« 激辛のメッセージ マタイ3:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.1.10 | トップページ | メシヤの試験 マタイ4:1-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.1.24 »

2016年1月16日 (土)

メシヤの就任式 マタイ3:13-17 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.1.17

 1997年、今から19年前の126日に同じ個所から、同じテーマで語った頃があります。その時の原稿を読んでみて、「ずいぶん押し付けがましいメッセージだなー」と反省しました。年を取ると、チャレンジよりも励ましの方が多くなるのかもしれません。きょうはバプテスマのヨハネからイエス様が洗礼を受けるシーンであります。興味があるのは、「洗礼を受けたとき、イエス様はヨルダン川にどっぷりと浸かったのか、それともひしゃくのようなもので上から水をかけられたのか、どっちだろう」ということです。おそらくバプテスト系の教会だと前者だと主張し、長老派だと後者だと主張するのではないかと思います。きょうは、そういうことには触れないで、バプテスマの出来事を3つの方向から学びたいと思います。

1.罪人と同化するため

 イエス様があえてバプテスマを受けたのは、罪人と同化するためです。同化とは同じ立場に立つ、identifyという意味です。バプテスマのヨハネはどのような洗礼を授けていたのでしょうか?マタイ36「自分の罪を告白して、ヨルダン川でバプテスマを受けた」と書かれています。それは罪の悔い改めのバプテスマ、罪の赦しを受けるためのバプテスマです。しかし、イエス様には罪がなかったので、悔い改める必要がありません。だから、ヨハネはイエス様に「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか」と断ったのです。他の聖書は、「極力断ろうとした」「しきりに辞退した」と訳しています。今風で言うなら、「とんでもありません。逆でございますよ。私の方があなたからバプテスマを受けるべきです。どうか、ご辞退させてください」ということです。しかし、ヨハネはどうして、その方がメシヤだと分かったのでしょうか?恐らく、イエス様はバプテスマを受ける大勢の列に並んでいたと思われます。イエス様は「私はこういう者です」と、名刺を出して自己紹介をしたわけではないでしょう。ということはヨハネがイエス様を見たとき、「この方は違う。この方がメシヤだ」と霊的直観が与えらえたのだと思います。

 イエス様は「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、私たちにふさわしいのです」と言われました。そこでヨハネは承知したと書いてあります。「すべての正しいことを実行する」とはどういう意味でしょう?ここは牧師たちが好きな箇所かもしれません。「イエス様がバプテスマを受けるのは正しいと言われたのだから、あなたもバプテスマを受けるべきですよ」と勧めるでしょう。もちろん、そういう意味もあるでしょうが、もっと重要な意味があります。ギリシャ語の直訳は「すべての義が成就するためである」となります。つまり、「イエス様がバプテスマを受けることは、義が成就することなのだ」ということです。義というのは、人類の救いのことです。もっと言うと、私たちが義とされるために、イエス様はバプテスマを受けなければならなかったということです。父なる神さまは御子をこの世に遣わしました。それは、御子が人類の罪を負って、罪の贖いを成し遂げるためです。しかし、その時、重要なのは、御子が人間にならなければ、罪の身代わりにはなれないということです。そのため、イエス様は罪人が受けるバプテスマをご自分が受けたということです。つまり、バプテスマを受けることによって、同じ罪人になられたということです。これを、「罪人との同一化、identify」と言います。少し前、銭形平次が変な時間に再放送されていました。ある男が一人の女性の罪をかぶって死刑になるところでした。銭形平次は真相を知るために男がいる牢獄に入りました。すると新入りの歓迎ということで、牢名主はじめ、他の囚人からものすごく痛みつけられました。平次がその男性に近づくも、真相を話してくれません。明日、彼の死刑が下るのですが、牢名主は新入りが入るので、口減らしにその男性を今から殺すというのです。彼を救うために、平次が体をはって守りました。平次ひとりで、牢名主と他の囚人たちを「ふくろ」にしました。そのとき、男性はその女性に悪いことをした殿様がいることを伝えました。私が言いたいのは、平次が獄中の男性を救うためには、囚人となったということです。同じように、イエス様はバプテスマを受けることによって、罪人の中にご自分を同化したということです。ちょっと無理があったでしょうか?

