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2015年10月30日 (金)

兵士としての生活 Ⅱテモテ2:3-6 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.11.1

クリスチャンを兵士にたとえるのは間違っているとおっしゃるかもしれません。もちろん、私は、戦争は反対です。ただし、旧約聖書には戦争のシーンがたくさんあります。また、新約聖書が書かれた時代はローマが支配しており、兵士たちがたくさんいました。でも、考えてみますと信仰生活は悪魔との戦いであり、私たちは主の兵士であります。エペソ6章には身に付けるべき武具についても書かれています。もし、司令官がイエス様であり、私たちは兵士であるということを理解するなら、この世でのどうでも良いことから解放されるのではないでしょうか?そして、霊的な勝利を得るために、シンプルで身軽な生活ができると信じます。

1.兵士としての自覚

Ⅱテモテ23-6「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。」

 第一の質問です。「兵役についている人(兵士)はどのようなことに煩わされてはいけないのでしょうか?」はい、日常生活のいろいろな事柄です。具体的に言うなら、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、どこに住むかなどさほど重要ではないということです。異邦人は地上のことばかりに気をとられています。やがて来る御国のことには全く関心もなければ備えもありません。彼らは、すでにサタンの虜になっているので、戦う必要もありません。たとえ、美味しいものを食べて飲んで、流行の服をまとい、御殿に住んだとしても、最後が永遠の滅びだったらどうするでしょうか?

第二の質問です。「兵士はだれを喜ばせるために、この世のものをささげてまで生きているのですか?」はい、徴募した者です。私たちは、司令官であるイエス・キリストを喜ばせるためにこの世のものをささげて生きているのです。もし、このことが分かるなら、まとわりつく欲望や罪から解放されます。韓国やアメリカでは徴兵制度があります。私は徴兵制度には反対ですが、彼らはそこでとても重要な訓練を受けるようです。そこでは、自分の思いを捨てて上官の命令に従うこと、任務を遂行することを学びます。もし、教会が「司令官であるイエス様に従うんだ」と言ったら、「あの教会はカルトだ」と言われるかもしれません。神さまや指導者の権威を否定するクリスチャンは「カルトだ。カルトだ」とブログに書いたりします。

第三の質問です。「競技をする人から学ぶことは何ですか?兵士は何をしてはいけないのですか?」規定に従って競技をするということです。パウロの時代はすでにオリンピック競技があったと思われます。彼らは規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることができません。同じように、兵士として召された人たちは、規律を破ったり、命令に違反してはいけません。恵みしか説かないに教会は、規律とか命令というスパイスも必要です。

第四の質問です。「農夫から学ぶことは何ですか?兵士は何を期待して良いのですか?」労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。同じように、兵士も真っ先に勝利の分け前にあずかることができます。今の人たちは、自分が実際にやらないで映画やゲームで疑似体験しています。そうではなく私たちは汗をかき、ある時は怪我や失敗を重ね、実際に勝利するという経験が必要です。2000年前、イエス様と一緒に神の国がこの世に突入してきました。サタンが追い出され、死人がよみがえり、病人が癒されました。それまでサタンの国は平和でした。しかし、サタンも悪霊も目をさまし、本気になって教会をつぶそうとしています。サタンのターゲットはだれでしょう?自分の国を出ていった人たち、つまりクリスチャンです。私たちは「戦いたくない」と断っても、向こうはそのことを許しません。これはゲームの世界ではなく、神の国とサタンの国の戦いなのです。クリスチャンは好むと好まないに関わらず、両国の戦争の中に巻き込まれているのです。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。イエス様は愛する弟子たちを離れる際に命じられました。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ2819)「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)。これは主の至上命令です。主の命令ならば、私たちにとって選択の余地はありません。イエス様は福音を伝えるという偉大な命令をくださると同時に、偉大な約束をくださいました。それは世の終わりまで、私たちといつも共にいてくださるということです。主は愛する弟子たちを離れましたが、聖霊を通して私たちと共におられます。私たちが使命を果たそうとすれば、共におられるキリストが力を与えてくださるのです。

2.内面の管理

第一の質問です。「あなたは心を守るために、きちんとした境界線を持っていますか?」箴言423「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」境界線とは英語でboundaryと言いまして、元来は、牧畜場の柵とか垣根という意味です。これが、最近、他の人と自分との境界ということで言われるようになりました。カルフォルニアのある公園に80メートル超えるセコイアという木がありました。樹齢400年の巨木が突然倒れました。暴風も火災も洪水も落雷もありませんでした。専門家が調査したところ、動物や虫によるダメージを受けた形跡もありません。しかし調査を続けた専門家たちは、驚くべき結論に達しました。原因はハイカーの通行だったのです。つまり、長年にわたって木の根元を大勢の人が歩いたために根が傷ついてしまったということでした。公園では、古くて大きくて、歴史的にも貴重な木々の回りに囲いを作ったそうです。それをウェイン・コディーロは「聖なる囲い」と呼んでいます。私たちも壊れやすい根を持っています。私たちはこの世に身をさらして生きています。働き過ぎや、責任過多、人との緊張関係があるでしょう。長い年月を通して少しずついのちを縮め、人格をむしばみ、どうあるべきかという核となる部分が壊れてしまうかもしれません。これを守るのが、境界線であります。消極的には活動を制限して休むことであり、積極的にはディボーションなど、いのちの源を確保していくということです。

第二の質問です。「あなたの思いが一新されているでしょうか?」ローマ122「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」聖書には「心の一新」と書いてありますが、正確には思いや考えの一新ということです。このテーマは他の機会で学びますが、簡単に言いますと、ものごとの捉え方、世界観の問題です。私たちの思いの深いところには、思いの核となるものがあります。これをコア世界観とか、コア信念と呼んでいます。この核が脆弱だったり、ダメージを受けていると、外界の出来事に耐えられません。ひどく落ち込んだり、怒りが爆発したり、パニックになってしまいます。もし、未解決のテーマがあるならば、ある出来事には耐えられません。周りの人や状況を変えようとしますが、それは的外れです。問題は外にあるのではなく、自分の思い(世界観)が歪んでいるのです。歪んだ心のレンズを取り替える、これが「心の一新」ということであります。

第三の質問です。「あなたは、悪い感情(怒り、うつ、無力感)をちゃんと管理できていますか?」丸屋真也先生が「結婚生活の構造」ということを教えてくださいました。三角形のトップにくるのが親密さです。その下に不一致管理、コミュニケーション管理があります。そして、一番下のベースは何かというと「精神的、情緒的健全さ」だそうです。簡単に言うと、情緒が安定しているかということです。これが、一番の基礎となることでした。男性だと何かあったらカッとなってお膳をひっくり返すこと。女性だと何かあったらプィとなって3日も口を利かないことです。あなたは、悪い感情(怒り、うつ、無力感)をちゃんと管理できているでしょうか?私も人のことを言えませんが、「ああ、管理するものなんだ」と改めて気が付きました。でも、これは第二の自分の思いが変えられた人ができる事柄であります。コア世界観が変えられたら、だんだんできてきます。

第四の質問です。「人々や悪魔が悪い考えを、あなたの中に吹き入れた場合、どう対処したら良いのでしょう?」Ⅱコリント105「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ…」このところに、「とりこにしてキリストに服従させる」と書いてあります。『思考という名の戦場』という本がありますが、その著者はこのように述べています。「悪魔は巧妙な手口で、私たちの思考に攻撃を挑みます。たとえば、ちょっとガミガミ言いたくなるような状況をあえて作ったりします。他にも、疑惑や疑いを持ったり、恐れや物思いにふけったり、こむずかしい理屈をこねたりするような場面をセッティングするのです。悪魔は周到な巧みな罠により、私たちの思考の中に要塞を築こうと、日夜活動を続けています。」ですから、悪魔が私たちの思いの中に、悪い考えを吹き入れたとき、それを隔離して排除する必要があるのです。それは、まるでパソコンにウィルスが入って来たとき駆除する方法と同じです。

 テキストのまとめの部分をお読みしたします。境界線とは、自分の責任(問題)と他者の責任(問題)を分けることです。私たちは他の人の代わりに決断することはできません。また、神さまが行うことと、自分が行なうべきこととの境界線があるはずです。これを知っていると、思い煩うことなく、心に平安を保つことができます。また、リーダーにとって情緒の安定は欠かすことができません。多くの場合、「怒ってはならない」と自分を抑制します。しかし、未解決な怒りを持っていると、ある日、突然に爆発して大きな被害をもたらすでしょう。感情の前に、出来事をゆがんでとらえる考え(思考)があります。それはどこから来るかと言うと、コア世界観から来ます。世界観とは、ものごとを捉えるめがねのようなものです。コア世界観は多くの場合、幼児期に受けた虐待やトラウマが原因しています。そこが癒されて、新しいコア世界観、つまり新しい思いを持つ必要があります。

3.神さまのものを管理する

ルカ1610「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」Ⅰコリント41-2「こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。」私たちには管理すべきものがたくさんありますが、どのようなものでしょうか?テキストには7つあげられています。

