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2016年1月22日 (金)

メシヤの試験 マタイ4:1-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.1.24

 

 世の中には様々な試験があります。入学試験、会社の採用試験、免許や資格をとるための試験があります。おそらく、試験のお好きな人はだれもいらっしゃらないでしょう。実は、イエス様も試験を受けられました。それはメシヤ(救い主)としてやっていけるかどうかという試験です。車でも走行試験があり、オイル漏れはしないか、足回りは大丈夫かと調べます。数々の試験が済んで、はじめて店頭に並べられるわけです。イエス様も御霊に導かれて、悪魔の誘惑を受けられました。ですから、それはメシヤとしての試験とも言うことができます。マタイ41-2「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。」私たちでしたら1食べないだけで、空腹を覚えます。3日も食べないなら、「死んでしまう」と大騒ぎになるでしょう。しかし、イエス様は4040夜断食したのちに誘惑に会われたのですから、肉体的には最も弱い状態でありました。Ⅰヨハネ2章には「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」と人間が持つ3つの欲が記されています。イエス様は真のメシヤとなるために、これら3つの試験を受けられました。

 

1.肉の欲

 

 イエス様は肉の欲の試験を受けられました。マタイ4:3すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」原文では「もし、あなたが神の子なら」と書いています。悪魔は「もし」という疑いの種を最初から混ぜています。こういう誘惑は人間には通用しません。「石がパンになるわけがないでしょう。馬鹿じゃないの?」でおしまいです。イエス様は、これができたので誘惑になったのです。パレスチナの荒野にころがっている石は、パンそっくりです。イエス様は40日も食べていないのですから、パンに見えたはずです。「パクッ」と食べたら、歯が「ポロッ」となるかもしれません。食欲は肉の欲の中でも最も強いと言われています。イエス様は神の子でしたから、本当は石をパンに変えることができました。ですから、イエス様にとってものすごい誘惑でありました。

 

 しかし、イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによると書いてある」と、その誘惑を退けられました。ところで、そのこととメシヤの試験は何の関係があるのでしょう。その当時の人々の一番の必要は経済問題でした。ユダヤ人はこれまで何度も独立戦争を起こし、最後にはローマによって鎮圧されました。民衆は貧しさと重税で苦しんでいました。ですから、人々は食べ物の問題を解決できるメシヤを求めていました。イエス様はのちに、5つのパンと2匹の魚で、5000人以上の人を養われました。そのとき、人々は、「この方こそ、来られるはずの預言者だ」とイエス様をつかまえて王様にしようとしました(参考.ヨハ6:15)。まさしく、人々は経済の問題を解決してくれるメシヤを求めていたのです。日本人の私たちも経済的問題の解決を政府に求めています。政府も景気の回復を第一に取り組んでいます「食べる」ことは、なまやさしいことではありません。世の人は、「キリスト教を信仰したら腹いっぱいなるのか」と馬鹿にするかもしれません。

 

 食べていけるかは、この世においては重大は問題です。しかし、イエス様は「人はパンだけで生きるのではない」と言われました。その意味は「パンも確かに必要だろう。しかし、それよりも優先すべきものがある」ということです。もっと必要なのは「神の口から出る一つ一つのことば」であると言われました。このところで、イエス様は旧約聖書の申命記からこのことばを引用されました。イスラエルの民は、40年間も荒野を旅しました。彼らは食べ物がないと不平をもらしましたが、餓死したのでしょうか。そうではありせん。天からのパン、マナによって養われました。主は「人はパンだけて生きるのではない」ということをわからせるために、彼らを苦しめ、飢えさせたのであります。しかし、イスラエルの民は不合格でした。一方、イエス様は彼らを代表するかのように、荒野の40年を40日の断食にして、悪魔から誘惑(試験)を受けたのです。そして、イエス様はまことのイスラエルとして勝利されました。同時にそれは、人類の先祖である、アダムとエバが破れた誘惑にも勝利したのです。エバは、園の中央の木の実を見たとき、「まことに食べるに良く」思ったとあります。食欲、つまり肉欲はものすごい誘惑です。悪魔はこれを突いてきます。イスラエルの民も負けました。アダムとエバも負けました。しかし、イエス・キリストは勝利されました。「パンも大切だけれど、人間が生きるためにもっと大切なものがある。それは、神の口から出る、神の一つ一つのことばである」とおっしゃったのです。

 

