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2016年1月31日 (日)

~絶えることがない愛~ Ⅰコリント人への手紙13章1節-8節a 亀有教会副牧師 毛利佐保 2016.1.31

<Ⅰコリント人への手紙 131-8a

13:1

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

13:2

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

13:3

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

13:4

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

13:5

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

13:6

不正を喜ばずに真理を喜びます。

13:7

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

13:8

愛は決して絶えることがありません。

 

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◆愛こそが御霊の賜物を生かす原動力。

 

本日の聖書箇所、第Ⅰコリント13章は、「愛の賛歌」とよく呼ばれています。ここだけを取り上げて聖書を読んだだけでも、愛が本来どのようなものであるか、また、「何事も愛がなければなんの値打もない」というメッセージは十分に響いてきます。しかし文脈から見ると、パウロがこの13章で「愛」について語りはじめたきっかけは、「教会の集まり」つまり「礼拝」が、「益にならないで、かえって害になっている」ということからでした。そこで本日はこの箇所から、「礼拝」について、また「愛」についてさらに深く考えていきたいと思います。

 

パウロは、コリント教会に宛てたこの手紙で、「愛」について力説していますが、これには訳がありました。

前章までの流れを見て行きますと、まずコリント教会では、分裂分派が起こり、不品行が行われていたようです。その不品行は異邦人の中にもないほどの不品行だと5:1に書かれています。そして、11:17

 

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11:17

ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。

あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。

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と、教会の集まりをするときに、問題があるというのです。

パウロはこの「教会の集まり」つまり「礼拝」が、「益にならないで、かえって害になっている」と言っています。

何がそんなに問題だったのでしょうか。

 

本日の箇所です。

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13:1

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

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このように、異言の用いられ方が偏っていたのが礼拝の混乱の原因のひとつだと書かれています。

 

「異言」というと、あまり馴染みがない方がいらっしゃるかもしれませんが、私は異言を重要視する教団の神学校に行っていましたので身近ですし、鈴木先生の母教会の大和カルバリーチャペルでも、以前亀有教会で月一回行っていた「聖霊刷新祈祷会」でも、実はお馴染みでした。

 

ただ、何も知らない人が、異言だらけの礼拝や集会に出席すると、物凄く驚くのは事実です。

広辞苑には異言についてこう書かれていました。

「異言とは、宗教的恍惚状態において発せられる、理解不能なことば」

 

世の中では、こういった認識が一般的だろうとは思いますが、聖書に書かれている異言というのは本来、神様がくださるすばらしい賜物のひとつです。「宗教的恍惚状態」とは少し違います。

 

そして「異言」は、自分では何を話しているのかは解らない、確かに「理解不能なことば」なのですが、その異言を解き明かす賜物を持っている人もいます。

 

異言は世界のどこかで使われている言語ではないかと言われたりもしますし、日本語や英語などの私たちが通常使っている言語をはるかに超えた不思議なことばとも言われています。

 

どちらにしても、普通の言葉で祈っているときよりも、神様との交わりが近くなる言葉が「異言」なのです。

 

しかしパウロは、コリントの教会では、この異言の用いられ方が、「益にならず害になっている」というのです。その具体例として、13章より先になりますが、14:23が挙げられます。

 

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14:23

ですから、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかが入って来たとき、彼らはあなたがたを、気が狂っていると言わないでしょうか。

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なるほど。つまり、「初心の者とか信者でない者」に躓きを与える原因になっているということですね。

今でも、教会によってはこういうことはあると思います。

クリスチャンではない人が、初めて恐る恐る教会に足を踏み入れた途端、みんなが異言で話したり祈ったりしているシーンに出くわしたら、まず、間違いなく躓きますよね。

 

ではパウロは異言を話さなかったのかというと、実のところ、他の誰よりもたくさんの異言を話したということが、14:18に書かれています。パウロが言っているのは、異言そのものは良いものなのですが、愛がないのが問題だと言っているのです。

 

「愛がない」とは、どういうことでしょうか。

 

すでに10:32に書かれていたことですが、

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10:32

ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。

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と、他者に対して「つまずき」を与えないようにしなさいと勧告されています。

 

つまり「愛がない」というのは、他者に対する配慮がない、ということだと考えられます。

コリント教会では、他者に配慮せず、盲心的に異言を話すことで礼拝を混乱させていたと思われます。

 

現代の教会でも、14:23に書かれている「初心の者」、つまり、クリスチャンになりたての方や、「信者でない者」に対しては、つまずきを与えないようにと、様々な配慮がほどこされています。

 

例えば、「異言」を特に重んじる教団であっても、祈祷会は別としても、主日礼拝では「異言」で祈らないようにしているという教会もあります。

 

また礼拝で「使徒信条」を告白すると、求道者や未信者が疎外感を感じるので、礼拝プログラムから省いているという教会もあります。

 

礼拝で本来大切なことは、神様の御前にひれ伏して、集ったみんなで心を合わせて神様を褒め称え、生かされ、守られている恵みを感謝し、聖書の御言葉に耳を傾けることです。

 

祈りも、賛美も、パフォーマンスではなく、「心から」です。

そのようなまことの礼拝に、求道者や未信者も一緒に集中できるように、愛をもって環境を整えることは、とても大切ですね。

 

続いて13:2

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13:2

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

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パウロは、14:4で預言についてこう書いています。

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14:4 異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。

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と、預言は異言よりも良いものだとしています。

しかし、その預言の賜物を持っていても、また、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、山を動かすほどの完全な信仰を持っていたとしても、「愛がないなら、何の値うちもありません。」と聖書は言うのです。

 

そして13:3

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13:3

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

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考えてみれば、1-3節に書かれている数々の賜物は、12:28に書かれている、教会におけるキリストのからだの器官、「使徒、預言者、教師、奇蹟を行う者、いやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者」などすべて含まれているのではないでしょうか。

 

つまり、教会に集うすべての者が、神がそれぞれにお与えになった賜物に対して高ぶりをもつことなく、愛をもって人を建てあげなければ、その賜物はなんの意味も価値もないとパウロは言っているのです。

 

神様は私たちひとりひとりに特別な賜物を与えてくださっています。ただ憐れみによって与えてくださっているのですから、その賜物を自分の虚栄心のために利用してはいけません。またその賜物を使って人に躓きを与えてしまうようなことをしてしまっては本末転倒です。

 

コリント教会の礼拝の実態から私たちも学びましょう。

今一度、自分の礼拝に対する姿勢を見つめ直してみましょう。

神様が喜んでくださって、聖霊が豊かに臨在して働いてくださるような礼拝を目指しましょう。

教会生活においても、みなさんがそれぞれいただいている神様からの賜り物に、「愛」をプラスしましょう。

「愛こそが御霊の賜物を生かす原動力」だからです。

 

絶えることのない愛

 

続く13:4-7には、「愛の特質」について書かれています。

 

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13:4

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

13:5

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

13:6

不正を喜ばずに真理を喜びます。

13:7

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

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・・・ほんとに、「愛」っていいですよねぇ。

「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ。」

ここを読んで私は、「ああ、聖書に書いてあることはもっともだ。私はなんて愛がないんだろう・・・。」と、自分の行いを振り返って反省ばかりしています。

・・・こんな「愛」を私は持っていたかったと、つくづく思います。

 

しかし本当にこのような「愛」を持っている人っているのでしょうか。

まったくもって、自己中心の反対、他者中心、あるいはキリスト中心ですね。本当に素晴らしいです。

 

これを語っているパウロ自身は、このような「愛の特質」をすべて持ち合わせていたのでしょうか。

もしかしたらマザー・テレサはこのような人だったかもしれませんね。

 

いずれにしても、このような「愛」を持つことは、私たちの人生の大きな目標ですね。

私たち人間は、頑張って「愛」を現そうとしても無理です。

結局人間というのは自分中心な生きものだからです。

 

しかしキリスト者は違います。いえ、違わなければならないのです。

なぜなら、キリスト者は、神様からの愛と恵みと祝福を特別に、存分に受けているからです。

その神から受けたすべての良きものを、私たちは他の人々に分け与える器にならなければなりません。

 

このコリントの手紙で語られている「愛」という言葉は、原語のギリシャ語聖書では、avga,ph (アガペー)と書かれています。ギリシャ語で「愛」を表す言葉は何種類かあります。男女間の愛を現す「エロス」、友人や家族との愛を現す「フィレオー」、そしてここに書かれている「アガペー」というのは、「神様が私たち人間を愛してくださる、無条件な絶対的な愛」を表していると言われています。

 

私たちがこのように、アガペーの愛を現すには、純粋な動機と聖霊の助けが必要です。

 

1031節にすでに書かれていることですが、

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10:31

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。

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私たちには、「何をするにしても神の栄光を現すためにする。」という、この純粋な動機が、まず必要です。

そして、助け主である聖霊に力をいただくのです。

その動機と聖霊の助けがあってこそ、アガペーの愛、つまり、イエス様の受難と復活に象徴される神の愛が私たちから溢れていくのです。その神の愛なしには、私たちの賜物や行いは何の価値も持たないのです。

 

そしてそれが、13:8 でパウロが語る、「愛は決して絶えることがありません。」という「愛」の永遠性に繋がっていくのです。私たちの愛は続かず、すぐに絶えてしまいますが、イエス様の愛は究極の愛であり、決して絶えることがない、永遠の愛です。

 

私たちキリスト者は、その御子なる神、イエス様の十字架の贖いの恵みを知っています。

そして、イエス様という、ひとり子を与えてくださった父なる神の愛を知っています。

私たちが愛をもって他者と接するときに、聖霊なる神が働いてくださることも知っています。

 