第一は、人生のすべての道の管理(箴言33-9)です。

第二は、救いの福音の管理(Ⅰコリント41-2)です。

第三は、時間の管理(エペソ515-17)です。

第四は、体の管理(ローマ121、Ⅰコリント618-20、Ⅰテサロニケ523)です。

第五は、賜物の管理(Ⅰペテロ410-11、マタイ2514-30)です。

第六は、金銭の管理(マタイ619-24、ローマ137-8、Ⅰテモテ69-10)です。

第七は、生活の管理(Ⅱテサロニケ310-12

私たちは神さまからたくさんのものをゆだねられています。ただ今、取り上げただけでも、7つありました。第一の「人生のすべての道の管理」は分かりづらいかもしれません。「すべての道」とは、「人生における選択や決断」と言い換えても良いでしょう。神さまは私たちに自由意思を与えておられます。あなたはだれかからコントロールされていると思っているかもしれませんが、最終的な選択や決断はあなたの責任です。ある人は過去の暗い出来事に縛られて、新しい生き方ができないと思っているかもしれません。でも、神さまは平等に新しい毎日を与え、新しいチャンスを与え、新しい可能性を与えておられます。それを選び取るのはあなた自身です。でも、聖書はこのように告げています。箴言35-6「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」「どんな場合も神さまを歓迎して、導きを得よ」ということです。たとえ、選択や決断を間違えるようなことがあっても、神様は車のナビのように目的地に導いてくださいます。

テキストのまとめをお読みいたします。自己管理というのは、とても重要なテーマです。生まれつき几帳面な人もいれば、生まれつきずぼらな人もいます。神さまは、この地上のことで、いかに忠実であるかをご覧になっておられます。ルカ1612「あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。」マタイ2521「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」また、管理するとは、ただ保管するという意味ではなく、それを用いて商売する(増やす)ということでもあります。

4.神からの使命を果たす

使徒2617-18「わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」Ⅱテモテ47-8「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」

第一の質問です。「パウロが召された使命は何でしたか?」ユダヤ人と異邦人宣教です。パウロにとっては、特に、異邦人世界に福音を宣べ伝え、教会を設立することでした。パウロは救われた瞬間、自分の使命は何かということがイエス様から知らされました。おそらく、私たちも救われてまもなく、自分の使命は何か悟らされたのではないでしょうか?私は信仰を分かりやすく伝える働きをしたいという願いが起こりました。神学校にいたとき、ある同級生は漫画で福音を伝えたいと言っていました。回心と同時に何らかのスイッチが入るのかもしれません。

第二の質問です。「人々が救われるためには、どのようなことが必要なのですか?」彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせるということです。私たちは霊的に盲目で神さまのことが全くわかりません。聖書も読んでもちんぷんかんぷんでした。だから、聖霊によって霊的な目が開かれる必要があります。その次に、信じた人を聖霊が暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせてくださるのです。ありがたいことです。

第三の質問です。「イエス様を信じて得られる3つのものとは何でしょう?」第一は、サタンの支配から神に立ち返らせていただくこと。第二は罪の赦しを得ること。第三は聖徒たちと共に御国を受け継がせていただくことです。不思議なことに、信じて洗礼を受けてから、ああ、私は暗やみの中で、サタンの支配を受けていたんだとわかります。

第四の質問です。「パウロは自分の道を走り終えましたが、あなたの走るべき道とは何ですか?」神さまはお一人お一人に固有な計画を持っておられます。私たちはこの世において仕事や家庭、学業における計画や目的があるかもしれません。それらと同時に、あるいは並行して永遠につながる神さまのための計画や目標があると信じます。仕事をしながら、家庭を守りながら、あるいは学業に励みながら、同時に果たすべき目標があるのではないでしょうか?そういう目標は退職してからも、子育てを終えたとしても全く影響されません。もちろん山登りとか、魚釣りとか、骨董収集とか趣味の世界を続けていても全くかまいません。しかし、目標が一人でも多くの人に福音を伝えるということになるならば、そういう趣味や活動で出会う人がターゲットになるでしょう。むしろ、それは良い機会になります。霊的な目標、神の国に関する目標ということをぜひ、お考えください。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。兵士にとっては、司令官から与えられた使命を果たすことが第一の目的です。使徒パウロは、サタンの支配のもとにある異邦人たちを神のもとに立ち返らせました。まるで、それは捕虜を奪回するような働きです。だから、パウロは晩年に、「私は勇敢に戦い…」と言ったのだと思います。また、パウロは自分が到着すべきゴールを知っていました。私たちも何のために召され、何を果たすべきなのか知る必要があります。何をするにしても、私たちは最初から始めるでしょうか?何をするにしても、実は終わりから始めています。終わりがあって、それから最初に帰ります。まず初めに、最終的にどうなるかという青写真が必要です。「終わりから始める」という意味は分かるでしょうか?「終わり」というのは、完成したもの、青写真であります。建物や道路も、計画なしにやるわけではありません。工事をするためには設計図や完成図があります。そこに向かって、工事を進めていきます。私たちの人生も同じで、最終的な青写真は何なのかを神さまから示していただく必要があると思います。使徒パウロのようにヨーロッパに福音を伝えるということでなくても結構です。中国に聖書を運ぶ活動をしておられる方もいます。この間、来られた、石塚兄姉の目標は、家庭を解放して集会も持つことでした。2つの大学が近くにあり、若者たちが食事と交わりにつられて来るようです。


 ある兄弟は退職後、お年寄りの送迎のボランティアをしているそうです。ただ送迎をしているのではなく、神さまの愛で接しています。兄弟の車に乗られるお年寄りが励ましや希望をいただいているのではないでしょうか?賛美やゴスペルも良いですし、教会の花壇を担当することも良いでしょう。誕生日の絵手紙を書く方もおられます。神さまは必ず、その人に思いと願いを与えておられると信じます。どうぞ、大それたことだと思わないで、できることからコツコツとなさることが大切だと思います。ことわざに「老兵は去るべし」というのがあります。私たち天国人には、そういうことばはありません。召されるまで現職の兵士です。もし体が動かなくなったら、祈りの奉仕があります。祈りは霊的なミサイルです。悪魔が最も恐れるのは祈りだからです。私たちは天国に行くまで、休むことはできません。主にあって一生現役であり、最前線にいるのです。

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2015年10月23日 (金)

能力付与 Ⅱテモテ2:2 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.9.27

 連合艦隊司令長官の山本五十六の名言を紹介いたします。「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、ほめてやらねば人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」彼こそが能力付与を率先して行った模範的な人物であります。「能力付与」は英語で、empoweringと言いますが、ぴったりな訳とは言えないかもしれません。最近はこのようなビジネス用語が増えて困ったものです。分かりやすい言葉で言うなら「その人が自分でできるように育てる」ということだと思います。

1.能力付与とは?

 エペソ411,12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり…」Ⅱテモテ22「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」

第一の質問です。「教会に牧師(リーダー)が与えられているのは何のためですか?」はい、それは聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。「整える」の元の意味は、「装備する、適任ならしめる」ということです。

第二の質問。「だれが、奉仕の働きをする主役なのでしょう?」はい、聖徒たちです。聖徒とはすべてのクリスチャンです。たとえて言うなら、ピッチでプレーするサッカーの選手たちです。多くの場合、プレーをするのが牧師や少数の献身者です。そして聖徒たちは応援席で「がんばれよ!献金しているんだから」とポップコーンを食べています。しかし、それは逆であり、みなさんが第一線でゲームをするプレイヤーであり主役なのです。「あんたが主役!」

第三の質問。「そのために、牧師(リーダー)は何をするべきなのでしょう?」聖徒たちを「整える」あるいは「建て上げる」ということです。

第四の質問。「使徒パウロは、テモテに何をしなさいと命じていますか?」「私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい」と命じています。この第二テモテ22は、ナビゲーターという学生伝道の団体では、重要なテーマになっています。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。能力付与はエンパワリング(empowering)とも呼ばれています。その人を育てて、だんだん働きを任せていくということです。コーチングと言い換えても良いかもしれません。教会の基本概念は、万人祭司です。だれもが、主に仕えているなら、効果的な働きをなす教会になります。牧師やリーダーたちがプロであればあるほど、教会員たちは「自分にはできない」と思って、働きに参加しなくなります。牧師やリーダーがメンバーのために何でもしてあげることが忠実で理想的なリーダーではありません。良いリーダーとは、自分ですべてのことをせず、育てながら、1つ1つメンバーに任せていく人です。

私は聖書から、あるいは自分が学んできたことから、「指導者は聖徒を整えて、彼らに奉仕の働きをさせることです」と言えます。しかし、「あなたはどうなのか?それをしてきたのか?」と問われるなら、穴があったら入りたいくらいです。私が育った教会は一部の献身者にはこのような訓練があったかもしれません。しかし、いわゆる一般信徒には「礼拝や祈祷会を守って、自分があった奉仕をすれば良いですよ」という感じでした。私はそれに反発して、この教会で弟子訓練とか、セル、コーチングを導入して「聖徒を整えるんだ」とやってきました。しかし、実際はどうかというと、100点満点の45点くらいかもしれません。でも、聖書では聖徒訓練が大切であると言っています。ですから、このテーマを避けて通ることはできません。私は失敗、挫折、無気力…いろんなところを通りましたが、今、「能力付与とはこういうことではないか」とはっきり言えることがあります。人には自分が召された得意分野というものがあり、それをだれかに伝授していくという傾向があるということです。たとえば教会には、五職と呼ばれる指導者がいます。使徒は使徒的な人を育てたいし、預言者は預言者を、伝道者は伝道者を、牧師は牧師を、教師は教師を育てたいと思うということです。つまり、自分と同じような賜物がある人に、自分がもっている知識や技術を教えたいということです。たとえばピアノの奏楽の人は、同じようなピアノの奏楽者を育てたいでしょう。お花の人はお花を、フラの人はフラを、ケーキを作る人はケーキを作りたい人を、歌を歌う人は歌を歌いたい人を教えたいのです。つまり、キリストの教会にはいろんな賜物があるので、一人の指導者では間に合わないということです。もちろん、牧師や教師は聖書の知識や霊的事柄を指導することはできます。しかし、これは奉仕の基本的な事柄であって、細かい所までは及ばないということです。そう考えると、教会の働きというのは多種多様な賜物が集まっているということです。そして、そういう多種多様な働きによって教会が建て上げられていくということです。もし、牧師ができる能力付与があるとしたら、聖書のみことばに土台した信仰生活ができるように励ましたり、教えるということだと思います。その次は、「自分の賜物にあった奉仕があったら、どうぞやってください」と励ますことです。そのように牧師の働きを限定していくなら、100点満点の70点はいくのではないかと思います。アーメン。

