« 逆転勝利の人生 ローマ8:28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.9.27 | トップページ | 父の心 ルカ15:28-32 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.10.4 »

2015年10月 2日 (金)

仕える者 マタイ20:25-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.9.27

 本日から8回にわたって「霊的な親」について学びます。ルカ15章に「父親と放蕩息子のたとえ」があります。最初に帰って来た弟を迎えたのが、兄ではなくお父さんで良かったと思います。おそらくお兄さんだったら、「どの面下げて帰って来たんだ、とっととうせろ!」と追い返したことでしょう。しかし、お父さんは無条件の愛で弟息子を迎えました。残念ながら、キリスト教会にはお兄さんのような人はたくさんいますが、このようなお父さんはわずかです。Ⅰヨハネ2章には、子ども、若者、父親という霊的な成長の過程が記されています。私たちの最終段階は、霊的な父になることであります。まず、霊的な父親の1つの特徴は「仕える者」です。

1.仕える者になりなさい

マタイ2025-28そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

 テキストに従い、いつくか質問をしながら進めて参りたいと思います。第一の質問「この世では、偉い人たちは人々に対してどのようにふるまうでしょうか?」イエス様は「異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるう」と言われました。当時はローマのカイザルが皇帝であり、その下には地方を治める総督、さらに千人隊長や百人隊長がいました。彼らは「俺の言うことを聞け」と、人々を支配し、人々の上に権力をふるったのではないでしょうか。この世はピラミッド型の支配形式になっています。ある教会は、この方式を取り入れているので、コントロールの霊が働いています。

 第二の質問です。「御国において偉い人とは、どんな人でしょう?」イエス様は「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」と言われました。偉い人とは、みなに仕える人だということです。みなに仕えるならば、人々から自然に「あなたがリーダーになってください」と上げられるということです。仕える者は英語の聖書ではservantとなっています。10年くらい前にサーバント・リーダーシップということが言われました。ピラミッド、つまり三角形ならば、下の人たちがトップをささえるような構造になります。逆三角形がサーバント・リーダーシップです。リーダーが他の人たちが働きやすいように、下から支えるということです。

第三の質問です。「先に立ちたい人(リーダー)は、どのようにすべきでしょう?」イエス様は「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」と言われました。私たちにとって、しもべとはどういう意味でしょうか?たとえ体裁が悪くても、主が命じたことを喜んで行うということです。日本人は体裁を重んじます。特に偉い人はそうです。必要な場合は、体裁をかなぐり捨ててでも、主が命じたことを喜んで行う者となりたいと思います。

第四の質問です。「イエス様はどのような模範を示してくださいましたか?」イエス様は「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」と言われました。イエス様は最後の晩餐の直前、弟子たちの足を洗ってあげました。弟子たちは「だれが偉いか」競っていましたので、進んでしもべになろうとはしませんでした。ヨハネ13章で、イエス様は「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」と命じられました。最終的にイエス様は多くの人のための、贖いの代価として、ご自分のいのちを与えました。十字架の贖いのわざはイエス様しかできないことであります。私たちはただただ、イエス様の贖いをいただく者であります。しかし、贖われた者は、イエス様のような心を持つということは求められています。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。この世において偉い人は、その権力を行使して、人々を支配し、人々を自分に仕えさせます。神の国の世界観はこの世とは全く逆であり、偉い人とは、人々に仕える人なのです。仕える者は、英語でministerです。その意味は、聖職者、大臣、使節です。この世で彼らは偉い人のように高められています。しかし、元来の意味は、「召し使い」、「人に奉仕する者」です。中世の教会が権力を持って堕落したとき、神の国の価値観もひっくり返されてしまいました。しかし、神さまの御目のもとでは、トイレ掃除も説教も同じミニストリーです。神さまから与えられたミニストリーであるなら、プロ、アマ、上下は関係ありません。教会でも「聖職者と平信徒」「プロとアマ」みたいに言いますが、これは聖書の価値観とは反するものです。御国においては偉い人ほど、人々に仕える存在だということです。赤ちゃんがいる家庭ではそのことが良くわかります。父親も母親も、最も小さい赤ちゃんに仕えるからです。

