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2015年12月30日 (水)

信仰の完成 ピリピ1:6、ヘブル12:1-2 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.1.1

 新年あけましておめでとうございます。今年また新たに年齢を重ねることになりますので、あまりおめでたくない方もおられるかもしれません。ある人が、「年を取るということは、実は年を使い果たしたということなんだ」と言いました。たとえば、砂時計を考えてみましょう。上の方の砂は神さまが定めた寿命です。60年間分下に落ちてたまりました。つまり、60年使い果たしたということです。「上の方にあとどのくらい残っているか?」です。しかし、クリスチャンには永遠の命が与えられていますので、そうがっかりする必要はありません。Ⅱコリント416「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされている」とあるからです。きょうは信仰の完成と題して、元旦礼拝のメッセージをさせていただきます。

1.信仰の完成とは

 果たして「信仰の完成」というのはありえるのでしょうか。ピリピ16を見ると、「神さまがキリスト・イエスの日が来るまでに、それを完成させてくださる」と書いてあります。「それ」とは何でしょうか?「救い」ともいえるかもしれません。なぜなら、私たちは霊的には救われていますが、魂や肉体はまだ不完全です。病気にもなりますし、罪も犯してしまうからです。ピリピ2章にも同じようなことが書かれています。ピリピ212「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」。この意味は、私たちがなすべきところがあるということです。もちろんキリストの贖いの面では、何もすることがありません。私たちはイエス様を救い主として信じただけで救われたはずです。しかし、救いということを点ではなく、イエス様とお会いする日までの線にしたならどうでしょうか?あるときイエス様を信じて霊的に生まれ変わりました。それから「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」(Ⅱコリント318)。つまり、信仰は救われたという点もありますが、なお救われ、完成を目指しているという継続でもあるということです。

 これを神学的には「聖化」(きよく変えられる)と言ったりします。私が最初、属していたホーリネス教団は「聖化」ということをとても強調していました。聖書のどこを開いても、「聖化」を語っていました。私は正直、「きよさ」とか「きよめ」と強調する神学は好きではありません。なぜなら、私はきよくないところから救われ、神学校で「きよめられなさい」とよく言われたからです。律法的に言われると、「いやだよ」と反抗したくなります。しかし、よく聖書を読むと、自分がきよくなるのでありません。「それを完成させてくださる」は受身形です。また、「姿を変えられていきます」も受身形です。ただし、ピリピ212「自分の救いの達成に努めなさい」には、自分のやる分もあるということは分かります。とにかく、救いが恵みであるように、「聖化」(きよく変えられる)ことも恵みだということです。「聖化」という表現の他に、霊的成長、内面の成長、あるいは霊性の成熟と言う言い方もあるでしょう。どれも好きじゃないですね。霊だけが大切で、他はいらないという感じがするからです。私たちは肉体も魂も持っているからです。

 私はそれよりも「自分の世界の成長」こそが「信仰の成長」ではないかと思っています。ここでも何度も申し上げたことがあります。「私たちの生まれつきのコア世界観は脆弱で直してもしょうがない、新しいコア世界観に取り換えるしかないんだ」と言いました。「脆弱」なんていうと、日曜学校の子どもには全く分からないですね。分かりやすく言うと、私たちの生き方を決める、信念というものが心の奥底にあります。考えや価値観の塊みたいなものです。桃とか梅を考えると、やわらかい果肉は「考え」「ものの見方」「世界観」です。しかし、それを生み出しているものがあります。それが固い種(コア世界観)です。ある人は頑固で決して変わろうとしません。またある人は硬いけれどもガラスのように壊れやすいかもしれません。またある人はフヤフヤして人や環境に支配されているかもしれません。どれもこれも、神さまから与えられた自分の人生を生きていない人であります。つまり、固い種(コア世界観)の部分を新しい別なものに取り換えること、これがローマ12章の「心の一新によって自分を変える」ということです。

 私は今から6年くらい前に、李光雨師からカウンセリングを受けて、新しいコア世界観に取り換えました。古いコア世界観がAだとすると、今はコア世界観Bで生きています。こういう話を聞くと、私は賛成できないという人もいます。そうでしたら、エペソ4章で説明しても結構です。まずパウロは「心の霊において新しくされなさい」と言っています。これは、イエス様を信じて霊的に生まれ変わるということです。その次に、情欲など罪に染まっている「古い人を脱ぎ捨てよ」と言われています。その後、「義と聖をもって神にかたどり造り出された新しい人を身に着けなさい」と言われています。「新しい人」こそ、新しい考え、私が言う「コア世界観B」です。私は25歳で霊的に生まれ変わりましたけど、心の核が脆弱だったために、不安と恐れに支配されていました。だから、いくら信仰的な考え、積極的な考えを身に着けても全部はじき返してしまいます。たとえ、聖会や修養会、○○キャンプに行っても、もって3日です。1週間たつと元の木阿弥です。もちろん、いくらかは成長していると思います。でも、一番奥底にあるコア世界観が弱いままでした。しかし、いろんな苦しみや試練を受けたど真ん中で、「ああ、古いコア世界観はどうしようもない、新しいコア世界観に取り換えよう」と決心しました。それから、聖書のみことばや積極的考えがどんどん身に付き、私の世界観が丈夫に太ってきました。別な言い方をすると「内なる人」が健康で丈夫になったということです。内面のことなので、いろんな表現や体験はあるかもしれません。しかし、共通して言えることは、恵みによって「主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくんだ」ということです。

2.どのように完成されるか

 私たちの内なる人、つまり霊的な成長がどのようになされるか?言い換えると、神さまはどのような方法で、どのようなもので、私たちの内なる人をきよめ、作り変えて、そして完成させてくださるのでしょうか?私たちはイエス様を信じて霊的に救われ、永遠の命が与えられました。しかし、神さまはこの地上において、私たちがなすべきことを2つ用意しておられます。1つはこの地上においてあなたに成してもらいたい事があるということです。英語ではミッション、日本語では使命と言います。使命とは「命を使う」と書きます。あなたは何を成し遂げるために自分の命を使っているでしょうか?それが神さまのご目的、神さまの御心にあったものだったら幸いです。2つ目は私たちの内なる人の成長、霊的にイエス様と似たものになる、聖化されるということです。でも、私の表現で言うならば、自分の世界を完成させるということです。コア世界観Bが健康で成長し、神さまがお与えになった自分の世界を完成させるということです。何度も言いますが、表現は自分にあったもので結構です。私が言う世界観で躓いたら、別の言い方にしてください。信仰的な成長、霊的成長なんでも良いです。

 私が自分の霊的成長を一番妨げているものは何でしょう?他のだれでもない、自分の魂なんです。自分の魂こそが、神と敵対し、使命を全うさせないばかりか、栄光から栄光へと変えることを妨げているのです。私が言う魂というのは、アダムが罪を犯したあと肥大化してしまった心のことを言います。創世記3章にありますが、食べてはならないと言われていた「善悪を知る木」からアダムとエバが実を取って食べました。創世記37「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った」と書いてあります。「目が開かれた」なら良さそうなものではないでしょうか?そうではありません。これは霊的に死んで、魂が異常に太ったということです。これまではアダムは、霊的に神さまと親しく交わり、善悪の判断はすべて神さまに聞き従ってきました。ところが、善悪を知る木の実を食べるということは、神さまではなく、私が善悪の判断をするということです。これは自分が神さまになるということですから、まさしく神さまへの反逆行為です。実はアダム以来の人類は、魂が異常に発達し、神さまなしで生きられるという性質があります。この世の人は、霊的に死んでおり、神さまなしで自分の考えや願いで生きています。しかし、クリスチャンになると霊的に生まれるので、神さまとの交わりが回復します。しかし、同時に自分の霊と自分の魂との戦いが始まります。このことはパウロがローマ7章、ガラテヤ5章に書いてあります。ガラテヤ517「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」

 クリスチャンの場合は、確かにアダム以来の古い人は十字架に着けられて死にました。しかし、「アダムから力を得たい」「アダムのように神なしで生きたい」という性質がまだ残っているのです。ウィットネス・リーはこの性質を3つに分けています。1つは「肉」です。言い換えると「腐敗したからだ」です。ガラテヤ5章には不品行、汚れ、好色などがあげられています。しかし、良い肉もあって、神を礼拝したり、神に仕えたりします。でも肉でやっては神さまには喜ばれません。なぜなら、肉は自分を誇るからです。2つ目は「己れ」です。これは、自分の思想や主張です。「わたし」とも言い換えることができます。聖書ではペテロ、マルタ、ヨブが「わたし」の多い人でした。3つ目は「天然」です。天然というと別な意味を思い浮かべるかもしれません。これは、生まれつきの才能や能力や賢さです。聖書では旧約聖書のヤコブがそうでした。彼は有能で策略にたけ、計画に富み、非常に才能があり、大の手腕家でした。彼はエサウから長子の権をだまし取り、父から長子の祝福を獲得しました。叔父のラバンからは策略と手腕によって、多くの群れ、はしため、らくだ、ロバを得ることができました。別にウィットネス・リーのように3つに分けなくても良いです。とにかく、私たちの魂は神さまの言うことを聞かず、頼らず、罪を犯す性質があるということです。このため、神さまは聖霊によって、私たちをきよめてくださいます。また、環境や人々を通して、私たちを砕いてくださいます。私たちのでっぱったところにノミを当て、さらにはやすりで擦ってくださるのであります。ペテロはイエス様の一番弟子でしたが、荒っぽい性格の持ち主でした。すぐかっとなるし、おっちょこちょいでした。最後にはイエス様を3度も知らないと裏切ってしまいました。でも、彼は砕かれ、擦られ、最後には大使徒として用いられました。ペテロの本名はシモン、葦という意味です。しかし、イエス様は彼の中に良いものを見出し、「お前はペテロ、岩だ」と言いました。イエス様は彼の弱さや失敗を知った上で弟子とし、また、弟子して完成させてくださったのです。ですから、神さまは、私たちを砕いてくれる出来事も許すんだということです。また、私たちをこすってくれる隣人を側においてくださいます。あなたの夫、妻、子供、同労者がそうです。他人だったら、距離をおいて会わなくてすむかもしれません。しかし、あなたの夫、妻、子供、同労者はそうはいきません。聖霊様はあなたを整えるために按排してくださるのです。つまり、私たちが神の似姿になるように、ほどよく処理をしてくださるということです。

