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2015年11月27日 (金)

マタイによる福音書 マタイ1:1,5:17 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.11.29

 これからしばらくは、マタイによる福音書から連続してメッセージをお届けしたいと思います。この福音書は、伝統的にイエス様の弟子のひとりマタイが書いたと言われています。マタイ、別の名前はレビですが、職業は取税人でした。おそらく宗教的な家庭で生まれたのでしょうが、「そんなの馬鹿らしい」と金儲けに走ったのでしょう。ところが、イエス様に出会って、全く変えられ弟子としての道を歩みました。マタイの活躍は福音書ではほとんど見当たりませんが、この福音書を書いたことが偉大な功績ではないかと思います。彼は職業柄、イエス様の説教を、出納帳に記録するように書き残したことでしょう。イエス様が昇天したのち、アンテオケというところに異邦人の教会が立ちました。おそらく、マタイはそのところでアラム語の記録を、公用語のギリシャ語に編集しなおしたのではないかと思います。マタイ自身はユダヤ人ですが、当時はユダヤ教を背景にした求道者やクリスチャンがたくさんいたことでしょう。きっと、マタイは、そういう人たちのために福音書を書いたのではないかと思います。きょうは、最初のメッセージなので、マタイによる福音書の特徴というべきものを3つあげたいと思います。 

1.系図の書

 新約聖書の1ページを開くと突然カタカナの羅列が目に飛び込んできます。これは日本人にとって1つの躓きになるかもしれません。ある宣教師は「マタイではなく、ヨハネによる福音書から読むように」と勧めます。でも、この系図はユダヤ人にとって重要な意味があります。なぜなら、系図は旧約聖書と新約聖書をつなぎ合わせるチェーンのような役割をしているからです。「系図」というギリシャ語は、「起源、発生、誕生」という意味があります。英語の聖書はgenerationですが、世代とか子孫と訳すことができます。マタイ11「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」とあります。ということは、イエス・キリストは歴史や預言を無視して、突然やってきたのではないということです。ほとんどの新興宗教の教祖は、生まれや系図が謎に包まれています。突然、天から啓示があって、何かの経典を賜り、それを布教するというものです。しかし、マタイは「イエス・キリストは、信仰の父であるアブラハムの子孫であり、ダビデ王の子孫である」と書いています。私たち日本人は、「それがどうしたの?」と、何の感動も覚えないでしょう。昔の人が、文語訳聖書を読みました。「アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟らを生み、ユダ、タマルによってパレスとザラを生み、パレス、エスロンを生み…」と生み疲れたそうです。我々にとっては、カタカナ名が何の意味もないように思えるかもしれません。しかし、旧約聖書に親しんでいたユダヤ人は、「あ、この人知っている。あ、この人も知っている」と感動したと思われます。また、このような書き方は、特別な意味があると理解していたに違いありません。

 まず、系図が一番最初に出てくるところは創世記であります。「○○の歴史」「○○の系図」という言い方が11回出てきます。創世記にはアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてユダのことが記されています。時代が少し進んで、ルツ記にはペレツ、ボアズ、エッサイ、ダビデという名前が出てきます。きわめつけは、歴代誌です。なんと、Ⅰ歴代誌の1章から9章までが系図です。マタイによる福音書1章の系図の何倍もあります。しかし、系図には重要な目的というか、主旨があります。なぜなら系図によって長い歴史をひとまとめにできるからです。ところが、系図をよく見ると各部族がまんべんなく網羅されているかというとそうではありません。実は系図は神さまから選ばれた民とそうでない民の両方が記されています。川にたとえると、本流と支流のように枝分かれしています。聖書の系図は、ユダ族のダビデの子孫、つまりメシヤにたどり着くように記されているということが分かります。そのことを知っていたマタイは、創世記や歴代誌の手法を借りて、イエス・キリストこそが正統な血統のもとで生まれたメシヤだということを書きたかったのです。ですから、私たちには意味のないような系図であっても、血統を大切にしているイスラエル人、またユダヤ人には説得力のある書き出しであったと思われます。

 でも、マタイは本来、イスラエルの系図に入れるべきでない人たちを何人か入れていることも驚きです。それはユダヤ人の常識に全く反していることでした。そのことは来週、詳しくお話ししますので、人物だけをご紹介したいと思います。まず、マタイは系図の中に女性を入れています。普通、旧約聖書には女性の名前は入れません。しかし、マタイ1章にはタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻、マリヤという女性が入れられています。しかも、ラハブとルツは異邦人でした。これはありえないことです。また、旧約聖書を読むと分かりますが、ひどい罪を犯した人たちの名前が堂々と記されています。その家系からメシヤが誕生したということは、悪いニュースでしょうか、それとも良いニュースでしょうか?ユダヤ人は「これは良くない、隠すべきだ」と思ったでしょう。しかし、異邦人や罪びとは、「え?そうなの?」とうれしくなるのではないでしょうか?つまり、イエス・キリストは、女性や異邦人や罪びとと同じ立場に立って下さったということです。これを神学的には、メシヤの同化とか同一化と呼んでいます。むずかしいことはわからなくても、だれでも、どんな生まれでも救われる可能性があるということです。へブル211「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。」主は私たちを救うために、私たちと同じ立場に立ってくださったということです。ハレルヤ!

2.説教の書

 マタイによる福音書の第二の特徴はイエス様の説教あるいは教えが多いということです。しかも、マタイはそれらを時系列ではなく、いくつかのブロックにまとめているということです。その中で一番有名な教えは、山上の説教と呼ばれるものです。マタイ5章、6章、7章に記されています。ロシアの文豪トルストイは「山上の説教に惚れ込み、聖書はこれだけで良い」と言いました。他に、マタイ13章には天国とは何かということがたとえで語られています。イエス様の説教の多くはたとえを用いているということも特徴です。そして、マタイ18章には教会について語っていますが、四つの福音書で「教会」という名前が出ているのはマタイによる福音書のみです。さらにマタイ21章から23章には当時の宗教家との論争が記されています。また、マタイ24章と25章は世の終わりについて語っています。おそらく、イエス様はそれらのことを、別々の場所で語ったのでしょうが、マタイはまとまったブロックにしています。ですから、イエス様の教えを学びたいと思う人には、マタイによる福音書がぴったりであります。ユダヤ人は教えが大好きでした。彼らの中は律法学者やパリサイ人という聖書の専門家がいました。当時の彼らには学校というものがなく、もっぱらラビという教師から個人的に学びました。マタイは「イエス様は、まことの教師、まことのラビである」と言っています。きわめつけとも言える山上の説教の結論に何と書いてあるでしょうか?マタイ728-29「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」アーメン。律法学者やパリサイ人は、「律法にはこう書いてある」と言いました。しかし、イエス様は「しかし、私はあなたがたに言います」とダイレクト言っています。それは、「私が律法の著者である」と示唆しているのではないでしょうか。イエス様は神からの教師であり、聖書の真の意味を人々に教えたのです。