2.主イエスに見られる能力付与

ルカ101-5「その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。」ルカ1017-20「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』イエスは言われた。『わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』」

第一の質問。「イエス様が12人、あるいは70人を町や村へ遣わした目的は何でしょう?」「ご自分の働きを拡大させるため。また、さらに多くの収穫を得るためです。」最初、イエス様はご自分のお望みになる者たちを呼び寄せました。そして、彼らを身近に置いて、教えたり訓練しました。そして、ある程度たってから、彼らを町や村へ遣わしました。今でいうなら、短期宣教による実地訓練だと思います。彼らはあるところは上手く行ったでしょうが、あるところは上手くいかなかったと思います。フィードバックと改良を重ねると、さらに多くの収穫を得ることができるでしょう。

第二の質問。「彼らは、イエス様にどのようなことを報告したでしょうか?」「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」彼らの短期宣教はうまくいったようです。「イエス様の御名がこんなにも力があるのか」と驚いたことでしょう。

 第三の質問。「どうして、彼らが悪霊を追い出しても害を受けないで帰ってくることができたのでしょう?」「そうです。イエス様が蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けていたからです。」スター・ウォーズという映画では、「フォースが共にあるように」と言っています。フォースは「自然界が持つ力」という意味ですから、少し、ニューエィジ的であります。正しくは、神としての権威を持っておられるイエス様が、私たちにその権威を授けてくださるということです。イエス様は「行け!」と命令だけを与える方ではありません。必要な権威や力を一緒に与えてくださいます。40-50年くらい前、インドネシヤやタイに日本から宣教師が行きました。彼らは日本の神学校で「現代は、悪霊はいない。病の癒しや奇跡も起こらない」と教えられたそうです。ところが、現地では祈祷師や魔術師と戦いがあります。キリスト教の僧侶は悪霊を追い出すこともできないのか?」と言われます。だから、半分くらいの人たちは「こんなところじゃ命がいくつあっても足りない」と帰って来たそうです。タイの森本宣教師がおそるおそる「イエスの御名によって、出て行け!」と命じました。すると、その人がばったり倒れ、その後、解放されたそうです。それから自信がついたということです。

第四の質問。「有頂天な弟子たちに対して、イエス様は何とおっしゃいましたか?」「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」と言われました。このところだけ読むと、的外れのような感じがします。なぜ、イエス様は弟子たちに「よくやったなー」とほめないで、「ただ、天に名が書き記されていることを喜べ」とおっしゃったのでしょうか?ビギナーズラックという「初心者が持っている幸運」ということばがあります。釣りとか賭け事にあるようです。弟子たちがもし、「悪霊なんかこわくない、何でもできる」と思ったらどうでしょうか?だれしもあることですが、自分の存在よりも、何かできることに重点を置いたらどうでしょうか?パフォーマンス指向になり、何か大きなこと、何か不思議なことが起こらないと満足しなくなるでしょう。そのためいつの間にか、鬱になったり、燃え尽きることがあります。旧約聖書のエリヤがそうでした。何かできるということよりも、「主にあって自分がどういう存在なのか」というところが自分の立ち位置でなければなりません。「天に名が書き記されている」という意味は、「イエス様を信じただけで救われたんだ。自分の行ないではない、恵みんだ」ということです。ミニストリーや奉仕はすばらしいですが、それらはこの地上だけのことです。しかし、天に名が書き記されているという救いは永遠に続くものだからです。これを知っていれば、「行ないの罠」にひっかかることはありません。

 テキストのまとめの部分をお読みしたします。イエス様は最初、「私について来なさい」と弟子たちを召しました。その後、12弟子を選びました。「それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった」(マルコ314,15。イエス様はご自分の行く所へ、弟子たちを伴い、「教え、福音宣教、癒し」の働きを見せました。その後、二人一組にして短期間の宣教旅行に遣わしました(マルコ67-12)。五千人の給食では、弟子たちが群衆に食べ物を与えることを期待していました。それができないので、イエス様ご自身が5つのパンと2匹の魚を祝福し、それを弟子たちに与え、弟子たちが群衆に配りました。イエス様は他に70人の弟子たちも訓練しました。やがて昇天した後、彼らにご自分の働きを任せ、継続拡大させるためです(マタイ2816-20)。イエス様ははじめから、ご自分の働きを任せるために弟子たちを召して、訓練していたということは驚くべきことであります。

3.バルナバに見る能力付与

 使徒1122-26「この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」

第一の質問。「バルナバは救われたばかりの人たちを見て、どのように対応したでしょうか?」「神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているように」と励ました。普通の人はやきもちとか嫉妬をいだくものですが、バルナバは素直に主の恵みを見て喜べる人でありました。エルサレム教会がバルナバを遣わしたのは、当たっていました。

 第二の質問。「バルナバはどのようなリーダーでしょうか?「りっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった」と記されています。でも、バルナバは当初は信徒リーダーでありましたが、あとで使徒と呼ばれています。彼は、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているように励ましました。そうすると大勢の人が主に導かれました。

第三の質問。「バルナバは、教会に対して必要を覚え、何をしたでしょうか?」彼らを励まし、教えました。ところが、人数が多くなり自分一人では指導できなくなりました。また、信仰に関して体系的に教える教師も必要だと考えたでしょう。そこで、サウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来ました。サウロは10年も生まれ故郷のタルソでくすぶっていました。そのままサウロを埋もらせてしまったら、教会の大損失になります。バルナバはサウロを連れて来て、まさしく能力付与をしたのであります。その後、サウロはパウロになり、新約聖書の13の手紙を書く大使徒になりました。

第四の質問。「バルナバとサウロが1年間、指導したのち、教会はどのようになりましたか?」「アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになりました。」それまでは、「道の者」と呼ばれていましたが、アンテオケではじめて「クリスチャン」と呼ばれるようになったのです。それは、「キリスト党」という結社みたいな意味ですが、あんまり熱心なので、世の人たちがそのように呼んだのでしょう。しかし、教会は「それでも、結構とばかり」、その呼び方を受け入れたのでしょう。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。エルサレム教会がサウロを受け入れるのをためらっていたとき、バルナバがサウロを弁護して、彼らの恐れを取り除きました(使徒927)。バルナバはサウロ、またの名をパウロを世に出した育ての親とも言えます。なぜなら、タルソに戻っていたパウロをリクルートし、第一線に復帰させたからです。その後、パウロはアンテオケ教会から派遣され、小アジヤからギリシヤやローマまで宣教した大使徒になりました。バルナバはある時から、パウロが主導権を取るようになっても、嫉妬しませんでした。「バルナバする」とは、「コーチングする」と言い換えても良いことばです。

4.能力を付与する人

 リーダーは何らかの権威や権力を持っています。もし、それを正しく用いるならば、下の人たちは自分の能力を伸び伸びと発揮することができるでしょう。逆に、リーダーがその権威や権力を自分のためだけに使うなら、下の人は利用されていると感じるでしょう。一番困るのは、リーダーなのに権威や権力を使わないために、下の人が路頭に迷っている状態です。私は土木現場を5つぐらい回ったので、どのような上司がすばらしい上司なのか観察することができました。最初の現場はとても良いところでした。所長はとても楽天的でした。主任は頭の切れる人で、計画を立て、適材適所に人を派遣しました。失敗した時「大丈夫だ、心配するな」と言ってくれました。とてもやりがいのある現場でした。二番目の現場はとても悪いところでした。所長がとてもケチで、社員と下請けを一緒に扱いました。私のことをみんなの前で責めました。その下の主任は所長の言いなりで、自分の権威や権力を用いませんでした。そのため、現場に秩序とか働く喜びがありませんでした。もう一人の主任は、失敗を恐れる神経質人でした。私は「これで良いのだろうか?」と恐る恐る仕事をしていました。

 ベン・ウォン師はこの世には4種類のリーダーがいると教えてくださいました。第一は、権威や権力を放棄する人です。本来はリーダーなのに、リーダーであることを拒む人です。私の父は、父としての役目を果たしませんでした。経済的に家庭をささえないばかりか、酒を飲んで妻や私たちをたたきました。家庭に秩序というものがなくて、子どもたち同志も争いが絶えませんでした。父親は家庭を正しく治めるために、権威や権力があると確信します。第二は、権威や権力をふりかざす暴君のようなリーダーです。「言うことをきかなかったら首にするぞ!」と下の人たちを脅します。まさしく、パワハラであります。第三は、人を操作したり、利用するリーダーです。「一生懸命働けば、給与を上げてやるよ」と言います。何ができるかということで、その人の価値が決まります。第四は、尊敬を勝ち取るリーダーです。つまり、下の者が「あなただったら権威と権力を持って良いですよ。私たちのためにぞんぶんに使ってください」と言ってくれます。