3.何を目指して生きるか

前のポイントでは、私たちは救われていても、内側に肉という、罪を犯す傾向性があるということを申し上げました。もう1つ私たちの魂が不完全なのは、生まれた時から、いろんな傷を受けてきたからです。あるいは生まれる前から父方、母方から、不幸をもたらす咎を受け継いでいるかもしれません。自分のせいでなくて、受けたものがあるからです。自分の生い立ちが幸せでとても良かったという人は少ないと思います。イエス様を信じるとかなりの部分がいやされます。また、赦せない人を赦すことによって、心の中にいすわっていた苦い根が消え去ります。しかし、私たちには記憶があり、またトラウマの傷が残っています。だから、時々、フラッシュバックしたり、悪い思い出がぶりかえすときがあります。どういう訳か、私たちの周りに悪いものを引き出してくれる人物や環境が絶えることがありません。学校や職場を換えても、教会を換えても、あるいは伴侶を換えたとしても絶えることがありません。逆に言いますと、私たちは天国に行くまでは完全にきよめられ、完全に癒されることはないということです。でも、すばらしい希望は、たとえそういうものがあったとしても聖霊によって勝利できるということです。英語ではオーバーカムと言いますが、他にゲットオーバーと言ったりもします。つまり、ヤシの木のように嵐が来ても、たわんで乗り越えられるということです。すばらしいことにヤシの木は嵐を乗り越えるたびに、地中に根を深く張り強くなります。第一のポイントで世界観のお話しをしましたが、私たちの世界観が完成する過程にあるんだということです。神さまはこの地上において課題を与えておられるようです。それは、私たちが神さまの恵みによって、これまでの傷や痛みが癒され、栄光から栄光へと変えられていくという課題です。できればバイパスして、すぐ天国での完成を得たいところですが、あえて地上での信仰生活を残しておられるんだということです。

 そこで、重要なのが、私たちがどこを見ていくか、だれに目を注いで生きるかということです。 ヘブル121-2「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」アーメン。イエス様が肉体をもって地上にこられたのは、もちろん私たちの罪を贖い、救いの道を設けるためでした。しかし、それだけではありません。イエス様は肉体を持ちながらも、御父を見上げて、信仰を全うしたということです。イエス様は私たちと同じ肉体を持っていましたが、罪は犯しませんでした。もちろん、私たちは罪を犯しますが、それでも贖いを受けつつ、信仰を全うすることができるんだということです。イエス様は信仰の創設者、英語の聖書ではオーサー、著者と言う意味です。また、イエス様は信仰の完成者となってくださいました。この意味は、イエス様が「私ががんばったんだから、お前らも私を見習ってがんばれよ」という意味ではありません。これはイエス様が聖霊によって世の終わりまで共におられて、私たちを力つけ、導き、助けてくださるということです。これが、「神さまが救いを完成させてくださる」という意味であります。

 では、私たちは何をしたら良いのか?信仰の創始者であり、また完成者であるイエスから目を離さないということです。ヘブルの記者はこれをレースにたとえています。私たちのなすべきことは何でしょうか?第一は、「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てる」ということです。走っている人はできるだけ身軽に走ります。何か足に重荷をつけてひきずって走る人はいません。第二は、「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続ける」ということです。私たちには神さまから与えられた自分のレースがあります。ある人は親から押し付けられたレースを走っているかもしれません。また、ある人は自分があこがれる人、理想の人のレースを走っているかもしれません。それではだめです。神さまはあなたに固有のレースを用意しておられます。あなたはイエス様とあなた自身のレースを走るのです。そして、自分の信仰、自分の世界を生きて、それを完成させるのです。今年も完成をめざしてあなた自身のレースをイエス様と共に走りましょう。

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2015年12月27日 (日)

~御霊の実~  亀有教会副牧師 毛利佐保 ガラテヤ人への手紙 5章19節-26節

<ガラテヤ人への手紙 519-26節>

5:19

肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、

5:20

偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

5:21

ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

5:22

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

5:23

柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

5:24

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

5:25

もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

5:26

互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

 

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今年も、「亀有教会クリスマス祭り」が、祝福のうちに無事終了しました。

12日に行われた、キッズ・クリスマスパーティーも、23日に行われた亀有ゴスペルクワイヤーのクリスマスコンサートも、例年以上にたくさんの人がこの教会に足を運んでくださいました。初めて教会に来られた方も大勢おられて、良き伝道の機会となりました。

 

また、20日のクリスマス礼拝では4名の受洗者が与えられ、イブ礼拝では主に在る兄弟姉妹方や、新しく来られた方々と、良き交わりの時が持てました。神様がこの亀有教会を大いに祝福してくださっておられることを改めて知ることができました。主に感謝します。

 

さて、2015年最後の礼拝となりました。

この年末年始、私たちは混沌としたこの世の中で起こっている様々な出来事にばかり心を捕らわれるのではなく、主の良き知らせに目と耳と心を向けて過ごしたいと思います。

 

本日は「御霊の実」と題して、この一年守られたことを感謝しながら、ガラテヤ人への手紙から神様の良き知らせを受けとっていきましょう。

 

このガラテヤ人への手紙は、1:1,2に書かれているように、使徒パウロからガラテヤの諸教会に宛てた手紙です。宗教改革者のマルチン・ルターが、「私はこの手紙と結婚した。」と言って惚れ込んだほど、この手紙は福音の真理と、キリスト者の自由を明白に宣言しています。

 

ガラテヤ5章の初めの方には、御霊によって律法の呪いから自由にされたキリスト者について書かれていますが、先ほど読んでいただいた19節からは御霊の実を結ぶキリスト者、教会について書かれています。

「御霊の実」と言われている9つの言葉、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」は、クリスチャングッズなどを売っているお店に行くと、必ずこの言葉をモチーフにしてデザインされた品物が置かれています。壁掛け、コップ、置物、ハンカチなどいろいろありますが、これらの9つの言葉は、目に入るだけで、耳で聞くだけで心がぽっとあたたかくなります。

 

反対に、パウロが前半に挙げている15個の罪の言葉、「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、」は、見たくも聞きたくもない言葉です。こういう言葉を列挙したグッズを売っていたとしても、きっと誰も買わないでしょう。

 

もし「ねたみ」とか、「不品行」とか大きく書いたTシャツなんか売っていたら、自虐ネタが好きな人は面白がって買って着るかもしれませんが、普通はそんなものは買いませんし、もしもらったとしてもぜんぜん嬉しくありません。

 

私たちはいつでも「愛、喜び、平安」に満たされ、「寛容、親切、善意、誠実」でありたいと願い、「柔和、自制」の心を持ちたいと思っています。このような、「御霊の実を結ぶ人」には、どうすればなれるのでしょうか。このガラテヤ書から答えをいただきましょう。

 

◆御霊の実を結ぶ人は・・・

①肉の行いに歩むことがありません。

 

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5:19

肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、

5:20

偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

5:21

ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

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肉の行いとは、自己中心的な生き方のことを指します。パウロは具体例として、15個の罪の言葉を挙げていますが、それらは大きく4つに分かれています。

 

①「不品行、汚れ、好色」とは、「性的な乱れ」です。②「偶像礼拝、魔術」とは、「宗教的な乱れ」です。

③「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、」は、「人間関係の乱れ」です。最後に④「酩酊、遊興」は、「自制心の欠如」を表しています。

 

みなさんは、どこかに思い当たる言葉があるでしょうか。

特に、人間関係の乱れにあたる、「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、」などは、誰しもが無意識のうちに抱いてしまう感情ではないでしょうか。しかしこれらは御霊の実の代表である「愛」と正反対の感情です。自己中心的な考えからくる思いがこのような乱れを引き起こします。

 

そして、パウロは、「このような者は神の国を相続することがない」と、厳しい警告を与えています。

「自分はこの15個の罪の言葉に思い当たる行いや感情を持っている。」と、もし気付かされた方がいたら、その思いをただちに十字架につけましょう。

 

◆御霊の実を結ぶ人は・・・

②自分の肉を十字架につけます。

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5:22

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

5:23

柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

5:24

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

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先ほどの15個の罪の言葉に思い当たるところがあった方は、このガラテヤ5:22-24のみ言葉を何度も読みましょう。この「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」の9つの御霊の実は、神様からの良き知らせです。イエス様の福音を受け入れたキリスト者が、古い自分に死んで新しく生まれ変わった時に御霊の働きによっていただく「実」だからです。

 

この「実」という言葉は、ギリシャ語で「カルポス」と言いますが、「ホ」という冠詞がついています。ですから、最初の「愛」が代表する実であり、残りの8個がその具体的な現れとも言われていますし、この9つの実全部をひとつとして冠詞がつけられていると見ることもできます。

 

「愛」という代表の「実」によって、他の実が組み合わさっているにしても、「愛」も含めてすべての「実」がひとつになっているにしても、これは、キリストをかしらとして、ひとつの体に結び合わされたキリスト者の交わり、教会に必要な実であり、キリスト者が互いに仕え合うために必要な実です。

 

少し前のガラテヤ5:13-15にはこう書かれています。

 

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5:13

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

5:14

律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。

5:15

もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。

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互いにかみ合ったり、食い合ったりしている」という状態は、先ほどの肉の行いに出てきた「人間関係の乱れ」からくる状態です。このような状態では、豊かな実を結ぶことはできません。

 

ヨハネの福音書15:5でイエス様が弟子たちに言われた言葉を思い出してみましょう。

 

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わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

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ぶどうの木であるイエス様にとどまっていれば、豊かな実を結ぶことができるのです。

 

ただそれは、そんなに単純なことではありません。教会は、人間同士の集まりですから、望んでいなくても、どうしてもそれぞれの肉の思いがぶつかり合ってしまう場所でもあります。

 

だから、5:24 「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」と書かれているように、御霊の実を結ぶには、まず自分中心の思いを十字架につけることが必要です。

 

そしてここで大切なのは、木がひとつの場所に根を張って、様々な厳しい環境に置かれながらも時間をかけて実を結ぶように、私たちも置かれた場所に留まり、根を張って豊かな実を結んでいくという事です。なにか気に入らないことがあるたびに、どこかに逃げてしまったり、消えてしまっては、根を張ることが出来ませんし、実を結ぶことはできません。

 

これは、教会だけではなく、みなさんの家庭や、職場、学校などでも同じです。しかし限度というものもあります。少し前に話題になったカトリックのシスター、渡辺和子さんの著書、「置かれた場所で咲きなさい」という本は素晴らしかったのですが、「置かれた場所で咲く」のにも限度はあります。

 

なにがなんでも、燃え尽きるまでその場所に歯を食いしばって留まって頑張れというのではありません。自分に合った場所を見つけて、ここだと確信した場所に根を張るのです。しかしいつまでも、根を張る場所を求めて放浪することもお勧めしません。神が与えてくださった場所で、成長させてくださる神を信頼してすべてを委ねていくのです。

 

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<Ⅰコリント3:6,7>

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。

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と記されているように、成長させてくださるのは神です。

 

ここからは、実践的な話ですが、「成長させてくださるのは神」と言われても、なんのことやらわかりません。

ここでのポイントは、私たちが成長するためには「タイミング」とか、「時」というものがあるということです。

私たちは、神様がせっかく成長させてくださろうとしているのに、そのチャンスを逃してしまっていることが、多々あるのではないでしょうか。

 

身近な具体例として、我が家の花壇で繰り広げられているドラマをお伝えしたいと思います。

実は我が家の玄関横には、30センチ×2メートルほどの小さな小さな花壇があります。

 

花壇なので、花を植えればいいのに、花は食べられないので、私はこの夏プチトマトを植えてみました。

しかし、ぐずぐずしていて植えるのがひと月ほど遅くなったので、青い実がたわわに実ったところで秋になってしまいました。寒くなってしまったので1、2個赤くなったくらいで、他は赤くならないまま成長が止まってしまい、現在は青い実のまま、ほぼ枯れかけています。

