

 2526節には、和解の緊急性について記されています。裁判官というのは神さまのことでしょう。また、下役とはさばきを司る御使いかもしれません。マタイ18章には「獄吏に引き渡す」とも書いてあります。順番からしてこうです。まず、ある人が何かのことで侮辱されたか、ことばで「能なし」「ばか者」言われたかもしれません。それで、裁判官である神さまのところに訴えに行こうとしています。おそらく、その人は神殿に行って祈るつもりなのでしょう。しかし、イエス様は「その人が神さまに訴える前に、その人の所へ行ってお詫びして、仲良くなりなさい」と言っているのです。もし、その人が裁判官なる神さまに訴えたならば、神さまは下役に渡します。そうすると、「あなたは牢獄に閉じ込められて、最後の1コドラントを支払うまでは、そこからは出られない」と言うのです。当時は、牢の中では、いろんな罰を受け、拷問されたり、あるいは強制労働をさせられたでしょう。しかし、現代の私たちはこの記事を読んでどう思うでしょうか?被害者と加害者がいますが、加害者がこの記事を読んで、神を恐れ、悔い改めるのが最善であります。ところが、靴で踏んだ方と踏まれた方を考えるとき、踏んだ方はあまりいたみを感じません。踏まれた方、つまり被害者は「ひどいことをされた」と恨みを持っているものです。もし、この記事を被害者の立場の人が読んだらどうでしょうか?「ああ、神さまはちゃんとさばいてくださるお方なんだ。最後の1コドラントを支払うまでは、その人が牢獄から出られないんだ」と分かったならどうでしょう?復讐したい気持ちがなくなります。そして、神さまにすべてを委ねようという気持ちになるでしょう。

第一のポイントから学ぶことは何でしょう?実際にその人を殺していなくても、腹を立てたり、悪いことばによって殺人を犯すこともあるんだということを知るべきです。実際に、怒り、憎しみ、そして悪いことばは、その人を殺してしまいます。いじめは学校だけではなく、職場でもあります。昨年末に、関西の機動隊の職員が2名自殺したというニュースを聞きました。遺書には上司からいじめられたと書いてあったようです。このことは私たちが被害者だけではなく、加害者にもなりうるんだということです。テレビのニュースには毎日のように人が殺される事件が流れています。憎悪のもつれから人が殺されています。子どもが虐待のゆえに命を奪われています。「え、この間も同じようなことがあった」と麻痺するくらい日常的になっています。日本人には「人を殺してはならない」という十戒を覚えなければなりません。怒り、憎しみ、悪い言葉でも人を殺していることになるんだということを気づいて、恵みのうちを歩みたいと思います。

 

 

2.姦淫するな

 マタイ5:27「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。「姦淫するな」は十戒の7番目です。弟子たちと群衆は「この戒めを破るのは、実際に姦淫した時だろう」と理解していたでしょう。でも、このみことばを一気に読むとわかりますが、情欲という思いを抱くこと、目で見ること、次は右の手で行うことも姦淫の罪にあたるんだと言うことです。私たちは思うだけだったら良いでしょう?見るだけだったら良いでしょう?手で触るくらいなら良いでしょう?そのように考えるかもしれません。しかし、この十戒の本当の意味は、もっと厳しいということです。もし、これが標準であるなら、すべての人、特に成人男性は全員アウトです。イエス様は「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのだ」と言われました。私たち男性は満員電車で、あるいは階段を上る時、あるいは何かの拍子で、ちらっと目に入るときがあります。これは自然に目に入ったので、仕方のないことです。しかし、イエス様は「情欲をいだいて見る」と言っています。ですから、もう一度、意識的に、汚れた目で見るならば、それは姦淫の罪なんだということです。マルチン・ルターは、「鳥が自分の頭の上を飛ぶことは妨げることはできない。それは鳥の権利だから。しかし、鳥が頭にとまって巣をつくることは妨げることはできる」と言いました。まさしく、情欲という思いが自分の中に、久しくとどまってしまうならどうでしょうか?おそらく、次の段階へと進むでしょう。そして、誘惑が訪れたときに勝つことができなくなるでしょう。多くの男性は見るだけだったら良いだろうということで、ポルノ雑誌やAV、インターネットの画像を見ます。私もインターネットで画像をさがしているとき入ってきます。でも、私は「お気に入り」にはしません。「おお、主よ、アクシデントでした。お許しください」と言います。しかし、世の中には隠し撮りとか、いわゆる「盗撮」を趣味にしている人たちがいます。それをウェブに投稿しているとんでもない輩がいます。それは完全に罪であり、女性の人権を侵害しています。実際に痴漢とか姦淫を犯す人というのは、この思いが姦淫の罪によって支配されている人です。イエス様はまず、思いから勝利しなければならないことを教えおられるのです。