これはイエス様やパウロが使った権威です。パウロはローマに行く前に、エペソの長老たちを集めて最後のことばを与えました。使徒2019-21「私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」パウロは涙を流し、謙遜に仕え、益になることは全部教えました。パウロはいったいどこからそれを学んだのでしょうか?使徒2035「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」私たちにも、程度の差はあれ、能力を付与すべき人たちがいるのではないでしょうか?それは子どもであるかもしれないし、会社の部下、教会の奉仕、あるいは何らかの後継者かもしれません。ケチで利己的な人は、自分が得た技術や知識を人にあげません。なぜなら、追い越されてしまうからです。この世に名人や達人と言われる人がいますが、奥義だけは残しておくそうです。弟子に追い越されないためです。私たちは自分で得たものは1つもありません。みんな神さまからいただいたものです。もし、自分が得た技術や知識によって人々が生きるなら何と幸いでしょうか。イエス様は「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われました。もし、私たちが権威や権力がいくらかでもあるなら、それを人々を生かすために正しく用いたいと思います。

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2015年10月16日 (金)

セル集会を導く Ⅰヨハネ1:3、エペソ2:16-18 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.10.18

 セルチャーチ・ムーブメントというのが今から20年くらい前に、ラルフ・ネイバーと言う人によって紹介されました。世界ではCCMN、日本ではJCMNという団体があります。メンバーの私が言うもの何ですが、ムーブメントは運動とか流れと言う意味ですから、いつまでも続かないと思います。今ではセルチャーチと言わないで、新約聖書的教会とか、共同体というふうに言い換えています。でも、このムーブメントは「教会の本質は何か?」ということを教えてくれました。教会の本質は建物ではなく、クリスチャンなんだということです。牧師がいることには越したことがありませんが、最低限、イエス様とクリスチャンの関係があれば良いということです。

1.交わり(分かち合い)

Ⅰヨハネ13「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」エペソ216-18「また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」

第一の質問「私たちの交わりは、だれとの交わりが基礎になっていますか?」交わりはギリシャ語でコイノーニアと言いますが、「共有している」「関わる」という動詞から来ています。クリスチャンというのは神さまの愛や神さまの命を共有している関係なんだということです。でも、私たちの交わりの基礎は何でしょうか。それは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。御父と御子イエス・キリストは三位一体の完全な交わりです。本来なら、罪がある被造物がその中に入ることは決してできません。でも、キリストの血によって贖われた者が、御父と御子との交わりの中に加えてもらえるということは何と幸いでしょうか。

第二の質問「私たちの関係を妨げるものは何でしょうか?」私たちは神さまやイエス様と交わっている分には何も問題がありません。神さまの愛を独り占めできるし、神さまの愛の中に安らぐことができるでしょう。しかし、教会は聖徒の交わり、つまりクリスチャン同志の交わりでもあります。私たちが横を向くとどうなるでしょうか?民族、男女、生まれや育ちの違いによって敵意が頭をもたげて来ます。表面的には愛する兄弟姉妹ですが、一皮むくと考えや好みの違いが見えてきます。5メートルくらい離れていたときは分かりません。しかし、会話をしたり、一緒に活動すると、いろんなものが見えてきます。お互いの心の傷があばかれて、衝突し、汚したり汚されたりする危険性があります。データーを取ったわけではありませんが、気兼ねなく親しく交われる人というのは、5人に1人くらいではないでしょうか?他の人たちは神さまの愛と恵みなしでは交わることができないということです。

第三の質問。「神さまの解決は何ですか?」エペソ人への手紙2章にその解決が記されています。「両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させた。敵意はキリストの十字架によって葬り去られた」と書かれています。ここで言われている両者とはユダヤ人と異邦人です。初代教会において律法を重んじるユダヤ人と合理的な異邦人の衝突がありました。今で言うならば、伝統やきまりを重んじるクリスチャンと自由でフランクなクリスチャンであります。さらに私たちの中には傷や偏見があり、ある人は好むけれど、ある人は好まないという軋轢があります。アダムが罪を犯してから、神さまとの関係が壊れ、そして人との関係も壊れてしまいました。しかし、イエス様が十字架によって敵意の壁を壊してくださったことを発見しなければなりません。

第四の質問。「セルグループの交わりにおいて、もっと分かち合うことは何でしょう?」かつて当教会ではいわゆるセルグループが10個くらいありました。しかし、現在残っているのは1,2個です。その代り、ゴスペルとかフラ、賛美チーム、CS、勉強会、お花、受付など、活動のグループとして現存しています。たとえ奉仕活動が目的であっても、必ずそこには交わりが存在します。あるときは、みことばを分かち合ったり、自分の悩みを分かち合ったりすることがあるでしょう?最低限、祈りではじまり、祈りで終わっているのではないでしょうか?名目はともかく、様々な小グループは存在しているということです。実務的な話し合いは簡単にできます。ある場合は聖書の知識や自分の考えを分かち合うこともできるでしょう。しかし、もっと必要なのは心の中にあるものです。真の交わりは、動機、心の傷、心構えを分かち合うということです。そうすると、より親密になり、互いに建て上げ合うことができるようになります。

まとめの部分をお読みいたします。どんな呼び方でも構いませんが、一番重要なことは親しく交わることによって建て上げ合うことです。偽物の共同体は開かれた関係ではありません。なぜなら、お互いの前に防御壁(拒絶の壁)が築かれているからです。私たちは自分をオープンにすることを恐れています。そうすると、聖霊が私たちの間を自由に動くことができません。私たちは線よりも上にあるもの(行動、思考、感情)しか話し合いません。笑ったり、涙するときがあっても、水面下に何かが隠されています。それらは私たちの人生を動かしているものです。隠されている3つのもの(動機、心の傷、心構え)が変わらなければ、私たちの人生も変わりません。セミナーやキャンプに行ったとしても、クリスチャンの変化は一時的です。永続的な変化を期待したいなら、私たち自身を開くべきです。

2.集会の目的と方向性

 Ⅰテサロニケ511「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。コロサイ316「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」当教会では、このような礼拝による集会が行われています。こういう場合は、説教者が一方的にお話しをして、みなさんは聞くというスタイルになっています。聖書ではこのような公の集会の他に、もっと小さな集会があったようです。「互いに」という表現が度々出て来ますが、50人だと無理でしょう?おそらく、2人以上、10人未満ではないかと思います。イエス様は12人の弟子たちと交わり、時には、その中から3人だけを選んだことがありました。初代教会の人たちは、週一度宮で礼拝を守りましたが、平日は家々で集まりを持っていたようです。これからの質問は、礼拝以外に、小さな集会があると仮定して進めたいと思います。第一の質問。「セルの集会ではどのようなことを行いますか?」とあります。パウロは、テサロニケの教会に「互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」と命じています。また、コロサイの教会には「知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、いろんな賛美をしなさい」と命じています。そこでは知識だけを分かち合うのではありません。もっと、心の内側を分かち合うべきです。そのことによって、互いに励まし合い、互いに徳を高め合うことができるからです。こういう交わりは女性はできますが、男性はなかなかできません。男性は仕事など実務的な話はできますが、心の中を分かち合うことには慣れていません。裃(かみしも)をなかなか脱ぐことができないのです。その点、女性は問題なく、自分の内側を分かち合うことができます。

 第二の質問です。「どのように分かち合ったら、他の人の徳が高められるのでしょうか?」コロサイ3章にはキリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え」と書いてあります。導入として、食べ物やスポーツのことを話しても良いでしょう。でも、そればかりだとこの世の交わりと何ら変わらなくなります。できれば、神さまから与えられたみことばを体験的に話すと良いです。人に教えるのではなくて、自分が教えられたこと、あるいは自分が恵まれたことを話せば良いのです。私もいくつかの牧師たちの集まりに加わっています。しかし、牧師の癖と言いましょうか、教えたがる人がいっぱいいます。話し始めたら、ワンクール20分間、話さないと止まらない人もいます。私がよく司会をしますが、本当に忍耐が必要です。人の話を途中で止めるのは勇気がいりますが、傍若無人でやっています。

第三の質問。「集会の方向性はどのようになされるべきでしょうか?」勉強会などは、教える人がいっぱい話しても良いでしょう。しかし、その他の集会ではリーダーだけではなく、各メンバーからも発言がなされるべきです。リーダーは話題がそれたり、攻撃するような発言に対して交通整理する必要があります。私はこういう集会のリーダーに向いていないようです。私が話題をそらしたり、攻撃するような発言をする張本人だからです。私自身がセル集会に向いていないとしたら、根本的に問題があります。私は、やはり説教だけしていれば良いのかもしれません。