 

ここで「豊かな実を結ぶには、タイミングが大切だなぁ~」と教訓を得たわけですが、私たちの成長も同じなのではないでしょうか。「神様が今まさに試練を与えて、自分自身を大きく成長させてくださろうとなさっている」のに、様々な思い、多くはプライドや意地だと思いますが、そのようなものが邪魔をして、成長の機会を逃してしまっているということはないでしょうか。

 

また、神様の知恵に頼らず、自分の考えで、ここがその場所だと、ここが頑張りどころだと意地を張ってしまって、結局実を結ばず、まわり道をしてしまっているという事はないでしょうか。

こういった肉の思いをイエス様の十字架につけるようにと聖書は教えているのです。

成長には痛みや苦しみが伴うかもしれませんが、神様がくださった訓練の時を感謝して受け入れて、神様の知恵を頼ってぶどうの木であるイエス様にとどまり、豊かな実を結んで行けるように主に従いたいですね。

 

しかし、主に従うのは私たち自身の力では出来る事ではありません。どうすればよいのでしょうか。

 

◆御霊の実を結ぶ人は・・・

③御霊によって生き、御霊に導かれて進みます。

 

ガラテヤ5:16-18にはこう書かれています。

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5:16

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

5:17

なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

5:18

しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。

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ガラテヤ5:16で「御霊によって歩みなさい」と記されているように、御霊によって歩むなら、肉の思い、自分のしたいと思うことをすることができないというのです。先ほどの15個あった罪の言葉の行為についても、御霊によって歩むなら、したいと思ってもすることができないという事です。

 

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5:25

もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

5:26

互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

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キリスト者は、御霊によって生き、御霊に導かれて進み、御霊によって歩むのです。

ここがポイントです。自らの心を神様に向かって開くのです。

 

教会生活においても、キリストの体としてひとりひとりが組み合わさって、御霊の一致を熱心に保ち、神が成長させてくださるのを待ちましょう。ひとつの実を結ぶまでには思ったよりも時間がかかるかもしれませんし、思ったよりも痛みが伴うかもしれませんが、継続的に豊かな実を結べるように互いに愛をもって建て上げ、御霊の実を結ぶ人となりましょう。

 

先ほどの、30センチ×1.5メートルくらいの我が家の花壇で繰り広げられているドラマでこのような励まされる出来事がありました。私は、ある姉妹からいただいた鉢植えのシクラメンを花壇に植え替えました。ところが、この夏、異常に暑かったので、一生懸命水をやったりしましたが、枯れてしまいました。がっかりしていたら、秋になって涼しくなったら、新しい葉っぱが出てきて、隣のプチトマトとは逆に水を得た魚のように、成長してきました。これは、まるで倒れても立ち上がるキリスト者のようだと、励まされました。

 

枯れているように見えたシクラメンが復活したように、私たちも、倒れたように見えても、枯れたように見えても、必ず御霊によって生かされるということを忘れないようにしましょう。

 

しかし「御霊によって生き、御霊に導かれて進み、御霊によって歩み、御霊の一致を熱心に保ちましょう。」と言われても、実際どうすれば良いか解りませんね。

 

ここからは、実践的な話ですが・・・

 

みなさんは、1936年に出版されて世界的ベストセラーとなったマーガレット・ミッチェルの「風とともに去りぬ」という長編小説をご存知でしょうか?その3年後にビビアン・リーとクラーク・ゲーブル主演で映画化されましたので、映画をご覧になった方は多いと思います。

 

「風とともに去りぬ」のストーリーはアメリカ南北戦争の時代に生きたひとりの女性、スカーレット・オハラの波乱にとんだ人生を描いています。

 

以前通っていた神学校の元校長先生が、とてもユニークな先生で、学生にある課題を出しました。

その課題とは、「あの『風とともに去りぬ』の主人公のスカーレット・オハラが夫が自分の元から去ってしまい、信頼していた親友が死に、失意の中、愛する故郷に帰ろうと決意して最後に言ったセリフ、『Tomorrow is another day』を、あなたならどう訳しますか?」というものでした。スカーレット・オハラの気持ちになって、意訳しなさいというのです。

 

直訳なら、「明日は別の日!」ですし、映画では昔、「明日は明日の風が吹く」とか、「明日に望みを託して!」とか意訳されていました。最近では「明日という日があるわ!」という訳もあります。

 

学生たちはみんないろんな意訳を考えて面白かったんですが、一番びっくりしたのが、その元校長先生の意訳でした。それは、『Tomorrow is another day』・・・「私、しなやかに生きるわ!」でした。

 

そうです。人生には、「しなやかさ」が必要です。

御霊の導きのまま、しっかり根を張って、「しなやかに」、成長させてくださる神に従って、「しなやかに」、どんな困難に遭遇しても、「しなやかに」。

 

Tomorrow is another day』、イエス様がくださる明日への希望をもって、祈りつつ、神様からの良き知らせに目と耳と心を向けて新年を迎えましょう!!

 

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2015年12月24日 (木)

ひれ伏して拝んだ マタイ2:9-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.12.24

 私たちはどれくらいイエス・キリストについて分かったなら、信じるのでしょうか?東方の博士たちは伝説と星を頼りにユダヤにやってきました。それも幾多の困難や危険を冒して、遠路はるばるやってきました。その距離は2000キロ以上あったことでしょう。ベツレヘムの家で幼子を発見し、ひれ伏して拝みました。そして、宝物の箱を開けて、黄金、乳香、没薬をささげたのであります。考えてみると、博士たちはイエス様の奇蹟も見てないし、崇高な教えも受けていません。まだ十字架の贖いも成し遂げていないイエス様をメシヤとして礼拝したのであります。きょうは、「にもかかわらず信じた博士の信仰」について学びたいと思います。 

1.何も受けていないのに…

 博士たちは、イエス様から何もいただいていません。病気が癒されたわけでもなく、商売繁盛とか、ご利益を受けていません。祝福の祈りも、ありがたい教えもいただいていません。だって、相手は幼子であり、何もできません。しかし、博士たちは幼子を礼拝し、宝物をささげたのであります。博士たちはこの先、人生において何かメリットがあったのでしょうか?おそらく、博士たちが得たのは「自分たちの星占いは当たっていた。自分たちは古くから預言されていたユダヤ人の王に出会った」という喜びだけでした。この世の人たちは、対象の神さまに何かご利益がないと拝みません。受験、安産、商売繁盛、けがや病気、事故や災難から守られること。そのために対象の神さまを拝みます。自分に何もしてくれない、拝んでも何の効果もない神さまを拝みません。ましてや宝物をささげるということはまずありません。

 ところが博士たちは母マリヤとともにおられる幼子を見てひれ伏して拝みました。博士たちがイエス様を拝んだ理由はただ1つです。それはイエス様が世界的な王であり、神さまだからです。何かしてもらったとか、何かご利益があるとか関係ありません。目の前のイエス様が神さまだったから礼拝したのです。このことは私たちも学ぶ必要があります。でも、相手が神さまというだけで、どうして礼拝しなければならないのでしょうか?聖書が言う神さまは創造主であり、世界とその万物を創られたお方です。もちろん私たち人間も創られました。聖書の創世記によると私たち人間のために、月星太陽、地球、海、植物、動物たちが創られたと書いてあります。私たちが吸っている空気、洗濯物を乾かしてくれる太陽、飲んでいる水、みんな神さまからいただいたものです。さまざま地下資源、またそれらを加工できる知恵や技術ももとは神さまからものです。神さまが宇宙に法則や真理をあらかじめ備えて下さったから、私たち人間がそれらを発見することができるのです。もし、宇宙や世界が偶然の産物で、でたらめであったなら、法則や真理も発見できないでしょう。最後に、私たちの命、からだの機能もすべて、神さまが与えてくださったものです。私たちは、もうすでに受けているのです。だから、私たちは創造主なる神さまを礼拝するのです。

2.何も見てない、聞いていないのに…

 私たちが信じるためには、資料とか何らかの証拠が必要です。特にイエスがキリスト(メシヤ)であるならば何らかのしるしが必要です。パウロは「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を要求します」と言いました。ある先生は、日本人はご利益を要求すると言いました。これは先ほど、お話ししました。しるしというのは、メシヤであることの証拠であります。多くの場合、それは奇蹟とかメシヤとしての預言の成就ということでありましょう。福音書を見るとわかりますが、イエス様は嵐の海を沈めたり、5つのパンで5000人を養ったり、病気を癒し、死人さえよみがえらせました。ヨハネは福音書の終わりで「イエスが行われたことは、他にもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい」と私は思うと言いました。私はカシオの電子辞書持っていますが、そこには英語の辞典はもちろん、広辞苑、ブリタニカ百科事典、文学書、家庭の医学、国家資格…なんでも入っています。ヨハネはこういう文明の利器を知らなかったのでしょうか?そういう意味ではありません。ヨハネ福音書には7つの大きなしるしが書かれていますが、それはイエスがメシヤであることのしるしは十分であるという意味です。しかし、ユダヤ人たちは「もっとしるしを見せてほしい」と願いました。それに対して、イエスさまは「ヨナのしるし以外は与えられていない」と言いました。これはイエス様が三日目に死人の中からよみがえるという奇蹟であります。もし、復活を信じないのであれば、もう無理だということです。つまり、ユダヤ人は信じたくなかったので、信じなかったのです。

 もう1つメシヤのしるしは、その崇高な教えです。山上の説教を聞いた人々は、その権威ある教えに驚きました。律法学者もイエス様と議論して、その知恵におどろきました。でも、彼らが信じたとは書かれていません。むしろ信じたのは、罪びとや遊女、取税人たちです。その当時、罪びとというのは、律法を知らないし、律法を守れない人を言ったのであります。つまり、聖書の教えを良く知っている人が信じるかというと必ずしもそうではないということです。信じるというのは頭ではなく、心で信じるものだからです。博士たちがひれ伏して幼子を拝みました。これは「私の理性ではわかりませんが、あなたは神さまです」と頭をさげたということです。博士たちは神学的な教理を学んだこともないし、聖書の釈義を学んだこともありません。もちろん、イエス様から教えもいただいていません。なぜなら、イエス様はまだ幼子で口がきけません。でも、何が博士たちをそのようにさせたのでしょうか?それは霊であり、神からの啓示です。パウロはエペソ人への手紙でこう祈っています。エペソ117「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」アーメン。東方の博士たちは、神を知るための知恵と啓示の御霊が与えられていたので、目の前の幼子がメシヤであることを信じることができたのです。神学校では教理とか釈義を学びますが、神を知るための知恵と啓示の御霊の方が重要なのです。