 イザヤ書にその預言があります。イザヤ5312「彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」まさしく、イエス様は神にそむいた人たちとともに数えられたのです。それは、人々の罪を負うためでありました。20年前から、松戸の岡野先生ご夫妻が「生活伝道」ということを実践しておられます。牧師夫人がイザヤ書58章から「貧しい人に施し、苦しむ人を助けてあげるなら、あなたの光は暗闇の中に輝き渡る」という御言葉が与えられました。神様から「困っている人の友達になりなさい」と教えられました。その頃、お子さんが幼稚園に通っていましたが、お母さん方には色々なタイプがいらっしゃいました。自分としては、身なりの整った人と友達になりたいと思っていました。しかし、神様のみことばに従って、どちらかと言うと人から嫌われている人の友人になりました。雨の日はその人の子供を車で送ってあげたり、運動会では席をとってあげました。病気で買い物ができないときは買い物をしてあげたり、その人が忙しい時は子供をあずかってあげました。とにかく、愛して仕えたそうです。すると、他のお母さんたちが、「どうして、岡野さんは、あんな人に親切にできるの」と聞くのです。「いえ、いえ、私はそんなんじゃないの。私は以前ノーローゼになったこともある位なのよ」。自分の証をしました。不思議なことに、親切を受けている当人ではなくて、別の回りの人が興味を持って信仰を持ったそうです。先生は、「生活伝道とは、相手の立場に立ち、愛して仕えることから始まるのです」と教えてくださいました。イエス様が神の御座から降りて、人間になられました。しかも、罪人と同じラインに立ってくださったのです。罪人のレッテルをはられることを、人類を救う正しいこととして受け止めたのです。イエス様が高い所からではなく、罪人の私たちの所まで降りて来て下さったことを感謝したいと思います。

2.聖霊の油注ぎ

 マタイ316「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」イエス様が水のバプテスマを受けた直後のことです。その次に、イエス様は聖霊のバプテスマを受けました。これは、イエス様が公生涯を始めるために、聖霊の力が必要だったということです。では、どうしてそのようなことが言えるのでしょうか?そのことはイザヤ書61章に書かれています。イザヤ611「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」とあります。この書は、メシヤの使命が預言されている有名な箇所です。「わたし」というのはメシヤです。まず、メシヤは「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ」を受ける必要があります。これは聖霊が上から、油を注がれるということです。実際、旧約聖書に大祭司の任職式のときは、注ぎの油が頭にそそがれました(レビ記812)。イエス様の場合は、聖霊による油注ぎが必要でした。なぜなら、3つのことをするためです。第一は「貧しい者に良い知らせを伝え」という福音宣教です。第二は「心の傷ついた者をいやすために」という心と体の癒しです。第三は「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」という罪責感や悪霊から人々を解放するためです。つまり、イエス様はメシヤとしての使命を全うするためにどうしても聖霊による油注ぎが必要だったのです。使徒の働き10章でイエス様のことを説明しています。使徒1038「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」ナザレのイエスは、いわゆる人間イエスです。そのままでは何もできません。ところが、神さまがこの方に聖霊と力を注がれたので、良いわざをなし、悪魔に制せられているすべての人を癒すことができたのです。イエス様のミニストリーの原動力は聖霊の油注ぎであったということです。

 では、人間イエスは全く無力だったのかというとそうではありません。イエス様が12歳のとき、イエス様とその家族はエルサレムに上りました。数日後、みんなで帰ってくるとき、少年イエスが群れの中にいませんでした。なんと、少年イエスは律法学者たちと聖書のことで渡り合っていました。人々は少年イエスの知恵と答えにおどろいていました。両親が少年イエスを叱ったとき、「私は父の家にいることをご存じなかったのですか」と答えました。原文は、「私は父の仕事をしていた」という意味です。つまり、イエス様は子どものときから、自分は何者であり、何をすべきか知っていたということです。イエス様は肉体を持っていましたが、同時に神でした。しかし、イエス様はご自分を制限されたのです。なぜならば、人間の代表として生きる必要があったからです。イエス様はご自分の力や考えではなく、常に父なる神さまに依存しておられました。ヨハネ519「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」つまり、イエス様は人間の代表として、父なる神さまのみ旨を行いました。また、そのとき父なる神さまの力、聖霊の力によって行ったのです。イエス様が天にお帰りになる前に、このようにおっしゃいました。ヨハネ1412「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」これはどういう意味でしょう?イエス様が父のみもとから、聖霊を注いだら、あなたがも同じことができるということです。実際にペテロは足の萎えた人を歩かせ、死人をよみがえらせました。このことは、今日も同じで、私たちが聖霊を内側にいただくだけでなく、上から聖霊の油を注ぎを受ける必要があります。つまり、聖霊による新生だけではなく、聖霊のバプテスマを受けるということです。これこそが、私たちのミニストリーの原動力だということです。

