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2016年1月 8日 (金)

激辛のメッセージ マタイ3:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.1.10

 本日登場するヨハネは、イエス様よりも6か月前に生まれたエリザベツの子どもです。血縁的にはイエス様のいとこになります。彼はイエス様が公生涯を始める前に道を備えた人であります。バプテスマというのは洗礼という意味ですから、洗礼者ヨハネとも呼ばれています。彼のメッセージは歯に布を着せぬというか、激辛のメッセージです。きょうは、荒野で叫んだバプテスマのヨハネから3つのことを学びたいと思います。

1.ヨハネの使命

 「そのころ」と書いてありますが、いつなのでしょうか?旧約聖書の最後はマラキ書です。マラキは「主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」と預言しました。それから預言は止み、なんと400年もたっていました。その間、ユダヤ人はギリシャと戦争をして独立したこともありました。しかし、最後にはローマに敗れ、その支配下に置かれました。ローマの政策により、宗教的な自由だけは与えられていました。人々は度重なる戦争によって、経済的にも精神的にも破れ果て、メシヤによる復興を待ち望んでいました。だから、バプテスマのヨハネが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と叫んだとき、大勢の人たちが荒野までやって来たのです。ヨハネはどのような生活をしていたのでしょうか?彼は荒野に住み、隠遁者のような生活をしていました。らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜でありました。当時の人たちは、彼の風貌を見て「ああ、エリヤの再来だ」と思ったに違いありません。ヨハネは当時のユダヤ教を否定して、荒野に住み、荒野から御国の福音を発信したのであります。こう考えると、人々が集まるのは、場所とか設備は関係ありません。まるで、おいしいラーメンを食べたいがために集まるのと同じです。

 ところで、バプテスマのヨハネの使命とは何でしょうか?マタイは、イザヤ書の預言を引用して「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよと言われた人である」と説明しています。イザヤ書40章は、まさしくメシヤが来られる時の預言です。しかし、その前に道を用意する、先駆者的な人物が現れるとも預言しています。当時もそうですが、王様や天皇が町を訪れるときは、みっともない建物を取り除き、道を整備します。相模大野というところに「行幸通り」というのがあります。天皇が行幸するために道路を整備したわけです。調べてみたら、皇居と東京駅の道が、行幸通りの本家本元でした。全国にそういう名の通りがあるかもしれません。ともかく、ヨハネは人々の心を耕すために、悔い改めのバプテスマをさずけたのであります。そうでないと、メシヤが来たときにその働きが無駄になるからです。無駄というよりも、人々が信じないゆえに、神さまからさばかれることがないためです。バプテスマのヨハネは、荒野に叫ぶ声であり、やがて来るメシヤを指し示す指に甘んじました。ヨハネは、人々に罪の悔い改めをせまり、やがて来るメシヤを信じるように先駆者的な働きをしたのであります。エレミヤ書4章に「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな」と書いてあります。いばらの地はこの世のことでいっぱいな心です。そういう心は、福音の種が落ちたとしても成長しません。耕地とありますが、罪を悔い改めるということは心を耕すことです。その後に、福音の種を蒔くならば本当の救いに至るということです。

