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2015年12月 4日 (金)

系図の意味 マタイ1:1-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.12.6

 先週からクリスマスのアドベントに入りました。今年のクリスマスはイブ礼拝も含め、このマタイによる福音書からお届けしたいと思います。きょうの聖書箇所には、ヨセフとマリヤが登場します。本来なら17節まで一緒に朗読すべきでしたが、興味をなくして帰らないように11節でやめました。ユダヤ人にとって、メシヤはだれの子孫なのか、正統な血統なのかということが、大変重要なことでした。カタカナ名の羅列ではありますが、系図の中にすばらしい福音が隠されています。きょうは、3つのポイントで系図の意味について学びたいと思います。

 

1.アブラハムとダビデ

 ユダヤ人にとってメシヤの系図と言えば、この二人がとても重要でした。まず、一人は信仰の父アブラハムです。アブラハムからイスラエル民族が興ったからです。アブラハムのもとの名前はアブラムでした。しかし、年を取って入れ歯をしました。だから、アブラハムになりました。木久翁のようなジョークを飛ばしてしまいました。アブラハムの父はテラでした。主はテラにカルディアのウルからカナンに行くように召しました。ところが、ハランというところに住みついてしまいました。テラの死後、息子のアブラハムが召されました。アブラハムは生まれ故郷と父の家を出て、主が示す地に向かいました。創世記122「私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」これは「アブラハム契約」として知られています。アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれました。このヤコブが改名してイスラエルになったのです。彼のもとから12部族が生まれました。本来なら長男を系図に入れるべきですが、四男のユダが選ばれました。ユダ部族からやがてダビデが誕生するのです。ダビデはイエスラエルの第二番目の王ですが、北イスラエルとユダを統一したすばらしい王様です。主はダビデに「彼の王座はとこしえに立つ」(Ⅰ歴代1714と言われました。これが「ダビデ契約」です。ダビデのあとソロモンが生まれます。ソロモンの死後、北イスラエル王国と南ユダ王国に別れました。北イスラエルは紀元前723年、アッシリヤによって滅ぼされました。南ユダがしばらく残りますが、紀元前586年バビロンによって滅ぼされます。そのとき、主だった人たちがバビロンの捕囚となりました。約70年後、ペルシャのクロス王によってエルサレムに帰還することができました。バビロンから帰還した人たちを「ユダヤ人」と呼びます。ユダとベニヤミンの血をひいています。その系図が「バビロンの移住の後」ということで14代記されています。

 簡単に言うとメシヤの血筋は信仰の父アブラハムとユダのダビデ王の2つからなりたっています。この二人がとても重要なのです。だから、1節に「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と書いてあるのです。では、なぜ、そのことが私たちに関係があるのか、ということです。私たちはイスラエル人でもないし、ダビデ王国とは縁もゆかりもありません。神の選び、つまりは神の救いから漏れている人たちを異邦人と言います。ところが、神様がアブラハムを召したのは訳がありました。アブラハムとその子孫は神の祝福の管となり、他の民族も彼らを通して、同じ祝福にあずかることができるようにという目的がありました。ところが、イスラエルは堕落し、その務めを果たせなくなりました。では、その務めを果たす真のイスラエルはだれかというとイエス・キリストであります。パウロは私たちのことをこのように述べています。エペソ212-13「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」アーメン。キリストの十字架の血によって、私たちもアブラハムの子孫になることができるのです。ガラテヤ書3章には「キリストは、私たちのために呪われたものとなって、…アブラハムの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためである」と書かれています。ハレルヤ!私たちにも霊的にはアブラハムの子孫であり、神さまの祝福を受けることができるのです。

