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2016年2月19日 (金)

地の塩、世の光 マタイ5:13-20 亀有教会牧師鈴木靖尋

 きょうの箇所を学ぶ前に、「この世」ということを正しく知る必要があります。そうでないと世直しのため社会活動に奔走し、本来の目的からそれてしまう恐れがあるからです。ここで言われている「地」とか「世界」は「この世」のことを言っています。聖書で「この世」とは神から離れた人たちのことを指しています。しかも、サタンがこの世の人たちを支配して、神さまからできるだけ離そうとやっきになっています。まもなく、この世はキリストの再臨によって終わり、御国がやってきます。私たちクリスチャンはこの世のものではなく、神さまに属している者たちです。しかし、世の終わりが来るまで、この地上で暮らす必要があります。きょうの箇所は神から離れ、罪に染まったこの世で、クリスチャンはどう生きるべきかを教えています。 

1.地の塩

 塩というのはいろんな役目があります。まず、料理においては、塩を欠かすことができません。塩は食材の味を引き出す効果があります。でも、あまり入れすぎると塩辛くなり、食べることができません。もう1つは腐敗を留める役割があります。冷蔵庫がない時代は肉、魚、野菜を塩漬けして保存しました。これと関係があるかどうかわかりませんが、何かきよめるために塩をまいたりします。あんまり行き過ぎると迷信ぽくなります。塩自体に何かあると考えてはいけません。では、イエス様は塩が持っているどのような効果を教えておられるのでしょうか?マタイ513「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」まず、知っておかなければならないのは、この塩がどういう塩かということです。当時は岩塩という塩を用いていました。おそらく、人々は岩塩の塊を紐で結び、鍋などに何度かくぐらせたのだと思います。数回、入れては上げて、繰り返すと塩が溶け込んでいきます。「おっ、ちょうど良いな」というところでやめます。そして、紐つきの岩塩を台所にぶらさげておきます。何度も使っていると、岩塩に含まれていた塩がなくなるでしょう。すると紐をはずして、道端にぽいっと捨てます。塩気をなくした岩塩はただの石ころです。だから、イエス様は「塩気をなくしたら、もう何の役にも立たず、外に捨てられ、人々に踏みつけられる」とおっしゃっているのです。

 さて、これを教えとしてどのように解釈し適用すべきなのでしょうか?この世とは神から離れ、罪に染まっている人々のことです。しかし、イエス様が神の国をもたらしにやってきました。イエス様の願いは2つあります。第一は何とかこの世の中から、ご自分の救いを受けて、神の国の入る人が起こされるということです。第二は、この世の罪が少しでも軽減され、神のさばきの日が延長されるということです。そうすれば、結果的に神の国に入る人が増えるわけです。聖書には「この世が永遠の理想郷(ユートピア)になり、人々が幸せに暮らす」とは書いてありません。では、クリスチャンはこの世を捨てて、厭世的に暮らすのかというとそうではありません。イエス様が「あなたがたは地の塩です」と言われました。それは、この世に入り込んで、少しでも腐敗を留めるということです。難しいのは、この世に入り込むと、ミイラ取がミイラになる恐れがあるということです。すっかり、自分の目的を忘れ、この世の喜び、この世の魅力にどっぷり浸かってしまうかもしれません。旧約聖書ではロトがその一人です。ロトはアブラハムから離れ、ソドムに向かいました。なんとそこは「主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていました」(創世記1310)。ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人でありました。ロトはその後どうなったのでしょうか?ロトはその人たちのことを憂いてはいましたが、その地を離れることはしませんでした。主がその町を滅ぼすとき、御使いを遣わして非難させました。ところが、ロトの妻は後ろを振り返ったので塩の柱になってしまいました。この世に未練があったからかもしれません。新約聖書ではパウロの弟子デマスです。彼は最初、パウロの同労者としてよく働いていました。しかし、パウロの最後の手紙Ⅱテモテには「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行った」と書いてあります。ヤコブは「世を愛することは、神に敵することである」と言っています。ということは、この世の罪を留めるために、地の塩になり続けることは、容易ではないということです。油断していると、塩けのない塩となり、外に捨てられて、人々に踏みつけられてしまうでしょう。