 しかし、イエス様の教えの中で混乱を与えるのは、「天の御国」と言う表現です。マルコによる福音書は「神の国」と言っているのに、マタイは「天国」と言っています。一般に、英語で天国は、heavenです。残念ながらheavenは死んだ人が行くところと誤解されています。テレビでだれか人が死んだら、「あの人は天国に行った」と言います。しかし、それは正しくありません。クリスチャン以外の人であったなら、陰府に行ったと答えるべきでしょう。では、クリスチャンは天国に行ったのかというと、そうではありません。パラダイスに行ったという方が正確です。では、「天の御国」「天国」とは何なのでしょうか?実はユダヤ人は「主の名前をみだりに唱えてはならない」という十戒の第三戒を守っていました。だから、神と言うところを「天」という言葉に置き換えたのです。しかし、「天」は「上」という意味もあるので、誤解が生じてしまったのです。では、本来の意味は何なのでしょうか?天とは神様のことです。また、御国はギリシャ語ではバシレイアーと言って、「王位、王権、支配、王国」という意味があります。二つ合わせると、「神の王的支配」という意味になります。英語はとてもはっきりしていて、kingdom of God「神の王国」と言います。現在、ほとんどの国は民主的な国家であり、人が治めています。民主制や共和制あるいは、君主政になっているでしょう。しかし、神の国は神様が王として治めている王国であることを忘れてはいけません。そうなると、私たち人間に、王様である神様に従うことが当然、求められます。勝手気ままに神の王国の民になることはできません。では、どうしたら神の王国の民となることができるのでしょうか?実は、そのことのためにイエス・キリストが地上に来られたのです。イエス様は神の国がどういうものであるか教え、また、神の国に入るためにはどうしたら良いか教えてくださいました。そして、最終的には自らが十字架にかかり私たちの罪を贖い、神の国の門を開いてくださったのです。私たちはイエス様を救い主、人生の主として信じるときに御国に入り、御国の市民権を持つことができるのです。このことを私たちは「御国の福音、神の国の福音」と呼んでいます。このようにマタイによる福音書は、ユダヤ教を背景にした人たちが、イエス様を信じられるように書かれています。イエス様は天にお帰りになる前に、このように弟子たちに命じました。マタイ28:19 「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け…。」最終的には、ユダヤ人だけではなく、すべての国民が神の御国に入るように招かれているのです。

3.成就の書

 マタイ自身が好んで用いている表現があります。それは「成就するためであった」という書き方です。たとえば、マタイ1章においては、22節にあります。「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。」このような表現は、マタイによる福音書に少なくとも11回出てきます。旧約聖書の別な呼び方は、「律法と預言者」です。当時は旧約聖書が聖書そのものでした。律法と預言者がイエス様によって成就したのです。そうなると、新約聖書はイエス・キリストによって成就された事柄が記されていることになります。ユダヤ人は自分たちが持っている聖書がすべてだと思っていました。しかし、その聖書はメシヤによって成就されることを待っていたのです。もし、ナザレのイエスによって、律法と預言者が成就されるとしたらどうなるでしょうか?もし、そうなるならば、ナザレのイエスこそが長い間イスラエルが待ち望んでいたメシヤ(キリスト)だという証拠になります。たとえば一人の人が10個の預言を全部成就するということは容易なことではありません。世界の歴史の中で、だれからどのように生まれ、どこで生まれ、どんなことをして、どのように死ぬか、どう復活するかということがあらかじめ預言されていて、それらのことを成就したという人物がイエス様以外にいるかどうかということです。書物は違いますが、ルカ福音書で復活されたイエス様がこのように言われました。ルカ2444「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」

 預言の成就ということを考えるとき、私たちの信仰はどのようになるのでしょうか?あるホームページにこのようなことが書かれていました。旧約聖書で約束している、約束のメシヤは本当に新約聖書のイエスなのでしょうか?しかしイエスが誕生する何百年も前に彼について書かれた300に及ぶ預言が、偶然に成就したり意図的に操作されるなど統計的に考えられません。 ピーター・ストナー教授(1888-1980)は1953年までパサデナ・シティー大学の数学、天文学科委員長、1953年-1957年までウェストモント大学、科学科の委員長を務めた教授です。ストナー教授は、300に及ぶメシヤ預言の中の一握りの預言でも一個人に成就することは統計上至難の業だと結論付けています。1944年のストナー教授による著書「科学は語る」の中で調査結果を発表して、このように言いました。「科学は聖書の預言が正確であることを立証している。8つの預言が一個人に成就する確率は1017乗である。300の預言のうち一人の人に48の預言が成就するのは、10157乗の確立である」と言っています。ある別の聖書学者が「イエス・キリストのように聖書の預言を成就した人物を数学の確立で言うとどうなるか」と言いました。たとえば真っ赤に塗った1枚のコインがイエス・キリストだとします。その確立はどうかと言うと、「地球表面にコインを敷きつめ、さらにそれを90センチ厚にして、その中から真っ赤に塗った1枚のコインを探しあてるようなものだ」と言いました。気が遠くなるような話ではないでしょうか?それだけ、この歴史をながめて、ナザレのイエスがキリストであり、他にはいないということが分かります。主イエス・キリストこそが、神様が人類に与えた唯一の救い主であるということです。説教者が講壇からこういうふうに言うと、アメリカの大教会では拍手喝采します。私たちも拍手喝采をいたしましょう。主イエス・キリストこそが、神様が人類に与えた唯一の救い主です。アーメン。

ところで、マタイによる福音書を理解するための鍵の聖句を紹介したいと思います。マタイ517「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」この箇所にも、イエス様が来たのは「律法や預言者を廃棄するためではなく、成就するために来たのです」と書かれています。なぜ、このみことばがそんなに重要なのでしょうか?それはさきほど述べたように、イエス様が旧約聖書に預言されていた唯一のメシヤであり、他にはいないということです。でも、それだけではありません。ある人たちはイエス様が来られた以上は、「旧約聖書は不要である」、もっと言うと「律法は不要である」と言います。なぜなら、旧約聖書や律法はイスラエル、あるいはユダヤ人のためであり異邦人の私たちには関係ないと言うかもしれません。私もその考えや気持ちはわかります。なぜなら、ある教会の牧師やある神学校の教授は、旧約聖書を旧約聖書として教えているからです。言っていることがわかるでしょうか?片方には旧約聖書や律法は不要だという極端があります。また、もう片方には旧約聖書の教えや律法を全部守るべきだという極端です。ある教団は「公の礼拝は安息日である土曜日に守るべきだ」と主張します。また、ある人たちはきよい食べ物ときよくない食べ物を分けています。肉を一切食べない、菜食主義の方がおられます。聖公会やローマ・カトリックでは旧約聖書の制度や儀式が色濃く残っています。私たちは新約聖書の時代に生きていますので、ある律法や儀式は守らなくても良いようになっています。しかし、たとえ旧約聖書であっても、継続的に守らなければならないこともあります。ただし、そこには条件があります。どんな条件でしょうか?その答えが、ただいま読んだマタイ517節にあります。

 もし、私たちがこのことを知っているならば、旧約聖書はすばらしい書物になります。もし、私たちがこのことを知らなかったなら、旧約聖書の律法や儀式にしばられます。全部捨てるか、その奴隷になるかどちらかになります。果たしてバランスのとれた見方、あるいは信仰の立場というのはどのようなものなのでしょうか?このみことばからも分かるようにイエス・キリストは地上に来られて、律法や預言者を全部成就されました。簡単に言うと律法の要求を全部満たしたということです。イエス様は十字架で「すべてが完了した」と叫ばれました。それはどういうことかと言うと、ご自分が律法の要求を満たしたことによって、ご自分に連なる人は律法の要求から解放されるということです。ガラテヤ313-14「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」人が律法によって義とされることを願うなら、全部の律法を落ち度なく守らなくてはなりません。たとえば律法の1つ破っただけなのに、他の全部の律法を破ったことと同じになります。これは私たちには到底無理なことであり、呪いであります。しかし、イエス様はご自分ですべての律法を成就し、さらには私たちのために呪いとなってくださいました。ということはイエス様を信じる者は律法の要求から免れ、神の義をいただくことができるということです。また、へブル人への手紙には、私たちが律法や儀式からどれだけ解放されているか詳しく述べられています。へブル813「神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。」へブル912「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

結論を申し上げます。旧約聖書はキリストを預言する型、影であります。そして、新約聖書はキリストによって預言が成就したことを語っている実体であります。私たちは救われて、新しい契約のうちに生かされている者たちです。だから、旧約聖書の律法や戒め、すべての出来事を読むとき、キリストの贖いを通して読まなければなります。キリストの贖い抜きで読むなら、前に述べた律法的で偏った信仰になるでしょう。もし、あの当時、私たちがイスラエルの民のひとりであったなら命がいくつあっても足りないでしょう。しかし、私たちの罪と不義のためにイエス様は十字架で死なれました。私たちが守り行えない律法を完成し、自ら律法の呪いとなってくださいました。だから、私たちはキリストの贖いを通して、聖書を読むとき、すばらしい教訓となり、すばらしい恵みと変えられるのです。最後に、ヨハネ539を引用してメッセージを終えたいと思います。ヨハネ539「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」聖書は、イエス・キリストを預言しているのです。アーメン。