3.何もないのに…

 クリスマスといえば華やかなデコレーションでしょう。数年前ですが散歩の途中、中川大橋を渡って、神社を過ぎたところで左折しました。突然、ものすごいイルミネーションが飾ってありました。小さな道が電飾のアーケードになっており、家の壁から屋根までが光っていました。まるで、ディズニーランドに迷い込んだような気がしました。面白いことに、すぐ先が神社だったんですね。おそらく、行き止まりなので、そういうことができたのでしょう。また、クリスマスといえば歌とかパーティでしょうか?ホテルではディナー付きのクリスマスもあります。FENというラジオ局をまわせば、一日中、クリスマス・キャロルがかかっています。とにかく、クリスマスというのは賑やかで、きらびやかで、楽しいというのが定説であります。ところが、ベツレヘムのイエス様がおられた家はどうでしょう?おそらくイエス様はエルサレムで割礼を受け、シメオンなどから祝福を受けた後でしょう。そこは馬小屋ではなく、宿屋だったと思います。なぜなら、マリヤは産後のために1か月くらいは休む必要があったからです。でも、そこにはきらびやかな電飾もなければ、生バンドやサウンドシステム、舞台を盛り上げる会衆もいなかったでしょう。

 私たちはとかく外見で判断します。中身よりもプレゼントのラッピングを気にします。もし、世界的な王が誕生したのだったら、立派な施設で大勢の人たちが仕えているはずです。ところが、生まれたのは馬小屋、産後しばらくは小さな家にいました。あるいは宿屋かもしれません。教会も立派な建物だったらクリスマスにふさわしいのでしょうか?私は24歳のころ、アメリカ人が来る東林間の教会に英会話を学ぶために通っていました。その教会でイヴ礼拝があるというので出かけました。ちょっと遅れて到着したので、分厚いドアが閉まっていました。鍵はかかっていなかったかもしれません。しかし、場違いな感じがしてそのまま帰ってきました。それから1年後、座間キリスト教会で洗礼を受けました。その教会の建物はとても古くて、八百屋さんと床屋さんの狭い路地を入った奥にありました。私は洗礼を受けて半年後でしたが、青年会のクリスマスのプログラムを任されました。手作りのクリスマスで素朴でとっても楽しかったです。私のために救い主がお生まれになったという喜びがありました。それから、36年間、お祝いしていますが、本質的なものが分かると、華美なものは必要ないと思うようになりました。

 いろんなクリスマスの逸話がありますが、その中で私が感動したものを紹介したいと思います。この出来事は、カナダの「シャインツマン」という新聞に載った実話です。クリスマスの夜のことでした。ひとりの女の子が、冷たい北風が吹きぬける暗い道を歩いています。どこまでも続く、高いレンガのへいのそばの道を、女の子は小さなプレゼントを胸にいだいて、ブルブル震えながら歩いていました。実は、そのレンガの塀の内側は刑務所で、その子のお父さんが、殺人犯でつかまえられていたのです。やがて刑務所の門のところまできた女の子は、守衛のおじさんに言いました。「おじさん。お父さんに会わせてください」「ダメだ。もうとっくに面会時間は過ぎている。明日来なさい。」「あのー、お父さんにクリスマスプレゼントを渡すだけなんです。ちょっとだけなんです。入れてください。」「ダメダメ。刑務所の規則は厳しいんだ。明日来なさい。」「明日はもうクリスマスが終わってしまいます。お願いです。ちょっとだけ、お父さんに会わせてください」「ダメだと言ったらダメなんだ。今日はダメなんだ」。とうとう、女の子は泣き出しました。ちょうどそこへ、刑務所長が通りかかりました。かわいそうに思った所長は、やさしく声をかけました。「おじさんが、そのプレゼントを、お父さんに渡してあげよう。今、すぐ渡してあげるから、泣かないで帰りなさい。明日、お父さんに会いにいらっしゃい」。実は、その女の子のお父さんは、手のつけられない囚人でした。乱暴で、凶暴で、刑務所の規則など、何も守らない囚人でした。独房の中で、所長からプレゼントを受け取ったその男は、リボンをほどきました。中に一枚の紙切れがありました。「大好きなお父さんへ。お父さんが殺人犯だということが恥ずかしいと言って、お母さんは家を出てしまいました。クリスマスに、お父さんにプレゼットを贈りたいと思いましたが、お金がありません。そこで、お父さんが優しくなでてくれた、私の赤い巻き毛の髪を切りました。これを、今年のプレゼントにします。お父さん、私はどんなに辛くても、さびしくても、お父さんが帰って来るまでがんばります。お父さんもがんばってください。刑務所は寒いと思います。お父さん、風邪をひかないで…」

 読んでいく男の目に、どっと涙があふれました。男は、箱の中から、赤い巻き毛をつかみだすと、その中に顔をうずめて泣きました。肩を震わせて泣きました。その次の日、男は、まるで別人のようになっていました。大きな刑務所の中で、最も模範的な囚人に生まれ変わったのでした。愛ほど、私たちを変えるものはありません。聖書には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と書いてあります。イエス様と出会うとき、神さまの愛を知ることができます。イエス様は私たちを救うために、天の御座を捨て、地上に人間として生まれてくださったのです。私たちの罪を負って身代わりに死ぬために来られたのです。このイエス様を信じるとき、罪赦され、永遠の命が与えられます。刑務所のお父さんが娘の愛に触れて変えられたように、私たちも神さまの愛に触れると変えられます。古きは過ぎ去り、すべてが新しくなります。

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2015年12月18日 (金)

新しい王様 マタイ2:1-8 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.12.20

 現代人はピンと来ないと思いますが、国王や皇帝が新たに即位するときは大変だと思います。なぜなら国民の生活は王様の良し悪しにかかっているからです。慈愛に満ちた王様だったら良いのですが、残忍で独裁的な王様だったら困ってしまいます。イエス様はユダヤの新しい王様としてお生まれになりました。ところが、その時代、ヘロデ大王という猜疑心の塊のような王様がその地方を支配していました。イエス様は、ユダヤのベツレヘムでお生まれになりましたが、果たして人々から歓迎されたのでしょうか?きょうは、3種類の人たちをあげて学びたいと思います。

1.東方の博士たち

 東方というのはどこでしょうか?昔、ペルシャやバビロンがあったところだと思われます。紀元前8世紀、イスラエルの10の部族は東方に散らされてしまいました。また、紀元前6世紀、ユダの民は国を追われ、バビロンに70年間捕らわれました。ダニエルはバビロンやペルシャの王に仕え、預言書を残しました。国を失った人たちは、メシヤの訪れと王国の再建を願っていました。ペルシャやバビロンに、そのような預言の巻物や言い伝えが残っていたに違いありません。東方の博士は、ギリシャ語ではマゴイとなっていますので、星占術者という方が正しいかもしれません。彼らは星の運行を長い間、観察し、一定の法則があることに気が付きました。また、そのことが世界の吉凶や個人の運命にも関係しているのではと考えました。彼らは、それらのデーターをもとにして、将来のことを占ったのかもしれません。聖書的には、星占術は異教的な魔術であると言えるでしょう。しかし、一般啓示として、自然や天体の星々にも、神様のことが啓示されていることも確かです。詩篇191-2「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。」とあるからです。おそらく、東方の博士たちは、特別な星を発見し、その星が古くから預言されているメシヤ的な王様の出現と関係があることを見出したのでしょう。今年も日本人が、いくつかのノーベル賞をいただきました。彼らの共通していることは、一般の人たちには分からない法則や物質を発見することであります。もしも、立てた仮説が嘘であるなら、一生を棒にふるかもしれません。彼らは1%にも満たない可能性にかけて、日夜研究に励んでいます。星占術師たちも、「果たしてそうなのか」というわずかな可能性にかけたのであります。

 

 おそらく、東方の博士たちの周りに、「そんなの迷信だよ。星占術なんて信じられないよ」という人たちがいたでしょう。また、「なんで、ユダヤの国まで会いに行く必要があるんだ。よその国の王様だろう?」と非難する人たちもいたでしょう。もし、ユダヤに行って、新しい王に会わなければ、単なる仮説に終わってしまいます。彼らは科学的な基盤を持つ自分たちの星占術が正しいということを証明したかったのかもしれません。ところで、東方の博士たちが3人だったとよく言われますが、三種類の宝物がささげられたので、そう言われたのでしょう。でも、彼らは大勢のキャラバンを組んで、やって来たに違いありません。なぜなら、当時は山賊や盗賊がいたるところに跋扈したいたからです。彼らは危険や困難を顧みず、宝物を携え、星を頼りに会いに来たのです。天文学的には紀元前12年にハレーすい星が接近したようです。また、紀元前7年に、木星と土星が三度接近して、強烈な光彩を放ったようです。「それに火星が加勢した」と大和カルバリーの大川牧師がおっしゃっていました。彼らがエルサレムの近くに来たとき、星を見失ったのでしょうか?あるいはこの世の常識に囚われたのでしょうか?彼らはヘロデの宮殿を尋ねました。「ユダヤ人の新しい王だから、宮殿にいらっしゃるに違いない」と思ったのでしょう。しかし、実際はそうではありませんでした。祭司長や学者たちから、「ベツレヘム」と聞かされて、その場を去りました。すると再び、東方で見た星が彼らを先導しました。この世の人たちは、キリスト教を学ぶためには、有名な大学付属の神学校に行くべきだと考えるでしょう。あるいは、歴史ある大聖堂や教会堂に行けば良いのではと考えるでしょう。意外にも、そうでないかもしれません。救い主がおられたのは、立派なエルサレムの宮殿ではなく、田舎のベツレヘムだったからです。

 第一のポイントで学ぶことは、東方の博士たちの求道心と探究心であります。マタイ7章にはこのように書かれています。マタイ77-8「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」英語の聖書では、求めなさいはask,捜しなさいはseek,たたきなさいはknockであります。しかも、原文は一度限りではなく、継続してそうするように求められています。東方の博士たちは、星の運行による占星術と、預言や言い伝えというわずかな情報で遠くからやってきました。一度、エルサレムに立ち寄ったためにヘロデ王に知られることになりました。道草をしてしまいましたが、再び星が導いてくれました。現代はどうでしょう?キリストに関する情報は1000倍以上あるでしょう。啓示の光は、博士たちが見た星以上に明るく輝いています。現代はテレビやインターネットの情報が飛び交っており、人々はそちらの方を求めています。人々は「情報に取り残されてはいけない」と強迫観念にとらわれています。その代わり、私たちを真に生かす星が見えないのであります。聖書も読まないし、教会にも来ません。まさしく、この世の神が福音の光が輝くのを妨害しています。人々は永遠の真理の代わりに相対的な真理、永遠のいのちの代わりに永遠の滅び、永遠の愛の代わりに刹那的な愛にとらえられています。でも、私たちの人生に時々、暗くなるような出来事が襲います。この世的には不幸かもしれません。しかし、その時こそ、私たちを生かすお方が見えてくるのです。Ⅱペテロ119「夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」

