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2015年11月27日 (金)

マタイによる福音書 マタイ1:1,5:17 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.11.29

 これからしばらくは、マタイによる福音書から連続してメッセージをお届けしたいと思います。この福音書は、伝統的にイエス様の弟子のひとりマタイが書いたと言われています。マタイ、別の名前はレビですが、職業は取税人でした。おそらく宗教的な家庭で生まれたのでしょうが、「そんなの馬鹿らしい」と金儲けに走ったのでしょう。ところが、イエス様に出会って、全く変えられ弟子としての道を歩みました。マタイの活躍は福音書ではほとんど見当たりませんが、この福音書を書いたことが偉大な功績ではないかと思います。彼は職業柄、イエス様の説教を、出納帳に記録するように書き残したことでしょう。イエス様が昇天したのち、アンテオケというところに異邦人の教会が立ちました。おそらく、マタイはそのところでアラム語の記録を、公用語のギリシャ語に編集しなおしたのではないかと思います。マタイ自身はユダヤ人ですが、当時はユダヤ教を背景にした求道者やクリスチャンがたくさんいたことでしょう。きっと、マタイは、そういう人たちのために福音書を書いたのではないかと思います。きょうは、最初のメッセージなので、マタイによる福音書の特徴というべきものを3つあげたいと思います。 

1.系図の書

 新約聖書の1ページを開くと突然カタカナの羅列が目に飛び込んできます。これは日本人にとって1つの躓きになるかもしれません。ある宣教師は「マタイではなく、ヨハネによる福音書から読むように」と勧めます。でも、この系図はユダヤ人にとって重要な意味があります。なぜなら、系図は旧約聖書と新約聖書をつなぎ合わせるチェーンのような役割をしているからです。「系図」というギリシャ語は、「起源、発生、誕生」という意味があります。英語の聖書はgenerationですが、世代とか子孫と訳すことができます。マタイ11「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」とあります。ということは、イエス・キリストは歴史や預言を無視して、突然やってきたのではないということです。ほとんどの新興宗教の教祖は、生まれや系図が謎に包まれています。突然、天から啓示があって、何かの経典を賜り、それを布教するというものです。しかし、マタイは「イエス・キリストは、信仰の父であるアブラハムの子孫であり、ダビデ王の子孫である」と書いています。私たち日本人は、「それがどうしたの?」と、何の感動も覚えないでしょう。昔の人が、文語訳聖書を読みました。「アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟らを生み、ユダ、タマルによってパレスとザラを生み、パレス、エスロンを生み…」と生み疲れたそうです。我々にとっては、カタカナ名が何の意味もないように思えるかもしれません。しかし、旧約聖書に親しんでいたユダヤ人は、「あ、この人知っている。あ、この人も知っている」と感動したと思われます。また、このような書き方は、特別な意味があると理解していたに違いありません。

 まず、系図が一番最初に出てくるところは創世記であります。「○○の歴史」「○○の系図」という言い方が11回出てきます。創世記にはアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてユダのことが記されています。時代が少し進んで、ルツ記にはペレツ、ボアズ、エッサイ、ダビデという名前が出てきます。きわめつけは、歴代誌です。なんと、Ⅰ歴代誌の1章から9章までが系図です。マタイによる福音書1章の系図の何倍もあります。しかし、系図には重要な目的というか、主旨があります。なぜなら系図によって長い歴史をひとまとめにできるからです。ところが、系図をよく見ると各部族がまんべんなく網羅されているかというとそうではありません。実は系図は神さまから選ばれた民とそうでない民の両方が記されています。川にたとえると、本流と支流のように枝分かれしています。聖書の系図は、ユダ族のダビデの子孫、つまりメシヤにたどり着くように記されているということが分かります。そのことを知っていたマタイは、創世記や歴代誌の手法を借りて、イエス・キリストこそが正統な血統のもとで生まれたメシヤだということを書きたかったのです。ですから、私たちには意味のないような系図であっても、血統を大切にしているイスラエル人、またユダヤ人には説得力のある書き出しであったと思われます。