第四の質問。「集会において、守るべきこととは何でしょうか?」このことはとても大事です。もし、以下のようなきまりがないと、表面的なことしか話さなくなるでしょう。最低限、3つありあります。それは、コントロールしない、さばかない、他言しないということです。教会によっては「牧師に報告しなさい」というところもありますが、私は反対です。あるホームページには「セルチャーチはカルトだ」みたいに書かれていました。それは行き過ぎていますが、セルグループを教会成長のためにやったり、人々をコントロールするために使うのは邪道です。日本では「5人組」という制度がありましたが、互いを見張って密告する恐ろしい関係です。小グループはきわめて安全な場所でなければなりません。ですから、そこの集会で話し合われたことは、他の人には話さないと言うことが重要です。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。セル集会では、説教調ではなく、「私はこのようなことを教えられました」と自分が学んだことを分かち合うべきです。知識よりも、むしろ、自分がやってみてどうだったか、適用面を分かち合うとグループに力を与えます。集会の方向性は、だれかが一人答えるというよりも、お互いに答え合う方が、みんなが参加できます。しかし、中にはほとんど話さない無口な人もいますので、リーダーは答えやすい質問を投げかける必要があります。集会において守るべきことは、その場にいない人のことを批判したり、噂話をしないということです。日本人は批判されることが多いので、セル集会では小さなことでも励ましながら、お互いを建て上げることが重要です。

3.リーダーの心得

 ピリピ22-3「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」ヤコブ119「しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい」。自分はリーダーでないと思う人も是非、聞いてください。なぜなら、私たちは家庭やどこかの場所で何等かのリーダーであることは間違いありません。以下のことは、PTAやサークルのリーダーにも適用可能です。

第一の質問。「リーダーとして、どういう態度が良くないでしょうか?」ピリピ2章には「何事でも自己中心や虚栄からすることなく」と書かれています。この世においては、自己中心や虚栄心が当たり前になっています。しかし、私たちは「自己中心や虚栄」からではなく、動機がきよめられている必要があります。

第二の質問。「リーダーとして、大切な心構えとは何でしょう?」「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思う」ということです。「へりくだり」、ことばでは5つですが、これが簡単ではありません。立場とか権威を持つとなおさらです。イエス様は最も、自らを誇ることができたお方ですが、天から降りて、私たちのしもべになってくださいました。

第三の質問。「自分が語ることよりも、もっと重要なことは何ですか?」それは「聞くこと」です。聞くということがいかに難しいことでしょうか?ある人は耳が2つで、口は1つであると言いました。テレビで何かの討論会を見るときがありますが、相手の発言を全く聞いていません。ただ、こちらの考えをぶちまけるだけであります。何か、聞く側にまわるのが、負けみたいな感じがするのでしょうか?コミュニケーションの最も重要なことは、聞くということです。あるリーダーは話したくて仕方がないかもしれません。そういう人は、こういう集会のリーダーにならないで、教師か説教者になってください。こういう集会のリーダーで最も大切な資質は、人の話を聞くということです。もし、夫婦の間で、親子の間で、相手の言うことに耳を傾けるなら多くの問題が解決することでしょう。もしかしたら、相手の言うことを聞くということは、相手を愛するという具体的な現れかもしれません。でも、同じ話を3回聞けるでしょうか?まとまりのない話を20分聞けるでしょうか?でも、愛とは聞くことです。なんてパワフルでしょうか!

第四の質問。「問題を起す人や、極端に傷を負っている人にはどう対処したら良いでしょう?」これは実際に良くある事です。これで、集会がつぶれてしまうこともあります。何か怒りを持っていて、だれかにぶちまけなければ気が済まない人がいます。以前、似たような人から傷つけられた人がその集会にいたらどうでしょうか?顔も話し方もそっくりです。そうすると、怨念晴らしをするかもしれせん。李光雨師が「怨念晴らし」ということを教えてくださいました。「教会が怨念晴らしのステージになることがあるんだ」ということを知っているのと、知らないのとでは大きな違いがあります。たとえ言っていることが正義であっても、怨念晴らしをしている場合があります。そういう場合、リーダーはその人を一時的にセル集会から離す必要があります。もし、可能ならば、リーダーはその人の傷が癒されるまで個人的に交わったら良いでしょう。聖書にバルナバという人物が出て来ます。以前のパウロは教会を迫害する危険な人物でした。回心後、弟子たちのところに行きましたが、だれも彼を信じませんでした。ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行って、それまでのことを説明してあげました。そういうバルナバのような人物が必要なのです。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。リーダーは率先して、心を開き、自分の弱さや問題を分かちあうべきです。そうすると、他の人も安心して自分の内側のことを話すことができるでしょう。その場におられる聖霊さまが、解決を持っておられることを期待しましょう。リーダーは、会話を作為的にコントロールすべきではありませんが、グループを守ることもしなければなりません。会話を独占する人や他の人を傷つけるような発言をする人には対処しなければなりません。極端に傷を負っている人は、サポートグループなどに入れて、特別なケアーをする必要があるでしょう。リーダー自身が関係のモデルであり、また常に学び続ける姿勢が必要です。

4.互いの関係

 私は25歳のとき教会に来て、イエス様を信じて洗礼を受けました。最初は私を導いてくれた先輩とずっと一緒に来ていました。やがて青年会というところに所属しました。当時の教会は、年齢別にいろんな会があり、独身だったので自動的に青年会に加わりました。当時の私は信仰に燃えていましたが、そうでない人がたくさんいて驚きました。その後、私は亀有教会で牧師になり、「うすっぺらい関係ではなく、もっと真実な交わりができるはずだ」と考えました。1996年からすべての家庭集会や部会をやめて、全部セルグループに切り替えました。最初は機能しているように思えましたが、いわゆる「セルのいのち」というものは続きませんでした。セルというのは、生物の細胞という意味で1年もすれば倍に増殖するはずだと思っていましたが、そうではありませんでした。そのために心の癒しや解放、エリヤハウスも学びました。結論的に言って、ラルフ・ネイバーが言うセルチャーチは難しかったなーと思います。私自身が理想の関係を求めながらも、傷や恐れがありました。当教会の人たちも、心を割っていろんなことを話せるグループを求めていると思います。でも、日本の文化もあるかもしれませんが、聖書が求める兄弟姉妹の関係まで至らないところがあります。そうするときょうのメッセージは絵に描いた餅のようになります。では、どのようにしたら良いのでしょうか?いきなり理想の関係を求めるのではなく、主にある数人の友を得るところから始めたらどうでしょうか?しかし、その関係は閉鎖的ではなく、オープンで広がりのあるものが良いと思います。また、お互いの関係も、挨拶程度から心の傷を分かち合えるまで、いろんなレベルがあって良いのではないでしょうか?浅い順の1から5段階あるとしたら、せめて3から4段階の人を数人見つけたら良いと思います。心の深いところまで全部分かち合える人というのはそんなにいないと思います。聖書は「小グループを持て」とか、「小グループに所属しなさい」とは書いていません。書いてあるのは「互いに励まし」「互いに祈り」「互いに助け」「互いに愛し」「互いに赦し」「互いに教え」「互いに戒め」という「互いに」がほとんどです。「互いに」と言う意味は、共依存ではなく、相互依存の健全な関係です。つまり、コントロールしないで相手の意志を重んじながら持つ交わりです。たまに信仰年数の多い人が、来たばかりの人に何か要求する場合があると思いますが、それはよくありません。こっちは軽い気持ちで言っているのに、相手は重くうけとめてしまうからです。

 ある牧師が「ほっとする教会でありたい」と言っていました。その先生もいろんなことを試してきて「先生、また新しいことするんですか」と度々言われたそうです。結局、その牧師は、信徒の立場を考えて、「ほっとする教会で良いじゃないか!」と決意したそうです。私はそれを聞いて、妥協をしているように思えました。でも、あとから「互いの関係というのは、今日明日にできるものじゃない。根底に安心感とか信頼感が必要なんだなー」と思いました。雅歌書にこのようなことばがあります。雅歌84「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」私たちの関係も、外側から強いられてできるわけではありません。まず、自分が神さまからの愛に満たされ、そして、神さまの愛によって動かされるということが必要だと思います。このシリーズは「霊的な親」という最終的な学びです。では、霊的な親とは、どういう存在でしょうか?やはり、自分が神さまからの愛をいただいて、機会があったらその愛を隣人に分かち合う存在ではないかと思います。小グループはそのことを体験できるとても良い場であると信じます。

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2015年10月 9日 (金)

父の心 ルカ15:28-32 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.10.4

 Ⅰヨハネ2章によると、教会には3種類の人がいると記されています。小さい者たち、若者たち、そして父たちです。小さい者たちとは、イエス様を信じたばかりの人です。彼らは自分の罪が赦されていることを必要があります。若者たちはみことばにとどまり誘惑に打ち勝つ必要があります。父たちとはどういう人たちでしょうか?父たちとは、はじめからおられる方を知った人たちです。はじめからおられる方とは、もちろん神さまのことであります。彼らは神さまの計画と神さまご自身の愛を体験的に知っている人たちです。教会で長い間、信仰生活を送っていても、神さまの心、父の心を持っていない人がいます。聖書には「成熟を目指しなさい」と書いてありますが、それは父なる神様のような愛を持った人ではないかと思います。

1.兄と父

ルカ1528-32「すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

第一の質問です。「帰ってきた息子を迎え入れた父に対して、兄はどのような態度を取っているでしょうか?」「兄は、あまりにも寛容な父に対して腹を立てています。」彼は、とても偏狭な人です。弟が遊女におぼれたのかどうかは分かりません。ところが、彼は、「きっとそうだったんだ」と断定しています。そんな弟を家に迎える必要はないと考えました。