2.祭司長と学者たち

 マタイ24-6「そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」祭司長や学者たちは、預言書からメシヤがベツレヘムで生まれることを言い当てることができました。しかし、彼らがベツレヘムに幼子を尋ねて行ったとは書かれていません。おそらく、行かなかったでしょう。エルサレムとベツレヘムは15キロくらいしか離れていませんでした。それなのに、会いに行こうとしなかったのは、どういう理由からでしょうか? 30年後、成人のイエス様と彼ら、もしくは彼らの後継者が会うことになります。最もイエス様に敵対し、妨害したのは彼らであります。マタイ23章には彼らがいかに偽善的であるかということが長々と記されています。つまり、こういうことであります。彼らは頭ではメシヤの存在と居所を言い当てることができました。しかし、心ではメシヤの出現を喜んでいなかったのです。なぜでしょう?それは、彼らが生活できなくなるからです。彼らは宗教というジャンルで、身を立て、名をあげていました。それなりの尊敬を人々から受け、いろんな特権にも預かっていました。しかし、もし、そこにメシヤが現れたなら、人々は彼らの教えよりも、直接、メシヤのところに行くでしょう。もしも、自分たちが教えていることがメシヤから否定されたなら、名誉も立場も失墜していまうでしょう。彼らはそういうことを恐れて、メシヤを歓迎するどころか、抹殺してしまったのです。

 もし、テレビ番組で、キリスト教について話すとしたなら、どういう人たちが呼ばれるでしょうか?おそらく大学付属の神学校の教授が呼ばれることでしょう。地域教会の一牧師が呼ばれるということはまずないでしょう。世の人たちも、キリスト教系の大学こそが、最も権威ある教えを保っているところだと信じているでしょう。しかしながら、現実は、祭司長や学者たちと似ているところがあります。残念ながら、多くのミッション・スクールでは、キリスト教についての知識は教えますが、イエス・キリストに出会うことがありません。「イエスは2000年前、十字架で死んでよみがえったと信じられている」とまでは、教えられるかもしれません。しかし、自分たちのためにイエス様が死んでよみがえったとは教えられないでしょう。つまり、頭だけの知識で終わり、心まで入っていないということです。それだけではなく、日本の大学付属の神学校は、自由主義神学の影響を受けて、聖書をそのまま信じていません。「聖書のここに、あそこに間違いがあるので、学問的に取捨選択して神のことばを摘出しなければならない」と考えています。つまり、聖書が全体的な権威ある書物ではないと考えています。そうなると、救済論も違ってきて、キリスト以外にも救いがあるとまで言い出します。祭司長や学者たちは、何もベツレヘムに行かなくても、自分たちの神学、自分たちが行っている宗教で良いと思っていました。本来なら、東方の博士と一緒に出掛けて、王なるキリストを拝するべきでした。しかし、プライドがあって、「異教の占星術師たちと一緒に行けるか?」と思ったのでしょう。つまり、頭があんまり高かったので、頭を下げることができなかったのです。マタイによる福音書は、ユダヤ人ではなく、異邦人の異教徒がイエス様の誕生のためやって来たと皮肉めいたことを書いています。

 西洋に「最も教会に近い人ほど、最も神さまから離れている」ということわざがあるそうです。それは日本でも同じかもしれません。当教会においても、お隣の方や向かいの人は教会に来ません。実は「祈り場」という祈り会が毎週木曜日あります。最後に家内が祈りの課題を出して祈るのですが、ご近所のために名前をあげて祈ります。最近、斜め向かいに5件の新しい家が建ちました。10月頃、斜め向かいの奥様がゴスペルに見学に来られました。家内に知らせたら、「私が祈ったからよ!」と言いました。「すごい信仰だなー」と思いました。また、キリスト教についてよく知っている人ほど、神様から離れているということがあります。ある人たちは、ミッション・スクールでキリスト教についてよく学びんだかもしれません。しかし、キリストに出会っていないのです。両親が信仰的に熱心でも、子どもがそうでない場合があります。子どもたちは聖書や教会のことを知っています。しかし、その分、聖なる事柄に対して軽蔑しています。残念ながら、当時の祭司長や律法学者たちは、聖書を良く学び、宗教的な儀式をしていました。頭では神さまの知識があったかもしれません。しかし、心では信じていませんでした。教会で、クリスマスは毎年、祝われます。そして、クリスマスは毎年、同じような話をします。調べてみたら、昨年のクリスマス礼拝は全く同じ箇所からでした。さらに遡ると2008年、2006年、1996年も同じ箇所からでした。ということは、聞く方も大変だし、話す方も大変だということです。つまり、クリスマス礼拝というかたちはあっても、心が伴っていないという可能性が出てきます。聖書を朗読しただけで、「ああ、こういう話をするんだろうなー」と分かってしまいます。ですから、私たちも祭司長や律法学者たちのように頭では分かっても、心が伴っていないことがあるということです。本当に恐ろしいことです。教会は心が伴っていないのをごまかすために、宗教ぽくみせるところがあります。私たちは頭の知識からくるプライドを捨てて、博士たちのようにへりくだる必要があります。彼らは危険を顧みず、自分の足で歩いて、キリストに会いに行きました。私たちも毎年やってくるクリスマスに慣れっこにならないで、キリストに出会う必要があります。ホセヤ書6章にこのようなみことばがあります。ホセヤ63「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」10年前にあったキリストではなく、1年前のキリストでもありません。きょう、生きておられるキリストに出会う必要があります。

3.ヘロデ王とエルサレムの民

 マタイ22-3「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。東方の博士たちは、新しい王の誕生という良い知らせを持ってきました。ところが、ヘロデ王は恐れ惑いました。エルサレム中の人も王と同様であったということです。なんということでしょう。彼らは救い主の誕生を喜ぶどころか、「困ったことになった」と恐れたのです。まず、このヘロデ王という人物のことを少し紹介したいと思います。ヘロデの父は手腕家でローマのカイザルから気に入れられていたようです。税金をよく納めるし、ローマの内乱でもその当時のカイザルを助けました。その子どものヘロデ大王もしたたかな人で、サーフィンのようにうまく時代の波に乗って、権力を手中に収めました。親子ともども、カイザルの庇護を受けて、ユダヤの地方を支配していたのです。しかし、ヘロデ大王は晩年、猜疑心が強くなり、妻を殺し、息子たちを殺しました。自分の王座が狙われることを恐れたからです。皇帝アウグストは「ヘロデの息子であるよりは、ヘロデの豚である方が安全だ」と言ったそうです。そういうヘロデ大王ですから、自分の他に王さまがいるなんて断じて許すことはできません。ですから、ベツレヘムで生まれることを知って、博士たちにこう言って送りました。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」これは真っ赤な嘘で、あとから殺しに行くつもりだったのです。その証拠に、博士たちが帰って来ないことを知ると、兵隊を送り、その近辺の2歳以下の男子をひとり残らず殺させました。何と言う残忍さでしょう。ヘロデ王は博士たちから聞いて、その年齢を割り出していたのです。また、「エルサレム中の人も王と同様であった」とはどういう意味でしょう?まず、彼らは、「ヘロデ王がまた残忍なことをやるのでは」と恐れたのです。つまり、救い主の誕生よりも、自分たちの生活の安定の方が大事だったのです。

 ヘロデ王とエルサレムの民の共通していることは何でしょうか?それは新しい王が来ることによって生活を変えなければならないということです。特にヘロデ王は、自分の王座を新しい王に渡さなければなりません。また、エルサレムの民も、自我という王座を新しい王に渡さなければなりません。どうでしょうか?あなたの自我とイエス様、どちらが王座を占めているでしょうか?キャンパスクルセードの「4つの法則」という伝道用小冊子がありました。未信者(キリストを受け入れていない人)は、イエス様を心の外に締め出し、自分が王座についています。そのため、心には平安がなくて問題が満ちています。次の人は、イエス様を信じて心に迎えているけど、自分が王座についています。そして、イエス様は自分の足元にいます。その人の心は良くはなっていますが、問題も残っています。つまり、何かが起こると急に不安定になるということです。理想の形は、イエス様に心の王座についていただくことです。自分は王なるイエス様の足元にいて、何でも聞き従うのです。すると、心には平安と調和があります。たとえ、問題が起こっても、王なるイエス様が先頭に立って解決してくださるので安心です。重要なことは、「だれが、心の王座を占めているか?」です。たとえクリスチャンであっても、自分自身が王座についているという場合もあります。うまくいっているときは自分で、困った時だけ、イエス様に王座を渡すという器用な人もいるかもしれません。そうではなく、24時間、うまくいっているときもそうでないときも、イエス様に王座を占めてもらうのです。そうすれば、誘惑に陥ることなく、主の道を歩み続けることができます。

ところで、東方の博士たちは、それぞれ王様であったという伝説があります。なんと、それぞれの名前までつけられています。もし、そうであるなら自分の王冠を捨てて、幼子のメシヤを礼拝したということになります。まず、イエス様を自分の新しい王様するためには、どうすれば良いのでしょう?それは、自分が王座を降りて、イエス様に王位をお渡しすることです。でも、どうしてそのように行う価値があるのでしょうか?第一にイエス様は神の座を捨てて、あなたをあがなうためにご自分の命を捨ててくださいました。この世界には数多くの神さまがいますが、あなたのために死んでくださった神さまがおられるでしょうか?第二は父なる神はあがないが確かであることを証明するために御子イエスをよみがえらせました。ということは、あなたも死と罪から解放され、いのちの中を歩むことができるのです。キリストの復活は信じて義とされることの根拠です。第三は復活後、イエス様は天の御座に座られ、主の主、王の王になられました。イエス様こそ、御国の王です。あなたが御国に入るためには、イエス様が王であることを認めなければなりません。しかし、そうすれば、御国の王であるイエス様があなたを守り、あなたの必要を満たす責任を負うことになります。この世は悪魔のものなので、悪魔の支配のもとにいる人たちを神さまは守る責任がありません。しかし、イエス様を信じて、ご自分の子どもになったクリスチャンを神さまは守る責任があります。あなたは、御国の民としての身分が与えられるとともに、御国の相続人として豊かに暮らすことができます。ハレルヤ!クリスマスは何となくおめでたいので、お祝いするのでしょうか?でも、私たちはその意味が分かるのでおめでたくなり、心からお祝いしたくなるのです。「だれを?」でしょうか?それは、天の御座を捨てて、私たちを救うために、人になって生まれてくださったイエス・キリストです。このクリスマス、どうかイエス様を新しい王として心にお迎えください。

 きょうは4名の方の洗礼式があります。この人たちは救いを求めて、イエス様を心に救い主、また王様として受け入れた方々です。でも、イエス様を信じるだけで救われるのにどうして洗礼を受けなければならないのでしょうか?旧約聖書でイスラエルの民はエジプトを出る前の夜、過ぎ越しの食事をしました。1歳の羊の血を玄関の柱と鴨井に塗りました。その家の中に住む人たちがさばきが通り過ぎました。同じように私たちもイエス様の血によって罪の赦しがあたえられます。その後、イスラエルの民は紅海を渡りカナンの地に向かいました。パウロは紅海とはバプテスマだと言っています。聖書的にはエジプトはこの世を象徴しています。紅海を渡る、つまり水のバプテスマはこの世にお別れを告げ、御国に移り住むことを象徴しています。聖書に、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」とあります。東の博士たちは幼子イエスを礼拝した後、「別の道から自分の国に帰って行った」とあります。これは救われた人が、別の道、新しい道を歩むということです。このクリスマス・シーズン、一人でも多くの人たちが、東の博士たちのようにキリストを探し求め、キリストに出会うことを願いたいと思います。