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2015年11月20日 (金)

教会増殖 使徒11:19-21 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.11.22

 5年くらい前のデーターですが、日本でのプロテスタント教会は約8,000個あります。平均礼拝出席数は40名です。欧米では教会堂は荘厳で町の目立つところに立っています。一方、日本では神社仏閣が広い地所を構えています。教会はどちらかと言うと、通りから入った目立たないところに立っています。なぜなら、日本ではキリスト教が後から入って来たからです。今でも教会のない市町村があって、なんとかそこにも教会を建てようという試みがなされています。データーを見ますと、都市部にはたくさんの教会がありますが、地方に行けば行くほどその数は減って来ます。地方にはいろんな因習があり、キリスト教が入り込むのに困難を覚えています。私は秋田で、家内は岩手の出身です。私たちがクリスチャンになれたのは、もちろん神さまの導きですが、先祖のお墓とか因習から解放された面もあると言えます。きょうは『霊的な父』の最後にあたりますが、「教会の増殖」というテーマで学びたいと思います。

1.教会増殖の原点

使徒814「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。…他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」使徒1119-21「さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。」

第一の質問です。「エルサレムの教会はどうして衰退していったのでしょう?」いつまでもエルサレムにとどまっていたからです。イエス様は弟子たちに「全世界に出て行くように。地の果てまで行くように」と命じておられました。ところが、弟子たちは都にとどまっていたのです。                  

第二の質問です。「迫害で散らされた人たちは、何をしたのでしょう?」背景をちょっと説明させていただきます。最初、キリスト教はユダヤ教の一派と思われていました。ところが、ステパノがユダヤ人の議会で「あなたがたがこれまでの預言者のように、正しい方(イエス)を殺したのです」と非難しました。そのため、大迫害が教会に起こり、使徒たち以外のものはみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされました。その中のある人たちは、ギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えました。つまり、ユダヤ人以外の人たちに福音を伝えたということです。

第三の質問です。「だれが新しい土地に新しい教会を開拓したのでしょう?」迫害によって散らされた人たちです。つまり、使徒でない一般の人たちです。アンテオケというところに、大きな群れができて、彼らがはじめて「クリスチャン」と呼ばれるようになりました。

第四の質問です。「だれが教会を増殖させたのでしょうか?また、それは主のみこころだったのでしょうか?」主イエス様が人々の宣教活動を祝福されました。主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返ったのです。つまりそれは、主のみこころでした。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。初代教会のクリスチャンをエルサレムから開拓伝道へと駆り立てたのは、迫害が原因でした。最初の開拓伝道者はイエス・キリストによって訓練を受けた使徒たちではなかったということです。使徒たちはエルサレムで会議に忙しくしていたのです。もし、組織された教会が働きを全うしないのであれば、神は組織されていない教会を用いられるのです。アンテオケに到着した初期の弟子たちは、ユダヤ人のみに福音を宣べ伝えました。しかし、後にやって来た人々は人種の垣根を越えて異邦人に福音を宣べ伝えました。イエス・キリストの戦略が具体化したのはエルサレムからではなくアンテオケからです。なんと、大宣教命令が現実化したのは、エルサレムではなくアンテオケからでした。そのため「アンテオケ」という名前のつく宣教会があります。また、「アンテオケのような教会になるんだ」とスローガンを掲げている教会もあります。その意味は、1つの教会にとどまらず、新しく教会を生み出していくということです。そのことはイエス様が与えた世界宣教という命令を果たしていく1つの方法です。おそらくこのことに反対する人はおられないでしょう。ただし、日本には約8000の教会がいたるところに散在しています。日本基督教団においては約1000の教会が町々、村々にあります。そして、一個一個が小さいのです。また、問題は教会同士、あるいは教団教派の壁が厚く、あまり協力していないということです。海外から宣教師が、それぞれのやり方で伝道したので、そのなごりが残っています。今後の課題は、教会同士が喧嘩しないで、教会のないところに新たに教会を設置していくということだと思います。

2.教会増殖の妨げ

第一の質問です。「会堂を持つことの長所と短所をあげてください。」会堂があるといろんなイベントを開くことができます。しかし、教会という建物の中で何でも行ってしまうので、家庭が開放されなくなります。世の中の人は教会というところに行くまでが大変です。それよりも、身近なところにクリスチャンの集まりがあれば行きやすいのではないでしょうか?

第二の質問です。「フルタイムの牧師を雇うだけのお金がないときはどうしたら良いでしょう?」日本には教会員の数が少なくて、フルタイムの牧師を雇えない教会が半分近くもあります。その牧師たちはいろんなアルバイトをしながら牧会しています。私の知っているある牧師も平日は働いて、土日だけ教会の働きをしています。そうすると、世の中にほとんどのエネルギーが取られて、やっとメッセージをしているという状態です。そうすると、メッセージに油注ぎがなくて、礼拝に来る人も少なくなるという悪循環に陥ります。では、教会にフルタイムの牧師を雇うだけのお金がないときはどうしたら良いでしょうか?大教会のような祭典的な礼拝ではなく、参加型の礼拝にします。ある時は、賜物のある信徒がメッセージしたり、信徒の分かち合いも加えます。また、各家庭や店舗、公の建物を用いるのも良いでしょう。今は昔よりも、区や市の建物の一室も安く借りられるようになりました。会堂の維持費が無くなるので、牧師の給与に向けられるという利点があります。ただし、それは過渡期であって、礼拝を守れる固定した建物があればなお良いでしょう。日本人の心の中には、牧師が在住する教会というイメージがあり、決まった場所で落ち着いて礼拝を捧げたいという願いがあります。でも、いきなり自給できる教会になれるわけではありませんので、建物に依存しないやり方があるということを知っておくべきです。

第三の質問です。「リーダーを育てるためには神学校教育が必要だとすれば、どのような犠牲が伴うでしょう?」一人の専門家を育てるために多くの時間と資金がかかります。また、一般の信徒は「専門的な知識がなければ、牧師になっていけない」という思いを持って何事も消極的になるでしょう。ドイツのある学者が、健康で成長している教会の特徴をいくつかあげました。「神学校を卒業した牧師の多い教会は、質的にも低く、減少している。質の高い教会を見ると、神学校を卒業した牧師の数が少ない。リーダーたちがよりプロであればあるほど、教会は効果の度合いを失っていく。牧師があまりにも優秀でプロなので、教会員たちは自分にはできないと思っている。」もちろん、牧師が神学を勉強したことに越したことはありません。ただし、牧会が専門職になって、プロとアマみたいに分けてしまうと信徒の活躍の場がなくなってしまうということです。そうすると結果的にお客さんみたいな信徒が多くなり、教会が質的に成長しないということです。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。過去20年か30年にわたって再生産している教会は集会場所に借家やテナントを利用してきました。家々で始められる教会は文化の壁を乗り越えて進めることができます。倉庫でも、お店でも、人がいるところならどこで教会をはじめて良いのです。また、フルタイムの牧師のための費用は大きな障害となります。教会増殖ネットワークは現在アルバイトをしながら牧会するという形であちこちに拡がっています。これは普段仕事を持ちつつ教会から少しの経済的支援を受けるというやり方です。ラルフ・モア師が『星のように砂のように』という本の中でこのように述べています。「もし、神学校が必修の規則であるとすると四つの犠牲が伴います。一番目はお金、二番目は時間、三番目は牧会から離れること、四番目は学位と牧会は違うという発見です。」さらに、ラルフ・モア師が日本に来られたときこのようにおっしゃっていました。「まず教会の中で牧師になる人をインターンのように育てる。もし、そのままでも教会開拓ができるのであれば派遣する。また、もっと専門的に勉強したければ神学校に通わせる」ということです。ただし、ラルフ・モア師は(地方)教会で育てた人が、教団の学校に行って、教団の人になり、教団から他の教会に遣わされるというやり方は反対しています。(地方)教会がすべての中心で、(地方)教会が牧師を育て、(地方)教会が教会を作り出していくべきだとおっしゃっています。私も先生の意見に賛成です。