 では、どうしたら自分の塩けをなくさないで、地の塩になるのでしょうか?たとえとしては、真逆な感じがしますが、海にいる魚のことを考えてみたいと思います。魚は塩辛い海に住んでいても、魚自体が塩辛いわけではありません。その証拠にお刺身を食べるとき、お醤油が必要です。なぜ、魚が海水の中にいるのに塩辛くないのでしょうか?浸透膜によって、浸透厚の高い海水を調整しているからです。このことを反対に考えるとどうでしょう?自分の塩けをなくさないで、かつ、この世に適度の塩けを与える法はないのでしょうか?私はよく「境界線」(バウンダリー)ということを申し上げています。正しい境界線があれば、良いものは自分の中に取り入れ、悪いものは遮断することができます。私たちも罪の中に住んでいますが、罪を自分に取り入れず、きよいものを出すということが可能なのではないでしょうか?日本は個よりも、集団の国なので、人と違うことをしているといじめを受けたり孤立します。そういう意味では、クリスチャンとして罪を犯さないで、むしろ正しいことをしていくということは大変かもしれません。ですから私たちが塩けをなくさない塩でいるためには、常に神さまとみことばに留まる必要があります。このような公の礼拝も大切ですが、個人で聖書を読んで神さまと交わりの時を持つべきです。そして、聖霊様と一緒にこの世に出るとき、神さまからの塩けが出てくるのではないでしょうか?私たちはこの世から離れて暮らすことはできません。かといって、この世にどっぷりと浸かると塩けをなくして、役に立たなくなります。ですから、この世で塩けを保ちながら生きるということは、とてもダイナミックな生き方なんだということです。イエス様は「地の塩になれ」と言ったのではなく、「あなたがたは地の塩である」と言われたことに注目したいと思います。

2.世界の光


 マタイ514「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。」地の塩は、どちらかと言うと自分を隠す消極的なイメージがありました。しかし、世界の光は隠れるのではなく、むしろ照らすという積極的なイメージがあります。イエス様は「山の上にある町は隠れる事ができません」と言われました。熱海などに行くとわかりますが、山の上までビルやお家が建っています。夜になると灯りが付くので、「あそこにも家がある」「あそこにも家がある」と分かります。「山の上にある町」ですから、たくさん灯りをともしているということです。そのため、山の上にある町は隠れることができません。戦争中は空襲警報というのがあり、カーテンを閉め、電気を消したようです。おそらく、爆撃機は小さな灯りでも見えるんでしょうね?怖い話はさておき、山の上にある町は隠れることができません。ということは、クリスチャンも隠れることができないんだということです。世の中には隠れキリシタンのような人もいるかもしれません。しかし、どうしてクリスチャンは隠れることができないのでしょうか?それは、私たちが光になっているからです。使徒パウロはエペソ5章でこのように教えています。「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです」(エペソ58)。暗やみから光へと、性質が変わったので、光るのが当たり前だということです。だから、すぐばれてしまい、隠れることができないんだということです。言い換えると、無理して光輝く必要はありません。すでに世の光なのですから、内側から光が出てくるんだということです。

 もう1つのたとえが記されています。マタイ515-16「また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」ここで言われている「あかり」というのは、ランプのことです。その当時は、陶器の器にオリブ油を入れ、口から出た紐に火がつくようになっています。日本でも昔、ろうそくの燭台がありました。今は、もう電気なので、理解しづらいかもしれません。もし、ランプを枡の下に置いたら、一部しか照らしません。やはり、ランプは燭台の上に置くべきです。燭台というのは、柱か、壁に取り付けた台のことでしょう。ランプを高いところに置くなら、家全体を照らすことができます。イエス様はだれでもわかるようなことをなぜ、言われたのでしょうか?イエス様は「そうすれば、家にいる人々全部を照らします」と言われました。また、「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」とも言われました。世の光は地の塩と違って、もっと積極的な意味があります。クリスチャンがこの世で生きているとき、人々が「ああ、あなたが信じている神さまはすばらしい」と思うだろうかということです。この世のことを批判ばかりしていたなら、逆に煙たがられるかもしれません。では、「あなたがたの光を人々の前で輝かせる」とはどういう意味なのでしょうか?