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2015年12月11日 (金)

イエス・キリストの誕生 マタイ1:18-25 亀有教会牧師 鈴木靖尋

 マタイによる福音書は母マリヤではなく、夫のヨセフに焦点が当てられています。また、「処女降誕」はある人たちにとっては躓きであるかもしれません。しかし、マタイは2つの点から、処女降誕の必然性を説いています。第一は、それが「聖霊によって」であることです。第二は、それが「預言の成就」であったからです。処女降誕は神の奇蹟でありますが、同時に人間ヨセフの協力が必要であったことも事実です。神の御子が私たち人類をあがなうために人になって生まれてくださいました。しかし、そこにはヨセフとマリヤという信仰深いカップルがいたということをも考えたいと思います。

1.聖霊によって

 今の時代もそうですが、昔も処女降誕は信じられない出来事でした。当時、婚約は結婚と同等とみなされましたが、婚約期間が1年くらいありました。かといって、両者は一緒に暮らすことはできず、婚礼の時をそれぞれ待ったのであります。ところが、婚約者のマリヤから子どもが宿ったという知らせを受けました。ヨセフは身に覚えがないので、こんなことが世間に知れたら大変なことになると恐れました。当時は結婚相手以外によって身ごもったなら、姦淫罪として石打ちの刑になりました。ヨセフは、彼女をさらし者にしたくなかったので、内密にさらせようと決めました。つまり、ヨセフは彼女を守るために、離婚することを選んだということです。本当はマリヤが「聖霊によって」と告げていたのに、ヨセフは「そんなことがありえるだろうか?」と疑ったのでしょう。マタイ120彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」神様は、ヨセフのことを気遣って、主の使いによって、その理由を説明しました。ヨセフは、「恐れないでマリヤを迎えよ」と命じられました。中心的なことは、そのことは聖霊によるものだということです。ヨセフはマリヤからそのことを聞いていましたが、今回は、直接、御使いを通して聞いたわけです。ヨセフは半分納得したかもしれませんが、半分は「え、どうして私たちが?」と疑問に思ったでしょう?本来ならめでたく結婚した後、マリヤとの間に子どもが与えられるはずです。しかし、「まだ一緒にもなっていないのに、子どもが宿ってしまった?それも聖霊によって?そんなことがあって良いのでしょうか」と文句を言いたくなるでしょう。しかし、ヨセフはひとことも反論していません。ヨセフは神様の割り込みに対して、黙々と従いました。良く見ると、ヨセフが何かをしゃべったという記録がマタイ1章にも2章にもありません。これがヨセフの信仰の姿勢です。

 今度は神様の視点からこのことを考えたいと思います。ヨセフは「ダビデの子ヨセフ」と呼ばれています。なぜなら、メシヤはダビデの家系からでなければなりませんでした。血縁的にはヨセフが必要なのです。ただし、メシヤの誕生に関しては、ヨセフ抜きでなされなければなりませんでした。なぜなら、ヨセフとの自然な関係でメシヤ生まれたなら、アダム以来の原罪を受け継ぐことになるからです。血縁的にはヨセフからではありますが、実際は、聖霊とマリヤだったのです。ローマ・カトリックは、マリヤは原罪の汚れと咎を一切受けていないという「無原罪懐胎」を唱えます。しかし、マリヤとて人間、原罪を免れることはできなかったでしょう。注目すべきことは、「聖霊によって」、「聖霊による」と二度も書かれていることです。創世記1章を見ると、聖霊がこの世界を創造するとき、参与されたことがわかります。また、人間を創造するときも聖霊が参与しました。ですから、聖霊がアダムの原罪を受け継がせることなく、乙女マリヤから救い主を誕生させることは可能なことでしょう。もし、救い主に罪があったなら、人類の罪をあがなうことができません。これは、神様の奇蹟であって、私たち人間が口をはさむ余地はありません。

 イエス・キリストがこの世に誕生するためには、肉体が必要であり、またダビデの家系でなければなりませんでした。そのためにはマリヤという肉体を与える母と、ダビデの家系であるヨセフが必要でした。さらに、原罪を受け継がずに、処女マリヤから生まれるためには聖霊の働きが必要だったのです。こう考えると、奇蹟というのは神の一方的なわざではありますが、人間の協力も必要だということです。しかし、「協力」というと人間と神様が対等みたいなイメージがありますので正しくはないのかもしれません。犠牲では暗い感じがするし、特権では言い過ぎのような感じがします。ルカ福音書では、マリヤは「メシヤを生む母として」大変喜んでいます。しかし、ヨセフは「蚊帳の外」みたいで、心から喜べなかったのではないでしょうか?当時、子どもの名前を付けるのは父親の特権でした。なのに、生まれる前から「その名をイエスとつけなさい」と命じられていました。ヨセフは子どもが生まれたのち、「その子どもの名をイエスとつけた」とあります。「ヨセフは偉いなー」と思います。私はクリスマスにおいて、この箇所から何度かメッセージしたことがあります。これまでのものは「メシヤは聖霊によって原罪から免れて生まれたのだ」と神学的なものでした。しかし、年を取ると「ヨセフやマリヤはどんな気持ちだったんだろう」と考えるようになりました。奇蹟という出来事の背後に、犠牲や信仰的な従順があったことを思うようになりました。昔、北森嘉蔵という人が『神の痛みの神学』という本を書きました。私は全部読んでいませんが、人間として生まれるイエス様の気持ち、また、その受け皿となるヨセフとマリヤの気持ちを理解すべきだと思います。ちなみに、日本語の「気持ち」ということばは、英語のフィーリングだけではありません。そこには考えとか思いが混じっています。

 私たちは使徒信条に書かれているように、イエス・キリストの誕生が処女降誕であると信じます。確かにそれは聖霊の働き、神からの奇蹟でした。しかし、そこには結婚をあきらめようとしたヨセフがいたことを忘れてはいけません。彼はダビデの家系だったので、そのことに用いられたのです。私たちも人生において神様のご介入があったとき、ヨセフのように文句を言わないで従いたいと思います。

2.成就するために

マタイは第二の理由で処女降誕の必然性を説いています。それは、預言が成就するためでした。マタイ1:22-23このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)「成就するためであった」は、マタイ独特のものであると第一回目に申し上げました。マタイは「旧約聖書が預言していたメシヤが、このイエス・キリストである」と言いたかったのです。ややこしい話になりますが、当時は旧約聖書しかなく、新約聖書がやっと書かれたところでした。だから、マタイは旧約聖書と新約聖書は別物ではなく、預言と成就という関係で書きたかったのでしょう。では、マタイが引用している聖書のことばはどこにあるのでしょうか?引照付きの聖書を見ると、下の段に小さく「イザヤ714」と書いてあります。確かに、このみことばは預言者イザヤが語った預言です。しかし、直接的にはアハズに対する預言でした。ユダの王アハズが、アラムと北イスラエルの侵略を恐れていました。そのとき、イザヤはアハズに「恐れるな。あなたの神、主からしるしを求めよ」と言いました。しるしというのが、「処女がみごもっている」ということでした。この預言は、アハズの時代に成就されたと考えられます。しかし、イザヤ書はそれと同時に、700年以上も先のことを預言しています。もちろん、「700年以上も先のことが分かるのか?」と否定する神学者もいます。でも、マタイは「イザヤ714の預言が、このところで成就されたのだ」と主張しています。

 さらに預言には「そして、男の子を産み、その名は『インマヌエル』と名付けられる」とあります。ヘブル語で「イム」は「…と共に」です。そして、「ヌー」は私たちです。「エール」は神様です。合わせると「神が私たちと共におられる」という意味になります。神はしばしば、イスラエルの民と共におられました。創世記26章には「アブラハム、イサクと共におられた」とあります。また、創世記28章には「ヤコブと共におられた」とあります。また、創世記39章には「ヨセフと共におられた」とあります。他には「モーセと共におられた」「ヨシュアと共におられた」「ダビデと共におられた」とあります。主が共におられるなら、たとい目前に危機が迫っていたとしても、安心があり、希望があります。一方、主が共におられないなら、すべてはむなしく、敗北があるのみです。イザヤはその当時のことだけではなく、やがて訪れるイエス・キリストによってこのことが成就されるのだと預言したのです。でも、イエス様は地上におられたとき一度も「インマヌエル」と呼ばれたことはありません。この預言は、イエス様を信じる人に実現する神の預言であります。

 ところで「主が共におられる」という表現は、1章の他に2回出てきます。マタイ1820「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」このみことばは、二、三人が心を合わせて祈るということがとても大事であるということを教えています。また、このみことばは、「教会の最小の人数は、二人か三人で成り立つ」と言うことを示唆しています。もちろん、「二、三人集まればそれが教会である」とは、言い難いかもしれませんが、私たちの神様は共同体の神様であるということが分かります。その次は、マタイの最後にあります。マタイ2820「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」イエス様が世の終わりまで共におられるということです。私たちは「神であるイエス様が共におられるならどうなるだろうか?」ということを、瞑想する必要があります。「イエス様が共にいる」ということは、神さまが私の味方であるということです。私たちは人生において、反対されたり、拒絶されることがあるかもしれません。しかし、「神は私の味方であり、私を決して捨てたりしない」ということです。また、私たちは自分の力や能力に限界を覚えることがあるでしょう。そのとき、「イエス様が共にいる」ということは、神さまが私の資源となり、力となるということです。また、私たちが身の危険や恐れを覚えることがあるかもしれません。そのとき、「イエス様が共にいる」ということは、神さまが私を守って下さるということです。詩篇234「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」アーメン。旧約聖書では神さまが共におられるということを「救い」と同じようにとらえていたようです。神さまが私たちと共におられるのだったら、どんな時でも救いが与えられます。

 実のところ、イエス様の誕生日はいつなのか分かりません。男の子がお母さんに、「クリスマスっていつなの?」と聞きました。お母さんは「ぼうや、あなたがイエス様を信じて、心にお迎えした日がクリスマスよ」と答えました。「インマヌエル」神が私たちと共におられるという預言はいつ成就するのでしょうか?それは、あなたがイエス様を信じて、心にお迎えした時に成就するのです。本当のクリスマスは、あなたがイエス様を心にお迎えした日なのです。そうすれば、イエス様はあなたを見捨てず、世の終わりまであなたと共にいてくださいます。

3.イエスという名

 最後に、イエスという名について学んで終えたいと思います。マタイ121「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」キリスト教を知らない人は、イエス・キリストと聞くと、「イエスが名前で、キリストが苗字かな?」と思うのではないでしょうか?イエスは確かに名前ですが、キリストはメシヤという職名を表わしています。つまり、イエス・キリストというのは、イエスはキリスト、メシヤですという意味になります。メシヤは元来、油注がれた者という意味ですが、一般的には「救世主」とか「救い主」と訳されています。しかし、きょうは「イエス」という名前の方を考えてみたいと思います。神の御子が地上に生まれたとき、イエスという名前が与えられました。つまり、神が人になったということです。当時、イエスという名前はそんなに珍しい名前ではありませんでした。イエスという名前は、旧約聖書のヨシュアをギリシャ語に読み替えたものでした。つまり、旧約聖書のヨシュアという意味を調べるならば、イエスという名前の意味も分かるということです。みなさんはヨシュアのことをご存じでしょうか?ヨシュアはモーセの後継者で、エジプトからイスラエルの民が脱出したときも一緒にいました。ところがモーセは約束の地に入ることができませんでした。彼の代りに、ヨシュアが約束の地カナンにわたって、領土を勝ち取ったのです。つまり、ヨシュアはイスラエルの民を約束の地カナンに導いた人であります。このヨシュアという名前は、「主は救い」という意味があります。そうなるとギリシャ名のイエスも、「主は救い」という意味になります。面白いですね。メシヤは「救い主」という意味ですが、イエスは「主は救い」であります。