3.大きい教会とシンプルチャーチ

第一の質問です。「礼拝堂を持っている大きな教会の長所は何ですか?」音楽もメッセージもすばらしくて、祭典的な礼拝を持つことができます。また、聖書を深く教えられる専門家がいるので、いろいろな面で指導することができるでしょう。よくメガチャーチと言われますが、どのくらいのサイズなのでしょうか?昔、カルフォルニアのクリスタル・カセドラルの礼拝に出席したことがありますが、建物が大きすぎてカメラに納めきれませんでした。フロリダにある3000名くらいの礼拝に出ましたが、ブースの中で生ドラムをたたいている人がいました。ドラムの音がそんなに大きいとは感じませんでした。韓国のヨイドの教会やオンヌリ教会の礼拝は、前の方にオーケストラ席がありました。日本の場合はメガチャーチと言えませんが、500名収容の教会はいくつかあります。そういうところの礼拝は音楽もメッセージもすばらしいです。

第二の質問です。「大きな教会の短所は何でしょうか?」一般の信徒は受け身的になり、奉仕に参加しなくなります。音楽もプロの人たちがやっているので、「ムーリー」という感じを持ってしまいます。また、お互いの交わりが薄いので、信仰的に弱い人は教会から去って行きます。私の母教会もデパートみたいな教会で、一人一人の顔も名前もわかりません。毎年100人くらいの人が洗礼を受けるようですが、2,3年後には半分くらいの人が来なくなります。問題があってもケーアできず、信仰の強い人がとどまるようです。

第三の質問です。「シンプルチャーチ(家の教会、会堂をもたない教会)の長所は何ですか?」 普通の教会に来たくない人のところへ行って、福音を語ることができます。また、人数もそんなにいないので、専門的に聖書を学んだ人でなくても用いられます。また、関係が深くなるので、互いに助け合い、互いに建て上げ合うことができます。

第四の質問です。「シンプルチャーチの短所は何ですか?」神学的に弱いので、異端が入り込むと簡単に壊れてしまいます。また、一人のキャラクターに良い点でも悪い点でも影響されます。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。大きい教会は、設備や様々なプログラムがあります。また、良く準備された教えがあります。すばらしい音楽のもとで祭典的な礼拝があります。数多くの交わりや愛餐会もあるでしょう。しかし、一人一人の交わりが薄かったり、弟子訓練が行き届かない場合があります。シンプル教会は良い交わり、分かち合いによる学びがあります。しかし、教える人が毎週交代したり、ディスカッションによる学びなので、深さやバランスに欠ける傾向があります。大きい教会は象のように、1つの教会を生み出すのも困難です。一方、シンプルな教会はうさぎのように、小さな教会をいくつも生み出すことができます。どちらが良いとは言えませんが、両方を備えている使徒241-47が理想的なモデルではないでしょうか?使徒2章は、エルサレムの初代教会のことが記されています。彼らは週のはじめは神殿で礼拝し、週日は各家で集まっていたようです。つまり、大きい教会の行き届かないところを、家の集会で補っていたようです。補っていたというよりも、そこが共同体としての基盤だったのかもしれません。

4.教会増殖のビジョン

 使徒198-10「それから、パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。」コロサイ16「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」

第一の質問です。「パウロはユダヤ人の会堂から、どこに移動して伝道しましたか?」ツラノの講堂です。そこは異邦人が集まる一般的な場所でした。

第二の質問です。「エペソで、二年間続けた伝道の成果はどうだったでしょうか?」アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞きました。アジヤといっても、小アジヤであって現在のトルコであります。

第三の質問です。「コロサイの教会はどのようにしてできたかご存知でしょうか?」エペソで信じた人たちが、コロサイで群れを作りました。それがやがて教会になりました。ヨハネ黙示録1章には「エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ」とアジヤの7つの教会が記されています。ラオデキヤもそうですが、使徒パウロが直接、教会を建てたわけではありません。なんと、エペソから6つの教会が生み出されたようです。

第四の質問。「このところから教会増殖のヒントが与えられるでしょうか?」マンモス教会も悪いわけではありません。しかし、遠くから来るのは大変です。ですから、マンモス教会から派遣された人たちが、衛星教会を作り、それが独立していくのはすばらしいことです。日本では、枝教会というような言い方をしています。昔は教団や教派が一生懸命、町や村に教会を作りました。しかし、現在は高齢化ため教会を閉鎖するか、合併しなければならなくなっています。ですから、上から教会増殖を押し付けるのではなく、地元から湧き上がってくる方が理想的です。なぜなら、土地ごとによって文化や人間関係が違います。それらを壊さないで保持しながら、信仰共同体を作るべきです。この度の東北の大震災によって漁村の人たちが福音を聞いて救われました。今後は、彼らが好むような、彼らにあった教会を作ったら良いと思います。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。パウロは反対や迫害を受けながらもエペソで二年以上伝道しました(参考.Ⅰコリント1531)。その結果、ヨハネ黙示録に記されている7つの教会を含むアジヤの諸教会が設立される基礎が作られました。コロサイの教会はコロサイ出身のエパフラスの手によってなされたと想像できます。1つの教会がセンターとなって、いくつかのセルあるいは家の教会が作られます。それが遠方であるならば、複数のセル(家の教会)が合体することによって子教会が生まれるでしょう。そこに牧師を派遣する道もありますが、賜物のある信徒リーダーがその集会を導いても良いです。大きな傘はメガチャーチ、小さな傘は50人の教会と言えるでしょう。メガチャーチよりも、小さな傘を10ヶ作ることの方が容易ではないでしょうか?小さな教会をいっぱい作るという考えは、ベン・ウォン師が提唱したことであります。しかし、日本の教会ははじめから小さい教会なので、「メガチャーチではなく小さな教会を」ということがよく分かりません。小さい教会をさらに小さくすると、指導者や奉仕者がいなくなり、どうしても活気がなくなります。また、家の教会と言っても、一般の人は教会堂を想像していますので、他人の家に入るのは勇気が必要です。ですから、ある程度大きなセンター的な教会があって、家の教会や小グループが補助的にあると良いと思います。私の友人である大喜多牧師は、「いちご伝道」ということを提唱して、現在6つ目の教会を開拓しています。いちごは自ら成長し、花を咲かせますが、同時に小さな株を四方に出します。親株から小さな株に栄養が行っています。しかし、小さな株からも根が出て、ある程度大きくなると独立します。そして、小さな株が大きくなりながら、孫の小さな株を四方に出します。そのようにして、どんどん増えていきます。大喜多牧師の考えは、教会を増殖することによって、主の宣教の命令を果たしていくというものです。先生のグループは、着実に教会が増えているので、全く脱帽です。

きょうで『キリストの体の青写真』からの説教が終わりです。大きく分けて、「Good News」「養育を受ける」「本当の弟子」「霊的な親」の4段階がありました。その中に付録的な学びがいくつかありました。最後に「岩に土台した結婚」というものありますが、それは各自で学んでもらえれば良いと思います。このシリーズは私の牧師としての奉仕を集大成したものです。いろんなやり方があって良いと思いますが、一人のクリスチャンが救われて、ゴールを目指して成長していくというプロセスを描くことはとても重要だと思います。聖書的な知識はゴールというものがありません。一生学び続けなければなりません。しかし、クリスチャンとして幼子から霊的な親になるというプロセスはだれもが目指すべきゴールであると思います。最後は「教会」というテーマでしたが、私たちの信仰は「教会」を離れては成熟もありませんし、奉仕活動もありません。なぜなら、教会はキリストのからだであり、キリストの御霊が豊かに働く共同体だからです。クリスチャンには教会に属さないで信仰生活を守るという人もいるかもしれません。その人は教会に躓いたからかもしれません。残念ながら完全無欠な人がいないように、完全無欠な教会もありません。教会は、罪赦され、義とされた人たちが集まっているすばらしいところです。しかし、私たちには肉があるために、争ったり仲たがいすることもあるでしょう。それでも、神さまから愛と恵みをいただき、キリストにある成熟を目指していることは疑いようもない事実です。神さまは教会を愛しておられます。なぜなら、キリストの血によって贖いとられた神の教会だからです。ですから、イエス様を愛することは、教会を愛することなのです。なぜなら、かしらなるイエス様とそのからだである教会は切り離すことができないからです。どうぞ、イエス様を愛し、教会も愛しましょう。

