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2016年2月26日 (金)

律法の再解釈 マタイ5:21-32 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.2.28

 律法というのは十戒を中心とする様々な神から人への要求であり、また戒めです。当時の人たちはパリサイ人や律法学者たちから、律法の細かい解釈を受けていました。彼らはゲマラやミシュナという律法の解説書や言い伝えを持っていました。ところが、律法の精神から離れ、形式的であったり、言い逃れ的なものもありました。イエス様は「○○とあなたがたは聞いています。しかし、私はあなたがたに言います」というくだりで、律法の本当の意味を教えておられます。きょうは十戒の6番目と7番目から学びたいと思います。32節の離別に関する教えは、マタイ19章のときに学びたいと思います。

1.人を殺すな

 「人を殺してはならない」というのは、十戒の6番目です。当時の人たちは実際に人を殺さない限りは、律法をやぶったことにはならないと考えていました。ユダヤ教の指導者もそう教えたし、人々もそのように聞いていました。ところがイエス様は実際に殺人を犯さなくても、以下のことによって、さばかれ燃えるゲヘナに投げ込まれると言われました。まず、1つ目は、兄弟に向かって腹を立てるなら裁きを受けるとあります。英語の聖書では怒るとか恨みを持つという意味の単語が使われています。もし、このような悪い思いを持ち続けるならば、機会があったとき相手を殺してしまうかもしれません。昔、明智光秀という武将がいましたが、織田信長からさんざんいじめられました。その恨みが積もって、「本能寺の変」になったのではないでしょうか?2つ目は、兄弟に向かって「能なし」と言う者は最高議会に引き渡されるとあります。原文は「ラカ」ですが、人を侮辱しながら、吐き捨てて言うことばです。日本語では「役立たず」「カス」「ボケ」などのように人を侮辱することばです。3つ目は人に「ばか者」と言う者は燃えるゲヘナに投げ込まれるということです。英語の聖書ではfoolです。実際、アメリカ人はstupidとか、idiotをより多く使うかもしれません。おそらく、スラングではもっとひどい言葉があるでしょう。つまり、心で恨みを抱いたり、こういう馬鹿にするようなことばでも、さばかれて燃えるゲヘナに投げ込まれるのです。私などは何百回、何千回、投げ込まれたら良いでしょうか?

24節以降は和解をする必要性を解いています。「供え物を祭壇にささげるよりも、まず、兄弟と仲直りしなさい」と言われています。これは現代風に言いますと、「聖日礼拝に来る前に、兄弟姉妹と仲直りしなさいよ」ということです。しかし、これはどのくらい守られているでしょうか?たとば、夫婦が礼拝の出がけに、小さなことで喧嘩をしたとします。二人は敬虔なクリスチャンなので何があっても礼拝を守るために教会に向かいます。途中、二人ともぶすっとして会話もありません。教会に来ると急にニコッとなり「ハレルヤ!」と兄弟姉妹とあいさつし、礼拝をささげます。家に帰るとまたぶすっとなります。もし、そうであるならイエス様の教えを守っていないということになります。神さまはそういう礼拝は受け入れないかもしれません。岸義紘先生が牧師になってまもない頃、アメリカ人宣教師の通訳をなさられたそうです。ある夜の集会の最初の部分で賛美をしていました。すると、急に宣教師が岸先生の所に来て「ミスター・キシ、家に帰ります。10分位で戻って来ますから。他の歌を歌って待っていて下さい。」「ああ、腹をやられているなー」と岸先生は直感しました。10分位で先生が帰って来て、いつものように話をされて、いつものように集会が終りました。人々が帰ったあとで先生に聞きました。「先生、腹の具合はどうですか?」。そしたら、腹はなんでもないって言いました。「何で家へ帰られたんですか。」「実は、この集会に来る前、家内と食事をしていて、夫婦喧嘩になりました。夫婦喧嘩のときには、家内には言っていけないことが34つあるんですけど、私は腹が立ったからみな、家内にそれを言いました。そしたら家内が泣き出した。私は時間が来たから、勝ったと思って集会に来たんです。ところが、いよいよ皆さんの前に立って話をするという番になって、私は自分の心の中に、何の力もないことに気がつきました。皆さんの前には立てない。家に帰って謝って来ました。」岸先生は、教会の帰り自転車をこぎながら、ハラハラ涙が止まりませんでした。「偉い先生だなー、結婚生活もう25年、夫婦喧嘩したぐらいで、奥さんの所に謝りに帰った。偉い先生だなー」って思ったそうです。その方は無名の宣教師でありましたが、岸先生は、それまで、偉大で有名な牧師になりたいと考えていました。しかし、その夜、神が喜んで用いている人とはこう先生のことだ。人間観、人生観が変わったそうです。

 2526節には、和解の緊急性について記されています。裁判官というのは神さまのことでしょう。また、下役とはさばきを司る御使いかもしれません。マタイ18章には「獄吏に引き渡す」とも書いてあります。順番からしてこうです。まず、ある人が何かのことで侮辱されたか、ことばで「能なし」「ばか者」言われたかもしれません。それで、裁判官である神さまのところに訴えに行こうとしています。おそらく、その人は神殿に行って祈るつもりなのでしょう。しかし、イエス様は「その人が神さまに訴える前に、その人の所へ行ってお詫びして、仲良くなりなさい」と言っているのです。もし、その人が裁判官なる神さまに訴えたならば、神さまは下役に渡します。そうすると、「あなたは牢獄に閉じ込められて、最後の1コドラントを支払うまでは、そこからは出られない」と言うのです。当時は、牢の中では、いろんな罰を受け、拷問されたり、あるいは強制労働をさせられたでしょう。しかし、現代の私たちはこの記事を読んでどう思うでしょうか?被害者と加害者がいますが、加害者がこの記事を読んで、神を恐れ、悔い改めるのが最善であります。ところが、靴で踏んだ方と踏まれた方を考えるとき、踏んだ方はあまりいたみを感じません。踏まれた方、つまり被害者は「ひどいことをされた」と恨みを持っているものです。もし、この記事を被害者の立場の人が読んだらどうでしょうか?「ああ、神さまはちゃんとさばいてくださるお方なんだ。最後の1コドラントを支払うまでは、その人が牢獄から出られないんだ」と分かったならどうでしょう?復讐したい気持ちがなくなります。そして、神さまにすべてを委ねようという気持ちになるでしょう。

第一のポイントから学ぶことは何でしょう?実際にその人を殺していなくても、腹を立てたり、悪いことばによって殺人を犯すこともあるんだということを知るべきです。実際に、怒り、憎しみ、そして悪いことばは、その人を殺してしまいます。いじめは学校だけではなく、職場でもあります。昨年末に、関西の機動隊の職員が2名自殺したというニュースを聞きました。遺書には上司からいじめられたと書いてあったようです。このことは私たちが被害者だけではなく、加害者にもなりうるんだということです。テレビのニュースには毎日のように人が殺される事件が流れています。憎悪のもつれから人が殺されています。子どもが虐待のゆえに命を奪われています。「え、この間も同じようなことがあった」と麻痺するくらい日常的になっています。日本人には「人を殺してはならない」という十戒を覚えなければなりません。怒り、憎しみ、悪い言葉でも人を殺していることになるんだということを気づいて、恵みのうちを歩みたいと思います。

 

 