でも、マタイはこのところでイエスという名前を説明しています。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と書いています。マタイは、イエスは「主は救い」という意味ですが、何から私たちを救ってくださる方なのか述べています。マタイは「罪から救ってくださる方である」と言っています。救いという意味は、当時も今も変わりありません。たとえば、経済的に破たんしたところから救われることもあります。大きな病が癒されることも救いでしょう。事故や災難から助け出されることも救いです。逆境や窮地から抜け出すことも救いと言うでしょう。しかし、この世においては「罪から救われる」という言い方は滅多にしません。政府は私たちを罪から救うことができません。教育も私たちを罪から救うことができません。経済も、芸術も、医療も、私たちを罪から救うことができません。私たちはだんだん、そのことが分かってきたのではないでしょうか?一昔前は、経済が人を救う、知識が人を救う、イデオロギーが人を救うと考えてきました。ところが、昨今のテレビ・ニュースを見ますと、人が毎日殺されています。昔は、こんなに殺人事件はありませんでした。海外に目を向けますと、民族同士が争っています。国と国ではなく、一国の中の民族が争っています。テロがあり、難民があふれています。温暖化が進んで異常気象が起きています。医療が発達しても、難病やウィルスに悩まされています。聖書はこれらすべての原因は「人が罪を犯したからである」と言っています。創世記3章を見ると分かりますが、アダムが神に逆らってから、罪が入り、死が入り、呪いが入りました。また、家庭が破壊され、殺人や戦争が起こるようになりました。諸悪の根源は、罪であります。世界にはいろんな宗教がありますが、罪からの救いということは言いません。

 神の御子が人となってこの世に来て、イエスという名前を付けられました。イエスという名前の中に、神の御子がこの世に来られた目的があらわされています。「その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」旧約聖書のヨシュアはイスラエルの民を約束の地カナンに導き入れました。同じように、新約聖書のイエスは、ご自分の民に罪の赦しを与え、御国に導き入れるということです。罪から救うとは2つの意味があります。第一は罪の赦しを与えること、第二は罪の世界から御国に導き入れるということです。御子が人間イエスとなられたのは、私たちを罪から救うためです。そのために、最も重要なことは、私たちの身代わりになって罪を負って、死ぬということです。別な表現では、人類の神に対する罪の代価を十字架にかかって、ご自分の命で支払うということです。このことを罪の贖いと言います。諸悪の根源は罪であります。アダムが罪を犯してから、人類全体に罪が入りました。世界には善人も悪人もいますが、罪の汚染から免れる人は一人もいません。神の前に義とされる唯一の方法は、救い主イエス・キリストを信じることであります。そうすれば、神はその人にご自分の義を与え、罪から私たちを救ってくださいます。では、クリスマスとは何なのでしょうか?クリスマスとは、神のひとり子が、人類の罪を身代わりに負うために人となられて生まれたことです。身代わりとなるために、どうしても人間の体が必要だったのです。そのため、聖霊による誕生のゆえにアダムの原罪の影響を受けませんでした。また、生涯においても、御父に従い通して罪を犯しませんでした。このイエス様しか、罪の代価を払える資格のあるお方はいません。イエス様は私たちのために死ぬために、この世に来られたのです。このお方を信じる者が、罪赦され、御国に入ることができるのです。だから、私たちはクリスマスをお祝いするのです。

 残念ながら、この世ではイエス・キリスト抜きのクリスマスが祝われています。まるで、主人公抜きの誕生パーティのようです。かつての私もそうであったので、恥ずかしい次第です。多くの人は、クリスマスはプレゼントをもらったり、あげたりする日だと思っています。もし、だれからもプレゼントをもらえなかったらがっかりするでしょう。でも、2000年前、父なる神様が御子をこの地上に送ってくださいました。御子は、ヨセフという夫と処女マリヤのカップルから、聖霊によって生まれたのです。その方の名前が、イエス「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」つまり、神様から人類への最大のプレゼントは、イエス・キリストご自身だということです。では、イエス様は私たちに何をプレゼントしたのでしょうか?それはご自分の命を十字架にささげたということです。ご自分の体、ご自分の命を私たちのために与えたということです。では、聖霊は私たちに何をプレゼントしたのでしょうか?聖霊は主イエス・キリストを信じる者に、永遠のいのちと御国に入る資格を与えてくださいます。みなさん、永遠のいのちほどすばらしいものはないのではないでしょうか?昔、ジュニア礼拝でメッセージをしたことがあります。私が中学生に、「永遠のいのちを欲しくありませんか?」と聞きました。数名いた中学生が、「いらない」とそれぞれ首を横に振りました。私は驚いてもう一度聞きましたが、やはり「いらない」と答えました。確かに、永遠のいのちと言われても、何のことなのか分からないかもしれません。しかし、伝道者の書3章に「神はまた、人の心に永遠を与えられた」と書かれています。だれにでも、永遠を慕う思いはあるはずです。ただ、この世の神によって目がくらまされているのです。最後にこのみことばを紹介してメッセージを終えたいと思います、ヨハネ316「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

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2015年12月 4日 (金)

系図の意味 マタイ1:1-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.12.6

 先週からクリスマスのアドベントに入りました。今年のクリスマスはイブ礼拝も含め、このマタイによる福音書からお届けしたいと思います。きょうの聖書箇所には、ヨセフとマリヤが登場します。本来なら17節まで一緒に朗読すべきでしたが、興味をなくして帰らないように11節でやめました。ユダヤ人にとって、メシヤはだれの子孫なのか、正統な血統なのかということが、大変重要なことでした。カタカナ名の羅列ではありますが、系図の中にすばらしい福音が隠されています。きょうは、3つのポイントで系図の意味について学びたいと思います。

 

1.アブラハムとダビデ

 ユダヤ人にとってメシヤの系図と言えば、この二人がとても重要でした。まず、一人は信仰の父アブラハムです。アブラハムからイスラエル民族が興ったからです。アブラハムのもとの名前はアブラムでした。しかし、年を取って入れ歯をしました。だから、アブラハムになりました。木久翁のようなジョークを飛ばしてしまいました。アブラハムの父はテラでした。主はテラにカルディアのウルからカナンに行くように召しました。ところが、ハランというところに住みついてしまいました。テラの死後、息子のアブラハムが召されました。アブラハムは生まれ故郷と父の家を出て、主が示す地に向かいました。創世記122「私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」これは「アブラハム契約」として知られています。アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれました。このヤコブが改名してイスラエルになったのです。彼のもとから12部族が生まれました。本来なら長男を系図に入れるべきですが、四男のユダが選ばれました。ユダ部族からやがてダビデが誕生するのです。ダビデはイエスラエルの第二番目の王ですが、北イスラエルとユダを統一したすばらしい王様です。主はダビデに「彼の王座はとこしえに立つ」(Ⅰ歴代1714と言われました。これが「ダビデ契約」です。ダビデのあとソロモンが生まれます。ソロモンの死後、北イスラエル王国と南ユダ王国に別れました。北イスラエルは紀元前723年、アッシリヤによって滅ぼされました。南ユダがしばらく残りますが、紀元前586年バビロンによって滅ぼされます。そのとき、主だった人たちがバビロンの捕囚となりました。約70年後、ペルシャのクロス王によってエルサレムに帰還することができました。バビロンから帰還した人たちを「ユダヤ人」と呼びます。ユダとベニヤミンの血をひいています。その系図が「バビロンの移住の後」ということで14代記されています。

 簡単に言うとメシヤの血筋は信仰の父アブラハムとユダのダビデ王の2つからなりたっています。この二人がとても重要なのです。だから、1節に「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と書いてあるのです。では、なぜ、そのことが私たちに関係があるのか、ということです。私たちはイスラエル人でもないし、ダビデ王国とは縁もゆかりもありません。神の選び、つまりは神の救いから漏れている人たちを異邦人と言います。ところが、神様がアブラハムを召したのは訳がありました。アブラハムとその子孫は神の祝福の管となり、他の民族も彼らを通して、同じ祝福にあずかることができるようにという目的がありました。ところが、イスラエルは堕落し、その務めを果たせなくなりました。では、その務めを果たす真のイスラエルはだれかというとイエス・キリストであります。パウロは私たちのことをこのように述べています。エペソ212-13「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」アーメン。キリストの十字架の血によって、私たちもアブラハムの子孫になることができるのです。ガラテヤ書3章には「キリストは、私たちのために呪われたものとなって、…アブラハムの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためである」と書かれています。ハレルヤ!私たちにも霊的にはアブラハムの子孫であり、神さまの祝福を受けることができるのです。

 もう一人はダビデ王です。どこに、ダビデ王と私たちと関係があるのでしょう?さきほど、主がダビデと交わした契約について申し上げました。ルカ1章にイエス様の預言が記されています。ルカ132-33「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」これは、どういう意味でしょうか?主がダビデと交わした契約が、イエス様によって成就されました。主はダビデ的な王と永遠の王国をもくろんでいました。これはイエス様が神の国の王となり、永遠に治めるということです。私たちはイエス様を信じたら、罪赦されて永遠のいのちが与えられます。でも、私たちはどこに住むのでしょうか?それはイエス様が王として治める神の王国に住まうことができるのです。ですから、救いということを言いかえると、キリストと契約を交わして王国の民になるということです。みなさん、どこかの国の国民、つまり市民権を持つためにはどのような条件が必要でしょうか?一般に、その国に生まれたら、その国の市民権が与えられます。でも、よその国で生まれた人はどうなるのでしょうか?ヨーロッパでは難民問題が浮上しています。シリアの内戦から逃れた人たちが、ドイツなどのEU国を目指して、命がけで移動しています。しかし、制限があり、何百万人もの人たちを受け入れることは不可能です。ある国に受け入れられたとしても、市民権がないというのはさびしいことです。私たちも本来、神の王国とは縁もゆかりもない民、外国人でした。しかし、キリストの十字架の贖いを受け入れることによって、私たちは神の王国に入り、市民権をいただくことができるようになったのです。エペソ219「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」アーメン。私たちはキリストによって、アブラハムの子孫となり神の祝福をいただくことができます。また、私たちはキリストによってダビデに約束された神の王国の市民になることができるのです。ハレルヤ!