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2015年11月13日 (金)

コーチングの基本 コロサイ1:28-29 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.11.15

 10年以上前から企業の中でコーチングが行われるようになりました。コーチングというのは、上から指示するのではなく、その人が自ら考えて決断できるように助けるということです。コーチングの由来は、coachという四輪の大型馬車から来ました。当時は、お家から駅まで行って、列車に乗って目的地近くの駅まで行きました。駅から目的地までは徒歩か馬車で行きました。しかし、コーチという馬車はお家から、目的地まで乗り換えることなく行くことができました。つまり、コーチングはその人が目的地まで行けるように、一緒に行ってあげるということです。聖書を見ますと、ある意味でイエス様も弟子たちにコーチングをしていました。同じように、霊的な親が後輩の人たちをコーチングできたら何と幸いでしょう。

1.コーチングの目的

ローマ122「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

第一の質問です。「行ないの面で、神さまは私たちに何を期待しておられるでしょうか?」「この世と調子を合わせてはいけない(妥協してはいけない)」と言っています。ある人はこの世の価値観と神の国の価値観を2つ持ちながら、二元的な生き方をしています。神さまは、この世と神の国とダブル・スタンダード(二重規範)を持って生きることを願っておられません。

第二の質問です。「では、コーチングとは、何をどのように助けることなのでしょうか?」まず、その人が正しい神のみこころを発見できるように助けることです。その人は「私はこうしたい」と思っていても、神さまは「こうしてもらいたい」と願っておられるかもしれません。ですから、神のこころに対して、修正すべきところがあるかもしれません。その次は、その人の現時点から、神のみこころに向かって進めるように助けることです。多くの人は「自分に対する神さまのみこころ」のところで迷っているかもしれません。つまり、自分は何をもって神さまの栄光を現わすように召されているのか分からないということです。人生の目的地が分からないのに、やみくもに歩いているとしたらどうでしょうか?

第三の質問です。「成長の面で、神さまは私たちに何を期待しておられるでしょうか?」「心の一新によって自分を変える。つまり、自分の思い(mind)を新しくする」ということです。そうすれば、自分にとっての神さまのみこころは何かもっと分かるはずです。クリスチャンの中には霊的に生まれ変わっていても、思い(mind)が変わっていない人がいます。このことは、1つ前の『新しいライフ・ステージ』というところですでに学びました。賜物と召命というのは、過去の傷や不幸な境遇と関係があります。「神さまはあなたを仕込んでおられたんだ」ということを学びました。

第四の質問です。「では、コーチングはどのような心を持つ必要があるのでしょうか?」使徒パウロがこのように述べています。コロサイ128-29「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」前にもお話ししましたが、教会にはルカ15章のような兄のような人がいっぱいいます。兄は、「そこが足りない、そこがダメだ」と批判します。しかし、父は無条件の愛をもって弟息子を迎えました。つまり、霊的な父のような心を持つ必要があります。しかし、パウロは優しい愛だけでは不十分だと言っているかのようです。奮闘する」は、「闘技において戦う」「闘技する」という言葉から来ています。つまり、体育会系のコーチをイメージする言葉です。最近はセクハラとかパワハラで訴えられますが、柔道とかレスリングのコーチはとても厳しいです。もし、教会で「やる気がないなら、やめちまえ!」とか言ったら、だれもいなくなるでしょう?パワハラはだめですが、もっと、厳しさがあっても良いかもしれません。

 この世のコーチングは2つの信念(前提)のもとで行われています。第一は、「人間はどんなことでもできる」ということです。第二は、「その人自身の中に、目的地を発見する力がある」ということです。しかし、聖書的に見るならば、私たちは堕落した存在であり、内側には勝手な欲望があります。無限の能力もないし、正しい目的地を発見する力もありません。聖書的なコーチングにとって、最初にすべきことは、その人が新しくされて、心を変えられなければなりません。まず、その人を動かすエネルギーが変えられる必要があります。その次は、その人が望んでいることと、神さまが願っていることは、何であるかはっきり区別しなければなりません。コーチングでは神さまが願っている目的地へと修正していく必要があります。神さまは、どんな目的地に行こうとも、私たち一人ひとりが続けて成長して、成人となることを願っておられます。子どもにとって両親が大切なように、一人の人をキリストにある成人として立たせるために、父親の心を持っている人がコーチをする必要があります。

2.コーチングの心構え

 ヨハネ1412「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。ピリピ23「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」

第一の質問です。「イエス様は弟子たちにどのように約束されましたか?」「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行う」と言われました。ほとんどの聖書学者はこのことばを文字通りには受け止めません。いろんな霊的解釈をほどこしていますが、不信仰の域を出ていません。現実はどうであれ、私たちはこのみことばを額面通り受け止める必要があります。イエス様が「あなたは私よりも大きなことをするよ」とおっしゃるのなら、「アーメン」と答えるべきであります。

第二の質問です。「あなたは自分が育てた人が、自分よりも優れたことを成し遂げても喜ぶことができますか?」この世における、師匠と弟子の間には越えられない淵があります。もし、弟子の方がまさるなら、師匠から「100年早い」と言われて、追い出されるでしょう。でも、子どもが親を超えるならば、親にとってはこの上もない喜びです。霊的親はつまらない妬みではなく、寛大な心を持つべきであります。使徒パウロは霊の子であるテモテの成長を見て喜んでいました。自分が持っている良いものは何でもあげたいと思っていました。

第三の質問です。「あなたは、他の人を見て、自分よりも劣っているのではないかと思っていませんか?」劣等感を持っている人というのは、同時に優越感も持っているものだと聞いたことがあります。私たちの肉には、虚栄心や党派心が宿っています。常磐牧師会というものが月一回行われます。彼らとは25年くらい続いている交わりです。当時は頭の毛がふさふさだったのに、今は寂しい先生もおられます。「当時、ズラをかぶっていて今が本物なんだ」と皮肉をいう人もいます。土地を買ったとか、教会堂を建てたと聞くと心から喜びます。牧会上の問題が起きたときは、心から同情します。しかし、私にとって我慢ができないときもあります。それは、自分の学説を長々と説かれた時です。10分くらいは聞くことができますが、20分以上になると「いい加減にせーよ」と腹が立ってきます。特に、まだうまくいっていないのに、うまくいくかのようにどこかの教会のやり方を紹介するときです。私は「成功してから言ってくれ」と水をさします。「私は失敗した」という、卑屈な気持ちがあるからかもしれません。神学校の頃、夏季研修というのがあって、全校生徒の前で、それぞれ発表する機会がありました。「うまく行かなかった、砕かれた」という証だと、教授陣が同情してくれます。ところが、「良い成果をあげました」と報告すると、「高慢だな、もうやめろ」と教授が言いました。聖めを説く神学校でもそういうことがありました。