2.偉くなりたいなら

 ルカ2224-27また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。

第一の質問です。「さきほどのマタイ20章の記事も含めて、イエス様は偉くなることを否定しているでしょうか?」イエス様は「偉くなりたいなら」とか「一番偉い人はこのようにしなさい」と勧めておられます。イエス様は偉くなることを否定していません。これは驚くべきことではないでしょうか?申命記28章は律法を守って祝福された状態はこうであると述べています。申命記281「私が、きょうあなたがたにあなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行うなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。」とあります。神さまは私たちが偉くなることや人の先に立つことを否定していません。ただし、その道(方法)がこの世とは違うということです。

第二の質問。「イエス様は、この世の偉い人の何がいけないとおっしゃっているのでしょう?」 イエス様は「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれている」と言われました。王が支配したりするのは当然であって、問題がなさそうに見えます。しかし、英語の抄訳聖書を見ますと「異邦人の王たちは、人々から神格化されて、自ら神のようになって支配している」と書いてあります。古くはエジプトのパロ王が、そしてローマ皇帝が神格化されていました。日本でも、聖徳太子や徳川家康、天皇が神格化されていました。天の神のみが、このような支配をするのであり、神から造られた人間が神の座を奪ってはいけないのであります。つまり、神の名を借りて、人々を支配してはならないということです。

第三の質問。「イエス様は偉くなるために、どのようにしなさいと教えているでしょうか?」イエス様は「一番年の若い者のようになりなさい。仕える人のようになりなさい」と言われました。今から30年くらい前に韓国から「教会成長の秘訣」みたいなものが導入されました。「日本の教会が成長しないのは牧師に権威がないからだ」というのです。「牧師が会堂の掃除をしたり、信徒の送り迎えをするとは何ごとだ。そんなことをしているから教会が成長しないんだ」ということです。その当時、古い会堂でしたので、私は一緒に交じって会堂を掃除し、ペンキを塗ったり、植木を剪定したり、雨漏りを直したり、送り迎えもしていました。少しの期間、その教えを受け入れてしまったので、私の心の中に怒りが湧き上がってきました。「そうだよな。会社の社長がこういうことをしないよな。ましてや神に仕える牧師はそうあるべきだ」。そう思ったとたん、卑屈になり、自分がしていることが恥ずかしくなりました。でも、イエス様の教えを理解してからは、全く問題だと感じなくなりました。「牧師の優先順位を守りつつ、自分ができるときはやるし、できないときは任せれば良いんだ」と思ってから解放されました。

第四の質問です。「イエス様は最後の夕食のとき、弟子たちにどのような模範を示されましたか?」イエス様は、給仕する者のようになりました。イエス様は、弟子たちの足を洗いました。また、復活の朝、弟子たちのために魚を焼いてあげました。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。「偉くなりたい」という願望そのものは、悪くありません。ただ、その動機がきよめられる必要があるでしょう。この世では、出世した人には、タイトルが与えられます。下の人たちは、その人の人格とは関係なく、タイトルのゆえに仕えなければなりません。しかし、神の国は人々に仕えていくと、結果的に尊敬やタイトルが与えられるのです。イエス様も人々にへりくだって仕え、その後、高く引き上げられ、「主」と呼ばれました。弟子たちの足を洗われたイエス様こそ私たちの模範です。

3.王国のエクレーシア

マタイ1618-19「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会(エクレーシア)を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

