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2016年1月 1日 (金)

立って従ったヨセフ マタイ2:13-23亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.1.3

 クリスマスの主役は、もちろん人となられたイエス・キリストであります。しかし、ローマ・カトリック教会では聖母マリヤかもしれません。では、マリヤの夫ヨセフはどうでしょうか?イエス様はヨセフとは関係なく生まれたわけですから、いてもいなくても良い存在でしょうか?そうではありません。ドラマには主役だけではなく、脇役も必要です。最近のテレビ番組では、こわもての脇役だった人が、主役に抜擢されることがよくあるようです。とにかく、ヨセフがいなければ、幼子イエスをヘロデの手から守ることができませんでした。 

1.立って従ったヨセフ

 東の博士たちが帰って行きました。しかも、ヘロデのところに寄らないで、別の道から自分の国に帰って行きました。その夜なのかどうか分かりませんが、主の使いが夢でヨセフに現れて言いました。「立って、幼子とその母を連れて、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ち退き、ヘロデが死ぬまでそこにいました。御使いは「立って」と命じました。ヨセフは「立って、夜のうちに立ち退きました」。ヨセフは寝ていたと思いますが、「朝起きてから」とは書いていません。夜、まだ暗いのに身支度して、即座に出かけたということです。私の場合、長男の朝陽が生まれるとき、こういうことがありました。夜の12時半、家内に陣痛が始まりました。私は朝6時に早天祈祷会があるので、変な時間に起きるわけにいきません。それで、「朝まで待てないか?」と、家内に告げました。午前2時半、いよいよ苦しいということで、「わかった」と重い腰をあげました。すると午前6時間には出産が始まったということでした。「朝まで待てないか?」と言ったことが、しばらく母教会で話題になりました。ヨセフはその点、偉いと思います。19節以降を見てみたいと思います。ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現れて、言った。20節、「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちを狙っていた人たちは死にました。そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に入った。」とあります。今度は「立って」エジプトから出なさいと言われ、ヨセフは「立って、イスラエルの地に入った」のです。おそらく、数日後ではなく、直ちに従ったと思われます。

 このところから学ぶことは何でしょうか?それはヨセフの従順さであります。イギリスのジョージ・ダンカンという人の本に書いてありました。お母さんが2階にいるお譲さんを呼びました。「○○ちゃん、クッキーが焼けたのですぐ降りてきなさい」。お譲さんは「はい、ママ、今、行くわ」という返事が返ってきました。ところが、5分たっても降りてきません。お母さんはもう一度「○○ちゃん、クッキーが焼けたのですぐ降りてきなさい」と言いました。お譲さんは「はい、ママ、今、行くわ」という返事が返ってきました。しかし、降りてきません。お母さんは「○○ちゃん、今すぐ降りて来なさい。今は今なのよ!」と怒って言ったそうです。ジョージ・ダンカンは「遅すぎる従順は不従順である」と述べていました。ヨセフは自分の都合はともかく、神さまが「立って」と言われるので、「立って」従ったのであります。ヨセフがこのところで、「一方的だな。待ってくれよ」と文句を言ったとは書いていません。もし、ヨセフがベツレヘムでゆっくりしていたなら、ヘロデの追手に捕まってしまったでしょう。まるで、スパイ映画のように、ヘロデの暗殺の手から母マリヤと幼子を守ったのであります。ヨセフはエジプトからユダヤに行きましたが、それで終わりではありませんでした。夢で戒めを受けたので、ガリラヤに立ち退きました。そして、ナザレという町に行って住みました。神さまの命令に従って、生活するヨセフはすばらしい信仰の持ち主だと思います。