つまり、「愛の賛歌」に記されている「愛」は、この三位一体の唯一の神からの、満ちあふれる愛と祝福があってこそ、私たちが実行できるものなのです。

 

言い変えれば、私たちはこの愛と祝福を常に受け続けているのですから、誰に対しても、躓きではなく、人の徳を建てる愛を現わし続けることが出来るはずです。

 

私は先ほど、「ああ、聖書に書いてあることはもっともだ。私はなんて愛がないんだろう・・・。」と、自分の行いを振り返って反省ばかりしています。・・・と言いましたが、

 

私は、神様からの絶えることのない愛に頼ろうともしないで、自分の力で、なんとか愛を絞りだそうとしては、すぐにempty=からっぽになっていただけだった、ということに気が付きました。

 

父なる神様と御子イエス様が、私たちに注いでくださっている愛と恵みを思い起こしましょう。

主に信頼し、決して絶えることがない愛を受け取って、礼拝のみならず、日々の生活の中でも、人を建て上げ、神の栄光を現していきましょう。

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2016年1月22日 (金)

メシヤの試験 マタイ4:1-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.1.24

 

 世の中には様々な試験があります。入学試験、会社の採用試験、免許や資格をとるための試験があります。おそらく、試験のお好きな人はだれもいらっしゃらないでしょう。実は、イエス様も試験を受けられました。それはメシヤ(救い主)としてやっていけるかどうかという試験です。車でも走行試験があり、オイル漏れはしないか、足回りは大丈夫かと調べます。数々の試験が済んで、はじめて店頭に並べられるわけです。イエス様も御霊に導かれて、悪魔の誘惑を受けられました。ですから、それはメシヤとしての試験とも言うことができます。マタイ41-2「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。」私たちでしたら1食べないだけで、空腹を覚えます。3日も食べないなら、「死んでしまう」と大騒ぎになるでしょう。しかし、イエス様は4040夜断食したのちに誘惑に会われたのですから、肉体的には最も弱い状態でありました。Ⅰヨハネ2章には「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」と人間が持つ3つの欲が記されています。イエス様は真のメシヤとなるために、これら3つの試験を受けられました。

 

1.肉の欲

 

 イエス様は肉の欲の試験を受けられました。マタイ4:3すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」原文では「もし、あなたが神の子なら」と書いています。悪魔は「もし」という疑いの種を最初から混ぜています。こういう誘惑は人間には通用しません。「石がパンになるわけがないでしょう。馬鹿じゃないの?」でおしまいです。イエス様は、これができたので誘惑になったのです。パレスチナの荒野にころがっている石は、パンそっくりです。イエス様は40日も食べていないのですから、パンに見えたはずです。「パクッ」と食べたら、歯が「ポロッ」となるかもしれません。食欲は肉の欲の中でも最も強いと言われています。イエス様は神の子でしたから、本当は石をパンに変えることができました。ですから、イエス様にとってものすごい誘惑でありました。

 

 しかし、イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによると書いてある」と、その誘惑を退けられました。ところで、そのこととメシヤの試験は何の関係があるのでしょう。その当時の人々の一番の必要は経済問題でした。ユダヤ人はこれまで何度も独立戦争を起こし、最後にはローマによって鎮圧されました。民衆は貧しさと重税で苦しんでいました。ですから、人々は食べ物の問題を解決できるメシヤを求めていました。イエス様はのちに、5つのパンと2匹の魚で、5000人以上の人を養われました。そのとき、人々は、「この方こそ、来られるはずの預言者だ」とイエス様をつかまえて王様にしようとしました(参考.ヨハ6:15)。まさしく、人々は経済の問題を解決してくれるメシヤを求めていたのです。日本人の私たちも経済的問題の解決を政府に求めています。政府も景気の回復を第一に取り組んでいます「食べる」ことは、なまやさしいことではありません。世の人は、「キリスト教を信仰したら腹いっぱいなるのか」と馬鹿にするかもしれません。

 

 食べていけるかは、この世においては重大は問題です。しかし、イエス様は「人はパンだけで生きるのではない」と言われました。その意味は「パンも確かに必要だろう。しかし、それよりも優先すべきものがある」ということです。もっと必要なのは「神の口から出る一つ一つのことば」であると言われました。このところで、イエス様は旧約聖書の申命記からこのことばを引用されました。イスラエルの民は、40年間も荒野を旅しました。彼らは食べ物がないと不平をもらしましたが、餓死したのでしょうか。そうではありせん。天からのパン、マナによって養われました。主は「人はパンだけて生きるのではない」ということをわからせるために、彼らを苦しめ、飢えさせたのであります。しかし、イスラエルの民は不合格でした。一方、イエス様は彼らを代表するかのように、荒野の40年を40日の断食にして、悪魔から誘惑(試験)を受けたのです。そして、イエス様はまことのイスラエルとして勝利されました。同時にそれは、人類の先祖である、アダムとエバが破れた誘惑にも勝利したのです。エバは、園の中央の木の実を見たとき、「まことに食べるに良く」思ったとあります。食欲、つまり肉欲はものすごい誘惑です。悪魔はこれを突いてきます。イスラエルの民も負けました。アダムとエバも負けました。しかし、イエス・キリストは勝利されました。「パンも大切だけれど、人間が生きるためにもっと大切なものがある。それは、神の口から出る、神の一つ一つのことばである」とおっしゃったのです。

 

ある人々は、「イエス・キリストを信じても、お腹が膨らむのか。信仰すれば、逆に生活に困ることが多くなるのでは」と言うかもしれません。「クリスチャンになったら嘘やごまかしもしていけない。それじゃ仕事ができないでしょう。日曜日休んだら、どこへも行けない。」と言うかもしれません。しかし、人は経済的に満たされて、食物が足りて、本当に生きるでしょうか。残念ながら、人々の魂が満たされていません。それを満たすために、必死になっています。悪魔は、次から次と欲望を与え、「満たせ」「満たせと」けしかけます。それでも、心の奥底が満たされません。益々、深みにはまっています。現代人は食べ過ぎのため、どうしたらダイエットできるか悩んでいます。イエス・キリストは、悪魔が与えた肉の欲に勝利しました。イエス様は私たちに肉欲に勝利できる秘訣を教えてくださいました。私たちが神のことばを優先させるときに、魂が生きて肉の欲に打ち勝つことができるのです。昔の人は「衣食足りて、礼節を知る」と言いました。戦後、日本は経済復興を見事に成し遂げました。しかし、人はパン(食物)だけでは、生きることができないのです。「いや、教育やカルチャーセンター、趣味・娯楽もあります」とおっしゃるかもしれません。それでも、魂の奥底は満足していないのです。聖書はロゴス、一般的な神のみこころが記されています。しかし、神の口から出ることばはレーマと呼ばれています。私たちは、日々、神の口から出る、生きたことばレーマが必要であります。数日前の残りではなく、今日、私に語られる神のことばをいただきましょう。

 

2.目の欲

 

 次に、イエス様は目の欲の試験を受けられました。マタイ45-7すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」驚くべきことに、悪魔は聖書を引用して誘惑しました。確かに、同じことばが詩篇91篇にあります。そこには、主を信頼する者は、あらゆる災いから守られると書いてあります。しかし、悪魔の提案のように、わざと、自らを危険にさらすことは、神様を試みることになります。悪魔も巧みに聖書を用いて来ます。「もし、神の子なら、宮の頂上から飛び降りてごらんなさい」という誘惑は、イエス様にとって、どんな試験だったでしょう。当時の人々は、「メシヤは、あっと驚く方法で、突然、天から現われる。そして、様々な奇跡を行なうはずだ。それがメシヤのとしての証だ」と信じていたようです。子供のテレビ番組にもありますが、ヒーローは、「○○参上」と、わざわざ高い所に現われます。自分の名を名乗ったあと、高いところからパーッと降りて戦います。人々は、「メシヤもヒーローのようにエルサレムの神殿の頂きに現れるはずだ。そして、目覚ましい奇跡や不思議を行なって、ローマの軍隊を打ち負かしてくれるんだ」と信じていたのです。

 

 Ⅰヨハネ216が示す、二番目のこの世が持つ誘惑は、「目の欲」です。実は、あのエバも園の中央の木の実を見たとき、目に慕わしく映りました。尾山師の現代訳では「その木は実に魅力的で美しかった」と訳しています。「目の欲」は「人に良く見せたい」という、見栄とか虚栄心、そして、だれよりも目立ちたいという欲望です。女性はお化粧をします。ところで、Ⅰペテロ33は結婚式でよく引用される聖句です。「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないもの…心の中の隠れた内なる人がらを飾りにしなさい」とあります。つまり、過度に身を飾るのは問題であるということです。それでは、男性は目の欲がないのでしょうか。化粧の代わりに、虚栄心があります。ナポレオンのようなヒーローになれなくても、ナポレオンを飲むくらい金持ちになりたいと思っています。ある人が、歴史的な世界のヒーローが最後にどうなったか皮肉って言いました。「世界を征服したアレキサンダーも、今では一つの都市の名前になっているだけです。ナポレオンもブランディとして酒瓶に残されているだけです。全アジアを支配したチンギスカンも今では、鍋料理でしか知られていません」と。

 

 しかし、イエス・キリストはそういうヒーローやスーパースターではありませんでした。確かに奇跡やしるしを行ないましたが、人を信じさせるためではありません。昔から、不思議な奇跡を行なって、あっと驚かせて人々の心を捕まえる教祖的な人はいっぱいいました。インドにサイババという超能力者がいましたが、彼をメシヤとして、礼拝している人も大勢いました。彼は本当に病気を治したり、奇跡を行なうことができました。しかし、だからと言って彼が、神であるわけがありません。悪魔の力を借りてやっていたのです。他にも、そういう人がいます。彼らは人を驚かすような事をしますが、人を救うことはできません。