第一の質問。「だれが教会を建てるのでしょう?」「はい、イエス・キリストご自身です。」イエス様は「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」と言われました。この場合、教会は建物ではなく、神さまに召された人々のことを指します。多くの牧師たちはどのように教会を形成したら良いか悩んでいます。長老派は代議員制です。メソジストは監督制です。バプテストは会衆制です。私はセルチャーチこそが聖書的であると頑張って来ましたが、思うような結果が出ませんでした。しかし、聖書に教会を建てるのは牧師や信徒ではなく、イエス・キリストご自身であると書いてあります。これが分かってほっとしました。つまり、人間的な操作をしないで、イエス様の主権を仰ぎながら、賜物によって分担して行けばよいのです。

第二の質問。「ハデスの門(暗やみの王国)は、今、どこを支配しているのでしょうか?」それは、この世、つまり地上です。悪魔がこの世を支配しており、多くの人々が滅びに向かっています。自由主義神学の影響を受けた人は、この世は神の国であり、神さまが支配していると言います。しかし、そうではありません。アダムが神さまに背いたために、悪魔がこの世の支配権を横取りしたのです。ところが、2000年前、イエス・キリストと共に神の国がこの世に楔形に入り込んだのです。イエス様はハデスからよみがえり、天国の門を開いてくださいました。

第三の質問です。「王様が町を治めようとするとき、最初に何をするでしょうか?」ルカ1121-22「強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます」とあります。強い人とはサタンと悪霊です。そして、もっと強い者とは王なるイエス様です。イエス様は、強い人(サタンと悪霊)を捕えて縛り、持ち物であった人々を解放するのです。

第四の質問です。「イエス様のエクレーシア(大臣)とは、だれでしょう?」ちょっとここで説明をしなければなりません。教会はギリシャ語でエクレーシアと言います。神学的に、エクレーシアとは神によって召された人たち、「神の民」のことを言います。ところが、ギリシャの世界では、エクレーシアの意味は、「正規に召集された市民の政治的議会」でした。王様が国を作るとき、大臣たちを招集します。大臣たちがエクレーシアだったのです。つまり、エクレーシアとは王であられるイエス様と一緒に御国を治める人たちのことを指したのです。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。これはインドネシアのエディ・レオ師から聞いたことです。イエス様は「私は私のエクレーシアを建てる」と言われました。弟子たちは「エクレーシア」と聞いたとき、それが何を指しているかすぐ分かりました。イエス様の時代、王様がその地域を治めようとするときに、一般の人たちの中から、お医者さん、軍隊の隊長、哲学者を呼び出しました。王様はこのような大臣や長官と一緒に治めることができました。征服する人が都市に来たら、都市の門のところに来て門を蹴って破ります。門から入って、都市を勝ち取るのです。同じように、まず人々を勝ち取ります。これを宣教と言います。人々を勝ち取った後、都市の生活のあらゆる分野を勝ち取るのです。経済を支配します。政治を支配します。生活のあらゆる分野を支配します。それがみんなの仕事です。これが教会の目的です。教会は私たちのような福音派とNCC系の社会派と二つに分けることができます。福音派はみことばを伝えて、人々がイエス様を信じて救われるように働きかけます。社会派は、戦争や貧困や差別をなくして、世の人たちが正しい生活を送るように働きかけます。福音派の欠点は、魂の救いしか興味がなくて、社会がどうなろうとあまり関心がありません。しかし、私たち教会は、この世を治めるエクレーシアということを理解しなければなりません。つまり、魂の救いにとどまらず、王なるイエス様と経済、政治、芸術、医療、教育、農業、工業の分野を支配していくんだということです。夢みたいな話かもしれませんが、実際、アフリカのウガンダはこれを目指しています。少し前、ウクライナもこのことを目指しました。これをキリスト教会ではトランスフォーメーションと言います。リバイバルが起きたら、次のトランスフォーメーションを目指すということです。

4.教会の目的

 エペソ120-23「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」

第一の質問です。「教会とは何でしょう?」「キリストのからだです。」イエス・キリストは復活昇天した後、神の右の座に座られました。つまり、キリストのかしらは天の御座にあります。そして、からだはどこにあるかというと、教会がキリストのからだなのです。つまり、私たち一人ひとりがキリストのからだだということです。