 このところで神学的なことを語らせていただきます。ヨハネは罪の悔い改めを促し、人々は罪を悔い改めて、バプテスマを受けました。しかし、これで人が救われるかというとそうではありません。その後にイエス様を救い主として信じる必要があります。でも、自分の罪を告白することが、救いのために絶対に必要なのかと言うと、そうではありません。ある人たちは、ヨハネが言う罪の悔い改めとイエス様を信じる信仰の2つが必要であると主張するかもしれません。新約聖書的には、「信じる」の中に罪の悔い改めが入っています。それは方向転換という意味での悔い改めです。つまり、「自分には罪があるので、このままでは救われない。罪を贖って下さる救い主が必要である」と思いを変えるということです。今日でも、聖霊が働いて、「あなたには罪がありますよ。救い主が必要です」と教えてくださいます。ヨハネ168「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」自分には罪があるということを知ることを、認罪と言います。「罪を認める」と書きますが、認罪がないと救い主を求めることがありません。また、罪が分からないと、十字架の意味も分かりません。時として、罪が分からないままイエス様を信じて洗礼を受ける人がいるかもしれません。しかし、大丈夫です。必ず、聖霊様が「あなたには罪がありますよ。そのためにキリストは十字架にかかってくださったのですよ」と教えて下さいます。しかし、その先、全く認罪がないならば、救われていないかもしれません。もう一度、言います、罪があるということを知り、罪を悔い改めるだけでは救いにはなりません。罪を赦して下さる救い主イエス・キリストを受け入れる必要があります。また、自分の罪を認めることは、救いを得るための大切な一歩だということも忘れてはいけません。そういう意味で、今日もバプテスマのヨハネの時代のように、自分の罪を認めさせるようなことが起こります。失敗、失業、破産、離婚、病気、大きな過ちなどは、自分に罪があることを知り、かつ救い主イエス・キリストを求めるすばらしい機会になります。だから、イエス様は「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」とおっしゃったのです。

2.ヨハネのメッセージ

 ヨハネのメッセージは、激辛のメッセージです。せっかく、バプテスマを受けるためにやって来たのに、躓いて帰ってしまうでしょう。しかし、相手がパリサイ人やサドカイ人であることに注目したいと思います。パリサイ人は律法を厳格に守るユダヤ教の信徒たちですが、形式ばかり追い求めて偽善的になりました。一方、サドカイ人は神殿に仕える祭司たちですが、お金を愛して世俗的になりました。バプテスマのヨハネが荒野でメッセージを発したのは、彼らに対する対抗心があったからかもしれません。バプテスマのヨハネは彼らに「まむしのすえたち」と言っていますが、長い間、彼らの宗教や生活ぶりを観察した結果であろうと思います。では、ヨハネは具体的にどのようなメッセージを発したのでしょうか?

 9節「『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」彼らは、自分たちは「アブラハムの子孫だから、選ばれているんだ。特別なんだ」と心の中で思っていました。つまり、「罪を悔い改める必要など全くなくて、すでに救われているんだ」と考えていたということです。それに対して、バプテスマのヨハネは「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです」と言ったのです。なんという皮肉でしょうか。アブラハムの子孫なんか、何の役にも立たないということです。彼らは家系や社会的身分、また、宗教的な生活ぶりを誇っていました。一方、律法もあまり守らず、宗教的に汚れている人たちを軽蔑し、「彼らとは違う」と誇っていたのです。イエス様は「私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました。正確には、「自分で正しいと思っている人を招くためではなく、自分には罪があると自覚している人たちを招くために来たのです」ということです。そうであるならば、彼らはバプテスマのヨハネのところに、何のために来たのでしょう?「バプテスマのヨハネとはどういうヤツなんだ」と物見遊山に来たということです。いわゆる、ひやかしです。マタイ21章でイエス様はこのようにおっしゃっています。マタイ2132「というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」彼らはそのとき罪を悔い改めなかったということです。