 マタイ5:29-30 「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」もし、右の目が情欲をいだいて見たら、その右の目をえぐりだして捨てろというのです。もし、右の手が姦淫を罪を犯させるなら、切って捨てろというのです。なぜなら、からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは良いからです。ゲヘナというのはゴミ焼却炉という意味でありましたが、これは地獄の火ということです。罪を犯した者は神さまによってさばかれ、地獄に投げ込まれるということです。イエス様は「たとい、右目を失っても、右手を失って、からだ全体がゲヘナに投げ込まれるよりは良い」と言われました。もし、その人が右目を失ったら、地上ではしばらくは不自由でしょう。しかし、御国に入ったなら、右目が与えられます。もし、その人が右手を失ったら、地上ではしばらくは不自由でしょう。しかし、御国に入ったなら、右手が与えられます。しかし、右目や右腕を惜しんで、体全体が地獄に投げ込まれたならもう望みがありません。それだけ、天国に入ることが何よりもかけがえのないことなのです。

 この亀有教会が創立したときに、鳥海力さんという役員さんがいました。数年前、天に召され、土浦の教会で葬儀が行われました。そのとき、鳥海力さんの証を、司式の牧師が紹介してくださいました。鳥海力さんは亀有の日立工場で働いていました。ところが、19歳のとき機械に挟まれて、片腕をなくしてしまいました。右腕か、左腕か忘れましたが、若い青年が突然、障碍者になったわけです。その後、彼は亀有教会に来て、イエス様を信じて洗礼を受けました。教会の役員さんになり、日立建機が土浦に移動したので、そちらに引っ越したのだと思います。日本基督教団土浦教会に出席していましたが、なんと籍は亀有にずっと置きっぱなしだったのです。証によると、「私は19歳のとき片腕をなくしました。教会に来て聖書を読んだら私のためにあるようなことばを発見しました。マタイ5もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです』とあります。私は片腕を失いましたが、イエス様を信じて、永遠のいのちが与えられました。これほどすばらしいことはありません。」そのような証でした。もう1つ証を紹介したいと思います。私は神学生のとき、東村山の全生園に慰問に行ったことがあります。昔は、らい病と言われましたがハンセン病はとっても怖い病気でした。そこに、70才位の女性が来られて証をして下さいました。「私は、両親から大変可愛がられ、美しい着物をよく着せられました。17才、ある方と婚約しました。しかし、ハンセン病にかかり、目が見えなくなりました。突然のことですから、婚約が破棄になりました。しかし、目だけで済みました。そのまま、ハンセン病にならないで、幸せな結婚をしていたなら、高慢な私はおそらく、イエス様には出会わなかったでしょう。目が失われたことによって、かけがえのない救いに預かり、天国に入ることができるようになりました。」本当にうれしそうに語ったのを覚えています。私たちは、天国に入るため、何を犠牲にしたでしょうか。あるいは、何を犠牲にしなければならないと思うでしょうか。ソロモンは「地上のものは過ぎ去り、空の空である」と言いました。私たちは、たとえ地上で失うものがあっても、永遠の御国に住まう方を選びたいと思います。