第二の質問です。「兄は豊かな父のもとでどのように生活していたのでしょう?」「とてもまじめでしたが、喜びのない窮屈な生活をしていたようです。」彼は放蕩して帰ってきた弟に、肥えた子牛を与え、自分には子山羊一匹下さったことがないと言っています。「子山羊くらい食えよ!」と言いたくなりますが、兄は当時のパリサイ人や律法学者を象徴しています。彼らは神さまに真面目に仕えていましたが、喜びからではなく、奴隷根性で仕えていたのです。「神さまは何もくれない、ひどいケチな方だ」と思っていたのかもしれません。

第三の質問。「父は死んでいた息子が生き返って来たことをどのくらい喜んでいるでしょうか?」「父は大宴会を催して、みんなで喜んで楽しみました」。では、父は何も考えない、ノー天気の人だったのでしょうか?そうではありません。父は息子が「死んでいた」とはっきり認めていました。

第四の質問。「放蕩息子に対する、父の心とはどういうものでしょうか?」「罪や失敗をとがめない慈愛に満ちた心の持ち主です。」神さまは無条件の愛を持っておられます。これが父なる神様であり、私たちが持つべき心です。

 この物語で、兄とは当時のパリサイ人や律法学者です。彼らは取税人や罪人たちが主に立ちかえるのを見ても、ちっとも喜びませんでした。むしろ、「自分たちはこれだけ真面目に神さまに仕えているのに何もくれない」という妬みさえありました。父の心とは無条件の愛であり、あわれみの心です。兄には父の心がなく、その代わり、ライバル心や利己心に満ちていました。もし、あなたが後輩の成功を喜ばないで、妬んでいたなら、兄と同じです。父の心を持った人は、後輩が自分を乗り越えて行くことを我が子のように喜ぶはずです。なぜなら、後輩の成功は、自分の成功だからです。先輩クリスチャンはもしかしたら、妬みがあるかもしれません。後輩の成功を妬み、後輩の失敗をあげつらうなら、この世と変わりありません。クリスチャンは父の心が必要です。父の心とは、無条件の愛であり、あわれみの心です。このような父の心を持った人がいるなら、教会はぎくしゃくしないで仲良くできるでしょう。

2.母のように、父のように

Ⅰテサロニケ27-8「それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。」Ⅰテサロニケ211-12「また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。」

第一の質問。「パウロは使徒としての権威を主張する代わりに、彼らにどのようにふるまったのでしょうか?」「パウロは、母がその子どもたちを養い育てるように優しくふるまいました。」救われたばかりの人を養育するときは、母のような心がとても重要です。ある程度、大きくなったなら、父のように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じることが必要となるでしょう。父が慰めを与えるというのは意外でしょうか?日本の家庭では父親が子どもの養育にタッチしない傾向があります。ですから、自分が父親になったとき、どうすれば良いのか分かりません。これは霊的なことにもいえます。自分がだれかから育ててもらったことがなければ、後輩のクリスチャンを育てることが難しいでしょう。

第二の質問。「パウロはテサロニケの人たちをどのくらい愛したでしょうか?」「パウロは自分自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思いました。」私たちは口先ではどうにも言えますが、実際の行ないではどうでしょうか?普通だったら福音を伝えて、その人が信じたら大丈夫なはずです。でも、人間の赤ちゃんも「おぎゃー」と生まれたら、喜んでばかりもいられません。24時間、いろいろ世話をしなければなりません。食べ物ばかりではなく、排せつ、お風呂、健康管理があります。ハイハイから立ち上がるのもうれしいですが、良く見ていなければなりません。ことばをかけたり、いろいろ教えたり、しつけをしたりで、心も体力も必要です。これが、いのちを与えるということです。霊的なこともこれと同じだということです。

第三の質問。「一般的に言って、女性が母になったり、男性が父になるのはどんな理由からでしょうか?」「子どもが生まれたら、あるいは与えられたら初めて、その人は母になり、父になります。」つまり、長年、信仰生活を送っていれば霊的な母になり、父になるというわけではないということです。霊的な子どもが生まれて、はじめて霊的な母になり、父になるということです。そのためにはだれかを救いに導くか、救いにタッチする必要があるということです。子どもを育てると苦労がわかります。そして、自分自身も成長させられます。

第四の質問。「教会における父の役割とはどのようなものでしょうか?」「霊的な子どもたちを父の心で愛して、彼らを育てる」ということです。この場合、父の中には、母も含まれています。 教会には父が必要です。また、世の人たちも本当の父を探しています。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。神さまは天の父と呼ばれていますが、神さまのご人格には、父性と母性の両方が含まれています。使徒パウロは霊的に生まれたばかりの人たちを、母のように優しく養育しました。また、ある程度、成長すると、父の心をもって彼らを訓練しました。当時は今のような学校はなく、子どもを教えるのは父親かラビでした。彼らが人生のあらゆることを教え、また訓練したのです。教会においても、霊的な子どもを守り、育成する母の心が必要です。そして、子どもが神さまの栄光を現すことができるように、訓練し、整えていく父の心も必要です。日本は学校に任せっぱなしのところがあります。知識の面では学校は良いかもしれません。しかし、信仰や人格形成は私たちに責任があります。教会において、だれかがイエス様を信じて救われたならば、みんなで喜びたいと思います。でも、それで終わってはいけません。その人が信仰的に、霊的に成長するように助けて行く必要があります。ぜひ、母のように、父のようになってこの重荷を担っていきましょう。私は25歳のときにイエス様を信じて洗礼を受けました。私を増田さんご夫妻が救われる前から、計3年間お世話してくれました。霊的な成長のためには、牧師や副牧師にお世話になりました。神学校も良かったですが、やはり顔と顔を合わせた養育や訓練が身についたように思います。人間も同じで、幼稚園や学校ばかりにまかせてはいけません。個人的なふれあいとか、温かい会話が必要です。

3.とりなしの祈り

出エジプト3231-32「そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。『ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。』」出エジプト348-9「モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、お願いした。『ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。』」

 第一の質問です。「モーセは金の子牛を礼拝した民のためにどのような祈りをささげているでしょうか?」「もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください」と祈っています。

第二の質問。「書物から、私の名を消し去ってください」とはどういう意味でしょうか?」「神から離されて、永遠の滅びに行ってもかまわない」ということです。モーセは罪を犯したイスラエルが滅ぼされないように、破れ口に立って祈りました。こういうことは人間的には決してできないことです。なぜなら、自分は悪くないのに、悪い人のために身代わりになるからです。使徒パウロもユダヤ人のためにこのようにとりなしています。ローマ93「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」使徒パウロはローマ8章で「どんな被造物も、主キリスト・イエスにある神の愛から引き離すことができない」と言っています。ところが、ローマ9章では「キリストから引き離されても」と祈っています。一見、矛盾しているように思われますが、これこそが霊的父が持つべき愛の姿です。

第三の質問。「モーセから学ぶ、リーダーが負うべき役割とは何でしょう?」「自分を犠牲にしてでも、群れを守ること。とりなしの心」です。何度も言いますが、これは生まれつき人間が持っているものではありません。私たちの肉は、自己保身、自己義認、自己絶対に満ちています。人のために犠牲になって死ぬということはありません。でも、一体、何がそうさせるのでしょうか?私は主の贖いの体験から来るのではないかと思います。モーセは出エジプト記やレビ記に動物による贖いということを詳しく書いています。また、使徒パウロも神からの啓示によって、キリストの贖いがどういうものかをローマ書に書いています。彼らは主の贖いを体験し、主の命に生かされていたのでそういうことができたのではないかと思います。

第四の質問。「イエス様は十字架でどのような祈りをささげたでしょうか?」イエス様は十字架の上で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈られました。まさしく、自らを犠牲にして、全人類をとりなす大祭司の祈りであります。イエス様は時代を越えて、私たちのためにもとりなしてくださったのです。本来、私たちが裁かれて、滅ぼされるのが当然でした。しかし、イエス様が命を投げ出し、私たちの代わりに裁かれたので、私たちのところに救いがやってきたのです。何と言う恵みでしょうか。「私がイエス様を信じてやったんだ」という思いは決して出て来ません。私たちはあわれみのゆえに救われたのです。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。モーセはどれくらい、主の前に出て、罪を犯し続けるイスラエルのためにとりなしたのでしょうか?「書物から、私の名を消し去ってください」とは、ヨハネ黙示録にある「いのちの書」です。つまり、自分が滅びても良いから、そのかわりイスラエルの民を救ってくださいということです。私たちは自己保身という本能を持っていますので、肉では決してできることではありません。本当の指導者とは、自分を投げ出してでも、群を守るという献身と愛が必要です。でも、この献身と愛は自分から生まれるのではなく、十字架で私たちのためにとりなしてくださった、イエス様から来るものではないでしょうか?