 バプテスマのヨハネは、「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます」と言いました。これはどういう意味でしょうか?バプテスマのヨハネは、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と、その前に言われました。彼らは「自分たちは特別であり、神さまのさばきなど受けない」と考えていました。それは、罪に対して無感覚なばかりか、人々を見下げる行為でもあります。彼らは、罪を悔い改めるようなふりをして、ヨハネのところに近づいてきたのです。「斧もすでに木の根元に置かれている」とは、さばきの準備はできているということです。現代も、家系や社会的身分、宗教的な生活ぶりを誇っている人たちがいるのではないでしょうか?その人たちは「人を罪人呼ばわりするな、失礼じゃないか」と言うかもしれません。彼らよりも、罪責感に苦しんでいる人の方が御国に近いでしょう。私たちは御国に入るとき、どうしても自分の罪を認め、神さまの前にへりくだる必要があります。茶室に、「にじり口」という狭い入口があります。茶室の中に入るのに、文字通り「にじって」手をついて入らなくてはならないあの狭い入り口です。実はその狭さには、ちゃんと理由があります。茶室の入り口の寸法では刀を持っては入ることができません。茶は武士や町人たちの嗜みでもあり、重要な社交の場でもありました。しかし茶室に入ればどんな人物であろうと平等である、という千利休の茶の湯の精神から、にじり口の寸法がこんなに小さくなったようです。聖書的には、「狭い門から入れ」ということと一致しています。パリサイ人やサドカイ人は、聖書を学び、言い伝えや律法を守っていたでしょう。また、自分たちがアブラハムの子孫であることを誇っていました。つまり、行いの面でも、地位や血統の面でも、罪を悔い改める必要などないと考えていたのです。そうなると、罪の赦しを受ける必要もないし、当然、天の御国にも入れないでしょう。彼らはやがて、イエス様の行いやことばに、ことごとく反対し、やがては十字架につけてしまうことになります。自分を義とするということは、とても恐ろしいことです。クリスチャンが義とされていますが、それは自分の義ではなく、イエス・キリストを信じることによって与えられた神の義であることを覚えたいと思います。パウロはエペソ2章でこのように言っています。エペソ28「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」アーメン。

3.ヨハネのメシヤ観

 マタイ311-12「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」ヨハネは人々から「あなたはだれですか?あなたは自分を何だと言われるのですか?」と聞かれたのです。それを聞いてくるように命じたのは、パリサイ人であるとヨハネ1章に記されています。それでヨハネは「私はただの声であり、あとから来られる方はそうではない」と言っています。「はきものを脱がせてあげる値打ちもない」とは、奴隷以下の存在だということです。イエス様は、血縁的には自分のいとこです。しかも、自分の方が6か月早いわけですから先輩です。でも、ヨハネはその方は聖書に預言されていたメシヤであり、とんでもないお方なんだと理解していました。つまり、ヨハネは霊的な目というか、霊的な理解に開かれていたということです。イエス様がだれかということは、聖書を研究して分かるわけではありません。かえって、聖書を研究している学者たちは、主を「イエスは」「イエスは」と呼び捨てにしています。私はとてもできません。パウロはエペソの手紙で、「栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」と祈っています。バプテスマのヨハネには、パリサイ人たちと違って、神を知るための知恵と啓示の御霊が与えられていたということです。

 バプテスマのヨハネは旧約の最後の預言者と言えます。彼は、イエス様を直接預言したので、人間としては最高の人でした。それでも彼のメシヤ観はまだ不完全であるとしか言えません。なぜでしょう?彼は「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」と言いました。このところには2つのバプテスマについて語られています。聖霊のバプテスマと火のバプテスマです。後半の火のバプテスマとは何でしょう?それは、マタイ312「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます」という内容です。これは、ヨハネの黙示録で言われている、世の終わりのさばきです。バプテスマのヨハネは、メシヤが来たら、聖霊のバプテスマと同時に火のバプテスマもやってくると信じていたのです。そこには時間的な開きがありましたが、旧約聖書の預言者のほとんどはそのように考えていました。たとえば、マラキ41「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の【主】は仰せられる──」と書かれています。メシヤがこの地上に来られたら、主のさばきが下されるということです。しかし、そうではなかったのです。メシヤは二度に渡って来るのであり、初臨は「平和の君」として、再臨は「さばきの主」として来るということです。この後、ヨハネはヘロデの罪を糾弾したため、牢獄に捕えられてしまいます。彼は獄中から弟子を遣わして「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも別の方を待つべきでしょうか?」と聞いています。イエス様は「あなたがたは言って、自分たちの聞いたり、見たりしていることをヨハネに報告しなさい」と告げました。つまり、「目の見えない人が見、兄のなえた人が歩き、耳の聞こえない人が聞き、死人が生き返り、貧しい人に福音が宣べ伝えられていることがそのしるしだ」と言うことです。イエス様は和解のために来たのであり、さばきのことは後回しであるとおっしゃっているのです。