2.姦淫するな

 マタイ5:27「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。「姦淫するな」は十戒の7番目です。弟子たちと群衆は「この戒めを破るのは、実際に姦淫した時だろう」と理解していたでしょう。でも、このみことばを一気に読むとわかりますが、情欲という思いを抱くこと、目で見ること、次は右の手で行うことも姦淫の罪にあたるんだと言うことです。私たちは思うだけだったら良いでしょう?見るだけだったら良いでしょう?手で触るくらいなら良いでしょう?そのように考えるかもしれません。しかし、この十戒の本当の意味は、もっと厳しいということです。もし、これが標準であるなら、すべての人、特に成人男性は全員アウトです。イエス様は「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのだ」と言われました。私たち男性は満員電車で、あるいは階段を上る時、あるいは何かの拍子で、ちらっと目に入るときがあります。これは自然に目に入ったので、仕方のないことです。しかし、イエス様は「情欲をいだいて見る」と言っています。ですから、もう一度、意識的に、汚れた目で見るならば、それは姦淫の罪なんだということです。マルチン・ルターは、「鳥が自分の頭の上を飛ぶことは妨げることはできない。それは鳥の権利だから。しかし、鳥が頭にとまって巣をつくることは妨げることはできる」と言いました。まさしく、情欲という思いが自分の中に、久しくとどまってしまうならどうでしょうか?おそらく、次の段階へと進むでしょう。そして、誘惑が訪れたときに勝つことができなくなるでしょう。多くの男性は見るだけだったら良いだろうということで、ポルノ雑誌やAV、インターネットの画像を見ます。私もインターネットで画像をさがしているとき入ってきます。でも、私は「お気に入り」にはしません。「おお、主よ、アクシデントでした。お許しください」と言います。しかし、世の中には隠し撮りとか、いわゆる「盗撮」を趣味にしている人たちがいます。それをウェブに投稿しているとんでもない輩がいます。それは完全に罪であり、女性の人権を侵害しています。実際に痴漢とか姦淫を犯す人というのは、この思いが姦淫の罪によって支配されている人です。イエス様はまず、思いから勝利しなければならないことを教えおられるのです。

 マタイ5:29-30 「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」もし、右の目が情欲をいだいて見たら、その右の目をえぐりだして捨てろというのです。もし、右の手が姦淫を罪を犯させるなら、切って捨てろというのです。なぜなら、からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは良いからです。ゲヘナというのはゴミ焼却炉という意味でありましたが、これは地獄の火ということです。罪を犯した者は神さまによってさばかれ、地獄に投げ込まれるということです。イエス様は「たとい、右目を失っても、右手を失って、からだ全体がゲヘナに投げ込まれるよりは良い」と言われました。もし、その人が右目を失ったら、地上ではしばらくは不自由でしょう。しかし、御国に入ったなら、右目が与えられます。もし、その人が右手を失ったら、地上ではしばらくは不自由でしょう。しかし、御国に入ったなら、右手が与えられます。しかし、右目や右腕を惜しんで、体全体が地獄に投げ込まれたならもう望みがありません。それだけ、天国に入ることが何よりもかけがえのないことなのです。

 この亀有教会が創立したときに、鳥海力さんという役員さんがいました。数年前、天に召され、土浦の教会で葬儀が行われました。そのとき、鳥海力さんの証を、司式の牧師が紹介してくださいました。鳥海力さんは亀有の日立工場で働いていました。ところが、19歳のとき機械に挟まれて、片腕をなくしてしまいました。右腕か、左腕か忘れましたが、若い青年が突然、障碍者になったわけです。その後、彼は亀有教会に来て、イエス様を信じて洗礼を受けました。教会の役員さんになり、日立建機が土浦に移動したので、そちらに引っ越したのだと思います。日本基督教団土浦教会に出席していましたが、なんと籍は亀有にずっと置きっぱなしだったのです。証によると、「私は19歳のとき片腕をなくしました。教会に来て聖書を読んだら私のためにあるようなことばを発見しました。マタイ5もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです』とあります。私は片腕を失いましたが、イエス様を信じて、永遠のいのちが与えられました。これほどすばらしいことはありません。」そのような証でした。もう1つ証を紹介したいと思います。私は神学生のとき、東村山の全生園に慰問に行ったことがあります。昔は、らい病と言われましたがハンセン病はとっても怖い病気でした。そこに、70才位の女性が来られて証をして下さいました。「私は、両親から大変可愛がられ、美しい着物をよく着せられました。17才、ある方と婚約しました。しかし、ハンセン病にかかり、目が見えなくなりました。突然のことですから、婚約が破棄になりました。しかし、目だけで済みました。そのまま、ハンセン病にならないで、幸せな結婚をしていたなら、高慢な私はおそらく、イエス様には出会わなかったでしょう。目が失われたことによって、かけがえのない救いに預かり、天国に入ることができるようになりました。」本当にうれしそうに語ったのを覚えています。私たちは、天国に入るため、何を犠牲にしたでしょうか。あるいは、何を犠牲にしなければならないと思うでしょうか。ソロモンは「地上のものは過ぎ去り、空の空である」と言いました。私たちは、たとえ地上で失うものがあっても、永遠の御国に住まう方を選びたいと思います。

3.律法の再解釈

 イエス様は十戒を取り上げて、何を教えたかったのでしょうか?これから、7章まで、まだ、続きますが。新約聖書の光から見ますと、律法の第一の目的は守るためにあるのではありません。当時のユダヤ人は律法を守り、行うことによって神からの義が得られると考えていました。ところがいろんな不都合が出てくるので、解釈の仕方を変えました。つまり、自分たちが、守れるようにしたのです。しかし、イエス様は「私はあなたがたに言います」と、律法の精神、律法の本当の意味を教えました。たとえば、「人を殺すな」という戒めがありました。当時の人たちは実際に人を殺さなければ殺人にならないと考えていました。この世の法律でも、そうであろうと思います。しかし、イエス様は人に腹を立てたり、馬鹿者と言っただけでも殺人になると言われました。そうなるとこの律法から免れて、義とされる人は一人もいなくなります。また、「姦淫するな」という戒めがありました。当時の人たちは実際に姦淫を犯さなければ、罪にならないと考えていました。この世の法律でも、そうであろうと思います。ところが、イエス様は思っただけでも罪になる、変な目で見ただけでも罪になると言いました。そうなると、この律法から免れて、義とされる人は一人もいなくなります。では、律法の精神、律法の本当の意味とは何なのでしょうか?それは、「あなたには罪がありますよ、あなたは不完全ですよ」ということを教えているのです。だから、使徒パウロは「律法は私たちをキリストへ導くための養育係である」(ガラテヤ324)と言っています。つまり、「自分の行いでは神の前に義とされない、私は罪人である。だから、イエス様が私の罪のために十字架にかかられたのだ。イエス様を救い主として信じます」となるのです。そうすると、神さまは信仰よる義をその人に与えてくださるのです。ハレルヤ!

 では、クリスチャンになったら、これらの律法は不要なのかというとそうではありません。律法はいわば、道の両脇にあるガードレールのようなものです。もし、車がガードレールを飛び越えたならば、大事故につながるでしょう。ありがたいことに、道路はある程度の余裕がありますので、ちゃんと前を見ているなら、ガードレールにぶつかることがありません。しかし、現代の人たちは、神さまが与えた律法を全く無視し、守るどころか、平気で破っています。だから、いろんな不幸な出来事がその人たちに襲うのです。律法は英語でlaw、法則という意味もあります。私たちは自然科学には法則や原理があることを認めています。たとえば、万有引力に勝つことができません。ビルとか橋の上など、高いところにいたとすれば、落ちないように気をつけるべきです。神さまは宇宙や自然界の法則も作られましたが、道徳的な法則も作られました。「いや、私はそんな法則は不要です、いりません」と無視したとします。するとどうなるでしょう?高い所から落ちると怪我をするか、もしくは命を落とします。同じようなことが、道徳の法則をやぶると起こるということです。法則というのは、時代が変わろうとも、国が変わろうとも、不変であるということを覚えなければなりません。人々は「時代が違う、時代遅れだ」と言うかもしれません。でも、宇宙や自然界の法則が不変であるように、道徳的な法則も不変であることを覚えなければなりません。

 最後に、私たちは神さまを良い意味で恐れるということを学ぶ必要があります。神さまは実際の行いではなく、私たちの思いを知っておられるということです。私たちの思い描く、イメージもご存じだということです。また、私たちが平然を装っていても、憤りや恨みや憎しみがあるかもしれません。そういう思いも神さまはご存じだということです。詩篇1391-4「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。」、24節「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」アーメン。ですから、私たちは対人ではなく、対神さまとの関係をいつもチェックし、神さまの御目のもとで暮らす必要があります。神さまを恐れるということは、びくびくして縮こまるということではありません。私たちはイエス・キリスト贖いによって過去、現在、また将来犯すであろう罪も赦されています。前もって罪の代価が支払われているのです。キリストにあって神さまは私たちの父であり、私たちのことをとても愛しておられます。私たちが罪を犯さないのは罰を恐れるからではなく、神さまを愛しているからです。でも、愛があれば、罪の法則から免れるかというとそうではありません。法則は法則として存在していますが、私たちはイエス様の恵みによって救い出され、もとの道に立ち返ることができるということです。一番重要なことは、端的に言うと、神さまの前に正直に生きるということです。