 もう一人はダビデ王です。どこに、ダビデ王と私たちと関係があるのでしょう?さきほど、主がダビデと交わした契約について申し上げました。ルカ1章にイエス様の預言が記されています。ルカ132-33「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」これは、どういう意味でしょうか?主がダビデと交わした契約が、イエス様によって成就されました。主はダビデ的な王と永遠の王国をもくろんでいました。これはイエス様が神の国の王となり、永遠に治めるということです。私たちはイエス様を信じたら、罪赦されて永遠のいのちが与えられます。でも、私たちはどこに住むのでしょうか?それはイエス様が王として治める神の王国に住まうことができるのです。ですから、救いということを言いかえると、キリストと契約を交わして王国の民になるということです。みなさん、どこかの国の国民、つまり市民権を持つためにはどのような条件が必要でしょうか?一般に、その国に生まれたら、その国の市民権が与えられます。でも、よその国で生まれた人はどうなるのでしょうか?ヨーロッパでは難民問題が浮上しています。シリアの内戦から逃れた人たちが、ドイツなどのEU国を目指して、命がけで移動しています。しかし、制限があり、何百万人もの人たちを受け入れることは不可能です。ある国に受け入れられたとしても、市民権がないというのはさびしいことです。私たちも本来、神の王国とは縁もゆかりもない民、外国人でした。しかし、キリストの十字架の贖いを受け入れることによって、私たちは神の王国に入り、市民権をいただくことができるようになったのです。エペソ219「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」アーメン。私たちはキリストによって、アブラハムの子孫となり神の祝福をいただくことができます。また、私たちはキリストによってダビデに約束された神の王国の市民になることができるのです。ハレルヤ!

2.異邦人と女性

 旧約聖書の中にいくつかの系図がありますが、マタイにおけるそれは、例外的なことが2つもあります。系図は神の民としての選び、あるいはユダ王国の家系ということが目的でした。しかし、ユダヤ人がマタイの系図を見て、びっくりしました。なぜなら、異邦人と女性の名前が堂々と記されているからです。12節に「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」とあります。タマルはユダの息子の嫁でした。しかし、長男が死んだためにタマルは次男と結婚しました。しかし、次男が死んでしまいました。二人とも主を怒らせるようなことをしたようです。詳しくは創世記38章をお読みください。父ユダは三男も死ぬといけないと思ったので、タマルに「やもめのままでいなさい」と言いました。当時は家系を絶やさないために、婦人に対する権利がありました。ところがユダはそれをしなかったのです。なんとタマルは遊女に変装して、義父のユダと関係を持って、子どもを宿しました。生まれたのは、パレスとザラの双子でした。その次は、ラハブです。彼女はカナン人で遊女でした。ヨシュアが二人のスパイを送り、エリコの町を探らせました。追っ手が来たので、ラハブは二人をかくまってあげました。母国を裏切り、嘘をついたのはヨシュアの神がまことの神だと信じていたからです。ヨシュアが攻めてきたとき、ラハブとその一族だけは滅びからまぬがれました。ラハブの子どもがボアズです。5節に「ボアズに、ルツによってオベデが生まれ」とあります。ルツはモアブ人です。夫が死んだために、母国を離れ、ナオミにくっついてベツレヘムに来ました。彼女は、ナオミが信じている神を信じていたのです。二人には土地もないし、食べるものもありません。収穫時だったので、ルツは畑に落穂を拾いにでかけました。はからずもボアズの所有する畑でした。ボアズはナオミの土地を買戻し、ルツと結婚しました。その後どうなったでしょう。「ルツによってオベデが生まれ、オベデによってエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた」のです。ルツはダビデの曾おばあちゃんということになります。子どもの頃、「落穂拾い」の絵がかかっていました。私は「なんと暗くて地味な絵なんだろう」と思っていました。しかし、その一人はルツだったんですね。

 遊女に変装したタマル、カナンの遊女ラハブ、そしてモアブのルツ、何か共通したことがあるでしょうか?異邦人、女性、そして罪の中にいた女性もいます。でも、信仰があるのではないでしょうか?へブル人への手紙11章には彼女らに信仰があったのだとはっきり述べています。へブル1131「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」とあります。ヘブル1135「女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。」だれのことでしょう?シュネムの女は死んだ息子をエリシャからよみがえらせていただきました。とにかく、女性がちゃんとした身分が与えられ、救いの民に加えられているというのは当時のギリシャやローマ世界にはありませんでした。マタイの系図は1つのセンセーショナルだったと思います。また、イエス様のところに来る人たちで、一番最初に神の国に入った人たちとはだれでしょうか?イエス様が当時の宗教家たちに皮肉を述べています。マタイ2131-32「イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。」アーメン。