 

 イエス様はそういうものを売り物にはしませんでした。むしろ、イザヤ書53章のように、外面的には人々が求めるメシヤとはほど遠いものでした。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく。私たちが慕うような見栄えもない!」と書いてあります。本当に、キリストの十字架を見たら、ヒーローでもなんでもありません。それで、人々はこう叫びました。「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。他人は救ったが、自分は救えない。イスラエルの王様なら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。」これは、神の子イエスにとって、ものすごい誘惑だったでしょう。「よし!」と十字架からパーッと降りて、ローマ兵士を一網打尽にすることもたやすいことでした。しかし、イエス様はその誘惑に勝利できました。十字架から降りることもできましたが、人類を救うために十字架にとどまっていたのです。それができたのは、あのとき悪魔の試験を突破していたからです。

 

 キリスト教には奇跡やしるしもあります。イエス・キリストも多くの力あるわざや癒しを行ないました。しかし、その動機は「愛」でした。奇跡やしるしは、人をふり向かせ、信じさせるためのものではなかったのです。「人をあっと言わせて、信じさせるのは」正統な伝道法ではありません。また、わざと危険を犯して、神様が奇跡を起こして助けてくれるかどうか試すのもよくありません。悪魔が引用した詩篇91篇は、主を心から信頼する者に、与えられる不思議な守りであります。わざと危険を犯したり無茶するのはよくありません。自分たちも最善の備えをしていくべきです。それでも、この世では思いがけないことがあります。そのとき、主は奇跡を起こしてでも助けて下さるのです。私が主を試みないようにしている分野が2つあります。それは車の運転と健康管理です。確かに神さまは私を事故から守ってくださるでしょう。でも、スピードを出したり、乱暴な運転をすると事故にあうでしょう。出かける前にお祈りし、安全運転するのは私の責任です。また、暴飲暴食や過労も良くないと思っています。私は肉体作業など、一度決めたら突進する方です。無茶して怪我したり、体を壊すこともあります。ですから、健康管理をするのは私の責任です。でも、愛なる神さまは詩篇91篇のごとく私を守ってくださると信じます。

 

 私たちは目の欲、つまり、人に良く見せようとしたり、虚栄心を張る誘惑に勝利する必要があります。たとえ立派なことや、大きなことをしても、心の動機が問題です。特に神さまから大きな賜物が与えられている人は要注意です。私のように人々の前に立つ奉仕も誘惑の1つになります。ある指導者は奇蹟や癒しによって、人々の心をもてあそび、堕落してしまいました。パウロは「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません」と言いました。偉大なことができたとしても、すべての栄光を主にお返ししながら、へりくだって主の御跡に従っていきたいと思います。

 

3.暮らし向きの自慢

 

 第三番目に、イエス様は暮らし向きの自慢の試験を受けられました。マタイ48-10今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」「この世のすべての国々とその栄華」と言っても、シネマ映画ではありません。全世界の支配権とその繁栄であります。世界全部が自分のものになるというのは、すごいことであります。ただし、「悪魔をひれ伏して拝むなら」という条件付きです。一見、馬鹿らしいと思うかもしれませんが、そのために魂を悪魔に売っている人はこの世に大勢います。Ⅰヨハネ216「暮らし向きの自慢」とあります。エバはその木の実が「賢くするに良い」と見えたと言いますから、自慢、誇り、プライドと関係あるように思えます。口語訳では「持ち物の誇り」と訳しています。とにかく、持ち物でも知性でもたくさん持つとおごりが出てきます。イエス様の場合はメシヤとして、国々を支配し、その繁栄を自分のものにすることは、魅力的だったでしょう。すべてのものを従え、軍隊を持ち、どんなこともできます。当時の人たちは、メシヤがローマを倒し、神政イスラエルを再建することを期待していました。イエス様を「ダビデの子」と呼んでいるのは、富と力と知恵のある王様を望んでいたからです。しかし、イエス様はこの世の王であることを否定しました。たとえば、エルサレムに入城するときは、着飾った軍馬ではなく、ロバの子どもに乗りました。エルサレムで何も起こりませんでした。人々は、最初は歓迎しました。しかし、力のないメシヤに失望し、憎しみをもって「十字架につけろ」と叫んだのです。

 

それでは、悪魔は本当に、この世のすべての国々とその栄華(繁栄)を持っているのでしょうか。ルカ46「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです」と言いました。不思議なことにイエス様は「馬鹿こけ。それは神さまのものだ。お前のものじゃない」と否定していません。実は、半分だけ悪魔の言うことはあっているのです。元来、この世の国々と栄華が神のものでした。そして、神様はそれを人間に与えようとしたのです。ところが、先祖アダムが神に反逆し自分の道を歩み、堕落しました。そのため、人間の権利がなくなり、悪魔がそれを横取りしたのです。本来は人間のためのものであったのですが、悪魔は「この世の神」としてそれらを支配しているのです。 ある讃美歌は「この世は、すべて神の支配」と賛美しています。しかし、それは半分当たっていて、半分は違っています。悪魔がすべての国々とその栄華を持っています。ところが、イエス・キリストは悪魔を退け、十字架に死んで三日目によみがえりました。そして、悪魔が持っている、すべてのものを奪回し、神の国をもたらしました。目には見えませんが、この世の中に神の国が到来しているのです。イエス・キリストを信じる人々が神の民です。そして、イエス・キリストの御名によって、本来私たちのものであった、繁栄と健康と祝福を取り戻して良いのです。

 

 どうか、悪魔が差し出す、つかの間のこの世の喜び、この世の繁栄にだまされないで下さい。悪魔は神の国に入らせまいと、イエス様を誘惑した同じ手口でせまってきます。「神様を礼拝するより、私を礼拝しなさい。そうすれば、物質的に豊かになり、健康にもなります。家内安全、商売繁盛、子宝にも恵まれ、夫婦親子仲良く暮らせますよ」と誘惑します。この世の宗教は背後に悪魔がいます。悪魔は神のように礼拝を受けたくてしかたがないのです。ですから、人々が礼拝する偶像に、悪霊が集まってきます。人々はつかの間のご利益を受ける代わりに、神の国から遠ざけられるのです。「良い物をあげるけれども、魂だけはいただくよ」という魂胆です。どうぞ、「暮らし向きの自慢、持ち物の誇り」という誘惑に嵌まらないようにしましょう。この世の多くの人は、「神を礼拝する時間があったら、少しでも働いて、豊かな生活を」と思っています。「献金をするくらいなら、自分のために使った方が良い」とも言うかもしれません。しかし、違います。イエス様はおっしゃいました。「たとえ、全世界を手にいれても、まことの命(本当の自分自身)を失ったらどうしますか。それは何によっても、とり戻すことはできません」と。現代は、物があっても、物足りない」と言われています。なぜなら、まことの神から離れているからです。アウグスチヌスは「私たちの魂は、まことの造り主のところに立ち返らなければ本当の平安はない」と言いました。どうぞ、つかのまのこの世の喜びではなく、永遠の命、神の国を求めましょう。その上で、神様が下さる祝福をよころぶことができるのです。順番が違います。順番はあくまでも神の国、神様を礼拝することです。「神の国とその義をと第一に求めるとき。」それら、衣食住の必要はすべて添えて与えられるのです。

 

 私たちの主イエス・キリストは、イスラエルの代表、人類の代表として、悪魔に立ち向かわれ勝利しました。イエス様は、単なる私たちの模範となっただけではなく、勝利の手付金を与えてくださったのです。言い換えると、イエス様は私たちが悪魔の誘惑に打ち勝つ保証と力を与えてくださったのです。つまり、イエス様を信じ、みことばによって立ち向かうなら誘惑に勝利できるということです。昔、このような賛美が歌われました。「イエスは勝利を取られた十字架の上で。イエスは勝利をとられた十字架の上で。イエスは勝利をすでに取られた。イエスは勝利をすでに取られた。」よみがえられたイエス様は、今どこにおられるのでしょうか。イエス様を信じる人の内側にいらっしゃいます。聖霊によって、私たちと共におられます。イエス様は悪魔の誘惑に立ち向かわれましたが、自分の考えではなく、聖書のみことばを引用して語りました。私たちもイエス様がみことばによって悪魔に立ち向かわれたように、みことばを正しく知って、みことばによって立ち向かいましょう。みことば御霊の剣です。悪魔の誘惑の縄や網を立ち切ることが出来きます。アーメン。悪魔に勝利されたイエス様が先頭に立って行かれます。私たちもその後を従っていきましょう。主が勝利の道、脱出の道を備えて下さいます。 アーメン。

 

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2016年1月16日 (土)

メシヤの就任式 マタイ3:13-17 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.1.17

 1997年、今から19年前の126日に同じ個所から、同じテーマで語った頃があります。その時の原稿を読んでみて、「ずいぶん押し付けがましいメッセージだなー」と反省しました。年を取ると、チャレンジよりも励ましの方が多くなるのかもしれません。きょうはバプテスマのヨハネからイエス様が洗礼を受けるシーンであります。興味があるのは、「洗礼を受けたとき、イエス様はヨルダン川にどっぷりと浸かったのか、それともひしゃくのようなもので上から水をかけられたのか、どっちだろう」ということです。おそらくバプテスト系の教会だと前者だと主張し、長老派だと後者だと主張するのではないかと思います。きょうは、そういうことには触れないで、バプテスマの出来事を3つの方向から学びたいと思います。