3.律法の再解釈

 イエス様は十戒を取り上げて、何を教えたかったのでしょうか?これから、7章まで、まだ、続きますが。新約聖書の光から見ますと、律法の第一の目的は守るためにあるのではありません。当時のユダヤ人は律法を守り、行うことによって神からの義が得られると考えていました。ところがいろんな不都合が出てくるので、解釈の仕方を変えました。つまり、自分たちが、守れるようにしたのです。しかし、イエス様は「私はあなたがたに言います」と、律法の精神、律法の本当の意味を教えました。たとえば、「人を殺すな」という戒めがありました。当時の人たちは実際に人を殺さなければ殺人にならないと考えていました。この世の法律でも、そうであろうと思います。しかし、イエス様は人に腹を立てたり、馬鹿者と言っただけでも殺人になると言われました。そうなるとこの律法から免れて、義とされる人は一人もいなくなります。また、「姦淫するな」という戒めがありました。当時の人たちは実際に姦淫を犯さなければ、罪にならないと考えていました。この世の法律でも、そうであろうと思います。ところが、イエス様は思っただけでも罪になる、変な目で見ただけでも罪になると言いました。そうなると、この律法から免れて、義とされる人は一人もいなくなります。では、律法の精神、律法の本当の意味とは何なのでしょうか?それは、「あなたには罪がありますよ、あなたは不完全ですよ」ということを教えているのです。だから、使徒パウロは「律法は私たちをキリストへ導くための養育係である」(ガラテヤ324)と言っています。つまり、「自分の行いでは神の前に義とされない、私は罪人である。だから、イエス様が私の罪のために十字架にかかられたのだ。イエス様を救い主として信じます」となるのです。そうすると、神さまは信仰よる義をその人に与えてくださるのです。ハレルヤ!

 では、クリスチャンになったら、これらの律法は不要なのかというとそうではありません。律法はいわば、道の両脇にあるガードレールのようなものです。もし、車がガードレールを飛び越えたならば、大事故につながるでしょう。ありがたいことに、道路はある程度の余裕がありますので、ちゃんと前を見ているなら、ガードレールにぶつかることがありません。しかし、現代の人たちは、神さまが与えた律法を全く無視し、守るどころか、平気で破っています。だから、いろんな不幸な出来事がその人たちに襲うのです。律法は英語でlaw、法則という意味もあります。私たちは自然科学には法則や原理があることを認めています。たとえば、万有引力に勝つことができません。ビルとか橋の上など、高いところにいたとすれば、落ちないように気をつけるべきです。神さまは宇宙や自然界の法則も作られましたが、道徳的な法則も作られました。「いや、私はそんな法則は不要です、いりません」と無視したとします。するとどうなるでしょう?高い所から落ちると怪我をするか、もしくは命を落とします。同じようなことが、道徳の法則をやぶると起こるということです。法則というのは、時代が変わろうとも、国が変わろうとも、不変であるということを覚えなければなりません。人々は「時代が違う、時代遅れだ」と言うかもしれません。でも、宇宙や自然界の法則が不変であるように、道徳的な法則も不変であることを覚えなければなりません。

 最後に、私たちは神さまを良い意味で恐れるということを学ぶ必要があります。神さまは実際の行いではなく、私たちの思いを知っておられるということです。私たちの思い描く、イメージもご存じだということです。また、私たちが平然を装っていても、憤りや恨みや憎しみがあるかもしれません。そういう思いも神さまはご存じだということです。詩篇1391-4「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。」、24節「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」アーメン。ですから、私たちは対人ではなく、対神さまとの関係をいつもチェックし、神さまの御目のもとで暮らす必要があります。神さまを恐れるということは、びくびくして縮こまるということではありません。私たちはイエス・キリスト贖いによって過去、現在、また将来犯すであろう罪も赦されています。前もって罪の代価が支払われているのです。キリストにあって神さまは私たちの父であり、私たちのことをとても愛しておられます。私たちが罪を犯さないのは罰を恐れるからではなく、神さまを愛しているからです。でも、愛があれば、罪の法則から免れるかというとそうではありません。法則は法則として存在していますが、私たちはイエス様の恵みによって救い出され、もとの道に立ち返ることができるということです。一番重要なことは、端的に言うと、神さまの前に正直に生きるということです。

 先日、テレビを見ていたらこんな質問がありました。「あなたは本当の自分に戻れる場所がありますか」。その番組では2,500人の人たちが「あります」と答え、750人くらいの人たちが「ありません」と答えました。私はそれを見て、「ああ、私はいつも本当の自分で生きているなー」と感動しました。これを家内に伝えたら、何の反応もありませんでした。おそらく、私は思ったことを何でも口に出すし、罪のまま生きているからかもしれません。これも問題ですが、少しでも聖なる神さまに近づきたいと思います。私たちの神さまは愛なる神さまです。同時に、私たちの神さまは聖なる神さまです。そして、イエス様は私たちの完全な仲介者として、弁護者として共におられることを感謝したいと思います。

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