 他に女性としては、6節の後半「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」と書いてあります。彼女の名前はバテシバです。ダビデがウリヤの妻と関係して生まれた子どもが後継者となりました。ダビデに正妻やそばめがいたと思われますが、相手がウリヤの妻です。こんな恥ずかしいことを系図に載せて良いのでしょうか?聖書は人が犯した罪も赤裸々に書き残しています。完全な人は一人もいません。でも、ダビデは神様から最も愛された人の一人であります。列王記という書物に、理想的な王として常に引き合いに出されています。もし、日本の牧師がダビデと同じような罪を犯したなら、二度と復帰できないでしょう。神様が赦しているのに、人間が赦そうとしないのです。姦淫の罪も重いでしょうが、赦さない罪もそれと同じくらい重いのではないでしょうか?なぜなら、その人は自分を神の座においているからです。もう一人、女性としては、マリヤが出てきます。16節「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」このことを単純に読むと、ヨセフはユダの家系かもしれませんが、マリヤは何なのでしょうか?これまでの系図の書き方は、「○○が生まれ」となっていました。これは父が子を儲けるという意味です。英語ではbegat, begat, begatとなっています。ところが、16節はマリヤから生まれたとなっています。英語ではbornです。となると、ヨセフまでの血統が述べられているのに、ヨセフにイエスが生まれとなっていません。マリヤから生まれたとなっています。となると、イエス様とヨセフとは何の関係もないということになります。戸籍上はヨセフの子かもしれませんが、血のつながりはないということになります。このことは次週、話したいと思います。

 とにかく、この系図の中に数名の女性が出てきました。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻、そしてマリヤです。何度も申し上げましたが、一般に系図には女性の名前は出てきません。しかし、すべての女性がわけありであります。このわけありの女性たちを通してメシヤが誕生したということは良いニュースではないでしょうか?どうして女性が系図にしるされているのでしょうか?それは汚名挽回ではないかと思います。創世記3章を見るとわかりますが、最初に罪を犯したのはエバであります。もちろん責任を果たさなかったアダムの方が重いかもしれません。ところが神である主は、「女の子孫が、サタンの頭を踏み砕く」と言われました。女の子孫とは、まさしくイエス・キリストであります。イエス様はやはり女から生まれる必要があったのです。私は生まれた時から男だったので、女性の気持ちがわかりません。ある女性たちは、「この世では、男が我がもの顔で生きて、自分たちは損をしている」思っているかもしれません。しかし、そうではありません。この系図から分かるように、神様は女性を特別に愛しているということです。

3.善王と悪王

 旧約聖書の中には、列王記の上下、歴代誌の上下があります。この中は歴代のイスラエルの王様がどんなことをしたのか克明に記されています。善い王様もいれば、悪い王様もいました。マタイ1章のダビデ以降の王様は、南ユダ王国の王様です。神様が選んだユダの家系ではありましたが、ひどい王様もいました。善い王様だったのに、あることによって汚点を残したということも記されています。完全な人はいないということでしょう。ここに1つの法則があります。良い王様の後、つまり子どもが良い王様になるかというとそうではありません。逆に、もっともひどい王様になっています。ダビデの子どもはソロモンです。彼は最初がとても良かったのですが、大勢の外国人の妻をめとり、彼女らの神様を拝みました。最後には主を捨ててしまったのです。そのためソロモンの死後、国は2つに分割されてしまいました。ヨサパテ(ヨシャパテ)は比較的良い王様でした。彼は偶像を撤去し、主の目にかなうことを行いました。ところが、ヨサパテの子ども、ヨラムはどうでしょうか?妻が北イスラエルの偶像崇拝者だったので、主の目の前に悪を行いました。その後のヒゼキヤ王は主をより頼み、比較的良い王様でした。ところが、その子どものマナセは最悪の王でした。彼は偶像礼拝を取り入れ、主の預言者たちを皆殺しにしました。簡単に言いますと、父の信仰と恵みは、子どもには直接、伝わらないということです。この世では「子どもが悪いのは、親の教育が悪かったからだ!」と言うかもしれません。確かにそういうところもあるでしょう。でも、たとえ親が信仰深くても、子どもがそうではないということもあるということです。その一番の例は、主なる神様がアダムをこしらえました。しかし、アダムが罪を犯しエデンの園から追い出されました。「アダムが罪を犯したのは、神様のせいだ」とだれが言えるでしょうか?