第二の質問。「教会には何が満ちているべきなのでしょうか?」パウロは「教会は、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところである」と言いました。言い換えるなら、神さまご自身(聖霊)と神さまが持っておられる良きものすべてであります。

第三の質問。「神さまは教会を通して、何をなされたいのでしょうか?」「キリストのからだを通して、ご自身が持っている良いもので、この世を満たしたい」と願っておられます。つまり、私たちを良きものを運ぶ器として用いたいということです。

 第四の質問。「イエス様のエクレーシア、大臣たちとは、だれでしょう?」「キリストのからだに属している聖徒たち一人ひとり」のことです。王なるキリストは「あなたにはこの場所を治めてもらいたい」と、それぞれの聖徒に治めてもらいたい領域を考えておられるのです。

 非聖書的な教会と神の国中心の教会があります。非聖書的な教会は、何とか存続している教会です。この世の中心に社会があります。社会を構成しているものは、芸術、文化、貧しい人々、ビジネス、教育があります。教会も社会の中にあるのですが、社会から孤立しています。一方、神の国中心の教会は変革をもたらす教会です。彼らは、「この世の中心はキリストとその教会」だと考えます。芸術の世界に神の国をもたらします。文化の中に神の国をもたらします。貧しい人々のところに神の国をもたらします。ビジネスに神の国をもたらします。政治に神の国をもたらします。これが、神の国中心の教会の考え方です。私たち一人ひとりが神の国の大臣として、それぞれの場に神の国のよきものをもたらしているのです。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。10年くらい前、インドネシアからこられたエディ・レオ師がこのようなメッセージをされました。からだの目的は、かしらを表現することです。かしらが望むことは何でも、からだが表現します。キリストのからだなる教会も同じです。神様はご自分が持っているいっさいのものを、生活のあらゆる領域に満たしたいと願っておられます。そのためには、ペットボトルのような入れ物が必要です。教会は神様の器です。教会はただ地理的にそこに存在しているだけではありません。教会を通して、神様がもっているあらゆる面での生命を満たすためにそこにあるのです。教会は政治的生命を神の原則によって満たしていかなければなりません。教会は、政治、ビジネス、教育、芸術の世界にも、キリストにあるすべてのものをすべてのものに満たす器になるべきです。中世の時代が良いとは言いませんが、人々は政治、教育、芸術の世界に神の栄光を表わすように努力していました。しかし、啓蒙主義とともにヒューマニズムが入り込み、神なき人生、神なき社会が良いものとみなされました。人々は自己目的達成のため、繁栄と幸福を得るために生きるようになったのです。宗教というものは残りましたが、教育や政治、公の場から締め出されました。神さまのない教育、神さまのない政治、神さまのない人生を人々が求めました。そのとき教会は何をしていたのでしょうか?教会は聖なる神さまと俗なる社会を分けて考え、彼らから分離して生きるようになったのです。ますます、神さまの良きものが社会に流れこまなくなり、人間の知恵や力を賛美し、地上天国ユートピアを作ることを目指したのです。そのため、第一次、第二次世界大戦が起こりました。共産主義や独裁者による大殺戮も行われました。能力がなくて弱いものが支配され、殺されるようなことが普通に行われるようになったのです。一方では福祉社会を望んでいますが、他方では社会格差が起きています。これが人間中心の生活の末路です。教会はこの世から目を離して遠ざかるのではなく、魂を救いに導き、そしてそれぞれの場所に神の国をもたらすために派遣されるべきなのです。神の国をもたらすことこそが、私たちの仕える者としての務めなのです。

|

« 逆転勝利の人生 ローマ8:28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.9.27 | トップページ | 父の心 ルカ15:28-32 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.10.4 »