1.罪人と同化するため

 イエス様があえてバプテスマを受けたのは、罪人と同化するためです。同化とは同じ立場に立つ、identifyという意味です。バプテスマのヨハネはどのような洗礼を授けていたのでしょうか?マタイ36「自分の罪を告白して、ヨルダン川でバプテスマを受けた」と書かれています。それは罪の悔い改めのバプテスマ、罪の赦しを受けるためのバプテスマです。しかし、イエス様には罪がなかったので、悔い改める必要がありません。だから、ヨハネはイエス様に「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか」と断ったのです。他の聖書は、「極力断ろうとした」「しきりに辞退した」と訳しています。今風で言うなら、「とんでもありません。逆でございますよ。私の方があなたからバプテスマを受けるべきです。どうか、ご辞退させてください」ということです。しかし、ヨハネはどうして、その方がメシヤだと分かったのでしょうか?恐らく、イエス様はバプテスマを受ける大勢の列に並んでいたと思われます。イエス様は「私はこういう者です」と、名刺を出して自己紹介をしたわけではないでしょう。ということはヨハネがイエス様を見たとき、「この方は違う。この方がメシヤだ」と霊的直観が与えらえたのだと思います。

 イエス様は「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、私たちにふさわしいのです」と言われました。そこでヨハネは承知したと書いてあります。「すべての正しいことを実行する」とはどういう意味でしょう?ここは牧師たちが好きな箇所かもしれません。「イエス様がバプテスマを受けるのは正しいと言われたのだから、あなたもバプテスマを受けるべきですよ」と勧めるでしょう。もちろん、そういう意味もあるでしょうが、もっと重要な意味があります。ギリシャ語の直訳は「すべての義が成就するためである」となります。つまり、「イエス様がバプテスマを受けることは、義が成就することなのだ」ということです。義というのは、人類の救いのことです。もっと言うと、私たちが義とされるために、イエス様はバプテスマを受けなければならなかったということです。父なる神さまは御子をこの世に遣わしました。それは、御子が人類の罪を負って、罪の贖いを成し遂げるためです。しかし、その時、重要なのは、御子が人間にならなければ、罪の身代わりにはなれないということです。そのため、イエス様は罪人が受けるバプテスマをご自分が受けたということです。つまり、バプテスマを受けることによって、同じ罪人になられたということです。これを、「罪人との同一化、identify」と言います。少し前、銭形平次が変な時間に再放送されていました。ある男が一人の女性の罪をかぶって死刑になるところでした。銭形平次は真相を知るために男がいる牢獄に入りました。すると新入りの歓迎ということで、牢名主はじめ、他の囚人からものすごく痛みつけられました。平次がその男性に近づくも、真相を話してくれません。明日、彼の死刑が下るのですが、牢名主は新入りが入るので、口減らしにその男性を今から殺すというのです。彼を救うために、平次が体をはって守りました。平次ひとりで、牢名主と他の囚人たちを「ふくろ」にしました。そのとき、男性はその女性に悪いことをした殿様がいることを伝えました。私が言いたいのは、平次が獄中の男性を救うためには、囚人となったということです。同じように、イエス様はバプテスマを受けることによって、罪人の中にご自分を同化したということです。ちょっと無理があったでしょうか?

 イザヤ書にその預言があります。イザヤ5312「彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」まさしく、イエス様は神にそむいた人たちとともに数えられたのです。それは、人々の罪を負うためでありました。20年前から、松戸の岡野先生ご夫妻が「生活伝道」ということを実践しておられます。牧師夫人がイザヤ書58章から「貧しい人に施し、苦しむ人を助けてあげるなら、あなたの光は暗闇の中に輝き渡る」という御言葉が与えられました。神様から「困っている人の友達になりなさい」と教えられました。その頃、お子さんが幼稚園に通っていましたが、お母さん方には色々なタイプがいらっしゃいました。自分としては、身なりの整った人と友達になりたいと思っていました。しかし、神様のみことばに従って、どちらかと言うと人から嫌われている人の友人になりました。雨の日はその人の子供を車で送ってあげたり、運動会では席をとってあげました。病気で買い物ができないときは買い物をしてあげたり、その人が忙しい時は子供をあずかってあげました。とにかく、愛して仕えたそうです。すると、他のお母さんたちが、「どうして、岡野さんは、あんな人に親切にできるの」と聞くのです。「いえ、いえ、私はそんなんじゃないの。私は以前ノーローゼになったこともある位なのよ」。自分の証をしました。不思議なことに、親切を受けている当人ではなくて、別の回りの人が興味を持って信仰を持ったそうです。先生は、「生活伝道とは、相手の立場に立ち、愛して仕えることから始まるのです」と教えてくださいました。イエス様が神の御座から降りて、人間になられました。しかも、罪人と同じラインに立ってくださったのです。罪人のレッテルをはられることを、人類を救う正しいこととして受け止めたのです。イエス様が高い所からではなく、罪人の私たちの所まで降りて来て下さったことを感謝したいと思います。

2.聖霊の油注ぎ

 マタイ316「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」イエス様が水のバプテスマを受けた直後のことです。その次に、イエス様は聖霊のバプテスマを受けました。これは、イエス様が公生涯を始めるために、聖霊の力が必要だったということです。では、どうしてそのようなことが言えるのでしょうか?そのことはイザヤ書61章に書かれています。イザヤ611「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」とあります。この書は、メシヤの使命が預言されている有名な箇所です。「わたし」というのはメシヤです。まず、メシヤは「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ」を受ける必要があります。これは聖霊が上から、油を注がれるということです。実際、旧約聖書に大祭司の任職式のときは、注ぎの油が頭にそそがれました(レビ記812)。イエス様の場合は、聖霊による油注ぎが必要でした。なぜなら、3つのことをするためです。第一は「貧しい者に良い知らせを伝え」という福音宣教です。第二は「心の傷ついた者をいやすために」という心と体の癒しです。第三は「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」という罪責感や悪霊から人々を解放するためです。つまり、イエス様はメシヤとしての使命を全うするためにどうしても聖霊による油注ぎが必要だったのです。使徒の働き10章でイエス様のことを説明しています。使徒1038「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」ナザレのイエスは、いわゆる人間イエスです。そのままでは何もできません。ところが、神さまがこの方に聖霊と力を注がれたので、良いわざをなし、悪魔に制せられているすべての人を癒すことができたのです。イエス様のミニストリーの原動力は聖霊の油注ぎであったということです。

 では、人間イエスは全く無力だったのかというとそうではありません。イエス様が12歳のとき、イエス様とその家族はエルサレムに上りました。数日後、みんなで帰ってくるとき、少年イエスが群れの中にいませんでした。なんと、少年イエスは律法学者たちと聖書のことで渡り合っていました。人々は少年イエスの知恵と答えにおどろいていました。両親が少年イエスを叱ったとき、「私は父の家にいることをご存じなかったのですか」と答えました。原文は、「私は父の仕事をしていた」という意味です。つまり、イエス様は子どものときから、自分は何者であり、何をすべきか知っていたということです。イエス様は肉体を持っていましたが、同時に神でした。しかし、イエス様はご自分を制限されたのです。なぜならば、人間の代表として生きる必要があったからです。イエス様はご自分の力や考えではなく、常に父なる神さまに依存しておられました。ヨハネ519「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」つまり、イエス様は人間の代表として、父なる神さまのみ旨を行いました。また、そのとき父なる神さまの力、聖霊の力によって行ったのです。イエス様が天にお帰りになる前に、このようにおっしゃいました。ヨハネ1412「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」これはどういう意味でしょう?イエス様が父のみもとから、聖霊を注いだら、あなたがも同じことができるということです。実際にペテロは足の萎えた人を歩かせ、死人をよみがえらせました。このことは、今日も同じで、私たちが聖霊を内側にいただくだけでなく、上から聖霊の油を注ぎを受ける必要があります。つまり、聖霊による新生だけではなく、聖霊のバプテスマを受けるということです。これこそが、私たちのミニストリーの原動力だということです。

 私は19875月に亀有教会に赴任させていただきました。今は「赴任させていただいた」と言えますが、当時は「来てやった」という傲慢さがありました。なぜなら、来たくなかったからです。こちらに来る前に、みんなが祈ってくれました。特に、異言を語る人たちが、私を取り囲んで私のために熱心に祈ってくれました。そのとき、遠くで鳩が飛んでいる幻を見ました。小さくてぼんやりしていたので、大川牧師には言えませんでした。ところが、その時それはイザヤ書61章のみことばであると確信しました。そのとき、「このみことばはイエス様のみことばであって、私にはおこがましい、とんでもない」と思いました。ところが、このみことばが私の心にとどまり、そうだ「これを行うために、亀有に行くんだ」という確信が与えられました。ですから、イザヤ611は私にとって重要なみことばであります。イエス様は福音宣教と癒しと悪霊追い出しという3つのご奉仕をされました。ですから、私もこれら3つのことを聖霊によって行うべきだと悟ったのです。この30年近く、いろんな道草や迷いもあったかもしれません。でも、これら3つのことは一時も忘れたことはありません。弟子たちはペンテコステの日、約束の聖霊を上から受けました。そのとき聖霊は、激しい風のように、また炎のように弟子たちの上にくだりました。ところが、マタイ3章を見ると、聖霊は鳩のようにイエス様の上にくだりました。鳩は平和とか柔和さを象徴しています。でも、なぜ弟子たちのときは激しい風のように、また炎のように下ったのでしょうか?それは、彼らの中に罪があったからだと思います。聖霊は彼らの罪を消し去り、吹き飛ばすかのように彼らの上に下ったのです。イエス様の場合は罪が全くないので、聖霊は柔和な鳩のようにゆっくりと下ったのであります。しかし、どちらにしても聖霊の油注ぎが必要だということです。イエス様が公生涯において福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出しました。私たちもイエス様の弟子として同じようなミニストリーをするためには、聖霊の油注ぎが必要です。そういう奉仕は、私たちの力では全くできません。イエス様のように、また弟子たちのように、上から聖霊をいただきましょう。