2.異邦人と女性

 旧約聖書の中にいくつかの系図がありますが、マタイにおけるそれは、例外的なことが2つもあります。系図は神の民としての選び、あるいはユダ王国の家系ということが目的でした。しかし、ユダヤ人がマタイの系図を見て、びっくりしました。なぜなら、異邦人と女性の名前が堂々と記されているからです。12節に「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」とあります。タマルはユダの息子の嫁でした。しかし、長男が死んだためにタマルは次男と結婚しました。しかし、次男が死んでしまいました。二人とも主を怒らせるようなことをしたようです。詳しくは創世記38章をお読みください。父ユダは三男も死ぬといけないと思ったので、タマルに「やもめのままでいなさい」と言いました。当時は家系を絶やさないために、婦人に対する権利がありました。ところがユダはそれをしなかったのです。なんとタマルは遊女に変装して、義父のユダと関係を持って、子どもを宿しました。生まれたのは、パレスとザラの双子でした。その次は、ラハブです。彼女はカナン人で遊女でした。ヨシュアが二人のスパイを送り、エリコの町を探らせました。追っ手が来たので、ラハブは二人をかくまってあげました。母国を裏切り、嘘をついたのはヨシュアの神がまことの神だと信じていたからです。ヨシュアが攻めてきたとき、ラハブとその一族だけは滅びからまぬがれました。ラハブの子どもがボアズです。5節に「ボアズに、ルツによってオベデが生まれ」とあります。ルツはモアブ人です。夫が死んだために、母国を離れ、ナオミにくっついてベツレヘムに来ました。彼女は、ナオミが信じている神を信じていたのです。二人には土地もないし、食べるものもありません。収穫時だったので、ルツは畑に落穂を拾いにでかけました。はからずもボアズの所有する畑でした。ボアズはナオミの土地を買戻し、ルツと結婚しました。その後どうなったでしょう。「ルツによってオベデが生まれ、オベデによってエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた」のです。ルツはダビデの曾おばあちゃんということになります。子どもの頃、「落穂拾い」の絵がかかっていました。私は「なんと暗くて地味な絵なんだろう」と思っていました。しかし、その一人はルツだったんですね。

 遊女に変装したタマル、カナンの遊女ラハブ、そしてモアブのルツ、何か共通したことがあるでしょうか?異邦人、女性、そして罪の中にいた女性もいます。でも、信仰があるのではないでしょうか?へブル人への手紙11章には彼女らに信仰があったのだとはっきり述べています。へブル1131「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」とあります。ヘブル1135「女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。」だれのことでしょう?シュネムの女は死んだ息子をエリシャからよみがえらせていただきました。とにかく、女性がちゃんとした身分が与えられ、救いの民に加えられているというのは当時のギリシャやローマ世界にはありませんでした。マタイの系図は1つのセンセーショナルだったと思います。また、イエス様のところに来る人たちで、一番最初に神の国に入った人たちとはだれでしょうか?イエス様が当時の宗教家たちに皮肉を述べています。マタイ2131-32「イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。」アーメン。

 他に女性としては、6節の後半「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」と書いてあります。彼女の名前はバテシバです。ダビデがウリヤの妻と関係して生まれた子どもが後継者となりました。ダビデに正妻やそばめがいたと思われますが、相手がウリヤの妻です。こんな恥ずかしいことを系図に載せて良いのでしょうか?聖書は人が犯した罪も赤裸々に書き残しています。完全な人は一人もいません。でも、ダビデは神様から最も愛された人の一人であります。列王記という書物に、理想的な王として常に引き合いに出されています。もし、日本の牧師がダビデと同じような罪を犯したなら、二度と復帰できないでしょう。神様が赦しているのに、人間が赦そうとしないのです。姦淫の罪も重いでしょうが、赦さない罪もそれと同じくらい重いのではないでしょうか?なぜなら、その人は自分を神の座においているからです。もう一人、女性としては、マリヤが出てきます。16節「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」このことを単純に読むと、ヨセフはユダの家系かもしれませんが、マリヤは何なのでしょうか?これまでの系図の書き方は、「○○が生まれ」となっていました。これは父が子を儲けるという意味です。英語ではbegat, begat, begatとなっています。ところが、16節はマリヤから生まれたとなっています。英語ではbornです。となると、ヨセフまでの血統が述べられているのに、ヨセフにイエスが生まれとなっていません。マリヤから生まれたとなっています。となると、イエス様とヨセフとは何の関係もないということになります。戸籍上はヨセフの子かもしれませんが、血のつながりはないということになります。このことは次週、話したいと思います。

 とにかく、この系図の中に数名の女性が出てきました。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻、そしてマリヤです。何度も申し上げましたが、一般に系図には女性の名前は出てきません。しかし、すべての女性がわけありであります。このわけありの女性たちを通してメシヤが誕生したということは良いニュースではないでしょうか?どうして女性が系図にしるされているのでしょうか?それは汚名挽回ではないかと思います。創世記3章を見るとわかりますが、最初に罪を犯したのはエバであります。もちろん責任を果たさなかったアダムの方が重いかもしれません。ところが神である主は、「女の子孫が、サタンの頭を踏み砕く」と言われました。女の子孫とは、まさしくイエス・キリストであります。イエス様はやはり女から生まれる必要があったのです。私は生まれた時から男だったので、女性の気持ちがわかりません。ある女性たちは、「この世では、男が我がもの顔で生きて、自分たちは損をしている」思っているかもしれません。しかし、そうではありません。この系図から分かるように、神様は女性を特別に愛しているということです。

3.善王と悪王

 旧約聖書の中には、列王記の上下、歴代誌の上下があります。この中は歴代のイスラエルの王様がどんなことをしたのか克明に記されています。善い王様もいれば、悪い王様もいました。マタイ1章のダビデ以降の王様は、南ユダ王国の王様です。神様が選んだユダの家系ではありましたが、ひどい王様もいました。善い王様だったのに、あることによって汚点を残したということも記されています。完全な人はいないということでしょう。ここに1つの法則があります。良い王様の後、つまり子どもが良い王様になるかというとそうではありません。逆に、もっともひどい王様になっています。ダビデの子どもはソロモンです。彼は最初がとても良かったのですが、大勢の外国人の妻をめとり、彼女らの神様を拝みました。最後には主を捨ててしまったのです。そのためソロモンの死後、国は2つに分割されてしまいました。ヨサパテ(ヨシャパテ)は比較的良い王様でした。彼は偶像を撤去し、主の目にかなうことを行いました。ところが、ヨサパテの子ども、ヨラムはどうでしょうか?妻が北イスラエルの偶像崇拝者だったので、主の目の前に悪を行いました。その後のヒゼキヤ王は主をより頼み、比較的良い王様でした。ところが、その子どものマナセは最悪の王でした。彼は偶像礼拝を取り入れ、主の預言者たちを皆殺しにしました。簡単に言いますと、父の信仰と恵みは、子どもには直接、伝わらないということです。この世では「子どもが悪いのは、親の教育が悪かったからだ!」と言うかもしれません。確かにそういうところもあるでしょう。でも、たとえ親が信仰深くても、子どもがそうではないということもあるということです。その一番の例は、主なる神様がアダムをこしらえました。しかし、アダムが罪を犯しエデンの園から追い出されました。「アダムが罪を犯したのは、神様のせいだ」とだれが言えるでしょうか?

 もちろん、先祖からいただく良い遺産というものがあるでしょう。才能や財産、すばらしいDNAがあるかもしれません。でも、親から子どもへ信仰が自動的に伝わるかというと必ずしもそうではないということです。従来、日本の牧師家庭は経済的に貧しいのではないかと思います。親は神様にすべてを投げ売って献身しているかもしれません。でも、子どもは献身しているわけではありません。他の友人たちのように日曜日休んだり、好きなものを買ったりしたいでしょう。私は、いろんな牧師たちとその子弟たちを知っています。データーを取ったことはありませんが、大きく2つに分かれます。第一は、子どもたちがとても霊的に純粋で、牧師や牧師夫人になるというすばらしいケースです。常磐牧師セルというのがありますが、多くの牧師子弟がそのようになっています。まことにうらやましい限りです。第二は、子どもたちは信仰を全く持たず、この世の人たちと全く同じか、それ以下になるというケースです。哲学者のニーチェは牧師の子どもでした。彼は「神はいない」という神学を立てて、やがて発狂して死にました。昔、川上宗薫というポルノ作家がいました。彼も牧師の子どもでした。つまり、牧師子弟は極端に良くなるか、あるいは極端に悪くなるということかもしれません。お寺と違い、教会は世襲制ではありません。そういう訳で、後継者問題というのが常にあるのかもしれません。少し本題からそれましたが、系図には善王も悪王もまんべんなく織り込まれているということです。その系図というか、その家系から、イエス・キリストが誕生するということは何か意味があるのでしょうか?

 その答えはこれではないでしょうか?先週も引用しましたが、ヘブル2章のみことばです。へブル211「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。」主は私たちを救うために、私たちと同じ立場に立ってくださったということです。確かにキリストはアブラハムの子孫、ダビデの子孫かもしれません。しかし、その系図を見ると、一般にはない異邦人、女性、遊女の名前が記されています。また、「タマルによって」「ウリヤの妻によって」とありますが、とんでもない方法で後継者が与えられています。さらに今、取り上げたように、善い王様だけではなく、悪い王様も名を連れらねています。これはどういうことでしょうか?「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」とあります。これは神学的に、罪びとを同化するということです。なぜでしょう?ルツ記にもありますが、おちぶれた財産をだれかが買い戻すとします。だれができるかというと、近親者だけがお金を出して買い戻すことができます。私たちは罪の中に売られていた奴隷でありました。罪の中にいる私たちを救うためには、イエス様が私たちの近親者にならなければなりません。そのために、イエス様は罪びとや異邦人と同じ立場に立って下さったのです。「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」のであります。私が子どもの頃、ある家の長男が犯罪を犯して刑務所に入りました。村の人たちは「あそこは前科者の家だ、前科者の兄弟だ」とひそひそ言っていました。その家には妹と弟がいましたが、本当に恥ずかしい思いをしたと思います。できれば、あの家の子どもと呼ばれたくないでしょう。数年前、グーグルで私の生まれた村を見ました。ストリート・ビューと言って、いながらにその通りを見ることができます。村の人たちが言っていた例の家が跡形もなく、雑草がはえていました。とても、重たい気持ちになりました。

 しかし、イエス様はどうでしょうか?極悪人がかかる十字架にかかられました。しかも、右と左には犯罪者が付けられていました。通り行く人たちはどう思うでしょうか?「ああ、真ん中の人が最も悪い罪を犯したんだろうなー」と思うでしょう。しかし、それはイザヤ書の預言の成就でした。イザヤ5312「彼が自分のいのちを死に渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである」とあります。イエス様が神さまと人々から捨てられ、罪びとになられたので、どんな人たちも救われるようになったのです。ヘブル1312「ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。」アーメン。当時、エルサレムの中に入れない、門から締め出されている人たちがいました。そういう人たちを救うために、イエス様は門の外で苦しみを受けられたのです。門の外とは、救いからもれている異邦人、律法を守れない罪びとたちのことです。この世においては底辺と呼ばれる人たちのためにもイエス様が来られたというのは何と幸いでしょう。

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