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2016年2月11日 (木)

御国の幸福論 マタイ5:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.2.14

 前回、御国というのは、神の支配のことであると学びました。モーセはシナイ山でイスラエルのために律法を伝えました。マタイはそのことを意識して、イエス様が語られた御国の律法について書いています。これは、御国における、神の民の律法です。言い換えると御国、神のご支配のもとで、どのように生きるべきなのか教えたのであります。おそらくイエス様はいろんなところで話されたのだと思いますが、マタイは5章から7章にまとめています。このところには8つの幸いがあります。その幸いはこの地上と全く異なる、御国の幸いであります。

1.心の貧しい者

 日本語では心となっていますが、原文は「霊において貧しい人は祝福を受ける」となっています。ちなみに「幸い」は、マカリオイということばで、「神から祝福されるよ」という意味です。つまり「神さまから祝福されて、結果的に幸せになる」ということです。霊において貧しいとはどういう意味でしょうか?霊は心の奥底にあるもので、神さまと交わるところであります。ところがアダムが神に逆らい、罪を犯してから、この霊が死んだか完全に堕落した状態であります。アダム以来の人は、霊ではなく自分の魂で生きています。つまり、神さまに頼らないで、自分の思うとおりに生きているということです。聖書ではこれを「罪」と呼んでいます。罪とは、道徳的な意味ではなく、神さまとの関係が途絶えて、的外れの状態になっているという意味です。その結果、人々は具体的にさまざまな罪を犯すのであります。だから、聖書は具体的な罪よりも、的外れの状態から正しい状態になるように勧めています。

でも、神の祝福を受ける前に、「私は霊的に貧しい」ということを気づかなければなりません。御国と相反する「この世」は、霊的なことに目を向けないようにさせます。心や体を満たすために、さまざま楽しみや喜びを提供します。テレビ、映画、コンサート、飲酒、買い物、旅行、人との交際、スポーツ、ダンスなど、楽しみや願いがたくさんあります。それらは決して悪いものではありません。むしろ伝道者の書では「生きているうちに楽しめ」と書いてあります。問題は神さまのことを全く考えなくなり、この世に占有されてしまうということです。今、スマホやゲーム中毒が問題になっています。中毒というのはすべての時間、すべてのお金、すべての力をかけてしまうということです。その結果、それに支配されてしまい、それなしでは生きて行けなくなります。この世のものはすべて中毒性がありますが、中毒にならない方法が1つあります。それは神さまに中毒になるということです。言い換えると、心の中に神さまの支配、御国を来たらすなら、この世のものに支配されることはないということです。だれでも、一生に数回は、「もし救いというものがあれば信じたい」と願う時があります。それは心が、霊が貧しいと自覚するときです。その時は幸いです。なぜなら、御国の入口が見えるからです。「この世のものでは満足的ない。ああ、自分の心が貧しい。どうしたらこの空虚を満たすことができるのだろうか?」自分の貧しさに気付いた時こそが、神さまからの祝福を受けるチャンスなのであります。

2.悲しむ者

 英語の聖書では、mournとなっていますので、嘆き悲しむという意味です。つまり、これは身内に葬儀を出すような深い悲しみです。「悲しむ者は幸い」と言われていますが、これほど真逆なものはないかもしれません。しかし、悲しむ者が神さまからの祝福を受けて、慰めを受けて、その結果、幸福になるならば納得がいくかもしれません。同時に、「もし、そうだったらなぜ、神さまは嘆き悲しむようなことを許されるのか?」という疑問も起こるかもしれません。多くの人たちは「神さまがいるんだったら、どうしてこんなひどいことが起こるのか?」と躓いています。特に、この世の不条理を自分自身が受けるか、そばの人が受けたのを目撃したときであります。突然の事故、災害、事件、障害、身内の死、喪失、裏切りや拒絶など、この世には嘆き悲しむようなことがたくさんあります。そして、ある人たちはそこに座り込んで、一歩も前に踏み出せない人もいます。PTSDと申しましょうか、不幸な出来事がフラッシュバックして、どうにもならない人が大勢いるのではないでしょうか?親しい人が慰めたり、励ましたりしても全く効果がない。「あなたに何がわかるの」と言われてしまいます。

