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2015年12月18日 (金)

新しい王様 マタイ2:1-8 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.12.20

 現代人はピンと来ないと思いますが、国王や皇帝が新たに即位するときは大変だと思います。なぜなら国民の生活は王様の良し悪しにかかっているからです。慈愛に満ちた王様だったら良いのですが、残忍で独裁的な王様だったら困ってしまいます。イエス様はユダヤの新しい王様としてお生まれになりました。ところが、その時代、ヘロデ大王という猜疑心の塊のような王様がその地方を支配していました。イエス様は、ユダヤのベツレヘムでお生まれになりましたが、果たして人々から歓迎されたのでしょうか?きょうは、3種類の人たちをあげて学びたいと思います。

1.東方の博士たち

 東方というのはどこでしょうか?昔、ペルシャやバビロンがあったところだと思われます。紀元前8世紀、イスラエルの10の部族は東方に散らされてしまいました。また、紀元前6世紀、ユダの民は国を追われ、バビロンに70年間捕らわれました。ダニエルはバビロンやペルシャの王に仕え、預言書を残しました。国を失った人たちは、メシヤの訪れと王国の再建を願っていました。ペルシャやバビロンに、そのような預言の巻物や言い伝えが残っていたに違いありません。東方の博士は、ギリシャ語ではマゴイとなっていますので、星占術者という方が正しいかもしれません。彼らは星の運行を長い間、観察し、一定の法則があることに気が付きました。また、そのことが世界の吉凶や個人の運命にも関係しているのではと考えました。彼らは、それらのデーターをもとにして、将来のことを占ったのかもしれません。聖書的には、星占術は異教的な魔術であると言えるでしょう。しかし、一般啓示として、自然や天体の星々にも、神様のことが啓示されていることも確かです。詩篇191-2「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。」とあるからです。おそらく、東方の博士たちは、特別な星を発見し、その星が古くから預言されているメシヤ的な王様の出現と関係があることを見出したのでしょう。今年も日本人が、いくつかのノーベル賞をいただきました。彼らの共通していることは、一般の人たちには分からない法則や物質を発見することであります。もしも、立てた仮説が嘘であるなら、一生を棒にふるかもしれません。彼らは1%にも満たない可能性にかけて、日夜研究に励んでいます。星占術師たちも、「果たしてそうなのか」というわずかな可能性にかけたのであります。

 

 おそらく、東方の博士たちの周りに、「そんなの迷信だよ。星占術なんて信じられないよ」という人たちがいたでしょう。また、「なんで、ユダヤの国まで会いに行く必要があるんだ。よその国の王様だろう?」と非難する人たちもいたでしょう。もし、ユダヤに行って、新しい王に会わなければ、単なる仮説に終わってしまいます。彼らは科学的な基盤を持つ自分たちの星占術が正しいということを証明したかったのかもしれません。ところで、東方の博士たちが3人だったとよく言われますが、三種類の宝物がささげられたので、そう言われたのでしょう。でも、彼らは大勢のキャラバンを組んで、やって来たに違いありません。なぜなら、当時は山賊や盗賊がいたるところに跋扈したいたからです。彼らは危険や困難を顧みず、宝物を携え、星を頼りに会いに来たのです。天文学的には紀元前12年にハレーすい星が接近したようです。また、紀元前7年に、木星と土星が三度接近して、強烈な光彩を放ったようです。「それに火星が加勢した」と大和カルバリーの大川牧師がおっしゃっていました。彼らがエルサレムの近くに来たとき、星を見失ったのでしょうか?あるいはこの世の常識に囚われたのでしょうか?彼らはヘロデの宮殿を尋ねました。「ユダヤ人の新しい王だから、宮殿にいらっしゃるに違いない」と思ったのでしょう。しかし、実際はそうではありませんでした。祭司長や学者たちから、「ベツレヘム」と聞かされて、その場を去りました。すると再び、東方で見た星が彼らを先導しました。この世の人たちは、キリスト教を学ぶためには、有名な大学付属の神学校に行くべきだと考えるでしょう。あるいは、歴史ある大聖堂や教会堂に行けば良いのではと考えるでしょう。意外にも、そうでないかもしれません。救い主がおられたのは、立派なエルサレムの宮殿ではなく、田舎のベツレヘムだったからです。