3.御父による是認

 マタイ3:17「また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」天から告げる声とは、もちろん、父なる神さまからの声であります。おそらく、この声はイエス様だけではなく、バプテスマのヨハネも聞いたのではないかと思います。なぜなら、「見よ,behold」ということばが原文の聖書には2回も使われているからです。最初は、「見よ、天が開かれて、彼の上に聖霊がくだった」と書かれています。その次は、「見よ、天から声があった」と書かれています。ということは、第三者がその様子を見ていたということです。群衆がどうだったか分かりませんが、少なくともバプテスマのヨハネは目撃していたことでしょう。聖書でこのように人々に神さまが語られるのは、シナイ山の時以来ではないかと思います。もちろん、神さまは預言者に個人的に語られました。しかし、直接このように語られたのは、シナイ契約を結んだとき以来かもしれません。それほど、御子イエスの就任式は大事だったということです。聖書学者によると、御父の声は、旧約聖書からの引用であると言います。「愛する子」という言葉は、詩篇2篇にあります。詩篇2篇は王なるメシヤを歌った箇所ですから、イエス様は王なるメシヤとして就任させられたということです。そしてもうひとこと「私はこれを喜ぶ」は、イザヤ書42章にあります。イザヤ書42章はしもべなるメシヤを預言している箇所です。そうしますと、主イエス・キリストがどのようなメシヤとして就任されたのかがわかります。つまり、イエス様は王なるメシヤとして、同時にしもべなるメシヤとして就任されたのであります。残念ながら、私たちはイエス様を見るとき片方だけを強調しがちであります。そのために、ある時は人間イエスで躓いたり、ある時は王なるイエスとして遠くに感じるのかもしれません。イエス様は王であり、同時にしもべとして来られたんだということです。

 しかし、私が本日、強調したいことはこのことであります。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という御父のことばは、メシヤの就任式の際とても重要だったということです。なぜなら、このことばは、御子イエス様に対する承認、あるいは是認approvalのことばでもあるからです。イエス様はまだ何もしていません。これからどうなるかもわかっていません。あるいは使命を果たすことができないかもしれません。普通だったら、様子を見てから、あるいは結果を見てから「ああ、メシヤとしてふさわしい」と認めるべきであります。ところが、まだ何もやっていないのに、つまりメシヤとしての結果も出していないのに、父なる神さまは「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とおっしゃったのであります。これは御子イエス様にとって、とても重要なことでした。イエス様はこの時から公生涯をお始めになられました。マルコ1章には、イエス様の一日が記されています。マルコ135「さて、イエスは、朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」とあります。もちろん、イエス様は一日のはじめ、御父と交わっておられたのです。このとき、イエス様はどんなことを話しておられたのでしょうか?「お父さん。きょうはカペナウムに行って、盲人の目を開いてあげますよ。死人がいたら、よみがえらせてあげます。お父さん、見ていてください。」そんな風には祈らなかったと思います。なぜなら、イエス様はすでにメシヤとして是認されていたからです。しかし、ある人たちは神さまの愛を受けたくてがんばっているかもしれません。今のままじゃだめだ。もっとがんばらなければ愛されない。愛を受けるために一生懸命がんばる。しかし、それは当時の律法学者やパリサイ人たちです。彼らは律法主義の中にあったので、良い行いをすることによって神さまから受け入れられると思っていました。しかし、良い行いをしようとすればするほど、偽善的になり、神さまから離れてしまったのです。

 今から8年くらい前、スティブ・マクベイという先生が来られ、『恵みの歩み』ということを教えてくださいました。先生は8歳の時に救われ、16歳の時から説教をしました。教会だけではなく、駐車場で車の上から、あるいは映画館で並んでいる列の人たちに向かって説教をしました。19歳で主任牧師になり、21年間牧会しました。人数がどんどん増え、非常に成功していました。町でも有名になり、新聞記者が牧師の意見を聞きたいとやってきたほどです。ある時、神さまの命で、別の町の新しい教会に転任することになりました。みんなが引き止めましたが、みこころだと思って引き受けました。新しい教会で、一生懸命、教会を成長させようとがんばりました。もっと祈り、もっと勉強し、もっと働き、もっと訪問しました。しかし、人数は減るばかりでした。1年後、うつになり、まったくやる気がなくなりました。ある夜、「神様、何をしているんですか?何で、私をここに呼んだのですか」と泣きながら祈っていました。「何故、私に力を与えてくださらないのですか?神様、私はあなたを喜ばしてきたではないですか? 16歳の時から説教をしてきたのに。」最後に、天に向かってこう言いました。「私から何を望んでいるのですか?」主が答えてくださいました。肉声ではなく、霊に語りかけてくださいました。「スティーブ、あなたそのものを欲しい」。彼は、ミニストリーをするために、牧会をするために神様が私を欲しいと思っていました。そうではなく、神様は私自身を欲しいということが分かりました。「神様はお手伝いを求めているのではなくて、花嫁を求めておられる。神様の働きをする者を求めているのではなくて、神様の愛の対象を求めている」ということがわかりました。その時、スティーブはこう祈りました。「私の生活となっているすべてのものは、全部あなたにおゆだねいたします。あなたが好きなようにどうぞ用いてください。もう、私は全部手放します。」スティーブ先生はそれから、『恵みの歩み』ということを世界中に知らせています。

 父なる神さまは私たちが、何ができるかにはあまり興味がありません。私たち自身に興味があるのです。イエス様を信じた私たちに対して、神さまは満足しておられます。私たちは良い行いをもっとしなければ愛されないと思ってしまいます。しかし、イエス様に言われたように、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」とおっしゃっています。それは、イエス様を信じた時から神さまから認められている、是認されているということです。私たちは「まだ足りない」という律法からではなく、「もう十分愛され、受け入れられている」という恵みから始めるべきです。

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2016年1月 8日 (金)

激辛のメッセージ マタイ3:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.1.10

 本日登場するヨハネは、イエス様よりも6か月前に生まれたエリザベツの子どもです。血縁的にはイエス様のいとこになります。彼はイエス様が公生涯を始める前に道を備えた人であります。バプテスマというのは洗礼という意味ですから、洗礼者ヨハネとも呼ばれています。彼のメッセージは歯に布を着せぬというか、激辛のメッセージです。きょうは、荒野で叫んだバプテスマのヨハネから3つのことを学びたいと思います。

1.ヨハネの使命

 「そのころ」と書いてありますが、いつなのでしょうか?旧約聖書の最後はマラキ書です。マラキは「主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」と預言しました。それから預言は止み、なんと400年もたっていました。その間、ユダヤ人はギリシャと戦争をして独立したこともありました。しかし、最後にはローマに敗れ、その支配下に置かれました。ローマの政策により、宗教的な自由だけは与えられていました。人々は度重なる戦争によって、経済的にも精神的にも破れ果て、メシヤによる復興を待ち望んでいました。だから、バプテスマのヨハネが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と叫んだとき、大勢の人たちが荒野までやって来たのです。ヨハネはどのような生活をしていたのでしょうか?彼は荒野に住み、隠遁者のような生活をしていました。らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜でありました。当時の人たちは、彼の風貌を見て「ああ、エリヤの再来だ」と思ったに違いありません。ヨハネは当時のユダヤ教を否定して、荒野に住み、荒野から御国の福音を発信したのであります。こう考えると、人々が集まるのは、場所とか設備は関係ありません。まるで、おいしいラーメンを食べたいがために集まるのと同じです。

 ところで、バプテスマのヨハネの使命とは何でしょうか?マタイは、イザヤ書の預言を引用して「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよと言われた人である」と説明しています。イザヤ書40章は、まさしくメシヤが来られる時の預言です。しかし、その前に道を用意する、先駆者的な人物が現れるとも預言しています。当時もそうですが、王様や天皇が町を訪れるときは、みっともない建物を取り除き、道を整備します。相模大野というところに「行幸通り」というのがあります。天皇が行幸するために道路を整備したわけです。調べてみたら、皇居と東京駅の道が、行幸通りの本家本元でした。全国にそういう名の通りがあるかもしれません。ともかく、ヨハネは人々の心を耕すために、悔い改めのバプテスマをさずけたのであります。そうでないと、メシヤが来たときにその働きが無駄になるからです。無駄というよりも、人々が信じないゆえに、神さまからさばかれることがないためです。バプテスマのヨハネは、荒野に叫ぶ声であり、やがて来るメシヤを指し示す指に甘んじました。ヨハネは、人々に罪の悔い改めをせまり、やがて来るメシヤを信じるように先駆者的な働きをしたのであります。エレミヤ書4章に「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな」と書いてあります。いばらの地はこの世のことでいっぱいな心です。そういう心は、福音の種が落ちたとしても成長しません。耕地とありますが、罪を悔い改めるということは心を耕すことです。その後に、福音の種を蒔くならば本当の救いに至るということです。