 いろいろな解釈があると思いますが、私は神さまを代表するという意味ではないかと思います。英語では、representativeと言います。Representativeには、代理人、代表者、そして使節という意味があります。私たちは神の国の使節として、この世に派遣されている存在なんだということです。「え?私にそんな資格や能力があるでしょうか?」と恐れを覚えるでしょう。ところが、父なる神は、私たちがキリストを信じた時に、その資格と能力とを授けておられるのです。私たちは神からの使節として、この世において神さまの良さ、神さまのすばらしさ、神さまの力を表わすべきなのです。これこそが、世の光として輝くということなのです。今から10年以上前に、インドネシアで開かれたアバラブフェスティバルに招かれたことがあります。最終日は1万人位入る大ホールで宣教大会が行われました。そのとき、ロシアから5名くらい招かれていましたが、日本から来たのは私一人でした。一番後ろの通訳のある席に座って、1万人の大会衆を見ていた時です。「ああ、私が日本を代表して来ているんだ、Representativeなんだ」と自分を誇りに思いました。あなたも、あなたも、あなたも神の国の代表として任命されているのです。アーメン。ところで、日本語の聖書には「燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします」と書かれています。燭台の光が物質ではなくて、「家にいる人々全部」となっています。原文や英語の聖書は、「すべて」となっているだけで、「人々」とは書いていません。ところが、J.B.フィリップスは「家の中にいるすべての人々」と訳しています。また、英国の聖書はamong your fellows「仲間、同僚、人々」になっています。ということは私たちが照らすのは人々であり、物ではないということです。光というのは面白い存在で、光自体は見えません。光は物に反射して、物があることを見せてくれます。もし、これが人々に当たったならどうなるのでしょうか?人々が自分の良さ、自分の計画、自分のすばらしさを発見できるということです。そうです。クリスチャンは自分自身が光るということよりも人々を照らして、人々を活かすんだということです。そうすると、人々は「こんな私を造ってくれた神さまはすばらしい」と神さまをあがめるのです。

世の光として生きた聖フランチェスコの祈りを紹介したいと思います。「神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。いさかいのあるところに、赦しを;分裂のあるところに、一致を;迷いのあるところに、信仰を;誤りのあるところに、真理を;絶望のあるところに、希望を;悲しみのあるところに、よろこびを;闇のあるところに、光をもたらすことができますように、助け、導いてください。神よ、わたしに慰められることよりも、慰めることを;理解されることよりも、理解することを;愛されることよりも、愛することを望ませてください。」アーメン。

3.律法学者やパリサイ人の義にまさるもの

 マタイ517はマタイ福音書の鍵になることばとして、第一回目にお話ししました。イエス様は律法や預言者、つまり旧約聖書を廃棄するためではなく、成就するために来たのです。新約時代の私たちは「恵みが来た以上、律法は不要である」と言うかもしれません。律法は神のことばであり、天地が滅び失せない限り、すたれることがありません。ローマ7章で、律法が永遠に不滅であることを教えています。私たちはクリスチャンになっても、律法を突きつけられると、お手上げ状態になります。あまのじゃくのように、逆らって罪を犯してしまう性質が残っています。パウロのように「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救いだしてくれるのでしょうか」と叫ばざるを得ないでしょう。ところが、そこにも良い知らせがあります。律法は不滅であり、決して死ぬことがありません。しかし、私たちがキリストを信じて、キリストの死と一体となるとどうでしょうか?私たちも共に死ぬことになり、死んだ人は律法から解放されます。さらに、私たちはキリストと共によみがえります。すると、律法が主人ではなく、キリストが主人になります。私たちの肉で律法を守る義務がなくなり、私の内におられるキリストが律法を全うさせてくださるのです。律法は善悪の判断基準としてクリスチャンに確かに有効です。しかし、私たちクリスチャンにはその律法を守る力がないだということも知らなければなりません。私たちは律法ではなく、御霊によって、恵みによって生きるように召されているのです。