 前回も申し上げましたが、イエス様は「天の御国が近づいた」とおっしゃられました。天の御国は、神の支配とも言えます。イエス様と一緒に神の支配がやって来たということです。どこにやって来たのでしょうか?それは、この世です。この世とは神から離れた人が生きているところです。この世においてはサタンが人々を支配しています。だから、サタンはこの世の神と言われています。本来、神さまは突然の事故、災害、事件、障害、身内の死、喪失、裏切りや拒絶などを願っていませんでした。それらは神から離れた人が、サタンの支配によって受けてしまう不幸な出来事です。この世にはそういう不幸があるのです。しかし、そこにイエス様が御国をもって来てくださったのです。そうするとどうなるのでしょうか?「その人たちは慰められる」と書いてあります。慰められるとは「ああ、可哀そうだ」と同情を受けることではありません。確かに、神さまは私たちに「本当に気の毒だね」と深くあわれんでくださいます。しかし、それだけではありません。神さまは回復の神様でありますから、失ったものを弁償してくださるのです。この地上でいくぶんかを体験できますが、多くは御国が完成した時であります。イザヤ612-3「すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである」。単なる心の問題ではなく、実質的に回復してくださるのです。心の回復、体の回復、失ったものの回復です。だから、嘆き悲しむときは、神さまの慰めと回復を受けるチャンスなのであります。

3.柔和な者

 柔和とは英語の聖書で、meekです。原文でもそうですが、「おとなしい、優しい、穏やかな」という意味があります。イエス様はまさしく、meek、柔和なお方でした。しかし、この世において柔和であるならばどうなるでしょうか?強い人がやってきて、その人を支配し、思い通りにしてしまうかもしれません。都会では、「生き馬の目を抜く」みたいに言われ、油断することができません。会社でも「はい、はい」などと言っていたら、いくらでも仕事を押し付けられます。だから、「言うべきことはちゃんと言い、主張すべきことはちゃんと主張する。なめられてはいけない」これが処世術かもしれません。ま、私もそのことに対して反対するつもりはありません。イエス様は「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから」と言われました。これは、「神さまが柔和な人を祝福して、地を相続させてくださる」ということです。動物のたとえでお話ししたいと思います。強いものと言えば、ライオンとかトラであります。強さにあこがれる人は、「ライオンとかトラのように強くなるんだ」と言うかもしれません。その証拠として、野球のチームにそういう名前がつけられています。一方、柔和といわれている動物の代表は、羊であります。では、質問をいたします。この地球上に、ライオンとトラ、そして羊、どちらが多いでしょうか?羊の数が圧倒的に多いと思います。特にニュージーランドではそうです。なぜでしょう?ライオンやトラは危険なので檻に入れなければなりません。しかし、羊は人を襲うことがないので、放し飼いにすることができます

 やくざとか暴力団、彼らは柔和とは真逆です。でも、危険なので檻に入れるか、活動を最小限にされます。同じように他の人を力で支配しようとする人は、一時的には地を受け継ぐかもしれません。しかし、長い目で見るならば、柔和な人が地を受け継ぐのです。「いやいや、そうではない」と言うかもしれません。確かにこの世では、強い者、人を押しのける者が地を受け継ぐでしょう。でも、ここに御国、神の支配がやって来たらどうでしょう。神さまがそういう人たちを縛り、柔和な人を栄えさせるのではないでしょうか?マタイ5章のこの箇所は、詩篇37篇の引用ではないかと言われています。詩篇37911「悪を行う者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。」このところの「貧しい人」は、「抑圧されている者」「へりくだる者」という意味であります。神さまはへりくだっている人が好きなのです。だから、御国がやって来たとき、柔和な人を祝福し、地を受け継ぐようにしてくださるのです。どうでしょう?自分の力で人々を押しのけてでも、地を支配したいでしょうか?それとも、柔和になって、神さまが地を支配させてくださるのを待ちたいでしょうか?神さまを信頼している人の1つの証拠は「柔和」であります。私は昔、まったく柔和でありませんでした。まるで虐待を受けた犬か猫のようでした。「うー」とうなっていました。しかし、大牧者なるイエス様と出会ってから、少し柔和になってきました。