 このところで神学的なことを語らせていただきます。ヨハネは罪の悔い改めを促し、人々は罪を悔い改めて、バプテスマを受けました。しかし、これで人が救われるかというとそうではありません。その後にイエス様を救い主として信じる必要があります。でも、自分の罪を告白することが、救いのために絶対に必要なのかと言うと、そうではありません。ある人たちは、ヨハネが言う罪の悔い改めとイエス様を信じる信仰の2つが必要であると主張するかもしれません。新約聖書的には、「信じる」の中に罪の悔い改めが入っています。それは方向転換という意味での悔い改めです。つまり、「自分には罪があるので、このままでは救われない。罪を贖って下さる救い主が必要である」と思いを変えるということです。今日でも、聖霊が働いて、「あなたには罪がありますよ。救い主が必要です」と教えてくださいます。ヨハネ168「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」自分には罪があるということを知ることを、認罪と言います。「罪を認める」と書きますが、認罪がないと救い主を求めることがありません。また、罪が分からないと、十字架の意味も分かりません。時として、罪が分からないままイエス様を信じて洗礼を受ける人がいるかもしれません。しかし、大丈夫です。必ず、聖霊様が「あなたには罪がありますよ。そのためにキリストは十字架にかかってくださったのですよ」と教えて下さいます。しかし、その先、全く認罪がないならば、救われていないかもしれません。もう一度、言います、罪があるということを知り、罪を悔い改めるだけでは救いにはなりません。罪を赦して下さる救い主イエス・キリストを受け入れる必要があります。また、自分の罪を認めることは、救いを得るための大切な一歩だということも忘れてはいけません。そういう意味で、今日もバプテスマのヨハネの時代のように、自分の罪を認めさせるようなことが起こります。失敗、失業、破産、離婚、病気、大きな過ちなどは、自分に罪があることを知り、かつ救い主イエス・キリストを求めるすばらしい機会になります。だから、イエス様は「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」とおっしゃったのです。

2.ヨハネのメッセージ

 ヨハネのメッセージは、激辛のメッセージです。せっかく、バプテスマを受けるためにやって来たのに、躓いて帰ってしまうでしょう。しかし、相手がパリサイ人やサドカイ人であることに注目したいと思います。パリサイ人は律法を厳格に守るユダヤ教の信徒たちですが、形式ばかり追い求めて偽善的になりました。一方、サドカイ人は神殿に仕える祭司たちですが、お金を愛して世俗的になりました。バプテスマのヨハネが荒野でメッセージを発したのは、彼らに対する対抗心があったからかもしれません。バプテスマのヨハネは彼らに「まむしのすえたち」と言っていますが、長い間、彼らの宗教や生活ぶりを観察した結果であろうと思います。では、ヨハネは具体的にどのようなメッセージを発したのでしょうか?

 9節「『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」彼らは、自分たちは「アブラハムの子孫だから、選ばれているんだ。特別なんだ」と心の中で思っていました。つまり、「罪を悔い改める必要など全くなくて、すでに救われているんだ」と考えていたということです。それに対して、バプテスマのヨハネは「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです」と言ったのです。なんという皮肉でしょうか。アブラハムの子孫なんか、何の役にも立たないということです。彼らは家系や社会的身分、また、宗教的な生活ぶりを誇っていました。一方、律法もあまり守らず、宗教的に汚れている人たちを軽蔑し、「彼らとは違う」と誇っていたのです。イエス様は「私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました。正確には、「自分で正しいと思っている人を招くためではなく、自分には罪があると自覚している人たちを招くために来たのです」ということです。そうであるならば、彼らはバプテスマのヨハネのところに、何のために来たのでしょう?「バプテスマのヨハネとはどういうヤツなんだ」と物見遊山に来たということです。いわゆる、ひやかしです。マタイ21章でイエス様はこのようにおっしゃっています。マタイ2132「というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」彼らはそのとき罪を悔い改めなかったということです。

 バプテスマのヨハネは、「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます」と言いました。これはどういう意味でしょうか?バプテスマのヨハネは、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と、その前に言われました。彼らは「自分たちは特別であり、神さまのさばきなど受けない」と考えていました。それは、罪に対して無感覚なばかりか、人々を見下げる行為でもあります。彼らは、罪を悔い改めるようなふりをして、ヨハネのところに近づいてきたのです。「斧もすでに木の根元に置かれている」とは、さばきの準備はできているということです。現代も、家系や社会的身分、宗教的な生活ぶりを誇っている人たちがいるのではないでしょうか?その人たちは「人を罪人呼ばわりするな、失礼じゃないか」と言うかもしれません。彼らよりも、罪責感に苦しんでいる人の方が御国に近いでしょう。私たちは御国に入るとき、どうしても自分の罪を認め、神さまの前にへりくだる必要があります。茶室に、「にじり口」という狭い入口があります。茶室の中に入るのに、文字通り「にじって」手をついて入らなくてはならないあの狭い入り口です。実はその狭さには、ちゃんと理由があります。茶室の入り口の寸法では刀を持っては入ることができません。茶は武士や町人たちの嗜みでもあり、重要な社交の場でもありました。しかし茶室に入ればどんな人物であろうと平等である、という千利休の茶の湯の精神から、にじり口の寸法がこんなに小さくなったようです。聖書的には、「狭い門から入れ」ということと一致しています。パリサイ人やサドカイ人は、聖書を学び、言い伝えや律法を守っていたでしょう。また、自分たちがアブラハムの子孫であることを誇っていました。つまり、行いの面でも、地位や血統の面でも、罪を悔い改める必要などないと考えていたのです。そうなると、罪の赦しを受ける必要もないし、当然、天の御国にも入れないでしょう。彼らはやがて、イエス様の行いやことばに、ことごとく反対し、やがては十字架につけてしまうことになります。自分を義とするということは、とても恐ろしいことです。クリスチャンが義とされていますが、それは自分の義ではなく、イエス・キリストを信じることによって与えられた神の義であることを覚えたいと思います。パウロはエペソ2章でこのように言っています。エペソ28「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」アーメン。

3.ヨハネのメシヤ観

 マタイ311-12「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」ヨハネは人々から「あなたはだれですか?あなたは自分を何だと言われるのですか?」と聞かれたのです。それを聞いてくるように命じたのは、パリサイ人であるとヨハネ1章に記されています。それでヨハネは「私はただの声であり、あとから来られる方はそうではない」と言っています。「はきものを脱がせてあげる値打ちもない」とは、奴隷以下の存在だということです。イエス様は、血縁的には自分のいとこです。しかも、自分の方が6か月早いわけですから先輩です。でも、ヨハネはその方は聖書に預言されていたメシヤであり、とんでもないお方なんだと理解していました。つまり、ヨハネは霊的な目というか、霊的な理解に開かれていたということです。イエス様がだれかということは、聖書を研究して分かるわけではありません。かえって、聖書を研究している学者たちは、主を「イエスは」「イエスは」と呼び捨てにしています。私はとてもできません。パウロはエペソの手紙で、「栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」と祈っています。バプテスマのヨハネには、パリサイ人たちと違って、神を知るための知恵と啓示の御霊が与えられていたということです。

 バプテスマのヨハネは旧約の最後の預言者と言えます。彼は、イエス様を直接預言したので、人間としては最高の人でした。それでも彼のメシヤ観はまだ不完全であるとしか言えません。なぜでしょう?彼は「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」と言いました。このところには2つのバプテスマについて語られています。聖霊のバプテスマと火のバプテスマです。後半の火のバプテスマとは何でしょう?それは、マタイ312「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます」という内容です。これは、ヨハネの黙示録で言われている、世の終わりのさばきです。バプテスマのヨハネは、メシヤが来たら、聖霊のバプテスマと同時に火のバプテスマもやってくると信じていたのです。そこには時間的な開きがありましたが、旧約聖書の預言者のほとんどはそのように考えていました。たとえば、マラキ41「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の【主】は仰せられる──」と書かれています。メシヤがこの地上に来られたら、主のさばきが下されるということです。しかし、そうではなかったのです。メシヤは二度に渡って来るのであり、初臨は「平和の君」として、再臨は「さばきの主」として来るということです。この後、ヨハネはヘロデの罪を糾弾したため、牢獄に捕えられてしまいます。彼は獄中から弟子を遣わして「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも別の方を待つべきでしょうか?」と聞いています。イエス様は「あなたがたは言って、自分たちの聞いたり、見たりしていることをヨハネに報告しなさい」と告げました。つまり、「目の見えない人が見、兄のなえた人が歩き、耳の聞こえない人が聞き、死人が生き返り、貧しい人に福音が宣べ伝えられていることがそのしるしだ」と言うことです。イエス様は和解のために来たのであり、さばきのことは後回しであるとおっしゃっているのです。

 では、聖霊のバプテスマとは何でしょうか?ヨハネが授けている水のバプテスマとは明らかに違います。ヨハネが授けている水のバプテスマは、罪が赦されるためのバプテスマです。旧約聖書でも水によってきよめられるという箇所があります。では、イエス様がなさるという聖霊のバプテスマとは一体何でしょう?でも、聖書には「イエス様ご自身が聖霊のバプテスマを授けた」とは書かれていません。バプテスマというギリシャ語は「どっぷり浸す」という意味からきています。一方は水にどっぷり浸すであり、他方は聖霊でどっぷり浸すであります。イエス様は使徒の働きでこのように述べています。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒14-5字義どおり考えますと、イエス様が聖霊のバプテスマを授けるのは、地上にいた時ではなかったということです。イエス様が父のみもとに行き、その後で、聖霊が地上の人たちにバプテスマされるということです。「本当ですか?」と言いたくなります。使徒233「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」これは、聖霊が注がれた、ペンテコステの日、ペテロが語ったことばです。つまり、イエス様が言われたことが成就した直後のことです。では、イエス様は天国にお帰りになる前、つまり地上で何をなさっておられたのでしょうか?聖霊のバプテスマを授けるということはなさらなかったということになります。

