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2015年12月11日 (金)

イエス・キリストの誕生 マタイ1:18-25 亀有教会牧師 鈴木靖尋

 マタイによる福音書は母マリヤではなく、夫のヨセフに焦点が当てられています。また、「処女降誕」はある人たちにとっては躓きであるかもしれません。しかし、マタイは2つの点から、処女降誕の必然性を説いています。第一は、それが「聖霊によって」であることです。第二は、それが「預言の成就」であったからです。処女降誕は神の奇蹟でありますが、同時に人間ヨセフの協力が必要であったことも事実です。神の御子が私たち人類をあがなうために人になって生まれてくださいました。しかし、そこにはヨセフとマリヤという信仰深いカップルがいたということをも考えたいと思います。

1.聖霊によって

 今の時代もそうですが、昔も処女降誕は信じられない出来事でした。当時、婚約は結婚と同等とみなされましたが、婚約期間が1年くらいありました。かといって、両者は一緒に暮らすことはできず、婚礼の時をそれぞれ待ったのであります。ところが、婚約者のマリヤから子どもが宿ったという知らせを受けました。ヨセフは身に覚えがないので、こんなことが世間に知れたら大変なことになると恐れました。当時は結婚相手以外によって身ごもったなら、姦淫罪として石打ちの刑になりました。ヨセフは、彼女をさらし者にしたくなかったので、内密にさらせようと決めました。つまり、ヨセフは彼女を守るために、離婚することを選んだということです。本当はマリヤが「聖霊によって」と告げていたのに、ヨセフは「そんなことがありえるだろうか?」と疑ったのでしょう。マタイ120彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」神様は、ヨセフのことを気遣って、主の使いによって、その理由を説明しました。ヨセフは、「恐れないでマリヤを迎えよ」と命じられました。中心的なことは、そのことは聖霊によるものだということです。ヨセフはマリヤからそのことを聞いていましたが、今回は、直接、御使いを通して聞いたわけです。ヨセフは半分納得したかもしれませんが、半分は「え、どうして私たちが?」と疑問に思ったでしょう?本来ならめでたく結婚した後、マリヤとの間に子どもが与えられるはずです。しかし、「まだ一緒にもなっていないのに、子どもが宿ってしまった?それも聖霊によって?そんなことがあって良いのでしょうか」と文句を言いたくなるでしょう。しかし、ヨセフはひとことも反論していません。ヨセフは神様の割り込みに対して、黙々と従いました。良く見ると、ヨセフが何かをしゃべったという記録がマタイ1章にも2章にもありません。これがヨセフの信仰の姿勢です。

 今度は神様の視点からこのことを考えたいと思います。ヨセフは「ダビデの子ヨセフ」と呼ばれています。なぜなら、メシヤはダビデの家系からでなければなりませんでした。血縁的にはヨセフが必要なのです。ただし、メシヤの誕生に関しては、ヨセフ抜きでなされなければなりませんでした。なぜなら、ヨセフとの自然な関係でメシヤ生まれたなら、アダム以来の原罪を受け継ぐことになるからです。血縁的にはヨセフからではありますが、実際は、聖霊とマリヤだったのです。ローマ・カトリックは、マリヤは原罪の汚れと咎を一切受けていないという「無原罪懐胎」を唱えます。しかし、マリヤとて人間、原罪を免れることはできなかったでしょう。注目すべきことは、「聖霊によって」、「聖霊による」と二度も書かれていることです。創世記1章を見ると、聖霊がこの世界を創造するとき、参与されたことがわかります。また、人間を創造するときも聖霊が参与しました。ですから、聖霊がアダムの原罪を受け継がせることなく、乙女マリヤから救い主を誕生させることは可能なことでしょう。もし、救い主に罪があったなら、人類の罪をあがなうことができません。これは、神様の奇蹟であって、私たち人間が口をはさむ余地はありません。