4.義に飢え渇く者

 義というのは日本語にないかもしれません。リビングバイブルは「神さまの前に、正しく良い者になりたいと心から願っている人は幸福です。そういう人の願いは完全にかなえられるからです」と訳しています。私はそういう人はほとんどいないのではないかと思います。それよりも、「この世に正義があるのだろうか?真実なものはあるのだろうか?」と飢え渇いている人は多いと思います。つまりその人は不条理を受け続け、翻弄された人生を送っている人です。「神も、仏もない」と口では言っても、心の奥底では望んでいる人です。残念ながら、この世には正義とか真実はあまりありません。どこにあるのでしょうか?本来、義というのは神さましか持っていないものであります。人間は不義のもとで生まれ、不義を行うようになっています。そういう人たちが、集まっているのがこの世であります。でも、神の国がイエス様と一緒にやってきました。すると、義に飢え渇いている人たちが、「ああ、義ってあるんだ。正しい人は報われるんだ」と分かるようになります。

イザヤ51章には義ということばがたくさん出てきます。イザヤ511「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。」515「わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。」517「義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。」やはり、義というのは神さまのもとにあり、求める人には与えられるもののようです。使徒パウロはローマ人への手紙で、信仰よる義ということを述べています。旧約の人たちは自分の正しい行いによって義を得ようとしましたが、かないませんでした。ところが義なる神さまは、御子イエス様を私たちのために与えてくださいました。私たちの罪咎を全部、背負ってイエス様が刑罰を受けて死んで下さいました。神さまの罪に対する要求が満たされ、同時に、御子イエスを信じる人には神の義を与えると約束されました。本来、私たちは不義の塊なのですが、御子イエスを通して、罪赦され、義なるものとされます。そうすると不思議なことが起こります。「ああ、義ってあるんだ。正しい人は報われるんだ」と分かるようになるということです。この世における不条理、受けた傷、悲しみが癒されていきます。なぜなら、御国における神の義があまりにも明るいからです。マラキ4:2 「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。」

5.あわれみ深い者

 「あわれみ深い」は、ギリシャ語では「情け深い」「慈悲深い」という意味があります。テレビで「どの漢字が一番好きですか」という調査がありました。ある婦人は「慈悲」ということばが好きで、お墓に「慈」という文字を刻んでほしいと言っていました。仏教のサンスクリットで「慈悲」というのは2つのことばから成り立っているそうです。慈は、「慈しむ」で相手の幸福を望む心です。また、悲は、「憐れみ」であり、苦しみを除いてあげたいと思う心だそうです。「慈悲」とても良いことばだと思います。よく時代劇で「お慈悲を」と叫んでも、「ならぬ」と言われて、処刑されるシーンがあります。この世では、慈悲ではなく、無慈悲が横行しているのではないでしょうか?でも、そういう中で、慈悲の心を持っているならば、神さまからも慈悲を受けるということです。アーメンでしょうか?それとも「南無阿弥陀仏?」でしょうか?でも、イエス様がおっしゃっている「憐れみ」「慈悲」というのはどのようなものなのでしょうか?

 イエス様がもっとも憐みをかけているところは、病気や障害で苦しんでいた人たちです。マタイ9章で二人の盲人が「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びました。イエス様は二人の目を開けてあげました。マタイ935-36「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」「かわいそうに思われた」は、まさしく慈悲の心であります。イエス様は「なんと気の毒なことだろう」と深く同情して、癒してあげました。イエス様は病の癒しや多くの奇蹟を行いました。その動機は、「あわれみ」でありました。決して、自分が神の子であることを証明するためにではありません。不幸な人の立場に立って、その人に完全な癒しと救いを与えました。彼らは、この世では受けることのできない癒しと救いをいただきました。つまり、それはイエス様と一緒に御国がやって来たという証拠です。では、仏教の慈悲とイエス様の慈悲のどこが違うのでしょうか?イエス様のそれは神の支配によって、不幸が取り除かれ、本来の姿になるということです。あるところに、深い井戸におちた人がいました。孔子は「ああ、ちゃんと私の教えを守ればよかったのに」とその人を責めました。釈迦は「ああ、気の毒に、前世が悪かったのですね」と不幸を嘆きました。イエス様は、何も言わず、井戸の底に降りて行き、その人を担ぎ上げてくださいました。果たしてこのたとえが正確か分かりませんが、イエス様はそういうお方だということです。もし、人がそういうイエス様のあわれみを体験したならば、イエス様の心をもって、隣人に接することができるようになるでしょう。