 でも、マタイは本来、イスラエルの系図に入れるべきでない人たちを何人か入れていることも驚きです。それはユダヤ人の常識に全く反していることでした。そのことは来週、詳しくお話ししますので、人物だけをご紹介したいと思います。まず、マタイは系図の中に女性を入れています。普通、旧約聖書には女性の名前は入れません。しかし、マタイ1章にはタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻、マリヤという女性が入れられています。しかも、ラハブとルツは異邦人でした。これはありえないことです。また、旧約聖書を読むと分かりますが、ひどい罪を犯した人たちの名前が堂々と記されています。その家系からメシヤが誕生したということは、悪いニュースでしょうか、それとも良いニュースでしょうか?ユダヤ人は「これは良くない、隠すべきだ」と思ったでしょう。しかし、異邦人や罪びとは、「え?そうなの?」とうれしくなるのではないでしょうか?つまり、イエス・キリストは、女性や異邦人や罪びとと同じ立場に立って下さったということです。これを神学的には、メシヤの同化とか同一化と呼んでいます。むずかしいことはわからなくても、だれでも、どんな生まれでも救われる可能性があるということです。へブル211「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。」主は私たちを救うために、私たちと同じ立場に立ってくださったということです。ハレルヤ!

2.説教の書

 マタイによる福音書の第二の特徴はイエス様の説教あるいは教えが多いということです。しかも、マタイはそれらを時系列ではなく、いくつかのブロックにまとめているということです。その中で一番有名な教えは、山上の説教と呼ばれるものです。マタイ5章、6章、7章に記されています。ロシアの文豪トルストイは「山上の説教に惚れ込み、聖書はこれだけで良い」と言いました。他に、マタイ13章には天国とは何かということがたとえで語られています。イエス様の説教の多くはたとえを用いているということも特徴です。そして、マタイ18章には教会について語っていますが、四つの福音書で「教会」という名前が出ているのはマタイによる福音書のみです。さらにマタイ21章から23章には当時の宗教家との論争が記されています。また、マタイ24章と25章は世の終わりについて語っています。おそらく、イエス様はそれらのことを、別々の場所で語ったのでしょうが、マタイはまとまったブロックにしています。ですから、イエス様の教えを学びたいと思う人には、マタイによる福音書がぴったりであります。ユダヤ人は教えが大好きでした。彼らの中は律法学者やパリサイ人という聖書の専門家がいました。当時の彼らには学校というものがなく、もっぱらラビという教師から個人的に学びました。マタイは「イエス様は、まことの教師、まことのラビである」と言っています。きわめつけとも言える山上の説教の結論に何と書いてあるでしょうか?マタイ728-29「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」アーメン。律法学者やパリサイ人は、「律法にはこう書いてある」と言いました。しかし、イエス様は「しかし、私はあなたがたに言います」とダイレクト言っています。それは、「私が律法の著者である」と示唆しているのではないでしょうか。イエス様は神からの教師であり、聖書の真の意味を人々に教えたのです。

 しかし、イエス様の教えの中で混乱を与えるのは、「天の御国」と言う表現です。マルコによる福音書は「神の国」と言っているのに、マタイは「天国」と言っています。一般に、英語で天国は、heavenです。残念ながらheavenは死んだ人が行くところと誤解されています。テレビでだれか人が死んだら、「あの人は天国に行った」と言います。しかし、それは正しくありません。クリスチャン以外の人であったなら、陰府に行ったと答えるべきでしょう。では、クリスチャンは天国に行ったのかというと、そうではありません。パラダイスに行ったという方が正確です。では、「天の御国」「天国」とは何なのでしょうか?実はユダヤ人は「主の名前をみだりに唱えてはならない」という十戒の第三戒を守っていました。だから、神と言うところを「天」という言葉に置き換えたのです。しかし、「天」は「上」という意味もあるので、誤解が生じてしまったのです。では、本来の意味は何なのでしょうか?天とは神様のことです。また、御国はギリシャ語ではバシレイアーと言って、「王位、王権、支配、王国」という意味があります。二つ合わせると、「神の王的支配」という意味になります。英語はとてもはっきりしていて、kingdom of God「神の王国」と言います。現在、ほとんどの国は民主的な国家であり、人が治めています。民主制や共和制あるいは、君主政になっているでしょう。しかし、神の国は神様が王として治めている王国であることを忘れてはいけません。そうなると、私たち人間に、王様である神様に従うことが当然、求められます。勝手気ままに神の王国の民になることはできません。では、どうしたら神の王国の民となることができるのでしょうか?実は、そのことのためにイエス・キリストが地上に来られたのです。イエス様は神の国がどういうものであるか教え、また、神の国に入るためにはどうしたら良いか教えてくださいました。そして、最終的には自らが十字架にかかり私たちの罪を贖い、神の国の門を開いてくださったのです。私たちはイエス様を救い主、人生の主として信じるときに御国に入り、御国の市民権を持つことができるのです。このことを私たちは「御国の福音、神の国の福音」と呼んでいます。このようにマタイによる福音書は、ユダヤ教を背景にした人たちが、イエス様を信じられるように書かれています。イエス様は天にお帰りになる前に、このように弟子たちに命じました。マタイ28:19 「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け…。」最終的には、ユダヤ人だけではなく、すべての国民が神の御国に入るように招かれているのです。