 イエス・キリストがこの世に誕生するためには、肉体が必要であり、またダビデの家系でなければなりませんでした。そのためにはマリヤという肉体を与える母と、ダビデの家系であるヨセフが必要でした。さらに、原罪を受け継がずに、処女マリヤから生まれるためには聖霊の働きが必要だったのです。こう考えると、奇蹟というのは神の一方的なわざではありますが、人間の協力も必要だということです。しかし、「協力」というと人間と神様が対等みたいなイメージがありますので正しくはないのかもしれません。犠牲では暗い感じがするし、特権では言い過ぎのような感じがします。ルカ福音書では、マリヤは「メシヤを生む母として」大変喜んでいます。しかし、ヨセフは「蚊帳の外」みたいで、心から喜べなかったのではないでしょうか?当時、子どもの名前を付けるのは父親の特権でした。なのに、生まれる前から「その名をイエスとつけなさい」と命じられていました。ヨセフは子どもが生まれたのち、「その子どもの名をイエスとつけた」とあります。「ヨセフは偉いなー」と思います。私はクリスマスにおいて、この箇所から何度かメッセージしたことがあります。これまでのものは「メシヤは聖霊によって原罪から免れて生まれたのだ」と神学的なものでした。しかし、年を取ると「ヨセフやマリヤはどんな気持ちだったんだろう」と考えるようになりました。奇蹟という出来事の背後に、犠牲や信仰的な従順があったことを思うようになりました。昔、北森嘉蔵という人が『神の痛みの神学』という本を書きました。私は全部読んでいませんが、人間として生まれるイエス様の気持ち、また、その受け皿となるヨセフとマリヤの気持ちを理解すべきだと思います。ちなみに、日本語の「気持ち」ということばは、英語のフィーリングだけではありません。そこには考えとか思いが混じっています。

 私たちは使徒信条に書かれているように、イエス・キリストの誕生が処女降誕であると信じます。確かにそれは聖霊の働き、神からの奇蹟でした。しかし、そこには結婚をあきらめようとしたヨセフがいたことを忘れてはいけません。彼はダビデの家系だったので、そのことに用いられたのです。私たちも人生において神様のご介入があったとき、ヨセフのように文句を言わないで従いたいと思います。

2.成就するために

マタイは第二の理由で処女降誕の必然性を説いています。それは、預言が成就するためでした。マタイ1:22-23このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)「成就するためであった」は、マタイ独特のものであると第一回目に申し上げました。マタイは「旧約聖書が預言していたメシヤが、このイエス・キリストである」と言いたかったのです。ややこしい話になりますが、当時は旧約聖書しかなく、新約聖書がやっと書かれたところでした。だから、マタイは旧約聖書と新約聖書は別物ではなく、預言と成就という関係で書きたかったのでしょう。では、マタイが引用している聖書のことばはどこにあるのでしょうか?引照付きの聖書を見ると、下の段に小さく「イザヤ714」と書いてあります。確かに、このみことばは預言者イザヤが語った預言です。しかし、直接的にはアハズに対する預言でした。ユダの王アハズが、アラムと北イスラエルの侵略を恐れていました。そのとき、イザヤはアハズに「恐れるな。あなたの神、主からしるしを求めよ」と言いました。しるしというのが、「処女がみごもっている」ということでした。この預言は、アハズの時代に成就されたと考えられます。しかし、イザヤ書はそれと同時に、700年以上も先のことを預言しています。もちろん、「700年以上も先のことが分かるのか?」と否定する神学者もいます。でも、マタイは「イザヤ714の預言が、このところで成就されたのだ」と主張しています。

 さらに預言には「そして、男の子を産み、その名は『インマヌエル』と名付けられる」とあります。ヘブル語で「イム」は「…と共に」です。そして、「ヌー」は私たちです。「エール」は神様です。合わせると「神が私たちと共におられる」という意味になります。神はしばしば、イスラエルの民と共におられました。創世記26章には「アブラハム、イサクと共におられた」とあります。また、創世記28章には「ヤコブと共におられた」とあります。また、創世記39章には「ヨセフと共におられた」とあります。他には「モーセと共におられた」「ヨシュアと共におられた」「ダビデと共におられた」とあります。主が共におられるなら、たとい目前に危機が迫っていたとしても、安心があり、希望があります。一方、主が共におられないなら、すべてはむなしく、敗北があるのみです。イザヤはその当時のことだけではなく、やがて訪れるイエス・キリストによってこのことが成就されるのだと預言したのです。でも、イエス様は地上におられたとき一度も「インマヌエル」と呼ばれたことはありません。この預言は、イエス様を信じる人に実現する神の預言であります。