 私が座間キリスト教会にいたころ、田原米子さんのご主人が協力牧師として来られていました。田原米子さんは高校生のとき自殺未遂を図り、両足と左腕がなくなり、残ったのは右手の三本指だけです。米子さんは日本全国ばかりか、海外にも証に行きました。その奉仕を支えておられたのが、田原昭肥(あきとし)先生です。ある日曜日、先生は「凡夫の祝福」と題して、メッセージされたことがあります。「凡夫ってなんだろう?」と思って、あとから調べてみました。もともとは、「仏教の教えを理解していない人」という意味です。しかし、それが「平凡な人」「普通の人」になったのです。しかし、その時は「妻に比べて、何のとりえもない夫のことかな?」と思っていました。「失礼だったなー」と反省しています。それにしても、昭肥先生が米子さんを救いに導き、米子さんの足となって支えたのですから、すばらしいと思います。大会社に入った社員は、「私は会社の小さな歯車だ」とか、「コマの1つだ」とか言うでしょう。それも、そうかもしれません。しかし、もし、神さまが必要としている重要な歯車、コマだと考えたならどうでしょうか?ヨセフはこの後、福音書に出ていません。大工であったことは確かですが、何をしたとか、何を言ったとか書かれていません。イエス様が12歳のときに、マリヤと一緒に捜したぐらいです。でも、幼子イエスを守ったのは、ヨセフであります。ヨセフはイエス様の父として、重要な任務を成し遂げたのではないでしょうか?森の動物たちによる、降誕劇がありました。ヨセフやマリヤ、羊や馬、ロバなど、すぐ配役が決まりました。最後にハリネズミが一匹、配役からあぶれてしまいました。彼は何も言わないで、するするっと、もみの木に登りました。そして一番上で、体をくるっと丸めました。他の動物たちはとても感激しました。なぜなら、ハリネズミが星のように見えたからです。私たちは主役になれないと、自己憐憫に陥って、へそを曲げてしまうかもしれません。でも、神さまは私たちを無駄な存在として造られませんでした。適材適所という言葉がありますが、最も良い場所にその人を遣わして、その人しかできないことをやらせてくださいます。ヨセフはまさしく、そういう人物でした。信仰生活に重要なことは何でしょう?ヨシュアのような勇敢さやダニエルのような賜物も重要かもしれません。しかし、目立たないかもしれませんが、信仰生活で重要なことは、従順、あるいは忠実ということではないかと思います。

2.成就するために

 マタイによる福音書の特徴は何でしょう?「旧約聖書の預言がイエス様によって成就された」ということを証明しています。今日の箇所には、3か所も出てきます。最初は、15節です。「ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した』と言われた事が成就するためであった。」旧約聖書のホセア111「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。」とあります。しかし、これが何だと思われるかもしれません。確かに、イスラエルの民はヨセフのおかげで、エジプトに長い間、暮らしました。王様が代わってからは奴隷になってしまいました。その後、指導者モーセがたてられ、エジプトから脱出することができました。でも、一世代の人たちは、不従順のゆえに約束の地に入ることができませんでした。ヨシュアによって子孫たちが約束の地に入ることができました。しかし、その人たちも土着の神様を信じて、堕落してしまいました。では、なぜ、マタイはホセヤのことばを借りて、「『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した』と言われた事が成就するためであった」と書いたのでしょうか?それは、イエス様がまことのイスラエルとして、イスラエルの失敗をあがなったということです。つまり、イスラエルと1つになって、踏み直したということです。私たち異邦人には、あまり関係のないことなのですが、神の民イスラエルということにこだわりがあったと思います。

 その次は、17節「そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。」です。ヘロデ王は博士たちにだまされたことが分かると、怒って、兵士たちを派遣しました。ターミネーターであります。ヘロデはベツレヘムとその近辺にいる二歳以下の男の子たちをひとり残らず殺させました。何という残酷なことが起きたのでしょう。18節にはエレミヤの預言が記されています。「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」ラケルはイスラエルの生みの親です。ユダの民がバビロンに連れ去られたときラケルの墓の前を通りました。そのとき、エレミヤは「ラケルは墓の中で、どんなに悲しみ嘆いたことであろう」と預言しました。このラケルの嘆きが、ベツレヘムの母親の嘆きになったということです。ヨセファスを含めて当時の歴史家は、「ベツレヘムで殺された幼児の数はせいぜい2,30人程度で、ヘロデの残虐行為に比べれば大したことではなかった」と言います。ローマ・カトリック教会では「幼子殉教者」(聖人)としています。イエス様のために命を落とした最初の殉教者としてみなされています。それにしても、どうしてこういうことが起こるのでしょうか?もちろん、その頃の時代は残虐的なことが多くあったでしょう。しかし、聖書的に考えるなら、この世の王国とキリストによる神の国との戦いであります。幼子たちは、その戦いの最初の犠牲となったわけです。日本もキリシタンの迫害があり、30万人くらい殉教しています。ある人は、「ロ帝やドミティアヌス帝などのローマの時代の 全殉教者数に次いで、この短期間の日本のキリシタンの時代の殉教者数が史上第2位である」と言っています。つまり、こういうことです。私たちのところに福音が届いていますが、背後には多くの血が流されているということです。私たちは信仰を持つのに、血を流していません。しかし、迫害の時代では、自分の命とひきかえだったということです。こういうことを考えると、信仰を当たり前だと考えてはいけないということです。ある意味では、殉教者の血の上に、私たちの信仰があるということです。