 先日、テレビを見ていたらこんな質問がありました。「あなたは本当の自分に戻れる場所がありますか」。その番組では2,500人の人たちが「あります」と答え、750人くらいの人たちが「ありません」と答えました。私はそれを見て、「ああ、私はいつも本当の自分で生きているなー」と感動しました。これを家内に伝えたら、何の反応もありませんでした。おそらく、私は思ったことを何でも口に出すし、罪のまま生きているからかもしれません。これも問題ですが、少しでも聖なる神さまに近づきたいと思います。私たちの神さまは愛なる神さまです。同時に、私たちの神さまは聖なる神さまです。そして、イエス様は私たちの完全な仲介者として、弁護者として共におられることを感謝したいと思います。

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2016年2月19日 (金)

地の塩、世の光 マタイ5:13-20 亀有教会牧師鈴木靖尋

 きょうの箇所を学ぶ前に、「この世」ということを正しく知る必要があります。そうでないと世直しのため社会活動に奔走し、本来の目的からそれてしまう恐れがあるからです。ここで言われている「地」とか「世界」は「この世」のことを言っています。聖書で「この世」とは神から離れた人たちのことを指しています。しかも、サタンがこの世の人たちを支配して、神さまからできるだけ離そうとやっきになっています。まもなく、この世はキリストの再臨によって終わり、御国がやってきます。私たちクリスチャンはこの世のものではなく、神さまに属している者たちです。しかし、世の終わりが来るまで、この地上で暮らす必要があります。きょうの箇所は神から離れ、罪に染まったこの世で、クリスチャンはどう生きるべきかを教えています。 

1.地の塩

 塩というのはいろんな役目があります。まず、料理においては、塩を欠かすことができません。塩は食材の味を引き出す効果があります。でも、あまり入れすぎると塩辛くなり、食べることができません。もう1つは腐敗を留める役割があります。冷蔵庫がない時代は肉、魚、野菜を塩漬けして保存しました。これと関係があるかどうかわかりませんが、何かきよめるために塩をまいたりします。あんまり行き過ぎると迷信ぽくなります。塩自体に何かあると考えてはいけません。では、イエス様は塩が持っているどのような効果を教えておられるのでしょうか?マタイ513「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」まず、知っておかなければならないのは、この塩がどういう塩かということです。当時は岩塩という塩を用いていました。おそらく、人々は岩塩の塊を紐で結び、鍋などに何度かくぐらせたのだと思います。数回、入れては上げて、繰り返すと塩が溶け込んでいきます。「おっ、ちょうど良いな」というところでやめます。そして、紐つきの岩塩を台所にぶらさげておきます。何度も使っていると、岩塩に含まれていた塩がなくなるでしょう。すると紐をはずして、道端にぽいっと捨てます。塩気をなくした岩塩はただの石ころです。だから、イエス様は「塩気をなくしたら、もう何の役にも立たず、外に捨てられ、人々に踏みつけられる」とおっしゃっているのです。

 さて、これを教えとしてどのように解釈し適用すべきなのでしょうか?この世とは神から離れ、罪に染まっている人々のことです。しかし、イエス様が神の国をもたらしにやってきました。イエス様の願いは2つあります。第一は何とかこの世の中から、ご自分の救いを受けて、神の国の入る人が起こされるということです。第二は、この世の罪が少しでも軽減され、神のさばきの日が延長されるということです。そうすれば、結果的に神の国に入る人が増えるわけです。聖書には「この世が永遠の理想郷(ユートピア)になり、人々が幸せに暮らす」とは書いてありません。では、クリスチャンはこの世を捨てて、厭世的に暮らすのかというとそうではありません。イエス様が「あなたがたは地の塩です」と言われました。それは、この世に入り込んで、少しでも腐敗を留めるということです。難しいのは、この世に入り込むと、ミイラ取がミイラになる恐れがあるということです。すっかり、自分の目的を忘れ、この世の喜び、この世の魅力にどっぷり浸かってしまうかもしれません。旧約聖書ではロトがその一人です。ロトはアブラハムから離れ、ソドムに向かいました。なんとそこは「主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていました」(創世記1310)。ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人でありました。ロトはその後どうなったのでしょうか?ロトはその人たちのことを憂いてはいましたが、その地を離れることはしませんでした。主がその町を滅ぼすとき、御使いを遣わして非難させました。ところが、ロトの妻は後ろを振り返ったので塩の柱になってしまいました。この世に未練があったからかもしれません。新約聖書ではパウロの弟子デマスです。彼は最初、パウロの同労者としてよく働いていました。しかし、パウロの最後の手紙Ⅱテモテには「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行った」と書いてあります。ヤコブは「世を愛することは、神に敵することである」と言っています。ということは、この世の罪を留めるために、地の塩になり続けることは、容易ではないということです。油断していると、塩けのない塩となり、外に捨てられて、人々に踏みつけられてしまうでしょう。

 では、どうしたら自分の塩けをなくさないで、地の塩になるのでしょうか?たとえとしては、真逆な感じがしますが、海にいる魚のことを考えてみたいと思います。魚は塩辛い海に住んでいても、魚自体が塩辛いわけではありません。その証拠にお刺身を食べるとき、お醤油が必要です。なぜ、魚が海水の中にいるのに塩辛くないのでしょうか?浸透膜によって、浸透厚の高い海水を調整しているからです。このことを反対に考えるとどうでしょう?自分の塩けをなくさないで、かつ、この世に適度の塩けを与える法はないのでしょうか?私はよく「境界線」(バウンダリー)ということを申し上げています。正しい境界線があれば、良いものは自分の中に取り入れ、悪いものは遮断することができます。私たちも罪の中に住んでいますが、罪を自分に取り入れず、きよいものを出すということが可能なのではないでしょうか?日本は個よりも、集団の国なので、人と違うことをしているといじめを受けたり孤立します。そういう意味では、クリスチャンとして罪を犯さないで、むしろ正しいことをしていくということは大変かもしれません。ですから私たちが塩けをなくさない塩でいるためには、常に神さまとみことばに留まる必要があります。このような公の礼拝も大切ですが、個人で聖書を読んで神さまと交わりの時を持つべきです。そして、聖霊様と一緒にこの世に出るとき、神さまからの塩けが出てくるのではないでしょうか?私たちはこの世から離れて暮らすことはできません。かといって、この世にどっぷりと浸かると塩けをなくして、役に立たなくなります。ですから、この世で塩けを保ちながら生きるということは、とてもダイナミックな生き方なんだということです。イエス様は「地の塩になれ」と言ったのではなく、「あなたがたは地の塩である」と言われたことに注目したいと思います。

2.世界の光


 マタイ514「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。」地の塩は、どちらかと言うと自分を隠す消極的なイメージがありました。しかし、世界の光は隠れるのではなく、むしろ照らすという積極的なイメージがあります。イエス様は「山の上にある町は隠れる事ができません」と言われました。熱海などに行くとわかりますが、山の上までビルやお家が建っています。夜になると灯りが付くので、「あそこにも家がある」「あそこにも家がある」と分かります。「山の上にある町」ですから、たくさん灯りをともしているということです。そのため、山の上にある町は隠れることができません。戦争中は空襲警報というのがあり、カーテンを閉め、電気を消したようです。おそらく、爆撃機は小さな灯りでも見えるんでしょうね?怖い話はさておき、山の上にある町は隠れることができません。ということは、クリスチャンも隠れることができないんだということです。世の中には隠れキリシタンのような人もいるかもしれません。しかし、どうしてクリスチャンは隠れることができないのでしょうか?それは、私たちが光になっているからです。使徒パウロはエペソ5章でこのように教えています。「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです」(エペソ58)。暗やみから光へと、性質が変わったので、光るのが当たり前だということです。だから、すぐばれてしまい、隠れることができないんだということです。言い換えると、無理して光輝く必要はありません。すでに世の光なのですから、内側から光が出てくるんだということです。

 もう1つのたとえが記されています。マタイ515-16「また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」ここで言われている「あかり」というのは、ランプのことです。その当時は、陶器の器にオリブ油を入れ、口から出た紐に火がつくようになっています。日本でも昔、ろうそくの燭台がありました。今は、もう電気なので、理解しづらいかもしれません。もし、ランプを枡の下に置いたら、一部しか照らしません。やはり、ランプは燭台の上に置くべきです。燭台というのは、柱か、壁に取り付けた台のことでしょう。ランプを高いところに置くなら、家全体を照らすことができます。イエス様はだれでもわかるようなことをなぜ、言われたのでしょうか?イエス様は「そうすれば、家にいる人々全部を照らします」と言われました。また、「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」とも言われました。世の光は地の塩と違って、もっと積極的な意味があります。クリスチャンがこの世で生きているとき、人々が「ああ、あなたが信じている神さまはすばらしい」と思うだろうかということです。この世のことを批判ばかりしていたなら、逆に煙たがられるかもしれません。では、「あなたがたの光を人々の前で輝かせる」とはどういう意味なのでしょうか?