 ところで「主が共におられる」という表現は、1章の他に2回出てきます。マタイ1820「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」このみことばは、二、三人が心を合わせて祈るということがとても大事であるということを教えています。また、このみことばは、「教会の最小の人数は、二人か三人で成り立つ」と言うことを示唆しています。もちろん、「二、三人集まればそれが教会である」とは、言い難いかもしれませんが、私たちの神様は共同体の神様であるということが分かります。その次は、マタイの最後にあります。マタイ2820「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」イエス様が世の終わりまで共におられるということです。私たちは「神であるイエス様が共におられるならどうなるだろうか?」ということを、瞑想する必要があります。「イエス様が共にいる」ということは、神さまが私の味方であるということです。私たちは人生において、反対されたり、拒絶されることがあるかもしれません。しかし、「神は私の味方であり、私を決して捨てたりしない」ということです。また、私たちは自分の力や能力に限界を覚えることがあるでしょう。そのとき、「イエス様が共にいる」ということは、神さまが私の資源となり、力となるということです。また、私たちが身の危険や恐れを覚えることがあるかもしれません。そのとき、「イエス様が共にいる」ということは、神さまが私を守って下さるということです。詩篇234「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」アーメン。旧約聖書では神さまが共におられるということを「救い」と同じようにとらえていたようです。神さまが私たちと共におられるのだったら、どんな時でも救いが与えられます。

 実のところ、イエス様の誕生日はいつなのか分かりません。男の子がお母さんに、「クリスマスっていつなの?」と聞きました。お母さんは「ぼうや、あなたがイエス様を信じて、心にお迎えした日がクリスマスよ」と答えました。「インマヌエル」神が私たちと共におられるという預言はいつ成就するのでしょうか?それは、あなたがイエス様を信じて、心にお迎えした時に成就するのです。本当のクリスマスは、あなたがイエス様を心にお迎えした日なのです。そうすれば、イエス様はあなたを見捨てず、世の終わりまであなたと共にいてくださいます。

3.イエスという名

 最後に、イエスという名について学んで終えたいと思います。マタイ121「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」キリスト教を知らない人は、イエス・キリストと聞くと、「イエスが名前で、キリストが苗字かな?」と思うのではないでしょうか?イエスは確かに名前ですが、キリストはメシヤという職名を表わしています。つまり、イエス・キリストというのは、イエスはキリスト、メシヤですという意味になります。メシヤは元来、油注がれた者という意味ですが、一般的には「救世主」とか「救い主」と訳されています。しかし、きょうは「イエス」という名前の方を考えてみたいと思います。神の御子が地上に生まれたとき、イエスという名前が与えられました。つまり、神が人になったということです。当時、イエスという名前はそんなに珍しい名前ではありませんでした。イエスという名前は、旧約聖書のヨシュアをギリシャ語に読み替えたものでした。つまり、旧約聖書のヨシュアという意味を調べるならば、イエスという名前の意味も分かるということです。みなさんはヨシュアのことをご存じでしょうか?ヨシュアはモーセの後継者で、エジプトからイスラエルの民が脱出したときも一緒にいました。ところがモーセは約束の地に入ることができませんでした。彼の代りに、ヨシュアが約束の地カナンにわたって、領土を勝ち取ったのです。つまり、ヨシュアはイスラエルの民を約束の地カナンに導いた人であります。このヨシュアという名前は、「主は救い」という意味があります。そうなるとギリシャ名のイエスも、「主は救い」という意味になります。面白いですね。メシヤは「救い主」という意味ですが、イエスは「主は救い」であります。