3.成就の書

 マタイ自身が好んで用いている表現があります。それは「成就するためであった」という書き方です。たとえば、マタイ1章においては、22節にあります。「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。」このような表現は、マタイによる福音書に少なくとも11回出てきます。旧約聖書の別な呼び方は、「律法と預言者」です。当時は旧約聖書が聖書そのものでした。律法と預言者がイエス様によって成就したのです。そうなると、新約聖書はイエス・キリストによって成就された事柄が記されていることになります。ユダヤ人は自分たちが持っている聖書がすべてだと思っていました。しかし、その聖書はメシヤによって成就されることを待っていたのです。もし、ナザレのイエスによって、律法と預言者が成就されるとしたらどうなるでしょうか?もし、そうなるならば、ナザレのイエスこそが長い間イスラエルが待ち望んでいたメシヤ(キリスト)だという証拠になります。たとえば一人の人が10個の預言を全部成就するということは容易なことではありません。世界の歴史の中で、だれからどのように生まれ、どこで生まれ、どんなことをして、どのように死ぬか、どう復活するかということがあらかじめ預言されていて、それらのことを成就したという人物がイエス様以外にいるかどうかということです。書物は違いますが、ルカ福音書で復活されたイエス様がこのように言われました。ルカ2444「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」

 預言の成就ということを考えるとき、私たちの信仰はどのようになるのでしょうか?あるホームページにこのようなことが書かれていました。旧約聖書で約束している、約束のメシヤは本当に新約聖書のイエスなのでしょうか?しかしイエスが誕生する何百年も前に彼について書かれた300に及ぶ預言が、偶然に成就したり意図的に操作されるなど統計的に考えられません。 ピーター・ストナー教授(1888-1980)は1953年までパサデナ・シティー大学の数学、天文学科委員長、1953年-1957年までウェストモント大学、科学科の委員長を務めた教授です。ストナー教授は、300に及ぶメシヤ預言の中の一握りの預言でも一個人に成就することは統計上至難の業だと結論付けています。1944年のストナー教授による著書「科学は語る」の中で調査結果を発表して、このように言いました。「科学は聖書の預言が正確であることを立証している。8つの預言が一個人に成就する確率は1017乗である。300の預言のうち一人の人に48の預言が成就するのは、10157乗の確立である」と言っています。ある別の聖書学者が「イエス・キリストのように聖書の預言を成就した人物を数学の確立で言うとどうなるか」と言いました。たとえば真っ赤に塗った1枚のコインがイエス・キリストだとします。その確立はどうかと言うと、「地球表面にコインを敷きつめ、さらにそれを90センチ厚にして、その中から真っ赤に塗った1枚のコインを探しあてるようなものだ」と言いました。気が遠くなるような話ではないでしょうか?それだけ、この歴史をながめて、ナザレのイエスがキリストであり、他にはいないということが分かります。主イエス・キリストこそが、神様が人類に与えた唯一の救い主であるということです。説教者が講壇からこういうふうに言うと、アメリカの大教会では拍手喝采します。私たちも拍手喝采をいたしましょう。主イエス・キリストこそが、神様が人類に与えた唯一の救い主です。アーメン。