 私は19875月に亀有教会に赴任させていただきました。今は「赴任させていただいた」と言えますが、当時は「来てやった」という傲慢さがありました。なぜなら、来たくなかったからです。こちらに来る前に、みんなが祈ってくれました。特に、異言を語る人たちが、私を取り囲んで私のために熱心に祈ってくれました。そのとき、遠くで鳩が飛んでいる幻を見ました。小さくてぼんやりしていたので、大川牧師には言えませんでした。ところが、その時それはイザヤ書61章のみことばであると確信しました。そのとき、「このみことばはイエス様のみことばであって、私にはおこがましい、とんでもない」と思いました。ところが、このみことばが私の心にとどまり、そうだ「これを行うために、亀有に行くんだ」という確信が与えられました。ですから、イザヤ611は私にとって重要なみことばであります。イエス様は福音宣教と癒しと悪霊追い出しという3つのご奉仕をされました。ですから、私もこれら3つのことを聖霊によって行うべきだと悟ったのです。この30年近く、いろんな道草や迷いもあったかもしれません。でも、これら3つのことは一時も忘れたことはありません。弟子たちはペンテコステの日、約束の聖霊を上から受けました。そのとき聖霊は、激しい風のように、また炎のように弟子たちの上にくだりました。ところが、マタイ3章を見ると、聖霊は鳩のようにイエス様の上にくだりました。鳩は平和とか柔和さを象徴しています。でも、なぜ弟子たちのときは激しい風のように、また炎のように下ったのでしょうか?それは、彼らの中に罪があったからだと思います。聖霊は彼らの罪を消し去り、吹き飛ばすかのように彼らの上に下ったのです。イエス様の場合は罪が全くないので、聖霊は柔和な鳩のようにゆっくりと下ったのであります。しかし、どちらにしても聖霊の油注ぎが必要だということです。イエス様が公生涯において福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出しました。私たちもイエス様の弟子として同じようなミニストリーをするためには、聖霊の油注ぎが必要です。そういう奉仕は、私たちの力では全くできません。イエス様のように、また弟子たちのように、上から聖霊をいただきましょう。

3.御父による是認

 マタイ3:17「また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」天から告げる声とは、もちろん、父なる神さまからの声であります。おそらく、この声はイエス様だけではなく、バプテスマのヨハネも聞いたのではないかと思います。なぜなら、「見よ,behold」ということばが原文の聖書には2回も使われているからです。最初は、「見よ、天が開かれて、彼の上に聖霊がくだった」と書かれています。その次は、「見よ、天から声があった」と書かれています。ということは、第三者がその様子を見ていたということです。群衆がどうだったか分かりませんが、少なくともバプテスマのヨハネは目撃していたことでしょう。聖書でこのように人々に神さまが語られるのは、シナイ山の時以来ではないかと思います。もちろん、神さまは預言者に個人的に語られました。しかし、直接このように語られたのは、シナイ契約を結んだとき以来かもしれません。それほど、御子イエスの就任式は大事だったということです。聖書学者によると、御父の声は、旧約聖書からの引用であると言います。「愛する子」という言葉は、詩篇2篇にあります。詩篇2篇は王なるメシヤを歌った箇所ですから、イエス様は王なるメシヤとして就任させられたということです。そしてもうひとこと「私はこれを喜ぶ」は、イザヤ書42章にあります。イザヤ書42章はしもべなるメシヤを預言している箇所です。そうしますと、主イエス・キリストがどのようなメシヤとして就任されたのかがわかります。つまり、イエス様は王なるメシヤとして、同時にしもべなるメシヤとして就任されたのであります。残念ながら、私たちはイエス様を見るとき片方だけを強調しがちであります。そのために、ある時は人間イエスで躓いたり、ある時は王なるイエスとして遠くに感じるのかもしれません。イエス様は王であり、同時にしもべとして来られたんだということです。