 第一のポイントで学ぶことは、東方の博士たちの求道心と探究心であります。マタイ7章にはこのように書かれています。マタイ77-8「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」英語の聖書では、求めなさいはask,捜しなさいはseek,たたきなさいはknockであります。しかも、原文は一度限りではなく、継続してそうするように求められています。東方の博士たちは、星の運行による占星術と、預言や言い伝えというわずかな情報で遠くからやってきました。一度、エルサレムに立ち寄ったためにヘロデ王に知られることになりました。道草をしてしまいましたが、再び星が導いてくれました。現代はどうでしょう?キリストに関する情報は1000倍以上あるでしょう。啓示の光は、博士たちが見た星以上に明るく輝いています。現代はテレビやインターネットの情報が飛び交っており、人々はそちらの方を求めています。人々は「情報に取り残されてはいけない」と強迫観念にとらわれています。その代わり、私たちを真に生かす星が見えないのであります。聖書も読まないし、教会にも来ません。まさしく、この世の神が福音の光が輝くのを妨害しています。人々は永遠の真理の代わりに相対的な真理、永遠のいのちの代わりに永遠の滅び、永遠の愛の代わりに刹那的な愛にとらえられています。でも、私たちの人生に時々、暗くなるような出来事が襲います。この世的には不幸かもしれません。しかし、その時こそ、私たちを生かすお方が見えてくるのです。Ⅱペテロ119「夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」

2.祭司長と学者たち

 マタイ24-6「そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」祭司長や学者たちは、預言書からメシヤがベツレヘムで生まれることを言い当てることができました。しかし、彼らがベツレヘムに幼子を尋ねて行ったとは書かれていません。おそらく、行かなかったでしょう。エルサレムとベツレヘムは15キロくらいしか離れていませんでした。それなのに、会いに行こうとしなかったのは、どういう理由からでしょうか? 30年後、成人のイエス様と彼ら、もしくは彼らの後継者が会うことになります。最もイエス様に敵対し、妨害したのは彼らであります。マタイ23章には彼らがいかに偽善的であるかということが長々と記されています。つまり、こういうことであります。彼らは頭ではメシヤの存在と居所を言い当てることができました。しかし、心ではメシヤの出現を喜んでいなかったのです。なぜでしょう?それは、彼らが生活できなくなるからです。彼らは宗教というジャンルで、身を立て、名をあげていました。それなりの尊敬を人々から受け、いろんな特権にも預かっていました。しかし、もし、そこにメシヤが現れたなら、人々は彼らの教えよりも、直接、メシヤのところに行くでしょう。もしも、自分たちが教えていることがメシヤから否定されたなら、名誉も立場も失墜していまうでしょう。彼らはそういうことを恐れて、メシヤを歓迎するどころか、抹殺してしまったのです。

 もし、テレビ番組で、キリスト教について話すとしたなら、どういう人たちが呼ばれるでしょうか?おそらく大学付属の神学校の教授が呼ばれることでしょう。地域教会の一牧師が呼ばれるということはまずないでしょう。世の人たちも、キリスト教系の大学こそが、最も権威ある教えを保っているところだと信じているでしょう。しかしながら、現実は、祭司長や学者たちと似ているところがあります。残念ながら、多くのミッション・スクールでは、キリスト教についての知識は教えますが、イエス・キリストに出会うことがありません。「イエスは2000年前、十字架で死んでよみがえったと信じられている」とまでは、教えられるかもしれません。しかし、自分たちのためにイエス様が死んでよみがえったとは教えられないでしょう。つまり、頭だけの知識で終わり、心まで入っていないということです。それだけではなく、日本の大学付属の神学校は、自由主義神学の影響を受けて、聖書をそのまま信じていません。「聖書のここに、あそこに間違いがあるので、学問的に取捨選択して神のことばを摘出しなければならない」と考えています。つまり、聖書が全体的な権威ある書物ではないと考えています。そうなると、救済論も違ってきて、キリスト以外にも救いがあるとまで言い出します。祭司長や学者たちは、何もベツレヘムに行かなくても、自分たちの神学、自分たちが行っている宗教で良いと思っていました。本来なら、東方の博士と一緒に出掛けて、王なるキリストを拝するべきでした。しかし、プライドがあって、「異教の占星術師たちと一緒に行けるか?」と思ったのでしょう。つまり、頭があんまり高かったので、頭を下げることができなかったのです。マタイによる福音書は、ユダヤ人ではなく、異邦人の異教徒がイエス様の誕生のためやって来たと皮肉めいたことを書いています。