ある人々は、「イエス・キリストを信じても、お腹が膨らむのか。信仰すれば、逆に生活に困ることが多くなるのでは」と言うかもしれません。「クリスチャンになったら嘘やごまかしもしていけない。それじゃ仕事ができないでしょう。日曜日休んだら、どこへも行けない。」と言うかもしれません。しかし、人は経済的に満たされて、食物が足りて、本当に生きるでしょうか。残念ながら、人々の魂が満たされていません。それを満たすために、必死になっています。悪魔は、次から次と欲望を与え、「満たせ」「満たせと」けしかけます。それでも、心の奥底が満たされません。益々、深みにはまっています。現代人は食べ過ぎのため、どうしたらダイエットできるか悩んでいます。イエス・キリストは、悪魔が与えた肉の欲に勝利しました。イエス様は私たちに肉欲に勝利できる秘訣を教えてくださいました。私たちが神のことばを優先させるときに、魂が生きて肉の欲に打ち勝つことができるのです。昔の人は「衣食足りて、礼節を知る」と言いました。戦後、日本は経済復興を見事に成し遂げました。しかし、人はパン(食物)だけでは、生きることができないのです。「いや、教育やカルチャーセンター、趣味・娯楽もあります」とおっしゃるかもしれません。それでも、魂の奥底は満足していないのです。聖書はロゴス、一般的な神のみこころが記されています。しかし、神の口から出ることばはレーマと呼ばれています。私たちは、日々、神の口から出る、生きたことばレーマが必要であります。数日前の残りではなく、今日、私に語られる神のことばをいただきましょう。

 

2.目の欲

 

 次に、イエス様は目の欲の試験を受けられました。マタイ45-7すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」驚くべきことに、悪魔は聖書を引用して誘惑しました。確かに、同じことばが詩篇91篇にあります。そこには、主を信頼する者は、あらゆる災いから守られると書いてあります。しかし、悪魔の提案のように、わざと、自らを危険にさらすことは、神様を試みることになります。悪魔も巧みに聖書を用いて来ます。「もし、神の子なら、宮の頂上から飛び降りてごらんなさい」という誘惑は、イエス様にとって、どんな試験だったでしょう。当時の人々は、「メシヤは、あっと驚く方法で、突然、天から現われる。そして、様々な奇跡を行なうはずだ。それがメシヤのとしての証だ」と信じていたようです。子供のテレビ番組にもありますが、ヒーローは、「○○参上」と、わざわざ高い所に現われます。自分の名を名乗ったあと、高いところからパーッと降りて戦います。人々は、「メシヤもヒーローのようにエルサレムの神殿の頂きに現れるはずだ。そして、目覚ましい奇跡や不思議を行なって、ローマの軍隊を打ち負かしてくれるんだ」と信じていたのです。

 

 Ⅰヨハネ216が示す、二番目のこの世が持つ誘惑は、「目の欲」です。実は、あのエバも園の中央の木の実を見たとき、目に慕わしく映りました。尾山師の現代訳では「その木は実に魅力的で美しかった」と訳しています。「目の欲」は「人に良く見せたい」という、見栄とか虚栄心、そして、だれよりも目立ちたいという欲望です。女性はお化粧をします。ところで、Ⅰペテロ33は結婚式でよく引用される聖句です。「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないもの…心の中の隠れた内なる人がらを飾りにしなさい」とあります。つまり、過度に身を飾るのは問題であるということです。それでは、男性は目の欲がないのでしょうか。化粧の代わりに、虚栄心があります。ナポレオンのようなヒーローになれなくても、ナポレオンを飲むくらい金持ちになりたいと思っています。ある人が、歴史的な世界のヒーローが最後にどうなったか皮肉って言いました。「世界を征服したアレキサンダーも、今では一つの都市の名前になっているだけです。ナポレオンもブランディとして酒瓶に残されているだけです。全アジアを支配したチンギスカンも今では、鍋料理でしか知られていません」と。

 

 しかし、イエス・キリストはそういうヒーローやスーパースターではありませんでした。確かに奇跡やしるしを行ないましたが、人を信じさせるためではありません。昔から、不思議な奇跡を行なって、あっと驚かせて人々の心を捕まえる教祖的な人はいっぱいいました。インドにサイババという超能力者がいましたが、彼をメシヤとして、礼拝している人も大勢いました。彼は本当に病気を治したり、奇跡を行なうことができました。しかし、だからと言って彼が、神であるわけがありません。悪魔の力を借りてやっていたのです。他にも、そういう人がいます。彼らは人を驚かすような事をしますが、人を救うことはできません。