 いろいろな解釈があると思いますが、私は神さまを代表するという意味ではないかと思います。英語では、representativeと言います。Representativeには、代理人、代表者、そして使節という意味があります。私たちは神の国の使節として、この世に派遣されている存在なんだということです。「え?私にそんな資格や能力があるでしょうか?」と恐れを覚えるでしょう。ところが、父なる神は、私たちがキリストを信じた時に、その資格と能力とを授けておられるのです。私たちは神からの使節として、この世において神さまの良さ、神さまのすばらしさ、神さまの力を表わすべきなのです。これこそが、世の光として輝くということなのです。今から10年以上前に、インドネシアで開かれたアバラブフェスティバルに招かれたことがあります。最終日は1万人位入る大ホールで宣教大会が行われました。そのとき、ロシアから5名くらい招かれていましたが、日本から来たのは私一人でした。一番後ろの通訳のある席に座って、1万人の大会衆を見ていた時です。「ああ、私が日本を代表して来ているんだ、Representativeなんだ」と自分を誇りに思いました。あなたも、あなたも、あなたも神の国の代表として任命されているのです。アーメン。ところで、日本語の聖書には「燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします」と書かれています。燭台の光が物質ではなくて、「家にいる人々全部」となっています。原文や英語の聖書は、「すべて」となっているだけで、「人々」とは書いていません。ところが、J.B.フィリップスは「家の中にいるすべての人々」と訳しています。また、英国の聖書はamong your fellows「仲間、同僚、人々」になっています。ということは私たちが照らすのは人々であり、物ではないということです。光というのは面白い存在で、光自体は見えません。光は物に反射して、物があることを見せてくれます。もし、これが人々に当たったならどうなるのでしょうか?人々が自分の良さ、自分の計画、自分のすばらしさを発見できるということです。そうです。クリスチャンは自分自身が光るということよりも人々を照らして、人々を活かすんだということです。そうすると、人々は「こんな私を造ってくれた神さまはすばらしい」と神さまをあがめるのです。

世の光として生きた聖フランチェスコの祈りを紹介したいと思います。「神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。いさかいのあるところに、赦しを;分裂のあるところに、一致を;迷いのあるところに、信仰を;誤りのあるところに、真理を;絶望のあるところに、希望を;悲しみのあるところに、よろこびを;闇のあるところに、光をもたらすことができますように、助け、導いてください。神よ、わたしに慰められることよりも、慰めることを;理解されることよりも、理解することを;愛されることよりも、愛することを望ませてください。」アーメン。

3.律法学者やパリサイ人の義にまさるもの

 マタイ517はマタイ福音書の鍵になることばとして、第一回目にお話ししました。イエス様は律法や預言者、つまり旧約聖書を廃棄するためではなく、成就するために来たのです。新約時代の私たちは「恵みが来た以上、律法は不要である」と言うかもしれません。律法は神のことばであり、天地が滅び失せない限り、すたれることがありません。ローマ7章で、律法が永遠に不滅であることを教えています。私たちはクリスチャンになっても、律法を突きつけられると、お手上げ状態になります。あまのじゃくのように、逆らって罪を犯してしまう性質が残っています。パウロのように「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救いだしてくれるのでしょうか」と叫ばざるを得ないでしょう。ところが、そこにも良い知らせがあります。律法は不滅であり、決して死ぬことがありません。しかし、私たちがキリストを信じて、キリストの死と一体となるとどうでしょうか?私たちも共に死ぬことになり、死んだ人は律法から解放されます。さらに、私たちはキリストと共によみがえります。すると、律法が主人ではなく、キリストが主人になります。私たちの肉で律法を守る義務がなくなり、私の内におられるキリストが律法を全うさせてくださるのです。律法は善悪の判断基準としてクリスチャンに確かに有効です。しかし、私たちクリスチャンにはその律法を守る力がないだということも知らなければなりません。私たちは律法ではなく、御霊によって、恵みによって生きるように召されているのです。

 ところが、当時のユダヤ教の指導者はそうではありませんでした。自分たちの正しい行いで、神に近づき、神に受け入れられように努力しました。言い換えると、神の律法を守り行うことによって、義とされるという道を選んだのです。律法学者やパリサイ人は、みんなパウロのような深刻な問題に陥ったことでしょう。でも、表面を繕い、内側の罪や汚れを隠して生きたのであります。人々の前で正しく振る舞い、長い祈りをし、捧げものをしました。彼らは本質的な命がなかったので、宗教を一生懸命やっていたのです。外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいでした。イエス様はマタイ23章で「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人」と嘆いています。私たちクリスチャンも、一度は恵みによって救われたはずなのに、空しい律法主義に陥ってしまう可能性があるということです。そういうふうにならないためには、イエス様がおっしゃる「律法学者やパリサイ人の義にまさるもの」は何かということを知らなければなりません。実のところ、律法学者やパリサイ人は神の律法を厳格に守る人たちで、彼らのまじめさにはだれもかないませんでした。しかし、それは人間の義でありました。イエス様は「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」とおっしゃいました。では、彼らよりももっとまじめに、神の律法を守れということなのでしょうか?

 そうではありません。人間の義では決して天の御国に入ることはできません。では、どうしたら天の御国に入ることができるのでしょうか?そうです、私たちが神の義をいただいたなら、天の御国に入ることができるのです。このことを使徒パウロがローマ3章でこのように述べています。ローマ321-22「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」アーメン。なんと、「律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました」と書いてあります。旧約聖書も律法の義の別の道で得られる神の義を啓示しているというのです。どこと言われると困りますが、イエス・キリストが律法の要求を満たされたということは確かです。イエス・キリストは律法を守れない私たちの代わりにさばかれ、呪われた者となってくださいました。そのおかげで、神さまが罪ある人類をさばかなければならないという要求が満たされたのです。もう、神さまは人類の罪を怒ってはおられません。その代り、イエス・キリストを信じる人に神の義を与えると約束されたのです。人間の義では神の義には決して届きません。ところが、キリストを信じる人に神の義をプレゼントしてくださるのです。ハレルヤ!これが信仰による救い、恵みによる救いなのです。さきほどのマタイ5章にもどりますと、イエス様はあなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」と言われました。では、どうしたら天の御国に入ることができるのでしょうか?それは、律法学者やパリサイ人の義にまさる神の義をいただいたら、天の御国に入ることができるんだということです。ハレルヤ!私たちはキリストを信じることにより、神の義が与えられ、天の御国に入ることができるのです。アーメン。

 きょうは、3つのポイントで学びました。不思議なことに、イエス様は「クリスチャンとは○○である」というアイデンティティについて教えています。「クリスチャンは○○しなさい」とは言ってないのであります。イエス様は「あなたがたは地の塩になれ」とはおっしゃらないで、「あなたがたは地の塩です」と言われました。「あなたがたは世の光となれ」とはおっしゃらないで、「あなたがたは世の光です」と言われました。最後に、あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるもの」と言われました。これは、「あなたがたは神の義いただいたものです」という意味です。神の義をいただいていると自覚しているなら、喜んで罪を犯すことはありません。なぜなら、それは自分にふさわしくないからです。同じように、「あなたは地の塩」なのです。そうすると、世の中の腐敗をとどめるように働くでしょう。同じように、「あなたは世の光」なのです。そうすると、この世の人たちを照らす光として輝き出すでしょう。そうです。一番大切なのは、主にあって自分がだれかということを自覚することなのです。あなたは神の国を代表する、大使として任命を受け、この世に遣わされている存在なのです。教会は大使館であり、あなたは大使です。あなたが良いと許可すれば、人々は神の国に入ることができるのです。なぜなら、あなたは神の国の全権大使だからです。どうぞ、自分が主にあってどういう者になっているか、その意味よく噛みしめ、この世において神の栄光を現すものとして用いられたいと思います。