 西洋に「最も教会に近い人ほど、最も神さまから離れている」ということわざがあるそうです。それは日本でも同じかもしれません。当教会においても、お隣の方や向かいの人は教会に来ません。実は「祈り場」という祈り会が毎週木曜日あります。最後に家内が祈りの課題を出して祈るのですが、ご近所のために名前をあげて祈ります。最近、斜め向かいに5件の新しい家が建ちました。10月頃、斜め向かいの奥様がゴスペルに見学に来られました。家内に知らせたら、「私が祈ったからよ!」と言いました。「すごい信仰だなー」と思いました。また、キリスト教についてよく知っている人ほど、神様から離れているということがあります。ある人たちは、ミッション・スクールでキリスト教についてよく学びんだかもしれません。しかし、キリストに出会っていないのです。両親が信仰的に熱心でも、子どもがそうでない場合があります。子どもたちは聖書や教会のことを知っています。しかし、その分、聖なる事柄に対して軽蔑しています。残念ながら、当時の祭司長や律法学者たちは、聖書を良く学び、宗教的な儀式をしていました。頭では神さまの知識があったかもしれません。しかし、心では信じていませんでした。教会で、クリスマスは毎年、祝われます。そして、クリスマスは毎年、同じような話をします。調べてみたら、昨年のクリスマス礼拝は全く同じ箇所からでした。さらに遡ると2008年、2006年、1996年も同じ箇所からでした。ということは、聞く方も大変だし、話す方も大変だということです。つまり、クリスマス礼拝というかたちはあっても、心が伴っていないという可能性が出てきます。聖書を朗読しただけで、「ああ、こういう話をするんだろうなー」と分かってしまいます。ですから、私たちも祭司長や律法学者たちのように頭では分かっても、心が伴っていないことがあるということです。本当に恐ろしいことです。教会は心が伴っていないのをごまかすために、宗教ぽくみせるところがあります。私たちは頭の知識からくるプライドを捨てて、博士たちのようにへりくだる必要があります。彼らは危険を顧みず、自分の足で歩いて、キリストに会いに行きました。私たちも毎年やってくるクリスマスに慣れっこにならないで、キリストに出会う必要があります。ホセヤ書6章にこのようなみことばがあります。ホセヤ63「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」10年前にあったキリストではなく、1年前のキリストでもありません。きょう、生きておられるキリストに出会う必要があります。

3.ヘロデ王とエルサレムの民

 マタイ22-3「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。東方の博士たちは、新しい王の誕生という良い知らせを持ってきました。ところが、ヘロデ王は恐れ惑いました。エルサレム中の人も王と同様であったということです。なんということでしょう。彼らは救い主の誕生を喜ぶどころか、「困ったことになった」と恐れたのです。まず、このヘロデ王という人物のことを少し紹介したいと思います。ヘロデの父は手腕家でローマのカイザルから気に入れられていたようです。税金をよく納めるし、ローマの内乱でもその当時のカイザルを助けました。その子どものヘロデ大王もしたたかな人で、サーフィンのようにうまく時代の波に乗って、権力を手中に収めました。親子ともども、カイザルの庇護を受けて、ユダヤの地方を支配していたのです。しかし、ヘロデ大王は晩年、猜疑心が強くなり、妻を殺し、息子たちを殺しました。自分の王座が狙われることを恐れたからです。皇帝アウグストは「ヘロデの息子であるよりは、ヘロデの豚である方が安全だ」と言ったそうです。そういうヘロデ大王ですから、自分の他に王さまがいるなんて断じて許すことはできません。ですから、ベツレヘムで生まれることを知って、博士たちにこう言って送りました。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」これは真っ赤な嘘で、あとから殺しに行くつもりだったのです。その証拠に、博士たちが帰って来ないことを知ると、兵隊を送り、その近辺の2歳以下の男子をひとり残らず殺させました。何と言う残忍さでしょう。ヘロデ王は博士たちから聞いて、その年齢を割り出していたのです。また、「エルサレム中の人も王と同様であった」とはどういう意味でしょう?まず、彼らは、「ヘロデ王がまた残忍なことをやるのでは」と恐れたのです。つまり、救い主の誕生よりも、自分たちの生活の安定の方が大事だったのです。