 3つ目です。222-23「しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。そして、夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ちのいた。そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して『この方はナザレ人と呼ばれる』と言われた事が成就するためであった。」アケラオは父ヘロデにまさる残虐な王で、国中の有力者3000人を計画的に殺し、その悪政のため王政は長続きしなかったようです。そのため、彼らはガリラヤ地方に立ち退き、ナザレという町に住みました。ナザレはヨセフとマリヤの故郷です。人々は「メシヤはダビデの町ベツレヘムで生まれる」という預言は知っていたでしょう。しかし、その後、どうなったか知る由もありませんでした。神さまはあえて、地図にものっていないような、村に住まわせたのです。「この方はナザレ人と呼ばれる」という預言は旧約聖書にありません。おそらくマタイは、メシヤが他の預言者のようにさげすまれるというふうに預言しているのだと思います。ヨハネ1章でナタナエルは「ナザレから何の良いものが出るだろう」と言いました。ですから、ナザレという場所、あるいはナザレ人は、良く思われていなかったようであります。地理的にガリラヤはイスラエルの北に位置し、昔はアッシリヤによって滅ぼされたところであります。そういう暗い町でイエス様は育ち、30歳になったとき、ガリラヤから宣教を開始されました。イザヤ書9章はクリスマスを預言している箇所として有名です。そこに、メシヤの活動が預言されています。イザヤ91-2「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」ゼブルンとナフタリに住んでいた人たちは、アッシリヤによって国外に連れていかれました。その後、他の民族が代わりに住み、民族が根絶やしにされることになりました。そんなはずかしめを受けた人たちに、まっさきにメシヤが現れたのです。「異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」アーメン。

 私は秋田の出身です。秋田は裏日本でどんよりと曇っています。晴れの日が1年に55日くらいだということを聞いたことがあります。全国の天気情報を見ると、秋田は曇りか雨が多いです。だから秋田では、うつ病になる人が多いということを聞いたことがあります。そういう北国で生まれ、育った私がクリスチャンになって、しかも牧師をやっているこということは主のあわれみであり、奇蹟です。アーメン。まさしく、やみの中を歩み、死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照ったということです。

3.用いられたヨセフ

 結論的に言いますと、ヨセフは神さまから用いられたということです。第一は、幼子イエス様を守るために用いられました。第二は、「預言が成就するために」用いられました。「用いられた」というよりは振り回されたという方が当たっているかもしれません。私たちは自分の意思や決断で人生を歩んでいると思っているかもしれません。もちろん、神さまは私たちに自由意思を与えておられます。神さまが「そうしろ!」と命じているにも関わらず、従わない場合もあるでしょう。ヨセフの場合はどうでしょうか?ヨセフの場合は、多くの場合、「夢」によって導かれました。夢ですよ!ヨセフは「あなたの妻、マリヤを迎えなさい」と言われたときも夢でした。また、「立って、エジプトに逃げなさい」と言われたときも夢でした。さらに、「エジプトから、イスラエルの地に行きなさい」と言われたのも夢でした。さらに、「ガリラヤの地に立ち退いた」のも夢でした。合計、4回も夢で導かれ、ヨセフはそのたびごとに従いました。福音派の学者たちはおそらくこのように言うでしょう。「聖書が完成した今は、夢や幻は終わった。神さまは聖書のみことばによって語られる」と。しかし、どこにそのようなことが書かれているでしょうか?むしろ、使徒の働き2章には「終わりの日に、青年は幻を見、老人は夢を見る」と書いてあります。もちろん、「すべての夢を信じなさい」とか、「夢で導かれなさい」という意味ではありません。では、なぜ、神さまは夢でヨセフに導かれたかということです。また、終わりの日に、幻や夢を見るというのはなぜでしょうか?