 もちろん、先祖からいただく良い遺産というものがあるでしょう。才能や財産、すばらしいDNAがあるかもしれません。でも、親から子どもへ信仰が自動的に伝わるかというと必ずしもそうではないということです。従来、日本の牧師家庭は経済的に貧しいのではないかと思います。親は神様にすべてを投げ売って献身しているかもしれません。でも、子どもは献身しているわけではありません。他の友人たちのように日曜日休んだり、好きなものを買ったりしたいでしょう。私は、いろんな牧師たちとその子弟たちを知っています。データーを取ったことはありませんが、大きく2つに分かれます。第一は、子どもたちがとても霊的に純粋で、牧師や牧師夫人になるというすばらしいケースです。常磐牧師セルというのがありますが、多くの牧師子弟がそのようになっています。まことにうらやましい限りです。第二は、子どもたちは信仰を全く持たず、この世の人たちと全く同じか、それ以下になるというケースです。哲学者のニーチェは牧師の子どもでした。彼は「神はいない」という神学を立てて、やがて発狂して死にました。昔、川上宗薫というポルノ作家がいました。彼も牧師の子どもでした。つまり、牧師子弟は極端に良くなるか、あるいは極端に悪くなるということかもしれません。お寺と違い、教会は世襲制ではありません。そういう訳で、後継者問題というのが常にあるのかもしれません。少し本題からそれましたが、系図には善王も悪王もまんべんなく織り込まれているということです。その系図というか、その家系から、イエス・キリストが誕生するということは何か意味があるのでしょうか?

 その答えはこれではないでしょうか?先週も引用しましたが、ヘブル2章のみことばです。へブル211「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。」主は私たちを救うために、私たちと同じ立場に立ってくださったということです。確かにキリストはアブラハムの子孫、ダビデの子孫かもしれません。しかし、その系図を見ると、一般にはない異邦人、女性、遊女の名前が記されています。また、「タマルによって」「ウリヤの妻によって」とありますが、とんでもない方法で後継者が与えられています。さらに今、取り上げたように、善い王様だけではなく、悪い王様も名を連れらねています。これはどういうことでしょうか?「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」とあります。これは神学的に、罪びとを同化するということです。なぜでしょう?ルツ記にもありますが、おちぶれた財産をだれかが買い戻すとします。だれができるかというと、近親者だけがお金を出して買い戻すことができます。私たちは罪の中に売られていた奴隷でありました。罪の中にいる私たちを救うためには、イエス様が私たちの近親者にならなければなりません。そのために、イエス様は罪びとや異邦人と同じ立場に立って下さったのです。「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」のであります。私が子どもの頃、ある家の長男が犯罪を犯して刑務所に入りました。村の人たちは「あそこは前科者の家だ、前科者の兄弟だ」とひそひそ言っていました。その家には妹と弟がいましたが、本当に恥ずかしい思いをしたと思います。できれば、あの家の子どもと呼ばれたくないでしょう。数年前、グーグルで私の生まれた村を見ました。ストリート・ビューと言って、いながらにその通りを見ることができます。村の人たちが言っていた例の家が跡形もなく、雑草がはえていました。とても、重たい気持ちになりました。

 しかし、イエス様はどうでしょうか?極悪人がかかる十字架にかかられました。しかも、右と左には犯罪者が付けられていました。通り行く人たちはどう思うでしょうか?「ああ、真ん中の人が最も悪い罪を犯したんだろうなー」と思うでしょう。しかし、それはイザヤ書の預言の成就でした。イザヤ5312「彼が自分のいのちを死に渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである」とあります。イエス様が神さまと人々から捨てられ、罪びとになられたので、どんな人たちも救われるようになったのです。ヘブル1312「ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。」アーメン。当時、エルサレムの中に入れない、門から締め出されている人たちがいました。そういう人たちを救うために、イエス様は門の外で苦しみを受けられたのです。門の外とは、救いからもれている異邦人、律法を守れない罪びとたちのことです。この世においては底辺と呼ばれる人たちのためにもイエス様が来られたというのは何と幸いでしょう。

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