 では、聖霊のバプテスマとは何でしょうか?ヨハネが授けている水のバプテスマとは明らかに違います。ヨハネが授けている水のバプテスマは、罪が赦されるためのバプテスマです。旧約聖書でも水によってきよめられるという箇所があります。では、イエス様がなさるという聖霊のバプテスマとは一体何でしょう?でも、聖書には「イエス様ご自身が聖霊のバプテスマを授けた」とは書かれていません。バプテスマというギリシャ語は「どっぷり浸す」という意味からきています。一方は水にどっぷり浸すであり、他方は聖霊でどっぷり浸すであります。イエス様は使徒の働きでこのように述べています。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒14-5字義どおり考えますと、イエス様が聖霊のバプテスマを授けるのは、地上にいた時ではなかったということです。イエス様が父のみもとに行き、その後で、聖霊が地上の人たちにバプテスマされるということです。「本当ですか?」と言いたくなります。使徒233「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」これは、聖霊が注がれた、ペンテコステの日、ペテロが語ったことばです。つまり、イエス様が言われたことが成就した直後のことです。では、イエス様は天国にお帰りになる前、つまり地上で何をなさっておられたのでしょうか?聖霊のバプテスマを授けるということはなさらなかったということになります。

 メッセージがいよいよ終わるというときに、物議をかもし出すことになってしまいました。終わりはすっきりして帰りたいものです。バプテスマのヨハネは水でバプテスマを授けました。それは、罪の赦しを象徴するものです。ヨハネのバプテスマを受けても人は救われません。そのことは、使徒19章に記されています。パウロはエペソの人たちに「では、どんなバプテスマを受けたのですか」と聞きました。そうすると彼らは「ヨハネのバプテスマです」と答えました。パウロは「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを受けたのです」と言いました。その後、彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けました。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりしました。これは、ペンテコステの日から30年くらいたっていました。正確に言いますと、主イエスの御名によってバプテスマを受けたとき、彼らは聖霊を受けて新生しました。次にパウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊のバプテスマを受けたのです。聖霊は二重のことをなさりたいのです。1つはイエス様を信じてバプテスマを受けることです。そのとき、聖霊がその人に入り、霊的に新しくなります。罪が赦されただけではなく、新生し、新しい被造物になったということです。もう1つは聖霊のバプテスマをいただいて、賜物としての聖霊を受けたということです。私のように、この2つ出来事を厳密に分けない教会ももちろんあります。でも、本日学ぶべきことは、私たちのゴールはヨハネの罪の赦しのためのバプテスマではないということです。もちろん、罪を告白することは重要です。でも、本来、罪をきよめるのは水ではなく、キリストの血潮です。水では罪はきよめられません。キリストの十字架の血だけが、私たちの罪をきよめるのです。また、本来のバプテスマは水の中にどっぷり入るということではありません。パウロは「私たちはキリストの死にあずかるバプテスマを受けた」(ローマ63)と言っています。それは、私たちはキリストと共に十字架でつけられ死んで葬られたということです。この場合、バプテスマはキリストにどっぷりつかって、キリストと一体化するという意味になります。そうするとどうなるのでしょうか?キリストが御父の栄光によって死者からよみがえらされたように、私たちもよみがえり、新しい存在になるということです。罪のからだが滅びで、罪から解放されるということです。霊的に新しく生まれ、罪から解放されるということは、罪の赦し以上のことです。ハレルヤ! 

 バプテスマのヨハネは旧約聖書の最後の預言者と言えます。彼は人間では最高の人物でした。でも、イエス様は何とおっしゃっているでしょうか?マタイ1111「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」これは、新約の私たちのことを指しています。私たちはヨハネよりも偉大なのです。なぜなら、イエス様を信じて新生しているからです。そして、人間の義ではなく、キリストを信じる信仰によって神の義をいただいているからです。

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