 私はこういうことだと思います。私たち現代人はあまりにも目に見えるものに頼りすぎています。神さまのみ声に耳を傾けるとか、神さまからビジョンをいただくということはほとんどないでしょう。クリスチャンでさえも、聖書を読むけれど、深く瞑想して、神さまに聞くということをしているでしょうか?ちょっとだけ祈って、あとは自分の頭で考えるという姿勢ではないでしょうか?忙しくしている現代人は、神さまからどのように導きを得たら良いのでしょうか?いや、神さまの導きなど求めないかもしれません。インターネットや携帯のラインで「大丈夫」と言っているかもしれません。私自身も神さまにどれくらい時間を与えているだろうか?日常的なことに追われているような気がします。昨年の初め、出かけたことがありますが、三日目で深く考えることができました。でも、帰らなければならないので、現実に引き戻されました。夢はどうでしょうか?過去のトラウマがよみがえるような夢で、とても神さまからのものとは言えません。たまに寝ているとき異言が出ていることがあります。でも、意識が戻ると同時に異言も止んでしまいます。問題なのは自分の意識かもしれません。あまりにも、日常的なことに意識が捕らわれているので、神さまの声も、神さまからのビジョンもいただけないのかもしれません。私たちはヨセフの時よりも、もっと恵まれた環境の中にいます。ヨセフの時は旧約聖書がありませんでした。また、聖霊が下っていなかったので、御霊の内なる声もありませんでした。私たちは神さまの導きを求めやすい、恵みの時代の中にいます。しかし、ヨセフの頃と違い、情報が洪水のように流れているので、この世の方に目が行きがちであります。詩篇46篇に現代人の必要なみことばがあります。詩篇46「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」

 ヨセフは夢でありましたが、神さまからの命令に常に従いました。それも1回限りではなく、4回も従いました。神さまはヘロデ王から御子を守るために、ヨセフの手足が必要でした。ヨセフは夜のうちに立って、マリヤと幼子イエスを連れてエジプトに逃れました。その距離は、直線距離で350キロもあります。ヘロデ王が死ぬと、イスラエル、そしてガリラヤに赴きました。ヨセフたちは目立たないナザレで暮らしました。それはイエス様がナザレ人と呼ばれる預言の成就のためでした。エジプトへ下って、エジプトから呼び出されることも預言の成就でした。そのように考えるとヨセフは歯車とかコマではありません。神さまの御用を果たす代理人、エージェントです。神さまの計画がなるためならば、「主役が良いとか、脇役が嫌だ」などと言っていられません。私たちの人生も同じではないでしょうか?007とかスパイ映画を見ると、あるとき突然、極秘命令が与えられます。その命令を果たすために、命が狙われるシーンが何度もあります。映画なので、主人公は死なないので安心して見られます。しかし、私たちの場合は、そうではありません。「志半ばで」ということもあるかもしれません。ヨセフは長生きしたとは書かれていません。イエス様が青年のとき、亡くなったようであります。それでも、私たちはヨセフのように、神さまからの命令には全力で従う、そういう姿勢が必要だと思います。あるいは、世の人にはほとんど評価されないかもしれません。でも、重要なのは神さまからの評価、神さまからいただく賞与であります。

ですから、一番最初に知らなければならないことは、何のために私は生かされているか?神からの使命に気付くことであります。使命は英語でミッションですが、日本語では命を使うと書きます。すごいことばだなーと思います。タクシーは空車のときは、ふらふら走っています。空車のタクシーの後ろを走っているとどこで止まるか分からないので危険です。でも、いったん、タクシーがお客さんを乗せ、行き先を聞いたらどうでしょうか?メーターをあげて、言われたところへ走ります。空車のときとは走り方がぜんぜん違います。私たちの人生もイエス様がいなかったら、自分の欲望のまま勝手気ままに生きるかもしれません。でも、主なるイエス様をお乗せしたらどうでしょうか?「はい、わかりました。」とばかり、ご命令に従うべきではないでしょうか。神さまはあなたにしかできない使命を与えてくださいます。人と比べて大きいとか小さいとか、重要だとか重要でないとか関係がありません。神さまはあなたに成し遂げてもらいたい、あなた固有のものを用意しておられます。どうぞ、主の御声に耳を傾けましょう。また、必要ならば夢と幻を見せていただきましょう。聞いたならヨセフのよう「立って従う」者でありたいと思います。

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