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2016年2月11日 (木)

御国の幸福論 マタイ5:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.2.14

 前回、御国というのは、神の支配のことであると学びました。モーセはシナイ山でイスラエルのために律法を伝えました。マタイはそのことを意識して、イエス様が語られた御国の律法について書いています。これは、御国における、神の民の律法です。言い換えると御国、神のご支配のもとで、どのように生きるべきなのか教えたのであります。おそらくイエス様はいろんなところで話されたのだと思いますが、マタイは5章から7章にまとめています。このところには8つの幸いがあります。その幸いはこの地上と全く異なる、御国の幸いであります。

1.心の貧しい者

 日本語では心となっていますが、原文は「霊において貧しい人は祝福を受ける」となっています。ちなみに「幸い」は、マカリオイということばで、「神から祝福されるよ」という意味です。つまり「神さまから祝福されて、結果的に幸せになる」ということです。霊において貧しいとはどういう意味でしょうか?霊は心の奥底にあるもので、神さまと交わるところであります。ところがアダムが神に逆らい、罪を犯してから、この霊が死んだか完全に堕落した状態であります。アダム以来の人は、霊ではなく自分の魂で生きています。つまり、神さまに頼らないで、自分の思うとおりに生きているということです。聖書ではこれを「罪」と呼んでいます。罪とは、道徳的な意味ではなく、神さまとの関係が途絶えて、的外れの状態になっているという意味です。その結果、人々は具体的にさまざまな罪を犯すのであります。だから、聖書は具体的な罪よりも、的外れの状態から正しい状態になるように勧めています。

でも、神の祝福を受ける前に、「私は霊的に貧しい」ということを気づかなければなりません。御国と相反する「この世」は、霊的なことに目を向けないようにさせます。心や体を満たすために、さまざま楽しみや喜びを提供します。テレビ、映画、コンサート、飲酒、買い物、旅行、人との交際、スポーツ、ダンスなど、楽しみや願いがたくさんあります。それらは決して悪いものではありません。むしろ伝道者の書では「生きているうちに楽しめ」と書いてあります。問題は神さまのことを全く考えなくなり、この世に占有されてしまうということです。今、スマホやゲーム中毒が問題になっています。中毒というのはすべての時間、すべてのお金、すべての力をかけてしまうということです。その結果、それに支配されてしまい、それなしでは生きて行けなくなります。この世のものはすべて中毒性がありますが、中毒にならない方法が1つあります。それは神さまに中毒になるということです。言い換えると、心の中に神さまの支配、御国を来たらすなら、この世のものに支配されることはないということです。だれでも、一生に数回は、「もし救いというものがあれば信じたい」と願う時があります。それは心が、霊が貧しいと自覚するときです。その時は幸いです。なぜなら、御国の入口が見えるからです。「この世のものでは満足的ない。ああ、自分の心が貧しい。どうしたらこの空虚を満たすことができるのだろうか?」自分の貧しさに気付いた時こそが、神さまからの祝福を受けるチャンスなのであります。

2.悲しむ者

 英語の聖書では、mournとなっていますので、嘆き悲しむという意味です。つまり、これは身内に葬儀を出すような深い悲しみです。「悲しむ者は幸い」と言われていますが、これほど真逆なものはないかもしれません。しかし、悲しむ者が神さまからの祝福を受けて、慰めを受けて、その結果、幸福になるならば納得がいくかもしれません。同時に、「もし、そうだったらなぜ、神さまは嘆き悲しむようなことを許されるのか?」という疑問も起こるかもしれません。多くの人たちは「神さまがいるんだったら、どうしてこんなひどいことが起こるのか?」と躓いています。特に、この世の不条理を自分自身が受けるか、そばの人が受けたのを目撃したときであります。突然の事故、災害、事件、障害、身内の死、喪失、裏切りや拒絶など、この世には嘆き悲しむようなことがたくさんあります。そして、ある人たちはそこに座り込んで、一歩も前に踏み出せない人もいます。PTSDと申しましょうか、不幸な出来事がフラッシュバックして、どうにもならない人が大勢いるのではないでしょうか?親しい人が慰めたり、励ましたりしても全く効果がない。「あなたに何がわかるの」と言われてしまいます。

 前回も申し上げましたが、イエス様は「天の御国が近づいた」とおっしゃられました。天の御国は、神の支配とも言えます。イエス様と一緒に神の支配がやって来たということです。どこにやって来たのでしょうか?それは、この世です。この世とは神から離れた人が生きているところです。この世においてはサタンが人々を支配しています。だから、サタンはこの世の神と言われています。本来、神さまは突然の事故、災害、事件、障害、身内の死、喪失、裏切りや拒絶などを願っていませんでした。それらは神から離れた人が、サタンの支配によって受けてしまう不幸な出来事です。この世にはそういう不幸があるのです。しかし、そこにイエス様が御国をもって来てくださったのです。そうするとどうなるのでしょうか?「その人たちは慰められる」と書いてあります。慰められるとは「ああ、可哀そうだ」と同情を受けることではありません。確かに、神さまは私たちに「本当に気の毒だね」と深くあわれんでくださいます。しかし、それだけではありません。神さまは回復の神様でありますから、失ったものを弁償してくださるのです。この地上でいくぶんかを体験できますが、多くは御国が完成した時であります。イザヤ612-3「すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである」。単なる心の問題ではなく、実質的に回復してくださるのです。心の回復、体の回復、失ったものの回復です。だから、嘆き悲しむときは、神さまの慰めと回復を受けるチャンスなのであります。

3.柔和な者

 柔和とは英語の聖書で、meekです。原文でもそうですが、「おとなしい、優しい、穏やかな」という意味があります。イエス様はまさしく、meek、柔和なお方でした。しかし、この世において柔和であるならばどうなるでしょうか?強い人がやってきて、その人を支配し、思い通りにしてしまうかもしれません。都会では、「生き馬の目を抜く」みたいに言われ、油断することができません。会社でも「はい、はい」などと言っていたら、いくらでも仕事を押し付けられます。だから、「言うべきことはちゃんと言い、主張すべきことはちゃんと主張する。なめられてはいけない」これが処世術かもしれません。ま、私もそのことに対して反対するつもりはありません。イエス様は「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから」と言われました。これは、「神さまが柔和な人を祝福して、地を相続させてくださる」ということです。動物のたとえでお話ししたいと思います。強いものと言えば、ライオンとかトラであります。強さにあこがれる人は、「ライオンとかトラのように強くなるんだ」と言うかもしれません。その証拠として、野球のチームにそういう名前がつけられています。一方、柔和といわれている動物の代表は、羊であります。では、質問をいたします。この地球上に、ライオンとトラ、そして羊、どちらが多いでしょうか?羊の数が圧倒的に多いと思います。特にニュージーランドではそうです。なぜでしょう?ライオンやトラは危険なので檻に入れなければなりません。しかし、羊は人を襲うことがないので、放し飼いにすることができます

 やくざとか暴力団、彼らは柔和とは真逆です。でも、危険なので檻に入れるか、活動を最小限にされます。同じように他の人を力で支配しようとする人は、一時的には地を受け継ぐかもしれません。しかし、長い目で見るならば、柔和な人が地を受け継ぐのです。「いやいや、そうではない」と言うかもしれません。確かにこの世では、強い者、人を押しのける者が地を受け継ぐでしょう。でも、ここに御国、神の支配がやって来たらどうでしょう。神さまがそういう人たちを縛り、柔和な人を栄えさせるのではないでしょうか?マタイ5章のこの箇所は、詩篇37篇の引用ではないかと言われています。詩篇37911「悪を行う者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。」このところの「貧しい人」は、「抑圧されている者」「へりくだる者」という意味であります。神さまはへりくだっている人が好きなのです。だから、御国がやって来たとき、柔和な人を祝福し、地を受け継ぐようにしてくださるのです。どうでしょう?自分の力で人々を押しのけてでも、地を支配したいでしょうか?それとも、柔和になって、神さまが地を支配させてくださるのを待ちたいでしょうか?神さまを信頼している人の1つの証拠は「柔和」であります。私は昔、まったく柔和でありませんでした。まるで虐待を受けた犬か猫のようでした。「うー」とうなっていました。しかし、大牧者なるイエス様と出会ってから、少し柔和になってきました。