 ところが、当時のユダヤ教の指導者はそうではありませんでした。自分たちの正しい行いで、神に近づき、神に受け入れられように努力しました。言い換えると、神の律法を守り行うことによって、義とされるという道を選んだのです。律法学者やパリサイ人は、みんなパウロのような深刻な問題に陥ったことでしょう。でも、表面を繕い、内側の罪や汚れを隠して生きたのであります。人々の前で正しく振る舞い、長い祈りをし、捧げものをしました。彼らは本質的な命がなかったので、宗教を一生懸命やっていたのです。外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいでした。イエス様はマタイ23章で「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人」と嘆いています。私たちクリスチャンも、一度は恵みによって救われたはずなのに、空しい律法主義に陥ってしまう可能性があるということです。そういうふうにならないためには、イエス様がおっしゃる「律法学者やパリサイ人の義にまさるもの」は何かということを知らなければなりません。実のところ、律法学者やパリサイ人は神の律法を厳格に守る人たちで、彼らのまじめさにはだれもかないませんでした。しかし、それは人間の義でありました。イエス様は「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」とおっしゃいました。では、彼らよりももっとまじめに、神の律法を守れということなのでしょうか?

 そうではありません。人間の義では決して天の御国に入ることはできません。では、どうしたら天の御国に入ることができるのでしょうか?そうです、私たちが神の義をいただいたなら、天の御国に入ることができるのです。このことを使徒パウロがローマ3章でこのように述べています。ローマ321-22「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」アーメン。なんと、「律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました」と書いてあります。旧約聖書も律法の義の別の道で得られる神の義を啓示しているというのです。どこと言われると困りますが、イエス・キリストが律法の要求を満たされたということは確かです。イエス・キリストは律法を守れない私たちの代わりにさばかれ、呪われた者となってくださいました。そのおかげで、神さまが罪ある人類をさばかなければならないという要求が満たされたのです。もう、神さまは人類の罪を怒ってはおられません。その代り、イエス・キリストを信じる人に神の義を与えると約束されたのです。人間の義では神の義には決して届きません。ところが、キリストを信じる人に神の義をプレゼントしてくださるのです。ハレルヤ!これが信仰による救い、恵みによる救いなのです。さきほどのマタイ5章にもどりますと、イエス様はあなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」と言われました。では、どうしたら天の御国に入ることができるのでしょうか?それは、律法学者やパリサイ人の義にまさる神の義をいただいたら、天の御国に入ることができるんだということです。ハレルヤ!私たちはキリストを信じることにより、神の義が与えられ、天の御国に入ることができるのです。アーメン。

 きょうは、3つのポイントで学びました。不思議なことに、イエス様は「クリスチャンとは○○である」というアイデンティティについて教えています。「クリスチャンは○○しなさい」とは言ってないのであります。イエス様は「あなたがたは地の塩になれ」とはおっしゃらないで、「あなたがたは地の塩です」と言われました。「あなたがたは世の光となれ」とはおっしゃらないで、「あなたがたは世の光です」と言われました。最後に、あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるもの」と言われました。これは、「あなたがたは神の義いただいたものです」という意味です。神の義をいただいていると自覚しているなら、喜んで罪を犯すことはありません。なぜなら、それは自分にふさわしくないからです。同じように、「あなたは地の塩」なのです。そうすると、世の中の腐敗をとどめるように働くでしょう。同じように、「あなたは世の光」なのです。そうすると、この世の人たちを照らす光として輝き出すでしょう。そうです。一番大切なのは、主にあって自分がだれかということを自覚することなのです。あなたは神の国を代表する、大使として任命を受け、この世に遣わされている存在なのです。教会は大使館であり、あなたは大使です。あなたが良いと許可すれば、人々は神の国に入ることができるのです。なぜなら、あなたは神の国の全権大使だからです。どうぞ、自分が主にあってどういう者になっているか、その意味よく噛みしめ、この世において神の栄光を現すものとして用いられたいと思います。

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