第四の質問です。「なぜ、自分よりも優れた者であると思うことができるのでしょうか?その根拠は何ですか?」第一は、自分自身もキリストのからだの一部の器官であり、すべてのことはではないからです。Ⅰコリント1221「目が手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うこともできません。」と書いてあります。第二は、その人もキリストに贖われた存在であり、聖霊がその人の内で独自に働いておられるからです。その人をけなすということは、その人に働いておられる聖霊をけなすということになりかねません。ローマ144「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。私がだれかをコーチングするとするならば、その人が将来、私よりもさらに優れた人になり、建て上げられて神の国に用いられる人になるという思いをもって、コーチングをしていかなければなりません。自分が育てた弟子が、自分よりも優れて、もっと人気が出たらどうするでしょう?胃が痛くなるでしょうか?また、コーチは人を自分よりも優れた者と思わなければなりません。なぜなら、どんな人でも卓越したものを持っています。ある人は、勉強はあまりできないかもしれませんが手先が器用です。神様が与えた賜物というものがあります。だから、それを見つけて、その人が自分よりも優れていると思うべきです。アーメン。私は「時間の無駄だ」と、子どもたちにゲームのやり過ぎを厳しく注意したことがあります。でも、口うるさく言うと逆に効果がないので、だんだん放任主義になりました。ある時、下の息子が私の二台目のパソコンでゲームをしていました。仕事をしながら、ちらっと見ましたが、驚きました。今のゲームは昔のインベーダーゲームと違って、とても複雑です。マインクラフトというのは、地下に穴を掘って採掘し、その材料で何かを作る、とても創作的なものでした。ゲームが社会的に役立つかどうかは分かりません。でも、そういうことだけで判断してはいけないと思いました。神さまは一人ひとりにユニークな能力を与えておられるからです。現代は、専門家でない畑違いの人から、良いアイディアが出て来ると言われています。良いコーチとは神さまがその人に与えたユニークな能力を引き出すことではないかと思います。

3.聖書的価値観(世界観)を持つ

 詩篇12-3「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」ヨハネ1224-25「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」

第一の質問です。「豊かな実を結ぶために、木にとって大事な部分は何ですか?」水路のそばに植わった木は、根からたえず水が供給されるので枯れません。つまり、根が大切だということです。根とは価値観や動機、その人のエネルギーであります。根は地表からは見えないので、どうしても実の方に目が行ってしまいます。実とは結果であり、何ができるかということです。しかし、根が健全でなければ、豊かな実を結ぶことはできません。結果よりも、根にあたる価値観や動機、エネルギーに注目すべきであります。

第二の質問です。「みことばを口ずさむ(瞑想する)ことによって、あなたの何がどのように変わるのですか?」考えが変わり、信仰が与えられ、主のみころにあった生き方をするようになります。順番をもう一度言うとどうなるでしょう?みことばを瞑想すると、私たちの考えが変わります。考えはすべての源です。考えはマインド、信念、世界観とも言い換えることができます。宗教は怖いと言われますが、それはマインドをコントロールされるからです。でも、まことの神さまからみことばによって、マインドを正しくコントロールされたら良いのではないでしょうか?神さまとみことばなしで、自分のマインドを正しく保てるでしょうか?第二は考えが変わると信仰が与えられます。信仰と信念は似ていますが、同じではありません。信仰は神さまが保証してくださるものですが、信念は自分自身だけのものです。信じて求めるなら、神さまは報いてくださいます。第三は信仰から主のみこころにあった生き方が生まれます。これはだれもが見ることのできる実であります。6月頃、一番上の兄から「長男の結婚式をあげてくれないか」と頼まれました。私にとっては甥にあたりますが、私の兄弟の前で司式をすることになります。彼らはまことの神さまを信じていません。「うちのヤスはキリスト教にかぶれておかしくなった」と思っていたでしょう。彼らは神さまを見ることはできません。でも、私が神さまを信じてどういう生活をしているかは見ることができます。「子どもの頃のヤスは意地っ張りで、泣き虫で、わがまま放題だった。ところがキリストを信じてから、人々の前で教えを垂れるようになった。しっかりした奥さんを持ち、4人の子どもを育てたじゃないか?ああ、やっぱり神さまがいるのではないだろうか?」私の考えが変わり、信仰が与えられ、生き方が変わったからです。

第三の質問です。「あなたの隠された部分に、死ぬべきものはありませんか?」伝統的な教会は講壇から牧師が「死ね」「死ね」と言うそうです。私も神学校で良く言われました。みなさんの中には、「死ね」「死ね」と言われ、うんざりだという人もおられるかもしれません。私は「死ね」のかわりに、「十字架につけて死なせる」というふうに言います。自らの意志で自分を死なせることはとても困難です。私たちが自らの意志ですべきことは、不純なものを十字架に付けることであります。そうすると、十字架自体が死なせてくださるのです。使徒パウロはガラテヤ書でこのように言っています。ガラテヤ5:24 「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」ガラテヤ614「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」パウロにとって、世界とは肉的な喜びをもたらすものでした。ですから、十字架というのは救われるためだけではなく、救われた後も必要だということです。十字架は私たちの中に残っている肉や罪を死なせる力があります。私たちは生きている限り、名声、功名心、お金、富、快楽など、十字架につけなければなりません。天国に行くまで、十字架は必要なのです。

第四の質問です。「クリスチャンのコーチングは個人の自己実現ではなく、何をサポートするのでしょう?」この世のコーチングはどうでしょうか?コーチと言うのは、その人の自己実現のために雇われている存在です。その人の願いを叶えるのが良いコーチです。しかも、この世のコーチングは、神さまではなくその人の中に答えがあると思っています。だから、この世のコーチングは「それは間違っている」とは決して言いません。なぜなら、お客様の自己実現が目標だからです。一方、神からのコーチングは、その人に与えられた神の計画が成就するようにサポートします。神の計画は英語で言うと、The divine destinyになります。エレミヤ書29章に書いてあるように、神さまは私たちに計画をもっておられます。それは、災いではなく、平安と将来と希望を与えるためのものです。

4.コーチングの技術

 コーチングの技術で大切なものが3つあります。第一は傾聴、よく聞くことです。第二は質問、良い質問を投げかけて認識や理解を与えることです。第三はフィードバック、評価をしてあげるということです。ピリポ・カイザリヤというところで、イエス様が弟子たちに質問されました。いきなり「私がだれか」と聞かれませんでした。イエス様は「人々は私をだれだと言っていますか」と聞きました。彼らは「バプテスマのヨハネだと言う者もあり、エリヤだという人もあります。他の人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だ」とも言っていますと答えました。その後、イエス様は「あなたがたは私をだれと言いますか」と聞かれました。するとペテロが「あなたは、生ける神の子キリストです」と答えました。イエス様の良い質問に対してペテロが答えました。イエス様は「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」と言われました。これはフィードバックと言えます。

その後、イエス様は「エルサレムに行って、多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえります」と言われました。ペテロは「主よ。そんなことが、あなたに起こるはずはありません」とイエス様をいさめました。すると、イエス様は「下がれ、サタン。あなたは私の邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱られました。ペテロは天にまで引き上げられた直後、サタン呼ばわりされました。これがイエス様のコーチングでしょうか?ペテロはこのことがトラウマになったのではないでしょうか?しかし、ペテロは懲りない人でした。いよいよイエス様が捕えられるとき、ペテロはこう言いました。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」と答えました。イエス様は「あなたは三度、私を知らないと言います」と預言しました。それでも、ペテロは「死んでも、あなたを知らないなどとは決して申しません」と否定しました。その時、イエス様は「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だから、あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。イエス様はペテロが3度知らないとご自分を否んだとしても信仰がなくならないようにとりなしておられました。そればかりか、「立ち直ったら兄弟たちを力づけるように」という使命を与えておられました。これが、イエス様の計画です。私たちも失敗や挫折することがあるでしょう?自分の使命や計画も見失うことがあるかもしれません。しかし、イエス様が世の終わりまで共にいて、私たちを励まし、力を与えて、導いてくださいます。イエス様こそ私たちの最大のコーチです。

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2015年11月 6日 (金)

人間をとる漁師 マルコ1:14-18 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.11.8

 福音を伝えることを「伝道」と言いますが、とても堅い響きがあります。私は「伝道」という言葉が嫌いでした。なぜなら、「その人に福音を伝えて救いに導かなければならない」という緊張感を覚えるからです。英語では伝道をreach outと言いますが、「援助の手を差し伸べる」という柔らかい響きがあります。用語はともかく、福音を伝えることは全クリスチャンの使命であります。伝道の賜物がある人もいますが、たとえ賜物がなくても使命なのですから、やるしかありません。いろんな伝道方法がありますが時代や人々のニーズによって、効果的なものを選ぶ必要があります。また、方法やテクニックも大切ですが、失われた魂を主のもとにお連れしたいというスピリットが最も大切だと思います。 