4.義に飢え渇く者

 義というのは日本語にないかもしれません。リビングバイブルは「神さまの前に、正しく良い者になりたいと心から願っている人は幸福です。そういう人の願いは完全にかなえられるからです」と訳しています。私はそういう人はほとんどいないのではないかと思います。それよりも、「この世に正義があるのだろうか?真実なものはあるのだろうか?」と飢え渇いている人は多いと思います。つまりその人は不条理を受け続け、翻弄された人生を送っている人です。「神も、仏もない」と口では言っても、心の奥底では望んでいる人です。残念ながら、この世には正義とか真実はあまりありません。どこにあるのでしょうか?本来、義というのは神さましか持っていないものであります。人間は不義のもとで生まれ、不義を行うようになっています。そういう人たちが、集まっているのがこの世であります。でも、神の国がイエス様と一緒にやってきました。すると、義に飢え渇いている人たちが、「ああ、義ってあるんだ。正しい人は報われるんだ」と分かるようになります。

イザヤ51章には義ということばがたくさん出てきます。イザヤ511「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。」515「わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。」517「義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。」やはり、義というのは神さまのもとにあり、求める人には与えられるもののようです。使徒パウロはローマ人への手紙で、信仰よる義ということを述べています。旧約の人たちは自分の正しい行いによって義を得ようとしましたが、かないませんでした。ところが義なる神さまは、御子イエス様を私たちのために与えてくださいました。私たちの罪咎を全部、背負ってイエス様が刑罰を受けて死んで下さいました。神さまの罪に対する要求が満たされ、同時に、御子イエスを信じる人には神の義を与えると約束されました。本来、私たちは不義の塊なのですが、御子イエスを通して、罪赦され、義なるものとされます。そうすると不思議なことが起こります。「ああ、義ってあるんだ。正しい人は報われるんだ」と分かるようになるということです。この世における不条理、受けた傷、悲しみが癒されていきます。なぜなら、御国における神の義があまりにも明るいからです。マラキ4:2 「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。」

5.あわれみ深い者

 「あわれみ深い」は、ギリシャ語では「情け深い」「慈悲深い」という意味があります。テレビで「どの漢字が一番好きですか」という調査がありました。ある婦人は「慈悲」ということばが好きで、お墓に「慈」という文字を刻んでほしいと言っていました。仏教のサンスクリットで「慈悲」というのは2つのことばから成り立っているそうです。慈は、「慈しむ」で相手の幸福を望む心です。また、悲は、「憐れみ」であり、苦しみを除いてあげたいと思う心だそうです。「慈悲」とても良いことばだと思います。よく時代劇で「お慈悲を」と叫んでも、「ならぬ」と言われて、処刑されるシーンがあります。この世では、慈悲ではなく、無慈悲が横行しているのではないでしょうか?でも、そういう中で、慈悲の心を持っているならば、神さまからも慈悲を受けるということです。アーメンでしょうか?それとも「南無阿弥陀仏?」でしょうか?でも、イエス様がおっしゃっている「憐れみ」「慈悲」というのはどのようなものなのでしょうか?

 イエス様がもっとも憐みをかけているところは、病気や障害で苦しんでいた人たちです。マタイ9章で二人の盲人が「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びました。イエス様は二人の目を開けてあげました。マタイ935-36「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」「かわいそうに思われた」は、まさしく慈悲の心であります。イエス様は「なんと気の毒なことだろう」と深く同情して、癒してあげました。イエス様は病の癒しや多くの奇蹟を行いました。その動機は、「あわれみ」でありました。決して、自分が神の子であることを証明するためにではありません。不幸な人の立場に立って、その人に完全な癒しと救いを与えました。彼らは、この世では受けることのできない癒しと救いをいただきました。つまり、それはイエス様と一緒に御国がやって来たという証拠です。では、仏教の慈悲とイエス様の慈悲のどこが違うのでしょうか?イエス様のそれは神の支配によって、不幸が取り除かれ、本来の姿になるということです。あるところに、深い井戸におちた人がいました。孔子は「ああ、ちゃんと私の教えを守ればよかったのに」とその人を責めました。釈迦は「ああ、気の毒に、前世が悪かったのですね」と不幸を嘆きました。イエス様は、何も言わず、井戸の底に降りて行き、その人を担ぎ上げてくださいました。果たしてこのたとえが正確か分かりませんが、イエス様はそういうお方だということです。もし、人がそういうイエス様のあわれみを体験したならば、イエス様の心をもって、隣人に接することができるようになるでしょう。

6.心のきよい者

 「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。」とあります。私が最初行った神学校は「きよさ」を強調する教団でした。私はその頃、洗礼を受けて1年もたっていなかったので、よっぽど罪に汚れていたのでしょう。「敬遠されているなー」という感じを受けました。正直、私は「きよさ」を全面的に出されるのが嫌いです。何かさばかれている気がするからです。もちろん、「きよい」という意味は、「霊的・道徳的に清い、罪けがれのない」という意味です。しかし、もとのヘブル語のカドーシュは、「分離する」「選び別つ」という意味です。クリスチャンとは、聖なる神さまによって、この世から選び別たれた存在です。私たちが神さまのものであるというとき、それは「聖、きよい」と見なされます。つまり、神さまが「あなたはきよい」と言ってくださるので、「ああ、そうですか。私はきよいのですね」と言うことができます。アダム以来の人間で、生まれつききよい人は一人もいません。相対的に「ある人よりも私はきよい」と言えるかもしれません。しかし、聖なる神さまのもとへ行くなら、イザヤのように「私は滅びるばかりです」と言うしかありません。エレミヤは「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」と言いました。順番で言うとこうなります。イエス様の贖いを信じたら、私たちは神さまのものとなります。そうすると、神さまから「あなたはきよい」と見なされます。その次は「神さまがそう私をごらんになっているので、恵みによって私はきよい生活をしたいです」となるのです。だんだん私たちの心がきよくなり、ますます神さまのことが分かってくるのです。

7.平和を作る者

 「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」英語ではpeace makerとなっています。この世は罪に満ちていますので、人々が争い、憎み、時には殺し合います。創世記65「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」とあります。その後、洪水によってご自分が創造した人を地の面から消し去ろうと決心されました。洪水の後、人々はバベルの塔を作り、神さまに挑戦しました。主が全地のことばを混乱させたので、人々は全地に散らされてしまいました。まさしく今も人々は、国ごとに、民族ごとに争っています。世の中には国連をはじめ様々な機関があり、平和運動がなされています。人々は平和を作ろうと努力していますが、戦火が絶えません。では、本当に「平和を作る者」とはどんな人なのでしょうか?ローマ51「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」。そうです。神との平和を持っている人が、初めて、今度はこの世において平和を作る者となれるのです。それを見た人たちは「ああ、あなたがたは神の子どもだなー」と呼ぶということです。

8.義のために迫害されている者

 これは短時間で話すことのできない内容です。この世では正しいことをして、迫害されるまでには至らないことがあります。ここには「義のため」とありますので、これは信仰者が持つ、神の義であります。この世の義ではありません。神の義は、この世の義と同じでないので、どうしてもそこに軋轢が生じます。そして、この世の人は、神の義がまぶしいので、どうしても迫害したくなるのです。イエス・キリストや使徒たちが迫害を受けたのはそのためです。12節には「喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いが大きいから」とあります。そうです。この地上では迫害を受けることはまぬがれません。この地上では足し引きが合わないかもしれません。しかし、その分、天(御国)において豊かに報いられるのです。

 8つの幸いを解く鍵は、御国です。神のご支配のもとで、不可能なようなことが起こるのです。これらのことは完成された御国では当たり前のことです。でも、この世にイエス様が御国を運んできて下さったので、御国の律法を守るときに、神さまの祝福を受けることができるのです。

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2016年2月 5日 (金)