 メッセージがいよいよ終わるというときに、物議をかもし出すことになってしまいました。終わりはすっきりして帰りたいものです。バプテスマのヨハネは水でバプテスマを授けました。それは、罪の赦しを象徴するものです。ヨハネのバプテスマを受けても人は救われません。そのことは、使徒19章に記されています。パウロはエペソの人たちに「では、どんなバプテスマを受けたのですか」と聞きました。そうすると彼らは「ヨハネのバプテスマです」と答えました。パウロは「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを受けたのです」と言いました。その後、彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けました。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりしました。これは、ペンテコステの日から30年くらいたっていました。正確に言いますと、主イエスの御名によってバプテスマを受けたとき、彼らは聖霊を受けて新生しました。次にパウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊のバプテスマを受けたのです。聖霊は二重のことをなさりたいのです。1つはイエス様を信じてバプテスマを受けることです。そのとき、聖霊がその人に入り、霊的に新しくなります。罪が赦されただけではなく、新生し、新しい被造物になったということです。もう1つは聖霊のバプテスマをいただいて、賜物としての聖霊を受けたということです。私のように、この2つ出来事を厳密に分けない教会ももちろんあります。でも、本日学ぶべきことは、私たちのゴールはヨハネの罪の赦しのためのバプテスマではないということです。もちろん、罪を告白することは重要です。でも、本来、罪をきよめるのは水ではなく、キリストの血潮です。水では罪はきよめられません。キリストの十字架の血だけが、私たちの罪をきよめるのです。また、本来のバプテスマは水の中にどっぷり入るということではありません。パウロは「私たちはキリストの死にあずかるバプテスマを受けた」(ローマ63)と言っています。それは、私たちはキリストと共に十字架でつけられ死んで葬られたということです。この場合、バプテスマはキリストにどっぷりつかって、キリストと一体化するという意味になります。そうするとどうなるのでしょうか?キリストが御父の栄光によって死者からよみがえらされたように、私たちもよみがえり、新しい存在になるということです。罪のからだが滅びで、罪から解放されるということです。霊的に新しく生まれ、罪から解放されるということは、罪の赦し以上のことです。ハレルヤ! 

 バプテスマのヨハネは旧約聖書の最後の預言者と言えます。彼は人間では最高の人物でした。でも、イエス様は何とおっしゃっているでしょうか?マタイ1111「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」これは、新約の私たちのことを指しています。私たちはヨハネよりも偉大なのです。なぜなら、イエス様を信じて新生しているからです。そして、人間の義ではなく、キリストを信じる信仰によって神の義をいただいているからです。

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2016年1月 1日 (金)

立って従ったヨセフ マタイ2:13-23亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.1.3

 クリスマスの主役は、もちろん人となられたイエス・キリストであります。しかし、ローマ・カトリック教会では聖母マリヤかもしれません。では、マリヤの夫ヨセフはどうでしょうか?イエス様はヨセフとは関係なく生まれたわけですから、いてもいなくても良い存在でしょうか?そうではありません。ドラマには主役だけではなく、脇役も必要です。最近のテレビ番組では、こわもての脇役だった人が、主役に抜擢されることがよくあるようです。とにかく、ヨセフがいなければ、幼子イエスをヘロデの手から守ることができませんでした。 

1.立って従ったヨセフ

 東の博士たちが帰って行きました。しかも、ヘロデのところに寄らないで、別の道から自分の国に帰って行きました。その夜なのかどうか分かりませんが、主の使いが夢でヨセフに現れて言いました。「立って、幼子とその母を連れて、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ち退き、ヘロデが死ぬまでそこにいました。御使いは「立って」と命じました。ヨセフは「立って、夜のうちに立ち退きました」。ヨセフは寝ていたと思いますが、「朝起きてから」とは書いていません。夜、まだ暗いのに身支度して、即座に出かけたということです。私の場合、長男の朝陽が生まれるとき、こういうことがありました。夜の12時半、家内に陣痛が始まりました。私は朝6時に早天祈祷会があるので、変な時間に起きるわけにいきません。それで、「朝まで待てないか?」と、家内に告げました。午前2時半、いよいよ苦しいということで、「わかった」と重い腰をあげました。すると午前6時間には出産が始まったということでした。「朝まで待てないか?」と言ったことが、しばらく母教会で話題になりました。ヨセフはその点、偉いと思います。19節以降を見てみたいと思います。ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現れて、言った。20節、「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちを狙っていた人たちは死にました。そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に入った。」とあります。今度は「立って」エジプトから出なさいと言われ、ヨセフは「立って、イスラエルの地に入った」のです。おそらく、数日後ではなく、直ちに従ったと思われます。

 このところから学ぶことは何でしょうか?それはヨセフの従順さであります。イギリスのジョージ・ダンカンという人の本に書いてありました。お母さんが2階にいるお譲さんを呼びました。「○○ちゃん、クッキーが焼けたのですぐ降りてきなさい」。お譲さんは「はい、ママ、今、行くわ」という返事が返ってきました。ところが、5分たっても降りてきません。お母さんはもう一度「○○ちゃん、クッキーが焼けたのですぐ降りてきなさい」と言いました。お譲さんは「はい、ママ、今、行くわ」という返事が返ってきました。しかし、降りてきません。お母さんは「○○ちゃん、今すぐ降りて来なさい。今は今なのよ!」と怒って言ったそうです。ジョージ・ダンカンは「遅すぎる従順は不従順である」と述べていました。ヨセフは自分の都合はともかく、神さまが「立って」と言われるので、「立って」従ったのであります。ヨセフがこのところで、「一方的だな。待ってくれよ」と文句を言ったとは書いていません。もし、ヨセフがベツレヘムでゆっくりしていたなら、ヘロデの追手に捕まってしまったでしょう。まるで、スパイ映画のように、ヘロデの暗殺の手から母マリヤと幼子を守ったのであります。ヨセフはエジプトからユダヤに行きましたが、それで終わりではありませんでした。夢で戒めを受けたので、ガリラヤに立ち退きました。そして、ナザレという町に行って住みました。神さまの命令に従って、生活するヨセフはすばらしい信仰の持ち主だと思います。

 私が座間キリスト教会にいたころ、田原米子さんのご主人が協力牧師として来られていました。田原米子さんは高校生のとき自殺未遂を図り、両足と左腕がなくなり、残ったのは右手の三本指だけです。米子さんは日本全国ばかりか、海外にも証に行きました。その奉仕を支えておられたのが、田原昭肥(あきとし)先生です。ある日曜日、先生は「凡夫の祝福」と題して、メッセージされたことがあります。「凡夫ってなんだろう?」と思って、あとから調べてみました。もともとは、「仏教の教えを理解していない人」という意味です。しかし、それが「平凡な人」「普通の人」になったのです。しかし、その時は「妻に比べて、何のとりえもない夫のことかな?」と思っていました。「失礼だったなー」と反省しています。それにしても、昭肥先生が米子さんを救いに導き、米子さんの足となって支えたのですから、すばらしいと思います。大会社に入った社員は、「私は会社の小さな歯車だ」とか、「コマの1つだ」とか言うでしょう。それも、そうかもしれません。しかし、もし、神さまが必要としている重要な歯車、コマだと考えたならどうでしょうか?ヨセフはこの後、福音書に出ていません。大工であったことは確かですが、何をしたとか、何を言ったとか書かれていません。イエス様が12歳のときに、マリヤと一緒に捜したぐらいです。でも、幼子イエスを守ったのは、ヨセフであります。ヨセフはイエス様の父として、重要な任務を成し遂げたのではないでしょうか?森の動物たちによる、降誕劇がありました。ヨセフやマリヤ、羊や馬、ロバなど、すぐ配役が決まりました。最後にハリネズミが一匹、配役からあぶれてしまいました。彼は何も言わないで、するするっと、もみの木に登りました。そして一番上で、体をくるっと丸めました。他の動物たちはとても感激しました。なぜなら、ハリネズミが星のように見えたからです。私たちは主役になれないと、自己憐憫に陥って、へそを曲げてしまうかもしれません。でも、神さまは私たちを無駄な存在として造られませんでした。適材適所という言葉がありますが、最も良い場所にその人を遣わして、その人しかできないことをやらせてくださいます。ヨセフはまさしく、そういう人物でした。信仰生活に重要なことは何でしょう?ヨシュアのような勇敢さやダニエルのような賜物も重要かもしれません。しかし、目立たないかもしれませんが、信仰生活で重要なことは、従順、あるいは忠実ということではないかと思います。

2.成就するために

 マタイによる福音書の特徴は何でしょう?「旧約聖書の預言がイエス様によって成就された」ということを証明しています。今日の箇所には、3か所も出てきます。最初は、15節です。「ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した』と言われた事が成就するためであった。」旧約聖書のホセア111「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。」とあります。しかし、これが何だと思われるかもしれません。確かに、イスラエルの民はヨセフのおかげで、エジプトに長い間、暮らしました。王様が代わってからは奴隷になってしまいました。その後、指導者モーセがたてられ、エジプトから脱出することができました。でも、一世代の人たちは、不従順のゆえに約束の地に入ることができませんでした。ヨシュアによって子孫たちが約束の地に入ることができました。しかし、その人たちも土着の神様を信じて、堕落してしまいました。では、なぜ、マタイはホセヤのことばを借りて、「『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した』と言われた事が成就するためであった」と書いたのでしょうか?それは、イエス様がまことのイスラエルとして、イスラエルの失敗をあがなったということです。つまり、イスラエルと1つになって、踏み直したということです。私たち異邦人には、あまり関係のないことなのですが、神の民イスラエルということにこだわりがあったと思います。