1.人間をとる漁師

マルコ114-18「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。」

第一の質問です。「イエス様は、初期の頃から弟子を召されました。それは、なぜでしょう?」それは、ご自分の働きを継続し、拡大させるためです。いくらイエス様が神さまであっても、肉体を持っているので限界がありました。また、十字架の贖いを成し遂げたあと天に帰らなければなりません。ですから、弟子たちを訓練して、任せる必要がありました。 

                        

第二の質問です。「漁師であることと、人間をとる漁師との共通点は何ですか?」弟子たちの多くはガリラヤの漁師でした。そのためイエス様はあえて「人間をとる漁師にしてあげよう」とおっしゃったのでしょう。漁師は魚の習性を知らなければなりません。何を食べるか、どこにいるのか、漁は昼間が良いのか夜が良いのか?彼らは網で漁をしていましたので、群れがいるところを探して漁をします。魚がいないところに網を降ろしても仕方がありません。また、乗る船も必要ですし、網やしかけなど正しい漁具を準備しなければなりません。魚と同じように、人間の習性やニーズを知る必要があります。また、人がいないところではなく、人がいるところで伝道すべきでしょう。正しい漁具とは時代にあった正しい福音提示と言えます。また、音楽、部屋、音響製品が必要な場合もあります。昔は16ミリの映画で人々が集まったようですが、今は集まりません。アメリカのリック・ウォレン師はいろんなところをリサーチして、新しい教会を開拓しました。自分がどういう社会層の人たちに福音を届けられるか、前もって調べたようです。

第三の質問です。「まず、どうすれば人間をとることができるのですか?」イエス様について行くということです。すると、どうすれば人間をとれるのか実際に見て学ぶことができます。現代、イエス様は地上にいませんので、まず、福音書や使徒の働きから原則を学ぶしかありません。その後、自分にあった伝道法をさがすべきでしょう。私が最初に行った神学校の教団は、とても伝道熱心でした。昭和の初期、リバイバルがあった教団で、首根っこを捕まえてでも救いに導くという熱心さがありました。また、手をたたいて聖歌を歌うし、大きな声であおるようなメッセージをするので、気の弱い人は帰っちゃうんじゃないかと思いました。その後に、カルバンの「選び」ということを学びました。それからはあまりしつこく勧めないようになりました。神さまがその人を選んでいれば、救ってくださるので、その人の自主的な決断を重んじるようになりました。つまり、神さまから情熱をいただき、人の意志を重んじながら福音を伝えるということです。

第四の質問です。「あなたは人間をとる(伝道する)ことがライフ・スタイルになっていますか?」ライフ・スタイルとは伝道が生活の一部になっているということです。パウロはテモテにこのように命じました。Ⅱテモテ42「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」時代によって、人々が福音に耳を傾ける時もあれば、まったく無関心な時もあります。日本のプロテスタント教会では、明治の開国時と、敗戦直後にリバイバルがありました。しかし、経済的に豊かになると、あまり教会に来ません。今はクリスチャンや牧師が高齢化し、数も減少しています。では、世界的に難しいかというとそうではありません。かつては伝道が非常に難しかったインド、タイ、ネパール、モンゴルにクリスチャンが増えています。アフリカの各国はキリスト教国になるかあるいはイスラムになるかしのぎを削っています。日本は熱くもなく冷たくもない国で有名です。ですから、私たちは時代がどうであれ、みことばを宣べ伝える使命と責任があると思います。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。魚をとることと、人間をとる(伝道する)ことは似ています。まず、魚をとるためには、魚のいるところへでかけなければなりません。魚の集まるような場所に行って、釣竿か、網によってとるでしょう。漁師たちは魚の習性を知り、何時頃、どのようなしかけ(網)で、とるかを知っています。伝道のためには、対象とする年齢層、地域、文化、好みなどを知る必要があります。それによって、アプローチの仕方や話すことばも違ってきます。現代の教会がなぜ不漁なのかと言うと、人々のいるところに行かないで、教会という建物で人々が来るのを待っているからでしょう。時代と共に変わる人々のニーズを無視し、殿様商売でやっているからかもしれません。今は恵みのとき、今は救いの日であることを信じて、reach out、福音を届けるために手を差し伸べていきたいと思います。

2.関係中心の伝道

マルコ1615「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』」ルカ105-7「どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。」

第一の質問です。「本来、伝道は行くべきなのでしょうか?それとも、未信者が来るのを待つべきなのでしょうか?」行くべきです。地の果てではありません。私たちが日常、出かけているところ(家庭、職場、地域社会)が伝道地なのです。聖書を見ると「出て行け」とか「行って」と書いてあります。とにかく、行かないと何も始まりません。キリスト教の異端にエホバの証人というのがあります。彼らは自分たちが救われるために伝道をしています。マインドコントロールがかかっているせいもあり、一件、一件、訪問して伝道しています。一方、正統だと言っているキリスト教会は、伝道するために訪問するということはまずありません。なぜなら、躓きを与えてしまうからです。でも、皮肉なことに、世の人たちは「キリスト教と言うと、家々を訪問するエホバの証人である」と思っています。でも、彼らは間違っていると言えるでしょうか?新約聖書を見るとイエス様も弟子たちも出て行って伝道しました。このことを考えると、異端である彼らの方が、聖書の言いつけを守っているとしか言えません。彼らは多くの人たちを躓かせているかもしれませんが、着実に自分たちの信者も得ています。なぜなら、出て行っているからです。異端の方が「行け」という、命令を守っているとはどういうことでしょうか?

第二の質問です。「新約聖書の時代は、伝道が教会堂で、イベントプログラム式でなされていたでしょうか?」なされていませんでした。福音書を見ると神殿や会堂だけではありません。家屋、野山、海辺、町や村の辻、結婚式場、葬儀の場も伝道の場になっていました。また、使徒の働きを見ますと、迫害にあった人たちは道々、出会う人にみことばを伝えました。ローマ兵の家、川の洗い場、裁判所、異教徒の神殿、大講堂、船の上、牢獄…どんな場所でも伝道の場になりえました。ところが、近年の教会は教会堂を中心としてなされています。また、特別伝道集会やコンサートなど、イベント中心なところがあります。そのため、人を集めることが伝道になっています。専門家がみことばを語り、一般信徒は誘ったりもてなしたりすることです。私たちは、今の教会が聖書から離れていることを自覚する必要があります。

第三の質問です。「イベントプログラムと関係作りの伝道の長所と欠点をそれぞれ上げてください。」イベントプログラムで来た人は、信じても、何か問題があると去って行きます。一方、関係作りで信じた人は、何か問題があっても関係が残っているので、やがて復帰します。松戸の岡野牧師御夫妻が「生活伝道」によって効果を上げています。かつては、イベントプログラムでしたが、教会が潰れたとき、今の伝道法を発見したそうです。幼稚園や小学校で知り合ったお母さん方を対象にします。福音の愛で愛して、興味のある人には聖書の勉強をして導くそうです。同じように導かれた人が、同じように他の人も導くそうです。彼らは「だれでもできる生活伝道」と言っていますが、やっぱり彼らの賜物ではないかと思います。なぜなら人間関係の苦手な人もいるからです。でも、最近は宣教大会に人が集まらなくなり、むしろ人間関係で地道でやる方が効果的なようです。

第四の質問です。「イエス様が福音書で教えてくださった伝道の戦略とは何でしょうか?」イエス様は山の上や街の通りで福音を伝えました。また、人々の家に入って食事をした後で福音を伝えました。イエス様は今で言う、大衆伝道、個人伝道、小グループ伝道など、いろんな方法を用いたと思います。伝道に王道はなく、人々のニーズと自分たちの賜物でやれば良いのです。