 ヘロデ王とエルサレムの民の共通していることは何でしょうか?それは新しい王が来ることによって生活を変えなければならないということです。特にヘロデ王は、自分の王座を新しい王に渡さなければなりません。また、エルサレムの民も、自我という王座を新しい王に渡さなければなりません。どうでしょうか?あなたの自我とイエス様、どちらが王座を占めているでしょうか?キャンパスクルセードの「4つの法則」という伝道用小冊子がありました。未信者(キリストを受け入れていない人)は、イエス様を心の外に締め出し、自分が王座についています。そのため、心には平安がなくて問題が満ちています。次の人は、イエス様を信じて心に迎えているけど、自分が王座についています。そして、イエス様は自分の足元にいます。その人の心は良くはなっていますが、問題も残っています。つまり、何かが起こると急に不安定になるということです。理想の形は、イエス様に心の王座についていただくことです。自分は王なるイエス様の足元にいて、何でも聞き従うのです。すると、心には平安と調和があります。たとえ、問題が起こっても、王なるイエス様が先頭に立って解決してくださるので安心です。重要なことは、「だれが、心の王座を占めているか?」です。たとえクリスチャンであっても、自分自身が王座についているという場合もあります。うまくいっているときは自分で、困った時だけ、イエス様に王座を渡すという器用な人もいるかもしれません。そうではなく、24時間、うまくいっているときもそうでないときも、イエス様に王座を占めてもらうのです。そうすれば、誘惑に陥ることなく、主の道を歩み続けることができます。

ところで、東方の博士たちは、それぞれ王様であったという伝説があります。なんと、それぞれの名前までつけられています。もし、そうであるなら自分の王冠を捨てて、幼子のメシヤを礼拝したということになります。まず、イエス様を自分の新しい王様するためには、どうすれば良いのでしょう?それは、自分が王座を降りて、イエス様に王位をお渡しすることです。でも、どうしてそのように行う価値があるのでしょうか?第一にイエス様は神の座を捨てて、あなたをあがなうためにご自分の命を捨ててくださいました。この世界には数多くの神さまがいますが、あなたのために死んでくださった神さまがおられるでしょうか?第二は父なる神はあがないが確かであることを証明するために御子イエスをよみがえらせました。ということは、あなたも死と罪から解放され、いのちの中を歩むことができるのです。キリストの復活は信じて義とされることの根拠です。第三は復活後、イエス様は天の御座に座られ、主の主、王の王になられました。イエス様こそ、御国の王です。あなたが御国に入るためには、イエス様が王であることを認めなければなりません。しかし、そうすれば、御国の王であるイエス様があなたを守り、あなたの必要を満たす責任を負うことになります。この世は悪魔のものなので、悪魔の支配のもとにいる人たちを神さまは守る責任がありません。しかし、イエス様を信じて、ご自分の子どもになったクリスチャンを神さまは守る責任があります。あなたは、御国の民としての身分が与えられるとともに、御国の相続人として豊かに暮らすことができます。ハレルヤ!クリスマスは何となくおめでたいので、お祝いするのでしょうか?でも、私たちはその意味が分かるのでおめでたくなり、心からお祝いしたくなるのです。「だれを?」でしょうか?それは、天の御座を捨てて、私たちを救うために、人になって生まれてくださったイエス・キリストです。このクリスマス、どうかイエス様を新しい王として心にお迎えください。

 きょうは4名の方の洗礼式があります。この人たちは救いを求めて、イエス様を心に救い主、また王様として受け入れた方々です。でも、イエス様を信じるだけで救われるのにどうして洗礼を受けなければならないのでしょうか?旧約聖書でイスラエルの民はエジプトを出る前の夜、過ぎ越しの食事をしました。1歳の羊の血を玄関の柱と鴨井に塗りました。その家の中に住む人たちがさばきが通り過ぎました。同じように私たちもイエス様の血によって罪の赦しがあたえられます。その後、イスラエルの民は紅海を渡りカナンの地に向かいました。パウロは紅海とはバプテスマだと言っています。聖書的にはエジプトはこの世を象徴しています。紅海を渡る、つまり水のバプテスマはこの世にお別れを告げ、御国に移り住むことを象徴しています。聖書に、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」とあります。東の博士たちは幼子イエスを礼拝した後、「別の道から自分の国に帰って行った」とあります。これは救われた人が、別の道、新しい道を歩むということです。このクリスマス・シーズン、一人でも多くの人たちが、東の博士たちのようにキリストを探し求め、キリストに出会うことを願いたいと思います。

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