 その次は、17節「そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。」です。ヘロデ王は博士たちにだまされたことが分かると、怒って、兵士たちを派遣しました。ターミネーターであります。ヘロデはベツレヘムとその近辺にいる二歳以下の男の子たちをひとり残らず殺させました。何という残酷なことが起きたのでしょう。18節にはエレミヤの預言が記されています。「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」ラケルはイスラエルの生みの親です。ユダの民がバビロンに連れ去られたときラケルの墓の前を通りました。そのとき、エレミヤは「ラケルは墓の中で、どんなに悲しみ嘆いたことであろう」と預言しました。このラケルの嘆きが、ベツレヘムの母親の嘆きになったということです。ヨセファスを含めて当時の歴史家は、「ベツレヘムで殺された幼児の数はせいぜい2,30人程度で、ヘロデの残虐行為に比べれば大したことではなかった」と言います。ローマ・カトリック教会では「幼子殉教者」(聖人)としています。イエス様のために命を落とした最初の殉教者としてみなされています。それにしても、どうしてこういうことが起こるのでしょうか?もちろん、その頃の時代は残虐的なことが多くあったでしょう。しかし、聖書的に考えるなら、この世の王国とキリストによる神の国との戦いであります。幼子たちは、その戦いの最初の犠牲となったわけです。日本もキリシタンの迫害があり、30万人くらい殉教しています。ある人は、「ロ帝やドミティアヌス帝などのローマの時代の 全殉教者数に次いで、この短期間の日本のキリシタンの時代の殉教者数が史上第2位である」と言っています。つまり、こういうことです。私たちのところに福音が届いていますが、背後には多くの血が流されているということです。私たちは信仰を持つのに、血を流していません。しかし、迫害の時代では、自分の命とひきかえだったということです。こういうことを考えると、信仰を当たり前だと考えてはいけないということです。ある意味では、殉教者の血の上に、私たちの信仰があるということです。

 3つ目です。222-23「しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。そして、夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ちのいた。そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して『この方はナザレ人と呼ばれる』と言われた事が成就するためであった。」アケラオは父ヘロデにまさる残虐な王で、国中の有力者3000人を計画的に殺し、その悪政のため王政は長続きしなかったようです。そのため、彼らはガリラヤ地方に立ち退き、ナザレという町に住みました。ナザレはヨセフとマリヤの故郷です。人々は「メシヤはダビデの町ベツレヘムで生まれる」という預言は知っていたでしょう。しかし、その後、どうなったか知る由もありませんでした。神さまはあえて、地図にものっていないような、村に住まわせたのです。「この方はナザレ人と呼ばれる」という預言は旧約聖書にありません。おそらくマタイは、メシヤが他の預言者のようにさげすまれるというふうに預言しているのだと思います。ヨハネ1章でナタナエルは「ナザレから何の良いものが出るだろう」と言いました。ですから、ナザレという場所、あるいはナザレ人は、良く思われていなかったようであります。地理的にガリラヤはイスラエルの北に位置し、昔はアッシリヤによって滅ぼされたところであります。そういう暗い町でイエス様は育ち、30歳になったとき、ガリラヤから宣教を開始されました。イザヤ書9章はクリスマスを預言している箇所として有名です。そこに、メシヤの活動が預言されています。イザヤ91-2「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」ゼブルンとナフタリに住んでいた人たちは、アッシリヤによって国外に連れていかれました。その後、他の民族が代わりに住み、民族が根絶やしにされることになりました。そんなはずかしめを受けた人たちに、まっさきにメシヤが現れたのです。「異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」アーメン。

 私は秋田の出身です。秋田は裏日本でどんよりと曇っています。晴れの日が1年に55日くらいだということを聞いたことがあります。全国の天気情報を見ると、秋田は曇りか雨が多いです。だから秋田では、うつ病になる人が多いということを聞いたことがあります。そういう北国で生まれ、育った私がクリスチャンになって、しかも牧師をやっているこということは主のあわれみであり、奇蹟です。アーメン。まさしく、やみの中を歩み、死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照ったということです。

3.用いられたヨセフ

 結論的に言いますと、ヨセフは神さまから用いられたということです。第一は、幼子イエス様を守るために用いられました。第二は、「預言が成就するために」用いられました。「用いられた」というよりは振り回されたという方が当たっているかもしれません。私たちは自分の意思や決断で人生を歩んでいると思っているかもしれません。もちろん、神さまは私たちに自由意思を与えておられます。神さまが「そうしろ!」と命じているにも関わらず、従わない場合もあるでしょう。ヨセフの場合はどうでしょうか?ヨセフの場合は、多くの場合、「夢」によって導かれました。夢ですよ!ヨセフは「あなたの妻、マリヤを迎えなさい」と言われたときも夢でした。また、「立って、エジプトに逃げなさい」と言われたときも夢でした。さらに、「エジプトから、イスラエルの地に行きなさい」と言われたのも夢でした。さらに、「ガリラヤの地に立ち退いた」のも夢でした。合計、4回も夢で導かれ、ヨセフはそのたびごとに従いました。福音派の学者たちはおそらくこのように言うでしょう。「聖書が完成した今は、夢や幻は終わった。神さまは聖書のみことばによって語られる」と。しかし、どこにそのようなことが書かれているでしょうか?むしろ、使徒の働き2章には「終わりの日に、青年は幻を見、老人は夢を見る」と書いてあります。もちろん、「すべての夢を信じなさい」とか、「夢で導かれなさい」という意味ではありません。では、なぜ、神さまは夢でヨセフに導かれたかということです。また、終わりの日に、幻や夢を見るというのはなぜでしょうか?

 私はこういうことだと思います。私たち現代人はあまりにも目に見えるものに頼りすぎています。神さまのみ声に耳を傾けるとか、神さまからビジョンをいただくということはほとんどないでしょう。クリスチャンでさえも、聖書を読むけれど、深く瞑想して、神さまに聞くということをしているでしょうか?ちょっとだけ祈って、あとは自分の頭で考えるという姿勢ではないでしょうか?忙しくしている現代人は、神さまからどのように導きを得たら良いのでしょうか?いや、神さまの導きなど求めないかもしれません。インターネットや携帯のラインで「大丈夫」と言っているかもしれません。私自身も神さまにどれくらい時間を与えているだろうか?日常的なことに追われているような気がします。昨年の初め、出かけたことがありますが、三日目で深く考えることができました。でも、帰らなければならないので、現実に引き戻されました。夢はどうでしょうか?過去のトラウマがよみがえるような夢で、とても神さまからのものとは言えません。たまに寝ているとき異言が出ていることがあります。でも、意識が戻ると同時に異言も止んでしまいます。問題なのは自分の意識かもしれません。あまりにも、日常的なことに意識が捕らわれているので、神さまの声も、神さまからのビジョンもいただけないのかもしれません。私たちはヨセフの時よりも、もっと恵まれた環境の中にいます。ヨセフの時は旧約聖書がありませんでした。また、聖霊が下っていなかったので、御霊の内なる声もありませんでした。私たちは神さまの導きを求めやすい、恵みの時代の中にいます。しかし、ヨセフの頃と違い、情報が洪水のように流れているので、この世の方に目が行きがちであります。詩篇46篇に現代人の必要なみことばがあります。詩篇46「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」

 ヨセフは夢でありましたが、神さまからの命令に常に従いました。それも1回限りではなく、4回も従いました。神さまはヘロデ王から御子を守るために、ヨセフの手足が必要でした。ヨセフは夜のうちに立って、マリヤと幼子イエスを連れてエジプトに逃れました。その距離は、直線距離で350キロもあります。ヘロデ王が死ぬと、イスラエル、そしてガリラヤに赴きました。ヨセフたちは目立たないナザレで暮らしました。それはイエス様がナザレ人と呼ばれる預言の成就のためでした。エジプトへ下って、エジプトから呼び出されることも預言の成就でした。そのように考えるとヨセフは歯車とかコマではありません。神さまの御用を果たす代理人、エージェントです。神さまの計画がなるためならば、「主役が良いとか、脇役が嫌だ」などと言っていられません。私たちの人生も同じではないでしょうか?007とかスパイ映画を見ると、あるとき突然、極秘命令が与えられます。その命令を果たすために、命が狙われるシーンが何度もあります。映画なので、主人公は死なないので安心して見られます。しかし、私たちの場合は、そうではありません。「志半ばで」ということもあるかもしれません。ヨセフは長生きしたとは書かれていません。イエス様が青年のとき、亡くなったようであります。それでも、私たちはヨセフのように、神さまからの命令には全力で従う、そういう姿勢が必要だと思います。あるいは、世の人にはほとんど評価されないかもしれません。でも、重要なのは神さまからの評価、神さまからいただく賞与であります。

ですから、一番最初に知らなければならないことは、何のために私は生かされているか?神からの使命に気付くことであります。使命は英語でミッションですが、日本語では命を使うと書きます。すごいことばだなーと思います。タクシーは空車のときは、ふらふら走っています。空車のタクシーの後ろを走っているとどこで止まるか分からないので危険です。でも、いったん、タクシーがお客さんを乗せ、行き先を聞いたらどうでしょうか?メーターをあげて、言われたところへ走ります。空車のときとは走り方がぜんぜん違います。私たちの人生もイエス様がいなかったら、自分の欲望のまま勝手気ままに生きるかもしれません。でも、主なるイエス様をお乗せしたらどうでしょうか?「はい、わかりました。」とばかり、ご命令に従うべきではないでしょうか。神さまはあなたにしかできない使命を与えてくださいます。人と比べて大きいとか小さいとか、重要だとか重要でないとか関係がありません。神さまはあなたに成し遂げてもらいたい、あなた固有のものを用意しておられます。どうぞ、主の御声に耳を傾けましょう。また、必要ならば夢と幻を見せていただきましょう。聞いたならヨセフのよう「立って従う」者でありたいと思います。

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