 しかし、私が本日、強調したいことはこのことであります。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という御父のことばは、メシヤの就任式の際とても重要だったということです。なぜなら、このことばは、御子イエス様に対する承認、あるいは是認approvalのことばでもあるからです。イエス様はまだ何もしていません。これからどうなるかもわかっていません。あるいは使命を果たすことができないかもしれません。普通だったら、様子を見てから、あるいは結果を見てから「ああ、メシヤとしてふさわしい」と認めるべきであります。ところが、まだ何もやっていないのに、つまりメシヤとしての結果も出していないのに、父なる神さまは「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とおっしゃったのであります。これは御子イエス様にとって、とても重要なことでした。イエス様はこの時から公生涯をお始めになられました。マルコ1章には、イエス様の一日が記されています。マルコ135「さて、イエスは、朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」とあります。もちろん、イエス様は一日のはじめ、御父と交わっておられたのです。このとき、イエス様はどんなことを話しておられたのでしょうか?「お父さん。きょうはカペナウムに行って、盲人の目を開いてあげますよ。死人がいたら、よみがえらせてあげます。お父さん、見ていてください。」そんな風には祈らなかったと思います。なぜなら、イエス様はすでにメシヤとして是認されていたからです。しかし、ある人たちは神さまの愛を受けたくてがんばっているかもしれません。今のままじゃだめだ。もっとがんばらなければ愛されない。愛を受けるために一生懸命がんばる。しかし、それは当時の律法学者やパリサイ人たちです。彼らは律法主義の中にあったので、良い行いをすることによって神さまから受け入れられると思っていました。しかし、良い行いをしようとすればするほど、偽善的になり、神さまから離れてしまったのです。

 今から8年くらい前、スティブ・マクベイという先生が来られ、『恵みの歩み』ということを教えてくださいました。先生は8歳の時に救われ、16歳の時から説教をしました。教会だけではなく、駐車場で車の上から、あるいは映画館で並んでいる列の人たちに向かって説教をしました。19歳で主任牧師になり、21年間牧会しました。人数がどんどん増え、非常に成功していました。町でも有名になり、新聞記者が牧師の意見を聞きたいとやってきたほどです。ある時、神さまの命で、別の町の新しい教会に転任することになりました。みんなが引き止めましたが、みこころだと思って引き受けました。新しい教会で、一生懸命、教会を成長させようとがんばりました。もっと祈り、もっと勉強し、もっと働き、もっと訪問しました。しかし、人数は減るばかりでした。1年後、うつになり、まったくやる気がなくなりました。ある夜、「神様、何をしているんですか?何で、私をここに呼んだのですか」と泣きながら祈っていました。「何故、私に力を与えてくださらないのですか?神様、私はあなたを喜ばしてきたではないですか? 16歳の時から説教をしてきたのに。」最後に、天に向かってこう言いました。「私から何を望んでいるのですか?」主が答えてくださいました。肉声ではなく、霊に語りかけてくださいました。「スティーブ、あなたそのものを欲しい」。彼は、ミニストリーをするために、牧会をするために神様が私を欲しいと思っていました。そうではなく、神様は私自身を欲しいということが分かりました。「神様はお手伝いを求めているのではなくて、花嫁を求めておられる。神様の働きをする者を求めているのではなくて、神様の愛の対象を求めている」ということがわかりました。その時、スティーブはこう祈りました。「私の生活となっているすべてのものは、全部あなたにおゆだねいたします。あなたが好きなようにどうぞ用いてください。もう、私は全部手放します。」スティーブ先生はそれから、『恵みの歩み』ということを世界中に知らせています。

 父なる神さまは私たちが、何ができるかにはあまり興味がありません。私たち自身に興味があるのです。イエス様を信じた私たちに対して、神さまは満足しておられます。私たちは良い行いをもっとしなければ愛されないと思ってしまいます。しかし、イエス様に言われたように、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」とおっしゃっています。それは、イエス様を信じた時から神さまから認められている、是認されているということです。私たちは「まだ足りない」という律法からではなく、「もう十分愛され、受け入れられている」という恵みから始めるべきです。

|

« 激辛のメッセージ マタイ3:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.1.10 | トップページ | メシヤの試験 マタイ4:1-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.1.24 »