イエスの宣教スタイル マタイ4:12-25 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.2.7

 styleという英語は日本語になっています。私たちはスタイルが良いとか悪いと言います。でもstyleはそういう格好や形という意味だけではありません。「やり方、流儀、方式」という意味もあります。いよいよ、イエス様の公生涯がはじまりました。17節に「この時から」と書いていますが、バプテスマのヨハネがヘロデによって捕えられた後になっています。ヨハネとバトンタッチをするかのように、イエス様の宣教活動が開始されました。イエス様の宣教はどのようなスタイルだったのか、3つのポイントで学びたいと思います。 

1.暗い所から始めた

 イエス様が宣教を開始したところは、カペナウムでした。その場所は、ゼブルンとナフタリとの境だと書かれています。なぜその場所だったのでしょうか?14節には「これは、預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであった」と書かれています。ですから、偶然ではなく、その場所でなければならなかったということです。1516節に「異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」と書いてあります。歴史をたどりますと、紀元前8世紀頃、アッシリヤによってイスラエルが攻撃されました。イスラエルの10部族が国外に連れ去られ、その代わり異民族が入れられました。また、イエス様の頃、カペナウムは、ローマ軍の駐屯地として栄え、収税所がありました。イエス様はここで、中風にかかった百人隊長のしもべや、熱病で寝ていたペテロのしゅうとめ、汚れた霊につかれた人、4人の者に運ばれてきた中風の男などを癒しました。この場所は、イエス様の公生涯の宣教のうち最も重要なガリラヤ伝道の本拠地と言うことができます。マタイはイザヤ書のことばが成就するためだったと言っていますが、イエス様は最も暗い場所から宣教を開始されたということです。まさしく、「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に光が上った」のです。

 もし、普通ならば、当時の宗教の中心、エルサレムから開始するのが妥当でしょう。ところが、偏狭の地、カペナウムです。日本で言うなら、首都東京からはじめるべきです。バックストンという宣教師が明治の半ばにイギリスからやってきました。どこにやって来たかというと、島根県の松江でした。当時、プロテスタント教会は、札幌、横浜、熊本と3つの地点から開始されていました。そのためかどうか分かりませんが、バックストンはあえて、地方の松江に上陸したのであります。松江から「きよめ派」の働きが起こされました。私もバックストンの弟子である笹尾鉄三郎師や中田重治師の名前は知っています。やがて「日本伝道隊」が設立され、日本各地に宣教の働きが拡大されていきました。このところで毎月、フラの練習がなされていますが、その先生が「日本伝道隊」のクリスチャンであると聞きました。その後、「日本伝道隊」から「活水の群」という団体も生まれました。きょうあえて、引用した理由は、英国聖公会の紳士であった、バックストン師が家族全員で、あえて山陰の松江に上陸して宣教を開始したということです。まるでそれは、イエス様がガリラヤのカペナウムで宣教を開始したことと似ています。他にもあえて、東北ではじめた保守バプテスト教団、また岐阜県ではじめた美濃ミッションという団体があります。おそらく彼らは、イエス様がへき地で宣教を開始されたことにチャレンジを受けたのではないかと思います。私の恩師、大川牧師もそうでした。先生はアメリカに留学しながら、サンフランシスコで日本人教会を牧会していました。ところが教団から「日本に帰って来い」と命じられ、赴任した先が座間キリスト教会でした。当時、最も教会が成長していない困難な場所が2つあったそうです。それは座間と三鷹だったそうです。教団の人たちは「座間三鷹」と呼んでいたそうです。座間の会堂はとても古くてアメリカと比べたら、天と地の暮らしだったそうです。初日、お風呂に入ったら、すのこ板が腐っており、足で踏み抜いてしまったそうです。また、牧師館が会堂の上なので、プライベートがなく、奥様は何度も流産したそうです。ところが、みるみるうちにその教会が成長し、今度は人々が「座間を見ろ」と言ったそうです。現在、大川牧師は70歳半ばですが、「ぜがひでも東京にリバイバルを」と、新宿のホテルを借りて伝道しています。

 イエス様はあえて、暗い過去があったカペナウムから宣教を開始されました。病を癒し、多くの奇蹟を行いました。そのことは神さまの愛とあわれみをあらわしています。ところがどうだったでしょうか?マタイ1123「カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。」イエス様の特別な計らいにもかかわらず、カペナウムの人たちは悔い改めませんでした。そのため、イエス様はこの町はハデスに落とされると預言しました。実際、歴史が進んだ後、カペナウムは廃墟になったそうです。これが人間の罪深さであります。せっかく、イエス様が暗い歴史を持つかわいそうな人たちだと、恵みとあわれみを示しました。ところが、彼らは信じなかったのです。イエス様は「もしも、同じような奇蹟がソドムになされていたなら、彼らは悔い改めていただろう」と言われました。なんという皮肉でしょうか?私たちの生活においてもそのことが言えるかもしれません。神さまが何度もしるしと奇蹟を行って、信仰へと導いておられるのに、悔い改めようとしないならどうでしょう?やがて神さまの前に立ったとき、どう言い訳ができるでしょうか?私たちは主の恵みを当たり前のように思ってはいけません。箴言33「恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ」と書いてあります。韓国のある女性の話です。彼女は病を癒してくださいと病室のベッドで祈りました。そして癒されて退院すると、また好き勝手な生活をしました。また、病気になり入院しました。そして、また癒してください、と祈りました。そして癒されて退院すると、また好き勝手な生活をしました。三度目また入院して祈りました。それでどうだったでしょう?もう、癒されなかったそうです。彼女のように神さまを試してはいけません。1回でも、そういう奇蹟を体験したならば、悔い改めるべきであります。

2.弟子を養育された

 イエス様は宣教を開始された当初から、弟子を養育されました。マタイ4:18-20 「イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』彼らはすぐに網を捨てて従った。」21節以降には、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネがイエス様に従ったことが記されています。このところには、少なくとも4人の名前が記されています。イエス様は彼らを伴って福音を宣べ伝え、また病を癒されました。イエス様は神さまですから、おひとりでもできたはずです。しかし、どうして弟子たちを召して一緒に行動されたのでしょうか?よく、テレビで見ますが、大学病院では教授の後を、若い医者たちがぞろぞろとついて回診します。イエス様も弟子たちを伴って、自分が神からの教師であることを誇示されたのでしょうか?そうではありません。イエス様が宣教の当初から弟子を養育されたのは理由がありました。普通だったら、自分が一人がんばって、年を取った頃、後継者を探すものです。しかし、イエス様は贖いのわざを成し遂げたら、天にお帰りになる予定でした。そんなに長くは地上におられません。そのためご自分の働きを継承、拡大できるように弟子を召したのであります。あとで学びますが、イエス様は頭の知識だけではなく、寝食を共にしながら、体験的に教えました。言い換えると命の関係を持ちながら、真理を伝授していったのであります。

 当教会では総会資料にもありますように、後継者が与えられることを願っております。私も「すずめの学校」という教会付属の神学校を開設しました。なかなか、難しい所がありました。幸いなことに、毛利佐保師が卒業し、さらには神学校で専門的に学ばれております。後継者問題はどの教会においても、大きな課題になっています。この世的には、牧師がそんなに魅力があるとは思われていないからです。献金で生活するような負い目があるし、ストレスがたまるし、自由がないように思えるかもしれません。昨年の11月、大田区でJCMNのコーチング・セミナーがありました。その中で、小笠原先生がこのようなことをおっしゃっていました。小笠原先生は早々に後継者を立てて、バトンタッチされました。年配の教会員から「先生、早かったんじゃないですか?」と言われたそうです。また、同じ教団の牧師の子息が牧師になりたいと志願したそうです。面接をすると、「神さまの栄光のために働きたい」と牧師を1つの仕事のようにとらえていたということでした。小笠原先生は「賜物も必要だが、最も大事なのは召命感である」とおっしゃっていました。確かに日本では牧師職の知名度も尊敬度もありません。セミナーの帰りこのように考えました。「神さまのために直接お仕えし、人々に永遠の命を手渡すことのできるってすごいことだ。人が滅びから永遠のいのちを得るためには、いくらお金を出しても、全財産を差し出しても無理だ。ところが、イエス様の福音を信じるたけで罪赦され、永遠のいのちが与えられる。人々にその福音を語り、救いへと導くためにお仕えできるとは何という特権だろうか?ハレルヤ!」もちろん、魂を導くことは牧師だけの特権ではありません。万人祭司であるクリスチャンすべての特権です。強いて言うならば牧師は旧約聖書の祭司長です。さらには、預言者のように「神の人」と呼ばれるならば、なんという特権でしょうか。