 最後に、岡野牧師が書かれた「生活伝道」から引用します。すべての救われた者が、主によって遣わされた家庭、学校、職場、地域社会などの生活の場で、または、その他のところに出て行って隣人を愛し、未信者との間に友達関係をつくり、その友達に福音を伝えて救いに導く伝道の働きを言います。大事なことは、未信者のいる所に出て行くということです。伝統的に行われてきた教会の「来て下さい」という伝道は、いわゆる伝道講演会や伝道礼拝など、さまざまな集会プログラムをとおしてなされる伝道方法です。この場合は立てられた講師が福音を語り、信徒は未信者をその集会場に連れてくるという役割を果たします。一方、関係中心の伝道は、建物の中で行われる限られた期間の、特別なプログラムに期待するのではなく、毎日の生活の場を伝道の現場と考えます。アーメン。結論的に、「生活伝道」という名前を使わなくても、毎日の生活の場が伝道の現場であると思います。まず、父なる神さまに「今日だれに、福音を伝えたら良いでしょうか?相応しい人に出会わせてください」と、聞くべきです。また、相手が聞こうとしなくても、福音の愛で愛して、ただ仕えたら良いと思います。そうすると、「どうして私に親切にしてくれるのですか?」と聞かれるでしょう。そうしたら、「イエス様が私を変えてくださったからです。あなたもどうですか?」と始めたら良いのではないでしょうか?その相手というのが、教会に来ていない夫であり、妻であり、子どもであり、友人であり、会社の同僚だということです。

3.あなたは教会

Ⅰコリント3916「私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。…あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」

第一の質問です。「旧約時代、神殿はエルサレムにありましたが、新約の時代、神殿はどこにありますか?」私たち自身が神殿です。Ⅰコリント3:16「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」

第二の質問です。「もし、私たちが神の神殿であるなら、一定の場所に留まることがみこころでしょうか?」こういう公の集会は、一定の場所が良いかもしれません。でも、私たちが神の神殿であるなら、どんな場所も神の神殿(教会)になりえます。

第三の質問です。「旧約聖書が『エルサレムに来なさい』であれば、新約の教会はどうすべきなのでしょう?」新約聖書は「行きなさい」と言っています。「使徒の働き」をみますと、聖霊によっていろんなところへ派遣され、そこでクリスチャンの群れが作られました。エルサレムから散らされた人がサマリヤに行きました。また、ある人たちはアンテオケに行きました。アンテオケからエペソ教会やコリント教会が生まれました。エペソ教会からコロサイ教会が生まれました。ローマの教会の後、世界中に教会が生まれました。歴史が進み、教団や教派の教会が作られると、あまり動かなくなりました。

 第四の質問です。「あなたが教会であるなら、伝道の場所はどういうところになるでしょうか?」どの場所も伝道の場所になりえます。どの場所も教会になりえるということです。20113月に東日本大震災があり、大きな津波によって2万人近くの人たちが亡くなりました。特に岩手県や宮城県の漁村や港が甚大な被害を受けました。復興と同時に、福音宣教も進められました。現在、教会に全く来そうもない人たちが救われているそうです。あるところは教会堂が建てられましたが、多くは信仰者が点在しています。どういう意味かというと、従来の教会にそういう人たちを呼ぶのは難しいそうです。特に漁師の人たちは文化的な問題があります。それよりもこれまで存在していた人間関係を生かしながら、クリスチャンの群れを作るという試みがなされています。宮城県の北部に築舘というところがあります。その教会の岩浪牧師はもとキックボクサーで、ウェルター級のチャンピオンだったそうです。彼は100キロも離れた被災地に毎日のように出掛け、開拓伝道をしておられます。先生は個人伝道の達人で、100人くらいの人たちが救われたそうです。その中には仮設住宅で今も暮らしている漁師たちもおられます。まだまだ、被災したトラウマと戦っています。でも、教会に来そうもない人たちが福音を信じて救われたのです。でも、その人たちを1箇所に集めるのは不可能です。だから、今も先生が点在しているクリスチャンのところに通っています。従来の教会ではなく、現在集まっている人たちが、教会を作るように願っているそうです。

 8年くらい前、香港からベン・ウォン師がコーチングのため講師として2年間来られました。過激な発言と共に、どでかい花火を打ち上げて行きました。あれから8年経って、「あれは何だったんだ」と思うことがあります。つまり、先生がおっしゃるようにたくさんの教会が生まれませんでした。ある教会の牧師は「10年で40ケの教会を作る」と豪語しましたが、既に取り下げているようです。私も「調子の良いことを言って」と先生を恨んでいるところもあります。しかし、日本人の教会は日本人でやるしかありません。これまでも数えきれないほどの宣教師が日本に来られました。彼らは「日本が文化圏で最も難しい」と口々に言われます。私たちも甘えないで、自分たちで伝道し、教会を建てていくしかありません。しかし、ベン・ウォン師が言われた「教会とは建物ではなく、私たち自身が教会である」ということは聖書的な真理です。先生は「人々を教会に連れてきてはいけません。教会を人々のもとに連れて行きましょう」と言われました。もちろん、人々を教会に連れてきても良いと思います。しかし、それだけだと来る人はかなり限られます。教会の敷居を高くしているわけではありませんが、このままだと95%の人は教会に来ないでしょう。私たちの家族や親族、会社の同僚も一生、教会に行かないのではないでしょうか?このまま福音を聞かないで、滅びに行くのです。陰府に行ったとき、「あの人がクリスチャンだったことは知っています。でも、私に福音を語ってくれませんでしたよ」と言うかもしれません。ですから、私たちは発想の転換が必要です。自分たちこそが教会であり、人々のもとに教会を連れて行くということです。まさしく、動く教会です。

 10年くらい前に天にお帰りになった万代恒雄師が『キリストのセールズマン』という本を書いています。セールズマンは英語的な発音です。私はあまりにも先生のおっしゃることが過激なので、その本をゴミと一緒に捨てました。私は本を捨てるということはほとんどしません。そう言えば、ジョージ・ミューラーの『祈りの秘訣』という本も捨てたことがあります。彼は5万回も祈りが聞かれたそうです。私はその本があると脅迫観念を覚えるので捨てました。最終的には「ジョージ・ミューラーには信仰の賜物があり、一般的ではない」と判断したからです。また、万代恒雄師の『キリストのセールズマン』という本が手元にあると、これまた脅迫観念を覚えます。なぜなら、「牧師はセールスマンのように出て行け」と言うからです。しかし、10年前、私が説教で先生の本から引用している文章を見ました。それを見て、「ああ、先生の言われていることはやはり正しい」と思い、インターネットで古本を再び手に入れました。その本にこのように書かれています。「牧師は、自分は祈っている、聖書を学んでいると言う。しかし、これは当然のことである、自分の仕事なのだから。それは生涯の学びである。それをなまけていては牧師失格になる。しかし、セールズマンは人々の中に入っていかなければならない。牧師は信徒を牧会するという生涯の仕事がある。だからといって、わずかの信徒のお守りをして過ごしていいはずはない。イエスの命令は、すべての国人を弟子とせよとのことだから、出て行って人々に伝えねばならぬ大使命がある。結論的に申すと、クリスチャンはキリストのセールズマン、牧師もそうだということである。牧師は天国の公務員という見方もあるが、むしろ民間のチャレンジ精神が必要だということである。」これは私に対する戒めのことばでありチャレンジです。

 確かに伝道者のように福音を伝える特別の賜物がある人がいます。でも、イエス様は伝道が賜物でなくても、すべてのクリスチャンに「出て行って福音を宣べ伝えよ」と命じておられます。使徒パウロも「宣べ伝える人がいなくて、どうして聞くことができるでしょう」と言っています。日本人がキリストを信じないのは、無知と偏見のゆえです。ギデオンの聖書を一度は手にしたことがあるかもしれませんが、中身をほとんど読んだこともありません。無知と偏見のゆえに「神はいないし、救いもない。人生はこの世限りだ」と信じ込んでいるのです。それも1つの信仰であります。使徒パウロは「返さなければならない負債を負っている」と言いました。つまり、この負債は愛と同じで、この地上に生きている間、払い続けなければならないということです。私たちが生涯において、一番感謝している人はだれでしょうか?私に福音を伝えてくれた人ではないでしょうか?それによって、私が罪赦され、永遠のいのちを得ることができたからです。キリストの福音はその人の永遠を決定するほど重要な知らせです。福音を伝えるしかありません。

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