4.テモテに対するパウロ

Ⅱテモテ13-6「私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」

第一の質問です。「パウロは、霊的な子どもであるテモテをどれくらい愛しているでしょうか?」パウロは「私は、夜昼、祈りの中で絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝している」と言っています。一か月に一度でもありません。一週間に一度でもありません。なんと、夜昼、祈りの中で絶えず思い起しているということです。少なくとも12回ですが、そういう意味ではないと思います。いつも、絶えず思い起こしているということです。私は父親なので、そういうことが少ないのですが、母親は子どものことをいつも考えているようです。家内は、有悟の学校の宿題とか持ち物とかいろいろチェックしてあげています。高校に入ってから、6時過ぎに起きて弁当まで作っています。今まで、そんな姿は見たことがありませんでした。ちなみにごはんは私が焚いています。忘れたときは「さとうのごはん」のようなパックです。とにかく、母親が子どもを思うように、私たちは霊的な子どものことを絶えず思い起こすべきです。霊的にも、産みっぱなしはないということです。

第二の質問。「パウロのテモテへの確信(信頼)というものはどのようなものでしょうか?」テモテには祖母ロイスと母ユニケとから伝えられてきた純粋な信仰がありました。Ⅱテモテ315「幼いころから聖書に親しんで来た」と書いてあります。親が子どもに与えることのできる最も偉大な遺産は信仰であります。教育を受けさせることも良いでしょう。また、お金や土地を残すことも良いかもしれません。しかし、信仰は永遠のものであり、教育やお金や土地よりも勝るものであります。ある親は信仰を持つか、持たないかは子どもの自由だと言います。しかし、「永遠の滅びに行くのも永遠の御国に行くのも子どもの自由だ」と、親だったら言えないはずです。

第三の質問。「パウロがテモテにどのようなことを注意したかったのでしょうか?」Ⅱテモテ16-7「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」

第四の質問。「パウロはそのためにテモテにどうしたいと願っているでしょうか?」「按手をもってテモテのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせたい」と願っています。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。パウロは自分が霊的に生んだテモテを本当に愛しています。この世の師弟関係は、「俺の言うことを聞けよ。もし聞かなかったらポイだからな」というところがあります。コントロールしなくても大丈夫な師弟関係があるのでしょうか?おそらく、パウロはバルナバからこの愛を受けたのではないでしょうか?バルナバが自分を面倒見てくれたので、その愛をもって、テモテやテトスなどを育てたのだと思います。神の国の師弟関係には、上下関係はありません。あるのは、主にある同労者という関係です。同労者であるなら、緊張することはありません。師のところへ行っても緊張しないという関係はすばらしいと思います。そういう先生をメンターとして持つことができたら幸いです。みなさんの中に、「この人は私を生んでくれた霊的な親です」という人はいるでしょうか?あるいは、「私を育ててくれた霊的な親です」と言える人はいるでしょうか?にわとりと人間の違いはどうでしょうか?にわとりを育てるときは、時間になると餌をばらまきます。自分で食べなければ死にます。おそらく強いものが生き残るでしょう。でも、意外とにわとりはたくまして生き残ります。神さまがそのように造られたからでしょう。でも、人間はどうでしょうか?授乳から始まり、本当に手間がかかります。食べ物だけ与えれば良いというものではありません。ことばをかけ、いたわり、触れて、いろんな関係を持つことが必要です。また年齢によって必要なものが違ってきます。いつまでも、「可愛い、可愛い」と言うわけにはいきません。独り立ちできるように教育や訓練が必要です。霊的な子育ての場合は、結構、放任主義のところがあると思います。ですから、洗礼を受けてもいつの間にか教会に来なくなります。牧師のいたらなさがあります。自然に生まれ、自然に育つというところがあります。まことに恥ずかしい次第です。でも、牧師だけの責任ではありません。「羊飼いが羊を生むのではなく、羊が羊を生むんだ」ということを聞いたことがあります。もちろん、それはたとえであって、全部を語ってはいません。言いたいのは、牧師だけではなく、霊的な父、霊的な母が必要だということです。だから、ヨハネは「父たち」と言ったのです。たとえ、肉体的な子どもを生んだことのない人であったとしても、神さまは父の心を与えてくださいます。なぜなら、父の心は、キリストの贖いの愛からやってくるからです。キリストの贖いを深く経験すればするほど、父の愛があふれてきます。私たちの愛は限界があります。でも、聖霊によって神の愛が注がれています。この愛をもって、魂の救い、魂の養育に励んでいきたいと思います。

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2015年10月 2日 (金)

仕える者 マタイ20:25-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.9.27

 本日から8回にわたって「霊的な親」について学びます。ルカ15章に「父親と放蕩息子のたとえ」があります。最初に帰って来た弟を迎えたのが、兄ではなくお父さんで良かったと思います。おそらくお兄さんだったら、「どの面下げて帰って来たんだ、とっととうせろ!」と追い返したことでしょう。しかし、お父さんは無条件の愛で弟息子を迎えました。残念ながら、キリスト教会にはお兄さんのような人はたくさんいますが、このようなお父さんはわずかです。Ⅰヨハネ2章には、子ども、若者、父親という霊的な成長の過程が記されています。私たちの最終段階は、霊的な父になることであります。まず、霊的な父親の1つの特徴は「仕える者」です。

1.仕える者になりなさい

マタイ2025-28そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

 テキストに従い、いつくか質問をしながら進めて参りたいと思います。第一の質問「この世では、偉い人たちは人々に対してどのようにふるまうでしょうか?」イエス様は「異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるう」と言われました。当時はローマのカイザルが皇帝であり、その下には地方を治める総督、さらに千人隊長や百人隊長がいました。彼らは「俺の言うことを聞け」と、人々を支配し、人々の上に権力をふるったのではないでしょうか。この世はピラミッド型の支配形式になっています。ある教会は、この方式を取り入れているので、コントロールの霊が働いています。

 第二の質問です。「御国において偉い人とは、どんな人でしょう?」イエス様は「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」と言われました。偉い人とは、みなに仕える人だということです。みなに仕えるならば、人々から自然に「あなたがリーダーになってください」と上げられるということです。仕える者は英語の聖書ではservantとなっています。10年くらい前にサーバント・リーダーシップということが言われました。ピラミッド、つまり三角形ならば、下の人たちがトップをささえるような構造になります。逆三角形がサーバント・リーダーシップです。リーダーが他の人たちが働きやすいように、下から支えるということです。

第三の質問です。「先に立ちたい人(リーダー)は、どのようにすべきでしょう?」イエス様は「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」と言われました。私たちにとって、しもべとはどういう意味でしょうか?たとえ体裁が悪くても、主が命じたことを喜んで行うということです。日本人は体裁を重んじます。特に偉い人はそうです。必要な場合は、体裁をかなぐり捨ててでも、主が命じたことを喜んで行う者となりたいと思います。

第四の質問です。「イエス様はどのような模範を示してくださいましたか?」イエス様は「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」と言われました。イエス様は最後の晩餐の直前、弟子たちの足を洗ってあげました。弟子たちは「だれが偉いか」競っていましたので、進んでしもべになろうとはしませんでした。ヨハネ13章で、イエス様は「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」と命じられました。最終的にイエス様は多くの人のための、贖いの代価として、ご自分のいのちを与えました。十字架の贖いのわざはイエス様しかできないことであります。私たちはただただ、イエス様の贖いをいただく者であります。しかし、贖われた者は、イエス様のような心を持つということは求められています。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。この世において偉い人は、その権力を行使して、人々を支配し、人々を自分に仕えさせます。神の国の世界観はこの世とは全く逆であり、偉い人とは、人々に仕える人なのです。仕える者は、英語でministerです。その意味は、聖職者、大臣、使節です。この世で彼らは偉い人のように高められています。しかし、元来の意味は、「召し使い」、「人に奉仕する者」です。中世の教会が権力を持って堕落したとき、神の国の価値観もひっくり返されてしまいました。しかし、神さまの御目のもとでは、トイレ掃除も説教も同じミニストリーです。神さまから与えられたミニストリーであるなら、プロ、アマ、上下は関係ありません。教会でも「聖職者と平信徒」「プロとアマ」みたいに言いますが、これは聖書の価値観とは反するものです。御国においては偉い人ほど、人々に仕える存在だということです。赤ちゃんがいる家庭ではそのことが良くわかります。父親も母親も、最も小さい赤ちゃんに仕えるからです。

2.偉くなりたいなら

 ルカ2224-27また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。

第一の質問です。「さきほどのマタイ20章の記事も含めて、イエス様は偉くなることを否定しているでしょうか?」イエス様は「偉くなりたいなら」とか「一番偉い人はこのようにしなさい」と勧めておられます。イエス様は偉くなることを否定していません。これは驚くべきことではないでしょうか?申命記28章は律法を守って祝福された状態はこうであると述べています。申命記281「私が、きょうあなたがたにあなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行うなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。」とあります。神さまは私たちが偉くなることや人の先に立つことを否定していません。ただし、その道(方法)がこの世とは違うということです。

第二の質問。「イエス様は、この世の偉い人の何がいけないとおっしゃっているのでしょう?」 イエス様は「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれている」と言われました。王が支配したりするのは当然であって、問題がなさそうに見えます。しかし、英語の抄訳聖書を見ますと「異邦人の王たちは、人々から神格化されて、自ら神のようになって支配している」と書いてあります。古くはエジプトのパロ王が、そしてローマ皇帝が神格化されていました。日本でも、聖徳太子や徳川家康、天皇が神格化されていました。天の神のみが、このような支配をするのであり、神から造られた人間が神の座を奪ってはいけないのであります。つまり、神の名を借りて、人々を支配してはならないということです。