 それはともかく、弟子たちはイエス様に呼ばれて、ただちに従いました。召す方も召す方ですが、召される人たちも召される人たちです。弟子採用のペーパー試験や面接試験もありません。学歴や資格を問われたりすることもありません。また、弟子たちも給与や社会保険、有給休暇とか厚生面についてもひとことも聞いていません。おどろくべきことに、召命と応答があるだけで、細かい契約約款もありません。契約書の裏側に書いてある細かい条件もありません。もう一度確かめてみたいと思います。イエス様が「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われました。マタイ 4:20「彼らはすぐに網を捨てて従った」とあります。その次は、イエス様が網を繕っていたふたりをお呼びになりました。マタイ4:22「彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った」とあります。何という単純さ、何という早さでしょうか?もちろん、その前から彼らはイエス様に出会っていたことでしょう。そのことはヨハネ1章に書いてあります。それにしても、イエス様の呼びかけに、舟も父も残して従うとはいささか乱暴ではないでしょうか?これは、たとえて言うならば、俳優がハリウッドからオファーが来たようなものです。あるいは、大企業から自分のアイディアが買われて、顧問に来れないかということです。当時の文脈から考えると、メシヤがイスラエル王国を復興しようとするとき、「ぜひ大臣に」と呼ばれたようなものです。実際、弟子たちは王なるイエスの右か左に座りたいと望んでいました。動機は不純だったかもしれませんが、弟子たちは「すべてを捨ててしたがっても価値がある。今しかない」と決断したのであります。

 イエス様は宣教を開始された当初から、弟子を養育されました。イエス様はご自分の後継者となるべき弟子を召したのであります。イエス様は神さまですから、弟子の素性も能力も未来のことも全部お見通しでした。多少の難があったとしても、聖霊によってカバーできると踏んだのであります。一方、お声のかかった弟子たちはどうでしょうか?網も舟も、そして親族も捨てて従ったのですから、ものすごい決断です。常識のある人たちは、「無謀、無茶、無鉄砲」となじるでしょう。私たちもイエス様を信じて洗礼を受けようとするなら、友人や家族は同じようなことを言うかもしれません。ましてや、「仕事をやめて神学校へ行きます」なとど言ったら、どうなるでしょうか?マタイ8章にありますが、ある人がイエス様に「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください」と言いました。ところが、イエス様は彼に「私についてきなさい。死人たちに彼らの死人たちを葬らせなさい」と言われました。ということは、イエス様の召命は緊急性があり、また、何よりも優先されるべきものなんだということです。これは弟子として神さまを第一にできるかというテストでもあります。イエス様の召命に「はい」と決断できる人は幸いです。イエス様はご自分に従って来る者を見捨てることなく、最後まで面倒見てくださいます。

3.御国の福音を宣べられた

 イエス様の宣教スタイルの3つ目は、イエス様は御国の福音を宣べられたということです。マタイ417「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」。マタイ423-24「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。」キリスト教会においても、「自分たちは福音派で正統だ」と言いながら、このことが分かっていません。だれでも、「福音とはイエス様の十字架と復活を信じることによって救われることだ」と言うでしょう。しかし、イエス様の福音は単なる福音ではなく、御国の福音であったことを忘れてはいけません。では、単なる福音と御国の福音ではどこがどのように違うのでしょうか?いわゆる福音派は十字架のことばを強調しますが、それに伴うしるしや奇蹟を軽んじる傾向があるということです。確かにパウロはⅠコリント22「私は…イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです」と言っています。しかし、その直後にこのように書かれています。24「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。」御霊と御力の現れというのは、みことばに伴うしるしとか奇蹟という意味であります。では、どのようにこの2つを矛盾なく捉えることができるのでしょうか?それは「御国の福音」ということばに答えがあります。

 マタイによる福音書は、「神の国」と言わないで、「天の御国」とか「御国」と言っています。なぜなら、マタイによる福音書はユダヤ人のために書かれた福音書なので、神と言うべきところを「天」と置き換えています。彼らは主の御名をみだりに唱えないようにしたからです。神の国、あるいは天の御国は、英語ではkingdom of God「神の王国」という意味です。ギリシャ語でバシレイアーと言って、国よりも「支配」という意味が強くなります。もし、「神の王国」と言うならば、王様と民と領土の3つが必要になります。やがて、イエス様が御国の王になります。では、民はだれなのでしょうか?それはイエス様を信じて救われた人が、御国の民になるのです。イエス様がこの地上に来られた目的は御国の民を招くためでした。しかし、罪ある人間は、そのままでは御国にはいれないので、十字架で私たちの罪をあがなう必要があったのです。では、領土はどこにあるのでしょうか?領土は今のところ肉眼では見えません。世の終わりに、御国さらには、新天新地としてやってくるでしょう。残念ながら今の時代は領土というよりも、「神の領域」あるいは「神の支配」というかたちでやってきています。アダムが罪を犯してからこの世界はサタンが支配するようになってしまいました。聖書はサタンと罪と死が支配しているところを「この世」と呼んでいます。しかし、2000前、イエス・キリストと一緒に御国がやって来たのです。だから、イエス様は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」とおっしゃったのです。

 イエス様はご自分と一緒に御国、つまり神の支配がやってきたことを証明する必要がありました。そうでないと、人々は御国に入ることができないからです。そのために、イエス様は福音を宣べ伝え、そして、御国がどのようなものであるかを示されたのです。だから、イエス様は「民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」のです。でも、病の癒しと御国と何の関係があるのでしょうか?イザヤ書には御国がどのようなものかを預言しています。たとえば、イザヤ355-6「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」とあります。つまり、御国が完成された暁には、病気も障害もないことが記されています。イエス様が福音を語りながら、病や障害を癒されました。それは、人々に御国を体験させることによって、御国に入りやすいようにさせたのです。だから、イエス様の福音は単なる福音ではなく、御国の福音であったのです。人々は病が癒され、わずらいが直されるのと見たとき、「ああ、イエス様と一緒に御国が来ている」ということが分かったのです。つまり、奇蹟やしるしが、福音を信じる助けになったということです。よくスーパーなどでは新商品のデモンストレーションをしています。元気の良いおばさんが「ウィンナーどうですか?」「発泡酒をどうですか?」と勧めています。秋葉原などでは、きれいな姉さんがスマホーを手にして説明しています。人々はそれで「私も買おうかな?」と思うわけです。同じように、福音しか話さなかったら、半分の効果しか期待できないということです。

 特に御国の福音が異教徒に入るときは戦いが起こりました。インドネシヤとかアフリカなどではその村に必ず祈祷師や魔術師がいます。「この病気を治した神さまが本物の神さまだ」ということがあります。使徒の働き8章に記されていますが、ピリポが、サマリヤに福音を伝えに下りました。群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、彼の語ることに耳を傾けました。ところが、シモンという魔術師が魔術を行って人々の心を握っていました。しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べ伝えたら、多くの人が信じてバプテスマを受けました。シモン自身も信じてバプテスマを受けました。そして、ピリポが行う、しるしとすばらしい奇蹟を見て驚きました。シモンはお金で聖霊の賜物を買おうとして、ペテロからしこたま叱られました。ピリポの方が勝利し、サマリヤにリバイバルが起きました。その秘訣は、ピリポが神の国とイエス・キリストについて宣べ伝えたからです。マタイ福音書から言うなら、それは御国の福音を宣べ伝えたということです。そして、イエス様が行ったように病の癒しと悪霊の追い出しをしました。私たちの時代も、単なる福音ではなく、御国の福音を宣べ伝えるべきです。つまり、それは今ここに御国が来ているということをしるしと奇蹟をもってあらわすべきだということです。きょうはイエス様の宣教スタイルについて学びました。第一はイエス様は暗いところから始めました。暗いところとはニーズがあるところです。第二は弟子を養育されました。それは、後継者を育てるためにチームで行うということです。第三は御国の福音を宣べ伝えました。ことばだけではなく、病の癒しや悪霊を追い出すミニストリーを一緒に行うことです。

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