 

 イエス様はそういうものを売り物にはしませんでした。むしろ、イザヤ書53章のように、外面的には人々が求めるメシヤとはほど遠いものでした。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく。私たちが慕うような見栄えもない!」と書いてあります。本当に、キリストの十字架を見たら、ヒーローでもなんでもありません。それで、人々はこう叫びました。「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。他人は救ったが、自分は救えない。イスラエルの王様なら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。」これは、神の子イエスにとって、ものすごい誘惑だったでしょう。「よし!」と十字架からパーッと降りて、ローマ兵士を一網打尽にすることもたやすいことでした。しかし、イエス様はその誘惑に勝利できました。十字架から降りることもできましたが、人類を救うために十字架にとどまっていたのです。それができたのは、あのとき悪魔の試験を突破していたからです。

 

 キリスト教には奇跡やしるしもあります。イエス・キリストも多くの力あるわざや癒しを行ないました。しかし、その動機は「愛」でした。奇跡やしるしは、人をふり向かせ、信じさせるためのものではなかったのです。「人をあっと言わせて、信じさせるのは」正統な伝道法ではありません。また、わざと危険を犯して、神様が奇跡を起こして助けてくれるかどうか試すのもよくありません。悪魔が引用した詩篇91篇は、主を心から信頼する者に、与えられる不思議な守りであります。わざと危険を犯したり無茶するのはよくありません。自分たちも最善の備えをしていくべきです。それでも、この世では思いがけないことがあります。そのとき、主は奇跡を起こしてでも助けて下さるのです。私が主を試みないようにしている分野が2つあります。それは車の運転と健康管理です。確かに神さまは私を事故から守ってくださるでしょう。でも、スピードを出したり、乱暴な運転をすると事故にあうでしょう。出かける前にお祈りし、安全運転するのは私の責任です。また、暴飲暴食や過労も良くないと思っています。私は肉体作業など、一度決めたら突進する方です。無茶して怪我したり、体を壊すこともあります。ですから、健康管理をするのは私の責任です。でも、愛なる神さまは詩篇91篇のごとく私を守ってくださると信じます。

 

 私たちは目の欲、つまり、人に良く見せようとしたり、虚栄心を張る誘惑に勝利する必要があります。たとえ立派なことや、大きなことをしても、心の動機が問題です。特に神さまから大きな賜物が与えられている人は要注意です。私のように人々の前に立つ奉仕も誘惑の1つになります。ある指導者は奇蹟や癒しによって、人々の心をもてあそび、堕落してしまいました。パウロは「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません」と言いました。偉大なことができたとしても、すべての栄光を主にお返ししながら、へりくだって主の御跡に従っていきたいと思います。

 

3.暮らし向きの自慢

 

 第三番目に、イエス様は暮らし向きの自慢の試験を受けられました。マタイ48-10今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」「この世のすべての国々とその栄華」と言っても、シネマ映画ではありません。全世界の支配権とその繁栄であります。世界全部が自分のものになるというのは、すごいことであります。ただし、「悪魔をひれ伏して拝むなら」という条件付きです。一見、馬鹿らしいと思うかもしれませんが、そのために魂を悪魔に売っている人はこの世に大勢います。Ⅰヨハネ216「暮らし向きの自慢」とあります。エバはその木の実が「賢くするに良い」と見えたと言いますから、自慢、誇り、プライドと関係あるように思えます。口語訳では「持ち物の誇り」と訳しています。とにかく、持ち物でも知性でもたくさん持つとおごりが出てきます。イエス様の場合はメシヤとして、国々を支配し、その繁栄を自分のものにすることは、魅力的だったでしょう。すべてのものを従え、軍隊を持ち、どんなこともできます。当時の人たちは、メシヤがローマを倒し、神政イスラエルを再建することを期待していました。イエス様を「ダビデの子」と呼んでいるのは、富と力と知恵のある王様を望んでいたからです。しかし、イエス様はこの世の王であることを否定しました。たとえば、エルサレムに入城するときは、着飾った軍馬ではなく、ロバの子どもに乗りました。エルサレムで何も起こりませんでした。人々は、最初は歓迎しました。しかし、力のないメシヤに失望し、憎しみをもって「十字架につけろ」と叫んだのです。

 