ところで、マタイによる福音書を理解するための鍵の聖句を紹介したいと思います。マタイ517「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」この箇所にも、イエス様が来たのは「律法や預言者を廃棄するためではなく、成就するために来たのです」と書かれています。なぜ、このみことばがそんなに重要なのでしょうか?それはさきほど述べたように、イエス様が旧約聖書に預言されていた唯一のメシヤであり、他にはいないということです。でも、それだけではありません。ある人たちはイエス様が来られた以上は、「旧約聖書は不要である」、もっと言うと「律法は不要である」と言います。なぜなら、旧約聖書や律法はイスラエル、あるいはユダヤ人のためであり異邦人の私たちには関係ないと言うかもしれません。私もその考えや気持ちはわかります。なぜなら、ある教会の牧師やある神学校の教授は、旧約聖書を旧約聖書として教えているからです。言っていることがわかるでしょうか?片方には旧約聖書や律法は不要だという極端があります。また、もう片方には旧約聖書の教えや律法を全部守るべきだという極端です。ある教団は「公の礼拝は安息日である土曜日に守るべきだ」と主張します。また、ある人たちはきよい食べ物ときよくない食べ物を分けています。肉を一切食べない、菜食主義の方がおられます。聖公会やローマ・カトリックでは旧約聖書の制度や儀式が色濃く残っています。私たちは新約聖書の時代に生きていますので、ある律法や儀式は守らなくても良いようになっています。しかし、たとえ旧約聖書であっても、継続的に守らなければならないこともあります。ただし、そこには条件があります。どんな条件でしょうか?その答えが、ただいま読んだマタイ517節にあります。

 もし、私たちがこのことを知っているならば、旧約聖書はすばらしい書物になります。もし、私たちがこのことを知らなかったなら、旧約聖書の律法や儀式にしばられます。全部捨てるか、その奴隷になるかどちらかになります。果たしてバランスのとれた見方、あるいは信仰の立場というのはどのようなものなのでしょうか?このみことばからも分かるようにイエス・キリストは地上に来られて、律法や預言者を全部成就されました。簡単に言うと律法の要求を全部満たしたということです。イエス様は十字架で「すべてが完了した」と叫ばれました。それはどういうことかと言うと、ご自分が律法の要求を満たしたことによって、ご自分に連なる人は律法の要求から解放されるということです。ガラテヤ313-14「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」人が律法によって義とされることを願うなら、全部の律法を落ち度なく守らなくてはなりません。たとえば律法の1つ破っただけなのに、他の全部の律法を破ったことと同じになります。これは私たちには到底無理なことであり、呪いであります。しかし、イエス様はご自分ですべての律法を成就し、さらには私たちのために呪いとなってくださいました。ということはイエス様を信じる者は律法の要求から免れ、神の義をいただくことができるということです。また、へブル人への手紙には、私たちが律法や儀式からどれだけ解放されているか詳しく述べられています。へブル813「神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。」へブル912「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

結論を申し上げます。旧約聖書はキリストを預言する型、影であります。そして、新約聖書はキリストによって預言が成就したことを語っている実体であります。私たちは救われて、新しい契約のうちに生かされている者たちです。だから、旧約聖書の律法や戒め、すべての出来事を読むとき、キリストの贖いを通して読まなければなります。キリストの贖い抜きで読むなら、前に述べた律法的で偏った信仰になるでしょう。もし、あの当時、私たちがイスラエルの民のひとりであったなら命がいくつあっても足りないでしょう。しかし、私たちの罪と不義のためにイエス様は十字架で死なれました。私たちが守り行えない律法を完成し、自ら律法の呪いとなってくださいました。だから、私たちはキリストの贖いを通して、聖書を読むとき、すばらしい教訓となり、すばらしい恵みと変えられるのです。最後に、ヨハネ539を引用してメッセージを終えたいと思います。ヨハネ539「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」聖書は、イエス・キリストを預言しているのです。アーメン。

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