第三の質問。「イエス様は偉くなるために、どのようにしなさいと教えているでしょうか?」イエス様は「一番年の若い者のようになりなさい。仕える人のようになりなさい」と言われました。今から30年くらい前に韓国から「教会成長の秘訣」みたいなものが導入されました。「日本の教会が成長しないのは牧師に権威がないからだ」というのです。「牧師が会堂の掃除をしたり、信徒の送り迎えをするとは何ごとだ。そんなことをしているから教会が成長しないんだ」ということです。その当時、古い会堂でしたので、私は一緒に交じって会堂を掃除し、ペンキを塗ったり、植木を剪定したり、雨漏りを直したり、送り迎えもしていました。少しの期間、その教えを受け入れてしまったので、私の心の中に怒りが湧き上がってきました。「そうだよな。会社の社長がこういうことをしないよな。ましてや神に仕える牧師はそうあるべきだ」。そう思ったとたん、卑屈になり、自分がしていることが恥ずかしくなりました。でも、イエス様の教えを理解してからは、全く問題だと感じなくなりました。「牧師の優先順位を守りつつ、自分ができるときはやるし、できないときは任せれば良いんだ」と思ってから解放されました。

第四の質問です。「イエス様は最後の夕食のとき、弟子たちにどのような模範を示されましたか?」イエス様は、給仕する者のようになりました。イエス様は、弟子たちの足を洗いました。また、復活の朝、弟子たちのために魚を焼いてあげました。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。「偉くなりたい」という願望そのものは、悪くありません。ただ、その動機がきよめられる必要があるでしょう。この世では、出世した人には、タイトルが与えられます。下の人たちは、その人の人格とは関係なく、タイトルのゆえに仕えなければなりません。しかし、神の国は人々に仕えていくと、結果的に尊敬やタイトルが与えられるのです。イエス様も人々にへりくだって仕え、その後、高く引き上げられ、「主」と呼ばれました。弟子たちの足を洗われたイエス様こそ私たちの模範です。

3.王国のエクレーシア

マタイ1618-19「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会(エクレーシア)を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

第一の質問。「だれが教会を建てるのでしょう?」「はい、イエス・キリストご自身です。」イエス様は「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」と言われました。この場合、教会は建物ではなく、神さまに召された人々のことを指します。多くの牧師たちはどのように教会を形成したら良いか悩んでいます。長老派は代議員制です。メソジストは監督制です。バプテストは会衆制です。私はセルチャーチこそが聖書的であると頑張って来ましたが、思うような結果が出ませんでした。しかし、聖書に教会を建てるのは牧師や信徒ではなく、イエス・キリストご自身であると書いてあります。これが分かってほっとしました。つまり、人間的な操作をしないで、イエス様の主権を仰ぎながら、賜物によって分担して行けばよいのです。

第二の質問。「ハデスの門(暗やみの王国)は、今、どこを支配しているのでしょうか?」それは、この世、つまり地上です。悪魔がこの世を支配しており、多くの人々が滅びに向かっています。自由主義神学の影響を受けた人は、この世は神の国であり、神さまが支配していると言います。しかし、そうではありません。アダムが神さまに背いたために、悪魔がこの世の支配権を横取りしたのです。ところが、2000年前、イエス・キリストと共に神の国がこの世に楔形に入り込んだのです。イエス様はハデスからよみがえり、天国の門を開いてくださいました。

第三の質問です。「王様が町を治めようとするとき、最初に何をするでしょうか?」ルカ1121-22「強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます」とあります。強い人とはサタンと悪霊です。そして、もっと強い者とは王なるイエス様です。イエス様は、強い人(サタンと悪霊)を捕えて縛り、持ち物であった人々を解放するのです。

第四の質問です。「イエス様のエクレーシア(大臣)とは、だれでしょう?」ちょっとここで説明をしなければなりません。教会はギリシャ語でエクレーシアと言います。神学的に、エクレーシアとは神によって召された人たち、「神の民」のことを言います。ところが、ギリシャの世界では、エクレーシアの意味は、「正規に召集された市民の政治的議会」でした。王様が国を作るとき、大臣たちを招集します。大臣たちがエクレーシアだったのです。つまり、エクレーシアとは王であられるイエス様と一緒に御国を治める人たちのことを指したのです。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。これはインドネシアのエディ・レオ師から聞いたことです。イエス様は「私は私のエクレーシアを建てる」と言われました。弟子たちは「エクレーシア」と聞いたとき、それが何を指しているかすぐ分かりました。イエス様の時代、王様がその地域を治めようとするときに、一般の人たちの中から、お医者さん、軍隊の隊長、哲学者を呼び出しました。王様はこのような大臣や長官と一緒に治めることができました。征服する人が都市に来たら、都市の門のところに来て門を蹴って破ります。門から入って、都市を勝ち取るのです。同じように、まず人々を勝ち取ります。これを宣教と言います。人々を勝ち取った後、都市の生活のあらゆる分野を勝ち取るのです。経済を支配します。政治を支配します。生活のあらゆる分野を支配します。それがみんなの仕事です。これが教会の目的です。教会は私たちのような福音派とNCC系の社会派と二つに分けることができます。福音派はみことばを伝えて、人々がイエス様を信じて救われるように働きかけます。社会派は、戦争や貧困や差別をなくして、世の人たちが正しい生活を送るように働きかけます。福音派の欠点は、魂の救いしか興味がなくて、社会がどうなろうとあまり関心がありません。しかし、私たち教会は、この世を治めるエクレーシアということを理解しなければなりません。つまり、魂の救いにとどまらず、王なるイエス様と経済、政治、芸術、医療、教育、農業、工業の分野を支配していくんだということです。夢みたいな話かもしれませんが、実際、アフリカのウガンダはこれを目指しています。少し前、ウクライナもこのことを目指しました。これをキリスト教会ではトランスフォーメーションと言います。リバイバルが起きたら、次のトランスフォーメーションを目指すということです。

4.教会の目的

 エペソ120-23「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」

第一の質問です。「教会とは何でしょう?」「キリストのからだです。」イエス・キリストは復活昇天した後、神の右の座に座られました。つまり、キリストのかしらは天の御座にあります。そして、からだはどこにあるかというと、教会がキリストのからだなのです。つまり、私たち一人ひとりがキリストのからだだということです。

第二の質問。「教会には何が満ちているべきなのでしょうか?」パウロは「教会は、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところである」と言いました。言い換えるなら、神さまご自身(聖霊)と神さまが持っておられる良きものすべてであります。

第三の質問。「神さまは教会を通して、何をなされたいのでしょうか?」「キリストのからだを通して、ご自身が持っている良いもので、この世を満たしたい」と願っておられます。つまり、私たちを良きものを運ぶ器として用いたいということです。

 第四の質問。「イエス様のエクレーシア、大臣たちとは、だれでしょう?」「キリストのからだに属している聖徒たち一人ひとり」のことです。王なるキリストは「あなたにはこの場所を治めてもらいたい」と、それぞれの聖徒に治めてもらいたい領域を考えておられるのです。

 非聖書的な教会と神の国中心の教会があります。非聖書的な教会は、何とか存続している教会です。この世の中心に社会があります。社会を構成しているものは、芸術、文化、貧しい人々、ビジネス、教育があります。教会も社会の中にあるのですが、社会から孤立しています。一方、神の国中心の教会は変革をもたらす教会です。彼らは、「この世の中心はキリストとその教会」だと考えます。芸術の世界に神の国をもたらします。文化の中に神の国をもたらします。貧しい人々のところに神の国をもたらします。ビジネスに神の国をもたらします。政治に神の国をもたらします。これが、神の国中心の教会の考え方です。私たち一人ひとりが神の国の大臣として、それぞれの場に神の国のよきものをもたらしているのです。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。10年くらい前、インドネシアからこられたエディ・レオ師がこのようなメッセージをされました。からだの目的は、かしらを表現することです。かしらが望むことは何でも、からだが表現します。キリストのからだなる教会も同じです。神様はご自分が持っているいっさいのものを、生活のあらゆる領域に満たしたいと願っておられます。そのためには、ペットボトルのような入れ物が必要です。教会は神様の器です。教会はただ地理的にそこに存在しているだけではありません。教会を通して、神様がもっているあらゆる面での生命を満たすためにそこにあるのです。教会は政治的生命を神の原則によって満たしていかなければなりません。教会は、政治、ビジネス、教育、芸術の世界にも、キリストにあるすべてのものをすべてのものに満たす器になるべきです。中世の時代が良いとは言いませんが、人々は政治、教育、芸術の世界に神の栄光を表わすように努力していました。しかし、啓蒙主義とともにヒューマニズムが入り込み、神なき人生、神なき社会が良いものとみなされました。人々は自己目的達成のため、繁栄と幸福を得るために生きるようになったのです。宗教というものは残りましたが、教育や政治、公の場から締め出されました。神さまのない教育、神さまのない政治、神さまのない人生を人々が求めました。そのとき教会は何をしていたのでしょうか?教会は聖なる神さまと俗なる社会を分けて考え、彼らから分離して生きるようになったのです。ますます、神さまの良きものが社会に流れこまなくなり、人間の知恵や力を賛美し、地上天国ユートピアを作ることを目指したのです。そのため、第一次、第二次世界大戦が起こりました。共産主義や独裁者による大殺戮も行われました。能力がなくて弱いものが支配され、殺されるようなことが普通に行われるようになったのです。一方では福祉社会を望んでいますが、他方では社会格差が起きています。これが人間中心の生活の末路です。教会はこの世から目を離して遠ざかるのではなく、魂を救いに導き、そしてそれぞれの場所に神の国をもたらすために派遣されるべきなのです。神の国をもたらすことこそが、私たちの仕える者としての務めなのです。

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