6.心のきよい者

 「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。」とあります。私が最初行った神学校は「きよさ」を強調する教団でした。私はその頃、洗礼を受けて1年もたっていなかったので、よっぽど罪に汚れていたのでしょう。「敬遠されているなー」という感じを受けました。正直、私は「きよさ」を全面的に出されるのが嫌いです。何かさばかれている気がするからです。もちろん、「きよい」という意味は、「霊的・道徳的に清い、罪けがれのない」という意味です。しかし、もとのヘブル語のカドーシュは、「分離する」「選び別つ」という意味です。クリスチャンとは、聖なる神さまによって、この世から選び別たれた存在です。私たちが神さまのものであるというとき、それは「聖、きよい」と見なされます。つまり、神さまが「あなたはきよい」と言ってくださるので、「ああ、そうですか。私はきよいのですね」と言うことができます。アダム以来の人間で、生まれつききよい人は一人もいません。相対的に「ある人よりも私はきよい」と言えるかもしれません。しかし、聖なる神さまのもとへ行くなら、イザヤのように「私は滅びるばかりです」と言うしかありません。エレミヤは「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」と言いました。順番で言うとこうなります。イエス様の贖いを信じたら、私たちは神さまのものとなります。そうすると、神さまから「あなたはきよい」と見なされます。その次は「神さまがそう私をごらんになっているので、恵みによって私はきよい生活をしたいです」となるのです。だんだん私たちの心がきよくなり、ますます神さまのことが分かってくるのです。

7.平和を作る者

 「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」英語ではpeace makerとなっています。この世は罪に満ちていますので、人々が争い、憎み、時には殺し合います。創世記65「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」とあります。その後、洪水によってご自分が創造した人を地の面から消し去ろうと決心されました。洪水の後、人々はバベルの塔を作り、神さまに挑戦しました。主が全地のことばを混乱させたので、人々は全地に散らされてしまいました。まさしく今も人々は、国ごとに、民族ごとに争っています。世の中には国連をはじめ様々な機関があり、平和運動がなされています。人々は平和を作ろうと努力していますが、戦火が絶えません。では、本当に「平和を作る者」とはどんな人なのでしょうか?ローマ51「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」。そうです。神との平和を持っている人が、初めて、今度はこの世において平和を作る者となれるのです。それを見た人たちは「ああ、あなたがたは神の子どもだなー」と呼ぶということです。

8.義のために迫害されている者

 これは短時間で話すことのできない内容です。この世では正しいことをして、迫害されるまでには至らないことがあります。ここには「義のため」とありますので、これは信仰者が持つ、神の義であります。この世の義ではありません。神の義は、この世の義と同じでないので、どうしてもそこに軋轢が生じます。そして、この世の人は、神の義がまぶしいので、どうしても迫害したくなるのです。イエス・キリストや使徒たちが迫害を受けたのはそのためです。12節には「喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いが大きいから」とあります。そうです。この地上では迫害を受けることはまぬがれません。この地上では足し引きが合わないかもしれません。しかし、その分、天(御国)において豊かに報いられるのです。

 8つの幸いを解く鍵は、御国です。神のご支配のもとで、不可能なようなことが起こるのです。これらのことは完成された御国では当たり前のことです。でも、この世にイエス様が御国を運んできて下さったので、御国の律法を守るときに、神さまの祝福を受けることができるのです。

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