それでは、悪魔は本当に、この世のすべての国々とその栄華(繁栄)を持っているのでしょうか。ルカ46「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです」と言いました。不思議なことにイエス様は「馬鹿こけ。それは神さまのものだ。お前のものじゃない」と否定していません。実は、半分だけ悪魔の言うことはあっているのです。元来、この世の国々と栄華が神のものでした。そして、神様はそれを人間に与えようとしたのです。ところが、先祖アダムが神に反逆し自分の道を歩み、堕落しました。そのため、人間の権利がなくなり、悪魔がそれを横取りしたのです。本来は人間のためのものであったのですが、悪魔は「この世の神」としてそれらを支配しているのです。 ある讃美歌は「この世は、すべて神の支配」と賛美しています。しかし、それは半分当たっていて、半分は違っています。悪魔がすべての国々とその栄華を持っています。ところが、イエス・キリストは悪魔を退け、十字架に死んで三日目によみがえりました。そして、悪魔が持っている、すべてのものを奪回し、神の国をもたらしました。目には見えませんが、この世の中に神の国が到来しているのです。イエス・キリストを信じる人々が神の民です。そして、イエス・キリストの御名によって、本来私たちのものであった、繁栄と健康と祝福を取り戻して良いのです。

 

 どうか、悪魔が差し出す、つかの間のこの世の喜び、この世の繁栄にだまされないで下さい。悪魔は神の国に入らせまいと、イエス様を誘惑した同じ手口でせまってきます。「神様を礼拝するより、私を礼拝しなさい。そうすれば、物質的に豊かになり、健康にもなります。家内安全、商売繁盛、子宝にも恵まれ、夫婦親子仲良く暮らせますよ」と誘惑します。この世の宗教は背後に悪魔がいます。悪魔は神のように礼拝を受けたくてしかたがないのです。ですから、人々が礼拝する偶像に、悪霊が集まってきます。人々はつかの間のご利益を受ける代わりに、神の国から遠ざけられるのです。「良い物をあげるけれども、魂だけはいただくよ」という魂胆です。どうぞ、「暮らし向きの自慢、持ち物の誇り」という誘惑に嵌まらないようにしましょう。この世の多くの人は、「神を礼拝する時間があったら、少しでも働いて、豊かな生活を」と思っています。「献金をするくらいなら、自分のために使った方が良い」とも言うかもしれません。しかし、違います。イエス様はおっしゃいました。「たとえ、全世界を手にいれても、まことの命(本当の自分自身)を失ったらどうしますか。それは何によっても、とり戻すことはできません」と。現代は、物があっても、物足りない」と言われています。なぜなら、まことの神から離れているからです。アウグスチヌスは「私たちの魂は、まことの造り主のところに立ち返らなければ本当の平安はない」と言いました。どうぞ、つかのまのこの世の喜びではなく、永遠の命、神の国を求めましょう。その上で、神様が下さる祝福をよころぶことができるのです。順番が違います。順番はあくまでも神の国、神様を礼拝することです。「神の国とその義をと第一に求めるとき。」それら、衣食住の必要はすべて添えて与えられるのです。

 

 私たちの主イエス・キリストは、イスラエルの代表、人類の代表として、悪魔に立ち向かわれ勝利しました。イエス様は、単なる私たちの模範となっただけではなく、勝利の手付金を与えてくださったのです。言い換えると、イエス様は私たちが悪魔の誘惑に打ち勝つ保証と力を与えてくださったのです。つまり、イエス様を信じ、みことばによって立ち向かうなら誘惑に勝利できるということです。昔、このような賛美が歌われました。「イエスは勝利を取られた十字架の上で。イエスは勝利をとられた十字架の上で。イエスは勝利をすでに取られた。イエスは勝利をすでに取られた。」よみがえられたイエス様は、今どこにおられるのでしょうか。イエス様を信じる人の内側にいらっしゃいます。聖霊によって、私たちと共におられます。イエス様は悪魔の誘惑に立ち向かわれましたが、自分の考えではなく、聖書のみことばを引用して語りました。私たちもイエス様がみことばによって悪魔に立ち向かわれたように、みことばを正しく知って、みことばによって立ち向かいましょう。みことば御霊の剣です。悪魔の誘惑の縄や網を立ち切ることが出来きます。アーメン。悪魔に勝利されたイエス様が先頭に立って行かれます。私たちもその後を従っていきましょう。主が勝利の道、脱出の道を備えて下さいます。 アーメン。

 

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