でも、マタイはこのところでイエスという名前を説明しています。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と書いています。マタイは、イエスは「主は救い」という意味ですが、何から私たちを救ってくださる方なのか述べています。マタイは「罪から救ってくださる方である」と言っています。救いという意味は、当時も今も変わりありません。たとえば、経済的に破たんしたところから救われることもあります。大きな病が癒されることも救いでしょう。事故や災難から助け出されることも救いです。逆境や窮地から抜け出すことも救いと言うでしょう。しかし、この世においては「罪から救われる」という言い方は滅多にしません。政府は私たちを罪から救うことができません。教育も私たちを罪から救うことができません。経済も、芸術も、医療も、私たちを罪から救うことができません。私たちはだんだん、そのことが分かってきたのではないでしょうか?一昔前は、経済が人を救う、知識が人を救う、イデオロギーが人を救うと考えてきました。ところが、昨今のテレビ・ニュースを見ますと、人が毎日殺されています。昔は、こんなに殺人事件はありませんでした。海外に目を向けますと、民族同士が争っています。国と国ではなく、一国の中の民族が争っています。テロがあり、難民があふれています。温暖化が進んで異常気象が起きています。医療が発達しても、難病やウィルスに悩まされています。聖書はこれらすべての原因は「人が罪を犯したからである」と言っています。創世記3章を見ると分かりますが、アダムが神に逆らってから、罪が入り、死が入り、呪いが入りました。また、家庭が破壊され、殺人や戦争が起こるようになりました。諸悪の根源は、罪であります。世界にはいろんな宗教がありますが、罪からの救いということは言いません。

 神の御子が人となってこの世に来て、イエスという名前を付けられました。イエスという名前の中に、神の御子がこの世に来られた目的があらわされています。「その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」旧約聖書のヨシュアはイスラエルの民を約束の地カナンに導き入れました。同じように、新約聖書のイエスは、ご自分の民に罪の赦しを与え、御国に導き入れるということです。罪から救うとは2つの意味があります。第一は罪の赦しを与えること、第二は罪の世界から御国に導き入れるということです。御子が人間イエスとなられたのは、私たちを罪から救うためです。そのために、最も重要なことは、私たちの身代わりになって罪を負って、死ぬということです。別な表現では、人類の神に対する罪の代価を十字架にかかって、ご自分の命で支払うということです。このことを罪の贖いと言います。諸悪の根源は罪であります。アダムが罪を犯してから、人類全体に罪が入りました。世界には善人も悪人もいますが、罪の汚染から免れる人は一人もいません。神の前に義とされる唯一の方法は、救い主イエス・キリストを信じることであります。そうすれば、神はその人にご自分の義を与え、罪から私たちを救ってくださいます。では、クリスマスとは何なのでしょうか?クリスマスとは、神のひとり子が、人類の罪を身代わりに負うために人となられて生まれたことです。身代わりとなるために、どうしても人間の体が必要だったのです。そのため、聖霊による誕生のゆえにアダムの原罪の影響を受けませんでした。また、生涯においても、御父に従い通して罪を犯しませんでした。このイエス様しか、罪の代価を払える資格のあるお方はいません。イエス様は私たちのために死ぬために、この世に来られたのです。このお方を信じる者が、罪赦され、御国に入ることができるのです。だから、私たちはクリスマスをお祝いするのです。

 残念ながら、この世ではイエス・キリスト抜きのクリスマスが祝われています。まるで、主人公抜きの誕生パーティのようです。かつての私もそうであったので、恥ずかしい次第です。多くの人は、クリスマスはプレゼントをもらったり、あげたりする日だと思っています。もし、だれからもプレゼントをもらえなかったらがっかりするでしょう。でも、2000年前、父なる神様が御子をこの地上に送ってくださいました。御子は、ヨセフという夫と処女マリヤのカップルから、聖霊によって生まれたのです。その方の名前が、イエス「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」つまり、神様から人類への最大のプレゼントは、イエス・キリストご自身だということです。では、イエス様は私たちに何をプレゼントしたのでしょうか?それはご自分の命を十字架にささげたということです。ご自分の体、ご自分の命を私たちのために与えたということです。では、聖霊は私たちに何をプレゼントしたのでしょうか?聖霊は主イエス・キリストを信じる者に、永遠のいのちと御国に入る資格を与えてくださいます。みなさん、永遠のいのちほどすばらしいものはないのではないでしょうか?昔、ジュニア礼拝でメッセージをしたことがあります。私が中学生に、「永遠のいのちを欲しくありませんか?」と聞きました。数名いた中学生が、「いらない」とそれぞれ首を横に振りました。私は驚いてもう一度聞きましたが、やはり「いらない」と答えました。確かに、永遠のいのちと言われても、何のことなのか分からないかもしれません。しかし、伝道者の書3章に「神はまた、人の心に永遠を与えられた」と書かれています。だれにでも、永遠を慕う思いはあるはずです。ただ、この世の神によって目がくらまされているのです。最後にこのみことばを紹介してメッセージを終えたいと思います、ヨハネ316「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

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